1992年2月10日         労働者の力               第30号  

国連安保理サミットと核軍縮
帝国主義主導の機構改革に動きだした国連
 全面核廃絶の推進を

       川端 康夫

 国連安保理サミットを前に、アメリカのブッシュとロシアのエリツィンの双方から、「画期的」な核軍縮提案がなされた。ブッシュは一月二十八日夜、議会で一般教書演説を行い、ついでエリツィンが二十九日夜に包括的な軍縮政策をテレビ演説で明らかにした。ブッシュの一般教書とエリツィン演説は相互に呼応しつつ、前者は大統領再選を意識し、後者はソ連解体後のロシア大統領としての位置を国際的にうち固めようとする意図をもつものであった。両者はそれぞれの利害に対応して、「劇的」なセレモニーを演出しあった。

アメリカの勝利宣言と唯一の大国論

 湾岸戦争とソ連邦解体という一九九一年の激動のバランス・シートについて、ブッシュは次のように述べた。
 「過去十二カ月間に、世界は聖書の中の出来事にほぼ匹敵するような変化を体験した。……この年、共産主義は死んだ。……アメリカは冷戦に勝った……力の慎重な使用から多くの好結果が生まれ得る。そしてかつて二つの軍事陣営に分裂していた世界に、今は唯一卓越した大国、すなわちアメリカ合衆国しか存在しないということからは、多くの好結果が生まれ得るのだ」
 ブッシュのいわんとすることは明白である。アメリカは冷戦に勝った。ソ連は解体した。アメリカは唯一の大国となった。世界はアメリカを信頼している、アメリカの指導のもとにある、という率直な宣言である。そしてブッシュは、もはや敵(旧ソ連)にそなえる必要はないとして、核兵器削減方針を説明したのである。
 唯一の超大国アメリカの指導とは、彼が表明した次の言及が示している。
 「一年前の今夜、私が演説をしたのは大きな危機のときだった。米軍は、砂漠の嵐作戦を開始したばかりだった。そして砂漠の空での四十日間、地上での四日間の後……クウェートを解放した……そのすぐ後、アラブ諸国とイスラエルは平和についての協議の場についた」
ブッシュは、アメリカの平和と世界秩序の確立が、「最も強い国」であり続けることで保障される、と明言したのである。

アメリカと同盟して世界秩序を?!
エリツィンの声明

 エリツィンの演説はブッシュ演説以上に踏み込もうとするものであった。その内容は、「われわれの原則は、核兵器、大量破壊兵器は世界から廃絶されなければならないというものだ。この過程は均衡を保ちながら段階的に進められなければならない」として、ゴルバチョフの踏み出した論理を継承しつつも、さらにアメリカと共同して世界秩序維持のための同盟体制へ移行しようという点に「新しさ」がある。すなわち、エリツィンは、
 「我々が軍縮の分野でとろうとしている方策はロシアやCIS加盟の国々の防衛力を崩すものではない。我々は合理的で最小限の必要な核、および通常兵器を持とうとしている……戦略攻撃兵器の削減後、米ロ両国に残った核については、お互いに相手国の目標に照準を合わせないことに我々は賛成する。米国が提案した一定の制限下の非核対ミサイル防衛システムに関する提案についての議論を続ける。戦略防衛構想(SDI)に代わる全地球的防衛システムを米ロ共同で作る用意がある」
と述べている。
 以上の表明の意味は明らかであろう。すなわち、米ロは相互に攻撃しないが、合理的最小限の核は維持する、それは全地球防衛システム形成につながる、という文脈である。全地球防衛システムは、宇宙からの攻撃を言っているのではない以上、地球上に存在するなんらかの脅威に備えるシステムということになる。
 それはなにか。
 ここで想定される「脅威」は明言されていない。が、安保理サミット席上、エリツィン大統領は「米国と西側諸国を同盟国と考えている。…… 平和と安定保障する迅速な対応機構……つまり安保理の決定に基づき危機にある地域で、迅速に対応すべき機構が求められている。国連の真剣な改革の時期が来たと考えている」と言明した。
 そして、「ロシアにとっての危険はむしろイラクのような第三世界の強権国家からくると見ている」(1・30「朝日」朝刊)と報じられているのである。さらにエリツィンは「G―PALS」構想(第三世界などからの限定的なミサイル攻撃に備えるアメリカの構想)について話し合い、かつSDIに代わる宇宙防衛システムの共同開発への用意についても発言した。

アメリカ主導の国連による平和維持
安保理サミット声明

 一月三十一日、安保理サミット(国連安全保障理事会・十五カ国の首脳会議)が声明を出した。

 *常任理事国 アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国
 *非常任理事国 エクアドル、ベネズエラ、ジンバブエ、日本、オーストリア、ベルギー、インド、モロッコ、ハンガリー
 国連は発足当時五一カ国1、現在一六六カ国が加盟国。初めての安保理サミットは二重の意味で問題を含んでいる。一つは総会の無視という最近の傾向をより明確にしていること、第二は現在の理事国に限定していることへの他の諸国の反発である。
前者は、従来重視されてきた非同盟諸国の了承取り付けが最後にまわされたことで示され、後者は安保理サミットに無関係のドイツを中軸とするCSCE(全欧安保協力会議)が同時に進行し、欧州版国連の様相を強めたことである。とはいえ、CSCEと国連機構改革論は同根であることも明らかだ。
 安保理サミット議長声明は「平和創設」「予防外交」という概念を打ち出し、積極的な機能強化の方向を示した。その性格は、湾岸戦争での多国籍軍(アメリカ軍)の行動を評価し、その立場で国連機能強化を主張するものである。
 湾岸戦争以降、安保理のP5の相互結束は表面的には強まった。時にはP5独裁的な振舞いが目につき、非同盟諸国や第三世界諸国への「専横」な態度がかいま見られることにもなってきた。
 李鵬を派遣した中国の立場を見てみよう。
 中国外交は天安門弾圧以降、「決して先頭に立つな」という視点で展開されてきた。西側の「人権批判」に対して一貫して「内政問題」として拒否しつつ、敵をつくらず友人をつくる、ことが基調となってきた。経済優先という中国指導部主流の立場は、世界情勢局面のアメリカの一極支配への警戒とそれへの対抗・防衛という保守派傾向の認識にもかかわらず貫かれてきた。ソ連の崩壊が意味する世界の三極構造の解体は、中国政府にとって、アメリカおよび西側からする「チャイナ・カード」の時代が終了したこと、したがって中国がその「恩恵」を享受しえる時期が終わったことを意味する。天安門事件後の「経済制裁」の展開を除去するためにこそ、中国外交は「目だたない」こと、したがってアメリカ主導構造に正面から抵抗する構えを示さなかった。
 そして現在、中国は急速に積極外交に転じ、イスラエルとの国交樹立にはじまり李鵬のヨーロッパ訪問と安保理サミット出席がなされた。
 中国指導部にとって、一時のアメリカによる一極支配への警戒をたかぶらせた認識がその後少なからず変化したともいえる。アメリカ一国の力には限界がある、世界の「運営」にとってアメリカは多くの「同盟者」「協力者」を必要とする、という中国の認識があるといえるのである。
 こうして、中国はアメリカ帝国主義との関係で「目だたず、敵をつくらず」に「友人をつくる」という枠組みにおいて、アメリカとの関係改善とその枠内での独自の役割の追求という道に踏み出したのである。
 P5構造は、中国指導部にとって大きな財産であり、既得権である。P5の権限強化は、その構成国としての中国にとって自らを浮上させる作用をもっている。
 中国指導部、ロシアのエリツィンとは違って、アメリカを同盟国として認識してはいないにもかかわらず、いやそうであるからこそ、自らの「一党独裁」体制防衛を最優先課題として、アメリカ主導のP5の位置強化に「複眼的」な価値を見出しているのである。
 
「先進諸国」による世界秩序形成
危険なエリツィン提案

 エリツィン演説は、明確に「世界秩序」への脅威を「第三世界」のうちに想定した。そして、それに対する同盟関係を構築するという「手土産」をもって、西側、「先進国」ブロックへの参加許可の申請をした。これはまさにゴルバチョフを「飛び越え、乗り越える」踏み出しであり、その価値観は、まさに「似て非なる」というべきものであろう。
 ゴルバチョフが、欧州共同の家をいい、核軍縮をいい、レーガンに対する平和攻勢にかけることを通じて、一方では冷戦構造を終了させようとしたと同時に、少なくとも帝国主義論理へのくさびを打とうという意識が含まれていたことと比較するならば、エリツィンは帝国主義と同盟し、帝国主義論理に触れることなく共同防衛論を展開している。
 ゴルバチョフが湾岸危機に際して、苦し紛れとはいえ、アメリカの動員した多国籍軍への牽制として、国連軍をもちだしたのと対照的に、エリツィンは帝国主義との同盟軍を創設しようとする。
 国連初の安保理サミットは、冷戦終了後というよりは、湾岸戦争後の秩序形成が、ロシアの全面的な共同意志表明によって支援された、アメリカおよび西側諸国主導の国連―国際秩序形成を承認し、その具体化を宣言したのである。 
 安保理サミット議長声明は、P4(アメリカ、イギリス、フランス、そしてロシア)+1(中国)という、核保有大国の力を軸にした西側先進国のイイニシアティブによる「機構改革」を宣言した。
 そして日本の宮沢は、「集団安全保障」としての国連機能の全面的拡充を推進することを表明した。「集団的自衛権」は日本国憲法の禁止するところである。それを国連の「集団的安全保障」機能ですりぬけようとしているのである。
はたして今、世界は「集団的安全保障」の基準をもっているのであろうか。はたして今、世界はブッシュが言うような「アメリカへの信頼」をもちえるのであろうか。
 そして、冷戦終了後の世界に、エリツインが言うような核兵器を保持した「地球防衛機構」を必要としているのであろうか。否、先進国クラブが、「後進国」に対しての備え(核の備え)を行ううことに荷担すべきではないのである。
 地球的規模の危機は、まさに南北問題であり、資源の収奪と富の偏在の拡大再生産の中にあり、環境破壊の猛烈な拡大にある。
 「南」の、すなわち四〇億の民衆が、二〇億の「先進国クラブ」の収奪・搾取・統制・抑圧のもとにおかれている現状の克服にむけて何がなされなければならないのか――そうした視点を欠いた「地球防衛システム」構想を支持することは絶対にできない。
 宮沢の国連演説は、PKO法案推進を国際的公約した。一連の国連改革の提唱も、こうしたエリツィン演説が示す政治的世界認識と同一である。
 冷戦終結は、決してアメリカの勝利によってもたらされたものではない。それはゴルバチョフが仕掛け、スターリニズム体制の解体を世界の民衆が支持した流れに支えられたものだった。
 ここでは、核兵器はもはや必要ないし、いらないはずだ。そして二大軍事ブロックの対立が生み出した地域的な軍事強権国家もまた、その裏づけを失うはずである。
 武器輸出、軍事援助も必要ない。
 ロシア、そして中国が採用すべき方向は、世界民衆を背景にした帝国主義論理への対抗とくさびを打つことにあるのではないか。
 全面核廃絶のイニシアティブをとらなければならない時ではないか。そして、西側諸国においては今こそ、そしてあらためて、かつてイギリス労働者が主張した「一方的核廃絶」の運動と要求が必要な時ではないか。
 国連がなすべきことは、核の全廃、軍事援助禁止、そして、全面軍縮のための行動である。
      二月三日

独立国家共同体各国のアジアにおける新たな役割
CIS形成はアジアにいかなる影響をおよぼすか
  モスクワニュース紙第2号(一九九二年一月十九日号)


 アジア、ヨーロッパにまたがる超大国ソ連の解体は、アジア情勢に影響を与えざるをえない。ほぼ間違いなくアジア地域の勢力の再編をもたらし、旧ソ連の構成各国をはじめ、各勢力に影響を与える新センターが登場するであろう。一九九一年の様々な出来事は、ゴルバチョフのアジア安保方針として知られてきたソ連の長期政策を忘却の彼方に追いやってしまった。新たに出現した独立国家共同体各国の対外利益は大きく異なっており、アジアの地政学的な状況は極度に複雑であり、CISとしての協調したアジア政策は望み薄である。

ロシア

 ロシアのアジア政策はソ連の後継者としてのものであるが、多くの点でソ連とは国家利害が違っている。
 対日関係の改善は、ロシアにとって中心的な重要性をもつものの一つである。したがって、諸島をめぐる領土問題が長期にわたって対日関係の障壁になっていたが、この状況に終止符が打たれると考えられる当然の理由がある。日本は、「北方領土」問題をロシアとの双務的な経済関係形成の条件とは考えていないようである。
 日本の発展にならっているアジアの「虎」――東南アジア諸国――は、とりわけロシア東部地域を経済的にひきつける存在になる。これらの諸国はまた現在、東南アジアに出現している経済センターがその力を発揮する対象である。
 ロシアのインドに対する関係は変化していくだろう。冷戦時代に形成され、米―パキスタン同盟に対する南アジアの対抗力となっていた印ソ友好関係は終わるだろう。今後は、ロシアの対インド関係は、パキスタンをはじめとする南アジア諸国との関係でのロシアの利益を損なわない方向で発展されていくことになる。このことは、ロシアの副大統領のアジア歴訪からも明らかである。モスクワははじめて、この地域における核非拡散に関するパキスタンのイニシアティブを支持した。これまでのモスクワは、インドがパキスタンのイニシアティブに否定的な態度をとっていたために、このような立場をとれなかったのである。
 ロシアの対外方針の自由度が増大したために、ロシアはアフガン問題解決の調整者としての役割を果たせるようになった。ロシアの指導部がすでに、カザフスタン、アゼルバイジャン、トルクメン、キルギス、タジクスタンの指導者と対話を行ってアフガン問題を解決したいという考えを表明している。

中国

 中国は最近、CIS各国との平和共存の原則にもとづいた関係改善の意思を表明し、各国の独立を承認した。中国は、特に経済分野でロシアにとって大切なパートナーになるだろう。他方、両国間に難しい問題がなくなったわけでもない。両国間に横たわる難しい問題は、アジア政治地図の現に進行中の書き換え、新たに独立した民族国家の登場、中ソ国境地帯に居住する人々の分離などが関係している。中国は、国境地帯における分離主義の強化を恐れ、新彊地域での兵力配備を増やしている。このことは、国境地域の緊張を強めるかもしれない。北京はまた、「ロシアの資本主義化」とモスクワが進めている経済―社会改革方針への対応に憂慮している。

トルコ

 トルコは、コーカサス南部で指導的な役割を果たす可能性を強めている。対イラク勝利後は、その立場を相当に強化しており、現在、対コーカサス政策をかなり発展させている。トルコは、アゼルバイジャンの独立を公式に承認し、この地域に対する影響力の点でイランよりも優勢になっていくだろう。イランは、アゼルバイジャンの独立問題に抑制した態度をとっているが、その理由は数百万人のアゼルバイジャン人がイラン北部に居住している事実によって説明される。アゼルバイジャンの独立は、すでにこの地域で強力になっている分離主義的な感情に新たな火花となるかもしれない。
 トルコは将来、アルメニアとの関係を樹立して、その威信を強化し、アルメニア―アゼルバイジャン紛争解決の仲介者となるかもしれないとみられている。
 トルコがまた、旧ソ連中央アジア地域の独立国家により積極的に働きかけていくことはほぼ間違いない。トルコ―ウズベクスタン間の対話はすでに進行中である。そしてトルコがカザフスタン、キルギスとの関係を発展させていく基礎は、十分に存在している。一方での非宗教的な民主主義の伝統に対する執着、他方でのイスラム教の同じ派、スンニでの一体性という状況があり、このため、アルマアタ―ビシケ―アンカラの同盟関係の出現が一層現実味をもってきている。

イラン

 イランは、旧ソ連の東部共和国に対する影響力をめぐってトルコと大いに争ってきた。テヘランは、その南部と西部の緊張(サダム・フセイン、クルド人、アラブ・イスラエル紛争)があるため、北部での安定を重要視している。したがってイランのタジクスタン、トルクメン両国との民族的、文化的な一体性、長い歴史的な関係、権威主義的家父長制の風潮に基礎をおいた国交樹立は大いにありうる。イランによる両国の承認は、両国がアジアにおいて役割が大きくないだけに、特別の意味をもつだろう。ウズベクスタンは、トルコ、イランとの関係改善から利益をえるだろう。
 中央アジア諸国は、近隣諸国との関係では経済面を重視する。中央アジアに関する専門家たちは、ウズベクスタン、トルクメン、イラン、アフガニスタン、インド北部による共同市場という中央アジア自由貿易地域の形成に鋭い関心を示している。古代には、中国から地中海に至るシルクロードが存在していた。これが現在の産業基盤をともなって回復するなら、巨大な自由経済地域構築の基礎となるだろう。

カザフスタン

 カザフスタンは、旧ソ連中央アジア地域のトルコ語圏諸国の例にならうものと考えられていたが、いくつかの理由によって、この国の外交政策はこの枠組みにおさまっていない。
 そうした理由の一つは、カザフスタンが有している核産業、科学技術施設、通信基盤を改善する独自の能力である。アルマアタはまた、核兵器管理の問題に関しても特別の地位にある。この問題だけでも、カザフスタンは他の中央アジア諸国とは異なった独特の違った立場にある。
 しかし数百万ものイスラム人口がいる(特に新彊)中国と地理的に近いという事情は、中国がカザフスタンに特別の関心をもっているということである。そのうえ、中国の大きな関心は、その北西部、つまりカザフスタンとの国境地帯で勢力を拡大しつつある分離主義の潜在的な危険を排除することにある。だから、中国が最初に経済貿易協力協定に調印したCIS国家がカザフスタンであったのは、決して偶然ではないのである。
 セルゲイ・ストローカン

エリツィンマイナスゴルバチョフ=?
 モスクワニュース紙第一号(一九九二年一月十二日)


 ソ連共産党中央委員会政治局候補ボリス・エリツィンを政治舞台から排除するという決定が、ゴルバチョフ書記長の政治的な運命を確定した。その決定の四年後、状況は逆転した。ゴルバチョフの辞任はエリツィンの政治活動歴における決定的な事件となるだろう。この二人の「スター」の関係が、今後も長きにわたって旧ソ連地域の政治に影響をおよぼしていくだろう。
 エリツィンにとっては、つい最近までセンターとその指導者(ゴルバチョフ)は社会的な混乱に対する障壁であった。しかし今や、この保護壁は存在しない。ゴルバチョフは立ち去った。こうしてエリツィンは、「安全網なしでの演技」を余技なくされたことなどの不可避的な危険をともなって新しい権力の座についたのであった。しかしエリツィンの立場は、それ以上に不安定的である。この国家は、ゴルバチョフが実現しようとしたことの半分も達成しておらず、エリツィンに要求されていることは、彼の現実の能力を越えている。他方、この間、人々の忍耐は限界に達して、もはや耐えられない状況にある。したがって現在の国家指導者が彼の前任者の借金をいやおうなしに支払わなければならない。
 ミハイル・ゴルバチョフが政治の舞台から退場したことは、旧ソ連の政治地図を変化させた。ボリス・エリツィンが事実上、共同体の「中心」大統領になった。彼が、最大にして最富裕な共和国の指導者であり、「核のボタン」とルーブルの管理者だからである。彼こそが、経済やその他の命令に関係して非難を浴びることになろう(すでにウクライナの人民代議員は彼を非難している)。彼はまた、一方のウクライナ、モルドヴァ、アゼルバイジャンの独立心と、他方の統合を求める共和国との間での緩衝者、調停者としての役割を果たさなければならなくなるだろう。
 エリツィンはつい最近まで、彼やその他の共和国の大統領とゴルバチョフとの間に生じた諸問題の解決に当たっていたのである。この中では、ゴルバチョフやその他の真実の権力をもたない大統領たちの行動は、十分に予測できた。現在のボリス・エリツィンは、十人の大統領と対面している。しかも彼らは、それぞれの共和国の大統領として十分な権威をもち、自立した政治活動を展開しているのである。そのうえ、これまでは政治局、あるいはゴルバチョフが率いる政府を統合していた一つの統一ルールというものが存在していない。そしてウクライナ大統領レオニード・クラフチュクの行動は、少しもミンスク協定とは一致しないものであるが、決して例外なのではない。
 ゴルバチョフの辞任は、エリツィンに対する態度と同様、ロシア外部の世界の態度にも影響する。食料品の列にならばなければならない自由なロシアの市民は、政治家や新聞の論調と同じように間もなく、昨日までの反対派でありクレムリンの動向の犠牲者であったエリツィンがもはやそんな存在ではないことを知るであろう。現在のエリツィンは、物資があふれ真に民主的なロシアを建設する課題に取り組む政治家なのである。エリツィンの政府は、世間が物資の豊かな国家建設に関して結果をすぐに要求することを十分に自覚している。そして民主主義を促進することで彼らの責任を果たすうえで失敗するだろうことも。そうでないとすると、治安機関を単一のものに統合しようとしたり、報道の自由を抑圧しようとする計画や、独立国家共同体の誕生に際しての無分別な法手続きの無視をいかに解釈したらよいのだろうか。ソ連最高人民会議に対する態度は、あるいは民主派がきらっているセルゲイ・バブーリンの代議員権を取り上げようとしたことは。そしてゴルバチョフのチームをクレムリンから追放したことをはじめとする、ロシア当局の疑問の多い策謀については。
 ゴルバチョフが去り、エリツィンが旧ソ連大統領に向けられていた要求を引き受けることになる。つまり権力の分割、憲法上の諸要求の完全な実現、報道の自由や野党への平等な権利などの保障といったことである。ロシアのホワイトハウスの活動で、これまで戒厳令によって書かれてこなかったことが平和な状況の中で書かれるようになる。
 ゴルバチョフはクレムリンを去るに当たって、彼自身がそれまで多用してきた政治手法や策謀をエリツィンが使用できなくした。過去にエリツィンに有利であったことが、今や彼に過剰に報いている。破壊の嵐のエネルギーは、もはや破壊するものがない場合には、危険である。ま正直さというものは、野党勢力との対話では危険である。エリツィンは新しい政治上の資本を必要としている。過去数年間につちかってきた資本は、十分に使いつくす前に蒸発してしまったようである。新しい資本蓄積に失敗すると、エリツィンは大きな危険を背負うことになる。ゴルバチョフの辞任は、エリツィンにとって彼がゴルバチョフの例に続いていくはじまりとなるかもしれない。
 一九九一年十二月二十六日、ボリス・エリツィンは、クレムリンにおけるゴルバチョフのオフィスの正当な占有者となった。ロシア大統領が前のソ連大統領よりも優位に立ったようにみえる。二人のうちのどちらが祝福に値するだろうか。どちらに同情すべきか。
 リュードミラ・テレン
近刊紹介
「社会主義のレギュラシオン理論――ソ連経済システムの危機分析」
           B・シャバンス著 斉藤日出治訳
             予価三八〇〇円 大村書店

 B・シャバンスは、レギュラシオン学派の方法を駆使して社会主義経済システムの分析に取り組んでいる。本書は、そうした彼の方法によってソ連経済システムの危機を分析したものであり、旧ソ連の問題を考えていくうえで一つの視座を与えるものであろう。
 本紙では、大村書店の好意によって、同書の結論部分に相当する「終章 ペレストロイカからソ連邦の分裂へ」の一部を掲載する。全体の構成は次のようになっている。

第T部 経済システムの核心
 第一章 賃労働制
  一 労働市場
  二 労働編成
  三 賃金および分配の闘争
  四 消費の動向
  五 労働力不足と過剰雇用
 第二章 産業の編成と計画化
  一 三つのヒエラルキー水準
  二 不確実な資材調達
  三 計画化の諸矛盾
  四 過剰投資とイノベーションの足かせ
  五 価値の硬直性と貨幣の受動性
第U部 周辺空間
 第三章 農業
  一 三つの基本的組織
  二 優先されているが沈滞したセクター
 第四章 対外経済関係
  一貿易独占・通貨の不換性・二国間方式
  二 コメコンに対するヘゲモニー
  三 西側との貿易
第V部 成長、危機、改革
 第五章 発展モデル
  一 外延的成長とその限界
  二 蓄積の不均衡
  三 不足による調整
  四 軍事の比重
  五 副次的経済
 第六章 ペレストロイカと「ラディカルな改革」
  一 先行の改革
  二 ゴルバチョフと新しい改良主義
  三 周辺領域の再編
  四 二重体制の堅固な核にむかって
  五 経済的ペレストロイカの脆弱性
 終章 ペレストロイカからソ連邦の分裂へ

初期の改革のあいまいさ

 ふりかえってみると、ペレストロイカの初期における改革派の診断を特徴づけていたのは、現実に対する過小評価ではなく、ソ連経済の構造的危機の広がり、およびソ連経済を支えるシステムの本性についての過小評価であったように思われる。一九八七年の改革を特徴づける妥協の諸要因は、おそらくつぎのようなゴルバチョフの戦術によって説明されよう。つまり、ゴルバチョフは経済的行政機関と党機構の潜在的・現実的な抵抗をやわらげるために、これらの経済的行政機関や党機構がシステムの改革において重要な役割を果たすの保証しようとしたのである。だがこの改革のあいまいさは、この段階における改革派の学習にいずれも限界があったために生じているのである。
 一九八八年までに取り組まれた改革は、一九六〇年代に試みられたような改革とはちがって、たんなるシステムの調節を越えて進んだ――一九六〇年代の改革は、意思決定の集権化をやわらげ、労働者の、とりわけ企業経営者の刺激を高めることによって、経済の実績と運営の改善を図ろうとしたのである――。だが一九八八年までの改革は、依然として真にラディカルな改革、つまり重要な制度的変革をともなった改革にまで至っていない。それは、要するに一九六五年のコスイギンの改革とハンガリーや中国の改革との間の中間的な改革であった。

経済的ペレストロイカの失敗

 初期の改革がもたらした結果は、総じて限界を有しており、否定的なものであった。バランスシートが部分的にプラスとなったようにみえる唯一の領域は、協同組合企業「コーペラチーフ」の領域である。このことは、ごく短期間に協同組合企業が急成長したことを物語っている。とはいえ、この合法的な私的セクターは、依然として投機的な行動を主たる特徴としており、その価格も不足の強度を反映してきわめて高い。農業分野においては、法体系の改革がしりごみをし、農民の労働意欲が低いために、個人農場の創設がきわめて少ない(一九九〇年末で四万農場)。一九九〇年の豊作にもかかわらず、農業分野では構造的な諸問題が激化した。一九九〇年以降は、販売制度の解体と投機的な横流しが進む。
 国営産業の堅固な核を転換するための漸進的な二重の戦略も、同じように失敗した。国営企業法が一九八八年に最初に施行された当時は、国家発注の領域が拡大されたために(工業生産の九〇%以上)、この法律はほとんど効果がないように思われた。だが一九八九年以降、国家発注の領域は確実に縮小し始めた。その結果、国営企業法が予想したように企業間取引のための空間が増大した。にもかかかわらず、このような集権的な計画化と集権的な資材調達の領域の縮小は、新しい市場へと道を譲るどころか、全般的な不足状態を反映して、明らかにはなはだしい混乱を招いたのである。企業がある程度自立してみずからの資材調達と販売を再編するためには企業のフレキシビリティが望まれるが、経済においては需要と供給の諸条件がしだいに分断され変容していく時期には、このフレキシビレイティがきわめて弱々しいように思われる。企業はみずからを守るために、資材の備蓄やアウタルキー化の行動を強めるようになる。他方では物々交換の協定が増大し、それと並んで伝統的な取引関係の崩壊、および貨幣代替可能性が衰弱が進む。したがって改革派は当初、商品経済の領域が自生的に生じて、この領域によって従来の不均衡が自動的に調整され補整されることを期待したが、それとは裏腹に計画化の衰退は、地域紛争によってかきたてられた不足の危機の悪循環をもたらしたのである。

マクロ経済的な緊張の高まり

 一九八七年なかばラディカルな性格の改革がおこなわれたときには、経済はすでに数年前から本格的な停滞状況に入っていた。隠されたインフレは経済学者たちによると二―四%と見積られ、したがって公式の統計からこのインフレ率を差し引くと、一九八〇年代初頭以降の実質成長率はほとんどゼロに近い。一九八五年から八八年にかけて、急増する財政赤字が白日の下にさらされ、このことがそれまで包み隠されていた金融の構造的問題を明るみに出す。
 一九八七年の国営企業法は、金融・財政領域における総体的管理の効率の向上を保証しないままに、生産単位に課せられていた伝統的な制約を緩和した。そのために国営企業法は、事実上この国のマクロ経済的な不安定性を悪化させることになった。
 一九八八年以降おこなわれたこれら(通貨に関する)すべての変革は、中央当局の通貨調整能力を失わせることとなった。それまではむしろ受動的であった貨幣が、さまざまなレベルにおいてこのようにゆがめられた形で活性化される。企業は資材調達のストックを増やし、投資を推し進める。そのために不足が悪化し、同じく未完成の建設が急増した。企業は一九八七年の国営企業法により授けられた自立の向上を役立たせようとして、実質賃金の引き上げを認めた(一九八八年と八九年には、実質賃金の年上昇率がおよそ八%から一〇%であった)。そのために、国民所得およびマネーサプライの伸びと、消費財の供給とのあいだの溝がさらに開いた。国営店の不足が激しくなり、商業システムを崩壊のふちに追いやった。(物価の急騰とともに)闇の経済が広まり、満たされない需要と資材調達条件の悪化に直面して、国民の不満は爆発寸前にまで高まった。
 通貨危機が激化するにともなって財政赤字が増大し、同時に後者が前者を激化させた――そのうえ財政赤字をファイナンスしたのは、新ルーブルの無条件の発行であった――。企業が利潤の一部を保持したために、財政収入が減少した。他方では、外国貿易が財政に果たしていた寄与が目に見えて衰えた。財政支出の方はどうかというと、赤字企業と日常消費財に対する補助金の負担が依然として著しく重かった。対外債務が急増し、一九九一年にはおよそ七〇〇億ドルに達した。
 一九九〇年の一年間に、一種の不足によるスタグフレーションを特徴とする危機は新しい段階に入った。不足の異常な悪循環が始まったのである。

一九九〇年の転換

 この転換期のあいだに、ソ連では経済システムの解体、共和国の分離独立の推進、景気後退といった一連の過程が重なり合って、構造解体の累積の動態があらわとなる。
 貨幣に対する信頼の喪失が危機的となる。それにともなって、消費者においても、企業においても、「ドル換金志向」が高まり、また同時に物々交換の関係が増大する。未来予測が著しく悪化する。
 政治面でこの年を特徴づけるのは、連邦と共和国との間の緊張の高まりである。ほとんどの共和国はみずからの主権」を宣言して、そのうちの多くが相互経済協定に調印し始めた。この動きは経済状況が目に見えて悪化した一九九〇年の後半に加速される。
 中央と共和国との紛争は、連邦国家の正統性が共和国政府に移動するとか、党の指導部が民族主義へと続々とのりかえるといった多くの政治的次元をもっている。だがこの紛争はまた経済的緊張とも結びついている。この紛争は経済的緊張を反映するものであると同時に、経済的緊張をあおりたててもいるのである。価格、資材調達、経済的立法の視点からみて地域間に経済状況の格差が存在するのは、共和国間取引の日常的な回路が著しく撹乱されているためなのである。地方当局は、資源をみずからの管轄下において、資源の国外「逃亡」を防ぐためにさまざまな保護主義的障壁を設けることによって対応しようとしている。このような対応は、さまざまな報復措置が続出するという累積的な効果をともなう。ソ連の状況においては、流通ネットワークのこのような分断が次の二つの特殊な事情によって増幅され、相乗的な効果を生む。第一の事情緒は、共和国経済が密接に重なり合っているということである。一九九八年には、どの共和国も世界の他の諸国との取引量はGNPの一〇%に満たなかったが、ソ連邦内の他の共和国との取引はすべての共和国においてGNPの二五%を上回った。第二の理由は、セクターにおいても、地域的にも、産業の集中度がきわめて高いということである。従業員五〇〇人以上の企業が労働力人口の八四%を抱えている。各共和国にある数多くの大規模な生産単位が、連邦の国土においてなかば独占権を有しているのである。
 さまざまな経済的・政治的・社会的緊張の作用が累積した結果、一九九〇年にはほとんどの公式の経済的指標があからさまに落ちこんだ。これは戦後初めてのことである。
 同じ一九九〇年には、中央レベルでも、共和国レベルでも、かなりの数の新改革法案が採択された。だが旧来の制度的枠組みの解体にともなう混乱に加えて、たいていの場合に改革の準備や連携が欠けている。有名なシャターリンの「五〇〇日」計画は、きわめてハードで現実性に乏しいスケジュールにもとづいてラディカルな転換の諸目標を設定した。この転換は、とりわけイデオロギー的なものである。最も保守的な計画やゴルバチョフがこの年の秋に強いた妥協をも含めて、今やすべてが改革の基本目標として市場経済への移行を、さらに政府統制の縮小を掲げている。

ソヴィエト体制の終焉

 一九九一年は、一〇月革命からほぼ四分の三世紀続いたソ連邦が分裂した年として歴史にとどめられるだろう。中央権力の危機は、もろもろの制度や構造の解体を、経済不況の悪循環を、さらに通貨の崩壊を、そして連邦国家機構の崩壊にともなう帝国の分裂を強化している。魅惑的ではあるが憂慮すべき局面をともなったこのめまぐるしい動きは、歴史が加速されつつあることを物語っている。そのゆきつく先がいかなるものとなるかは、今のところさだかではない。
 このようなシステムの解体においては、変革のあらゆる次元が相互に作用しあいながら累積していく。とりわけ民族主義の高揚――これは明らかに歴史的・政治的な根をもっている――が、経済危機や金融危機の強化と密接に重なり合っている。歴代政府が経済の安定化への取り組みにおいて無能であったために、ソ連邦の各共和国は救いを求めて民族の独立へと走った。中央当局がしだいに正統性を失っていくのに対して、ロシア共和国の権威が高まり、その余波を受けて諸地域の自立化の過程が強められている。一九九一年夏の保守派のクーデタを、とりわけ中央と諸共和国とのあいだの関係を定義し直そうとする新連邦条約の調印を阻止する試みである。実際には、軍事クーデタの失敗が中央の権力喪失を促し、またボリス・エリツィンのロシア共和国による連邦国家機構の部分的な奪回を促す。他方では、首尾一貫した中央権力を維持しようとするゴルバチョフの努力は、危機がかきたてる分離独立の力に直面してしだいに無力なものとなっていくように思われる。ウクライナの独立は、連邦を一新しようとする最後の試みにとどめの一撃を加えるものとして現れる。
  一九九一年一二月

 三里塚反対同盟 九二年旗開き開催
  討論の深化を通じて新たな闘いの構築を

 一月十三日、反対同盟の九二年旗開きが、横堀現闘本部に近接する墓地管理室で開かれた。雨も落ちる寒い中、全国各地から会場に入れきれない百名ほどの反対同盟員や仲間が参加して行われた。
 旗開きの冒頭、司会をつとめる石毛事務局長が「昨年は新しい領域に踏み込んだ。しかし同盟と支援とのかかわりについて、強引ともいえるやり方だったためにあつれきを残した。今後は、このズレを克服していくことを課題としたい」と述べた。
 続いて石井武さんが、「シンポジウムは強制収用の口実になるとの評価があるが、『強制収用をしない』の政府の約束を守らせる世論、闘いを全力をあげて取り組んで欲しい」と支援に対して訴えた。
 救援部長の秋葉さんは、「われわれの目的は二期を絶対に阻止することだ。見えにくいところもあるが、議論しながら埋めてゆこう」と発言した。
 乾杯の音頭を堀越昭平さんがとり、支援からは、高見さん、上坂さんなどが挨拶を行った。いつも旗開きに参加し、反対同盟のシンボル的な存在となっている小川源さんの病状について、司会から紹介された。源さんは、現在は退院し、自宅療養で頑張っているとのことであった。
 その後は、会場の中と外で交流と親交を深めて、旗開きを終えた。
 九二年旗開きは、例年と違いがあって、興味深いものがあった。旗開きにおいて、三月集会の日程が明言されなかったことである。とりわけ公開シンポジウムの評価をめぐる反対同盟と支援のズレ、あつれきが未だ消化されていない現状、そして昨年秋の集会中止という流れの中で、九二年旗開きにおいて三月集会が明言されなかったことは、ゆゆしき問題であるといえる。
 昨年からのシンポジウムをめぐって、運輸大臣の強制収用放棄声明という新しい局面のなかで、本当に政府に強制収用させないための闘いを作りだしていくためにも、反対同盟と全国支援戦線との固い結びつきを作りだす場として、三月集会は、必要なものとなっているであろう。
 この点について、九二年旗開きにもの足りなさを感じた。
    (K)
資料
徳政をもって一新を発こせ

三里塚芝山連合空港反対同盟
 一九九一年十一月二十一日

はじめに――気持ちのことから

 今年の台風は、つね日頃、自然と接している私たち農民に、あらためて自然の恐ろしさを身にしみるほどに感じさせました。
 ……私たちは、今年のような不運な天候に直面してか農民として、ひとつ深く感じていることがあります。
 それは、私たちの農耕と生産活動は、自分の家族の生計の礎であるばかりでなく、たくさんの消費者から委ねられた業(なりわい)なのだ、ということです。そして、さらに、この業の重要な構成要素である土地は、単に、私が所有権を有する土地であるばかりでなく、公の生命を育む共生の大地であり、生命を維持していくための、最低限必要な社会的共有の財産だったのだということに、あらためて、思いを致しているところであります。

二五年の無念――シンポジウム参加にあたって
 
 新東京国際空港(以下、成田空港という)の問題が発生してから、初めての公開シンポジウムが、本日ここに開かれることになりました。私たち地元農民は、この公開シンポジウムが、一九九一年の今日開催されることに、“無念”の思いを抱かざるを得ません。なぜなら、二五年間におよぶ私たちの空港反対闘争が、つねに指摘してきたように、運輸省と関係住民、関係市町村の公開討論の場は、空港の位置決定の時に、当然、開かれるべきであったからです。
 そのことに思いを馳せるとき、いま、ここで行っている公開シンポジウムが、“二五年遅れ”で開かれていることを――、そこには行政の限りない怠慢があったことを、そしてその結果、数えきれないほどの不幸を生んでしまったことを、とくに政府・運輸省の方々には銘記していただきたいと思います。

問題はどこにあるのか――『ボタンのかけ違い』と『問答無用の強行策』

 この二五年間、私たちが見てきたものは、常に人間の心を無視し、人間が他の人間や自然との関係によって成り立っているということを考えもしない、傲慢な行政の態度でした。私たちの人間としての存在を無視し、国民の基本的権利を踏みにじって、国際空港としても全く欠陥の多い、杜撰な計画を遂行するために、多額の国民的財産を無駄使いして、私たちをはじめ、多数の犠牲者を出してきた成田空港問題二五年の責任は、政府の側にあることを、私たちは改めて明らかにしたいと思います。
 《ボタンのかけ違い》と《問答無用の強行策》が、どのように行われてきたかを、私たちは一つ一つつまびらかにしてゆく所存であります。そして、そのような理不尽な行為がなぜ行われたのかを、徹底的に糾していくことが、このシンポジウムの課題であり目的であるとも考えております。

なぜシンポジウムか

 もはや力によっては空港問題は解決できない
 『強制収用放棄』は政府の不動の態度
 シンポジウムがその目的と課題を達成するために、私たちは参加への条件を提示しました。その大前提は「運輸省が二期工事の土地問題を解決するために、いかなる状況のもとにおいても、強制的手段をとらないことを確約すること」でした。
 ……奥田運輸大臣が就任会見の発言を撤回し、五・二八回答が改めて閣議で了承されたことで、「強制収用放棄」が政府の不動の態度であると、国民の前に明らかにされたものだと私たちは受けとめます。

シンポジウムは二期用地問題を討議する場ではない
 政府が二五年間の非道の歴史を反省せず、流血の事態を引き起こした手を洗おうともせずに握手を求め、「二期用地問題の解決は話し合いで」ということは、絶対に許されません。シンポジウムは用地問題を討議する場ではありません。

 シンポジウムを通して追及されるべき、真の対等の立場とは
 二期工事を中止し地域を再建する
 シンポジウムを通して、この相互対等の立場が実現され保証されたとき、成田問題は平和的解決への次の扉を大きくあけるでしょう。《成田問題の平和的解決》への緒につくために、私たちはシンポジウムにおいて主に以下の内容を主張いたします。
 @二五年間の空港反対運動の意味
 A事業認定処分失効論
 B二期工事不要論及び航空行政批判
 C二期予定地及び周辺の地域再建計画

シンポジウムのもう一つの意義――国と住民が対等である新しいスタイルを

 ……私たちは、いま必死の思いでこのシンポジウムに参加しているのです。なぜなら、成田空港問題がこじれた根本的原因の追及をおろそかにし、国家の反省を促すことができなかったら、ふたたび、どこかの地域で、国家の安易な政策によって、人々が不幸を背負う事態がかならず起きることは、火を見るより明らかだからです。私たちは、成田の教訓を、日本の国家と日本の民衆に分かち合って欲しいと、心から願っているのです。成田空港の建設過程で生じた数々の不幸な事態を、この国においても、アジアの地域においても、繰り返すことのないようにすべきだと思っております。
 いま、世界は大きく変わろうとしています。少なくとも、国家が強大な権力をもっていて、国民との間に乖離が生じていた国は、民衆次元の活力が生まれず、自ら瓦解していきました。武器をもってい対峙していた国どうしが、対話を通して新しい世界を開こうとしている時代です。このような時期だからこそ、政府が“公共事業だ国益だ”といって、国民を“犠牲ないしは私権の制限の対象”としてしか見ない態度を、根本的に改める必要があるといいたいのです。
 今後、国がなんらかのプロジェクトを考えるとき、それに関係する住民は国家と対等であり、国はそれら関係する住民と十分に討議を重ね、時間をかけて合意を形成していくというスタイルを、このシンポジウムを契機に作り出していけたらという思いを、私たちは抱いているのです。

私たちの基本的な主張

 空港問題は八戸の農家の問題ではない

 私たちは日本農民としての誇りをもって戦ってきた
 私たちが空港反対闘争に立ち上がったのは、国家による民主的権利の破壊に激しい怒りを感じたからです。また、政府・運輸省が、私たちの“農民としての存在”を、徹底的に蔑視する態度に終始したからです。
 ……私たち農民の生産活動の基本は、どのように変化するか予測のつかない、自然という大地にあるからです。ですから、私たち農民の精神も、太陽や水や風や動物や植物という、自然のあらゆる形象との関係によって形成されています。
 なんの相談も話し合いもなく、農民から大地を奪うということは、農民一人一人が固有にもっている、自然との関係、村落との関係を、突然断ち切ることですから、これは農民の人格権への攻撃、といっても過言ではないといえます。
 農地を奪われ村を壊される危機に直面したとき、私たちは、当時の高度成長政策のなかで、村から都会へ怒涛のように出奔してきた、出稼ぎ農民の奥深い苦悩を共有し、また、過疎化する農村の不安に思いを寄せることもできました。工業優先、効率化への偏重という政策のなかで、あのとき、政府は日本農業の根っこを崩してしまったのではないでしょうか。だからこそ、私たちは第一次強制代執行に反対する戦いのなかで、突き動かされるような気持ちで「日本農民の名において収用を拒む」と叫び、黒枠の日章旗を掲げたのです。
 そして現在、環境問題が象徴するように、工業優先、生産力至上主義の社会は、自然の生態系を破壊し、人間と地球の生存を脅かしています。私たち人類は、いま大きな岐路に立っていると感じます。産業社会と自然との折り合いを模索するなかで、農業と農地のもつ役割が評価し直されるべきだと考えております。

徳政をもって一新を発せ

 《土地には本来の持ち主の魂が入り込んでいる》という意識は、現在もムラのなかに生き続けているといえます。
 徳政一揆や徳政令という言葉で知られる“徳政”の本質も、たんに借金の棒引きというような行為ではなく、本来の正しい姿に戻すこと、土地を本来の持ち主である百姓の手に戻すということが、その本質的な意味だといいます。
 ……このような“徳政”の精神が連綿としてこの国につづいているのは、土地が、米や野菜など、私たちの根本的な食糧を産み出す不思議な力を持っており、それ自体が生き物と意識されていたからだと思います。
 ……三里塚農民になんの相談もなく、また、私たちをとりまく農村世界を考慮することなく、強権によって農地を金に換算すればよいとする今の政府・運輸省の政治理念は、この国に脈々と流れている豊かな土地の思想ともかけはなれて、なんと貧しいことなのでしょうか。むしろ、政府・運輸省は、農民と土地との関係がもつ《公性》に何の配慮もなく、土地を《私》したといっても過言ではないでしょう。

資料
成田二期工事事業認定失効論
二〇年が過ぎていかなる意味でも事業認定は失効した
 三里塚芝山連合空港反対同盟

はじめに

 成田空港用地が、土地収用法にもとづいて事業認定されたのは、空港の位置決定から三年半後の一九六九年十二月十六日のことでした。この日以来、空港予定地内の土地は、強制的に取りあげてよい土地とされました。また、そのために土地の形状変更が禁止され、財産権の行使についてさまざまな制限をうけることになりました。“生殺与奪の権利”を政府ににぎられたまま、二二年がすぎました。
 ……政府は、シンポジウムの直前に強制収用はしないと約束しましたが、この問題がなくなったわけではありません。いまも、成田空港問題の最大の問題であるからこそ、私たちは最初にこの問題をとりあげるのです。
 憲法二九条は一項で「財産権はこれを侵してはならない」と、規定しています。ただし例外として三項に「正当な補償の下に、これを公共の福祉のために用ひることができる」としています。これをうけて土地収用法があるのです。本来不可侵の財産権を侵すのですから、土地収用法の適用は厳格に規定されなければなりません。
 また憲法のいう「公共性」が民主的に議論され、広くみとめられること、収用にあたっては民主的で適正な手続きが不可欠です。
 ここでは、緊急かつ現在的問題として、私たちと政府が論争を続けてきた事業認定失効の問題について、明らかにします。
 政府の今日の見解では、二二年たったいまでも事業認定は失効せず、永久に強制収用ができるといっています。殺人事件でも時効があります。なのに、罪もない農民が、当人ばかりでなく、孫子の代まで強制収用をしいられるのはあまりにも不公平です。政府の主張は、法の精神をないがしろにした、あまりにもおそまつなものです。この常識はずれな見解で、私たちの生活は縛りつけられています。私たちは、運輸省にたいして何度もこの問題をただしましたが、らちがあきません。裁判所に訴えても門前ばらいされるだけです。裁判所は強制収用とか、実際に事件が起こってからでないと判断しないといっているのです。だから、私たちはこの問題を、このような場で解決する場を探りたいのです。

一 収用対象にされ、制限された住民の暮らし
 (1) 強制収用の恐怖は今もいきている
 (2) 二〇年以上も生活を縛り続けられてきました
 (3) 検問監視は強制収用することなく、農民を追い出そうとするものです
二 事業認定問題をめぐる私たちと政府の対立点
 法律解釈など水掛け論のようにみえますが、私たちがこの問題にこだわるのは、この法律の解釈が事業認定にかけられた人々の人権、幸福に生きる権利を直接左右するからです。あわせて行政府の権力行使が民主的なコントロールの下におかれねばならないとかんがえるからです。
 (1) 現在の論点
 ……私たちの公開質問状と運輸省の回答から問題点を図示すればこうです。
反対同盟の主張 二期用地は一〇年間味収用のために買受権(注)が発生し事業認定は失効する――しかも事業認定から二〇年がたち、永久の財産の凍結―無期限の強制収用などは、人権と憲法に照らして、いかなる観点からも許されず、事業認定は失効した。
 運輸省に主張 買受権は発生しない――二〇年がたっても法律に何も書いていないから、永久に財産も凍結でき強制収用も出来る。
 (注)土地収用法一〇六条の規定。強制収用した土地が不用となったり、事業認定から一〇年たっても使われない場合、元の土地所有者に買戻しの権利が生まれる。買戻し権ともいう。
 (2) 一〇年―二〇年そして無期限へと見解を変えてきた政府
 (3) 収用権と買受権は表裏一体の関係にある
 (4) 買受権についての対立点
 (5) 収用法の補償規定は収用に期限があることを示しています
三 二〇年を過ぎて、いかなる意味でも事業認定は失効した
 私たちは事業認定問題についてのべてきましたが、以下まとめてみましょう。
 まず、事業認定失効の問題は、直接予定地内の農民の生活にかかわる問題だということです。現在政府が、事業認定は有効だといいはることによって、日々農民の生活が縛られつづけているのです。二〇年以上にもわたって空港予定地と指定された用地内では、家を建て替えることや、自分の土地を自由にすることもできません。政府は、孫子の代までこの状態を強いようとしているのです。まさに生殺しのようにして、朽ち果てさせようとしています。さらに運輸省は、「できるけどやらない」、といって強制収用という精神的圧迫を、今後もかけつづけようとしているのです。
 ……政府は事業認定は失効していないといいますが、その誤りの根拠をこれまでのべてきました。
 以下、要約しますと、
 収用法の各規定には、収用に期限があることをしめしています。
 一つめは、七一条の補償価格固定制です。これは立法担当者がはっきりといっているように、七一条が起業者に早期収用を義務づけたということです。彼らは五年をすぎたら土地収用法は死んでしまう、といっています。一九六七年に事業認定時に補償価格を固定するように条文を改正したとき、土地収用法を運用するものは速やかな収用を義務づけられたのです。
 二つめは、一〇六条の買受権です。国家の収用権と国民の財産権生存権とのバランスから、一〇年で買受権が発生し、強制収用は効力を失い、従って事業認定は一〇年で失効しているはずです。
 三つめ、二〇年で買受権が消滅するという同じく一〇六条の規定です。これは、収用した土地に対してその所要関係をくつがえす買受権の行使を、二〇年の時効にならい、二〇年を区切りとして土地の所有関係を固定したものだということです。二〇年後はもはや収用法のあずかりしらぬこと、とした規定であるということです。
 以上のことを総合すると、二〇年に関して事業認定についての規定がないという運輸省の見解は偽りであって、土地収用法には期限を予定した規定があって、条文が空白だとはいえないと思います。むしろ二〇年後などは問題外であえて法文化しなかったとみるのが正しいでしょう。条文に書いていない、空白だから国は何をしてもいいのだという運輸省の主張は、土地収用法の精神をないがしろにしたものといわざるを得ません。
 事業認定の効力に期限があるという考え方は政府自らが言明してきたことです。一〇年とした法制局の見解、二〇年とした建設省の見解をみても明らかです。これらは法律的根拠を持った発言で、当然政府として責任を持つべきものです。
 この見解の変更は、従来の見解を部分的に修正したというのではなく、見解のもととなる考え方を根本から変えてきているのです。これを相撲にたとえていえば、最初は正規の土俵があった、ところが国は土俵際まで押し寄られると、自分で勝手に土俵を大きく書き直し、それでもまた寄り切られそうになると今度は土俵そのものをけしてしまい、土俵はないのだ、もう永久に寄り切られて負けることはないのだといっているのと同じです。権力をもったものが勝手にルールを書き直していたのでは、社会はなりたちません。
 以上、私たちは土地収用法の解釈とこれをめぐる経過から、二〇年をこえては事業認定はいかなる意味でも法的根拠を失ったと考えます。
 そしていかに公共事業といえど、永久に人の生活を縛りつづけ、幸福の追求と生存を妨げつづけることはできないものと考えます。二〇年をすぎて事業認定の有効性を主張することはできないのです。

おわりに

 成田問題は“お上にたいして文句を言うな、言う権利もないのだ”という時代から“国民の人権を尊重する行政”問い時代への転換に位置するものです。時間がかかっても、いや当然時間をかけて問題を解決すべきだと思います。ドイツのミュンヘン空港建設の場合は二五二回も公聴会を開き、深夜三時にまでおよぶこともあったといいます。これはもう歴史のなかの政治意識、文化の問題とも言えます。事業認定問題はこの時代の流れにそって考えられなければなりません。
 一九九二年一月一七日
 三里塚芝山連合空港反対同盟