1993年2月10日         労働者の力              第41号

三千語宣言
改憲阻止・新護憲の緊急行動と
「民衆の憲章」づくりへの呼びかけ


 いま日本の政治は、ほんとうに大きな転機をむかえている。
 国際的な枠組みが変わった。「冷戦」が終わり、ソ連が崩壊し、アメリカの経済力が低下し、EC統合がすすんでいる。地域紛争が多発する中で、国連の役割も大きく変わってきた。それにつれて、「経済大国」になった日本の国際的責任を果たすために――といって、「派兵による武力国際貢献」を説く声も高まり、かつての侵略戦争に関するアジア諸国への戦時・戦後の補償も、アジアの民衆から追及されている従軍慰安婦の問題の処理もしないまま、PKOの名による自衛隊のカンボジア派兵がすでに強行された。加えて、多くの国務大臣、国会議員、与党だけでなく野党の多くさえも、憲法改定の必要を声高に叫びだしてきている。それも堰を切ったように――。
 今日の日本の政治に問われているのは、いうまでもなく民意に沿って、骨がらみの利権政治を切開し、政治の腐敗をただす措置をとり、世界の大勢を活かして軍縮にすすみ、平和の拡大にむけての国際協力の条件を拡大していくことにあるはずである。それなのに、その課題は放置したまま、自民党とその政府が小選挙区制の導入を急ぎ、さらに「改憲」を政界再編成の軸にまで据えようとしているのはなぜか。なんのための改憲なのか。政治の腐敗は憲法に由来しているのではない。そこには大きなすり替えの論理と危険な狙いが働いてはいないか。
 憲法についての全面的見直しを促す声の高まりは、日本の国際的位置の大きな変化や従前のままの日本の政治・経済に迫ってきている支配の側の「危機」の予感からである。むろんその土台には、政府による違憲状態の積み重ねと、「豊かな社会」への変貌や資産格差の拡大をふくめて、国民生活の実質の変化が横たわっている。
 こうして憲法原理が問われ、醜いカネにまみれたままに「菊と刀」が新たな装いをこらして民衆の生活と社会の上に君臨する、その方向への国の進路の重大な切替えが、戦後何回目かの皇室ブームと重なりつつ、政府・与党の側から正面から提起されてきた。「日米安保か、憲法か」といった戦後の思想と政治の対立の座標軸も、「国際貢献」をめぐる選択に変化し、過去の保守・革新の構図もまた、急速に改革派対守旧派という区分に位相転換したという。今日の変化は、戦後そのものの見直しを促してきているといっていいほどに著しい。
 このような状況に、戦後憲法の下、アジアへの侵略の過去の歴史を反省し、「平和国家」の国民として生きることを誓ってきた世代はもとより、アジア太平洋、世界の平和の未来に「生きる条件」を託そうとしている若い世代も、無関心であることは許されない。いま心ある人ほど政治に絶望し、背をむけがちかもしれない。しかし背をむけている間に、日本の進路が派兵、小選挙区制実施、改憲へと変換されていってよいであろうか。そうした方向にすすむことが、唯一の「現実路線」なのであろうか。それはむしろ軍縮と不戦を願う世界の民衆の多くの期待に反し、世界の人びとと平和にともに生きるわたしたち日本の民衆の願いを現実に危うくする道ではないか。
 まずは改憲阻止である。とくに憲法の第九条は、なんとしても堅持し続けねばならない。現憲法には、天皇・皇室条項など疑問の条章も残ってはいるが、その平和・民主・人権の理念は、むしろ「冷戦」後の新しい世界と今後の日本の社会においてこそ、いっそう大切にされ、活かしてゆくべき内容をもっている。そのためには、改憲のための不可避の条件である国民投票で、改憲派が過半数を占めることを阻止する決意を改めて固めることはむろんのこと、国会議席の三分の二以上の賛成によって、議会から改憲が発議されるような事態を許さない議席数を国政選挙で確保することが絶対の要件である。その意味で近づく総選挙はかつてなく重大である。同時に、それをなんといおうと、自衛隊の存在や派兵などを各種の「基本法」を積み重ねながら追認・許容するような、事実上の改憲ないしは新手の「解釈改憲」路線を認めることはできない。
 この点で、あまりに企業中心的な日本の経済社会の中で、憲法原理にかかわる重大な選択が提起されていながら、平和と不戦を強く希望する日本の大多数の民衆の依拠すべき選択肢が、政府・与党に抗すべき野党の多くからいま明確に提示されていないことを、わたしたちは深く憂える。そこには、労資協調・国益第一主義を基本理念とする大企業労働運動指導部の方針とその翳をみてとることができるが、その方向をたどることは、憲法に立脚した平和と生活と人権の闘いを支えるべき労働運動の自滅であり、むしろ社会党など野党の民衆的支持基盤の喪失に通じかねないだろう。
 しかし同時に、いまはたんに憲法の条文だけを守っていればいい時代ではない。わたしたちが「守旧派」であってはならない。憲法をただ紙の上で「守る」だけならば、それは既成事実への屈伏であり、みずから「保守」に堕することである。これまでの護憲は、日本だけの利害を基準にしたいわば「一国護憲」の域にとどまっていたことはなかったか。しかしいまこそ軍縮にむかう世界の民衆の希望にとって、非戦の日本憲法はむしろ先端的な理念となりうる。たとえば、地域紛争の拡大やアメリカを中心にする武力介入などのくり返しに対しても、日本の憲法とそれにもとづく武器輸出禁止三原則を世界に拡大することが望ましい防止策になるだろう。
 他方、現憲法は、かつてのアジア侵略への厳しい反省と反核・非核世界を建設する義務を自分のものとしては明記していない。主権在民と法の下で差別されない平等の権利を尊重する規定をもってはいても、その権利が日本国民だけのものだと理解される側面もあり、先住民族や在日の外国人など、普遍的人権の擁護についての十分な規定をもっていない。特権的政治と専制的管理への弾劾権・抵抗権・リコール権を憲法的権利として確定していない。地方自治の国家行政への従属の根本的転換、採算と効率を優先させる企業本位の産業・経済・社会生活関連のすべての政策の排除、民衆による行政の再点検の権利、さらに世界の民衆・民族間の共存、環境権の確立による自然との共生の世界の実現を人類社会の規範として守っていくことも、憲法の原理・基準に据えるべきだろう。このような現憲法の制約や限界を世界の民衆の闘いに学びつつのり越えていく闘いの旗をいっそう前進させていく。さらに企業中心社会・男性中心社会からの転換をも内容にしたこうした「新しい護憲」の運動を、アジアと世界の民衆とともに、社会生活のあらゆる領域から、自覚的かつ創造的に拡げていくことを呼びかけたい。民衆主体の歴史と文化の創造と幕開けにむけて、縦横無人の協力を開始していく。それが「民衆の憲章づくり」の運動であり、「新しい護憲」の運動である。
 そうした方向にむけての闘いに、政党はむろんのこと、工場・事務所・学校・地域、男女と老壮青、つまり民衆の生活のあらゆる層のあらゆる場所、そしてそれぞれの角度の関心から、いま一斉に、そして緊急に船出していこうではないか。わたしたちはその切なる思いをもってここに会合し、この「三千語宣言」と「民衆の憲章」のための提言の文章を運動のための討議資料として発表することにした。
 わたしたちが提起する文章は、それへの賛否を問うためのものではない。多くの人びとの運動の経験・知恵を土台にした提言によってより豊かにされ、生命力を与えられ、発展させられていくべきものである。
 世界の民衆との平和な共生・連帯を求め、願いながら、ここに日本の未来にむかう希望を結びあい、ともに育ててゆく作業をすすめてみようではないか。社会と政治は必ず変えることができる。歴史を新しくする活動への主体的な参加の勇気と決断と知恵が、わたしたちすべての者に問われている時である。(以上)
 インターナショナル・ビューポイント誌本号は一九九二年最後の発行であるとともに、隔週刊誌としての最後の号でもある。次号からは月刊誌となり、その最初の号は二月初めに発行される(インターナショナル・ビューポイント誌編集部)。

 昨年七月にわれわれが表明した懸念のように、インターナショナル・ビューポイント誌(以下IV)は販売数や予約購読の部数は堅実だが、しかし製作コストの上昇と累積赤字の増大によって、IVならびにその兄弟姉妹刊行物の将来が危うくなっている。
 この危機を克服するために基金の呼びかけや三カ月の特別価格による予約募集に対する好ましい反応にもかかわらず、赤字は続いている。こうした状況にあっては、遠い将来により根本的な対策をとる危険を冒すよりも一号ごとの赤字を解消し、より持続できる財政状況をとるほうが懸命である。IVはこれまで年間28頁建て22号発行であったが、以後は36頁建て11号発行とする。
 だが、事態が真っ暗というわけではない。半年前にわれわれの危機的な状況を明らかにすると、多くの驚きの声や具体的な支援の申し出が寄せられた。つまり、多くの読者がIVが役に立っており、時には不可欠だと思っていることが証明されたのである。こうした信頼の声は、われわれ編集部にとって大きな励ましとなった。具体的な支援の申し出を今後の発行に役立てていきたいと考える。
 さらに、IVは隔週刊であれ月刊であれ、いずれにしても新しい出発をしなければならない時代がすでに到来していたのである。この数年間、国際政治地図は非常に複雑に書き換えられてきた。旧来の目印のいくつかは消失し、その他のものもよろめいている。一九八九年後半のソ連圏の崩壊に続いて、湾岸戦争や旧ユーゴスラビアでの一九四五年以来ヨーロッパで最初の全面戦争の勃発などという事態が発生した。これらは新しい時代の始まりにすぎない。
 資本主義の危機と労働者運動における支配的なイデオロギーの危機とが複合して、基本的な思考を考え直し、それを新しい現実に適用しなければならない状況が生まれた。IVは、この点で自らの責任を果たすべく闘う考えである。新時代の要請に応えられる新しい労働者運動の誕生に貢献したいと考える。
 月刊化とともに表紙やレイアウトなどの概観も変化する。国際政治や世界各地に関する中心的な問題についての定期的で熟慮された論文が掲載される。こうした論文の積み重ねが読者が思考し分析する際の参照源となることを、われわれは希望するものである。
 また、左翼ならびに革命運動の主要な問題に関する情報を提供するドキュメントのコーナーを設ける予定である。そのほかの諸運動において討論されている問題のドキュメントもとりあげる予定であり、これは本誌を有益かつ興味あるものとするだろう。
 編集上の様々な変更によって、本誌は大きな問題について読者が要求する尖鋭で十分に深められた見解を表明できるであろう。
 最後に、基金に金を送ってくれたり、あるいは具体的な援助を申し出てくれた方々に心からの感謝を述べる。月刊化は確かに後退ではあるが、こうした方々の援助と支援がある以上、これははるかに強化された立場への後退であり、この数年間に世界が直面するであろう巨大な混乱の中にあって信頼するにたる立場への後退なのである。(インターナショナル・ビューポイント誌241号)

ドキュメント

労働党の綱領

ロシアで新しい労働者政党を設立


 以下は、昨年の十月十二日にモスクワで開催された労働党創立大会が採択した綱領的な決議である。

 わが国はいま、その歴史において最も劇的な時代を通過しつつある。一九九一年八月二十一日の諸事態において人々は、旧来の生活を拒否し、そして民主的に選出された権力機関を防衛する意思を表明した。だが、それにもかかわらず、旧来の全体主義支配体制の崩壊は、予期されていた民主主義の勝利をもたらしはしなかった。人々は、旧体制と闘い、そしてデモを敢行し、バリケードを築いたが、その勝利の成果を味わうことは許されなかった。
 ロシアで権力を掌握した勢力と旧ソ連のその他の勢力との間にある違いにもかかわらず、彼らは一致してロシアの危機は最も広範な私有化の実行と大量の外国資本の投資によって克服できると主張した。
 これら新しい支配勢力は、その大部分がかつてのノーメンクラツーラから登場した企業家や新所有者層の権利を擁護している。官僚的な独裁体制は、新しい形態でその特権の維持や合法化を許され、権力と財産を支配エリート層内の様々なグループ間で再分配している。名目だけであったが全人民所有の財産はいま、現在の社会の危機に対する第一の責任を有する勢力に直接に属するようになってしまった。
 この支配勢力たちは、できるだけ速やかに輝ける資本主義の未来をつくりあげたいとの焦りから、社会主義といささかでも関係するものすべてに反対している。そうしたものの中には、働く権利のような最も初歩的な権利の社会的な保証や、無料の教育と医療などが含まれている。広範な破産と大量の失業の脅威、猛烈なインフレ、生活水準の急速な悪化、少し前までは許されていた労働現場での民主主義を剥奪しようとする動きの最初の兆候などのために、社会の緊張が高まっている。
 社会保障制度の破壊は、社会的な不満と政治的な不安定さを新たに増大させ、このことが独裁の土壌となっている。市民の権利は制限され、民主的に選出された権力機関は解体され、野党勢力の出版所は閉鎖され、代議機関(立法機関)の権力は縮小され執行機関に権力が集中している。
 こうした政策の結果に苦しむのは労働者だけではない。自立企業家は、官僚的なブルジョア独占組織や、国有財産の私有化の結果として登場した権力構造をコントロールする新しい社会層と自由に競争できずに苦労している。公約であった思想的に中立の国家ではなく、新しい権力制度が出現した。
 この新権力制度は共産主義スローガンを反共産主義スローガンに変更したが、依然としてその基盤を官僚制に置いている。恣意的な権力行使に代わる法治主義の勝利という約束は、実現されていない。国は、その歴史において最も暗いページを繰り返している。

勝利者の満場一致

 勝利者の満場一致はきわめて危険である。なぜならば、そこには反対派が不在であり、権力機関内部の反対意見が反映されず、民主主義が民主主義であることをやめるからである。
 共産党の全体主義支配の数十年間において、社会主義的な価値観が信頼を失い、自由な労働という価値観も完全に信頼を喪失した。しかし、この価値観と考えは、応接室の話し合いからではなく、労働者の利益を守るために不可欠のものとして生まれたのである。共産党の崩壊は、こうした価値観と考えを表明する真に民主主義的な左翼運動の創出を可能にしたのである。このためにこそわれわれは、広範な労働党、下からのイニシアティブに支えられて党運動を形成することが必要不可欠だと考えるのである。
 われわれは、前衛党の思想に反対である。労働党は、労働組合と労働者運動を政治的に支援する政党であるべきである。大衆的な労働者諸組織を政党の指導的な役割に結びつけようとせず、この党は、大衆的な労働者諸組織が権力機関内部に自らの声を発し、社会において決定的な勢力でありうるように支援することが任務であらねばならない。こうした党だけが、わが国勤労人民の真の要求に応えることができ、そして国際左翼運動の真に有機的な一部になることができるのである。
 現在の支配層の様々な政党が自らの目的を企業家層の利益を守ることにあるとする以上、われわれは、自らの目的が勤労人民、とりわけ雇用労働者の利益を守ることにあると宣言する。
 現在の社会は、以下のような運動を遂行する政党を要求している。
●すべての労働者が職をもつ権利、
●社会保障制度の改革、
●経済上の民主主義、労働者の物質的な利益と労働条件に影響する経済上の決定に労働者が参加する権利、
●労働組合運動の自立、その所有形態がいかなるものであれすべての企業において労働組合が存在し自由に活動する権利、わが国の国際労働機構(ILO)規約の承認、
●集団所有あるいは地方自治体所有などの所有形態の発展、国営部門をわが国を経済危機から脱出できるように領導する現代的、効率的で非集権的な部門に転換する、
●これまでの「全人民所有財産」の無統制な官僚による民営化の中止、国家独占企業体の民営企業への転換反対、
●消費者と独立民族企業の権利の防衛、
●開かれた市場構築に不可欠の条件としての経済の民主的な規制、
●多国籍企業の利益に奉仕するのではなく自国の生産と流通の発展を促す基礎となるような世界経済への統合、
●自主管理と執行機関への権力の集中に対抗できる強力な代議機関、
●公正な政府、その基礎は国家と商業活動との間に厳正な区画を設け、混合経済の枠組みの中で社会部門と民営部門とをはっきりと区別すること、
●女性に真の平等を、女性が社会生活に全面的に参加し家族としての責任を放棄させられることがないようにするための諸権利、
●民族的、文化的、宗教的な少数派の権利の保証。

現在の袋小路とわれわれの路線

 わが国を苦しめている危機は、単なる旧支配制度の崩壊の結果だけによるものではない。生産技術は時代遅れとなった。経済構造全体も同様である。少し前までは世界のリーダーの一つであったわが国は、次第に世界資本主義の時代遅れの周辺国になりつつある。
 経済を混沌から救い出さなければならない。様々な地域と企業とのそれぞれの間を正常な経済関係にしなければならない。消費市場を商品で満たさなければならない。全体主義体制が達成できなかった課題を、つまり現代的な産業社会の条件を創出し、経済の社会的基盤を確立し、現代的な通信設備を形成するなどの課題を実現しなければならない。同時に工業社会という旧来の基盤から脱工業社会構造への移行を開始しなければならない。
 一九八〇年代の東欧とわが国の経験は、かつての指令による支配の破産を証明するのみならず、「純粋」に市場による解決を追求することの、そして自由市場と官僚的指令による計画経済の不毛さをも明確に証明しているのである。
 西側諸国では、数世紀もかかって市場形態が開発され、その後の歴史の中で自然的に市場調整のための一連のメカニズムが形成されてきた。これらのメカニズムをわが国の土壌に機械的に移すことは不可能である。なぜならば、われわれが直面している経済の問題は、西側経済がこれまでに対処してきたそれとは質的に異なっているからである。
 商品とサービスが極度に不足し、経済が解体しつつあるという条件下で基本的な経済プロセスを解放することは、ただひたすらに危機を深めるだけになろう。
 自由競争が不可能という事態は歴史的に形成されてきた生産構造と結びついており、この構造にあっては実際上、一つあるいはほんの一握りの巨大独占企業によって一切の経済部門が支配されていたのであった。したがって、反独占の規制はこうした条件にあってはなにものも生み出さない。企業を真の競争に引き入れるためには、経済再建の複雑な綱領を実行しなければならない。このためには、企業の創出や既存企業の再編を含む長期投資計画が必要である。輸入を管理する必要があるし、また輸出に関しても一定の管理を行わなければならない。これらの方策すべては結局、経済プロセスの強力かつ効果的な計画なくしては不可能である。
 この計画は、国民の生活必需品の供給を保証し、かつ、企業のイニシアティブを制限せず、企業展開への刺激を弱めるものであってはならない。危機が克服されていく過程で、これらの目標は、指令的な方法を用いて、生産の最低水準を設定し、超過生産と国家の注文を越えた生産に対する有利な課税水準を設定することによって達成できるであろう。同時に、国家の注文に応えられなかったり、あるいは国家注文で想定されていた経路や価格以外の方法で販売した企業に対する重い罰金を課す必要がある。
 
 商品市場の展開は、効率的な経済形成の不可欠の条件である。公式筋の宣伝は、市場と私有財産とは不可分であると明確に示唆している。だが、われわれは、私有財産の普遍的な導入は、全面的な国有化が社会正義を実現した以上に決して経済の効率を保証するものではないと考える。
 西側諸国のような伝統が不在で、しかもヨーロッパやアメリカでもその形成に数世紀を要した近代的なブルジョアジーがいない国にあっては、自然発生的な市場の形成は、最も原始的で野蛮な形態をとらざるをえない。
 既存の経済構造の意識的な転換を行わずに、大規模な私有化を行うと、自動的に国家独占を私的独占に置き換えるだけであり、そのうえ、私的独占のほうがより統制が困難であるという問題が追加的に発生するのである。
 「下から」の企業家精神の発展、新しい企業の確立、新しい職と生産の創出、これらの動きをあらゆる可能な方法で促進する必要がある。協同組合や小企業に低金利の融資、土地、原材料を保証しなければならない。これを保証する上で最大の障害になるのは、旧来の中央集権的な国有財産を基礎にして私的超独占を形成することである。
 
ソビエトの資産(略)

実行可能な民主主義

 わが国にいま存在しているソビエトは、その多数派を誰が握っているかに関係なく、経済開発あるいは通常の決定を行っていくことさえもできない、とわれわれは確信している。
 単一の一枚岩的な官僚制のピラミッドの崩壊は、あらゆるレベルで多数の個別官僚制をもたらしている。これらの官僚グループは、相互に権力や特権、「全人民所有の財産」の配分をめぐって争っている。
 民主的自由や複数政党制、報道の自由などを形式上宣言したにもかかわらず、わが国には、市民社会を形成し発展させるために必要な初歩的な条件が存在していない。登場した様々な社会グループは、官僚のグループを例外として、自らの利益を十分には意識しておらず、自主的な組織化の経験も有していない。実質的には現に進行している事態は、民主化というよりもむしろ封建化に近い。
 こうした状況にあって、中央あるいは諸地域における多くの「リベラル」な政治家たちが権威主義的な体制を導入し、われわれが所有するいくばくかの民主的な自由を奪い、政党やソビエトを解消し、個人権力の制度を導入することなどによって、わが国の無政府状態を解消しようとするのは、全く自然である。こうした政治家たちは、わが国および人民の未来にとって尖鋭な脅威となっている。下からのイニシアティブの抑圧、不可避的に一グループあるいは個人の独裁をもたらしかねない弾圧は、社会を再生する一切の可能性に対する脅威になっている。
 「自由市場」と「文明への回帰」といった美辞麗句の下でわれわれを野蛮へと追いやっている「リベラル」な権威主義に対する代案は、権力を民主化する闘いただ一つでしかありえない。権力を民主化する闘いには、新たな実行可能なソビエトの形成、ソビエト内における新たな民主的多数派の創出、文化の発展、労働者の能力の改善と労働の質の向上の闘いなども含まれる。
 国家および生産の両面で、宣言されただけではない実際に機能する民主主義のみが、われわれの問題を解決できる。あらゆるレベルでの新たな実行可能な機関や構造体の創出だけが、社会と法律に対して責任を果たしうる権力組織を形成できるのである。地方レベルでの権力構造の民主的な改革なくしては、民族問題の解決はありえない。ロシアの再建もありえないし、民族国家を形成しようと闘っている人々の独立を真に保証することもできないだろう。
 こうした権力が形成できる唯一の道は労働運動の発展、勤労人民が自らの利益を自覚すること、労働者が自らの権利を守るための闘いを通じてであることを確信している。
 勤労人民の連帯だけが、民族間の分断を克服できる方向を提供できる。官僚専制と結びつかず、地域と共和国との論争に参加していない勢力だけが、事態の流れを変化させうる。こうした勢力は、われわれの見解では、その活動の中心を人民の利益と要求に、人民の幸福と尊厳におかなければならない。
 
われわれの価値観

 人類が自らの運命の主人となるためには、自らの支配下にない外部の力――国家権力であれ資本の権力であれ――から最高度に独立し、労働者の生産手段からの疎外と市民の社会および政治の決定過程からの疎外を止揚し、雇用労働者の社会と国家を平等の権利をもつ市民社会にすること、これらは、われわれが忠誠たりつづけて闘っている社会主義運動の過渡的な目標である。
 市民が責任をもち、平等の権利がないことには、自由は不可能である。近代市民社会では、司法面の平等が特徴であり、すべての人が法の下に平等であり、政府は市民が平等の政治権利をもつと宣言する。しかし完全に平等な政治的な権利は、一方に財産の所有者がおり、他方に自らの労働力を売らざるをえない雇用労働者がいるをいったように人々を分断する経済制度の上には実現できない。人間的な自由は、経済と社会の疎外の止揚、労働の自由を通じて達成される。
 社会の疎外の止揚は、国家―官僚が財産を支配したり、自由市場が大資本の支配を可能にする社会では不可能である。現代西側資本主義は、非常に進んだ発展形態を実現し、これを基盤にして何が可能であり何が不可能かを明確に示した。
 確かに資本主義はいくつかの西側諸国で、非常に高度の繁栄を実現したが、貧困と疎外の問題を完全には解消できないことを明らかにし、そして新たな矛盾、すなわち地球規模の環境危機と、世界をより後進的な従属的な「周辺」と高度の工業化された「センター」――その繁栄は残余の世界の後進性を維持することに結びついている――への分断をもたらした。ロシアは、そのリベラルな改革のおかげで、ますます従属的な周辺の一部になりつつある。旧ソ連の他の共和国と同様に、わが国は、このシステムの不公正を全面的に体験しつつある。
 世界はますます混雑し始めている。現代資本主義の生み出した新たな矛盾を解決するには、世界はわれわれにとって小さすぎる。人類は前進していくだろうし、世界の現状が不変であり続けることもないだろう。われわれの前にあるのは、人間性がその発展の質的に新たな段階に向けて変化していく過渡の始まりである。わが国は、他の人民とともにこの転換の過程に参加すべきであり、歴史のブレーキになってはならない。
 われわれが理解する社会主義とは、経済の民主主義、人々や諸民族に権利の平等を基礎にして最大限の自由を保証する社会である。ここには、平等な基盤の上に経済決定の過程に参加する権利や公共財産の管理に平等に参加する権利などが含まれる。これには、すべての人を同一にしたり、あるいはすべての人を同じ型に流し込むことは含まれない。その反対に、社会主義とは、すべての人がそれぞれの顔を示し、その個性を最大限発揮しうる可能性を実現するものである。
 社会主義とはわれわれにとって、一度に全面的に完成されるような、なにか完結した理想ではなく、旧社会システムの進化と新しい社会システムの誕生と成長とを含む長期の歴史的な過程であり、経済と政治との民主主義を基盤とするのである。
 それぞれの国で社会主義は。それぞれの具体的な経済、政治、文化の状況や全般的な発展水準に応じて全く異なった様相を示すかもしれない。西側の高度先進社会は脱工業社会の入口に立ち、環境危機を克服しようとし、その巨大な技術力に値する利用方法を見出そうとしている。
 西側の高度先進社会での社会主義展望は、あらゆる面で危機に包囲され、その中でいかなる代償を支払ってでもますます拡大しつつある技術上の遅れを克服しようとしている東欧諸国や、あるいはこれまでの資本主義の最も野蛮な形態の搾取と官僚制の全体主義独裁とに苦しんでいる第三世界諸国とは全く異なったものとなるのは明白である。
 われわれはユートピアに反対するが、しかし、これまで掲げてきた価値観と理想は断固として維持していく。物資の平等な配分を基盤にした「完全な社会」という消費者ユートピアを実現しようとする試みは、実際にはその最初に約束したのとは正反対の結果をもたらすだけである。つまり物資の不足や問題がない社会ではなく、克服すべき一切の問題をその頂点にまで悪化させた社会が登場する。全体主義のユートピアは、初期資本主義の最悪の特徴、勤労人民の権利の不在、個人の疎外、社会的な不平等を再現するだけでなく、人類の完全な解放の可能性に対する人民の信頼を減少させ、そして新しい社会という思想そのものに対する信用をなくしていきもする。だが、日々の必要だけに導かれる無原則的な政治方法は、まさに展望を欠いている。
 ユートピア思想が失敗に終わることが明らかになった最後の局面では、もはや自らのユートピア思想を信じることもなく、自らの公約を笑い、シニシズムを自慢の手法とする支配者たちの権力を守る政治的立場の勃興を促していく。最近までわれわれの社会で優勢であった、こうした政治意識は、真実の政治的なリアリズムとは完全に無縁である。このシニシズムは、幻想にもとづいているのであり、全く予期していなかった結果を生み出すだけである。

政治的なシニシズムに反対して

 政治的なシニシズムと無原則は、全体主義のユートピアのもう一つの面であり、その危機を証言している。そうした態度は、真の再生の基礎とはなりえない。だからこそ、われわれはシニシズムに反対するのである。そうしてこそ、われわれの社会は価値観を再建できるのである。社会が自らに対する信頼を回復し、人々が自らの力に対する自信を回復し、過去の革命的な伝統をはじめとする文化の継続性を維持することが不可欠である。全体主義ユートピアに反対する機会を人々はもたなければならない。
 社会主義の本質は、自主組織が絶えず民主的な形態に向かっていく社会運動にある。社会自体の長期かつ困難な闘いの過程によって、これが達成されなければならない。(インターナショナル・ビューポイント誌241号)