1992年6月10日           労働者の力              第34号
参議院選挙に対する基本的態度


PKO法案反対の候補、政党への投票を呼びかける

            

 PKO国会は会期延長、同日選挙可能性を含みみつつ七月の参院選挙につながっていく。衆参同日選挙があろうとなかろうと、今回の参院選挙は、自公民三党の結託した自衛隊海外派兵、現行憲法蹂躙のPKO協力法案の承認、否認の態度を表現する選挙の位置を与えられる。議会制民主主義がもつ欠陥の一つをさらけ出したというべきは、公民両党の自衛隊派兵強行方針への転換である。現国会勢力分布を確定した一連の選挙において、公民両党は自衛隊海外派兵論の一文字も口にしなかった。これは、明らかに両党およびその候補に投票した有権者への背信行為、裏切りそのものであろう。

ガラス細工法案の矛盾を隠ぺいするための強行採決

 こうした裏切りによって、まさに党利党略によって日本国家の進路の全面的転換がなされんとしているのである。
 また同時に、日本における代議制民主主義は議会制であり、選挙がなんらかの法案の是非を直接に問うものではないことも事実であるが、疑似的にそうした位置を与えられたことが過去にも、消費税などの場合に示されてきた。
 今回の参院選挙は自公民が強行するPKO法案を承認するか否かの判定材料として使われるのは必然である。来るべき参院選はPKO法案、すなわち自衛隊海外派兵法案に対する圧倒的な反対の声が完全に明確なものとして表現されていくことが核心点にならなければならない。
 自公民三党のブロックが成立した。自衛隊海外派兵の突破口の役をになった、PKO協力法案を成立させるためのなりふりかまわぬ共同修正案が提出された。
 社会党はその廃案と、田辺によればより良い合意案形成のためにという幅をもって闘いぬく方針を固めた。連合参議院は民社と社会の中間にあって、独自の修正案を提出するという苦しまぎれの策に訴えた。
 自公民三党は六月五日未明、社会党の角田委員の保留質問開始に先だって質疑打ち切り動議を出し、怒号の中、特別委員会強行採決に踏み切った。この三党は、事前に公言していた民主的手続きに従って「粛々と審議を行う」、強行採決は行わないという方針を変更せざるをえなかったのである。
 角田委員の質問が急造・ガラス細工の共同修正案の弱点を鋭く突き、提案三党は角田委員の質問継続をなんとしても避けたいというところに追い込まれたのである。
 角田委員の質問と回答要求は、第一には「七日以内の国会承認」というPKO派遣に関して、国会での承認条項が立方府を行政府がしばるものだということ、第二には国連平和維持隊の法的定義の要求であり、自公民三党は回答にいきづまり、立ち往生を続けた。当初の四日夕刻までの委員会採決の目論見はあっさりと打ち砕かれたのだ。三党は前者については、かろうじて「努力規定」であると強弁したが、後者については回答しえず強行採決で回避する方法以外に道を見いだせなかった。
 すなわち公明・民社両党は自ら提出した修正案の弱点追求を回避するためにこそ、強行採決に同調したのだ。

社会党の闘いを引き出した市民と労働者の闘い

 五日未明の委員会強行採決は、国会につめかけ徹夜で審議を見守り、抗議する市民団体や労働組合の怒りを倍増させただけでない。社会党議員団の怒りとエネルギーを爆発的なものへと高めた。
 本会議は、六日一日での法案通過を見込んだ自公民三党の思惑を完璧に吹き飛ばす、社会党、共産党などによる問責動議提出と史上空前の「牛歩」国会を出現させた。十一時間におよんだ議運委員長問責決議案採択は、牛歩戦術に関する従来の概念を一変させるものであったといって過言ではなかった。
 完全議場閉鎖にあって十一時間禁足を強いられた自公民は顔色を失った。牛歩を貫徹した社共などの議員にはなんとしてもこの法案の通過を最大限遅らせる決意があふれていた。
 三宅坂の社会文化会館で緊急開催された法案廃案全国実行委員会集会には、会場内には超満員の一千二百人が詰めかけ、会場に入りきれず外で臨時に集会をもった人々を合わせて全体で約二千人が結集した。参院議員面会所への誓願デモが雨の中、延々と続いた。
 社会党、共産党、そして連合参議院も部分的に巻き込んだによる牛歩戦術の貫徹は、おそくとも八日月曜日中の法案採決という自公民がもくろんだスケジュールも粉砕した。参院採択は九日にならざるをえなかった。
 こうして自公民三党が、衆院での法案採択のめどとした十二日は吹き飛んだといっていい。次は衆院での闘いである。社会党、共産党の闘い方いかんでは会期延長が避けられことになるだろうし、この憲法違反法案の廃案の展望もゼロとはいえない状態である。
 一部社会党田辺執行部が模索していると伝えられる様々な駆け引き、取り引きの余地も当然残されている。また、牛歩戦術にも限界がある。議長職権という最後の、非常対抗手段が残されてもいる。しかし、牛歩は歴史的に認知されてきた反対党の抵抗手段だが、議長職権による強行は議会ルールを崩壊させる性質のものだ。この方式に訴えるのであれば、その後の議事の停止は避けられまい。
 自公民三党は反対党を押し切ってまで、つまり自公民三党だけの出席になる可能性が高い、そうした状態において法案採択を行う政治決断に踏み切れるであろうか。
 社会党に闘いを貫徹させること鍵となっている。
 PKO法案廃案を掲げ、九日の社会党集会、十二日の全国実行委員会の集会をはさんで、国会での闘いは連日続けられている。
 
帝国主義的国家主義と自衛隊海外派兵論

 本紙が発行される時点ではPKO法案の成否が明らかになっているだろう。
 その結果がいかなるものであれ、現行憲法とはまったく背反する自衛隊海外派兵法案強行が国内における国論二分状態を押し切るものであること、および海外とりわけ韓国など旧日本帝国軍隊の侵略の犠牲となった諸国民衆に多大な不安と警戒をもたらしている事実が明らかになった。
 さらに、法案強行の背景には、自民党と社会党などの革新勢力野党との対峙関係の図式がはっきりと崩壊し、同時に自民党から社会党の一部、そして連合という労働組合連合体のかなりの部分を横断して、戦後民主主義の核心点であった戦力放棄、平和主義という流れを全面的な転換へと押しやる勢力が公然化したことを示している。
 日本自衛隊=日本軍隊が公然と海外出動・派兵の権利を確保し、そこに西側陣営、帝国主義陣営の世界的武力の一員として行動する、こうした事態はまさに戦後日本史の最大の転換である。戦後政治の分水嶺としてあった自民党と野党、すなわち保守と革新の分布は一変したと結論づけなければならないのである。
 社民再編論に始まり、金丸が煙幕のごとく言い出した政界再編論=自社大連立などの一連の流れは、政治的上部構造が急速に帝国主義陣営にからめとられていく状況の表現にほかならない。
 PKO法案修正論のまやかしにもかかわらず、昨年以降急浮上したPKO協力法案の本体は、ただ自衛隊を国際的に全面的に認知された軍隊とさせ、そこから現行憲法体制の制約を無にし、ひいては改憲論を現実にしていこうという目論見が存在していることを疑うものはいるまい。しかもこの日本軍隊の国際的認知は明らかに日本資本主義の卓越した「財政力」によって購ったものだ。
 旧日本国家が行ったアジアへの侵略とアジア民衆に与えた、つぐないようのない犠牲を限りなく抹殺していこうとする戦後日本の国家主流が掲げる理念への同調として、この政界再編、社民再編の流れの基軸がある。自民党に強固に存在し続けてきた国家主義的潮流、マスコミ界を制圧しようとする右翼潮流、これらは労働界における軍需産業の公然たる輸出解禁を求める動きなどと重なりあって、決して国家主義を排除しない支配潮流を形成する方向を歩んできたのである。
 日本政治における右翼潮流と現在の自民党を中心とする政治的多数派とは、その間になんらの明確な分岐点なしに、いわば共存してきていた。悪名高き勝共連合が自民党内でのスパイ防止法案策定キャンペーンの実働部隊であった事実は広く知られていることだ。石原慎太郎なるものが、南京虐殺の歴史からの抹消にうごめく輩(やから)の政治的代弁者の役を演じていることもまた周知の事実である。そしてまた、その右翼政治がいわゆる組織暴力団、巨大化した暴力団と密接な関係をもっていることもまた暴露された。銀行、証券業がまるごと暴力団組織とのつながりをもち、そしてそれは政治との密接な関係にある事実を否定しようとするものはないはずだ。
 こうして、現在形成されつつある新たな政治的多数派は、まさにアジア侵略の歴史に蓋をし、さらに新たな国家主義の台頭に抵抗線を敷かない、そのような勢力の連合体なのである。

社会党の基盤の分裂と再編への胎動

 社会党の最大勢力範囲は、大きく政治的に分断された。連合が巨大労働組合勢力を背景にして政治的に自らを登場させること、およびその連合に寄り添って政党再編にさおさすとすれば、日本の革新政治は、企業防衛主義であるビッグユニオン=連合主流の利害を反映するものへと変質していくことは自明といえる。
 土井退陣、田辺登場はこのような流れの表現である。社会党は、その戦後史の多くを党の革新性の維持防衛として貫いてきたが、現在それは本質的な意味で危機にさらされている。つまり、社会党は、党の分裂という巨大な要素を抱え込んでしまっているのである。社民再編論とは、一方からみれば左派の放逐(あるいは左派の屈服)と民社政治との合流であり、他方からみれば社会党の変質、自公民路線への社会党の合流と、この流れに逆行する左派あるいは批判派の自立化が要求される時である。
 確かに過去二〇年間、社会党左派の主軸は社会主義協会派系列によって代表された。そうした「左派」のありようへの反発もまた激しかった。
 しかし、連合形成に基本的に対抗しえず、同時にブレジネフ、ホーネッカーといったソ連型官僚政治に親近感を抱き、また労働組合政治以外の社会的な諸運動の要素に冷淡であり、それにまして社会党セクト主義をふりまいてきた社会主義協会の政治的解体と組織的分散、風化の進行もまた否定できない事実である。協会としての独自の左派形成の基盤は崩壊したといえる。もはや社会党における大衆的広がりをもつ左派は、崩壊した協会政治とは別個なものとして作りだされなければならないのである。
 事態は、憲法体制すなわち日本国家が軍事的にも海外派兵可能な、「一人前」の帝国主義国家として登場することを推進するか、それともそれに抵抗するのか、という分水嶺が成立し、それが新たな国論二分と社会党を中心とする革新の二分状況に基礎づけられている。 

社民再編論に抗し、PKO法案への態度による意識的分岐の形成

現時点において、PKO法案の行方いかんによっては同日選挙の可能性がとりざたされている。
 火つけ人は入院中の放言男、渡辺外務大臣であるが、PKO法案と同日選挙をバーターにする党略路線が公民および連合(=連合の会)に仕掛けられた。公民両党は、自民・社会両党の狭間にかすんでしまうことになり、連合にとっては同日選挙が社会・民社の間の股ざきになることを意味するからである。
 だが、こうした同日選挙回避が優先する党略路線が、本来問題であるはずの自衛隊派兵法案に優先されることがまかり通っていけるはずがない。
 社会党内における「憲法活かす会」所属議員は九〇人を数えるにいたった。党所属議員の三分の一である。さらに社民連の田、楢崎両議員があり、また土井前委員長が基本的に対決姿勢支持方向を明確にするにおよんで、社会党内の流れは大きく徹底抗戦に傾斜した。
 いわゆる社民再編論の基礎となる「現実路線」が自衛隊派兵論ぬきには成り立しない以上、連合の会方式が危機に陥ることは自明のことだ。連合参議院はかろうじて社会党サイドに踏みとどまり、それによって社会党の闘争意欲の高まりとの断絶を回避する方向を選択した。
 これは民社党からすれば、自ら招いたことではあれ痛手であろう。民社大内は、自民党と社会党の間に立って、ボナパルティズムもどきのパフォーマンスを演じてみせた。かたや自民党をどうかつし、他方で連合の会を人質にとる言動によってPKO法案審議の決定権握っているかのようにもふるまった。だがその選択した路線は、同日選挙回避の党略と民衆サイドにいまだ明確な確たる基盤をもたない自衛隊派兵法案の強行採決への加担に過ぎなかった。なんとも惨めな結論である。すべてのパフォーマンスは無に帰したのだ。
 いらだった大内は六日、連合の会における社会党系候補支援をとりやめる方針を最後の手段、あがきとして言い出した。連合山岸が青ざめ、社会党田辺執行部に圧力をかけるだろうとの読みによるものだろう。
 だが、痛烈なしっぺ返しが翌七日、即座に田秀夫議員からなされた。田議員は、大内発言に対して東京選挙区における連合型候補、かの軍国坊や森田健作不支持を公然としたのだ。
 東京において連合型選挙は崩壊した、と八日付朝日新聞は報じている。
 この報道が少々フライイング気味ではあっても、多くの東京選挙区に籍を置く社会党員にとって、また革新を意識する民衆にとって、東京での森田健作をかついだ連合型選挙が空中分解するのは大いに望ましいことのはずだ。勝共連合と関係をもち、日本軍国主義に抵抗感をもたない森田を革新の主軸であった社会党が全面的に支持すること、およびそのような政治駆け引きを生んだ連合の会方式にやむなく引きずられる状況へのいらだちはかなりのものだったはずだからである。
 埼玉における不可解な畑辞退劇も含め、田辺執行部の社民再編論にもとづく連合型候補路線の不透明さは限りない。広島選挙区では、自衛艦のペルシャ湾出動に真っ先に激励に馳せさんじた民社党の札つき右派を社会党候補をひきずりおろしてまでかつがなければならない状態が強要されたのである。
 つまり、連合の成立、その圧力のもとで政治的枠組みとしてごり押しされる社民再編論、強硬な組織圧力を加える党指導部のもとで身動きとれずにいた一般党員や地方組織、およびそのような選択しか提供されない社会党支持層のとまどいに正面から答えたのが、田議員の公式発言なのである。
 社会党の組織そのものは別にして、社会党支持基盤・機構・運動の分裂はいまや公然となりつつある。それがいかなる組織表現をとるかは今後の問題ではあるが、少なくとも連合成立、田辺執行部成立という一連の閉鎖状況が越えられつつあることは明瞭だ。同時にそれが単なる社会党組織機構の内部での流動でないことも明らかだ。おそらくや戦後革新の全体構造をつらぬいた流動と再編に結びついていく巨大な流動の始まりとなるであろうことがいえるであろう。
 
参議院選挙に対してPKO法案反対の候補、政党の支持を

 来るべき参議院選挙において、投票行為に関する選択の基本視点は、こうした再編期に明確に入った戦後革新勢力の、民衆のサイドの共通の大枠を新たに築き上げる視点におかれなければならない。PKO法案における国論二分状況を認識し、そのことが示す新たな、ネットワークあるいは横断連合的な、革新の予感とその予備的構成要素の自立的、対等な結合と共同の地平に向けて努力を開始するという視点に立って、参院選(あるいは同日選)への対応が設定される必要がある。
 従来型の左翼や運動、組織が、例外なくこうした歴史的流動に巻き込まれるだろう。現時点での組織的な分岐や分立は過去を反映したものだ。未来はまったく異なった姿と表現をとることになるだろう。そのような可能性はすでに提示されている。
 そうした新たな歴史的可能性を内包する政治勢力を総体そして支持していくことが必要である。
 現在的分岐は、まさにPKO法案への対応によって示されている。

 われわれは、PKO法案に反対する候補、政党への投票を呼びかける。
 具体的には、比例区においては社会党、共産党、およびその他の政党、団体への投票である。
 選挙区選挙においてもまた、PKO法案反対候補への投票を呼びかける。
 また、現在進行している事態において、連合の会型候補の中からも、社会党サイドからの候補者から、PKO法案反対を明確にする候補が登場する可能性も否定できない。PKO法案反対が明確化された場合には投票対象の範囲に含まれる。
 同じく連合の会型候補において、PKO法案修正提案の当事者である民社党サイドの候補は検討の対象に入れることはできない。
 以上は、具体的に選挙区ごとに検討される必要がある。
 東京選挙区において、連合型候補森田健作は支持しない。その理由はすでに明白であろう。
 現状においてはわれわれは、共産党の上田耕一郎候補を支持することを明らかにする。
   
 付記
 参院選挙と同時に行われる最高裁判所判事国民審査に関して、司法反動化が最高裁の動向に端を発していることに鑑み、信任すべき対象は存在していない。全判事の不信任が必要である。 

 (一九九二年六月九日)

寄稿
「労働者の力」公開講座から

ネップと社会主義建設――トロツキーの社会主義建設論
         内藤 治

 以下の提起は去る五月二十三日に行われた「労働者の力」公開講座における内藤治さんの報告を収録したものである。報告者である内藤治さんは大学教員でありトロツキーの研究者である。「労働者の力」のメンバーではない。また当日の講座では、西島栄さんが「スターリンの工業化計画とトロツキー」の報告も予定されていたが、後日に延期し、内藤報告の補足として「労働者の力」第33号に掲載された織田進論文への批判コメントを行った。西島栄さんのコメントは、号を改めて掲載していく予定である。織田同志の再論も機会を見つけて実現していきたい。
 論点は多岐にわたったが、今後の講座を通じてさらに深化していくことであろう。ソ連解体という事態において社会主義、その経済に関する論争がより全般化することが期待されている。トロツキストとしてあるわれわれ自身が、こうしたソ連の総括に踏み込むにあたって、トロツキー読みのトロツキー知らずの感もなきにしもあらずである。とりわけ戦後の日本で翻訳されてきた文献によっては、トロツキーの経済政策の全体像を知る機会はほとんどなかったといっていい。今後より多くの人々のさらなる活発な討論参加を期待する。(編集部)

 トロツキーの経済建設路線への誤解と偏見
 
 従来のトロツキーの社会主義建設論については、特にスターリン派による規定が有名で、これは「トロツキーは超工業化論者であり、農民を過小評価した」というものである。最近はスターリン派のこうした言い分は評判を下げ、信用されなくなってきている。
 これに対してあらたに出てきているのがブハーリン派ないしはリベラル派傾向の見解であり、これは「トロツキーはスターリンと対立したかもしれないが、実際は同類で政策的にはスターリンの先駆者である」というものである。以前は社会主義に反対したからだめだといわれたのが、今では社会主義者だからだめだ、ということになっている。
 これらに対して第三の立場というべきものは、ドイッチャーやE・H・カーなどによるもので、ソ連ではビリクさん、日本では上島武さんなども同じ見解であるが、「トロツキーは市場経済を利用して社会主義を建設する路線を打ち出した」という立場である。ある意味ではブハーリンとスターリンの中間の道を提起したという説である。つまり、ブハーリン的な市場万能論やスターリン主義の冒険主義のどちらとも違う独自の道であり、挫折はしたけれどもこれが本来のマルクス主義の道であるという見解が出されている。
 私もこの第三の道、立場を支持するわけだが、しかし従来の、例えばドイッチャーの見解などには少々不満な点がある。もちろん資料的な不備や限界から来ているものだろうとは思うが、従来ドイッチャーがトロツキーを批判していたことが、現在から見ればやはりトロツキーの方が正しかったといえる事実がいくつか出てきている。典型的には、スターリン型社会は確立したもので逆転することはない、というドイッチャーの評価である。一国社会主義が破綻して資本主義にもどる可能性がきわめて高い情勢になってきていることを考えれば、従来最も高くトロツキーを評価していたドイッチャーですらも、今から考えればトロツキーへの評価がそれでも低かったといえる。トロツキーは、従来彼の支持者からすらも批判されてきたことも含めて、実際はかなり正しいことを主張していたのではないかと考えざるをえない。
 こういう立場からトロツキーの立場を見直してみたい。
 
トロツキーによる「ネップ」の提唱と「労働の軍隊化」

 まずネップの問題を検討したい。一九一七年のロシア革命以降、赤軍と反革命軍との間の内戦がはじまる。この時期にいわゆる戦時共産主義の体制が採られる。余剰農産物の徴発や労働力の強制配分、均等配給制などが実施される。これはあくまでも戦時の体制ということだったが、しかし一部の理論家は、このまま社会主義、共産主義に移行できるという幻想をもっていた。だがトロツキーは戦時共産主義がそのまま本物の共産主義につながるという幻想を最も少ししか持たなかった人だと言える。
 内戦が終結に近づいた時期にトロツキーは、最初に農産物の強制徴発をやめて、生産高に応じた累進課税を提案した。これは一九二〇年初めの時期である。同時にトロツキーは、いわゆる「労働の軍隊化」といわれるものを提案していた。ネップに転換するというトロツキーの提案はレーニンの反対によって否決された。トロツキー支持はたったの四票しかなかった。他方、「労働の軍隊化」はレーニンの支持もあり、ほぼ全体の賛同をえて採用された。その方針によりトロツキーの指揮下で鉄道網が再建されていくことになる。内戦にも勝利した。
 ところがレーニンは、二〇年の終わり頃に、「労働の軍隊化」に反対する労働組合幹部を考慮して「労働の軍隊化」への抵抗を示しはじめる。そこにトロツキーとレーニンの間の論争が「労働組合論争」として形成されることになった。翌二一年に有名なクロンシュタット反乱が起こる。これは主に、農産物の強制徴発に対する農民の不満が背景にあったことから、ここでレーニンも事態の本質に気づき、ネップへの移行の必要性を認めることになる。
 この間、約一年間の遅延が生じた。トロツキーに一年間の先見性があったという事実は現在では広く承認されることである。そのうえで、このネップへの転換と、セットになって提起された「労働の軍隊化」とは矛盾する、という見方が出てくる。
 しかし、当時の状況を考えてみれば、労働者のかなりの部分が赤軍の兵士として前線で戦い、残った労働者も多くは食料調達に追われ、行列に並んだりする時間が多く、実質的に労働する時間が少ない、ということがあった。鉄道網は崩壊し、都市と農村との間の交流が断ち切られていた。こうした状況のもとでは、たとえ農産物の強制徴発を中止し、市場経済の要素を導入したとしても、経済の再建はできない。つまり、鉄道再建には、労働力の強制移動が可能な「労働の軍隊化」がむしろ効率的であった。市場経済に従えば鉄道が自立的に再建されるということは不可能だったのだ。
 軍隊の一部を経済再建に動員し、食料獲得に追われている都市の労働者を軍隊方式で組織し、労働に動員することはネップへの移行にあたって必要なことだったのである。
 「労働の軍隊化」には全体の支持があった。だが同時に、労働規律を引き締めたからといっても、それだけで農民の不満が解消するわけではない。すなわち、一見矛盾する、戦時共産主義の要素に立って労働規律を引き締めることと市場経済の要素を導入することは、長期的には確かに矛盾することだが、短期的には補完しあって、戦時共産主義から本格的に市場経済型の体制に移行する過程を保障するものだった。
 トロツキーが主張したことは矛盾していたわけでもなく、ドイッチャーが批判するようにジグザグだったわけでもないのである。
 ようするに全面的な政策を提起したのだが、その一部だけが受け入れられた結果、様々な問題が起こってきたということなのだ。
 トロツキーの場合、計画経済と市場経済とは二者択一のものではなかった。
 たとえば、鉄道再建の課題は計画経済として、国家が経済に介入することによって速やかに都市と農村のつながりが回復される。計画経済は拡大されなければならず、市場経済もまた拡大されるべきもので、両立できるものと考えられていた。
 トロツキーは「農民軽視」といわれるが、この時期の立場を見れば、労働者と農民の提携を維持するためには、まず農民の負担を軽減しなければならない、そのためには支配階級である労働者階級が、自己の「同業組合」的な当面の利益を犠牲にして工業の再建をはかる、というものだったことが理解できる。この視点から全体的な政策体系が導かれていたのである。

トロツキーの先見性・一貫性とレーニンの立ち遅れ・ジグザグ

 これらの問題に関しては、従来の見方は、トロツキーに一年間の先見の明があったことは認めても、労働組合論争に関してはトロツキーは間違っていたとする見解が多い。だが私は両方ともトロツキーが正しかったという立場をとる。むしろレーニンのほうが先見性をまったく欠いていて、クロンシュタット反乱が起こってはじめて事態を理解したのではないかと考える。
 レーニンとトロツキーの関係にはこうしたパターンがきわめて多い。トロツキーが予見してきた問題をレーニンがしばらく後になって、決定的な事件が起こったときに理解するということが多かった。
 この場合もそうだったのだ。
 しかしレーニンは、一九二一年の第十回党大会でトロツキー支持者を中央委員会に再選されないようにしてしまっていた。このとき再選されなかったのは、プレオブラジェンスキー、クレスチンスキー、アンドレーエフ、セレブリャーコフなどトロツキー派が多く含まれ、そのうちの何人かは書記局員であった。それは明らかに労働組合論争でトロツキーを支持したことへの報復なのであるが、そのあとをモロトフなどのスターリン派の最も質の悪い人間が占めた。これが、後になってレーニンが最晩年にスターリンとの闘争を決意したときに、政治局や書記局の中に信頼できるメンバーがトロツキー以外にいなかった状況をつくりだしてしまったのである。その後のトロツキーの敗北にはかなりレーニンにも責任があったことを押さえておく必要がある。
 もしネップがトロツキーの主張通り一年早く実施されたとすれば、経済再建ははるかに順調に進んだろうし、農民の不満もはるかに少なかっただろう。そうすればクロンシュタットの反乱もなく、そこからは危機意識から実施された分派禁止決議も生まれるはずがなかった。それどころか、複数政党制さえ維持されたかもしれない。また、労働組合論争で形成された、いわゆる右派の労働組合幹部であるトムスキー派とトロツキー派との感情的な対立関係も生じなかったといえる。なによりもトロツキー派が中央委員会から解任されて、その後をスターリン派が占めるということもなかったろうと思われる。
 従来トロツキーを支持する人々のなかでも、クロンシュタット反乱に際してのトロツキーの役割に多くの疑問点を抱いてきたといえるが、実際はその多くはトロツキーには責任がないといえるのである。トロツキーは言うべきことはかなり言ったのだが、レーニンの多数派の支持が得られなかったのだ。
 
資本主義から社会主義への過渡期の経済政策としてのネップ

 一九二二年のコミンテルン第四回大会でネップ報告はトロツキーが行った。
 トロツキーはまず第一に、戦時共産主義とは包囲された要塞の体制であって、社会主義ではない、と論じ、状況に押されて余儀なく採用したものだと述べた。その結果として農業生産は低下し、労働生産性も低下し工業は後退した。
 ネップの政策はここから必然的に現物税、累進課税への転換、残った農産物は自由に売れるという市場経済化の推進にならざるをえない。また労働生産性の低下に対して、働いても働かなくとも食料均等配分ということから、出来高賃金に切り替えた。工業に対しては中小の私企業を復活させ、国有企業における独立採算性を導入した。
 これがネップだとトロツキーは説明した。
 トロツキーの主張を要約すれば次のようになる。
 ネップの定義は、資本主義から社会主義にいたる過渡期の必然的な政策である。かりにヨーロッパ革命が勝利したとしても、過渡期における労働者国家においては市場経済を利用して社会主義に接近していく必要があるのである。同時にヨーロッパ革命が敗北したという局面での退却の側面も当然ある。
 仮にヨーロッパ革命が勝利したとしても期間は短くなるだろうが、ネップのようなものは必要だ。社会主義に接近するために労働者国家は資本主義の方法を利用するのだ。
 なぜか。市場がないとすれば、まず農民は生産拡大の刺激を失ってしまう。工業は資源や労働力配分が適切かどうかを現状では市場で点検する以外にない。それぞれの企業も市場を通じた自己点検以外の方法は現状ではもっていない。現段階では国営企業と私企業、あるいは国営企業相互の競争があってはじめて合理的な経済運営ができる。それ以外の方法は今のところない。
 では、市場経済を利用することによって資本主義復活の可能性は生じないのか。
 その可能性はもちろんある。世界資本主義と私企業、自営農民が結びつく可能性は当然ある。しかし、国営企業の発達が農民経済に立ち遅れなければ当面は大丈夫だろう。つまり工業発達が遅れた場合、穀物を供出しても工業製品が手に入らない場合、農民の不満は外国勢力と手をむすんでソ連を転覆する方向に流れることはありうるが、国営企業の発展が早ければこうした可能性が現実になることはないだろう。
 ただし、ヨーロッパ革命が遅れ、資本主義が五〇年、百年という長期にわたって持続する場合、その時はロシアの敗北は必至だろう。だが資本主義は第一次大戦の痛手から回復していないし、各国は自国経済の立て直しで手がいっぱいの状況にある。それゆえソヴィエト国家が農業と工業のバランスを良好に持続しえれば当面は大丈夫である。

工業化政策におけるレーニンとトロツキーの協同

 コミンテルン第四回大会で以上のような主旨でトロツキーは報告を行ったのだが、しかし、同時にトロツキーの提起が必ずしもすべて採用されたわけではなかったことに留意しなければならない。
 ここでの問題は次の点にあった。戦時共産主義からネップへの移行にともなって、一方では市場万能論の傾向が強まったが、他方トロツキーはネップへの移行と同時に計画化の要素を強調しはじめたのである。つまり、ゴスプラン(国家計画委員会)を再編・強化し、計画化をさらに促進しなければならないと繰り返し主張し、意見書も何度か提出するが、なかなか受け入れられない。
 ところが、ある事件をきっかけにレーニンがトロツキーに接近し、一九二二年末にレーニンとトロツキーとのブロックが成立することになる。経済政策、民族問題、官僚主義批判と広範囲にわたってレーニンはトロツキーに助けを求めていくが、そのきっかけは経済政策にあった。
 それは外国貿易の国家独占をめぐる問題で、レーニンもトロツキーも欠席した会議において、ロシア共産党中央委員会は外国貿易の国家独占の緩和を全会一致で決議する。レーニンは、貿易独占が崩れれば国内産業が打撃を受け労働者国家が崩壊するのではないかという危機感を抱いた。トロツキーが自分に近い立場にあることを知って、レーニンはトロツキーに手紙で協力を求めたのである。
 トロツキーは外国貿易独占の防衛についてはレーニンに賛成するが、同時に貿易を計画的に管理するためには国家計画委員会(ゴスプラン)の強化が必要だ、つまり経済を全般的に強化する上で、経済を自然発生性にゆだねるのではなく、予見と調整を強める必要性があると主張した。
 レーニンは、トロツキーの主張である計画化の強化にはそれまで反対の立場にあったが、この貿易独占問題で協力したことを契機に、トロツキーの見解には健全な考え方があると認めるにいたった。
 第十二回大会直前にはレーニンとトロツキーのブロックが成立し、トロツキーがこの党大会で工業化政策の報告を行った。
 ここでトロツキーは従来からの見解を提起すると同時にレーニンの代弁者の資格で報告したのである。
 その骨子は、@外国貿易の独占による社会主義的保護貿易制度の堅持Aゴスプランの強化によって経済の計画化と調整を強めるB労働者と農民の提携の堅持――ということであったが、トロツキーは十二大会報告にあたって従来以上にさらに詳細に問題点を明らかにしていく。

労働者階級と農民の結合強化のために――工業化推進の位置

 まず、いわゆる「鋏状格差」の指摘である。すなわち、戦後復興は主要には農業が先導した。農業は工業に比較して相対的に単純であり、復興は早い。それに比べて工業復興は徐々にしか進まない。それゆえ農産物価格は工業製品に比べて極端に低落する。相対的に低くなる。戦前比でいえば相対価格は三分の一に下落してしまった。つまり工業製品が戦前は三つ買えた農産物の量では、戦後は一つしか買えないという状況になっていた。
 農民はそれに不満をもつわけだから、工業復興は緊急なものだ、ということである。
 さらに、国際的な関係として、資本主義国に比べて工業製品の質は低く、価格は高いという状況である。ここでは密貿易などへの誘因が生じる。同時に製品が不足し、その質が悪ければ、農民は穀物を売り惜しみしはじめる。つまり、余剰穀物を「どぶろく」にして自家消費してしまうなり、隠匿して価格上昇を待つなどの手段が構造化してくる。
 したがって工業一般の復興を早めることと同時に、資本主義諸国との製品の質や価格格差を縮めていくことが必要になるのである。貿易が国家によって独占されているから直接の圧力は軽減されているものの、こうした状況が続けばまさに密貿易などの圧力がさらに増大していくことになる。
 これは、工業生産性が戦前よりはるかに低いという状況から生じてきている問題であり、対策としては工業生産性の回復、上昇、すなわち合理化による生産原価の引き下げが大切だと主張したのである。
 たとえば、生産効率の低い工場はいったん操業停止することや余剰人員を削減するという方策が提案された。ただし、ここでトロツキーが主張していることの意味は、ただたんに人減らしをやればいいということではなく、社会保障と雇用を区別せよ、という文脈での主張であった。というのは、当時のソ連においては、工場への超過雇用という形で失業への対策がなされていたのであり、これが工場において標準の半分とか三分の一、あるいはほとんど働かないという形の労働力が存在することの原因であったからである。トロツキーはこうした形で失業対策を明確な社会保障政策、たとえば失業手当の支給なりの方法で行ったほうがいい、そうしないと工場における労働規律が崩れていくだけであるということを指摘したのである。
 さらに、間接費の節約も強調した。企業は様々な後援活動として、たとえば学校に資金援助を行うとか警察あるいは労働組合への資金援助などを行っていた。赤字企業が様々な後援活動・資金援助を行うことは不健全である。企業が補助金をもらっていながら様々な寄付活動を行うことはおかしい、こうしたことはやめたほうがいい、というわけである。
 また無意味な広告などは削減すべきであるともいっている。これらは間接費の削減だが、それに加えてトロツキーは次のような重大なことを指摘している。
 会計簿をつけて、盗みを防止せよ、と。
 あたりまえのようにも思われるが、ソ連型経済には今でもきちんとした帳簿がないという特徴がある。帳簿がないし、労働者が工場から物資を盗んでいくということが普通になっている。ソ連共産党が解体してもかわらず、事態がますます悪くなってさえいる。
 また正確な原価計算をせよとも述べている。これもあたりまえのことのようだが、今でもソ連型経済には原価計算の正確さという概念がない。減価償却費や利子などの負担を原価に組み込んでいない。だから今のソ連経済のように、最初に工場を建設するときはいいが、一定期間が過ぎると老朽化して稼働しなくなるということになる。
 その他、行政改革などが提起されているが、これらと同時に、農産物の輸出することによって農産物価格と工業製品価格の差を縮める方針が提案された。つまり農産物の輸出によって国内穀物が不足し国内穀物価格が上昇する、輸出代金によって工業設備を輸入し工業製品価格の引き下げをはかる、さらに工業製品そのものをも輸入する、これらの相乗効果によって農産物と工業製品の価格のアンバランスを部分的にせよ改善する、という考え方である。トロツキーは農産物輸出に相当に期待をかけていた。
 さらに業績をあげた工場長には報奨金を出すことが提案された。それまでは法律で共産党員が報奨金を受け取ることは禁止されていた。その報償金とは、先の項でやめるべきだとした、諸方面への寄付行為を特例・報償として認め、かつそれを公表することで企業長の名誉を讃えるという考え方である。つまり成果をあげた場合になんらかの形で報いられないと熱心にならないということを考慮している。トロツキーは企業家精神というものを非常に重視していて、社会主義でも企業家精神がないと経済を運営できないと強調している。
 
支配階級としての労働者階級の自己犠牲による                  社会主義的本源的蓄積の実現

 また、よく言われることだがトロツキーは「社会主義的本源的蓄積」を主張したと非難されている。そこには誤解がある。トロツキーの本源的蓄積論は、資本主義生成期における自営業者が寸暇を惜しんで労働したように、過渡期の社会においては労働者階級が自己犠牲の精神を発揮して社会主義を建設していくのだ、ということにほかならない。「農民を搾取する」ということとは違う論理である。あえて言えば――トロツキーはそうは言っていないが――労働者階級が自己搾取して社会主義的本源的蓄積を成し遂げなければならないということである。
 もちろんそれは強制によるものではない。資本主義生成期の自営業者が自発性をもって勤労精神を発揮したと同じように、社会主義生成期の労働者も犠牲的精神を発揮してそれを行うのだ、というのである。トロツキーには、支配階級である労働者階級が最大の犠牲を払うことによって農民層との協調を進めて行かなければならないという考えがあった。これがトロツキーの社会主義的本源的蓄積論である。
 従って、トロツキーが農民を軽視したとかいう批判・評価はまったくの誤りである。
 特に農民との関係では、トロツキーは第十二大会を前後する時期に農民問題を詳しく述べている。その中で、「われわれは、農民が来年には今年よりは豊かになるという条件で農民に税金を課す必要がある」と述べている。また、これは私もびっくりしたのだが、農民との関係は「わが国では階級闘争の問題ではない。もっと正確に言えば、この問題が階級闘争の問題にならず、協調と妥協の問題になるようにわが党のすべて叡知が結集されなければならない」。つまり労働者国家と農民の関係が階級闘争の問題にならないように協調していかなければならない、と述べているのである。また「われわれはこの問題では徹底的な協調主義者である」とも述べている。
 さらに富農と貧農との関係について、トロツキーの当初の主張は、富農と貧農との格差が拡大しないようにすべきだということであり、その後の格差拡大に対しては、累進課税によって調節すべきだと主張していたのである。
  
復興から世界市場への積極参入への主張――                 ブハーリン・スターリンとの対立

 以上の包括的な第十二回大会決議は採択されたが、その実、スターリン派はその後サボタージュし、決議の内容はさほど実現されなかった。
 しかし、この一九二三年はまだ「復興期」であった。戦前の設備が十分に稼働していない段階であり、それを稼働させていけば経済は徐々にではあれ前進していくという状況にあった。
 ところが一九二五年にいたると、基本的に復興は終了し、ここに新たな問題が生じてきた。つまり戦前段階での設備がほぼ稼働する状況になったが、ここに同時にそれらの設備が老朽化しはじめたからである。従来のテンポの生産上昇を維持するためには、設備更新のための新規投資が大規模に要求されることになった。
 また、世界市場が再建されたということからくる世界市場からの圧力の増大が進んだ。
 さらにネップのもとで階層分化が進み、富農やネップマンといわれる商人が力を持ちはじめる。
 以上のような新しい情勢において、トロツキーは対策として、復興が終わった段階ではもはや戦前との比較ではなく外国との比較が重要になった、今後の前進は先進国との比較の指標によらなければならない、と主張する。世界市場の圧力がある以上、労働生産性が先進国に接近していかない場合には、世界市場の圧力がソヴィエト経済を崩壊させることになると考えたのである。
 格差の縮小・是正が不可欠になったわけだが、ここでトロツキーは、世界市場からの逃避、孤立主義ではなく積極的に参加していく方法をとるべきだと主張する。差を縮めるためには、外国の新鋭設備、機械を輸入する必要がある、そのためには外国貿易が拡大されなければならず、そこでは可能ならば外資導入、利権供与などの方策が積極化されなければならない。農産物の輸出によって得た外貨で新鋭機械の輸入を進め、生産力、生産性を高めていくことが、ひいては軍事的な干渉に対して備えることでもある、と論じた。
 しかし国際市場への参入にあたって、国内市場からいかにして資金を調達するか、という問題が残る。トロツキーの主張は、合同反対派の綱領にも明らかにされているが、富農への増税策の採用であった。スターリン、ブハーリン派は当時、農民一般に減税するという立場にあり、それは実際は富農優遇策の立場にあった。すなわち、その当時は累進課税制度がほとんど成立していず、むしろ間接税などがあることから、貧農の税負担率がより高いという実態が存在していた。 
 トロツキーの主張は、富農に対する累進課税、ネップマンへの工業製品の卸売り価格の引き上げによる利幅縮小を図り、私的商人の利益を削減することによって工業化の資金を調達するというものだった。つまり富農とネップマンからの資金調達と貧富格差の縮小という一石二鳥の方針である。資金の重工業への優先的投資を進めつつ国際市場への積極参入を進める路線である。

資本主義復活につながるブハーリン・スターリンの路線

 では当時のブハーリン・スターリン路線との違いはどこにあったか。
 貿易独占の問題では、トロツキー・レーニンの立場は社会主義的な貿易独占の堅持であったが、ブハーリン・スターリンは動揺を繰り返した。
 農民の問題では、前者が富農への増税による工業化資金創出、それによる製品価格低減による農民への還元という論理であったのに対して、後者は農民への減税による富農保護、国内市場拡大の路線であった。
 現実の経過は、農民にとって工業製品の供給が促進されることがなかったがゆえに、減税があったけれども購入すべき商品がない、という事態となった。トロツキーの視点は早急な工業化がなければ農民の不満は拡大するということであり、これが急速な工業化路線といわれるものである。言い換えれば、工業化のテンポは、農民への工業製品の供給の必要性から導き出されたものである、同時に世界市場の再建にともなうソヴィエト経済への圧力に対抗することをも考慮して規定されるべきものであった。それゆえ彼にとっては、工業化のテンポを「恣意的」に「ゆっくり」と設定することは不可能であるというのが結論になった。
 また、ここから通貨政策でも対立することになった。経済政策において、常に通貨政策が重大な意味をもつのであるが、主流派が考えた富農優遇政策=富農との妥協政策は労働者国家の各階層の要求への全般的妥協路線でもあったが、紙幣増刷によって財源をひねりだそうという発想に基づいていた。
 トロツキーは、資金不足や賃上げなどの要求に対して、通貨の増発で対処する方法を最も安易な対応として批判したのである。
 世界市場問題では、周知のように、ブハーリン・スターリン派の一国社会主義論がある。彼らは、孤立主義、ロシア一国での社会主義建設を唱えたのである。
 その上で、民主化問題の対立がある。適切な計画プランの作成のためには民主主義が不可欠である、特定の個人や支配的グループが計画作成を独占しているのではろくな計画はできない、というのがトロツキーの主張であった。主流派は民主主義を抑え込む官僚主義の立場にたった。
 以上を総合して評価すれば主流派路線は、それが徹底されれば植民地的な資本主義復活に結びつく路線であったといえる。ところがブハーリンにしてもスターリンにしても主観的には社会主義者であったがゆえに、そこに大きな問題を生じさせることになった。
 
スターリンの極左冒険主義への転換――農業集団化と市場の解体

 事態はトロツキーが予言したように、一九二〇年代末になると、豊作でも穀物供給が進まない、不足するという現象が拡大した。
 農民は貨幣を手にしてもその見返りになる工業製品を手にいれることができない。そういう状況では、農民は余剰穀物を自家消費に回したり、隠匿、蓄積して値の上がるのを待つなり、あるいは生産を拡大しないなどの行動に出ることが多くなった。都市に食料が移入されない状況にいたった。
 都市は飢えはじめた。
 スターリン派はこの事態に直面し誤りに気づく。そして極端な路線転換に走るのである。ブハーリンの権威は地に落ちてしまう。
 「農業集団化」という構想がトロツキーにとっては将来の課題とされていたのに対して、スターリン派は暴力的な、強制集団化に踏み切った。
 ちなみに、多くブハーリン派傾向からいわれることだが、トロツキーの構想をスターリンが実践したという、意図的な宣伝がなされている。だが両者はまったく違った性格のものである。このことをはっきりさせておく必要がある。
 トロツキーの農業集団化構想は、電化、機械化が前提にならなければ意味がないものだった。
 機械化が不可能であれば生産性が向上しないから集団化にメリットがない、したがって農民の同意・合意は得られないのであろう、というのである。工業の発展による農業の機械化の実現と農民の同意の達成ということがトロツキーのあげた農業集団化の条件であった。
 スターリンは、富農優遇策が都市の飢餓に結果したことにパニックになり、その正反対の路線、すなわち農民をすべてコルホーズに押し込めてしまって、確実に穀物を取り上げてしまうシステムに転換した。
 この路線によって、確かに国家が調達する穀物量は増大したが、反面農業生産は低下した。家畜は激減し、生産意欲も失われる。しかし、農民から取り上げる量は増大した。つまり農民を飢えさせることによって都市に食糧を供給しようとしたのである。
 だが、それにとどまらなかった。都市にも穀物をまわさず、国民を飢えさせ、輸出に振り向け、最新機械購入に当てた。まさにチャウシェスクの飢餓輸出路線である。
 さらに後には政治犯制度を拡大し、目標を決めて、様々な名目で政治犯逮捕を進める。つまり人間狩りを行うようになる。シベリアのコルイマなどにおくって収容所に入れ、金を掘らせる。金の輸出という最も強力な外貨稼ぎを進める。それによってスターリン型の工業化を進めるのである。
 ちょうどこの頃、一九二九年は資本主義国が世界大恐慌に見舞われた年であった。販路に苦しんだ資本主義は、共産圏貿易への制約を取り払った。最新の設備など、ソ連以外に売るところがなかったのである。
 こうしたスターリンの方策は、トロツキーの工業化、農業集団化とはまったく異質の、原理的に違うものであった。
 つけ加えれば、スターリンの全面農業集団化は、当然ながら農業生産物を売る市場の消滅につながった。その結果、工業分野も全面的な国有化に進まざるをえないことになった。ここに市場の消滅という現在につながる状況が生まれてくる。市場がない以上、計画はすべて上から指令されるものとなる。行政的指令経済の誕生である。

トロツキーの経済政策――混合経済としての過渡期経済論

 これに対してトロツキーの場合は、一種の混合経済の構想だったといえる。
 労働者国家は社会主義そのものではなく社会主義に至る過渡期の国家であるから、市場によって計画を点検しながら、計画化の能力が進めばそれに応じて緻密にしていくというものだった。
 経済全体としては、私営部門も国営部門も大きくなっていってかまわない。しかし国営部門の比重が次第に高くなっていくことが望ましい。私営部門が大きくなるのはかまわないが、その比重が増大することは避けるべきだ、という考え方である。
 混合経済体制を通じて、長期の経験を通して、計画経済をつくっていく。計画経済というものがどういうものであるか、経験していないがゆえに、いわば誰も分からない、部分的な経験から市場を通してテストしつつ、全面的な計画経済に移行していこうということであった。
 もちろん同時に、一国でいくら努力しても最終的には、社会主義には到達できない、ということも前提とされていた。先進工業諸国の、全部ではなくともその一部が社会主義をめざすようになり、それと連合することによってはじめてロシアが社会主義までいけるのである。それまでは混合経済体制のもとで計画化を進めていくが、それはあくまで持ちこたえであって、社会主義にそのまま行きつけるわけではない。
 スターリンとの違いは、またトロツキーが一貫して主張した「適切な計画の前提ととしての民主主義」という点にも顕著である。スターリンの場合には、官僚主義という言葉では言い表せないおぞましい独裁体制が成立したのである。

指令経済の崩壊とゴルバチョフおよびエリツィンの路線

 現在との対比で問題を考えてみたい。ゴルバチョフ改革をどう考えるかということでもあるが、ゴルバチョフの改革はトロツキー的改革ではなくブハーリン的改革であった。しかし、それでも政治の民主化を進め、軍事費を削減して、経済を再建しようとしたわけだが、残念ながらすでに遅すぎた。国民の社会主義に対する信頼を失ってしまっていた、あるいはスターリン主義と社会主義との見分けがつかなくなっていたことで、結局社会主義での再生ではなく資本主義の方向へと変化してしまった。
 ゴルバチョフはブハーリン的方向だったが、エリツィンはリベラリストの方向に移行してしまったといえる。社会主義の放棄に進んでいると言わざるをえない。
 では、それは反革命なのか。すでにスターリン型体制は社会主義の妨害物になってしまっていた。これが崩れたことは評価すべきである。しかしながら、現在の改革がトロツキーが進めようとしたことをエリツィンがやろうとしていると考えることはまったくの間違いであろう。エリツィンの路線をこのまま進めれば、中南米型の植民地的な資本主義になっていくだろうと考える。
 だがロシアの人々は資本主義とは何かをわからないままに資本主義に期待しているのである。資本主義がどういうものであるか、改革のなかで身にしみて理解することになるだろうことも大いにありうることだ。マルクス主義的立場からすれば、現在エリツィンを支持することではなく、現在は少数であろうが社会主義の再生をめざすという、トロツキー的な改革をめざす傾向ともいうべき人たちを支持すべきだろう。
 しかし実際に意識が変わるのは意外に早いのではなかろうかとも思える。すでにポーランドの例が示すように、資本主義への批判的意識が増えはじめている状況もある。ロシアの場合、社会主義者の伝統があるわけで、いったん流れが変わりはじめた場合にはトロツキー派的改革の傾向が急速に勢いを増すことは十分に考えられると思う。

国労――中労委斡旋案拒否
国家的不当労働行為の徹底究明を
中労委は速やかに判断を提示せよ


 JRの採用差別問題をめぐって五月二十八日、中央労働委員会は労働側三組合、JR七社に対して「最終解決案」を提示した。その内容は別紙資料に見るように一切の地方労働委員会の判断を無視し、JR側に完全に有利な判断である。
 JRは形だけ、すなわち一カ月だけ地元採用の形式をとればあとは無罪放免されると言うべき内容である。
 石川中労委会長は記者会見の席上、これがぎりぎりの内容であり、その理由については「死んでも言えない部分もある」と開き直った。中労委会長としての石川の言い分は、ただ一点である。すなわち中労委命令がJRによって拒否されたら、自動的に裁判に移行する。それでは中労委の存在意義が失われる、と。まさに本末転倒の極致の論議だろう。司法反動化が極度に進行している現状において、国労などの労働組合側が裁判で容易に、そして確実に勝利するという楽観的見通しを持っているものは誰もいないであろう。にもかかわらず、闘争団や労働組合は、まさに戦後労働法制の根幹の問題として、この国鉄分割・民営化が強行した国労などの労働組合への「国家的不当労働行為」の徹底糾弾を掲げて闘ってきた。地方労働委員会は一つの例外もなく労働組合の提訴の論理を指示した。JRは完全にその非を刻印されたのである。
 民営分割の強行の過程で、当時の首相中曽根は「一人も路頭に迷わせない」と言い、国会決議は「組合による差別、選別はしない」と明言した。だが現実に横行したのは国労などへの差別・選別の嵐であった。職場を追われ、職種を追われ、清算事業団に閉じ込められ、そしてJRによる採用拒否にさらされたのだ。
 労働法制のみならず国会決議そのものを無視して行われた採用差別、配属差別などの一切がまさに不当労働行為の最悪の形態にほかならない。
 自民党とその政府が自ら、中曽根答弁と国会決議を踏みにじり、選別・差別を進めてきたことは明らかな事実だ。そうした「国家的不当労働行為」に対抗することこそが、「労使紛争」における中央労働委員会の本来の任務であるし、そうでないとすれば、そこで中労委の意味は崩壊してしまうのである。
 国労は最終解決案を拒否し、中労委に命令を求める方針を明らかにした。
 国労の決意はまったく正しい。中労委の命令がいかなるものであれ、一方的に屈服せよという「解決案」に従うわけにいかないのは当然である。
 自民党政府および「差別・選別しない」と決議した国会そのものが問い直されなければならない。自民党から社会党の一部(田辺)まで結託した労組差別、迫害を許してはならない。
 中労委命令いかんでは、国労闘争団を支え、連帯し、政府、国会の責任を正面から問いただし、国家的不当労働行為の粉砕の闘いへと事態は移行する。すでに闘争団は長期闘争の体制を構築してきている。さらなる支援体制の強化によってこの決意に応えよう。

資料(抜粋)

1、JR各社と各組合は、採用事件について和解により早期、円満な解決を図り、相互信頼に基づく建設的な労使関係を形成するとともに、安全輸送の確保と会社事業の発展に最大限努力する。
2、JR各社と各組合は、国鉄改革の過程で、その経緯はともかくとして、一〇〇〇名に及ぶ人達が離職し、定職のない状態にあることは、放置しえない状態であると認識する。
3、JR各社は、国等による支援措置とあいまって、平成二年四月一日付で清算事業団から解雇された者の雇用の場を確保するため、次の措置を講ずる。
 (1)JR各社は、対象者が希望すれば、対象者の希望地等に基づき定める区分に応じてその者を雇用する。その期間は一カ月とし、有給とするが、労務提供は要しない。
 なお、このための採用は、所要の準備期間を経過した時点で行う。
 (2)本州四国四社及び貨物会社は、所定の期間、北海道及び九州の居住者の募集を行い、採用について努力する。
 (3)JR各社は対象者に対し、関連企業における雇用の場の提供について最大限の努力をする。この措置は、所定の期間行う。
 (4)JR各社は、その事業区域内で対象者又は対象者を多数雇用する者がJR事業に関連する事業を営む場合には、事業の発注等について配慮を行う。
4、JR各社は、中労委への採用差別事件に関する再審査申立てを取下げ、各組合は、これについての地労委命令の履行を求めない。
5、採用事件解決後、JR各社と各組合は、残りの配属等の事件についても、中労委の場で円満な解決に努力する。

追悼 小川源さん
告別式に四百人


 三里塚芝山連合空港反対同盟(熱田派)世話人の小川源さんが六月三日午前五時十六分、亡くなった。享年七十七。
葬儀は五日正午から木の根の自宅で、反対同盟員や全国から駆けつけた支援の人々を含めて約四〇〇人が参列して行われた。反対同盟の石井武さんが心のこもった感動的な弔辞をささげ、辺田の小川本家の小川剛正さんが親族を代表して、源さんの遺志を受け継いでいく意志を参列者に表明した。
 源さんは昨年八月の夏祭り、都はるみコンサートのあと入院し検査を受けた。食道ガンと判明し食道摘出の大手術に耐え、昨年十二月には自宅療養が可能なまでに回復した。本年三月には四・五集会への招請状に最後となった全国への闘争呼びかけが掲載された。
 一九一四年生まれ。戦後の御料牧場への入植と困難な開拓事業、それに続く理不尽な自民党佐藤政府による一方的決定による問答無用の立ち退き強要との闘い。源さんが生前、あらゆる政府・公団の欺瞞的な懐柔策に対して「問答無用」と言い続けた陰には、この政府の権力をかさにきた高圧的姿勢に対する心底からの怒りがあったのだろう。
 石井武さんの弔辞にもあったが、源さんは兄の明治さんが亡くなるまでは目だった存在ではなかった。が、明治さんの死後、源さんが、二期用地の中枢というべき木の根と結び付いて、常に闘いの最前線にあった。七一年の地下壕の闘い、七八年の横堀要塞の闘いで逮捕された。また八一年にはフランスの空港反対闘争のラルザックを同盟代表団の一員として訪問した。そして周知のように二期攻撃に対しては同盟の先頭に立って闘い続けた。まさに熱田さんとならぶ反対同盟のシンボル的存在であり、用地内を代表する人格だった。
 現在、政府公団は強制収用を言明するにいたった。四分の一世紀を経過した同盟の闘いは、二期阻止のスローガンを現実のものにするまであと一歩の所まで到達したといっていい。
 源さんが、この闘いの最後の勝利を見る前に倒れたことは本当に無念であったろうと推察する。
 同盟とともに源さんの遺志を受け継ぎ闘っていかなければならない。
 謹んで哀悼の意を表します。