1993年1月10日         労働者の力               第40号
日本政治の転換期にあたって

 改憲派の一斉攻撃と対決する全国戦線の形成を急ごう 

「世界秩序」の動揺と帝国主義の軍事的エスカレート

一九九三年、日本国内的には株式市場の依然とした低迷とプルトニウム輸送船「あかつき丸」の東海港入港、そして社会党の新委員長への山花氏の立候補・就任という事態で幕が開けた。世界的にはアメリカとロシアの核削減のSALTUの調印、ECの統合市場への移行、そしてソマリア、ボスニア・ヘルツゴビナ、パレスチナ、カンボジアなどの「紛争地域」問題としてはじまった。
「東西冷戦に勝利した」アメリカはその新国際秩序確立に踏み出すことができず、西側世界の三極の一翼をになわんとしたヨーロッパの統合は東西対立の解消のなかで拡大したヨーロッパ世界総体を包摂する力の限度に直面させられつつある。ブッシュ共和党政権はもろくもクリントン民主党政権に代わられた。EC統合を進めてきたヨーロッパ各国の政府に疲弊と弱体化が共通しはじめている。
東西冷戦に「勝利」した西側陣営、資本主義陣営ははたしてこの地球を秩序づけ、牽引、領導することができるのか。
東西冷戦の終えんによって刻印されたソ連型社会主義の破綻は、社会主義そのものを歴史的に問い直すことであったと同時に、近代の原動力そのものであった資本主義それ自体をあらためて問うことにほかならなかった。
ペルシャ湾に大量の多国籍軍を送り込んだアメリカ帝国主義がその勝利を謳歌したのはつい二年前の出来事にすぎない。
アメリカの軍事的力の卓越を背景にして展開しはじめた国連の秩序維持・強要活動への踏み出しは、カンボジアUNTACの創設、ソマリアへの多国籍軍の投入と続いたが、その多くは矛盾と限界に直面し、国連はガリ事務総長のもとに、多国籍軍の国連機構化、軍事介入のエスカレートによって対処する方向に動こうとしている。
ほぼ五〇年の戦後世界の結果として噴出している世界的な混乱と紛争の続発、拡大に対する即効ある対症療法を求めることはできない。
アメリカ帝国主義が世界を強権的に統制することが不可能であるように、「国連軍」が世界を統制することもできない。
同時に、「地域紛争」は東西対立期の産物であると同時に、それが終了した現在、新たに資本主義が「地域紛争」拡大の背後にいるの事実を見逃すこともできない。
民族性が政治利用され、相互の対立が拡大され、宗教性がまた相互殺戮へとあおられる。資本主義はいわばマッチ・ポンプの役をはたしている。こうした事態を隠ぺいしつつ進められる軍事エスカレーションでの「紛争解決」は本来不可能である。
「独裁者フセイン」は米ソの軍事援助競争の産物であり、カンボジアもソマリアも同様の事態から紛争が拡大されてきた。そして、ユーゴ内戦を直接に触発したスロベニア共和国の軍事的な強行独立もドイツをはじめとする帝国主義の全面的支持のもとになされた。ソマリア内戦の泥沼化の背後にはイタリアの存在がある。


「特異な大国」に突き進む日本国家 


日本資本の共通合意は日米関係の維持であり、アメリカ帝国主義を基軸とした帝国主義の世界秩序確保の路線である。その枠組みに「貢献」し、かつ日本資本の骨格を傷めないどころかさらに強化する路線は、当然アメリカ帝国主義との矛盾をはらんでいく。
アメリカ経済再建路線とのあつれきはさけられない。また、アメリカの産業再建という大義名分にさからうこともできない。だが、アメリカ経済の再建は日本資本にとって巨視的視点からは絶対的に必要なことである。自らは傷つかず、かつアメリカ経済の再建を支えるというアクロバットな展望が意味するものは、いかなる日本資本の路線的将来像であろうか。
一つの参考として、昨年のリオにおけるブラジル環境サミットでのアメリカの基本態度がある。アメリカはリオにおいて二酸化炭素規制に絶対的抵抗を行った。日本資本の路線がアメリカ資本の立場を擁護していくものである以外ではない以上、ここから導かれる予測は、日本はその豊富な国家資金を駆使し「第三世界」諸国への圧力とし、もって資源収奪と地球環境破壊の道筋をさらに推し進めるだろうということである。
こうした路線は、地球規模での経済的、政治的矛盾をさらに拡大する。「北」による「南」の収奪のサイクルは、いささかも軌道修正されることなく持続される。そうして、そこにおける国際秩序の不断の動揺が、国際的な軍事的抑圧装置の必要性をさらに高める。
日本国家を通じた日本資本の活動は、もはや地球的な意味において有害なものとなったといって過言ではない。国内における強搾取の持続とそこから引き出される資金のばらまき、将来の軍事大国化の可能性を保持したまま強行されるプルトニウム大国への路線。
アメリカを軸とした「大国支配」の国連機構への転換と国際「警察」軍の常備――それは多国籍軍方式の延長であろう――に全面的に参加する日本軍隊。
まさに日本国家は「特異」な国家として世界に登場しつつあり、日本政治は日本資本の「叱咤激励」のもとに、「遅れをとりもどす」ための跳躍を行おうとする。


改憲に向けた日本資本による社会党解体宣言


佐川急便問題を契機とする「政治再編」に対する日本財界の積極姿勢は異常ともいえる。
新年にあたって財界四団体(経団連、同友会、日商、日経連)は、公然と保守二党論への期待を打ち出し、戦後革新の歴史的解体の推進としての「政治再編」支持を表明した。
小沢・羽田らの動きと連動する「新党論」への期待表明は、自民党に一本化されてきた政治献金システムの見直しの可能性を言及するなど、現行の自民党体制から見ればきわめて「大胆」な内容を含むものである。日本資本は保守二党論という煙幕を張りつつも、戦後革新=社会党の解体・変質こそが最大の眼目であることを公然化したのである。
「跳躍」の最大の障害である戦後革新、それが一定程度表現してきた「小国家」論の、政治舞台からの一掃が政治課題の焦点になった。日本資本の年頭アピールの意味はここにある。
昨年後半、佐川疑獄と同時に巻き起こった「政治改革」論は、一直線に社会党の解体をも包含する「現実路線」の大合唱へと流しこまれた。あらゆる「改革派」が「政権交代可能な二大政党論」とそのために必要な野党=社会党の「現実路線」化の世論化の装置へと転化した。昨年暮れに、民社党のシンクタンクが改憲論を提言し、一部に人気を拍している「平成維新の会」を組織した大前は「国家改造」を打ち出している。「維新」「国家改造」の言葉は、戦前の軍部ファシズムの合言葉である。
「政治改革」の焦点は、本来あてられるべきはずの自民党にではなく、社会党におかれている。
田辺の突然の辞意表明は、連合の山岸の怒りをかったし、「左派」の山花への一本化にはシリウスなどの「若手」が反発した。彼らは小沢や大前らの「改革」には反発しないにもかかわらずである。
だが、山花は「創憲」路線を打ち出すことで右派の抵抗に妥協した。「創憲」とはここでは憲法解釈の「柔軟化」の表現である。社会党主軸はいまや「左派山花」体制を媒介にして、一挙に改憲論へ呑み込まれる状況にある。
一九九五年から九六年が改憲の時限であるとまでいわれる。労働運動の連合による占拠、それに続く社会党の変質ないしは解体のタイムテーブルが以上の日程想定の前提となっているのである。


社会党の危機を越え改憲阻止の戦線形成を急ごう


 政・財・官・労の結合によって政治的上部構造を一挙に改憲論に移行させようとする策動に対して、民衆のサイドが対抗しうる手段は現在少ないというべき事態だ。社会党をめぐる「攻防」が改憲派にとってそれほどは容易なものではないとはいえ、最大の組織的支柱である労働組合が連合によって占拠されてしまっている事実を認めないわけにはいかない。
 だが同時に、社会党が総評や連合といった労働組合ナショナルセンターの政治部であったし現にあるということも事実に反する。社会党への投票が労組票だけであったとすれば、それは社会党が民社党に毛のはえたものでしかなかったであろう。
 社会党への投票は広い革新支持の複合された表現であり、そうした層は労組機構が左右できるものではない。土井ブームが明らかにしたことである。
こうした流れが社会党の「大分裂」につながるものかどうか。安易な予測はつつしまなければならないが、単純小選挙区制度導入などの全一連の策動が、民衆の政治からの疎外を貫徹した上で改憲論への議会多数形成のためにすすめられていることを、直視する流れが社会党内外を通じて拡大していくであろう。
連合路線に抗する連合内外の労働組合や労働運動、社会党と結び、かつ独立的な市民運動の展開、都市部における独立した政治的運動や議員活動、草の根といわれる諸運動などなど、多数の運動が一時は土井ブームを形成し自民党を国政選挙で敗北させた実績をもつ。昨年の東京選挙区における内田候補の健闘はそうした広い土壌をあらためて垣間見せたのである。
 内田選挙は、まさに全労協や連合所属の労働者の意識的闘いと全都の市民運動の結合した闘いであった。社会党の「危機」に触発された社会党支持層から多くが内田候補に投票したことは、選挙結果の分析から明らかである。
 二分解している社会党の支持層、広い意味での反自民の革新層の再結集と新たな意味での民衆に依拠した社会党的な存在を占める政党的結集が要求されてくるであろう。それは「大国派」「現実論」者の政治体系に対するオルタナティブの体系を追求するなかで、民衆的基盤において実体化していくのである。
「創憲」論のトリックに対して掲げるべきは、改憲阻止でなければなるまい。改憲阻止の戦線は、軍事的貢献論に対置する平和貢献論の立場の体系化の必要があると同時に、とりあえずは、大国論に対する小国家論の、浪費型経済大国に対するシンプルライフの経済の、ODA(政府開発援助)という札束で第三世界諸国の頬をなぐる援助大国に対するNGO(非政府組織)活動への主軸の移行の、過度の輸出ドライブの原因である長時間労働と超労働強化の経済活動に対する最低週三十五時間労働体制の、農業の解体に対する農業の保護の――という枠組みからはじまるオルタナティブの体系化の努力を要求されることにもなる。


政治連合を強化し政治再編への能動的闘いをになおう 

 われわれは昨年夏に「自治・連帯・共生の社会主義をめざす政治連合」を、組織として、多くの人々や党派とともに共同で組織した。それはさまざまな要因はあるが、とりわけ総評の解体が社会党の政治的解体、もしくは変質につながるであろうとの予感のもと新たな労働者党形成が、多くの人々の共同作業として必要となろうという、ここ数年来の基本的考えにもとづくものであった。
 一九九三年は、日本政治の急激な転換の年として歴史に刻印されることになる可能性をもつ。全労協の勢力、PKO法反対闘争から内田選挙へ直接、結びついた社会党護憲派の闘いなど、さらに広い、全国的な横断的結合の具体化が追求されはじめている。
 都議選、そして衆院選がほぼ時期を同じくして闘われることになるであろうし、それらは改憲阻止のための戦線形成にむけてのきわめて重要な闘いの場となるであろう。
 政治連合形成は、主体的な意識において事態の進展にかろうじて間に合った。政治連合は、これらの闘いを積極的にになう重要な一翼としての役割を最大限に引き受けることになろう。
 新たな政治勢力の力ある形成のために全国規模においてなにが可能であるか、なにから着手すべきであるか――政治連合としての協同を基礎にさらに広範な協同作業の具体化にむけて活動を集中することが求められているのである。

 一九九三年一月七日

ロシアはどこへ向かうか
   「新ロシア革命」のシナリオ

織田 進


  「新ロシア革命」をめぐる議論

 藤井一行氏が、最近の著書「新ロシア革命」や「窓」誌十三号の論文のなかで力説していることは、いまロシアで進行している過程を「脱社会主義」や「資本主義化」として一面的・否定的に即断してはならないということである。
 氏によれば、日本左翼理論家のなかに「新ロシア革命」の現在進行中の段階の性格をめぐって、資本主義化や脱社会主義の過程として否定的にとらえたり、反官僚主義的・肯定的側面と反社会主義的・否定的側面との二面をもつものとしてとらえる傾向などが存在する。これは、一つには社会主義を所有還元主義的にとらえる誤り、また一つには、一九九一年八月の「保守派クーデター」を失敗に追い込み、その後のいっそう進んだ民主主義、人民主権化の過程を切り開いてきた、エリツィン大統領とその支持母体となっているロシア労働者の、たたかうエネルギーと社会主義的性格を軽視する誤りから導かれたものである。
 これにたいして藤井氏は、現在進行中のこの過程を最も「肯定的に」とらえ、改革された新しい社会主義の創出の可能性について、慎重ではあるが楽観的な論陣を張っている。
 「……いますすめられつつある、いうなれば〈人民主権+市場経済〉という定式の和が〈資本主義〉――少なくとも既成のタイプの――として帰結するか否かは疑問である。勤労人民が、〈搾取者〉層が国の支配階級としての地位を獲得することを許すことになるか否か、勤労人民が万人の自由と平等に反するような階級抑圧を許すことになるか否か、その回答は未知である。中野徹三氏は、人民の利害を可能な限り尊重する新しいタイプの『資本主義』への転換を予測するが、それは逆に『ある新しい社会主義』の誕生であるかもしれない」
 「その点でいえば、エリツィン大統領選出の大きな力になった、数千万の組合員を擁するロシア独立労連の動向が決定的な意味をもつことであろう。さまざまな民主主義運動やその組織体と比べて、勤労者の組織が経済的志向の面で当面――それが何年か何十年かはわからないが――はともかく、最終的にも資本主義的生産方式に甘んじるとは考えにくい。……そういう意味で、トロツキイ流に表現すれば現時点では新生ロシアの性格は『歴史的に未解決』としなければならない。とりあえず私はエリツィンと民主主義勢力による国づくりに、自由と民主主義と人なみの生活という、ロシア人民への福音を期待したいと思う」(『新ロシア革命』)
 藤井氏の考え方や、藤井氏によって取り上げられたいくつかの議論は、現在の日本の左翼の中の、ロシアの現在や未来にたいして主体的な問題意識をもち続けているという意味で積極的な人々の存在を示している。ここでは、その議論の内容には立ち入らないが、その人々の問題意識を、私も強い共感をもって共有し続けたいと考えていることをはじめに述べておきたい。その上で、ロシアが今進みつつある方向と、その課題についての私の見解を表明するのであるが、その前に、私はもはや、現に進行して行く事態がどのような性格をもとうとも、それにたいして「否定的」または「肯定的」に評価するという方法そのものをとらないということを明らかにするものである。
 もちろん私は、字づらにこだわるつもりはないが、「肯定的」とか「否定的」とかの評価は、みずからの何らかの価値基準に現実を照合する態度をあらわすものと思われる。この場合には、「社会主義」や「民主主義」がその価値判断の基準となるであろう。だが、私たちは今日、社会主義や民主主義についてのどのような「基準」を提示できるであろうか。「社会主義」が崩壊したのは、何もソ連・東欧に限ることではない。私たち自身の「社会主義」が、私たちの運動の中で崩壊したという自覚を私はもっている。私がとれる態度は、ロシア・旧ソ連の人民が、どのような道を選択しようとしているのかをできるだけ理解し、その道がどのような困難を抱えているのかを考え、その困難を解決する方策は何であるかを追求しようとすることである。

  エリツィン改革の結果

 ソ連邦が解体し、エリツィンのロシア大統領権力が「急速な改革」をかかげて、昨年一月初めからの価格自由化をはじめとする経済改革を実施してから、一年が過ぎた。
 この改革の結果を評価するとき、エリツィンの経済政策は、こうした試みが必ず遭遇しなければならない諸困難を割り引いても、深刻な失敗であったと言わざるを得ない。
 二〇〇〇パーセントを超えるインフレが進行した一方で、生産は大幅にダウンしている。国有生産部門の大企業の民営化は遅々として進まず、流通や消費工業部門の中小企業の民営化も、国による産業政策的指導の欠如と資本援助不足のために本質的な前進はできないでいる。農業部門での自営化の促進政策も、流通網の極端な立ち遅れのために販路を欠き、農業機械や肥料の適切な提供がえられないために生産増加の展望を見いだせず、さらに国有農場官僚の妨害も強力で、壁にぶつかっている。この一年を要約すれば、ハイパーインフレと生産の大幅ダウン、それに旧構造の温存である。
 改革が停滞している一方で、政策の負の側面が際立っている。賃金ははるかに物価に追い越され、物があっても金が無い状態が勤労者をとらえている。低所得層・年金生活者などの「弱者」は、ほとんど飢餓に直面しつつある。これらの犠牲者たちの対極に、にわか成り金や新興ブルジョアジー、凶悪犯罪者などが大股で闊歩する。
 こうした悲惨な状況のもとで、エリツィン政権は、「保守派」「中間派」の合同した反対勢力に直面して苦しい延命活動を続けている。人民代議員大会はなんとか乗り切ったが、そのために払った犠牲は、とくにみずからの支持基盤の信頼を動揺させたという点で、決して小さなものではなかった。
 この事態を招いた原因は、エリツィン政権自身の失政にある。クーデターに立ち向かい、それを打ち破った民主主義の旗手というイメージは、エリツィンとその政権の政治的資本であった。だが、この資本は、すでに半ば以上使い尽くされたのである。いまや、ロシアにおける民主主義のためのたたかいは、生活のためのたたかいとして勝利を収めなければならない段階、ロシアの経済の再建を実現することによって、民主主義が旧官僚機構にとってかわる能力と、現実の有効性を備えた制度であることを具体的に示さなければならない局面に、はっきりと入っているのである。
 エリツィン政権の一年は、この具体的な課題にこたえることができず、事態をさらに悪化させるものであった。このため、エリツィンに当初寄せられた国民的な支持の熱気はすでに冷め、政権は孤立化し、危機を迎えている。エリツィンが失敗したこの課題とは、いうまでもなく旧ソ連経済にいかにして市場経済のシステムを導入し、より少ない犠牲で経済の活性化を取り戻し、再建の軌道にのせるかということであった。エリツィンは、その課題の達成を、ゴルバチョフと連邦政府のどっちつかずの弱腰によって遅らされている状況から救い出す急進的な措置の断行こそが、事態を打開する鍵であると主張して、その改革政策を始めたのであった。
 それなら、エリツィン政権がめざした市場経済化の急進的な改革プログラムは、なぜ失敗したのか。また、どの点で失敗したのか。

  市場経済の核心

 発展した市場経済システムの核心は、本来商品でなかった人間と自然が、商品に転化することである。この「労働力商品」「土地商品」に、価格メカニズムが全面的に貫徹したとき、市場経済はその原理を実現して、人間の社会を「市場経済化」したことになる。このような意味の貫徹した市場経済を、カール・ポラニー(注)は、「自己調整的市場」と呼び、資本主義の純粋に論理的な発展の頂点に置いて、市場原理がさまざまな社会に複合的な性格で組み込まれる場合と区別する。ポラニーによれば、このような「自己調整的市場」は、伝統のくびきから人間を解放するのであるが、今度はそれ自身が、人間をその冷酷な掟に普遍的にしばりつけ、隷属させることになる。一九世紀社会の最大の特徴はこの点にあり、その恐怖から逃れるために、種々の抑制、「市場干渉」の方策を開発してきた歴史が、現代であると彼はいう。
 「疑いもなく、労働、土地、貨幣市場は市場経済にとって本源的なものなのである。しかし、もし社会の人間的・自然的実体が企業の組織ともどもこの悪魔の挽き臼から保護されることがなかったら、どのような社会も、そのようなむき出しの擬制システムの影響には一時たりとも耐えることはできないであろう」
 「われわれは、諸国家の内部に、経済システムが社会を支配することをやめ、社会の方が経済システムに対して優位に立つことを保証するような一つの発展を目撃している。……つまり、市場システムはもはや原理的にさえ、自己調整的なものではなくなるであろう。というのは市場システムは労働・土地・貨幣を包含しなくなるであろうから」(ポラニー『大転換』)
 「先進資本主義諸国」が、二つの世界大戦をくぐり抜けて、その国家に管理された市場経済のシステムを開発してきたのは、まさに「自己調整的市場」の統制の成功としてとらえられる。今日の資本主義経済は、多かれ少なかれ「計画経済」的に制御された市場経済にほかならない。
 ポラニーは、二〇世紀をこの観点からとらえ、ファシズムと社会主義・国有計画経済をもふくめて、人類が「自己調整的市場」の悪魔の挽き臼から社会を防衛しながら経済の発展を実現させていくための知恵として、いわばそこに未来を見いだしさえしたのであった。
 ソ連・東欧経済が停滞の泥沼に沈み込み、発展のエネルギーの社会内部からの枯渇がだれの目にもとらえられるようになり、とくに西側の情報社会化・ハイテク産業の発展との落差が際立ってきたとき、再建の方策としての市場経済化が、官僚の上層からも、その官僚独裁とたたかう民主主義勢力の双方からも、唯一の処方箋として熱烈に期待された。当然にも彼らは、停滞する国有計画経済と発展する資本主義市場経済とを対比した。だが、その対比の対象となった資本主義市場経済自体が、「自己調整的市場」に対抗して「計画化」され、管理された市場経済であることについての冷静な評価は、はたしてどれだけなされていたであろうか。

  旧ソ連社会の特質

 ポラニーの指摘をまつまでもなく、旧ソ連社会は、「労働力商品」と「土地商品」に市場原理が貫徹することから最も遠い社会であった。厳しい監視と隷属を政治的に強要されることと引き換えに、労働者階級は、市場の冷たい掟から隔離され、保護されていた。彼らは、その労働力の商品価値を示す代わりに、まず国家と党に対する絶対的な忠誠を示すことが求められた。その代償として、職場と賃金が比較的平等に保証された。この意味で、ただこの意味でのみ、旧ソ連はある種の恩情国家であり、共同体国家であった。
 この恩情的・共同体的な労働力政策は、農業部門においても本質的な違いがなかった。働いても働かなくても、同じものが手に入る。働いて知恵を発揮し過ぎれば、平穏を乱し、仲間に迷惑がかかる。決められた目標の実現というルールが、実現できる目標の決定というルールにとって代わられる。現状維持と安定秩序が社会全体をつらぬく規範となったのである。これが、この国の経済発展のテンポの漸減という基本的傾向を定着させた要因である。
 ペレストロイカを開始した時点でも、こうした勤労モラルの定着が問題であることは、自覚され大声で指摘されていた。だが、このモラルは、勤労人民が発明したものでも、敵がひそかにばらまいたものでもない。それはこの体制の支配者である官僚層が、自分と自分が所属する階級について心のそこからそうあるべきと願ってきたあり方にほかならない。
 改革が叫ばれ、市場経済の新しいルールを導入して社会を活性化させようとする試みにたいして、旧ソ連の社会は、その経済の経営層も勤労者層も、まったく準備されてはいなかったのである。

  急進的改革の必然的な失敗

 西側諸国を代弁してIMF(国際通貨基金)がロシア支援の条件として突き付けたものは、それがどのような犠牲を強要することになるのかを基本的に無視した、急速な市場経済化であった。それは単に、「国有計画経済の隘路」を突破する経済政策の指針というより、冷戦への後戻りを不可能にするために、旧国家構造解体の既成事実化を求める政治的条件というべきものであった。
 IMFの要求に忠実に急進的な改革を進めようとしたのは、ロシア・エリツィン政権であった。たしかに、資本主義諸国家の経済的な支援なしに破産に瀕した経済をたてなおすことはできない。だが、エリツィンとその経済閣僚たちは、援助引き出しのための譲歩として急進路線を選択したわけではなく、彼ら自身の確信にもとづく路線として、その正しさが主張されたのである。
 だが、エリツィンの政策を冷静に評価すれば、IMFに追随する意図だけが先走りした一面的で過度に急進的な市場化政策であり、いわば時代遅れの「レーガノミクス」というべきものであった。このような手法は、まだ準備の整っていない旧ソ連社会にたいして、犠牲だけが大きく実りの少ないものであったことが、すぐに明らかになった。その結果、機構派としての「保守派」と、国営企業に基盤をもつ「中間派」とが連合して、エリツィン政権に政策変更を迫るという事態がうまれたのである。エリツィン大統領の実現のためにたたかった労働組合勢力にとっては、いわば恩を仇で返されたことになるであろう。エリツィンの政策の犠牲者の最大の部分は、賃金で生活する労働者たちだったからである。
 エリツィンの失敗は、旧ソ連社会がいま必要としている改革が、もっとゆるやかでしかも戦略的なものでなければならないことを明らかにしている。それは、少なくとも現在存在するソ連経済の可能性を、人的・物的に十分汲み上げうるようなものでなければならないのである。

  市場経済への軟着陸

 課題は、きわめて戦略的性格をもっている。それは、単に勤労人民に市場の掟を教えることだけではない。主な課題だけでも、
 第一に、市場化する経済において経営の主体として行動できる幹部階層を形成していくための政策、
 第二に、国有企業の漸次的民営化と、それに見合う資本市場の創出、
 第三に、巨大企業の分割による競争環境の創出と企業の適正規模化、
 第四に、消費者直結の小規模企業の大量創出による流通・消費物資生産体制の確立を保証する財政投融資、
 第五に、自営農民層の創出のための工業・流通政策の確立、
などがあげられ、さらに、こうした経済の大規模な転形の一時期をつうじて、国際市場と有利に結合して資本を調達し、国内の産業構造の重点的な再配置を計画的に推進するために、エネルギー・資源産業の急速な再建が是非とも必要であり、そのために、国家財政の「傾斜」的発動が不可欠である。
 また、これらの期間を通じて、消費者の犠牲を可能な限り回避するための部分的な統制価格政策、場合によっては配給制度が、維持されなければならないであろう。
 求められているのはロケットの発射ではない。市場経済という未知の目的地への「軟着陸」に成功しなければ、壊れかかっているこの船は、ばらばらに分解してしまうかもしれないのである。

  ロシアはどこへ向かうか

 「新ロシア革命」は逆説の時を迎えているように思われる。その時計はある意味で反対の方向に時を刻み始めている。
 それは、後戻りすることなしに、しかも急進主義に別れをつげて、より犠牲の少ない市場経済化の道をさぐることである。この新しい局面では、昨日までの「支配者」たちのうちでより賢明なものたちが指導権を握ることになるのかもしれない。それは一見反動化の様相を呈するかもしれないが、少なくとも現実主義の点で優位に立つであろう。実際に成果が上がれば、旧ソ連・ロシアの勤労人民はそれを支持するであろう。藤井氏もいうように、「人なみの生活」を人民に保証することなしには、結局どんな改革も結論まで進めないのである。
 ロシアはどこへ向かうのであろうか。
 「新ロシア革命」は何にたどり着くのであろうか。
 いま考えられるシナリオの第一は、「国有計画経済」の漸次的市場化である。それは、結論としては「資本主義への軟着陸」である。その段階では、新しい資本家・経営者階級の基本的な部分は、旧官僚・企業幹部階層から出てくるであろう。労働者階級は、それぞれの具体的利害に適合した組織形態をもった労働組合に団結して、資本家階級との階級闘争を通じて、労苦の分け前を主張することになる。このような労働組合への労働者の結集がなければ、勤労モラルの再建もまたありえないはずである。
 農業では、広範な自営農民層の創出がきわめて重要であるが、同時に、国営農場の私営化も選択肢の一つである。土地と農業生産手段の所有形態は、独占を排除するためにも多様であるべきだろう。
 このシナリオは転形に成功した場合のそれであるが、もう一つ、失敗した場合のそれも考えられる。それは、旧ソ連とロシアの国家と社会が、内部と外部のナショナリズムの解決不能な対立激化によって引き裂かれ、ゆるやかな再建の時間も能力も奪われてしまうことである。安定した支配機構とその担い手を結局育てることができずに、人民の各層を目的に向かって結合させることができなければ、ロシアをふくむ諸国家は、不毛な抗争によって解体していく危険に直面する。これは、いわば破局のシナリオである。しかもこの破局は、たんに旧ソ連圏にとどまらず、地球規模の危機を招くこととなる。抗争する諸国家が、核兵器をもってにらみ合う構図は、人類の恐怖である。
 いずれにせよ、ロシアの未来を決めるのはロシアの人民である。しかし、新しいロシアをめざす彼らのたたかいの行く手に、「新しい社会主義」を私たちが期待することは、許されない。
 なぜなら、社会主義をみずからの未来に見いださなければならないのは、まず私たちの方であり、ロシアと旧ソ連の人民は、彼らのための「資本主義」をつくりだすたたかいをいま始めたところなのであるから。
(一九九三年一月七日)
ソマリア

             米軍は十字軍ではない

                                   サラ・ジャベール
 すべての西側世界の良きキリスト者は今や、平安の心をもってクリスマスの七面鳥を前にすることができる。西側のテレビには、その周りを蝿が飛び回り骨が浮かび出たソマリアの子どもたちの身震いするような映像ではなく、微笑を浮かべるアメリカの海兵隊員がその力強い両腕にやせ細ったソマリアの幼児を抱きかかえ、そして幼児たちはほほえむことを思い出したかのようににっこりする(少なくともその場面が続く限り)――こうした映像があふれている(一九九二年十二月十日)

ブッシュの偽善

 確かにアメリカのソマリア介入に関する報道の扱い自体は大きなスキャンダルというわけではないが、胃にはよくない。この地の飢餓を報道するためにこれまで訪れたのよりもはるかに大量のレポーターが、米軍のソマリア到着を取材すべく突如として登場した。この地、アフリカの角では飢餓がこの数年間というもの、風土病のように広がっていたというのに。
 しかも現在ではもちろん、報道陣の取材には特別の狙いがある。アメリカの介入で苦しむソマリア人の苦痛を全世界に決して警告せずに、アメリカの軍事作戦――パナマと湾岸に次ぐジョージ・ブッシュのこの種の三回目の、そして最後の軍事行動――を後援することがそれである。
 ブッシュの偽善ぶりは今や頂点に達しつつある。「自国の人々を飢えに追いやっている……武装した徒党にはもはや我慢できない」と、ジョージ・ブッシュは十二月四日に述べた。これが、イラク人民を抑圧している専制者を口実として、制裁によって(ほとんど報道されていないが)イラク人民に飢えと子どもたちの死をもたらしている人物の口から出た言葉なのである。また、アメリカ諸国で最初に非識字を一掃した国、キューバに対する米国の封鎖のために、この国がどれほどの人的な被害を受けたかを何社の報道が取材したかを問うことも許されるだろう。
 今や「人道主義」という言葉は、「平和主義」とともにその裏の意味がはなはだ大きな言葉の一群に入りつつある。この言葉の響きにひかれる人々のためにいえば、今回のアメリカの介入とその予見できる結果の真の意味を明らかにするいくつかの事実がある。

ブッシュがクリントンを就任させる

 大統領が自らの任期切れの二カ月前に危険を伴う任務をもたせて軍隊を派遣するという尋常ならざる決定は、そう想像する人がいるかもしれないが、勇ましい最後の抵抗ではない。これはアメリカ流ではありえない。
 この決定には、はるかに回りくどい狙いがある。ブッシュが体現している軍産複合体はベトナム戦争に対する自らの反対を隠そうともしないし、謝罪もしない人物が大統領の執務室に入ることに神経質になっている。
 このままでいけば、クリントンは外国への軍事介入が行われている時期に就任することになる。ブッシュ大統領の偉大な「成果」の一つは、レーガン大統領の時にはあまりうまくいかなかった、こうした介入主義の復活である。介入の口実は特別の注意をもって選ばれ、マスメディアの大宣伝と偽善的な演説を通じて介入が正当化された。ニューズウイークの世論調査によると、六六%がソマリア派遣を支持している。
 ソマリア介入は、戦略的には対イラク作戦の継続である。ソマリアが、湾岸をその中心とする弧状をなす危機地域の前線に位置する国だからである。ソマリアは、イスラム教国であり、イランとの中心的な同盟関係にあり、かつイスラム原理主義の拠点国であるスーダンと国境を接している。そしてイスラム原理主義こそは、「共産主義の崩壊」後の西側にとっての新たな恐怖の原因なのである。
 ソマリア介入はそれが高度のレベルでマスメディアに意識的に漏洩されている時期にあっては、イラン攻撃を準備しているものとして大きな意味を有している(イランは介入に反対した)。

新世界秩序の確立

 ソマリへの軍隊派遣は、湾岸戦争後に開始された「新世界秩序」の確立における新たな動きである。これには三つの要素がある。@アメリカが世界の警察であることA国連の旗の下での行動B他国を引き入れる。特にアメリカの軍事的な保護によって利益を得るために米国の軍事作戦にお金を出す裕福な同盟国を。
 第一の要素は厚かましいというべきである。アメリカは再度、対象地域にはるかに近い強国――たとえばフランスは近隣地域のジブチに有力な基盤を有している――よりもはるかに介入に向けて準備をしていたのである。
 第二の要素は条件反射的になっている。今回は、一九九〇年八月の事件後にアメリカが軍隊派遣という自らの決定を正当化するために国連の安保理を使った二回目である。これはまた、アメリカ軍が国連の青いヘルメットをかぶるという形式的な手続きをも踏まずに、非常に融通のきく委任を受けて戦力の行使を正当化されて国連の旗を手にした二度目である。これはまた、ある国の内部問題に「干渉する権利」が明白に承認された最初の例である。
 アメリカは再び、自らの意思を国連加盟国に押し付けた。国連加盟国はすでに、ソマリアへの食糧援助を安全に行うために三五〇〇の兵力の派遣を決定していた。この派遣兵力にはアメリカの兵隊は含まれたいなかったが、動きが始まったばかりであった。
 ブッシュが米軍派遣を決定したまさにその時に、パキスタン兵五〇〇人がソマリアに到着していた。アフリカ諸国は、介入を阻止できないと分かっていた(安保理の五大国のみが拒否権を持っているから)ので、米軍が国連の指揮下に置かれるべきだと主張したが、当然無駄であった。
 またもやお金が集められている。湾岸戦争と同様にサウジアラビアと日本が最初に支払の用意ありと表明した。軍事力行使に伴う費用は、ソマリアに送られる食糧援助の費用よりも確実にはるかに多額となる。

予測されるソマリア国民の大きな被害

 多国籍軍の費用を考慮すれば、国連の指揮下に第三世界諸国から軍隊を派遣する方がはるかに安上がり(より「公平無私」ではないにしても)だと確実にいえる。国連が組織した三五〇〇の兵力だけで十分に食糧の配給を確保できるのは全く確実である。また、軍事介入それ自体がそれに救われるよりももっと多くの人命を犠牲にすることも確実である。
 兵力が分散していたためにイラク兵の大量殺戮が行われ、市民の生命を直接の犠牲にすることなく社会的基盤の破壊が可能であった湾岸戦争と違って、ソマリアの民兵は住民の間で、そして都市部で活動している。こうした条件下で米軍が重火器を使うと、それはパナマの場合と同様に大量の住民の生命を失う危険があり、重大な結果を招きかねない「間違い」を犯す危険もある。
 人道的な諸組織での声なき多数派の意見はほとんど報道されないか、あるいは実際に弾圧されている。後者の実例としてアメリカの組織アフリカ・ウオッチの責任者としての地位をやめさられたソマリア人、ラキヤ・オマールの件がある。
 組織的に神秘化されている現在の事態にあって、アメリカ軍が十字軍でない事実をたゆまず人々に想起させることは重要である。
(インターナショナル・ビューポイント誌241号、92年12月21日)

インド

              アヨディヤの悲劇

                                     ラフ・クリシナン
 インド北部ウッタル・プラデシュ州のアヨディヤで十二月六日、数万のヒンズー至上主義たちが十六世紀に建設されたイスラム教の礼拝所(モスク)を破壊した。ヒンズー教徒は、このモスクはヒンズー教の神、ラーマの生誕の地を記念する寺院を破壊した跡地に建てられたのだと主張している。この結果として全国で起きた暴力事件のために、およそ五百人の、主としてイスラム教徒の命が失われたといわれている。ナラシマ・ラオ首相率いる国民会議派政府は、ウッタル・プラデシュ州政府(ヒンズー教排外主義のインド人民党、BJP)を解散させ、BJPの指導者たちを逮捕し、そしてモスクの再建を約束し、ヒンズー教系組織の禁止を発表した(一九九二年十二月八日)。

ヒンズー至上主義勢力の動向

 BJPは一九九一年の選挙でウッタル・プラデシュの他三つの北部州(マドヤ・プラデシュ、ラジャスタン、ヒマチャル・プラデシュ)で勝利を収め政権を掌握し、また国民議会での議席を獲得し公式の野党となったが、その指導部は戦闘的なヒンズー排外主義の立場を薄め、中央権力を争う「尊敬に値する」候補者として登場しようとした。
 しかし、BJPが統治する州内で人気が低下する現象に見舞われた。その理由は、内部の分裂と、ヒンズー排外主義の世界ヒンズー協会(VHP)と民族義勇団(RSS、極右)とが自らの支持基盤を右に移行させたことにある。そこでBJPは、ヒンズー排外主義の同盟関係にある組織と手を結び、アヨディヤ問題に関して強硬な態度をとり行動に出ることにした。
 十月末、つまり中央政府が後押しをするアヨディヤ問題解決のための長引く話し合いの第三回目の只中に、VHPは十二月六日を期してモスクを攻撃するため数千人のカードルに呼びかけを発すると宣言した。その一週間後に交渉は決裂し、争いの平和的な解決のためには、会議派の調停によるヒンズー至上主義勢力のなだめと最高裁判所を通じた処理しか道はなくなった。
 その間、VHPと半ファシストであるRSSは、全国運動を行い、アヨディヤ攻撃に最大の力を動員しようとした。彼らは支持者百万人の動員をもくろんだ。
 VHPのサフラン色の衣を着た聖職者たちの宗教上の主張がいかなるものであれ、アヨディヤの争いはこの間、明らかに政治的、社会的な意味をもってきたのであった。国民会議派とその豊かで上流カーストに属する支持基盤と同様にBJPにとっても。
 一九九〇年秋にBJPは政治舞台に登場し、全国規模の運動を行ってアヨディヤで新しくヒンズー寺院を建設するための煉瓦を集めた。この運動に伴う暴力行為のなかで数百人のイスラム教徒が殺害された。
 BJPの運動は明白に、その二カ月前にジャナタ・ダル州政府が下したマンダル報告の勧告を実行するという決定に対する反発であった。その勧告とは、公共部門の雇用の一定数を低いカーストの人々に割り当てるというものである。それまで、こうした立法措置はとられていなかった。


上層カーストの激しい反発

 その立法措置は、ヒンズー社会の上中カースト層の間で激しい反発を巻き起こした。BJPと会議派は、上層カーストの学生を中心にした反マンダル報告の扇動を展開した。学生たちは、この措置によって、自らの就職難が拡大することを恐れていた。
 BJPは、アヨディヤ問題をめぐる運動を――それまでほとんど注目されていなかった――反マンダル宣伝を別の戦線で長引かせ、反イスラムの動きを上層カーストの指導下に勢いづけ、BJPの政治的な資産を増やし、この過程で下層カーストの希望と自主的な組織化の動きをつぼみのうちにつみとることができると計算したのである。
 会議派を十分に満足させたように、反マンダルとアヨディヤ問題とに関する宣伝は、ジャナタ・ダル州政府の意図をくじき、マンダル立法措置は最高裁に持ち込まれることになった(注1、末尾に)。
 会議派はBJPとその支持者を悩ますようなことは一切しなかった。他方、その長引く内部危機は、先のラジブ・ガンジーの暗殺によって深まっており、BJPが政治的に成長することに耐えられない状態になっていた。すでに三つの主要州がBJPの統治下に入っていたのである。
 だが、会議派の経済自由化政策が大きな混乱を招いていたので、会議派は、BJPの政治的な権威主義、戦闘的な民族主義、経済上の自由主義、そして農村部と都市部とでBJPが有する新富裕層という社会的な基盤を十分に有効に利用したいと考えていた。
 したがって一方では、BJPの強烈な反イスラムの傾向に対しては距離をおきつつも――国内でイスラム教徒エリート層の支持を失うことと、イスラム世界との外交関係の悪化とを恐れたため――この切札を使うことをきらってはいないのだということを会議派は示していた(注2)。
 この間、隣のイスラム国家パキスタンでは、要塞化したシャリフ首相の政府は、アヨディヤ攻撃によって強く望んでいた息継ぎの時間を手に入れることができた。この政府は、辞任させられたベナジル・ブット前首相が率いる野党パキスタン人民党の攻勢に直面していた。
 シャリフ首相は十二月八日を「喪に服し抗議する日」とするようにただちに訴え、その日には、パキスタン内のヒンズー少数派に対する暴力行動が展開された。バングラデシュでも同様の動きがあった。
 西側世界はここ数年間にはみられなかったほどの関心をインドに対して示している。その主たる理由は、インド政府の経済改革における新自由主義計画が放棄されないかとの恐れである。

非常事態令の幽霊

 インドで唯一の全国政党である会議派は、その統治の危機克服を熱心に望んでいる。主要な役割を担うヒンズー宗教政党の登場や、過去十年間の「近代化」の過程でインドにはびこっていた貪欲や腐敗、ギャング、諸改革に反対する労働者階級の抗議行動を引き起こした抑圧――こうした問題とともに、インド政府の危機の真の原因となっているのは、一九七五―七七年の非常事態時に似た権威主義的な支配体制をとっていることにある。
 当時の首相、インディラ・ガンジーは、ヒンズー極右主義の脅威をでっち上げて非常事態を宣言し、主として労働組合運動と左翼に向けた弾圧を行った。非常事態が発令されるにせよ発令されないにせよ、インド政治の権威主義的な姿勢は続く。
注1 最高裁は十一月十六日、マンダル報告に関して決定を下し、基本的に一九九〇年の立法措置を認めた。この決定に対してインド北部で反マンダルの暴力的な抗議行動が発生した。
注2 BJPは、バングラデシュからの爆発的な移民労働者、特にイスラム系労働者の流入に反対する戦闘的な運動を行ってきた。会議派の中央政府は、BJPのこの運動に押されたためではないが、ニューデリーのスラム街に真夜中に軍隊を派遣し、そこの住民一三二人を一台のトラックに押し込み、バングラデシュに送還した。後で分かったことだが、彼らはパキスタンから移住してきたインドに合法的に居住する権利をもっていたのであった。彼らは戻ることを許された。
(インターナショナル・ビューポイント誌241号、92年12月21日)