1992年9月10日         労働者の力             第36号

進む自衛隊の海外侵攻軍化
アジア民衆に敵対する自衛隊カンボジア派兵阻止!

 日本自衛隊の初の海外派兵部隊に陸上自衛隊中部方面隊・第四施設団が選定された。国連は九月三日、日本政府に対して、UNTAC(国連カンボジア暫定行政機構)の平和維持活動要員として、停戦監視団八人、施設部隊六百人、警察七十五人の計六百八十三人の派遣を文書要請した。宮沢政権は二日午後、派遣日程を確認し、八日の閣議で決定する。カンボジアへの派遣は当初十一月と想定されていた。だがUNTAC明石代表の強い要望があり十月にくり上げられ、十月十三日に本隊四百人が出発することになった。具体的には、停戦監視団八人が九月十六日前後、施設科部隊の先遣隊が九月下旬、そして本隊が十月十三日である。さらに輸送に携わる海、空の自衛隊員六百余人もPKO部隊要員として組み込まれている。これらの派遣期間は来年八月末のUNTAC活動期限切れまでの一年間であり、要員数は中途交代のため、交代時期には倍の千三百六十六人になる。

東西で準備進む自衛隊
カンボジア派兵阻止闘争
 
 PKO法成立阻止の一連の闘いを引き継いで、部隊の大部分が派遣される京都・宇治市の大久保駐屯地への抗議行動が組織されはじめている。
 京都では洛南地域反戦月間実行委員会などによって、闘いの山場として九月二十七日(日)午前十時から「宇治大久保基地、人間の鎖闘争」が準備され、全国からの結集を呼びかけている。
 中部方面隊が選定された理由は他の方面隊がそれぞれにはずせない任務をかかえているからだと説明されているが、首都圏では朝霞基地で「欠かせない任務」としての自衛隊中央観閲式が十月末に予定されている。これは海外派兵という歴史の決定的節目を意識した自衛隊の一大セレモニーであり、「国際平和のための派兵」という自公民ブロックの欺瞞にみちた論理のキャンペーンの場とされている。毎年行われている朝霞基地闘争の蓄積を踏まえつつ、首都圏でも実行委員会による反派兵・反観閲式の闘いが取り組まれている。
 西の宇治・大久保基地、東の朝霞基地と闘いの焦点が定まりつつあるが、東京では九月十七日の日比谷野音での集会から、先に全国的力を発揮したPKO法案阻止全国実行委員会を継承する形で実行委員会の組織化と波状的な闘いが準備されている。

PKOを突破口にする自衛隊の侵攻軍隊化の開始 
 

 九月十一日の宮下防衛庁長官の指示で正式部隊編成が行われるが、第四施設団が派遣されるのは、カンボジアの南部地域であり、いわゆる「比較的安全な地区」である。UNTACの明石代表との談合で決まったものである。「道路、橋などの建設・修理」などの業務が「国際貢献」の具体的内容だが、地雷撤去などの活動も想定されている。同時にその活動を支えるために自衛隊はいままで想定されていなかった海外での部隊展開のシステムおよびその輸送手段形成に大々的に乗り出しはじめた。来年度予算への概算要求のなかに、防衛庁はほぼ一万トンものの大輸送艦の建造費をもりこんでおり、また熱帯、亜熱帯地域に対応する装備におおわらわである。
 日本自衛隊はその専守防衛という名分から、装備の面からいってもはっきりと海外展開部隊化に踏み出したのである。国際貢献論は自衛隊派兵論の美名であった。そして平和のためにという論理は自衛隊の海外展開論に帰結した。「平和のため」に世界大戦がなされ、侵略軍の侵攻がなされたことは歴史に数限りがない事実である。
 日本軍隊が戦前において全アジアを踏みにじり、世界を相手に帝国主義戦争を行ったのも「大東亜の平和」のためであり、国益擁護のためであった。「紛争解決の手段としての戦力を永久に放棄する」という現行憲法第九条は、国際紛争解決の手段としての自衛隊の派兵が国際貢献の要であるという論理にすりかえられている。
 いったん自衛隊の海外展開能力が整備されれば、いまや世界有数の軍事力を保有する日本軍隊は、(アメリカおよびアメリカ主導の)国連という仮装のもとに、世界秩序に関する「独自の」観点から介入していく術を与えられることになる。
 戦後の長い間、日本民衆は自衛隊が海外派兵能力をもたないという一線で、現行憲法との矛盾に目をつぶってきていたといえるであろう。いま、その幻影がやすやすと破られつつある。

アジア民衆と日本国家――天皇免責を起点とする戦後日本国家の矛盾

 警察予備隊から保安隊、そして自衛隊へと一貫して日本軍隊を育成してきた勢力の政治的立脚点は、基本的に帝国主義軍隊の再興を信奉する勢力であった。これらの勢力は、旧軍を正当化し、アジア侵略ではなくアジアの植民地からの解放を促進したのだと言い張る。また国家神道を支持し、A級戦犯をまつる靖国神社の国家護持を主張する。南京虐殺が誇大宣伝だとする意図的な歴史の歪曲を鉄面皮にも押し通そうともしてきた。こうした勢力は、現在においては従軍慰安婦問題について、政治的な背後の意図の摘発運動や「恥をさらすな」というキャンペーンの実行者たちでもある。
 自民党の石原慎太郎が「南京虐殺はなかった」キャンペーンに担ぎだされ、上坂冬子は従軍慰安婦問題は政治的な意図的でっち上げだとのキャンペーンの先陣を切る。中央公論から文芸春秋というマスコミがこうした勢力に占拠され、ブルジョアリベラルを標榜する朝日新聞「退治」に血道をあげている。
 こうした勢力が自衛隊による「国際貢献」「国際平和のための自衛隊派兵」論者なのである。自民党が右翼・暴力団と深く結びついた存在であることは、金丸副総裁が身をもって示した。自民党はアジア侵略の事実を隠蔽し、それどころか旧大日本帝国軍隊の歴史的正当化を進めてきた当の責任者なのである。
 こうした勢力、すなわちアジア民衆にいっさい詫びることなく、戦時賠償をアジア諸国の反共独裁政権への経済援助にすりかえてすんだことにしてしまった勢力が、いま国際貢献論を唱えているのである。
 なぜか。その答えについて、最近まで日本的、アジア的には説明が簡単だったように見えていた。すなわち戦後における東アジアにおける東西対立が日本国家の反共国家としての育成を第一義的に要求したということである。
 だが、ヨーロッパにおける同様な敗戦国である西ドイツがおなじく反共国家として育成されたにもかかわらず、その「戦後処理」すなわち侵略と大量虐殺への謝罪と賠償のレベルが日本とは比較にならない水準でなされ、かつ旧ナチスドイツへの厳しい糾弾が国家レベルで遂行されてきた事実はほとんど知られることがなかった。西ドイツは、分断国家としてその存在意義を明確にするためにも、旧ナチスドイツへの徹底批判と謝罪・賠償を民衆レベルで推し進めることが必要であったのである。
 もちろん反共国家であり、かつクルップなどの西ドイツ資本がナチス時代からの継承であること、そうした関係のなかでキリスト教民主同盟を中心とする資本家政党に旧ナチスの残存勢力が潜入し支配勢力と接点をもつなど、旧ドイツ帝国に郷愁を感じる傾向が完全に一掃されていたとはいえない。ナチスによるユダヤ人の組織的な大量虐殺であるホローコウスト報道が七〇年代の西ドイツの戦後世代に大きな衝撃を与えたという事実からも、キリスト教民主同盟主導の保守党政治がナチス時代の事実報道に相対的に消極的だったということも事実である。
 多くのドイツ民衆にとって、ナチス時代の悪夢を忘れ去りたいという意識も作用していた。だが、以上は日本国家と比較すれば天と地の違いがあるなかでのことである。
 ナチスの打倒をつうじて戦後国家が再建されたドイツと違って、戦後の日本において、天皇制が存続し、戦争責任を免責された天皇制のもとで、旧戦犯である岸信介が総理大臣になることが可能であったような支配体制の根幹が維持されてきた。すなわち日本の自民党体制は天皇制を維持、継続することを媒介として、旧大日本帝国の支配体制を継承し、したがってその国家主義イデオロギーの根幹をも継承してきた。ここに戦後における日本国家がアジア民衆との関係で果たしてきた特異性の根拠があるのである。
 反共防波堤の一翼をになうことによって、あるいはアジアにおける反共軍事独裁国家群の一部をになうことによって、戦後の日本はアジア民衆を無視して、同盟者である独裁指導部との関係を維持するための賠償を支払った。しかもそれらは、最近報道された外務省の記録によれば、戦争責任に対する謝罪としての賠償ではなく、経済発展への援助金の趣旨であった。日本国家は戦後をはじめるにあたって、天皇制の免責を出発点にした。その結果、必然的に天皇の問題に至る旧日本帝国の責任を承認することを最大限度回避するという国家としての習性が定着していくことにならざるをえなくなったのである。
 天皇制の免責と継承を出発点とする戦後国家は、その憲法において象徴天皇制を掲げ、同時に戦力放棄条項を掲げた。後者は前者の隠れ蓑として利用されてきたともいわざるをえないのである。

日本の戦争責任と謝罪を要求――国家の枠組みを突き破るアジア民衆の登場

 東西対立の終えんは、一方で革命中国と結合することで将来を展望しようとしてきた戦後アジアの社会主義運動の一時代を終えんさせると同時に、他方で反共同盟という日本国家にとっての防護壁を消滅させることにつながった。もはやアジア民衆が日本の戦争責任を追及し、謝罪と賠償を求める動きを阻止する政治的必然性は、アジアにおいては基本的に失われたのであるし、またそうした阻止行動を進めてきたアジア各国の反共独裁政権の存在の基盤も失われてきている。
 東アジアは八〇年代を各独裁政権に対する民衆の立ち上がりという歴史的うねりの進展を示してきた。こうしたうねりは当然にもアジアを侵略し、軍事支配を行った日本国家への怒りの大波につながるであろう。日本は今、アジア民衆の積年の怒りに直面しはじめた。この動きはさらに拡大するであろう。
 新日本軍隊の派兵元年としての一九九二年が、アジア民衆による日本国家への戦後補償と謝罪要求のうねりが高まることと同時であることは、まさに歴史的必然である。
 東アジアの東西対立の時期が終えんすることによってはじめて新日本軍隊の海外派兵が可能になったからである。東西対立の時期においては、国連安全保障理事会の機能が麻痺し、反共、反革命戦争がアメリカ帝国主義によって遂行された。こうした国際政治構造にあって、日本の軍隊が海外派兵を行うとすれば、それはアメリカ帝国主義の同盟軍として以外ではなかった。国際的にも国内的にも日本政府はそうした露骨な事態に耐ええなかったであろう。
 現在、アメリカ帝国主義の国際戦略の一部をになうという、その本質においては変化はないものの、国連が前面に出た形での「平和維持活動」=PKOの一部にもぐりこむ形で新日本軍隊=自衛隊の海外派兵が可能になったのは、まさにアジアにおける東西対立の終えん期あるいは転換期の産物にほかならないからである。
 中国外交はインドシナ、朝鮮の両半島という熱い戦争が闘われた地域での冷戦構造の収拾に意欲的に動き出している。
 中国と韓国の「電撃的」な国交樹立は、カンボジアでのポルポト派支持の見直しの動き、さらに日本天皇の中国招請などの一連の動きのなかで理解される必要があろう。軍事的対峙と相互打倒主義の時代としての東アジアにおける東西対立からの転換を進め、相互に国家と体制の承認保障を確定していくという意味において、中国は自己の一党独裁を堅持しつつ、東アジアにおける国際的な相互保障を前提とした安定化を進めようとしている。
 きびしい綱渡りの道ではあろうとも、開放経済化と大胆な市場経済の活性化によって経済的成長を進めるなかで体制の安定の基盤をかためようというのであるから、中国路線は北部朝鮮の金日正の従来路線やカンボジアのポルポト派の生き残り展望との齟齬を拡大していくことにならざるをえない。
 東アジア全域を通じて、一時代を表現した反共の独裁も、「社会主義」の独裁も歴史の場面から退場を余儀なくされつつあるし、退場させなければならない。
 開放社会に耐えられない「社会主義」に同情の余地はない。それはフィリピンのマルコス独裁が打倒され、あるいは韓国の軍事政権が民衆との対峙に耐えられず、台湾の国民党独裁も同様の道を歩んでいると同じである。中国が今後さらに多くの天安門をむかえることになることも同様である。
 アジアにおける民衆が政治の主舞台に登場しはじめているのである。依然として旧時代の(開発)独裁思考や権力腐敗が持続しているのも現在のアジアの政治的状況にほかならないが、こうしたタイの軍部やマレーシア、インドネシア、さらにはビルマ軍事政権などが依存してきた冷戦構造は過去のものになりつつあるのである。
 もちろん以上の独裁・半独裁の政権が過去だけに依存しているものではなく、明白に日本の資本主義との癒着が大きな支えとなっていることは事実である。だからこそなお、日本国家がアジアの民衆との関係で醜悪な存在として再生産されているのであり、国家間の関係がどうあろうと、それを突き破る形でアジア民衆の戦争責任追及、賠償要求の闘いが拡大していくことは不可避である。
 もはや日本国家は、従来作り上げてきた国家間賠償は解決済みという論理に依存することはできないのである。天皇の中国訪問が、あるいは近い将来なされるであろう韓国への訪問が、当該の政権によって外交儀礼的にあつかわれようとも、民衆が天皇によって代表される旧日本帝国主義の悪行を許すことは決してないであろう。
 日本天皇が、未来永劫その戦後処理における免責に居座り続けることは不可能である。天皇が全東アジア民衆に謝罪すること、その戦争責任を明確にすることが必要なのだ。日本民衆が中国の民衆に、朝鮮の人々に、そしてアジアのすべての人々にむきあうためには、まず戦後処理において免責した天皇制をして全面的に謝罪と責任を明確にすることからはじまるといわなければならない。
 
東アジアの新たなパワーゲーム――政治的欺瞞としてのカンボジアUNTAC

 東アジアは歴史的な大きな転換期に突入している。東西対立期の諸々の政治的枠組みの再編が急激に進んでいる。軍事的対立を基軸にした旧来の枠組みの再編は、同時に抑圧、弾圧されてきた全アジアの民衆の力が大規模に台頭するうねりと矛盾・対立しつつ重なり合って進行しはじめているいる。
 再編期の東アジアの新たな枠組みをめぐって、日本国家は経済的のみならず、政治的および戦後はじめて軍事的にも影響力を行使し、地域的な主導権を掌握しようとしている。だが、こうした日本の明々白々な狙いに対しての警戒の意識もまた根深い。中国外交の急展開が、こうした日本の地域的ヘゲモニーへの牽制のねらいからも導き出されていることは明らかだ。
 こうしたポスト冷戦における東アジアをめぐる外交的駆け引き、パワーゲームは、冷戦終了にもかかわらず、アメリカによる台湾への大量のF16の売却決定や、南沙、西沙諸島をめぐる軍事的紛争の兆しなど、国家利害を露骨にあらわした対立や緊張をはらんだものとなっている。
 カンボジア和平問題もまた、カンボジア民衆と無縁の政治的パワーゲームの舞台の産物として演出されているのである。
 ここで明確にされなければならないことは、東西対立や国家利害のもとで全アジア規模で普遍化されてきた民衆の力の台頭であり、そうした民衆自身による政治の実現に力をつくすことである。
 すでに明らかだが、カンボジア民衆の大虐殺を遂行したポルポト派は中国、アメリカ、タイ、そして日本も加わった国連によって過去十余年にわたって擁護されてきた。
 ポルポト派を擁護し、かつ現在その存在をカンボジア民衆に受け入れることを強要しているのはまさにUNTAC=国連である。ポルポト派への国際的支援がなければ、この派が存続しえないことは明らかである。
 ポルポト派は自己解体すべき存在なのだ。そうする以外に選択はない。すべてのカンボジア民衆にとってポルポト派を許容することはありえないことであろう。ポルポト勢力が過去の大虐殺を居直り続け、責任を回避しつ続けることを許容して民族和解をうんぬんすること以上の欺瞞はありえない。
 ポルポト派はUNTACの枠組みを最大限に利用して、生き残りの枠組み作りに奔走している。反ベトナムの民族意識をあおりたて、プノンペン政府をベトナム勢力であると規定させようとする。プノンペン政府の弱体化、あわよくば解体を実現しつつ、カンボジア民衆の圧力に対抗する権力構造を手にしようというのである。彼らはプノンペン政府が少なからず政権目的を喪失し、民衆との距離を拡大している状況を見て、可能性ありと踏んでいるのであろう。
 明石はUNTACの枠組みの遂行者であり、ポルポト派との緊張関係はこうしたUNTACの枠組み内部の緊張である。
 ポルポト勢力は最終的にはUNTACの枠組みにとどまるであろう。そしてその枠組みにおいて生き残りを策すであろう。ガリ国連事務総長がカンボジア和平に楽観と述べた(九月二日)ことの根拠はここにある。
 ここに存在していないのはカンボジアの民衆である。
 関係諸国は、政治的パワーゲームを即時停止すべきなのだ。ポルポト派への援助を即時に停止し、ポルポト勢力の運命をカンボジア民衆の選択にゆだねることが必要なのだ。
民衆がのぞんでもいないポルポト勢力の復帰を意味するUNTACをおしつけ、その遂行のために「平和維持活動」として軍事力を派遣することは即座に中止すべきである。

 自衛隊のカンボジア派遣阻止!

日本政治の総利権構造化を打破する新たな政治勢力の形成へ

佐川マネーと自民党政治の腐敗

川端 康夫

 佐川マネー政界還流をめぐって、八月二十七日、五億円授受を認めて自民党副総裁で竹下派会長の金丸信が副総裁辞任を表明した。首相経験者三名、派閥トップ、現閣僚をふくめて、総計二十一億円の資金が流れたと言われる。さらに金子新潟県知事には三億円の選挙資金が流れ、検察の調査がなされている。数千億円にのぼる中、九月一日、否定しきれなくなった金子知事はついに辞表提出においこまれた。
 佐川マネーが、一部は暴力団稲川会に流れ、他の一部は政界に流れた。そうして東京佐川の渡辺と金丸を中心にして、これらは相互に結びついていた。新潟ルートでは、二億円が知事選挙で金子に候補者を一本化するための資金として使われたのであり、金丸への五億円はその一本化を進めたことへの謝礼だった。稲川会の石井への巨大な資金提供は、右翼対策に悩んだ竹下を救いだすために金丸が渡辺をつうじて対策を石井に依頼した見返りだった。
 また竹下、小沢に各二億円が提供されていることを見れば、佐川事件は自民党最大派閥の竹下派を中心にし、右翼・暴力団と結合した巨大なアングラマネーをめぐる癒着構造の表面化であり、自民党政治の金権的な本質を暴露するものである。
 
金権政治としての自民党

 佐川マネーをめぐる一連の関係は、リクルート事件が騒然としていた時期に進行していたことであった。政治改革が叫ばれ、小沢が幹事長として政治改革を小選挙区制度導入にすりかえるという露骨な動きに出、金丸が海部、宮沢という二人の首相を誕生させるという過程の背後の出来事であった。
 金丸の辞意表明に対して、宮沢をはじめ自民党首脳は懸命に慰留に動いた。また竹下派は全体の総意として派閥会長辞任に反対であると表明した。自民党にとって、その本音というものがこれほど赤裸々に表明されることもまためずらしいことだが、まさに巨額な資金が闇から闇へ、つまり右翼や巨大組織暴力団と結託したアングラマネーが、「政界の実力者」に流れるという事実はいまさらに驚くことのない、「常識」になっていることだからなのである。自民党首脳は金丸慰留の理由に、金丸辞任が先例となって、暴露された当事者がみんな公職辞任に追い込まれることになるという、まったく人をばかにしたような理由をあげた。さらに金丸は議員を辞職するつもりがさらさらないことをも自ら公言しているのである。
自民党で名があがっているもののうち、金丸以外のすべてが金銭授受を否定している。外務大臣渡辺は他人ごとのような態度でロシア訪問にでかけた。金丸自身も最初は全面否定の態度であった。そして最後までシラをきりとおすべきだとの意見も周囲には強かったらしい。これらは、現行の政治資金規制法に関して、基本的に金銭授受だけでは法に問われないということがあるからであり、したがって検察が中途で捜査を放棄する可能性を計算しているからだ。
何十億、何百億が流れようと、「職務権限」がなければ罪、すなわち贈収賄に問われることがなく、報告をネグレクトしても政治資金規制法で問われるのは政治家本人ではなく会計責任者だからである。しかもその罰則は二十万円の罰金といった程度のものだ。そしてそうした闇収入が課税されたという話も聞いたことはない。まさに政治家たるものは、自民党議員ともなれば濡れ手に粟の職業というべきである。
しかも彼らは自民党という政権党の首脳部、実力者として、時たま摘発される野党議員と違って、公然とした形で「職務権限」を発揮する必要はない。料亭政治で影響力を行使すればいいのだから、「巨悪中曽根」のごとく、せいぜい公職辞任程度ですむ。金丸は事実を否定することでシラをきりとおすことより、中曽根の方式を、しかも率先、先手をうつ形で選択した。これで落着という検察への圧力をも計算に入れてのことだ。へたにあがいて、世論の憤激に追い込まれることを避けたと同時に、金竹小、とくに小沢への波及の全面化を阻止する狙いがあることは一目瞭然なのである。
自民党政治とは利権政治である。その利権は、「実力者」が金で派閥を肥大化させ、その数の論理で自民党を牛耳り、ひいては日本政治を牛耳るということのために、いわば「正当化」されてもいる。田中角栄が加速したこうした金権政治の全面化は、当然にも政商政治を蔓延させ、そうした政商たちと癒着した自民党政治に、次々と参入を試みる勢力が出現する。リクルート、共和と続いた一連の事件は、小佐野や小針という政商たちの系譜がさらに拡大し、同時に自民党のうちで実力者入りをねらう連中が次々に政界癒着をねらう企業をだきこんで利権拡大を図るという構造をつくりだしてきている。
だが自民党政治の特質は、こうした一部の政商政治とそれに群がる利権政治家の跳梁という現象だけでは語れない。構造の総体が利権政治そのものであり、そうした基盤の上に利権政治が横行しているのである。数百億もの政治資金が財界によって提供され、個々の業界団体が政治献金を行い、政治家個々人は複数の政治団体をかかえて資金の不透明な流入を策している。
官僚機構は許認可権を駆使して業種団体を動かし、自己の選挙母体と資金集めの手段にしている。これらの見返りは、税金のばらまきの恩恵に預かるということである。

利益誘導政治と政治離れ

 参院選挙での自民党の勝利の意味があれこれと取り沙汰された。史上最低の投票率という結果をとらえて、有権者の政治離れ、政治不信の拡大を指摘する見解が多数を占めた。
 PKO問題が焦点でありかつ焦点にならないという奇妙な現象が発生したと同時に、佐川事件の政界波及が参院選挙前にはない、つまり選挙後にしかないということも公然たる事実であった。
 危機を意識する創価学会を別にすれば、利権政治の構造を意識する自民党支持層の大半以外に積極的に投票行為を行う層は多くはなかったというべきだろう。農民団体も今回はより積極的に自民党支持に流れた。嘘を承知で「米自由化反対」「生産者米価据え置き」という公約を受け入れた。商業業界もまた、消費税導入での簡易税制適用の「恩恵」を忘れていない。消費税導入によって利益を得るという自民党のからくりを否定することはないからである。
 バブルの崩壊で損失を受けたのは、多くは小金持ちである。ゴルフ会員権、株などでの取引におどった人々は、傷心のうちに自らの傷をなめていればいい。一般民衆が密接にかかわる領分ではない。
 社会党は巨大労組とは密着するが、しかし日常的にはますますわけのわからぬ存在になり、さりとて共産党にパトスが燃える時代でもない――投票率が上がるような基盤はどこにもなかったといって過言ではないであろう。
 利権と金権の政治構造は、各種業界団体などを通じたボス政治が突出していくことでもある。そうした政治状況が醸成する一般的な政治無関心はその反面、政治へのやりきれなさをも伴うものだ。細川新党への予想以上の投票はこうしたことを反映したものだと理解される必要があろう。

土井ブームと日本新党

 四年前の参院選挙では、土井委員長のもとでの社会党ブームが渦巻いた。その波が引いた状況で有権者のパトスを燃やす要素を探すとすれば、得体がしれないにしても一応、地方分権などの自民党政治への批判勢力の形をとって登場した日本=細川新党しかなかったのだ。数多くのミニ政党が過去において自民党に吸収されてきたことへの幻滅もあったであろう。
 細川新党への票の流入が相当程度社会党支持層からのものであったという分析がされている。とりわけ選挙区選挙において連合型、それも明らかな民社陣営候補が擁立された地域ではなおさら社会党票の求心力が弱体化し、変化を求める意識が細川新党に流入したのである。東京においては社会党は細川新党に及ばなかったのである。
 ここで細川新党がなにものか、規定しきることは性急である。日本新党の動きの全体像は未だ不明でありつづけている。東京・渋谷での都議補選で自民党の公認漏れが日本新党として当選した事実を見れば、新自由クラブの焼き直しのようなものとも見られるし、あるいは連合型選挙に対する「めくらまし」の高等戦術という説を無視することもできない。
 現在、日本政治における「保守」が、前述のように輸出立国、輸出至上主義の日本株式会社の国家総体としての利権構造への参入と分け取りの運動であることを見れば、そうした利権の枠組みからはじかれることは、「保守」党としての存在基盤を見出せないことになる。その意味で新自由クラブの失敗を越える保守新党の可能性、あるいはアメリカタイプの保守二大政党論の可能性には大きな疑問がつきまとうのである。その反面、「めくらまし」という性格は、その新自クが発足当初にブームを起こしたように、既存保守=自民党に幻滅を感じざるをえない広範な都市住民層を広い意味で「保守」陣営につなぎとめること、それが一時的な効果に過ぎないにせよ、少なくとも反自民の旗印を掲げた保守が「革新」の増大にくさびを打つことになる。新自クにつきまとった政治的うさんくささをこの細川新党も免れるものではない。
 だが、こうした「めくらまし」論が政治戦術として成り立つ可能性を否定できない以上、細川新党が何者になるかを占うこと以上に、それに投じられた票の性格を問うことが肝要となる。
 少なくとも、ビッグビジネスとビッグユニオンの政治、あるいは利権・金権型政治と中央系列化された縦割りのボス政治、さらには宗教団体の政治といった性格の既成政党の枠組みから、なんらかの形で「はずれた」人々による投票行為が背景となったことは事実と思われる。総利権構造への公明党の参画が進み、また民社党も、トヨタに見るようにビッグビジネスのさじ加減一つで左右され、また中小商工業者を背景に利権構造への参入を果たさねばならないという自公民ブロック強化への政治的な嫌悪感の一部が日本新党への投票行為として表現されたのである。
 四年前の土井ブームは、連合という正体不明の存在を反自民、革新の一部として持ち上げ、圧勝状態をつくりだした。新自クしかり、連合ブームしかり、そして日本新党またしかり。膨大な都市住民層の現状への不満を背景とした動向は、確かな方向性をもたないままに揺れ動いている。そして日本政治の総利権構造化への反発、嫌悪を具体的な投票行為として表現しうる対象が浮上する度合に応じて、こうした選挙民の「良識」が力を示すのである。

利権金権政治への融合としての現実政党論

 二大政党論が語られる。健全野党論が野党陣営から、主要に社会党の「現実政党」化への要求として語られる。これは金丸が強く主張することでもある。だが、こうした現実政党論は、日本新党の直面する運命がそうであるように、日本株式会社の総利権構造の分け前取りへの参入を進めること以外の何物でもない。
 現状では公明党がそうであるように、自民党体制のおこぼれあずかりの政治である以外ではない。同時に連合というビッグユニオンがその実体が企業連組合の連合にすぎないのであるからして、ビッグユニオンの独立した政治展開がはかられると期待することもできない。連合を通じた資本への従属の深化が連合の主張する現実化論の正体である。
 今回の参院選挙は社民結集論に決定的な打撃を与えた。山岸や田辺が推進しようとした社民結集は同じ形ではもはや不可能になったと断言できる。
 次は、連合本体が新党形成に動くか、社会党の一部あるいは大半がそれに引きずられるか、いずれにせよ社会党は明確に分裂・再編の歴史的時期にむけて動きだしていかざるをえないであろう。だが、鷲尾ら「連合」の次世代が望む新たな「アメリカ型民主党」的構想自体、「連合」が依拠する企業連組合のもとでは「民主主義は工場の入り口で立ち止まる」ことを越えることができない。民社党が党存亡の危機にあり続けている理由と同じ論理が「連合」主導においても変わらずに貫徹するといわなければならないだろう。
 言い換えれば、自公民、あるいは連合や社会党の一部をも包含した政治ブロックの基盤が利権構造の分け前取りの論理である。現実政党論の提唱者たちの勢力は日本株式会社の論理に無抵抗である。そして、民社党が典型であるように、こうした勢力は自民党の、せいぜいよくて補完物以上にはなれない。より積極的には、民社の塚本などに見るように、いずれ自民党に吸収されるだけの存在であろう。

「連合」政治の対極を示した内田選挙

 問題は、こうした総利権構造化への反発と嫌悪を示す膨大な都市型市民層――革新でもあり、無党派でもあり、かつまた新保守の要素でもある――を中心にした層の動きにある。
 土井ブームは社会党ブロックのビッグユニオンの圧力に足をすくわれ、自壊した。社会党の日常構造は総評解体という状況下において、まさに連合型政治の統制下にあると言って過言ではなかろう。PKO法案反対闘争が議会と議員面会所前に限られ、社会党総体の構造はなんらの積極行動をとらなかったという絶対的なギャップが現在の社会党を象徴している。
 連合にハイジャックされた党機構と、それとは相対的に別個に動く社会党系革新支持層、それからも独自の無党派層革新――こうした関係の矛盾はさらに尖鋭化せざるをえないであろう。社会党の日常の組織機構がまさにその支持層から遊離しているし、その度合を拡大させているのである。
 東京における内田選挙と広島の栗原選挙――当選ということでは明暗を分けたが、基本的な政治構造構造は同質である。連合に占拠された党機構への造反であり、市民層のエネルギーを吸収した。広島の闘いが従来からの県本部・旧総評系労組が組織的に主導したが、東京での内田選挙は、PKO法案反対闘争を主要にになった非社会党系市民運動と全労協と結ぶ労組・労組活動家および社会党・社民連の護憲派議員・活動家の連携の延長だった。
 内田候補が獲得した三十二万という得票は、全都で八%だが、多摩市での一五%、小金井市での一一%強という数字がはじきだしたものである。知名度、組織、準備期間のいずれにおいても絶対的に不利な条件のもとで内田陣営が結集したエネルギーは特筆にあたいする。多摩市においては複数の革新無所属議員の闘いの蓄積があったし、全都レベルにおいても同様である。社会党組織が除名を含む統制処分に出、多くの議員や活動家が活動を制約されるなかで力を発揮したのは、無党派市民と非・反連合の労組活動家たちであった。
 もちろんこうした活動家たちのうちに、票の死票化をおそれて、選挙戦終盤の局面で反自民の観点から森田を、あるいは反PKO法の立場から上田耕一郎を推したり投票したりした人も少なくないであろう。とくに上田を落としたら最悪だ、という意識はそれが政治的に健全な立場であるだけに、共産党が内田候補に加えた悪質な誹謗と中傷は一層許しがたい。これは、この党の旧来思考のどうしようもない救いのなさを際立たせることでもあった。良識ある共産党党員や支持者たちにとって、こうした旧思考体系はもはや苦痛であるとも伝えられている。
 内田選挙それ自体は、最終結果は別にしていえば、選挙戦の流れからして勝利まであと一歩だった。知名度や組織力、準備期間がゼロだったことのハンディが、終盤の流動を内田候補に引き寄せる上での弱さとなってあらわれたといえる。

利権・金権政治と対決するあらたな政治勢力の形成を

 内田選挙と栗原選挙は、社会党内外の活動家層と市民層の結合の可能性を、すべてではなくともその一部を描き出した。とりわけ東京での内田陣営の闘いは、その主力が、公式的には社会党組織の外部の運動によってになわれたという意味は大きい。言い換えれば、「連合」という巨大な労働組合センターの圧力のもとで社会党組織が主体的な独自の力をますます発揮しえなくなっていく時において、党組織の外部にさらに拡大する独自的な運動の比重はさらに大きなものとなりつつあるのである。
 遊離する「革新」支持層、膨大化していく無党派層をあらためて相互につなぎあわせ、主体的・独立的力へと結合・連合させていくことの可能性を、より本格的に追求していく必要性が示されたのである。
 日本株式会社という枠組みを共通するという意味において、自民党政治も「連合」が求めていくであろう政治もかわりがない。それはまさに企業至上主義を土台として成立する利益誘導と利権・金権政治の温床である。佐川マネーと金丸を筆頭とする金権構造を打破する政治的エネルギーは株式会社日本の対極にうち立てられなければならない。企業活動を統制し、利潤第一主義の価値観を打破する流れは日本社会の構造が要求する流れである。
 さまざまな市民運動や新たな価値観を求め、掲げる運動は、こうした社会要求の先取りの表現である。
 内田選挙が示した豊かな可能性をさらに現実的政治勢力への結び合わせていく努力によって、利権金権の自民党政治に最大の打撃を与えていくこと決意としなければならない。
 結成された社会主義をめざす政治連合がめざすべき第一の課題がここにある。     (九月一日)
旧ユーゴスラビア
                 持続する戦争

 ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の首都、サラエボへの包囲が続いている。他方、ミュンヘンのサミットに集まった世界の七大帝国主義諸国の首脳たちは、旧ユーゴスラビアに対する国連の旗の下での武力介入の可能性を警告した。ここに掲載するカトリーヌ・サマリとのインタビューの中で、彼女は、現在の情勢評価と今後の展開の可能性を明らかにしている。インタビューは最初、フランスの革命的マルクス主義機関紙ルージュ七月二日付に掲載されたものである。

――サラエボの現在の情勢をどう評価したらいいのでしょうか。
 まず人道的な援助が到着することを可能にする動きを歓迎すべきです。しかし戦争と大量虐殺の原因、つまり人民の自決権を「民族的に純粋」な国家を打ち立てようとする企ては、そのまま残っています。このことは、ボスニア・ヘルツェゴビナをセルビアとクロアチアとに分割することは不可避的にイスラム原理主義の発展をもたらすことを意味しています。
 サラエボでは数世紀にわたって、宗教と民族が異なるすべての共同体間に寛容の精神が存在してきました。今日でも、「民族間」の虐殺のイメージに完全に隠れていますが、セルビア、クロアチア、イスラムの人々は平和主義的な抵抗を共同して行っています。三勢力が混在しているボスニアの領土的な維持勢力は、民族主義者の軍事装勢力よりもはるかに多いのです。
 セルビア政権とユーゴスラビア軍は、ボスニア出身ではない将官と兵士を本国に送還させて、形式的には紛争地域から撤退しました。しかしユーゴスラビア軍の将官の大部分はボスニア人であり、彼らは依然として武装しています。彼らが、犯罪者や極右ファシストに支配されているセルビア武装勢力に大量の武器や兵糧を与えて支援しています。
 ボスニア当局に十分な軍備が与えられ、セルビア政権とユーゴスラビア軍がセルビア武装勢力と縁を切るならば、ボスニア防衛勢力がセルビア政権側を政治的にも軍事的にも圧倒することになるでしょう。
 ヘルツェゴビナはクロアチア武装勢力に支配されていますが、その政治的な狙いは多民族共存のボスニアの維持ではなく、「民族的に純粋」な大クロアチアを樹立することです。クロアチアは、裏面でこの狙いを追求しています。
 純粋のクロアチア人だけが市民権をもつというわけです。このことはオーストリア出身のクロアチア人は八月の選挙に参加できるが、他方、ヘルツェゴビナに生まれ働いてきたクロアチア市民権をもつ人々が投票権をもたないことを意味しています。

――セルビアの独裁者、ミロセビッチの目的は何ですか、国際的な圧力にどう対応するのでしょうか。
 ミロセビッチはプラグマチストであり、あっさりと方向転換をします。唯一の関心は自分の権力を維持することにあります。当初の目的は、セルビアを中心とする旧ユーゴスラビアの全共和国を再結集することでしたが、これは失敗しました。
 現在、大セルビアのすべてのセルビア人を結集したいと考えていますが、これは失敗しつつあります。
 彼は、セルビアとモンテネグロの連邦によってミニユーゴスラビアを樹立しようとする計画を形式的には放棄しています。ミニユーゴスラビアが国際的に承認されなかったため、少なくとも言葉の上では非セルビア地域でのセルビア民族主義者との同盟関係を破棄しています。
 大セルビア民族主義勢力は、セルビア人社会の一部でしかありません。ミロセビッチはボスニア・ヘルツェゴビナの民族主義過激派とは縁を切ろうとしています。というのは、経済制裁がセルビアの生活に大きな影響を及ぼしており、このままでは彼の政権を弱くなるからです。
 さらに彼は、国際的な承認を得て、各種国際機関における旧ユーゴスラビアの地位を維持して成果をあげようとしています。しかし、この「低姿勢」は、選挙をボイコットした野党勢力の圧力に由来しているのです。
 野党勢力が選挙に参加したとしても、彼が勝つ可能性があります。これは、封鎖が及ぼしている矛盾した影響の一つであり、この問題は広く議論されています。
 多くのセルビア人は、この封鎖を一方的で不公正なものとみており、その一部は政権と同盟を結ぶ方向を考えています。だが、野党勢力には大きな問題があって、そのためミロセビッチ路線に対する代案を提出できないのです。
――野党勢力がベオグラードでデモを行い、学生がストライキを打ちましたが、こうした行動は状況の変化を画するのでしょうか。
 最近行われたデモは非常に重要ですが、同時に彼らの弱さをも示しています。彼らの大部分は、コソボのアルメニア人が多数派である地域に対するミロセビッチの方針とは別の方針をもっているわけでなく、また、すべてのセルビア人を単一国家に統合しようとするミロセビッツの狙いに対しても同じです。むしろ野党勢力はミロセビッツが戦争に負けていることを批判しているのです。社会的、経済的な計画をもっていないのです。彼らの一部は、第一次大戦と第二次大戦との間のセルビアが支配していた専制的な旧ユーゴスラビアを自らの国家モデルを考えています。このモデルは、今日のセルビアでは全く役に立ちません。
 彼らは、もはや後戻りできないし、大セルビア主義路線の破滅的な性格に対する認識が野党勢力の側に進歩的な影響を与えているのだ、と主張しています。特に青年や学生、兵営離脱者の間には、政治的な違いを越えた強い戦争反対の傾向があります。
 現在の大学で支配的なのは、民族主義ではなく、むしろセルビアを自らが存続していくために必要な他の社会、国際世論から孤立させるような政策に反対することです。
 ブラスコビッチが率いる強力な野党勢力であるセルビア再生運動のような潮流でさえ、重要な変化をとげています。彼は、セルビア内のすべての少数民族、つまりボイボジナのハンガリア人、コソボのアルバニア人との即時対話の開始をはっきりと主張しています。またセルビアの民主派はいくつかの連邦的な解決策を提出しています。これは、ここ数カ月の間にコソボで形成されてきた反アルバニア人アパルトヘイトに反対するものです。 この問題は、彼の主張の他の面と結びつけられるべきです。彼の主張は、非セルビア共和国におけるセルビア人の状況を再現するものです。彼は、非セルビア共和国におけるセルビア人と同じ権利をセルビア内の少数民族に与えるように提案しています。このことは、セルビア内のでの多民族共存を承認し、セルビア人が居住するその他の国の主権を承認することなのです。
 セルビアでの政権交替の可能性があります。しかし、まずセルビアの、そしてクロアチアの、すべての共和国で反動的な民族主義政権を克服することなしには、進歩的な結果は生まれません。セルビアで野党勢力が街頭でデモを行っている事実は、旧来の民族主義方針と決別していく新しい路線の始まりにとって有利なものといえます。

自治・連帯・共生の社会主義を
めざす政治連合が結成さる


 八月二十二―二十三日、静岡県修善寺において「自治・連帯・共生の社会主義をめざす政治連合」の結成総会と学習交流会が行われた。全国からの百十余名の参加者および若干名のオブザーバーによって進められた結成総会は、昨年七月の全国準備会結成以降一年間の活動と討論――合意点と違いの幅を共有する――にたって、日本政治の再編期に新たな政治勢力を共同の闘いで生み出していくことを確認した。
 結成総会は、準備会からの経過報告、結成宣言の提案と討論、運営に関する「申し合わせ」(別掲)、活動計画、共同メディア『Op−al』発行と編集部体制、財政、および運営委員会、世話人会、編集委員会の選出を行い、政治連合の発足を全体で確認した。
 代表は複数代表制を採用し、小寺山康男さん、白川真澄さん、高田健さんを選出した。
 同時に、結成アピール(別紙)を確認し、今秋の自衛隊カンボジア派兵反対闘争のなかで大胆に政治連合の全国的形成確立の活動を展開する意志結集を行った。
 結成総会の詳細は共同メディア『Op−al』創刊号(九月十日発行)に掲載される。
 
 結成総会終了後、第二部として二十二日夜に運動分野ごとの交流討論会、翌日午前一杯をかけた「理屈分科会」が行われた。
 交流分科会は以下の五つの分科会。地域活動と議会活動、外国人労働者との連帯、労働運動、反戦・反核運動、協同組合・協同購入活動。
 十五名から三十名程度の参加者でもたれた分散会は、それぞれ相互に初対面が多いこともあって、自己紹介を含めた経験交流という側面と、先進的活動の教訓の共有という性格をあわせもった集まりになった。
 特徴的な内容を紹介すると、地域・議会活動交流分科会では、意識的で系統的かつ独自の政治活動、議員活動の構築が鍵であるという、駿河湾会議の白鳥さんの提起が結論となった。
 労働運動交流会は、全労協運動推進の闘いと日常的に「連合」傘下で活動を続けている立場のギャップを越えて、政治連合としての労働運動を意識的に形成していくことが追求されるべきだという討論がなされた。
 反戦反核をめぐる交流分科会会は、東西冷戦構造の終焉とそれに伴う日本国家の「国際貢献論」と自衛隊海外派兵に対抗する新たな運動構築をめぐる論点をめぐる討論がなされた。
 外国人労働者との連帯の課題は労働組合運動としての連帯活動の蓄積が部分的であることから課題それ自身の意味と運動化の可能性について交流するということからの出発だった。協同組合・共同購入運動も地域ごとに分散的に行われている活動のすりあわせを行った。
 
 「理屈分科会」は、政治再編への対応、社会主義論をめぐる討論、地球環境とオルタナティブ社会をめぐる討論の三つの分科会として行われた。
 分科会のテーマ設定は、政治連合の準備会活動の一年間を通じてホットに取り組まれ、討論、論争された課題、分野を表現するものである。
 政治再編をめぐる討論は、社会党・総評構造といわれたものの終えん、自公民ブロックの形成、自衛隊の海外派兵の強行という日本政治の転換、それを意識した政治連合の発足と将来展望をめぐるものであるし、社会主義論争は解体したソ連邦と東欧の「社会主義」の事態をどう受けとめ、どのように社会主義あるいは共産主義の再生を意識するかという大問題にかかわるものであり、第三の地球環境とオルターナティブ社会は新たな社会主義論や新たな社会論構築の入り口を切り開こうとする課題である。
 それぞれに分科会における複数の報告を、できるだけ違いが表現されるように配慮して討論が組織された。

結成総会の意義と残された課題

 以上の交流分科会や理屈分科会は、もちろんその場でなんらかの一致した結論をもとうとするものではなく、政治連合が実践的、理論的に挑戦していく課題と方向性を相互の確認のもとに明らかにしていこうというものであった。
 その意味では、共同メディアの名称が『Op−al』すなわちOpinion for Alternative Society、新たな社会をめざす見解――が選ばれたことが象徴する、できあいの、少なからずスターリニズム的な色彩を帯びた社会主義論からあらゆる意味で自由であることをめざすという目的への取り組みを表現したものだったといえる。
 政治連合のこうした趣旨は、採択された「申し合わせ」に体現されている。すなわち、社会主義論の見直しは、当然にも政治連合の組織のあり方に貫徹するし、さらにいえば、政治連合を構成する団体、個人の組織的理解にも貫徹していくことである。政治連合という発足した組織について、あたりまえのことではあるが、その組織的な性格の厳密な規定はない。従来の用語を借用した、たとえば「一種の統一戦線である」という規定にとどまっている。
 これは、従来においては少なからず自明の論理とみなされてきた、前衛党論や民主集中制などのいわゆるレーニン主義論、あるいは東欧民主主義革命の過程で提出されてきた「政党の存在価値」それ自身の問題までが検討されるべき課題として意識していることからくるものである。
 連合組織であるから、という消極的観点から、ゆるやかな「申し合わせ」が設定されたのでは決してないことが強調されてしかるべきである。

マルクス主義の危機とフェミニズム

 にもかかわらず政治連合にとって、正確には政治連合を構成する団体・個人のマルクス主義者たちにとって、フェミニズムの問題は現実問題として未解決であった。
 「申し合わせ」は、フェミニズムとエコロジーとの関係を最大に意識しているということの表現にとどまった。
 マルクス主義の歴史において、その開き直りやつじつま合わせに覆われた表層は別にして、マルクス主義の陣営が自己の危機を感じざるをえなかった、その大きな契機はフェミニズムとの直面であり、エコロジー問題の突きつけにあったことは否定できないであろう。とりわけフェミニズムとの関連において、マルクス主義の陣営はその一元論的論理――哲学から組織論まで貫徹する――によって、むしろ「敵対的」論理として受けとめてきたというのが真実に近いであろう。
 われわれ「労働者の力」の立場もまた、八〇年代を通じて、旧第四インターナショナル日本支部における女性差別問題とその組織的対応に対する全面的自己点検の必要性を痛感するところから出発してきた。
 両性の対等委員会システムの実現などの基本的イメージは、おそらくはレーニン主義概念の理解と認識の重大な転機なしにはすまされないだろうということが「労働者の力」出発の共通認識であった。
 さらに第四インターナショナルもまた第十三回世界大会で「組織のフェミニズム化」という課題で検討を全面的に開始した。それは意識的に推進されるならば、インターナショナルの従来の組織論からの全面的な転換に結びつくことになるであろう。
こうした組織論概念そのものの転換に直結するであろうという意識に向き合うものとして政治連合の結成が意識された。だが現実において政治連合は、初発の問題意識の提示にとどまり、具体的にはフェミニズムとの組織関係を未解決のまま、率直にいえば棚上げして出発したといわざるをえないのである。
 結成総会や分科会、交流会などで、政治連合の出発が明らかに男性型組織のスタイルであることへの批判や注文が多かったことはまさに正当なことである。こうした批判や注文が、男性主導論理組織でよくいわれる「女性が少ない」「女性を多く」という、どことなく女性利用主義的なレベルでの批判ではなかったことも結成総会の共通認識であったといえる。
 こうした正当な批判に応えていく作業に踏み込むことを「申し合わせ」自体が要求していることである。「申し合わせ」の簡略な条項に、発足にあたっての政治連合の立脚点と限界点――あるいは挑戦すべき課題と可能性が記されている。

 政治連合共同メディア『Op−al』の定期購読と会員拡大を進め、結成総会が残した課題への挑戦を主体化し、政治流動と再編の時期を新たな政治主体創設によって応えていく活動を、全国で精力的に進めよう。


結成アピール

 政治と社会の現状を憂い、ラディカルな変革への希望と志を持ってたたかうすべてのみんさん。
 本日ここに全国各地・各戦線から集まった私たちは、一年間にわたる準備会活動の積み上げの上に、自治・連帯・共生の社会主義をめざす政治連合(Socialism Now Japan)を結成しました。
 昨今の旧ソ連・東欧の「社会主義の敗北」は、米ソによる戦後の世界支配体制・冷戦構造を崩壊させ、世界史は新たな段階に入りました。市場経済と資本主義の勝利、アメリカの力と正義の復活が謳歌され、多国籍企業のヘゲモニーと国連中心主義が現代世界全体を覆いつつあります。しかし、勝利したはずの資本主義は、南北問題、地球環境問題、民族間の抗争問題などの噴出に直面し、解決の出口を何ら示すことさえできていません。
 これらと連動しながら、日本でも大きな政治的激動が始まり、戦後史の転換が急速に進んでいます。多くの人々の反対を押し切って成立したPKO法をたてに、自衛隊の海外派兵がこの秋に強行されようとしています。これに歩調を合わせるかのように史上初めての天皇訪中が行なわれようとしています。自民党の小沢調査会に代表される潮流は、戦後保守の政治的枠組みをあからさまに投げ捨て、憲法無視・改憲へと踏み込もうとしています。日増しに高まるアジアの民衆の批判と警戒の声にもかかわらず、日本の支配階級は経済大国から政治大国・派兵国家への飛躍をなしとげ、アジアに軍靴で足を踏み入れようとしています。それに対応して、「国際貢献」イデオロギーの下に全野党を統合しながら、国内政治の大再編を狙っています。私たちは、今まさに歴史の岐路に際会しています。
 世界と日本の民衆の運動もまた、変革の展望と主体の根本的な立て直しのための苦闘を続けています。私たちは、社会主義をめざしてたたかってきた自らの運動の徹底的な反省と総括を行ないながら、民衆の主体の再生に寄与したいと考えています。日本でも、エコロジー、フェミニズム、地域自治、協同、人権、反差別などをめざす多様な社会運動が活性化していることに加えて、反PKO法のたたかいが国会を焦点にして力強く盛り上がりました。そのエネルギーは、七月の参議院選挙での東京・広島・沖縄などでのたたかいに受け継がれました。とりわけ、自立した市民運動、「連合」路線と対決する労働組合運動、憲法第九条を活かそうとする社会党内の潮流が連帯・共闘した東京の選挙戦は、新しい政治勢力の登場の可能性を予兆させるものとなりました。
 自衛隊の海外派兵を阻止し、アジアの民衆と連帯しながら派兵国家化を許さないたたかいと共同の戦線を形成することが、さし迫った最大の政治的課題となっています。そして、私たちは、開始された巨大な政治再編の中で、民衆の政治主体の再生、新しい政治勢力の登場を全力を挙げて進めねばなりません。こうした課題に挑戦するために、歴史的経験や思想的立場を異にしてきた政治潮流や個人が、協働・連合することが不可欠です。それは「自治・連帯・共生の社会主義」を共通の目標にしながら、一切のセクト主義とドグマを自覚的に克服し、相互の独立性や差異を尊重し、たたかいの中で信頼と連帯をつくりだしていく試みであります。
 私たちは、こうした志を共有して政治連合を結成しました。私たちは、抑圧と不正議、収奪と非人間化、差別と不平等が横行するこの現代世界と日本社会を根本から変革しようと願っているすべての人々と手を携えて、課せられた歴史的課題に取り組む決意です。

  一九九二年八月二二日
   自治・連帯・共生の社会主義をめざす政治連合結成総会

申し合わせ

1 この組織は「自治・連帯・共生の社会主義をめざす政治連合」(Socialism Now Japan)という。この政治連合は、政治組織、グループ、個人が、路線的、組織的独立性を保持しつつ、戦略的目標を共有して、平等な立場で連合する統一戦線である。
2 この組織は「結成宣言」の趣旨に賛同し、「申し合わせ」に賛同するものによって構成する。会員は個人及び団体とする。会員加入には二人の会員の推薦を必要とする。また、必要に応じて協力会員を置く。
3 総会は二年に一回開催する。総会は政治連合の基本方針を定め、運営委員を選出する。運営委員会は政治連合の全国的運営を行う。運営委員会は、複数の代表者を置き、日常運営のために世話人を選出する。
4 会員は、政治連合のあらゆる問題について意見を表明することができる。この組織の活動と運営は、異なった意見をもつ人々の存在を前提として行われる。組織運営は多数決制とする。会員は、政治連合の諸決定について、不参加の自由が保障される。
5 地方組織については、それぞれの地方に該当する会員を中心に、自主的・自立的につくられる。
6 この組織は、共同メディアの編集委員会の自立性を支持し、これを支える。会員は編集委員会に協力する。会員は自己の意見を自由に投稿することができる。
7 財政は会費及び寄付金、事業収入によって運営される。会費の細目は運営委員会が決める。
社会主義の再建のために

                            織田 進 
 こジュメの目的は、前例のない危機に立っている社会主義運動の再建のために、検討されなければならないとわたしが考える課題を列挙することであった。


 一九九一年以来、われわれは、ソ連邦の崩壊がなぜ起こったのかを理解し、説明しなければならないという、困難な課題の前に立たされている。社会主義者として、社会主義社会を樹立する運動の正しさを主張するためには、この困難な課題に取り組まないですますことは許されない。
 ソ連邦は、単に一つの連邦国家であっただけではなく、第二次世界大戦後の世界を、二つの体制の対立の構造として規定してきた、その一方の体制そのものであった。この体制は、「社会主義」として一般に呼ばれ、理解されてきた。われわれ自身も、この体制の革命的な批判者であると主張することによって、われわれの理想とするものを明らかにしようとしてきた。
 したがってソ連邦の崩壊は、多くの人々によって「社会主義」の敗北を意味するものであると見なされ、社会主義を目指す運動全体が根拠を喪失したことを証明したものであると現に主張されているのである。

1 いくつかの説明の方法

 ソ連邦の崩壊という現実を、「それがそのまま社会主義の敗北を意味するわけではない」とする立場から説明する努力が、われわれの運動の中でなされてきた。
(1)「マルクス主義の原点」に立ち戻る方法
 マルクス主義の出発点においては、社会主義は資本主義の矛盾の止揚として、資本主義的生産関係における発展の限界を突き破っていく人類の運動として実現される社会であり、したがって本来最も先進的な資本主義から、社会主義に踏み入っていくものと構想されていた。
 だが、現実の「社会主義」は帝国主義時代における後進国の近代化の、「資本主義を通過しないで進む道」の上を歩んできた。この「社会主義」は本来構想されたものから隔絶して誕生し、その時からはらんできた本質的な「歪み」を最後まで克服することができなかったのである。
 このような観点からすれば、ソ連邦の崩壊をそのまま「社会主義そのものの敗北」へと直結させる説明が、短絡にすぎることは明らかである。
 だが、ソ連邦を生み出したロシア革命の真の理論的根拠は、帝国主義時代においては、世界的・一国的な矛盾の複合のなかで、プロレタリア革命が後進国から開始して、ヨーロッパ・世界社会主義革命へと発展していく必然性が生まれるとする、「永久革命」理論である。
 後進国で開始されたプロレタリア革命が、その内部に「歪み」をはらむであろうことに、ボリシェビキの指導者たちが無自覚であったことはない。だが彼らは、この「歪み」が永久革命的な前進のなかで克服されていくものと見なした。このボリシェビキ的な未来への確信が厚い壁に阻まれ、国際的にも裏切られていった過程をとらえ、なぜそれがそうなったのかを明らかにしようとすることなしに、単に「マルクス主義の原点に立ち戻る」ことは、メンシェビキ的な図式主義への屈服と見なされるであろう。

(2)「スターリン主義の敗北」として説明する方法

 今日まで「社会主義」として存在した体制は、官僚専制としての「スターリン主義体制」に他ならず、敗北したのは真の社会主義とは無縁の「スターリン主義」にすぎないと主張することができる。真に革命的な前衛がスターリン主義官僚を打倒して、ソ連邦の指導的位置につくことに成功していれば、より民主主義的な政治体制と計画経済を推進し、プロレタリア・農民大衆の積極的参加のもとでソビエト体制を発展させ、「社会主義の勝利」に向かって前進したであろうと考えることにも根拠がある。したがって、ソ連邦の崩壊を「スターリン主義の敗北」としてとらえることは完全に正当である。
 だが、旧「ソ連・東欧」諸国家にいま実現している「スターリン主義の敗北」は、民主主義的ソビエトの復活としての、「真の社会主義」の勝利としての、プロレタリアートによる官僚専制の革命的打倒ではない。これらの国家では、袋小路から脱出できなかった官僚的指令経済の自己破産に直面した人民が、「西側」的な議会主義と市場経済になだれをうって傾斜していっている。「スターリン主義の敗北」という正当な評価は、このような現実を説明するのに、必ずしも十分とはいえないのである。

(3)「革命的少数派」が歴史を批判的に説明する方法には制約がある

 「現存社会主義」を「真の社会主義」から区別し、その敗北を「社会主義の敗北」としてではなく、公認指導部の誤った路線から説明することは「革命的少数派」の権利であり、義務でさえある。だが、その権利にも制約がある。
 「革命的少数派」は、適用されるスケールにはさまざま違いがあるとはいえ、歴史の進路を最終的に決定してきたものが人民大衆であるという真理に対して異議をとなえることはできない。「革命的少数派」が、人民の選択を代行することによってまで革命的であることを主張するならば、彼らは自ら打倒すべきであると宣言した公認指導部と本質的に変わらない誤りを犯すことになるのである。

(4)歴史の主体としての「人民」の選択がなされたものとして、今日の「社会主義の敗北」を「自覚する」立場

 ソ連邦及びその拡大としての「労働者国家圏」の現実は、人民によって最終的に拒否された。この拒否は、革命的な「オルターナティブ」によって埋め合わされることがなかったために、「社会主義の敗北」として現実化した。
 人民の拒否によって敗北したものは、資本主義そのものの革命的打倒を目指してロシア革命から出発した歴史としての二〇世紀社会主義運動である。その「革命的少数派」としてのわれわれは、この敗北を阻止し得なかった責任を有することを自覚する。
 この自覚から、社会主義の「再建」が新しい世紀に向かってのわれわれの本質的な課題となる。
 この課題は、「われわれ自身の敗北」としての「社会主義の敗北」の総括と一つのものとして、二〇世紀社会主義運動の限界、その矛盾の構造を明らかにする努力にほかならない。
われわれは、「批判的・主体的な歴史主義」の方法を自らのものとしなければならない。

2 二〇世紀社会主義運動の総括の根本問題・「プロレタリアート独裁」

 二〇世紀社会主義運動には、資本主義の内部からの変革を通じる平和的移行を目指した社会民主主義の潮流と、資本主義国家権力を打倒してプロレタリア独裁権力に置き換え、世界社会主義革命の砦を築こうとした共産主義の潮流がある。
 ここでは、その共産主義の潮流の敗北が、したがって「プロレタリア独裁」が問題となっているのである。
 「プロレタリア独裁」が問題となるのは、直接的にはソ連・東欧の「労働者国家」体制が破綻し、自己崩壊を遂げたからではあるが、そのことを世界革命の戦略の観点から見れば、後進国から開始された革命の永久的発展の展望が、結局閉ざされたということなのであり、すなわち、先進資本主義諸国のプロレタリアートを社会主義の側に獲得することに失敗したということに他ならない。

(1)プロレタリアートを包摂した体制としての現代資本主義の成立

 現代資本主義はプロレタリアートに体制の一方の担い手としての役割を振り当てることに成功し、階級対立を体制内化した。第二次大戦後に特に際立ったこの関係は、政治的には議会制民主主義の制度と環境の大衆的次元への展開であり、経済的にはいわゆる「レギュラシオン理論」が取り扱った「フォーディズム」的成長システムの実現としてあらわれた。そして、プロレタリアートとその階級闘争の体制内化は、当然ながら他の被支配諸階級全体の体制内化を強制するものであった。
 すなわち、プロレタリアートが体制内化したことによって、共産主義の主体的な前提としての単一の世界的な革命的階級の存在という項が、成立しないこととなったのである。

(2)「国家の神話」の崩壊

 階級闘争を体制内化した機関として国家が変質していったために、国家の超越的性格は希薄化し、諸々の利害集団の利害実現の手段としての機能が強められていくこととなった。その結果、国家の本質規定としての階級性をめぐる絶対的に非和解的な闘争に代わって、制度としての、システムとしての国家をめぐる「闘争」が登場した。このことによって、被支配階級の改良主義化が実現したのである。
 以上のことは、決して今日の階級闘争における国家の重要性が弱まったことを意味してはいない。むしろその逆である。経済的・文化的・社会的生活における国家の機能が発達し、決定的といえるものにまでなった。諸階級・階層・集団は、その日常的利害の実現の成否を、国家における陣地戦の成果に依存することとなった。
 逆説的に言えば、国家の肥大化・強大化の延長線上に、国家の改良システム化がもたらされたと言い得る。国家が全体となり、対抗的な諸利害をことごとく包摂するにいたったが故に、階級闘争はお釈迦様の手のひらの上を走る孫悟空のごときものとなったのである。
 さらに、先進資本主義諸国家に成立したこのような関係は、国際的な階級闘争のあり方をも規定した。世界経済における諸国民経済の配分をめぐる闘争と一体となった国際的な階級闘争は、政治的な国家間関係そのものとして展開されざるを得なくなっていった。

(3)民族主義と民主主義

 (1)で述べた事情のゆえに、国境を越えて成立する革命的階級の単一の価値に代わり、民族主義(宗教)的価値の絶対化が出現した。この民族(宗教)的価値のための運動の巨大な広がりには、(2)で述べた事情が決定的な役割を果たしている。民族の主権をめぐる非和解的な対立の拡大、民族の独立を巡る闘争の激化は、経済的主権のための国家システムの樹立を目指す闘争としての性格が強く刻印されている。それは、経済的従属から民族を解放しようとする闘いである。
 民族主義の全面的な開花というこの時代の性格は、現代の民主主義に新たな意義を付与している。
 もっぱら単一の国民経済の有機的な階級関係の上に成立する階級闘争の政治的システムとしての民主主義ではなく、むしろ前期的・共同体的紐帯を残存させた諸関係の対抗を、国家に抱え込むシステムとしての民主主義の重要性が浮上してきたということができる。階級闘争に民族闘争が優先するこの時代にこそ、民主主義の存立の成否が国家の統一の死活を決定する重要性を帯びることとなっている。
 このような事情から、社会主義の前提としての階級的立場・階級的価値が現代において後退を強いられたのである。

(4)社会主義とプロレタリア独裁

 (1)〜(3)の問題は、資本主義世界においてプロレタリア独裁を目指す闘争が後景に退いていった諸要因を確認することであったが、この事実と、現実に存在しているプロレタリア独裁諸国家において、体制が社会主義的な理想から極端に隔絶したいわば奴隷制的な全体主義独裁に堕落し、西側との経済格差も拡大の一途をたどる停滞から脱することができなかった事実とは、相互作用の関係にあった。
 革命の堕落の問題は、それ自体一つの独立した主題である。この主題に関してわれわれが気をつけなければならないのは、指導路線相互の闘争と現実の歴史的過程との関係を見失うことである。これは、極めて重要かつ微妙な領域である。
 スターリン主義の誤謬や、これと闘ったトロツキーなど反対派の主張の綱領的な正しさを確認することは、今日ではまったく容易である。だが、そのように本来社会主義への正しいアプローチを試みた反対派が、なぜスターリン派に敗れ去ったのかという疑問に答えることは、必ずしも容易ではない。そしてまた、明らかにスターリンの路線よりも現実的であったことを疑い得ないトロツキーら反対派が、実際にソ連の指導権を掌握したと仮定して、革命の官僚的「歪み」を除き得たであろうかという問いには、われわれは簡単には答えられない。ロシア革命のこの堕落の過程は、革命の指導部の誰もが不意を打たれ続けた、「新たな難問」の連続的な継起で歴史であったことを、われわれに示している。
 二〇世紀社会主義運動の総括の核心は、「プロレタリア独裁」の問題である。この理論に対して、われわれが新たに掲げようとする社会主義の路線のなかでどのような位置を与えるのか、与えるべきでないのか、ここにこそわれわれが追求すべき最も根本的な理論課題がある。

3 社会主義の経済的基礎

 二〇世紀の「現存社会主義の実験」は、確かに失敗した。この失敗とは、国有計画経済がその成長力において市場経済に決定的に凌駕された点に帰着する。
 本来、国有計画経済は市場の無政府を統御するという原理的な優越が確保されていると見なされてきた。それがなぜ市場経済に後れをとったのであろうか。このことについて、十分に説得力のある説明がなされているとはいえない。

(1)計画経済と社会主義
 ペレストロイカ以後、計画経済への市場原理の導入という政策が、社会主義者の間でも広く支持されている。だが、これは簡単には見過ごせない現象である。
 長い間、「計画経済は市場経済に対して本質的に優位にある」ということが、社会主義の「公理」であった。この問題にふれることなしに、「計画経済への市場の導入」その他をいわば技術的な事柄として取り扱うことは、理論的に誠実な態度とはいえないであろう。
 問題は、「社会主義とは計画経済である」ともいえるようなわれわれの理解自体である。社会主義が「計画経済」と同一視され、悪いことに「国有計画経済」そのものと見なされたことによって、現実のプロレタリア独裁の惨状が社会主義のモデルであるかのように受けとめられた。だがむしろ、「国有計画経済」は市場と計画の関係の悪い見本に過ぎなかった。
 計画の技術と規模を拡大し発展させてきたのは、単にプロレタリア独裁諸国家ではない。二つの世界大戦を通じて生き延びた資本主義は、まさに市場経済への計画の導入によってこそそうしたのである。国有計画経済が市場に対する計画の無力を証明し、逆に市場経済が計画の有効を示したという事実は、何を意味しているのか。
 市場と計画に関する古い二者択一の図式は、無効となってしまっている。市場そのものと計画とは本来的に対立するわけではないのである。市場を対象としてこそ、その補完としてこそ、計画の技術も効力も発展してきたといえるであろう。
 社会主義が市場経済を超えるものであるということには、疑う余地がない。それなら、市場経済を超えるとは、どのようなことであろうか。

(2)スターリニズムと計画経済

 以上の問題と関係して、われわれはスターリニズムとはなにかという問題に答えなければならない。スターリニズムとは国有計画経済の矛盾を土壌として成立する官僚機構による専制であるととらえることができる。
 その極度の独裁的態様は、市場から切断された「国有計画経済」における資源、特に労働力資源の全面的な統制の「必要」を根拠として成立すると考えられる。
 プロレタリア独裁が「国有計画経済」として拡大していくときに、それが同時にスターリニズムの拡大となっていったことの背景はここにあると思われる。社会主義とプロレタリア独裁、「国有計画経済」とスターリニズムのこの関係を歴史過程に即して明らかにしなければならない。

(3)社会主義とはいかなる社会

 現在の世界において、国有計画経済に市場原理を部分的に導入することによって社会主義の新たな復活を展望することはできない。市場経済の発展は、資本主義の発展としてしか帰結しない。そして一般に計画ということをもって、市場経済を止揚するに十分であるということもできない。
 社会主義は、市場経済そのものの止揚であるだろう。人間と自然、人間と人間との関係としての経済が、どのようにして市場の束縛から解放されて、「自由」の領域を実現するのか、そのことが問題である。社会主義は、根源的に自由な社会を構想することである。社会主義運動は、そこへ向かうものとしての質を、資本主義のなかで闘うこの現在においてしだいに強く身につけていくのでなければならない。

(4)現代における社会主義運動

 われわれは今日、従来の「資本主義の矛盾」をはるかに凌駕するような世界の危機に直面している。
 冷戦の終結と民族的・宗教的・階級的・共同体的闘争関係の世界的な拡大・激化のなかで、「社会主義の敗北」は、従来の解決の枠組みをすべて拡散させてしまった。いわば、出口も道も見えないトンネルのなかに、世界は立っている。
 われわれは、社会主義の再建を目指すものであるが、それは、今日のこの危機が、社会主義の実現なしには、すなわち資本主義的な原理を根本的に止揚した社会の実現なしには、決して成し遂げられないと考えるからである。資本主義は、自ら生み出した危機を決して「解決」しなかったわけではない。だがその「解決」は、一層巨大で深刻な、新しい危機を生み出さないわけにはいかなかったような、「解決」によって生き延びてきたのであり、それは今後も変わることがないであろう。
 社会主義の再建のための努力は、資本主義が生み出すこのような危機を克服しようとする闘いとしてなされなければならない。それは、社会主義のあたらしい「原理」が資本主義の危機をその最先端で超えていくような展望を開くのでなければならない。
 社会主義運動は、世界人民の多様な、互いに衝突さえする切実な「悲願」とさえいえるものとともに歩まなければならない。闘いがやむをえず革命的暴力に依拠することを放棄しないとしても、古い暴力主義的な形態を脱ぎ捨てなければならない。「戦争と革命」の時代の幕を閉じなければならない。社会主義的解決の基礎として「平和主義」がしっかりと据えられなければならない。
 社会主義は、新しい世界構想でなければならないからである。
 
(92・7・31)

第九回国際青年サマーキャンプ
そしてロシア、東欧を訪れてみて
田口 義雄


サマーキャンプ、二五ヵ国、一千人の参加

この夏、私はポルトガルで開催された、第9回ヨーロッパ青年サマーキャンプに参加してきた。また私は、この旅程にロシア、東欧を組み込んだ。一カ月ほどの小さな旅行ではあったが、印象は深い。この紙面を借りて、私のこの探訪を読者の皆さんにお届けしたい。

七月二十三日夕刻、私たちはポルトガルの首都リスボンから車に揺られること、五時間、やっとキャンプ場のあるローサという街に着いた。キャンプ場は、この街の飛行場であった。飛行場といっても、朝と夕に、森林パトロール用のヘリが飛ぶくらいのものであるが、敷地は広い。キャンプは、ここの滑走路以外の芝地、森林、管理棟二棟を借り切っていた。
 ああ、やっと夢にまで見た青年サマーキャンプの会場についた。ほっとした気持ちが、体じゅうに広がる。まずは受付にゆく。受付では、私たちが日本から来たことがわかると、責任者の一人が立ち上がり、満面の笑みを浮かべ「ようこそサマ−キャンプへ」と固い握手を求めてくる。私も力強くその手を握り返す。こうして、九日間におよぶ第九回青年サマーキャンプが始まった。
 この責任者は、パリの人でガブリエルという。ガブリエルに聞いたところ、今年の参加者は千人にも及ぶという。参加国は、ポルトガル、スペイン、バスク、フランス、イギリス、アイルランド、スイス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、ドイツ、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、イタリア、東欧からはチェコスロバキア、ポーランド、そしてモスクワ、アメリカ、このほか、アルジェリア、モザンビーク、東チモール、そして日本。合計二五の国からの参加だ。
 これらの人たちが、皆トロツキストの運動に参加しているか、共感を感じている人たちである。着いた時から感じてはいたが、もうそこらじゅうで交流会が始まっており、いったいどの人たちに声をかけていいものか、気持ちは臆してしまう。

ゲイ、レスビアンの人たちのためのディスコ

 このほか、キャンプの印象に入る前に、一日がどのように運営されているかということを書こう。朝はだいたい八時ごろ起床する。朝食は九時からである。こののち休憩時間があって、十一時ごろから通称ビッグテントといわれるメイン会場で、基調報告というか、講演会が行われる。その内容といえば、「マ−ストリヒト条約について」(第一日目)「経済危機について、ファシズム・民族差別の台頭について」(三日目)「コロンブス五百年祭、ラテンアメリカの情勢について」(四日目)「エコロジーについて」(五日目)「セクシュアリティについて」(六日目)「私たちの闘争、革命の戦略について」(最終日)などである。
 この講演会が終わって、一時より昼食。また休憩に入る。この昼の暑いとき、近くの川へバスツアーが組まれたりした。分科会は四時から始まる。この分科会は、林のなかで、だいたい毎日五つから六もたれた。このうち必ず二つの分科会は、午前中の講演会の感想および討論である。残りの分科会は、実に多彩である。各国の状況に関する分科会や、フェミニズムでいえば三つの分科会、そして国際連帯や、マルクス主義とアナーキズムという分科会も開かれた(期間が長いので、総計三十以上の分科会が行われた)。このほか、時間をずらして女性の運営による女性分科会も毎日行われていたようだ。
 八時から夕食。八時半より、各国一名以上参加のキャンプ運営会議である。この会議は、全体のキャンプの運営を調整するところで、一日の感想や改善案が出される。ここで、アメリカと、日本の分科会を設置しようという提案もなされた(語学に自信がなっかたので日本の分科会は断った)。また、ゲイとレスビアンの人たちのために通称ディスコ広場を後半三日間開放しようという提案がなされたのも、この運営会議においてである。
 だいたい会議が終わるのが十時ごろ。私たちはやっと開放され、交流会場であるバーやディスコにおもむくことになる。

国際主義の熱気 

 このキャンプをとうして思ったことの一つは、やはり語学力の弱さである。ヨーロッパの青年は、自国語以外英語、そしてもう一つぐらいほかの言葉を話すことができる。しかし、つたない英語を使って何とかほかの国の人たちと話してみた。そこで理解した話は、マーストリヒト条約など、資本は、ヨーロッパを統合したがっているが、この動きに連動して、ポルトガルでは移民規制法がでてきているし、またバスクなどの民族独立運動が目のかたきにされている、とのことである。
 このような背景があるのだろう、最終日の前日にもたれた国際連帯の記念講演会に駆けつけたバスクの一つの戦線の代表の挨拶は、熱狂的な拍手に包まれた。そして最終日の夜、サマーキャンプに連帯の挨拶を送ってきたグループ、個人の名前が読み上げられ、地元ポルトガルのPSRが「来年また会おう」とアピールを終えた時、会場は、前日以上の興奮の渦に巻き込まれた。インターナショナルがこだまし、革命歌が続き、一時間いや二時間たってもだれも会場を去らない、そのような風景が続いた。

モスクワでみたホームレスの人たち

この第九回青年サマーキャンプは、七月二十三日から三十一日まで開催された。このキャンプに参加するため、私たちは、モスクワ乗り換えのポルトガル・リスボン行きのソ連航空を使った。そこでぜひ、モスクワを経由するならと、私は同行の人より先にたち、この街を訪れることにした(このことに加えて、私は帰りに東欧を回る計画も立てていた)。滞在は七月十七日から三日ほどであった。話は前後するが、このモスクワの印象を書いてみたい。
 モスクワで何をしていたかといえば、三日間いろいろなところを歩いた。モスクワの街の造りは、クレムリンを中心として放射線状に道がのび、そして、いくつかの円を描く環状道路がこれに交差している。この放射線のようにのびる通りが繁華街であり、名前が変わったかもしれないが、ゴーリキー通り、カリーニン通り、マルクス通りなどの名前がついている。これらの道を歩き、赤の広場に行き、グム百貨店(ロシアで最大のデパート)に行き、フリーマーケットを見、商店を覗いたりした。
かつて三、四百円していた一R(ルブール)は今、実質レートで一円である。新聞が二R。バスおよび地下鉄が五十K(コペイカ、百コペイカで一R、五十Kなら円で五十銭)市内電話が十Kぐらいであろうか。フリーマーケットでトマトが一個四R、ペプシが三十Rであった。これらの商店はまだ国営商店だと思うが、全体に品数はけっこうあった。しかし、このルーブルの価値の下落、新聞が2Rだとか、トマトが四Rだとかいうものは、採算が取れるはずがなく、これからどんどん値上がりしていくのだろう。皆ルーブルの価値が下落していることは実感していて、観光客はドルで買えといわれ、ドルを欲しがる。しかし、ドルがない人たちは、一ルーブル単位で、コぺイカの単位で、生活している。聞いた話では、一カ月の平均給料は五千Rだそうだ。
 ホームレスの人たちも急増している。私の服をつかみ、この子にミルクを買ってあげたいとお金を渡すまで手を放さない。これにはほとほと困ってしまった。銀行は開いているが、信用を落としていて、開店休業の状態だそうである。この滞在をとうして、私は弱りきったロシアを感じた。
 三日の滞在を終え、空港に戻る。ここで、日本からきた友達と合流し、リスボンへ向かう。

プラハ、そしてポーランドヘ 

サマーキャンプも終わりに近づくころ、ポーランド・チェコスロバキから来ている人たちに(二つの国合わせて四十人が一台の観光バスで来ていた)、ぜひあなた方の国に行きたいので、連れていってもらえないかと声をかける。二つ返事で、オッケーの返事だった。こうして、キャンプのすべての日程を終えた七月三十一日、ポーランド・チェコスロバキアグループのバスに乗り、ローサの街をあとにした。
 西のはずれポルトガルから東のプラハまでは、ヨーロッパ大陸横断の旅である。バスで、時々観光地で休憩をとりながら四日かけて移動した。八月三日昼過ぎプラハ中央駅に到着。さすがに、皆くたびれはてている。しかし、私はプラハに到着できたことで気持ちは躍っている。ポーランドの人はここから、列車で自分たちの国に帰るそうだ。
 プラハのことは手短く書こう。というのは、市内の電話回線が悪く、会いたい人に会えず、プラハの街に少し触っただけで終わってしまったからである。それでも、プラハの春や、八九年の民主革命など、歴史の舞台となったムーステク広場を訪れたり、市民フォーラム本部を訪ねたりした。

ストライキ! ポーランドの状況

八月五日の夜、国際列車でプラハをあとにヴロツワフ(ポーランドの地方都市)に向かう。バスで知り合った人の誘いをうけてである。この街では、LIFというグループにお世話になる。LIFとは、日本語に直訳すれば労働産業ファンドというという名称になると思うが、協同組合や、労働者の自社株保有、国有工場の自主管理などを提案しているグループである。ここの事務所を訪れて話を聞いたところ、今ポーランドではインフレがひどく労働者の生活が困窮しているので、「連帯」は政府の経済政策を変えるために全国ストライキを呼びかけており、これをうけてストライキ委員会が各地方、各工場にできつつあること、また、LIFはヴロツワフのストライキ委員長のアドバイザーとして活動している、とのことであった。
 テレビニュースからは、ある工場からのリポートとして、ピッケットをはり、ストライキを構える労働者の姿がしばしば映しだされていた。そして、私もいくつかの工場を回り、その工場の「連帯」のメンバーや、ストライキ委員長などに会い、交流を深めた。また、日本との関わりでいえば、アルキメデスという工場のストライキ委員長は、「日本の労働者と貿易がしたい、そのために日本語を覚えたい」と言っていた。このほか、私のヴロツワフでの印象を聞きたいとテレビニュースの取材を受けたり、私のヴロツワフ滞在は多忙を極めた。五日滞在の後、ポーランドおよびヴロツワフの労働者と私たちが、ともにできることとは何なのかを考えつつ、この街を離れた。

終わりに 

こののち、ワルシャワに行き、街をゆっくりみたあと、ワルシャワ空港から日本への飛行機に飛び乗った。
 歴史の変遷過程にあるロシア、東欧、そして、青年運動。一カ月の旅行は私にいろいろなことを考えさせた。この旅行をなんらかの形で生かす方法を考えつつ、またこの旅行を良ききっかけとしながら、この過程をさらに深く考えていきたい。
(たぐち よしお:共青同)