1992年5月10日         労働者の力               第33号
PKO法案を廃案へ
                      5・26に全国から結集を!
 四月二十三日、東京・日比谷野音で「PKO法案を廃案へSTOP自衛隊海外派兵4・23緊急全国集会」が開かれた。約四千人が参加し、急浮上したPKO協力・自衛隊海外派兵法案を廃案に追い込む意思表示を行った。主催は実行委員会の形ではあるが、昨年の春、秋の二度の集会を成功させた、市民、労働組合(全労協系)、そして社会党内のグループが合流する流れを引き継いだものだ。

 六時二十分にはじまった集会は、主催者を代表して、東京選出社会党国会議員の斉藤一雄さんがあいさつしたあと、呼びかけ人代表の福富節男さんのあいさつがあり、この中で福富さんはPKO法案阻止に向けて社会党が闘うことが必要だと述べ、さらにこうした社会党が森田健作を参院東京選挙区に擁立しようとしている事実を批判した。
 続いて国会報告に田英夫参議院議員がたった。田議員は、国会における「奇妙な修正論議」を批判した。政府案として継続審議されるのは、昨年衆院で強行採決した法案であるのだが、その法案に責任のある政府自民党、公明党が、審議入り以前に修正うんぬんを言い出しているのは、まさに国会審議が不可能な事態というべきことだ。修正案を提出しなければ審議にならないはずだ。それをせずに審議日程確定に奔走している。密室の取引で法案が決定されることになりかねない。徹底的な開かれた論議が必要であり、その点から、社会党護憲共同として提出した対案の意義を強調した。
 激励のあいさつとして土井たか子前社会党委員長がかけつけた。土井前委員長の登場は久々であり、かつ昨年には見られなかった多くの社会党議員が集会賛同者に名を連ねたことは特徴的であった。
 社会党が、(連合の圧力がありながらも)非軍事、非自衛隊という基本線を堅持して進むという大勢を築いていることが明白に述べられた。

 土井前委員長のあいさつと並んで拍手が集中したのは、特別報告にたった元第一富士丸船長の近藤万治さんである。近藤さんは、四年前に起こった自衛隊潜水艦と釣り船第一富士丸の衝突と第一富士丸の沈没が、明らかに自衛隊潜水艦「なだしお」に非がある事実を自衛隊が陰に陽に関係者に圧力をかけつづけ、その結果、証人の証言が時間が経るにつれて自衛隊に有利なものに変化してきていることを報告した。座して判決を待つことは、一方的な自衛隊側の証人工作の前に破れることになりかねないとの危惧感から行動を起こすことにした、と切実に訴え、国家権力をむき出しにした自衛隊の強引なやり方一つをみても、この軍隊が海外派兵をするならば大変な事態を導くと述べた。
 さらに近藤さんは、外航船に乗り組んでいた自らの経験をにもとづいて、日本政府のいう国際貢献なるものの赤裸々な正体を明らかにした。かれは、日本船籍の外航船が、ベトナム難民を救出しないように船会社から圧力がかかっていた事実、多くのボートピープルを波頭の中に見捨てざるをえなかった経験を語った。船会社の圧力は、日本政府が難民受け入れを拒否してきたこと、したがって日本船が難民救難を行ったならば、その難民の日本上陸が不可能であり船会社が立ち往生するという理由からであると説明されたそうである(日本政府筋の圧力が船会社にあったことはいうまでもないと思われる)。
 こうした、国際協力を拒否してきた日本政府――そして、そうした状況はなんら変わっていない――が突然に軍隊派遣を実現するためだけの「国際協力」を言い出すことは許されない――近藤さんのこの発言は、まさに生々しい実感、体験の背景を踏まえたものだけに満場の大きな拍手に迎えられた。

 市民団体のアピール、東京水道労組、都職労の二つの労働組合からの決意表明がなされ、「PKO法案の賛否を問う全国市民投票」の呼びかけ、社会党国民運動局長の連帯アピール、議員団紹介、今後の運動提起、集会アピールのあと、国労闘争団による団結ガンバローがあり、国会―永田町小学校前までの請願デモに移った。
 今後の行動提起は、次回、国会審議の山場と思われる五月二十六日に全国結集を行うことを呼びかけられ、確認された。

 昨年の二度の集会には、連合と党執行部の圧力をはねかえした社会党内勢力、そして社民連所属の田参院議員などの、左右を横断した結集があり、この二度の集会が社会党に与えた影響は大きなものがあった。
 昨年春、土井執行部への連合、政権構想研サイドからする強烈な圧力が、社会党の反PKO集会を中止させた。そして、この圧力は、土井執行部追い落しが全面化することと表裏一体の攻撃であった。
 だが、こうした連合と右派の圧力、攻撃に抗した各地区や各市民団体の運動に合流する形で秋の集会が準備され、その力は、社会党それ自身が無視しえないものとなった。
 社会党は昨年秋に集会をもち、また今度の五月十九日にも集会をもつことを決定している。総評センターの集会参加に対して、全電通が先頭になって反対し、その結果の妥協として集会日時が一週間遅らされたものである。連合は五月中旬に当面の政策方針――自衛隊承認・PKO協力を基本とする――を決定する予定をたてている。それ以前の社会党集会はごめんだということであろう。連合との一体化を優先する社会党田辺執行部は、公式的にはPKO法案への拒絶姿勢を貫く党内多数世論に配慮しつつも、内実では民社―連合との連携を探っている。五月十九日への集会延期は、社会党内のバランスが依然きわどく動揺していることを示しているといえるのである。
 五・二六集会のさらなる圧倒的成功こそが、連合からの攻勢への正面から対抗するものとなるのである。
五・二六に全国から結集を!

PKO法案修正論議を断ち切ろう

民社党の複雑な政治の背景 

 昨年の衆院強行採決への民衆の反発におそれをなした自公両党は参院での強行を断念し、かろうじて継続審議の形にもちこんだ。現行憲法体制に決定的な穴をあけてしまうPKO法案強行に対して、公明党が自信をもちきれず、また自民党も単独では強行しきれないということが背景にあった。
 全体的に、PKO法案強行を阻止したという安堵感がただよったのは無理もない。強行採決後の公明党内部の混乱は、自公での法案強行が不可能となったという感を抱かせたのだ。だが、公明党はその党利党略の観点に従って、自民党との連携、自衛隊海外派兵路線になんらの修正を加えることなく、再度のPKO法案強行路線のバイプレイヤーの役を買って出てきた。
ここには、PKO協力そのものになんらかの形で自衛隊を参画させる必要があるという連合と社会党田辺の発言が背景になっていたといっていい。当然にも民社党はPKO法案成立の急先鋒であり、連合は昨年の強行採決時において、民社のいう「国会事前承認」論に同調する構えを見せていたのである。
 こうした大枠において、PKO法案が再度公然と浮上する筋書きが描かれ、その修正論議がマスコミ全体を巻き込む形で流れを形成するに至った。
 社会党内での田辺の突出は党内論議で一定歯止めされてはいる。だが、総体の流れは、民社―連合―田辺ラインが自衛隊派遣問題での「転換」の舞台作りに積極的であることを踏まえて成立してきているのである。
 民社の路線が複雑なのも、こうした状況の反映である。民社は、自公民枠組みと自・民社・連合参議院の枠組みの双方を使いわけ、キャスティングボードを握ろうとし、さらに、連合参議院と社会党との連携関係を通じて社会党を舞台に引き込む役割をになってきた。こうした役割は、当然にも社会党田辺と連合が自衛隊問題での「転換」を準備していることなしには成立しえないものにほかならない。
 それゆえ民社は、自公民の枠組みの安易な成立に、「次々とハードルを高くする」ことで牽制を加え――例えばPKFにおける指揮権問題の国連委譲論など――社会党(田辺)・連合(山岸)の出番作りに配慮し、他方では自公民枠組みの可能性に言及するという「高等数学」をもてあそんでいるのだ。
 参議院東京地方選挙区での「軍国主義者」森田擁立問題は事態の象徴である。

社会党の「転換」への策動

 五月連休明けは、一斉に「修正案」形成への動きが激しくなるであろう。その焦点は、連合と社会党である。すなわち社会党はいかなる形で現在の修正論議に加わるのか、をめぐった動きが全面化していくことになる。
 四月三十日、公明党が発表した「最終方針」は民社の主張に大幅に譲歩したものであり、大内委員長は五月一日早速歓迎の意を表明した。
 公明党案は、PKF凍結に関して、自衛隊の後方支援活動を容認するものである。これはまさに自衛隊派遣の既成事実化を優先させる構想であり、「凍結」はまったくのインチキであることを示している。大内は公明党案を歓迎し、同時に自公民での枠組みでの法案成立の可能性をも示唆して、さらに連合参議院、社会党への圧力を加えようとしている。
 他方、非軍事協力という社会党の建前を崩す方策が進められている。その主役は連合の山岸であり、連合での多数決採択を辞さないという批判派労組へのどうかつの一方で、社会党内勢力との密接な連携プレーを進めている。
 連合サイド(田辺もおそらく同調しているだろう)が描くPKO法案の落しどころは、山岸が四月一日に行った記者会見での発言に示された。ここで山岸は、停戦監視団への参加容認を打ち出したのだ。
 要約すれば、停戦監視団への参加は無条件ではなく「自衛隊とは別組織とする」こと、「隊員の構成は非軍事、文民とすべきだが、現職自衛官の休職・出向は認める」、「派遣にあたっては国会承認が必要」と前提し、PKO参加の範囲は「PKF(平和維持軍)ではなく、停戦監視団にとどめる」と主張した。その上で山岸は与野党話合いで必要な修正を加えて成立させるべきだと明言したのだ。
 五月三日付け朝日新聞の憲法特集欄には次のような報道がなされている。昨年暮れと今年の二月の二回にわたって自民党の小沢と社会党の当選一回議員十数名との懇談が行われた。社会党からの参加は筒井信隆、堀込征雄らである。
 「国連の集団安全保障機能を重視する。小沢調査会の考え方は理解できる。でも、自衛隊をそのまま出すのは賛成できませんよ」
 「社会党も君らがいうように、自衛隊と別組織なら停戦監視団までいいとなったら、一緒にやったていいんだけどなあ」
 この懇談で社会党参加者の側は、「@自衛隊とは別に国連平和協力隊を常設し、災害救援やPKOに派遣するA待機隊と自衛隊は人事交流は可能にする」と主張した。
 以上の朝日の報道にもとづけば、山岸の四月一日の記者会見発言は、この「懇談」でのやりとりの文脈にピタッとはまるのである。自衛隊ではない別組織だが自衛隊と人事交流する組織というこうした発想は、実質的には自衛隊という姿、形を表面だけ変更するだけにほかならない。朝日報道は、名前を変えて、日本軍隊をPKO=PKFに派遣するという提案が社会党サイドから打ち出されたことを明らかにしたものなのである。
 連合内部での路線調整は、自治労が「現実路線」を打ち出し、自衛隊、安保条約の存在を認める方向への転換を明らかにしている。自治労の公的立場は「PKO法案廃案」である。だが執行部は昨年秋に行った組合員意識調査における自衛隊容認論が多数であるという結果(二月発表)を最大限に利用した方針転換を準備してきたのだ。
 昨年までの連合の「左右のまた裂き状態」の主役は自治労であり、日教組などの旧総評系労組の多数であった。その自治労の転換(五月連合方針決定に備えた)の意味は、総評センター解散決定という事態を見込んだ連合主流派への転身のための必要条件をつくることにあるのである。
 組合員意識調査の方法はすでに全電通などによって駆使されている方式である。設問の設定方法によって必要な多数見解を誘導することが一定程度可能なのだ。
総体の政治的上部構造を自衛隊容認、なんらかの形で日本軍隊の海外派兵実現にむけて誘導しようという流れが拡大している。国会における修正論議の本質は、まさに自社公民の枠組みでの日本軍の海外派兵論の形成に動いている。その具体的形態がいかなるものか、行くつく先がいかなるものか、政治的駆引きがさまざまくりひろげられるであろうが、修正論議の中に浮上している「抵抗政党から政権政党へ」という発想は、戦後革新の代表的担い手であった社会党の歴史的転換を表面化させるに違いないのである。

政治的上部構造の「金属疲労」を
打破する大衆的うねりを!

 こうした修正論議を断ち切らなければならない。公明党も民社党も、院内での取引、駆け引きにおいて、前回参院選での自党への選挙民の投票が反自民への投票であったことを忘れているかのようにふるまっている。反面、今後選挙民がいかに行動するかを恐れてもいる。彼らは、大衆が動くこと、意思表示を必要だと感じることを恐れ、まさに院内の取引で曖昧なままに事態を進行させようと腐心している。社会党の抵抗を恐れるゆえんでもある。連合は社会党を動かないように縛り上げる役割を果たしている。
 社会党はその行動によって、事態進行を止める可能性をもっている。
 世論調査はマスコミの誘導にもかかわらず、自衛隊派兵反対が多数であることを示しているのだ。
 朝日新聞の世論調査(四月二十六、二十七日実施)では、相当に意図的、誘導的設問にもかかわらず自衛隊のPKF参加承認は二〇%にとどまっている。
 政治的上部構造と民衆の政治感覚のずれは大きなものがある。自公民は院内多数派となる。だが民衆レベルにおいてPKO強行は少数である。
 五月からの一カ月、PKO法案廃案に全力をあげ、田辺執行部を大衆の力によって逆に縛り上げていく闘いを全国で広げよう。
    (五月三日)

大村書店 トロツキー・ライブラリー
「社会主義と市場経済」(藤井一行/志田昇訳 上島武解説)
  「トロツキーのネップ論」にふれて

                 織田  進


 ネップの意義

 大村書店から「社会主義と市場経済」が刊行された。
 この本は、一九二二年から二三年にかけて開かれた第四回コミンテルン大会及び第一二回ソ連共産党大会で、トロツキーが提案して採択された経済問題に関する決議とそのための報告演説を、上島武氏の適切な解説をつけて収録している。
 トロツキーの目的は、この時期にボリシェビキ政府の劇的な方向転換としてなされた新経済政策・ネップの意図とその基本的な戦略を明らかにすることにあった。ネップは敵からも味方からも「退却」と理解された。トロツキーは、この点について言う。
 「戦時共産主義すなわち包囲された要塞の経済生活を維持することを課題とする非常措置から、社会主義ヨーロッパの協力がない場合でさえ国の生産力が徐々に向上することを保証する措置のシステムに移行する必要が生じた。……これが、いわゆる新経済政策の起源である。それはしばしば退却と呼ばれ、われわれ自身もこれを退却と呼んでいる。……しかしこの退却の本質が一体どこにあるか正しく評価し、この退却が『降伏』とはほとんど似ても似つかぬものであることを理解するためには、われわれの現在の経済状態とその発展傾向をよく知ることが必要である」(二六頁)
 この簡潔な定式化から、次のことが分かる。
 戦時共産主義が、いわば「要塞の非常措置」であったこと、この要塞はヨーロッパの社会主義革命が救援に駆けつけるであろうことを確信しつつ包囲に立ち向かったこと、そのプロレタリアートの自己犠牲に支えられた「貧困の平等」が豊かな共産主義の共同体へ移行していくという幻想が存在したこと、したがってネップが退却であるという「一定の根拠」を持った理解は、ある種の幻滅をはらんだものであったろうということである。
 「包囲された要塞」の共同体が、一直線に社会主義に到達するという楽観的な展望には、ヨーロッパ社会主義革命という不可欠な環が組み込まれていた。だが、この環が欠落したのである。
 内戦の勝利によって戦術的な包囲はとかれたが、ヨーロッパ社会主義革命は長期間遅延するだろうことが明らかになった。資本主義から社会主義への過渡期を自力で生き延び、労働者国家の経済を将来の社会主義に向かって一歩でも近づけるために闘うという新しい課題にソビエト労働者国家は直面することとなった。
 新しい課題は、内戦期にはただプロレタリアート独裁の強権によって諸階級にいわば押しつけた国家の統一を、より安定した、自発的な協調に基づく国民としての統一に置き換えることである。このことは、なによりも新しい経済政策の成功によってはじめて実現できるのである。ネップは、この目的に奉仕する新しい経済政策である。それは、労働者国家の歴史の新しい段階が始まったことを示し、実際にこの時期に現実化した諸問題こそ、その後のソビエトを基本的に決定したといえるのである。
 トロツキーが、この局面においてネップの熱心な推進者、指導者であったことを、これらの演説や決議は雄弁に語っている。国家建設の環として設定された経済の実務的担い手としてはじめて直面した具体的な諸課題や理論的諸問題の数々に人々の注意を呼び寄せ、自ら解答を提起していくトロツキーの姿がそこにある。それは、内戦期の軍事指導者としてのそのかけがえのなさに決して劣るものではない。
 だが、トロツキーによってなされたこれらの問題の整理と簡明な解答にかえって触発される形で、ソ連崩壊という現実にふまえながらこの本を読まざるをえないわれわれには、いくつかの疑問が浮上してくるのである。ここでは、こうした疑問を列挙することによって、われわれのこれからの学習の方向を探ってみることとしたい。

 農民についての「階級的視点」

 最初に、農民と農業に関わる問題点をあげたい。
 トロツキーはネップがプロレタリアート独裁政権と農民の関係の修復を意図したものであるという。ネップに先行した内戦期において、ソビエト政府と農民との関係を規定したのは、次のような戦略であった。
 「都市と農村の大ブルジョアジーや中ブルジョアジーばかりでなく小ブルジョアジーにたいしても全面的に収奪をおこなったことは、経済上の合目的性からとられた措置ではなく、政治上の必要性からとられた措置であった。全世界で資本主義の支配が続いている状況のもとでは、ロシアの大ブルジョアジーばかりでなく小ブルジョアジーも労働者国家の安定性を信じようとせず、地主=ブルジョア反革命の予備軍となっていた。この反革命の抵抗を粉砕し、そのことによってソヴェト権力を守るには……動揺する農民大衆にたいして地主の復活と労働者国家とのいずれかを選択する必要をつきつけたそういう決定的かつ無慈悲な政策のみが労働者国家の勝利を保証した」(七六頁)
 「徴発」を主要な手段とした戦時共産主義の農業政策は、農民とプロレタリアート独裁との関係を極度に緊張をはらんだものとしたことを、トロツキーは率直に認めている。だが、戦時共産主義の農民政策が、都市と軍隊に食料と原料を供給するために軍事的強制による調達という最悪の手段に依存せざるをえなくなった原因は、いったい何であったか。トロツキーは、権力奪取の時点で一般的には良好であったソビエト政権と農民との関係が悪化していった理由について、ここでは詳細に説明していない。報告演説のある所では、保守的な共同体意識を利用しつつ農民を地主に売り渡したエスエルの裏切りがあげられており、別の所では国営工業・商業の立ち後れがプロレタリアート独裁に対する農民の不信の基盤になっていることを認めている。
 だが、果たしてこのような説明だけによって、ソビエト政権と農民の関係が敵対的性格を次第に増大させていったこと、あるいは少なくともその危険を取り除くことがきわめて困難になっていったことの原因が、明らかにできるであろうか。そこには、ソビエト政権自身の重大な政治的誤謬、あるいはその背景となった理論的誤りといったものは、なかったであろうか。ソビエト政権という要塞が結局生き延びる戦いに勝利したという事実は、ボリシェビキの初期の政策が、誤りのないものであったことを立証するに十分ではない。
 ソビエト政府は当初ボリシェビキと左翼エスエルの連立として出発した。戦争と講和をめぐる問題、憲法制定議会の解散などの諸問題を通じ、政策的な対立の激化の中で、この連立はまもなく崩壊し、ソビエト政権はボリシェビキの単独独裁へと純化した。この政治的過程が、農民とソビエト政権の関係を極度に緊張をはらんだものとしたことは無視できない。
 内戦の激化が強制した「徴発」政策は、そこに追い込まれていった背景を持っている。農民という階級が、もともとプロレタリアート独裁に対して本質的に敵対性を有しているというスターリニズムの観念は、なんら理論的根拠のないものであり、内戦の期間にくりかえし反乱を試みた白軍の多くが、農民に民衆的基盤をおいていたことも、歴史的経緯の中でとらえられるべきである。
 ソビエト政権が、農民というきわめて広大で危険な荒海に浮かぶ孤島のような存在となってしまったことは、その後の困難の本質的要因である。この意味で、このような過程が果たして回避しえない歴史的な必然であったかそうではなかったのかを検討することには、大きな意義が存在すると思われる。
 同じ慎重さで検討されるべき別の問題が、ネップの進展の中で明らかになってくる。それは、私的経営としての農民の経済的発展がプロレタリアート独裁にとって好ましいことか、そうでないのかという問題である。トロツキーはこの点において、決して手放しの楽観論者ではない。
 「もちろん、プロレタリアートと農民の同盟は、争う余地がなく全ての基礎である。しかし、農民から富農が成長することを忘れないようにしよう。われわれが協同組合を通じて農民の商品取引を支配しないならば、富農がそれを支配するであろう。だが、すでに富農はわれわれにとって友人ではなく、ソヴェトの諸階級の利益の調和に富農を入れることは決してできない」(一七六頁)
 だが、溪内謙氏の研究に詳しいように、農民を富農と貧農・雇農の階級的対立の構造として固定化してとらえる観点にどれだけの現実的な根拠と実際的利点が存在したのかは、きわめて疑問である。農民の階級的な保守性・後進性としてあげられた諸点は、同時に全国権力としてのソビエトに対する反革命的対抗の能力をも制限するものである。内戦後の保守的農民は、地方的な反動以上の政治勢力を構成しえない存在となっている。それにもかかわらず、農民の経済的発展に対して警戒する必要をこの時期に強調することは、内戦の教訓のもとで国営工業を担うプロレタリアートの奮闘を促す目的に発するものとして理解されるべきであるにせよ、過渡期の経済をどのような工・農関係の上に構築するのかという戦略上の観点が、不明なままで残されたという疑問を捨てきれない。
 工業の再建を急ぎ、農民に対する供給を増大させることだけが、社会主義の方向に農民を引き寄せる道であるというそれ自体きわめて正しい路線と対になって、農村階級闘争の「反富農主義・階級的観点」が存在した。この観点が歴史的現実に照らして適切なものであったか、果たしてそこに教条主義的な誤りが潜んでいなかったかを検討することは、依然として今日の課題である。
 
 私的経営と分業戦略

 第二は、工業と商業における、国営部門と私的部門との関係をめぐる問題である。
 トロツキーは、商業と家内工業におけるネップの効果が順調に進展していることは巨大な前進であると評価しながらも、そこに将来の国営工業の阻害要因に転化する危険が存在することを警告する。
 「もちろん、農業の復興と同様に家内工業の復興という事実は、巨大な意義を持つ肯定的な事実である。この基礎の上で、建設することができる。しかし、もしわれわれが立ち遅れるならば、この基礎の上で他の人々が――しかもわれわれに反対して――建設するであろう。手工業と家内工業とは、いったいなにか。それは、過去にわが国の資本主義が――少なくともその一部は――そこから発達した培養液である。……一方には、私的な商業資本があり、他方には、家内工業がある。両者の提携は、もしわれわれが工業と商業の仕事においてぼやぼやして立ち遅れるならば、われわれと全く反対の方向をめざすものになるであろう。これを農民の穀物市場が促進する。というのは、われわれが受動的で未熟な場合には、穀物市場もまた私的商業資本の、そして将来はあらゆる他の私的資本の発育のための培養液となりうるからである」(一〇〇頁)
 トロツキーがここで強調するのは、国営工業の対立者としての家内工業・商業の危険性であり、警戒心の堅持である。この立場は、単に当面の経済的課題に対する戦術的な判断に基づくのみならず、その前提には、社会主義は国営工業・それも重工業の中にこそあり、私的部門はそれに対する本質的な敵対性を育てるという原則的な理解があった。
 農民の中に深く根を張った農村家内工業は、ある意味では農民それ自身のあり方といえるものであり、農業発展の鍵を握る存在であった。それは、原料の供給と、生産物の購買という両方の面で、農民と深く結合していた。こうした歴史的存在としての農村家内工業は、一面では国営工業と農村市場をめぐって競合の関係に立つものであると共に、もう一面では国営工業を頂点とする国民経済の分業構造の大きな底辺をも構成し得る可能性をも有していた。
 家内工業を全国的な分業構造の豊かな底辺として組み込もうとするのか、それともこの「克服」を課題とするのかは、長期的な戦略として決定的に異なる。
 家内工業と農業との関連は、地方的農村のある程度中央から自立した閉鎖的な小宇宙として、自足的循環を成立させていた。中央の全国権力としてのソビエトには、比較的長期にわたってこの地方的分業と並存を承認し、それを重工業を頂点とする全国的分業構造の底辺に次第に取り込んでいこうとするか、それともその早期な「克服」によって、計画経済の単一分業構造に地方経済圏を包摂するのかという、いわば二つの戦略がありえたと思われる。だが、後者の道は実際には地方経済圏を内部から解体へ導くにはいたらず、外からの強制力によって敷設される以外にはなく、小工業・商業を内にふくんだ歴史的な農村共同体との全面的な対立を路線とするものに他ならなかった。
 スターリンの集団化政策とは、まさにそのようなものとしてあったのである。

 プロレタリアートの改革

 第三の問題は、プロレタリアートの問題である。
 プロレタリアートはソビエト権力の主体として想定されてきた。それは国営工業の担い手として、犠牲を払ってもこの新しい国家とその経済を自己のものとして獲得する存在であることが前提とされている。たしかに、この階級が文化的・技術的な後進性を克服することはこれからの大きな課題であるにしても、彼らが過酷な内戦に耐え抜いてこの権力を防衛した英雄的な戦闘力、とりわけボリシェビキに対する忠誠に示された政治的な先進性は、これらの弱点を十分に補うであろうと確信されていた。
 トロツキーは、ネップの中で生産性の向上のために工業の集中が必要であることを強調し、そのためにはプロレタリアートに犠牲を支払わせることをおそれてはならないと述べている。
 「われわれは、男女の労働者を解雇する必要性に直面している。これは、わが党がここ一年間で噛み砕かなければならない堅い、非常に堅いクルミの殻である。しかしながら、それを回避してはいけない。なぜならば、労働者階級全体とその党が、たんに公然たる失業の運命を男女の労働者に負わせないために、失業を隠しているとすれば、すなわち、かろうじて働いている労働者、半分働いている労働者、三分の一働いている労働者の余剰人員を工場で扶養しているとすれば、それは労働者階級全体とその党の最大の怯懦であろうからである。隠された失業が社会保障の最も劣悪で、最も効果の少ない、最も高くつく形態であることには何の疑いもない」(一一七頁)
 プロレタリアートには、新しい戦場が与えられたのである。彼らはもはや、敵を撃つ代わりに、ねばり強く働き、自分と家族と国家を養っていく日常を積み重ねていかなければならない。その「平和」な日常の中で、プロレタリアートがどのように勤勉で向上心に富む階級であるかによって、国家の新しい戦場である経済の成否が決まるのである。全ソビエトのプロレタリアートが、そのような戦線に十分に勝利できる存在になっていくためには、しかもその先進的な一部のみならず全体としてのプロレタリアートがそうなるためには、現にある文化的・技術的な後進性に対する闘い、自らを改革していく闘いを広く組織していく必要がある。だが、このような闘いが真に自発的でなければ、永続的な前進はおぼつかない。このような自発的な闘いにプロレタリアートを全体として引き込んでいくための政策、いわば労働政策が求められているという点からみるときには、引用したトロツキーの指摘だけでは、問題の解決に不十分であるといわなければならない。
 プロレタリアートに自ら行使できるどのような具体的な権利を与えるのかということが問題である。プロレタリアートの大衆がよりよい条件を求めて自らの労働の機会を選択できる権利をどのようにして保証していくのかということが追求されなければならない。なぜなら、それはプロレタリアートの勤勉と向上には報酬があることを制度的に明らかにすることによって、彼らが自らその後進性に闘いを挑むいわば内的な動機を与えられることを意味したからである。
 プロレタリアートに対する英雄的な戦闘を期待することと、彼らが文化的・技術的により先進的な階級となるために自ら闘うための日常的な「刺激」をシステムとして保証することとは、決して矛盾することではなかったであろう。労働の「自由」こそは、官僚主義的なあらゆる罪悪を罰する最も効果的な保証であったはずである。労働に「自由」があることは、決して自動的に資本の自由があることを意味しない。
 プロレタリアートを権力の主体と規定したことの反面、いわば労働政策とでもいうべきものが存在しなかったことは、国有計画経済の本質にふれてくる問題として、決して無視しえない点である。今世紀のすべての労働者国家の国有計画経済が、例外なく労働の自由の剥奪の上にはじめて成立しえていたことを、われわれは問題とするのでなければならない。

 市場を通じた学習

 第四に、国有計画経済と市場の問題である。
 トロツキーにとって、市場の導入は一時的な退却ではあったが、それを通じて二歩も三歩も前進しようとするきわめて積極的な「退却」であった。それは、一面においては農民その他の私的経営に対する妥協であるが、他方で計画主体としての国家と国有企業の経営の担い手が自らを強固に確立するために、その位置を正確に知るための学習の方法でもあった。
 「それぞれの企業が単一の計画的に機能する社会主義的有機体を構成する細胞になるためには、多年にわたる市場的な経営の大規模な過渡的活動が必要である。そしてこの過渡期間にそれぞれの企業とそれぞれの企業グループは多かれ少なかれ、市場のなかで独立の地位をしめ、市場を通じて自己を点検しなければならない。まさにここに新経済政策の意味がある。農民にたいする譲歩としての新経済政策の意義が政治的には前面に押し出されたけれども、資本主義経済から社会主義経済への過渡期における国営工業の発達の不可避的な段階としての新経済政策の意義は決してこれに劣るものではない」(三二頁)
 だが、市場から学ぶということは、どのようなことか。労働力の自由な市場が存在しない場合に、市場はどのような学習の機会を経営主体に提供しうるであろうか。
 「市場では、国営企業が相互に競争しなければならず、部分的には、私企業と競争しなければならない。……このようにして初めて国有化された企業はしかるべきやり方で働くことを学ぶのである。……必要なのは、それぞれの国営工場、その技術担当重役、営業担当重役が上からの、つまり国家機関からの統制にしたがうばかりでなく、同時に下からの、つまりまだ長期間にわたって国家経済の規制者としてとどまる市場による統制にしたがうということである」(三三頁)
 学習にとって常に問題となるのは、動機である。同一の結果からでさえ、動機の相違に応じて異なった教訓が習得されることになる。市場は経済行為の成功や不成功を具体的な数字によって示すであろう。だが、一見明白な数字も、そこから何を学ぶかということでは、常に同じ結論に到達させるとは限らない。
 国営工場の重役たちが、実際に最も恐れたのは、「上からの統制」に他ならなかった。むしろ、それ以外に恐れるべきものは存在しなかったといっても良い。市場の現実は、それを党が、党の指導部が恐れる度合いで恐れるにすぎなかった。彼らには自ら雇用する労働者を恐れる必要もなかった。
 トロツキーのいうような二重の統制は、この国有計画経済においてはほとんど存在しなかった。統制は、もっぱら上から、すなわち党からのみ行われた。従ってこれらの重役たち、あるいは国有計画経済の経営的主体にとっては、学習はもっぱら党を対象として、党の方向に向かって行われたといわなければならない。そして党こそは、市場の論理から最も遠い存在であったのである。
 市場を通じて学習せしめるという考え方は、自然な考え方である。だが、そこにも前提が必要となる。それは、経済に対する党の介入が最小に抑制されるということ、経営の主体はその経営結果に応じて処遇され、それ以外の理由で手荒い扱いを受けるようなことはないのだという信頼が、体制に対して確保されていることが必要である。しかし、ソビエトの現実では、肝心のそのことこそ最も欠けていたことなのである。
 トロツキーは端的にいう。
 「われわれは経済の指導について余りにも一般的に語っている。しかし、経済の指導とは、何よりもまず計画作成、すなわち予見と調整ではないか。計画以外の他の方法は存在しない。……すなわち、一方では市場の条件のもとでの予見と調整であり、他方では安定した消費者である国家のために働くことである」(一四一頁)
 予見と調整、計画と修正、これらはきわめて大きな困難を含む作業であるに違いない。経済が発展すればするほど、これらの作業はその透明度を小さくし、逆に全体への依存度を大きくする。自らの作業の結果を知ることなしには、その習熟がありえない。だが、市場を通じた予見と調整は、計画そのものの有効性を立証するとは限らない。計画の手法が本質的に有効であるとの前提は、資本主義批判の理論的核心であった。いいかえれば、国有計画経済が市場経済の論理を超えた自由な発展を経済にもたらすものであるとの確信は、市場による検証以前の所に存在したのである。したがって、市場を通じて明らかにされた計画の欠陥は、計画の当事者や、その実行の当事者の欠陥に容易に置き換えられることとなった。
 だが、そのような判断を下し得るもの、すなわち市場の現実を政治の言葉に置き換え得るものは、党であり、ただ党のみである。こうした社会において、市場から学ぶということは、その言葉通りの意味を持ちえなかったといわなければならない。

 経済と国家

 こうした疑問から、われわれは、労働者国家における経済とは何かといういっそう本質的な疑問に突き当たる。
ロシア革命が引き受けなければならなかった経済的課題とは、ヨーロッパとアメリカの資本主義諸国がすでに達成した歴史的課題・工業に基礎をおく近代的な国民経済をソビエト連邦の国境の内側に建設するという課題を、しかもブルジョアジーを排除した国家において、プロレタリアート階級の政党の指導のもとでいかに達成するのかということであった。
 プロレタリアート独裁がこの歴史的課題に遅れて挑戦することとなったとき、彼らが手にした最大の武器は、その「国家権力」であった。
 「市場にもとづく経済闘争におけるわれわれの最も重要な手段は国家権力である。改良主義者の間抜けだけが、この武器の意義を理解することができない。ブルジョアジーは、このことをよく理解している。ブルジョアジーの歴史全体がこのことを証明している。
 プロレタリアートの握っているいまひとつの武器は、国の最も重要な生産力である。つまり鉄道輸送の全体と、鉱業の全体と、製造業の企業の圧倒的多数が労働者階級の直接的な経済管理のもとにおかれている。
 また、労働者国家は土地を所有している。……
 労働者の権力は国境を握っている。外国の商品や資本は一般に、労働者国家が望ましく許されると認めた範囲で、わが国への入場許可を得ることができるのである。
 以上が社会主義建設の武器ならびに手段である」(三六頁)
 だが、この「国家権力」が国民経済への支配階級の介入の武器となるということは、単に経済外的強制の手段を意味するわけではなかった。国家は経済に介入する多様な手段を持っていた。このことは、第一次大戦・第二次世界大戦を戦った資本主義諸国が共通して直面し、それぞれの解答を見いだしていった問題でもあった。
 市場を前提としたとしても、すなわち国有企業の運営と指導という直接的な手段としなくても、国家は同時に租税と財政と金融という手段を通じて、それを運営することができた。現実にソ連邦が、その国有計画経済を構築する歴史的な試練に挑戦している同じ時期に、ヨーロッパとアメリカは、国家を新たな経済的手段とする市場経済の再編によって、その歴史的な危機を克服しようとする努力を開始していったのである。
 ソ連がその歴史的課題を解決していった同じ期間に、資本主義諸国もその歴史的な危機を生き延びようとする闘争を展開していった。そして、その両者ともに、鍵を握っていたのは、経済に介入する国家の役割であった。両者ともに、国家は経済における計画当事者として現れた。ソ連経済のみならず、資本主義経済においても、国家は最大の経済主体であったのである。
 トロツキーは言う。
 「社会主義のもとでは、経済は中央集権的に管理されるだろう。したがって、個々の部門間に必要な均衡は、厳密に釣合のとれた計画によって達成されるだろう。そして、もちろん、その諸部門には、大幅な自治が認められるだろう。しかし、この自治は全国的統制に、つづいて国際的な統制に服するであろう」(二二頁)
だが、ここに描かれた成功した計画経済のイメージは、ソ連官僚が、まさにそれを実現すると称して、彼らの方法で努力してきたものに他ならない。だが、果たして社会主義は、成功した計画経済なのであろうか。
 ソ連の崩壊は、国有計画経済の敗北に他ならない。たしかにそれを、官僚的手法によるものとして、真に社会主義的な計画経済をそれとは区別することもあらかじめ否定されるわけではない。だが、そのことにも証明が必要なのであって、トロツキーやマルクスの主張が、スターリンの現実に行ったことと違っていることを証明することで、十分とする訳にはいかないのである。
 社会主義とはどのような社会なのか、その経済的基礎とは何か。
 われわれは未だその問いの答えを見いだしてはいない。

第63回メーデー
全労協系、日比谷野音に二万人

 五月一日、前夜までの風雨がきれいに上がった絶好のデモ日和。日比谷野音には会場内外を埋めつくす二万人が結集した。立ち並ぶ赤旗のもと、連合路線反対やPKO法案粉砕を書いたゼッケンやプラカードが目だつ。国労、都労連などの実行委員会が主催した今年の日比谷メーデーは、四年目を迎え、代々木公園の連合メーデー、亀戸の全労連メーデーと競った、闘う労働組合の独自のメーデーとしての位置が定着してきた印象を与えるものだった。
 連合メーデーがデモ行進という名をやめパレードに改めたというが、日比谷メーデーには、断固として労働者の祭典を継続するという意思が表明されていた。
式典は、東京地評副議長の細岡さんの開会宣言、都高教と中小連絡会代表の議長団、主催者あいさつが国労東京地本の高橋委員長と進んだ。連帯あいさつとして矢沢都労連委員長、社会党を代表した高沢寅男副委員長らのあいさつとならんで、昨年から反PKO運動を全労協系労組と協同して進めてきた日市連代表や外国人労働者からの発言があり、自衛隊海外派兵論に傾斜する連合路線との鮮明な対比を示していた。
 メーデーアピールを採択したのち常盤橋と土橋の二コース三グループにわかれてデモ行進が行われた。

西ヨーロッパ選挙結果から
変革なしの改革か
インターナショナル・ビューポイント誌二二七号(4月27日)

 世界が変化しつつあるときに、いかにすればわれわれの権力と特権を維持できるのか――これこそが西ヨーロッパ諸国で行われた一連の選挙において、当該国の政治的、経済的な既成秩序機構の支配者たちが中心問題とした点である。イギリスとイタリアの国会選挙、フランスとドイツの地方自治体選挙――この四つの選挙で、投票は話題とされていた背景とは異なって行われた。つまり、一方では政治機構と選挙制度の改革、他方では強力な政府あるいは新しい中心による勢力再編などが議論されたが、これらすべては、どんな改革が行われたとしても既存の権力構造を手つかずのままに残す手段として考えられたものであった。
 同時に、東欧諸国の経済破産、西側の長引く失業、大部分の第三世界諸国で持続する経済的、社会的荒廃、アメリカ、ヨーロッパ、日本三極間の貿易摩擦拡大による長期経済展望の危機といった大問題はまったく議論されなかった。
 不幸なことに労働運動に基礎をおく諸政党は、政府に入る、あるいは政権を維持するという願望にかられ、「現在の安定」を維持するための信頼にたるパートナーとして登場し、根本的な諸問題を無視する陰謀に加担した。左翼諸政党が当然の義務を果たさなかった代償の一部は、外国人嫌い・反既成秩序の言辞を弄する極右勢力の大幅な台頭であった。

イタリア
戦後体制の崩壊が始まった

 一九九二年四月五日の選挙結果は、他の西ヨーロッパでの選挙と同様の傾向を明らかにした。左翼は後退し、他方、右翼はそれなりに勢力を拡大し、その分だけ伝統的な中道諸政党が勢力を失った。
 他の国の選挙よりも一つはっきりした傾向は、分断化の増大である。選挙前の政権多数勢力が敗北したのであったとしても、それに代わる勢力は存在していなかったのである。
 左翼は、一九八七年の下院選挙では三〇・八%の得票率であったが、今回はわずか二六・四%にすぎなかった。しかも左翼内部の対立は尖鋭化している。地方自治体の選挙結果に比較すると、総選挙での後退はさらにはっきりする。両方の選挙結果から左翼全体の得票から、その有力な指導者がパレルモ市長(前キリスト教民主党)とトリノ市長(前共産党)である新しく形成された、その内部が相当に不均質な「ネットワーク」の得票を除くと、左翼の後退ぶりがさらにはっきりする。
 前のイタリア共産党(PCI)から誕生した左翼民主党(PDS、下院一〇七、上院一〇〇議席を獲得)は、一九八七年の得票に比較して一〇・五%減、一九九〇年の得票に比較して七%減となった。緑の党(下院一六、上院四議席を獲得)もかなり後退した。一九八七年の得票数に比べれば少々増やしたが、一九九〇年に対しては明らかに後退した。
 左翼にとって最も積極的な意味をもつ結果は、共産党再建派(PRC)の得票である。下院で五・六%(三五議席)、上院で六・五%(二〇議席)の得票率であった。この党は、旧共産党の得票の一部や前民主プロレタリア(DP)の得票の大部分を獲得したのみならず、これまでは棄権していた左翼有権者の票をも獲得したのであった。
 開票結果が明らかになったとき、すべての人は、誰が統治することになるのか、を問うた。状況ははるかに微妙であり、上下両院が七月に会議を開き、共和国の新大統領を選出することになる。この選出の意味は大きい。というのは、この間のコシガ大統領の動きからすると、大統領の政治的な位置、意味が大きくなっているからである。
 予測は困難である。大々的な策略が進行中であり、その結果がどうなるか誰にも分からない。しかし、当面は一つのシナリオがもっともらしく見える。すなわち、選挙制度の変更を支持する多数派が形成され、その多数派が新しい比例配分制ではない選挙をすぐに行い、より安定した政府を形成するというものである。
 だが、こうした計画は、様々なレベルでの衝突や争いなくしては実現されない。現在の社会情勢は安定からは程遠く、イタリアが経験しつつある状況に関する予測される結論は、政治的不安定の増大である。
(インターナショナル・ビューポイント誌4月27日号)

フランス統一地方選挙結果から
代議制の危機
  フランシス・シテル

 
一九六八年に回帰する社会党

 一九九二年三月二十二日と二十九日に行われた統一地方選挙は、フランス政治を大きく揺るがした。フランソワ・ミッテラン大統領の与党、社会党(PS)はわずか一八%しか得票せず、大敗し、その結果、首相がクレッソンから蔵相のピエール・ベレゴボワに交替することになった。

 社会党は敗北する運命にあった。ルモンド紙(三月三十一日付)は「支配の十一年間、そして政府に入っていた九年間に、社会党左派の基盤は疲弊した。その後退の速度はこの間、上がってきた」と書いた。有権者のみならず社会党活動家自体もそっぽを向き始めた。
 何が起きているのかを知っていたミッテラン大統領は、自らの党と一定の距離をとることによって権力を保持できるような計画を採用した。彼の考えは、社会党がその構成要素の一つでしかない大統領多数派というものであり、それはミッテラン個人に多くを負い、きらびやかな、そしてうさん臭い大金持ちベルナール・タピーのような左右両派どっちつかずの存在で、右翼からほんの少し距離をおき、ミッテラン政権の閣僚が行ってきた「ジェネラシオン・エコロジー(環境世代)」(緑の党とは別の環境保護派)によって準備されてきたエコロジー運動に依拠しようとするものである。
 地方選挙は、フランスの他の大部分の選挙の多数決定の方法とは違って、比例制をとっている。つまり、地方選挙の方が選挙民の現実の姿をより適切に表現するのである。このことは、右翼の側では、極右の国民戦線(NF)が既成右翼(野党)の共和国連合(RPR)とフランス民主連合(UDF)にとっては新右翼多数派を形成する潜在的なパートナーではあるが、ここしばらくはそうなりえない勢力であることを意味する。左翼の側では、エコロジー勢力が重要な全国的な存在となり、大統領に策略のための一定の余地を与えた。
 この選挙に関するすべての予測は、高い棄権率を前提にしていた。しかし実際には六八・七%の投票率となり、この種の選挙での記録となった。このことは、選挙結果、とりわけ社会党の大幅な後退を低い投票率で説明しようとする選挙前の試みを不可能にした。社会党の地方選挙での一八・三%の得票率は一九八六年の地方選挙に比較して一一ポイントの減少であり、一九八九年の欧州議会選挙と比較すると五ポイントの後退であり、支配地域は三からわずか一に減少した。
 社会党はこの十年間、自らを労働運動全体の再編成と進歩勢力全体の再編成との新しい結集の中心点として位置づけ行動してきたが、ミッテランが小政党を掘り起こし自らの基盤とした一九六八年と同じ状況に回帰していることを知らされている。もはや権力を行使する当然の権利をもっているふりもできない。自らの可能性を使い果たしたのであり、その役割は軽視されざるをえない。これがローラン・ファビウスを党の新指導者に選出した意味である。この「党再生者」は、労働運動を党の存在基準とする面を薄め、国民戦線を恐れるがゆえに結集するであろう中道派連合に受け入れられるパートナーとして党を登場させることである。この事業は決して成功を保障しないのであるが。
 伝統的右翼は、社会党の大幅な後退から利益をあげると考えられたのだが、そうはならなかった。RPR―UDFの保守連合の得票率は三三%で、一九八六年の選挙に比較して八ポイントの減であった。保守連合が絶対多数を掌握した自治体は、八から三に減少した。保守連合の自治体長は、基盤が不安定となり、多くの場合、国民戦線からの圧力にさらされている。
 他方、フランス共産党(PCF)は、体制に対する唯一の「左翼の側からする野党」として登場した。八%の得票率は、同党の衰退傾向が止まったように見えるが、それ以上ではない。したがって同党の内部危機は継続するだろう。
 ルペンのネオファシスト、国民戦線は、望んだものすべてをえたわけではない。とりわけ得票率は一五%を越えなかった。選挙期間中に反ルペンの大衆動員が精力的に行われ、それが相当程度に反ルペンの傾向を増大させたのは明らかである。
 だが、喜ぶには速すぎる。選挙での投票は党に対してであって、ルペン個人が投票対象だったのではない。国民戦線は、地方自治体議員が一九八六年選挙の一三七人に対して二三九に増えたのである。しかも、これまでの選挙ではルペンは、相当程度に有名であるが信頼できない人物を候補者に押し立ててきたが、今回ははっきりした党員を候補者にしたのであった。国民戦線は今や、PRPに次ぐUDFよりも大きな第二の右翼政党なのである。そして三つの中心的な地域の政治構造全体において第二の政治勢力になった。
 
分裂した環境保護派の投票

 この選挙で緑の得票が伸びるであろうと予測されたので、クレッソン政府の環境相は、ジェネラシオン・エコロジー(GE、環境世代)を結成し、左翼でもなく右翼でもない立場をとる既成の緑の党の票の一部と獲得する目的で、立候補させた。このねらいが成功し、GEの得票率が七・一%、緑の党が六・八%となった。こうして地方自治体の議員となった環境派は、多くのものが未経験であり、複雑で矛盾した圧力にさらされることになった。南西部では国民戦線と同盟するUDFの指導者を長に選ぶよう投票し、他方、北部では緑の党が長に選出された。GE全国指導部は、現政府にはいるかどうか迷っていた。この新しい勢力は急速に危機を迎えるだろう。
 環境保護派の得票は、基本的に左翼側有権者の大部分の国民戦線にも、そして社会党政府にも反対したいという二重の願望を表現したものである。この投票行為は、国民戦線への投票とあいまって、現存機構に批判的な諸政党へ投票する傾向の増大を表している。このことを表現している、もう一つの兆候は、その意義はそれほど大きくないが、社会党や共産党内部の批判派の候補者が自らの組織力に頼れない地域で一定の成功を収めたという事実である。
 共産党から離反した再建派として知られる潮流は、民主社会主義オルタナティブ(ADS)を結成した。有名な候補者を立候補したいくつかの地域では、共産党の公式候補を破り、地方議員の座を獲得した。社会党の批判派は違った傾向を示した。彼らはもともt、特定の潮流を候補者群から排除しようとする党中央の動きの反発から立候補したのであり、政治的には様々な傾向があった。全般的に彼らはかなり得票し、議員となることもあった。
 また、注目に値するのはトロツキスト組織「労働者の闘争」であり、従来からの一%から二%の得票率を維持し、革命的共産主義者同盟(LCR、第四インターナショナルフランス支部)の支持を受けた地域では相当の成績を収めた。両者ともに、大労働者政党がこれまでの基本線を放棄することに反対して共産主義の展望を擁護する組織である。
 選挙後は、危機が尖鋭化していくだろう。首相の後退はこの表現の一つである。不人気なクレッソンの代わりにEC委員長、ジャック・ドロールを首相にすることができなかった事態の修復を試みた。強力な人物、ブレゴボワの背後に忠実な人物を集め、社会党指導者、ファビウスの何人かのライバルを排除し、そしてタピーの参加を大きく宣伝した。
 一九九三年の国民議会選挙が近づいている中で、政治構造全体の分解と再編の局面が始まっているという認識ですべての人が一致している。
(インターナショナル・ビューポイント誌4月27日号)

イギリス 労働党の敗北
新現実主義の総崩れ


闘いの大幅な減少

 ニール・キノック労働党委員長が九年間にわたって展開してきた党の右翼的な改革は、四月九日の国会選挙での劇的な敗北に結果した。労働党の勝利が望める選挙であったが、保守党が二一議席の差で勝利を収めた。この結果はすべての人に衝撃であった。保守党自身、敗北間違いなしと考えていた。投票前まで証券市場は大きく下落していた。開票後、投機者たちは文字どおり大喜びであった。
 一九八〇年代における労働党と労働組合指導部の役割は、重要なストライキ、特に一九八四―八五年の炭鉱ストを敗北させ、労働者運動全体を破局的なまでに弱体化させ、反労組法の効果をあげることであった。
 労働党指導部の新現実主義者たちは、実際には労働党に対する支持が最大であったのが八〇年代のストの波が持続していた時であるのに、ストライキを選挙に対する重荷になるとした。その現実の結果は、労働組合員が四〇〇万人も減少し、闘いが極端に減少したことである。数万の活動家が労働党を離れた。
 こうした事態にもかかわらず、労働者階級は、闘争能力を保持し続け、サッチャーが導入した人頭税にも積極的な闘いを展開した。しかし、この闘いにおいても労働党指導部は、税の支払い拒否闘争に反対した。こうして数百万の若い人々、貧しい人々、抑圧された人々――一度も労働組合に加入したことのない人々は、労働党指導部を自らの問題を解決するために頼れるところとは考えなくなった。
 労働党が今回の選挙に勝利する可能性はあった。しかし可能性を現実のものとするためには、より一貫した、支持者たちを激励し、保守党を引き裂くにたる綱領をもって攻勢をかける必要があったのである。
 労働党の得票が大幅に増大した選挙区は、景気後退と保守党の攻撃から最も打撃を受けていた地域であった。保守党から労働党に議席が移ったのは、北西部、ミッドランド、ロンドンなどの地域であり、ここではいずれも景気後退、失業、貧困、社会保障の削減にひどく打撃を受けていた。
 バーミンガム・フィールドとセリー・オークでの労働党の勝利は、ロングブリッジ自動車工場労働者がこの産業破壊攻撃に直面して彼らが労働党に向かったことを示していた。ノッチンガムの炭鉱地帯では、現地の炭鉱業に対する猛烈な攻撃のおかげで労働党が勝利したのであった。
 強力な左派の選挙運動が行われた大部分の地域では、労働党の候補者は比較的良好な結果をえた。左派の指導者、ジェレミー・コービン、デニス・スキナー、バーニー・グラントは平均以上の成績を収めた。
 同時に党内左派、ミリタント派と結託したとして党から追放された前の議員、テリー・フィールズとデイブ・ネリストは、立派な得票であった。スコットランドのミリタント労働党候補は、グラスゴー選挙区で大幅な得票をし、保守党候補を第三位に追いやった。
 誰もが認めるように、保守党の選挙活動は貧弱であった。同党は、不況のただなかで、ぞっとするような長期政権の記録を保っていた。しかし、それでも労働党の選挙綱領の矛盾点を攻撃することはできた。そして、自党の諸政策をまっとうに提起し、有権者を分極化した。
 保守党は政権を維持したが、サッチャーが一九八七年に直面した以上に深刻な不況の中でのことである。この危機を労働者階級の犠牲の上に解決しようとしている。
 労働党運動総体の内部、特に新現実主義者が支配する労働組合の内部で、最もありそうな反応は、悲観主義と分散化であろう。攻撃にさらされる労働者は、社会の力関係がこれまで以上に悪くなったと感じざるをえないであろう。
 事態が長期的にみて、どのように展開するか、まだ十分には明らかではない。労働現場での経営者の攻撃はこの二年間、速度が速まっている。組合解体と結合した参加の様々なやり方、団体交渉権の喪失、個人契約の導入などが産業全体で拡大している。労働条件は悪化し、労働速度が上がり、労働組合の権利が失われている。
 こうした事態に対する反応は、最も困難な条件下で、保守党政権の存続という条件下で現れるだろう。現在、これ以外に道はない。労働党政権の出現を期待する展望は望み薄である。攻撃を受ける人々は、闘うののか、それとも屈するのか、どちらかしかない。

連立に向かう指導部

 敗北の結果、労働党指導部は深刻な危機に陥った。開票から三日後、ニール・キノックは委員長を辞任した。後任の候補者は、ジョン・シミスとブライアン・グールドの二人であり、両者ともキノックと同様に右派である。前者のほうに勝利の可能性があるが、より右である。ジョン・シミスの選挙結果に関する総括は、キノックの右転換が不十分だったというものだろう。選挙制度改革を支持するであろうが、それは制度をきれいにするというよりもむしろ、連立政府に向かうためである。
 すでに社会的な変化によって、大衆的な多数派を形成する基盤としては労働者階級だけでは不十分で、労働党が再び政権をとるのが不可能になったとの主張がなされ始めている。この主張は左翼の側の反響を呼んでいるが、反論していかなければならない。
 単に事実問題としても、これは真実ではない。イギリスは圧倒的な労働者階級の国であり続けている。最近の調査では、少なくとも八〇%が自らを労働者階級に属すると認めている。いくつかの内陸選挙区では、中産階級有権者の流入があり、高家賃のため従来から居住していた労働者階級が追い出されている。こうした地域的な変化は、選挙全体の結果には部分的な影響しか与えていない。
 左派は、こうした議論と親連立方針に反対し、自らの課題を闘いにしていかなければならない。労働党議員団の左派キャンペーングループが党の指導部選挙に立候補するかどうかは、まだ明らかではない。
 このグループが指導部選挙に挑戦することは、運動を結合し、選挙の敗北に関する左派の主張を前面に押し出していくのに、非常に重要な役割を果たすであろう。
 しかし、指導部選挙に立候補するためには、五五人の議員の推薦が必要であり、これはこのグループにはとても難しい。選挙改革を論じつつも、これを連立方針反対を含めて将来の戦闘的な選挙綱領の一部として提出していかなければならない。
(インターナショナル・ビューポイント誌4月27日号抄訳)