1991年10月10日        労働者の力              第26号
PKO協力法案阻止の全国行動を
      十一月臨時国会で法案廃案をかちとろう
 臨時国会最終日の十月四日、海部の辞任が確定した。自民党の次期総裁をめぐる党内抗争と小選挙区制導入を骨子とした「政治改革」の廃案をめぐるごたごたによって、海部は頼みの綱の竹下派から見放され、次期自民党総裁選挙への立候補の断念に追い込まれたのである。次は誰か。本日時点では、竹下派独自候補擁立論をふくめ流動的であるが、結論が宮沢総裁となるにせよ、他になるにせよ、現在の自民党政治の基本的流れが変化することはありえない。

 海部退陣−−「本格政権」と自衛隊海外派遣への突出

 臨時国会の終盤は海部続投か否かをめぐる自民党内各派のかけひきとからんだ「政治改革」法案の廃案へのつばぜりあいに終始した。
 さらに重大な問題の自衛隊海外派兵のPKO協力法案は、自民党と公明党、そして民社党の三党協議によって進行し、継続審議、次の臨時国会での成立が確実視されるという事態になった。
 自民党次期総裁=次期首相が誰になるにしろ、例えば宮沢は積極的な国連常設軍創設とそれへの日本軍隊派兵論を提唱し、渡辺は「危険のないところに出さないとは言わない」と明言するなど、PKOを突破口とした軍事力使用を前面に出した「国際貢献策」を競っている。
 小沢が各候補の政策を聞きたい、明確にせよ、と繰り返し表明しているが、その内実は、小沢が自民党にでっちあげた「国際社会における日本の役割に関する特別調査会」に諮問した「国連憲章」に従った日本軍隊の海外派遣論に同調するか否かのどうかつであった。竹下派の支持なしに次期総裁決定がありえない状況である以上、「国際貢献論」におけるタカ派的競い合いが全面化することは火を見るより明らかである。
 いわゆる「本格政権論」は、こうしてまさに日本軍隊の公然たる海外派兵とそれをテコにした「国際新秩序」を軍事的に担う日本国家構造へ強行突破を行うための政権に他ならないのである。

 自公民枢軸と闘わない社会党・連合主流

 公明党のこの一年間になした変身によって、自民党の海外派兵論が現実なものとなった。自・公枢軸の成立による海外派兵論の現実化を想定して公明党支持者が投票したわけではあるまい。公明党の変身はまさに支持者への裏切りとして、歴史から忘れられることはなかろう。また民社党は、国会終盤になって自公枢軸主導に反発し、PKO派遣への国会承認に固執した。自民党以上の軍隊派遣論者である民社党としての党是を公明党に横取りされることへの反発にすぎない。次期臨時国会において、民社の主張は満たされるであろう。すでに竹下派会長の金丸は明確にPKO派遣の「国会承認」の必要性に言及している。
 自公民三党協議によるPKO協力法案成立への流れに対し、反対運動の奇妙なほどの低調ぶりは、昨年秋との関係で際だっている。その原因が社会党と労働組合という伝統的なブロックの行動が抑制されていることにあるのは言うまでもない。
 田辺社会党体制の成立と労働組合の連合による制圧状況がPKO反対、日本軍隊海外派兵阻止の流れを押え込み、ここに大衆運動の伝統的イニシアティブに打撃を与えている。田辺社会党はそもそもの成立において、積極的な「国際貢献論」、自衛隊派遣論容認の立場を一方の極とするものであった。連合は旧同盟という民社党勢力を抱え、さらに造船重機労連などの元々からの武器輸出論者の組合を含んでいる。総評センターの解散時期であると同時に、今年三月に示された、自治労などの労働者の反対意思表示を連合指導部が弾圧したことにも連合主流がPKO協力法案に暗黙に了解を与えているという見方を裏づけるものがある。

 「世論の変化」とPKO法案−−湾岸戦争の落し穴

 こうした大衆行動不在状況のままに三党協議・合意、およびそれに公然、非公然に参与する流れは、湾岸戦争を経過するなかで生じた「世論の変化」を名分としている。
 『毎日新聞』の世論調査にしたがえば、変化は以下のようである。 
九〇年十月二十一日。
 自衛隊派遣反対53%、賛成13%。憲法違反49%、違反ではない16%。
 九一年六月七日。
 PKO新組織創設賛成45%、反対13%。自衛官参加承認41%、認めない22%。
 九一年八月三十一日。
 PKO法案賛成35%、反対15%、どちらとも言えない46%。自衛官現職のまま41%、併任22%、反対14%。
 以上の数字の変化は、昨年と今年の振幅の激しさを示しており、湾岸戦争を経過した世論変化は事実として否定できない。だが、本年六月初めと八月末(その間は約三カ月だ)の調査において、PKOへの直接の支持は十ポイントも減少しているのである。すでに八月末の時点において、大勢は揺り戻しとは言わないまでも、揺れ動いている状況にあることは見て取れる。
 臨時国会での政府見解は、「軍事力行使につながらない」という一点において「ガラス細工法案」(後藤田)と評せられるようにつじつまあわせに終始した。
 軍事力行使ではないと言いつつも武器を小火器に限定せず、隊員の個々の生命の防衛が隊としての防衛となり、武器使用が個々の判断から指揮官判断となるなど、政府答弁は回を重ねる毎に、事実は軍隊派兵であるということを明らかなものとした。「世論」は、湾岸戦争に触発された「国際貢献」論が自衛隊海外派兵論一本に絞られている事実にいやでも気づかされることになった。
 さらに政府答弁は、内閣法制局をふくめて、「多国籍軍に直ちには参加できない」「将来、正規の国連軍が編成された段階で具体的判断をすべきだ」との発言を繰り返し、長いこと棚ざらしにしてきた国連中心主義を急いで持ち出し、国連への貢献=国連軍への参加論への地ならしをも試みたのである。
 憲法判断を極力回避しつつ、自衛隊派兵に道を開こうとする、戦後国家政策の大転換をこっそりと裏口から行おうとする海部および自民党、そして公明党と民社党の連合が依拠する「世論の変化」は、事態がさらに明らかになるにつれて、さらに流動の度を強めていくであろう。
 社会党の混乱、行動マヒが伝統的な大衆運動構造の水路を通じた世論形成力に影響したことは否定できない。
 今年の三月以降、社会党の動きが封じられ、また、米ソ対立の狭間で、両者の援助のもとに肥大化したイラクのフセイン政権のリアルな性格の分析をぬきにした国際秩序維持論への短絡もまた、社会党内部の混乱を倍加した。
 「国際貢献論」が示した世論形成力に、伝統的な社会党構造は抵抗、対抗できなかったと言い替えることができる。
 そうした流れを全国の闘いで逆転させていかなければならない。その鍵は自民党および民社・公明三党枢軸の基盤である「国際貢献論」の真の姿を徹底的にさらけだすことにある。

 アジアに照準された日本軍隊−−国際貢献論の帰結

 ソ連邦「崩壊」の事態に至った東西冷戦構造の解体は、一方に米ソ両国の核相互絶滅体制の解消への動きを作り出しつつ、他方で国連安保理常任理事国であるアメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国の五カ国による運営=アメリカ主導の運営による新国際秩序なるものへと動きだしている。
 ソ連邦の将来の姿が定かでないとはいえ、世界の憲兵を自認するアメリカ帝国主義の主導のもとに、国連は世界秩序のために「地域紛争」への介入とその手段としてハイテク殺りく兵器を駆使した軍事力を背景とするものとなっていくであろう。 
 「軍事超大国」アメリカ帝国主義の成立と、その主導による国連の世界秩序維持の役割という趨勢は、日本自民党政府体制の狙いが日本の安保理常任理事国化にあることを見、そして政府答弁が多国籍軍への将来参加の可能性を否定しないという事実を重ねあわせる時に、日本軍隊が国際行動を恒常化していくことを想定していることを物語る。
 PKO、PKFへの自衛隊の部隊としての参加が必要な理由は、まさに自衛隊がきたる将来において、多国籍軍、国連軍に全面的に参加することを可能にするためなのである。
 日本軍隊が世界を対象にする軍事力を保持することが当面問題外であるゆえに、国際行動を全面化する日本軍隊の直接の対象は、当然アジア地域に照準されるものだ。アジア地域における日本軍隊の「国際秩序維持」行動の実現−−これこそが「国際貢献論」の真の帰結なのである。
 カンプチア停戦PKO行動、PKF行動への日本政府の異常なこだわりがある。天皇をタイ、マレーシア、インドネシアへ派遣し、平和国家論を主張させた行動がある。まさにPKO、PKF協力法案とセットとなった自民党政府体制の狙いは明瞭なのだ。
 政府をもふくんだ韓国世論、中国政府、そして天皇訪問諸国における諸マスコミの論調、さらにリー・クワンユー前シンガポール首相の警戒発言など、アジア諸国人民は日本が強行しようとしているPKO、PKFへの軍事参加のもつ意味を鋭く見通している。
 中国政府が公明党代表団を招待した背景もまた、PKO、PKF参加に対する懸念があるのであろう。
 日本国家は、侵略戦争への自己反省を欠如したままに、アジア地域への軍隊再派兵へと動いている。何のために。この疑問は、日本の民衆が自ら主体として徹底的に解き明かさなければならないものなのだ。
 アジア諸国の民衆の誰一人として日本軍隊による「国際貢献」を望んではいない。
 国際貢献論が持っている真の姿を徹底的に暴露し、その入口であるPKO協力法案の成立阻止のうねりを作り出さねばならない。十一月の臨時国会で、PKO法案を廃案に追い込もう。社会党や労働組合運動においても、九・二五集会に見るように、PKO反対の動きが現に登場してきている。
 全国で継続されている地域的な行動をさらに拡大し、全国的力に押し上げていくために、力を注ごう。       十月七日

PKO法案粉砕の全国行動を
9・25市民集会を開催


 九月二十五日、日比谷野音は三千人を越す人々で埋まった。PKO法案粉砕を掲げた九・二五市民集会である。午後六時十五分、呼びかけ人である伊藤成彦中央大学教授が開会挨拶に立ち、同時にフィリピン上院の米軍基地撤去決議に関してフィリピン情報センター代表の発言を通訳する。伊藤教授は、PKO法案が日本軍隊の公然たる海外派兵が憲法に明確に違反するものだと指摘し、フィリピンでの米軍基地撤去運動に対する日本の関心の薄さに注意を喚起した。次いで社会党の外口玉子衆院議員、日市連の色川大吉東京経済大学教授がそれぞれ呼びかけ人挨拶を行った。
 上田哲社会党議員がPKO法案審議の国会報告と粉砕の決意を表明し、大きな拍手を浴びた。
 最初に日本キリスト教協議会の大島幸一さんから発言がなされた後、事務局長の大久保青志東京都会議員が基調報告にたった。集会カンパ要請は国労闘争団が行い、続いて発言が市民の意見30、原子力資料室、天皇のASEAN訪問に反対しPKO・海外派兵を許さない共同行動、そして反トマ全国運動から行われた。
 国会議員の紹介と発言が、長谷百合子衆院議員、いとう正敏参院議員、斉藤一雄衆院議員、また塚本健流通経済大学教授も紹介された。締めくくり的に山崎道人都労連副委員長が決意表明し、七時四十五分に衆参両院議面までの請願行動に移った。
 衆議院面会所では社会党の野中浩賢代議士ほか、参議院では社民連の田秀夫議員や社会党の国広議員らが面会を受け付け、行動参加者は集会実行委員会が準備した「海外派兵×、憲法九条○」の紙ボードを掲げて気勢をあげた。
 集会と請願行動は、さる三月三日に行われた湾岸戦争協力反対集会を受け継ぎつつ、労働組合色を薄めた市民集会の性格を強めたものであった。日市連、ピース・ネット、市民の意見30などの市民運動団体が準備の中心をにない、そうした広がりの中に労働組合が参加するという形式は、いわゆる労組主導型の形式から解き放たれた参加者相互の交流の輪が生み出される効果を感じさせた。とりわけ、都内の東部、南部、北部といった地区共闘がそれぞれ地域の運動を背景に参加していたことは、少なからず行き詰まった感を与えていた東京での大衆運動に新しい芽が着実に生み出されていることを印象づけた。
 集会の特徴の第二は、社会党議員(および社民連の田議員)が請願行動を受け付け、かつ集会参加したことである。
 事前には社会党内で異論もあったと伝えられるが、先の社会党委員長選挙での論点と分岐をそのまま反映して、現行憲法第九条堅持、PKO=自衛隊海外派兵阻止の社会党内の潮流が積極的に党外の市民運動との連携に踏み込んだ。
 社会主義協会の左派と目される党建設協議会に属する上野代議士らとともにニューウェーブに属する新人議員や、国広議員など、委員長選挙で反・非田辺、上田支持陣営を構成した党内の広がりが、PKO反対の大衆運動に結び付いたのである。
 社会党田辺体制のバックボーンである連合がPKO支持勢力に牛耳られ、さる三月の社会党総評センターの集会をつぶしたのは記憶に新しい。総評センターの解散の時期という事態の中で、旧来の社会党総評ブロックとしての大衆運動構造は行動力を失った。労働組合の大半は、連合の組織勢力の引力に吸引されつつあり、それは全労協を牽引する都労連や国労に対しても不断の圧力となっている。連合は、その労組構造の巨大さをもって、戦後民主主義の流れを引く大衆運動構造を解体しようとしてきた。そしてその策動は土井委員長体制のもとでの大衆的エネルギーの高揚に正面から水をかけるものだった。社会党の統一地方選挙での敗北の重要な一因にこうした連合による大衆行動への抑圧、敵対があったことは誰もが否定しえない事実である。
 だが、さる一月の社会党大会が示した土井委員長のもとでの湾岸戦争協力反対、掃海艇派遣反対の熱気が消え去ったわけでないことがその後の経過に示され、田辺に対抗する上田代議士の予想を上回る得票があった。
 国際貢献論=国連中心主義が事実上アメリカ帝国主義主導の国際新秩序形成に同意し、結論的に日本軍隊の海外派兵に同意していくという、湾岸戦争以降に大きなうねりとなった「転換」の政治感覚は、確かに社会党を大きくゆさぶった。だが同時に、「平和憲法」としての憲法九条の精神を世界に広げよ、という三・三集会が宣言した立場もまた主張された。
 九・二五集会はまさに社会党内部および党外の大衆運動、市民運動の結び付きとして、戦後の民主主義の清算、平和憲法の破棄、日本自衛隊の帝国主義軍隊化の完成を承認する流れへの抵抗線の基盤が確固としていること、これを通じて、大衆的意思表示と行動の場が改めて作られるうる可能性が大きいものであることを示したと言えよう。

国労56回大会と闘争団労働者の闘い
 国労になにが発生しているのか
続開大会――右派主導の新執行部選出

 新執行部選出をめぐる左右両派の対立によって休会した国労の第五十六回定期大会は、十月二日に続開大会を開催し、新執行部を選出した。新三役は永田稔光委員長(前北海道本部委員長)、松田進副委員長(本部組織部長)、樫村潔書記長(東日本本部委員長)である。執行部不在という事態は解消されたわけだが、新執行体制は基本的に右派の主張にそった体制が成立し、闘争団を軸に闘う体制を強化しようとする左派の狙いは実現されなかった。新人事によって、闘争路線をめぐる対立が一定の決着を見たということではない。あくまで正攻法で進み、長期闘争の構えで行くかそれともなんらかの妥協・取引による早期収拾をさぐるか、という路線対立に基づく組織総体の混迷を断ち切ることはできなかった。国労の妥協を引き出し、闘争団を切り捨てることによって獲得される妥協を拒否し、はねかえそうとする努力は、さらなる国労労働者大衆の自発性が解き放たれて行くことを必要としている。

休会にいたる経過と対立の性格

 さる九月十―十一日、東京一橋の教育会館で開かれた第五十六回国労定期大会は、人事をめぐる紛糾を直接の引金として、新執行部を選出できないままに休会となった。休会のイニシアティブは社会党党員協の右派と革同が連合した勢力にあり、この勢力によって休会が強行された。表面的理由は、立候補が定員に満たず、新執行体制を組閣できないということであった。
 大会の焦点は二つあった。一つは解雇二年目をむかえた一千四十七人の解雇撤回を中心とする、中央労働委員会段階に突入した闘いの方針そのものをめぐる路線問題であり、二つ目は稲田委員長、嶋田副委員長、および宮坂書記長の引退後の新執行体制をめぐる各派の駆け引きであった。この両者はもちろん密接にからみあう問題であり、社会党党員協の左右の亀裂(基本的には旧来の左派、岩井学校の分岐である)に革同がからんだ路線=人事抗争が重大な局面を導きかねないものとなっていることは、すでにおおかたの知るところであった。
 大会代議員団一六六人のうち社党協では左派が相対的優位にあった。闘争団を先頭として、東京(一部)、千葉、水戸、高崎、大阪、岡山、静岡がこの勢力を形成する。右派は北海道、東北、東京(一部)、長野を基盤とする。両者の対立はここに代議員の約四〇%を擁する革同(西日本エリアなど)の存在によって影響される。左派は右派には勝てるが革同と連合された場合勝てない。右派は革同の支持を陰にあてにできるが、人事の具体的投票としては表面的に傍観の態度をとる革同の支持をあてにできない。
 こうして、対立は手詰りとなったのだが、右派(そして革同)は妥協・取引きを急がず、休会を選択した。
 人事抗争は路線対立の別の表現である。国労は修善寺大会以降、分裂・脱退による組織人員の激減にもかかわらず清算事業団方式による組織攻撃に耐え、全国の地方労働委員会闘争のすべてに勝利を収め、いよいよ中央労働委員会段階の闘いに移行した、その瞬間に闘いの戦列の混乱が全面化したのである。

中労委と国労

 大会の初日、米子地本の地方労働委員会提訴が勝利した。国労が全国で提訴した三十九地労委、一〇二案件の提訴はすべて国労側の勝利に帰したのである。これらに対して、周知のようにJRは労働委員会命令を拒否し、中労委、そして裁判というコースで対抗する姿勢を公然としている。それゆえ、国労の地労委での勝利は入口であり、最終的勝利は、JRの姿勢が変化しないかぎり、裁判での決着を覚悟する「十年闘争」の決意を固め、その体制を築くなかで闘いとられなければならないことは当然である。
 問題は中労委自身の側にあった。中労委は地労委の救済命令が出され、それがJRによって中労委に提訴されてから約二年間サボタージュを続けてきている。すでに審理は終わり、あとは判断を待つだけとなって二年が経過しているのである。
 中労委を構成する労働側委員は連合の意を代弁する委員によって独占されている。連合が国家の不当労働行為としての国労への弾圧と抑圧、差別と排除を承認する立場にあることは言うまでもない。
 国鉄の分割・民営化を支持し、国労の屈服を要求した「連合」の路線に忠実な労働側委員は、当然にも地方労働委員会の決定と命令を受け入れることができない。
 労働法が指し示す方向を超法規的に飛び越えて国鉄解体=国労解体を強行したのであるから、中労委としても労働法に依拠するのであれば、当然地労委の救済命令を支持することにならざるをえないことは明らかなことであった。
 こうした明らかな事態を回避することにこそ、中央労働委員会の三者、すなわち使用者側、労働側、そして公益委員(=政府側)の総意が表現されることになるのは当然というべき事態である。
 その方策はなにか。
 まず第一に、すでに述べた判断のサボタージュである。第二に、当事者としての国労の妥協を引き出すことである。中労委の二年間はまさに国労の妥協=屈服をなんとしても引き出すためのあらゆる画策を繰り返し継続することにほかならなかった。
 結論から述べれば、この二年間のうちに、国労の社会党党員協は短期決着、和解、収拾論と十年間闘争論に大別してしまった。修善寺大会で国労を維持した社会党党員協左派(当時)は今、完全に二分状態にある。前者は、社会党と総評センター、連合との関係修復、JRとの関係正常化を望み、和解=妥協を路線化するにいたった。革同はまた労使正常化に組織の将来展望をかけることを、西日本エリアの対応に典型的に示している。
 
出向協定問題をめぐる対立と
中労委三者懇方式


 中央労働委員会の「解決構想」は今年の五月十日、中労委労働側委員である私鉄総連田村委員長が国労東日本の九地本三役会議で講演した内容に明確に示された。
 その基本線は、「横路私案」として流された「地元JR採用、ただちに本州JR、関連企業、公的部門への出向」という内容の具体化の地ならしといえるものであった。
 田村は「出向事件は妥協し、次の事件に入れ。ここまでくると労働省を窓口に政治決着しかない。広域採用に応じた者もいる以上、ゴネ得は許されない。改革法二三条を突破することは永遠の課題であり困難だ」と述べ、同時に「とりあえず鉄産総連との組織統一から始め、各組合をエリア毎の企業連組合に再編成することを目指せ」とも発言した。
 出向協定は国労西日本がJR西日本と締結した以外は全エリアで国労は拒否してきたものである。出向攻撃に対する国労の闘いとその継続は、いわゆる「横路私案」の道筋、すなわち採用差別=解雇問題の政治解決を拒否することになるものであった。だからこそ、田村は中労委の総意を代弁して出向協定問題の解決を強調したのである。
 その後の経過を要約しておけば、国労東日本執行部の強引な出向協定締結方針に対する多数の反対があり、中央委員会では決定をしないという確認があったにもかかわらず、国労中央委員会は五月三十日、不当労働行為問題解決を先送り(棚上げ)し、JR東日本との間で出向協定を締結するという国労東日本の執行経過を承認した。
 その「見返り」の形で持ち出されたのが、「次の事件は採用差別事件とすること、中労委が責任と権限を発揮するよう期限をつけて要求し、中労委が誠意ある対応をせず、JRに解決の意思がない場合、中労委に命令を求める方針に切り換える」という方針であった。
 こうした左右両派の妥協劇の一幕は、にもかかわらず採用差別での同様の経過を再現することを阻止するものではなかった。
 それは九月四日の中労委石川会長見解に凝縮された。
 石川見解は採用差別問題を先議するが三者懇方式による事情聴取から着手するという内容であった。三者懇という方式はすでに出向差別事件に際して採用されたインフォーマルな労使と中労委の交渉の継続である。
 国労が提出した要求=判定和解を求めるという一歩ひいた要求自体(これは、責任と権限の発揮ということの内容が命令と判定和解からなるが、そこから「命令を求める」を除いた、右派に譲歩したもの)が、石川会長によって真っ向から拒否された。
 すでに八月に中労委は「三者懇」の場で、職権命令はJRが拒否するから次に進めない」という見解を表明してもいた。そして国労が回答期限とした九月四日に会長見解として公式にしたのである。
大会は、命令を求めよ、との左派修正案採決を避け、主旨受け入れ、「冬を越さない。越すようであれば命令を求める」と確認した。
 しかし三者懇というインフォーマルな密室で作られた政治決着の和解案が早期提出される可能性を否定したものでもないし、そのプロセスと内容に対する執行部対応がどのようになされるかを規定したものでもない。執行部体制問題がきわめて深刻な対立として立ち現れた理由はこうして見るとき、まさに明らかである。

国労とJR労働運動の再編
――JR総連の分裂

 企業内組合あるいは企業連組合として労組が経営側の派閥あるいは部門との連携を背景とすることが多いという事実は、JR総連に典型的に示された。旧国労も動労も少なからず運転部門や人事部門などの経営サイドの内部抗争、対立に結びついて「組織力」を維持し、発揮したりしてきた。その最大の表現が、旧国鉄における単一組織防衛派と分割派の抗争と、分割派に旧動労が密着し分割・民営化の旗振り役となり国労解体に突っ走ったことだった。
 旧動労はJR総連の中枢部を掌握し、かつ新幹線を中心とする運転部門を掌握し、経営との密着によるJR労働運動の首座を獲得することに成功した。それは一大合理化、首切りと労働強化を率先して承認し、国労労働者を排除・首切ることのうえに築かれた労使蜜月の結果であった。
 走狗は最後は煮られるものだのことわざもあるが、JR総連における分裂騒動の拡大は、西日本、東海に続いて四国、九州でも確実な状況となった。旧動労の系列は、東日本経営陣に依存しつつ北海道と貨物をあわせた拠点死守に追い込まれているようである。
 新幹線運転部門をおさえ強力な体制を誇示した東海においてさえ、旧動労労働者がすべて新労組に参加したわけではなく、相当の目減りがあった。当然にも、労使共同体制の期間の経験は旧動労組織の防衛という名分を大きく切り崩したのである。
 以上を背景にして、JR内企業連組合再編への動きが進行していることを田村発言は明確にした。言い替えれば、国労幹部に対して路線転換を押し付け、組織の再度の組み替え=鉄産総連との合同(左派排除)という図式での決断を迫るということになるのである。
 右派および革同勢力の基本的動機は、企業内における自らが主導する労組の組織的安定の確保であり、ここからすべてが発生している。連合や全労連(あるいは全労協)という組織選択が彼らの路線を決定させているのではない。JRでの安定的位置の確保が優先している。
 こうした全一連の構想が、国労の右派や革同勢力にとっての「絵に書いた餅」にすぎないかどうかは別にして、連合にとっては、改革法二三条を法的に防衛し、連合型に対応した安定した多数派としての企業連組合をJR内に形成するという大目標を実現する、まさに一石二鳥の収拾案というべきものであろう。そのためにこそ改革法二三条による採用差別そのものを問わないという国労側の「妥協」が前提条件となるのである。
 「六月上旬のJR東日本支社長会議では、『予想される和解案とその内容に対する対応をめぐり、闘争団の半数が脱落し、国労自身も二つに分裂するだろう』と分析し、国労内部及び各党派の内部を重層的に分断する、労務政策の緻密化を徹底している」(国鉄闘争センター、九・九集会基調報告)

組合員大衆の意志結集による
路線論争の決着を

 九・四会長見解は、ともかくも「採用差別先議」という国労の主張を受け入れる形式をとった。その条件として三者懇方式をつけていることはすでに述べた。ここには三者懇の「合意」に基づくという名分を盾にとった職権和解、斡旋への筋書きの余地が存在している。
 三者懇の密室での政治解決は、出向問題に見るように、東日本エリア執行部が、国労組織総体としては合意をとうてい得られない解決案を強引に組織に呑ませるための策動の場、手段と化している。国労東日本の社会党党員協の分裂は右派優位であるがゆえに、今後とも党員協=学校政治によって事態が回転させられるとするならば、過去数年繰り返し行われてきた右派の策動は、いよいよ最終結論の段階に到達することもありうるのである。
 右派は、自らの企業内における将来展望において国労を大勢として牽引する必要性を放棄できない。そして修善寺大会に示され、かつ闘争団の一歩も崩れぬ闘いとそれを支える組合員大衆の存在に対して正面から攻撃を加える決意をすでに固めているとも思われない。
 にもかかわらず、第五十六回大会の休会と続開大会が可能であったのは、まさに学校間、すなわち幹部間での密室的やりとりが媒介となったからである。
 事態を組合員大衆の側から切開するとすれば、討論を正面から大衆的レベルで進め、それを集約する形で組織としての意志結集を再確立していく方式が要求されているであろう。学校ごとに縄張りを張合い、方針内容を問うことなく勢力分布が定まってしまうという現状の打開がいかになされるかに国労の明日がかかっているといって過言ではない。
 大会の空転、執行体制不在という状況が一時的とはいえ導き出されてしまったことは、第一に方針の基軸に関する全組合員による一般投票による意志集約とそれに基づいた執行体制、闘争体制が必要となっていることを物語る。その集約は、左右妥協の産物である大会集約のようなあいまいなものではなく、いわゆる「横路私案」に対する態度、同時に、中労委への態度、すなわち「命令を求める」のか「判定和解」を求めるのか、といった路線の要を問うものであることが必要であろう。
 そして、第二に、闘争体制を闘争団を軸心にしたものへと改編することが必要だ。中央闘争委員会に一人も闘争団から入っていず、さらに闘争団そのものも組織機構上、たんなる連絡機関にすぎず組織機構として正式のものとされていない現状は、まさに学校政治=幹部政治が横行する基盤を提供するものである。
闘争団は、この夏全国大会までの五〇日間の中労委前座り込み闘争を貫徹した。採用差別事件に対する中労委の救済命令を要求するこの闘いは、まさに勝利を目前にして妥協・取引にはしる一部幹部と真っ向から対立する地平にある。闘争団は、長期闘争体制を築き上げ、短期収拾、妥協論への反論を現実の闘いで突きつけている。
 闘争団を国労組織の中軸に据え、闘争方針の明確化を急ごう。機関の意図的マヒを克服する努力を、学校の縄張り意識を越える大衆的イニシアティブ形成の課題は緊急なのである。      十月五日

突破口は切り開かれた
 モスクワニュース紙37号(一九九一・九・二二)

 全体主義制度を支えた行政機構の急速な解体が、八月のクーデターの失敗によって加速されてはじまっている。人民代表機関の方の権威は無傷なのであろうか。二年前に選出された現在の代議員制度は、国家が安泰で安定していた時代の行政機構の模倣であった。この機構は、全体主義の権力装置に反対するどころか、その権威に奉仕する法的な覆いの役割を果たしていた。現在、それぞれの共和国が主権国家として、舞台の中央に登場している。前代未聞の官僚帝国が崩壊しつつある、厄介払いである。この現象は、積極的であり、そして流血をともなわずに進んだ方法で旧来の制度を破壊していく唯一の道だと思う。新しい過渡的な権力構造にとって不可欠な仕事は、旧来の硬直した権力構造に置き変わることである。各共和国の評議会(政府)は現在、強力な権限を有している。議会は、各共和国の代議員機構になるだろう。各共和国の指導者たちの集団が国家評議会を構成している。権力の持続性というものが存在している。ボリス・エリツィンが独立した国家のみがそれぞれが同意した中央国家で自ら望む役割と果たしうる、といったのは正しい。自由なき人民に委託された機関が行う決定は人民自身の決定ではありえない。
 新しい基礎の上での合意は可能だろうか。現在、人民は自由であり、これこそが人民主権というものである。独立して生きるということは、必ずしも個々ばらばらに生活することを意味しない。その人自身と良き隣人というものはうまくやっていけるのだ。自由を獲得した現在、統一と、順応主義に反対することこそが、連合の真の前提条件を生み出すに違いない。この方向に向かう第一歩は踏み出された。各共和国間での経済統合、科学技術での共同、エコロジーの保護、市民の権利と自由の保護、集団安全保障の原則などに関する合意は、この方向をさらに強めるものとしてある。もう一つの点に注意を払おう。クレムリンが従来提唱してきた一切の計画は、「組織された自由」を基礎にして連邦を再編することであった。こうした計画にしたがうと、画一的な国家が画一的に転換されることになる。当然にも、少数の共和国はこのやり方を強く望んでいる。今日、それぞれの共和国がお互いの同意を基礎にして独自の決定をなしうるという権利の相互承認にもとづいて政治決定を行っていることは、重要な成果である。これらの最初の数歩に加えて、過去、超連邦の一部であった諸国とのより親密な関係形成さえ試みられている。最高会議は、「人権と自由に関する宣言」を採択した。これは国際的に承認されている政治諸原則に合致したものである。これは、すべての共和国が、その形態が違うとしても、民主的な政府をもつべきであるとしている。このことは、ボリシェビキの順応主義的な無責任な思想が永遠の終りを告げ、地球の六分の一を占める諸共和国が地球全体のファミリーの一員になっていく希望を強くするものである。

いかに分割し、いかに統治するか

ソ連最高人民会議の初日が終わった時点で、モスクワニュース紙の編集委員たち、オレグ・ボゴモーロフ、アレクサンドル・ゲールマン、ダニール・グラーニン、レン・カプリンスキー、エレン・クリーモフ、ウラディミール・チホーノフ、スタニスラフ・シャターリン、ブヤチェスラフ・ショスタコフスキー、グリゴリー・ヤブリンスキーは、新しい政治状況における経済と管理の展望について、以下のように論じた。

 過去二年間、何もしようとしなかったことへの罰なのであろう。経済の管理機構はずたずたになり、国家は経済的破滅の危機に瀕している。国家をただちに十五の独立国家に分割することは、深刻な結果をもたらすであろう。各共和国間の国境のたった一二%だけが確定しているにすぎないといえば十分である。三百万もの強力な軍隊をどうすればいいのだろうか。すべての兵士や戦車、航空機、ミサイルをロシア共和国にもってくるのだろうか。
 連邦の機構は、それが存続するとしての話であるが、どうなるのだろうか。議論に先立って六つの可能性が提示された。@ロシア共和国がその他の共和国から承認されたセンターになる(各共和国が参加するかどうかにかかわりなく)。A「大ロシア」が交渉なしですべてを抱え込む。B共和国間の政府が形成され、これが協同で対処する。C政府が組織され、中央管理機構を担う。Dあるいは、その政府が話し合いによる「離婚」の道を選ぶ。E政府が形成され、西側援助による共同の経済改革を実行する。
 すべてのメンバーが一致した基本点は、われわれが生き延びなければならないということである。これまでのソ連邦の領土内に独立国家を樹立することを阻止できないという点でも、多くの発言者の意見が一致した。しかし、すべての共和国はその結果について十分に知りうるようにしなければならない。ある発言者は「円満な離婚というものは事態を落ち着かせ、考えさせる効果がある」といった。また、多くの人の一致した点は、軍隊についてはっきりした展望を与えて、クーデターが再現しないようにすることが重要だということであった。議論の時間は長かったが、核兵器、エネルギー、通信、エコロジーといった共通の重要課題については検討できなかった。
 われわれは現在、その持てる力のすべてを経済活動に集中できるロシアにおける強力な三、四の管理機構を必要としている。急速な私有化の進行と同時に、KGBや党の文書庫の開放といった劇的な事態のもつ意味を予測していかなければならない。

犠牲者を悼んで
 
 首都モスクワは、血にまみれた独裁の、全体主義の最後の反撃の犠牲者、国民的な英雄たちに最後のお別れを告げた。われわれのうちなる根深い恐怖心を押し殺すかのように、彼らは、ボルシェヴィキを封鎖し、そして倒れた。きらめく死であり、神聖な勝利であった。
 これ以前の多くの死というものは、われわれに多くを語らず、教えなかった。われわれは永きにわたって、専制や暴力、殺人に関するテレビやラジオの報道を見聞きしてきた。そして民族間の関係の複雑さや、歴史的な紛争や反革命計画の再来についてまことしやかに語る宣伝担当者の説明に注意してきた。人間の意識は、明白な虐殺にも、あるいはノボチェルカースクの隠くされた虐殺にもあまり影響されなかった。トビリシの血塗れの事件も、永きにわたる憤激を巻き起こさなかったし、事件を執行した将軍はロシアの民族的な英雄に近い存在にさえなった。帝国の専制支配に疲れはてたリトアニアはほぼ毎月、その最良の息子たちの命を失ってきた。ラトヴィアやアゼルバイジャンでも多くの埋葬が行われた。永らく苦しんできたアルメニア人も依然として埋葬を行いつづけている。多くの人々が、これらにあまり関心がなく、自分の問題とも考えていなかったように見える。そして他方では、事件の当事者に、民族主義者、分離主義者というレッテルが貼られてきた。彼らは、われらの「同胞」ではなく、ロシア語話者でさえないというわけである。その他の人々、つまり制服のよく似合う抜け目のない若者たちは、「われらの同胞」の一員になり、何をするのも許された。テレビはこの若者たちを賞賛し、各大臣たちは推薦し、大統領は甘やかした……。
 もし、われらが大統領が自分がどのような人物たちを育成しつづけているのか、これを知っていさえしたら……。しかし彼は知らなかったし、最もありそうなことは急いで学ぼうとはしていなかったことである。「社会主義的選択」に固執して、彼は、自分に対する反対者は「いわゆる民主派」であり、彼の命を失わせるようなことはないと固く信じていたのである。
 われわれの血を数十年間にもわたって流させつづけ、そしてわれわれを非人間的なミュータントにし、国民的な自滅の道に追いやってきた責任は誰にあるのか。
 それは、「愛される党」「われらの時代の知性であり、名誉であり、精神である党」にあり、党は、一貫してごろつきと堕落したものたちの手の内にあった。
 このことは、決して驚くような新しい発見ではなく、歴史的な経験のうねり声でしかない。真実というものは、ヴォルガ河がカスピ海に流れ込むように単純にして明白である。われわれは単に、目を閉じ、耳を塞ぎ、何も見ないようにしてきただけである。数十年間にわたって、暴力でもって抑圧され、奴隷にされ、意識、感性、文化、経済といった人間的であるべきはずのものを全体主義的に歪められてきた。完全な沈黙と、愚者と犯罪者への絶対的な服従――しかし、これでさえ彼らはあまりにも不十分だと考えた。そしてグラスノスチという名の新鮮な空気がわれわれの監獄房の穴から侵入してきた。これは彼らを激怒させ、彼らは戦車を派遣し、われわれを再び、そして永遠にひざまずかせようとした。それによってソ連共産党のくずどもが、柔らかな肘掛けイスから腰を上げることなく、電話がおよぶ範囲よりも遠くまで、われわれをより容易に管理下に置くことができるように。この事情の中に、彼らの高尚な政策と彼らが熱望する目標、すなわち権力がある。
 しかし、われわれは、そのように屈服させられはしなかった。勝利したのだ。だが、犠牲者たちが埋葬されるかされないうちに、犯人たちがわれわれに対して用いたような方法を使わないように慈悲を求める声が聞こえはじめた。特に良心的なそうした人々を元気づけることはできる。例えば、民主派が望んだとしても、クリュチコフのKGB単独で民主派に対して使用した武器の十分の一も集められないのだ、と。許しについて語る前に彼らが最初にすべきは、自らの罪を告白することである。だが、彼らはいう。「党全体は、そして数百万の普通の労働者、農民には罪がない」と。もちろん、農民は、これにはまったく関係なかった。「普通」の市民にとっても、彼らがいかなる人物を援助してきたのか、そして、かくも長きにわたって血にまみれた時代に支援してきたのかを理解し、一つの決定を行う潮時であった。最も意識的な人々はかなり以前にそうした決定を下していた。それ以外の人々がいま、決定をしている。現在、多数派を形成している彼らはどうなのか。彼らが何を待ち望んでいるのか、私には分からない。
 白ロシアでは、彼らは待機することをやめた。その共和国の指導者たちは、すでに白ロシアの共産党はソ連共産党を脱退し、自立すると発表している。おそらく、この共産党は、新しい名前の下で独自の共産主義を構築しつづけるのだろう。ダイモン(土地の守護神)は驚くほど臨機の才能がある。彼にドアを示すと、窓から入ってくる、というわけである。愉快なキャンペーンが彼らを待ちかまえている。
 われわれが慈悲や破壊行為について語っているときにも、死者が葬られている。ロシア人、ラトビア人、リトアニア人、アルメニア人、アゼルバイジャン人は、今日に至るも、死者を埋葬している。クロアチア人やセルビア人もはるかかなたのアドリア海の浜辺で埋葬されている。不幸なアフガン人もまた犠牲者である。これらの死者たちが誰の犠牲になっているかをはっきりさせるべき時ではなかろうか。
 彼らは、滅びつつある共産主義の犠牲者である。そしてわれらの不運な民主主義はいまだ十分には育ってはいない。
  バシル・バイコフ
トロツキー研究所
               トロツキー研究所設立記念講演会

「ソ連におけるトロツキー研究の現状」

 最近のソ連情勢はまさに目まぐるしく変化しています。旧来の官僚的特権を防衛しようとする一部軍・KGB官僚のクーデターに始まり、それがほんの数日であえなく破産するや否や、ソ連共産党の解散、各共和国の相次ぐ独立宣言などの事態が矢継ぎ早に起こり、世界の人々を驚かしています。
 こうした過程は、スターリニズムに立脚した70年以上に及ぶ官僚支配体制の決定的崩壊を意味するものです。東欧に続いて、ソ連も今、激動の時期に入ったと言えるでしょう。だが、今後「ソ連」がどのような方向に向かうべきなのかという明確な展望はまだどこからも提起されていないように思われます。
 この歴史的転換期において、一国社会主義論、大ロシア民族主義、硬直した官僚的計画経済路線、独裁的官僚支配体制などにみられるスターリニズムの全体系と一貫して闘い抜いたトロツキーの思想は、これまで以上に重要な意味を持つでしょう。ソ連でもいまだ少数の人々の間においてですが、トロツキーの思想は共感をもって迎えられつつあります。
 こうした動向について、今年六月から七月にソ連を訪問された藤井一行氏からより具体的で興味深い報告を、また藤本和貴夫氏からは保守派の牙城と言われてきたソ連軍内部におけるトロツキーの役割をめぐる論争についての講演が行われますので、皆様、おさそいあわせの上、ぜひが参加下さいますようお待ちしています。

▽トロツキー研究所設立記念講演会△
「ソ連におけるトロツキー研究の現状」
 
講演者
 藤井一行  ソ連におけるトロツキー研究の最近の動向
 藤本和貴夫 ソ連軍内部における最近のトロツキー評価について
日時 一九九一年十月十九日
場所 東京・神田パンセ506号室(JR水道橋駅下車7分)
連絡先
 トロツキー研究所
 〒164 東京都中野区東中野一―二二―二一
      曙マンション203号アトリエみ/ゆ
      電話/FAX 03―3361―3006

低開発の理論(2

       織田 進


2 「従属理論」の危機

現代資本主義論としての「従属理論」

 本紙前々号(24号)で私は、「低開発」を「開発へのワンステップ」であると理解することを拒否する理論的立場について述べた。それは、世界の資本主義化過程を、「開発」と「低開発」の両極的発展としてとらえ、資本主義そのものを世界的な対構造として把握する立場である。しかもこの構造は、一方が他方に全面的に依存し、従属するものであり、あるいは中心が周辺を同心円的に支配するものである。今回はこの理論が、危機に陥っていることについて述べる。
 「低開発」と「開発」の従属構造として資本主義を把握する立場は、多様な見解を包含するこの理論的潮流の、共通の前提をなしている。この立場は、現代資本主義の本質を帝国主義として、最終的な破局にいたるまで終わることのない「低開発の開発」の永久的拡大運動としてとらえるのである。
 この考え方によれば、主として内的な成長力に支えられる前期が存在したか、そもそもの初めから両極的発展として展開してきたのかについて理解の違いがあるとしても、帝国主義である現代資本主義は、「低開発の開発」において生き延びる歴史的段階にある。いまや資本主義は、従属的国家関係の地理的拡大によってかろうじてその「収益」の源泉を確保しているにすぎない。
 このようにしてこの理論(以後仮に「従属理論」と呼ぶ)は、帝国主義は資本主義の最高の発展段階であり、社会主義革命の前夜であるというレーニン「帝国主義論」のテーゼに立脚し、その真理を現実的に明らかにする、現代において最も革命的な立場であると自ら主張している。

脱「低開発」の革命

 「従属理論」の立場は、独自の革命的なイメージをふまえ、また生み出していくものである。この考え方からすれば、世界の「低開発」地域は、帝国主義の周辺としての位置づけのみを与えられる。この地域は、自らのためにではなく他者のために存在するものであり、そのあらゆる生命活動の成果が外部に収奪される必然的な構造の中に組み込まれてしまっている。したがって、自分自身のための近代的で自立的な工業化された独自の国民経済を建設することは、この「従属化」の構造から強行的に離脱することなしには、とうてい成し遂げることができない。革命は、まさにそのことを最初の任務として遂行されるべきなのである。
 「低開発」の革命国家は、帝国主義の支配としての外部経済からの独立をめざし、その手段として、従属的組み込み構造としての外部市場からの離脱と、外部資本の排除を追求すべきである。革命国家が独自の近代化された経済を作り出そうとするなら、まずもって、外部市場・外部資本との従属的関係を破壊することから始めなければならない。
 すなわち、自立ということを結果ではなく前提におかなければならないのである。なぜなら、資本主義的外部関係は従属の構造であり、その拡大再生産の構造である。資本主義的外部市場は、「低開発の開発」の戦略の場以外のものではありえず、その構造的な再生産の力学だけが働いている。自立をめざす経済は、したがって、この外部市場にとどまることはできない。ただそこからの離脱だけが、新しい出発を可能にするのである。
 「従属理論」の革命的なイメージは、多かれ少なかれこのような戦略を提起することになる。

自力更生社会主義の敗北

 「従属理論」の一つの純粋な帰結を、ポル・ポト派に率いられたカンボジア国家の路線にみることができる。この国家は、敵対的なものと考えられたあらゆる外部市場から絶縁し、純粋に自らの固有のものであると確信できるものにだけ依拠した国家と経済の建設を試みた。だが、この路線がカンボジア国民を導いた運命は、まことに悲惨かつ破滅的なものであったことは、ごく短い間に明らかになった。ポル・ポトのカンボジア国家の実質は、集団農場と強制収容所、それらを管理する軍事機構の三者から構成されることとなった。そこでは、一番安価なものが人間の命であった。
 このカンボジアの悲劇をもって、ただちに「従属理論」の誤謬を実証したとするのは、公平を欠くものであろう。「従属理論」の資本主義的外部市場からの離脱の主張は、多くの場合は決して孤立主義の主張ではなく、世界化した労働者諸国家の経済建設の前進とその国際関係を前提にしていたと考えられる。もし労働者諸国家の「近代化」が、計画経済に基づく「工業化」として成功し、資本主義世界経済とその市場に対抗する共同の国際経済活動を展開し得ていたとすれば、資本主義的外部市場からの強行的な離脱にも、現実的な根拠が与えられていたであろう。
 だが、労働者諸国家は現実には分裂して闘争し、その経済建設も停滞の泥沼に呑み込まれていった。ポル・ポトの戦略の敗北は、独立を闘い取ったベトナム・インドシナ革命が陥った困難の一部であり、同時に、労働者諸国家の計画経済の困難の一部でもあった。そして歴史的にはそれは、中国文化大革命において毛沢東が試み、敗北した自力更生社会主義を、より「純粋」にかつ小規模に繰り返したものといえる。
 だがこの事例が、外部市場から断絶して自立した経済建設を求める戦略がどれほど非現実的であるかを如実に示す効果を持ち、「従属理論」がその説得力を大きく失う契機となったことは否めない。
 「ポル・ポト政権下のカンボジアは、従属理論の理論家たちの『理想的モデル』とみなされた。それは外部の諸国とのあらゆる経済的な結びつきに対して戦いを布告した。……問題はまさに、S・アミンがポル・ポトとキュー・サムファンの自給自足政策を支持したことにあるのではない。クメール・ルージュの方がさきにS・アミンの権威に頼ったのである。キュー・サムファンは、一九五九年にソルボンヌ大学に提出した博士論文の中で、国際的な統合が前資本主義的経済システムにもたらす、いわゆる有害な構造上の結果に関する一九五七年のS・アミンの議論を肯定的に引き合いに出している」(ピーター・リムケコ、ブルース・マクファーレン『周辺資本主義論争・日本語版への序文』)

脱「低開発」の資本主義的道・NICS

 だが、「従属理論」を脅かしたもう一つの、いっそう積極的な「反証」は、七〇年代に実現したいくつかの「周辺」諸国の急速な工業化の成功と、それらの諸国の国民経済の高度成長の達成である。その成長ぶりは、この時期には「中心」諸国が同時に深刻な不況にあえいでいただけに、とくにめざましいと感じられたのであった。
 NICSと総称されるこの発展した「周辺」諸国に数えられるのは、とりわけ韓国、台湾、香港、シンガポールなどの東アジア諸国や、ブラジル、メキシコなどである。これらの諸国は、従属的な「周辺資本主義」としてのそれぞれの歴史のなかで、自立した経済建設に踏み出す手がかりをつかんだ。
 これらの諸国では、相対的に安価で質の高い、豊富な人的資源を活用して工業生産力の急速な発展を実現し、強い競争力を持った商品を世界市場におくりだした。さらにその成果は、先端技術への意欲的なアプローチへとつながり、自国産業の技術的基礎の高度化を追求する努力に結びついていった。これらの諸国の国際経済への進出は、国によってその度合いに差があるものの、全体としては自立した国民経済の基盤を確立する上に貢献したものであり、一時的なエピソードには終わらず、世界経済における新たな独自の位置を築くことに成功した。
 こうした発展が可能になった要因は、七〇年代に「中心」諸国が同時に直面した危機、いわゆる「フォーディズムの危機」との関係で考察される必要がある。
 七〇年代初頭の危機の直接の契機は、OPECに結集した産油諸国の国際カルテルの成功である。この危機は、二つの点でNICSの急成長のための国際的条件を作り出したといえる。
 第一は、石油価格高騰に対処するために「中心」諸国、とくにアメリカが過剰流動性に依存したことである。エネルギー構造がとくに石油に傾斜しているために受ける打撃が大きかったアメリカは、国際収支と国家財政の膨大な赤字を貨幣化する系統的なインフレ政策によって危機を克服しようとした。国際的基軸通貨であるアメリカドルの過剰流動性は、いわゆるオイルマネー、ユーロドルとして、国際資本市場を通ってNICSの工業化を支える資本的裏付けを提供した。これらのドルは、収益低下に悩む中心部資本主義から、高収益期待可能な工業化過程の周辺部資本主義へと転進したのである。
 第二は、この時期の「中心」諸国が、販路の面でNICSを支えたことである。インフレが常態化した中心部資本主義諸国では、労働集約型の産業部門が収益性の危機に陥った。それは、賃労働関係をレギュラシオン様式の中心に据えるフォーディズム的蓄積体制の歴史的な帰結であった。繊維産業などの伝統的な労働集約型産業はとくに深刻な事態に見舞われたが、それにとどまらず、電気産業や半導体産業などのハイテク部門も、人的資源に依存する度合いの高い産業として、国際的価格競争において脆弱化した。NICS諸国は、相対的な低賃金構造の有利に依拠し、これら労働集約型産業の強い競争力のある商品によって「中心」諸国の市場をとらえたのである。
 このようにして好運な「周辺」諸国は、「中心」からの資金を導入して工業化を促進し、販路を「中心」に見いだしてその供給に需要を与え、そのおかげで利子を払い借金を返した。もちろん、それほどうまくはいかなかった多くの国が存在し、世界の信用危機は爆発寸前と言って良いのも事実だが……。
 NICS的工業化の成功は、限られた諸国のものであったとしても、「従属理論」の普遍妥当性を疑わせるに十分であった。少なくともこれらの諸国は、単に工業化した自立的国民経済の建設に成功したというだけではなく、資本主義世界市場に積極的に依拠してそれを成し遂げたのである。このことを経済的に説明しようとすれば、「従属理論」のいくつかの基本的な前提が否定されざるを得ない。だからといって、事態を政治主義的に説明することに頼っても、何ものを守ることにもならないであろう。

「フォード主義の世界化」

 レギュラシオン学派の理論家であるA・リピエッツは、NICS諸国の工業化を解明するための概念として、「本源的テーラー主義」と「周辺部フォード主義」を提起し、事態を「フォード主義の世界化」の過程としてとらえている。
 「中心」におけるフォーディズムの危機は、「周辺」諸国の工業化のために新たな空間を開いた。
 「ここで重要なのは、産業部門内分業の特定部面が、搾取率(賃金、労働時間、労働強度)の高い国家に移転され、その製品が主として中心部へ再輸出されることである。……問題となっているのは、フォード主義というよりもテーラー主義である。『海外移転』されるのは細分化された繰り返し作業であり、機械のオートメーション・システムによって結合された作業ではない。要するに語の正確な意味における労働集約産業である」(A・リピエッツ『奇跡と幻影』)
 これは、いわば二〇世紀における「一九世紀的生産形態の飛び地」ともいうべきものであるが、それを通じて遅れてきた国の「最初の大きな自立的蓄積資金」が積み上げられることになり、その意味ではヨーロッパの「本源的蓄積」に類比することもできる。リピエッツが「本源的テーラー主義」と呼んだ理由もそこにある。
 だが、このような「参入」が生産と雇用の移動はもたらしても、総体としてはゼロサム・ゲームに近いものであったことは明らかである。「実際このモデルは、若干の生産を結局海外移転させることになるが、そのさい世界の需要は増加しない。……被害を受けるのは中心部における雇用なのである。そのために中心部の保護貿易主義的対応が生じたが、それはNICSの繊維輸出の増大を突如として制限することになった」(同)。こうした限界をいくつかの「周辺」諸国が突破することとなったのは、七〇年代であった。
 「一九七〇年代に入り、若干の国々において、現地の自立的資本、相対的に豊富な都市中産階級、経験を積んだ労働者階級の広汎な生成、これら三つの結合が現実化する。こうした結合によって若干の国家は、われわれが『周辺部フォード主義』と呼ぶことにする新しい論理を発展させるチャンスをつかむことになる」(同)
 この「周辺部フォード主義」は、「機械化が展開され、内包的蓄積と耐久消費財の販路拡大とが連動している」という意味で「正真正銘のフォード主義」である。だがそれは多くの点で周辺的に歪められており、とくに「国民的土台の上で制度的に調整されているのではない」こと、すなわち、国民的民主主義と賃労働関係との整合的なレギュラシオン様式を欠いている点において、未だ過渡的なものである。
 それにもかかわらず、周辺へと波及していくこうした「フォード主義の世界化」は、「従属理論」が描いたものとは異なる脱「低開発」の道へ、いくつかの国民経済を押し上げた。そして七〇年代におけるこれらの諸国の工業的基礎を持った自立的国民経済建設の達成が、これらの諸国が八〇年代に挑戦していくこととなる民主化を準備したのである。
 このような現実の進行は、「従属理論」の危機をもたらしたことは言うまでもない。だが危機は単に理論上の問題であるのにとどまらず、それ以上に、「周辺」革命の展望と戦略の問題であった。