1993年4月10日         労働者の力               第43号

矛盾をさらけだす連合
 連合春闘を克服する闘いの前進を!

三月三十一日、総評センターがくり上げられて解散した。総評センターの解散は、「春闘」で世界に名を馳せた総評を軸とした日本労働運動の企業連運動主導への「転換」が完了したことを物語る。総評運動は最終的に連合によって終わらせられた。政党への介入や改憲論への傾斜だけが目立つだけという連合の現実の背後には、一方で、実質賃金の切り下げ容認に等しい連合93春闘という姿があり、他方で、国鉄争議団への中労委命令をほぼ二年もの間ネグレクトするという連合労働側委員の実態がある。93春闘は、連合運動の克服こそが日本労働運動の再生の不可欠な要素であることをあらためて明らかにした。

連合春闘に抗する四・一総決起集会

 日比谷野音で四月一日、国労と国鉄闘争支援中央共闘会議の主催によって4・1中央総決起集会が開催された。「許すな!過労死・首切り・憲法改悪 譲れない!人権・平和・民主主義 国鉄分割・民営化6年を問う! 一〇四七名の不当解雇3周年糾弾!」と題された集会は、国労や都労連をはじめとする労働組合が結集する春闘決起集会でもあった。
中央共闘の中里さんが主催者あいさつを行った後、闘う春闘を訴えて93春闘懇談会、93春闘共闘委員会が連帯のあいさつを行った。これらのあいさつは、ともに連合春闘の悲惨な現実を克服し、同時に連合の三月決着路線を克服する闘いを続けている多くの労働組合との連帯を正面から意識した決意表明であった。また前日の三月三十一日、総評センターが正式解散した事実を踏まえ、国鉄分割・民営化の全面承認を決定的な契機とする総評運動の連合へのなだれ的な吸収以降、今日の連合による改憲策動への積極加担、社会党への分裂主義的介入という連合の現状に至る6年間の国労を中心とする闘う労働組合の果たしてきた役割がさらに重要性を増していることが強調された。
永田国労委員長の基調報告と行動提起(別紙参照)には、連合と結託する労働省による中央労働委員の連合による独占、その結果としての中労委による不当な結論の先のばしに対する怒りがあふれていた。


連合の矛盾をつく国鉄闘争
中労委の命令ネグレクトを許すな


日本労働運動と組織の転機となった国鉄解体、国労解体攻撃によって一〇四七名が二度めの首切りを受けてから三年が経過した。また、昨年の中央労働委員会が「三度目の首切り」に等しい最終解決案を提示してから、一年が経過しようとしている。
地労委段階での国労サイドの全面勝利をまったく無視してJR寄りの最終(和解)案を作成した中労委は、国労の当然の拒否にあってもなお、そのなすべき職務である裁定命令を実行しようとはしていない。
中労委の言い分はただ一つ、すなわち「命令が(JRによって)無視されたなら中労委の権威が傷つく」というだけだ。だが中労委の「権威が傷つく」ことが前提の上で、裁判に訴えることが方式化されているのであり、かつ同時に経営者側は常に裁判に持ち込んで争議の引き延ばしと逆転を狙うのである。
今回JRもまた「一切の妥協拒否」という態度のもと裁判での超長期争議化という態度をはじめから明確にしている。
中労委の権威が「傷つく」のは、こうしたJRおよび政府の方針を暗黙のうちに了解し、その上にたって国労などへ屈服的和解案を提示すること自体にある。
連合成立以来、中労委の労働委員は連合が独占している。労働省は全労連や全労協を完全に無視する態度を続けてきた。
とりわけ佐川疑惑に連座した前私鉄総連委員長の田村が中労委での労働側の担当者であった中で、連合は田村や公益委員某などを通じて、国労の屈服を唯一の道とした「解決」の策動を重ねてきた。連合にとって、総評解体・連合形成の過程において国労運動の解体が核心であった。その核心をひっくり返すことなど容認できないのは明白である。
当然、中労委が開き直ることは十二分に考えられることである。だがその時、全国の各地労委判断を一切無視する強行手段に訴えることになるから、労働委員会制度の事実上の崩壊をまねくであろう。それを避けるとすれば地労委の判断が尊重されなければならない。
中労委命令は出さねばならない。それは連合にとって、以上の二つのうちのいずれを選択するにせよ、自らの存在の根底を脅かす選択になるほかはない。



鉄鋼労資の演出した実質賃金切り下げ


こうした連合の基調は、当然自らの労働組合にも貫徹する。企業連組合として連合は、バブル崩壊後の大量の人員削減、賃金抑制という資本の攻撃に正面から立ち向かう論理を持ち合わせてはいない。
日産が座間工場の廃止を宣言したが、日産労組、自動車総連、そして連合それ自身も闘いの姿勢をみせようともしていないことを例としてあげれば十分であろう。
連合がいかにマクロ経済論をふりかざし、国際協調経済を主張しようとも、その根本のところで企業防衛第一主義であり、そのためには労働者個々人の犠牲は容認されるということであるかぎり、事態はなんら変化しない。
バブル化の時期に生まれた連合はバブル崩壊の93春闘を、資本の極低額の回答に甘んじ、ストなしで収拾した。さらに労働時間短縮においても審議会からの委員の退場というみえみえのやらせ劇でお茶を濁しただけであった。
93春闘の賃上げ水準は、企業連運動の中枢であり連合を主導する金属労協の一発回答を土台にして、「集中」決着した。鉄鋼で定昇込み2・65%、七千五百円(定昇分三千五百円)、自動車、電機で定昇込み3%台、私鉄やNTTも3%台を突破できなかった。
鉄鋼は昨年より額で二千五百円、率で1%下回る。年間一時金も昨年より七万円低い。鉄鋼相場が全体の低水準を規定した。全電通は3・99%で終わり、絶対に4%には乗せないというNTT経営陣に屈服した。
鉄鋼賃上げは、定昇分を除けば物価上昇分に満たない数字であるといわれ、実質賃金は切り下げとなったのである。
これらを基準として形成される「春闘相場」は、したがって総体として実質賃金水準を防衛できるかどうかがきわどいものとならざるをえなくなった。
「賃上げは定昇だけ」と主張してきた日経連方針が基本的に貫徹したといっていい。
鉄鋼労資の演出台本は、本来賃上げではないベース賃金の定昇部分を賃上げに組み込むという、黒を白といいくるめる長年のアベック方式にもとづいている。いいかえれば、ごまかしであり、みせかけの名目賃上げをさらに水増しするものなのだ。
 定昇は、いわゆる賃上げの概念からははずすべきものである。退職者の賃金が高く、新入社員のそれは低いというのが日本型賃金体系の基調であり、それが定昇というシステムのもと、年功や技能取得、家族手当などで勤続年齢にほぼ比例して上昇していく。定昇とは、新入社員や若年層の賃金が低く押さえられているという日本型賃金体系の特殊事情からくる制度であり、同一労働同一賃金の賃金体系採用を拒否した日本資本が導入した制度である。
したがって定昇プラス物価上昇分ということは、企業にとっては物価上昇分を製品価格に転嫁しているのであるから、賃上げ率は事実上ゼロであり、今年の鉄鋼の数字は物価上昇分に満たない実質での賃下げの強行であるというのが真実なのだ。

 バブル崩壊で暴露される連合運動


連合春闘が集中決着した直後から、景気回復という声が聞こえるようになった。一方で、低金利政策のもと株価が急上昇しはじめ、他方では地価引き下げへの歯止めを求める声が強まっている。
企業の保護・優先政策を国家規模で貫徹せよという、高度成長経済時代そのままの論理がふりかざされている。野党もまた連合の圧力のもとに、社会党や公明党が赤字国債発行を主張するというめちゃくちゃな症状を示した。
日本経済の対外貿易黒字が千億ドルを越えるという現実は、世界経済のかく乱要因そのものである。日本経済は、企業防衛主義という「呪縛」のもとでの低賃金と長時間労働を背景とする「過労死」を世界共通語にするような状態でまかなわれているのである。
連合の経済学は言葉の飾りを除いて直視すれば、「一国繁栄主義」というセクト主義の中にどっぷりとつかったものだ。それは「企業繁栄主義」の直接の産物である。一方で労働者個々人にとって会社主義という企業間競争、個人間競争をつくりだしつつ、他方で国労解体攻撃という不当労働行為を自ら率先推進するような行動において、労働者個々人の企業への従属の強要を貫徹するという両側面で維持されている。
日本経済が世界経済をいびつ、不均衡なものにし、その結果が世界構造の不安定化を推し進めているのである。「国際的経済協調」はまさに言葉だけでしかない。このことはまた、連合路線が定着する中で労働分配率が一貫して低下し、労働組合組織率もまた一貫して低下している事実に明瞭に物語られている。
連合路線のバランスシートは、国際的にも国内的にも完全なマイナスとして計上されている。それは今後さらに明確なものとなるであろう。バブル崩壊は連合路線を直撃している。
連合路線の本質を暴露し、克服のために闘う必要はますます高まっている。全労協をはじめとする闘う労働運動の前進をかちとらなければならない。
国鉄清算事業団闘争の勝利を!
闘う第64回メーデーの全国的な成功を!
連合による改憲策動への加担を許すな!
5・3「改憲阻止・活かせ九条」大集会の成功を!

資料】(一部略)

 当面する行動提起

  国鉄労働組合
  国鉄闘争中央共闘会議
1、1千万署名については、引き続き4月末まで全力で取り組む。
2、毎月第2、第4金曜日のJR本社前昼休み集会は引き続き取り組むとともに、中労委総会にあわせて4月21日より座り込みを行う。
3、東京地本を中心に『国鉄清算事業団闘争に連帯する100ヵ所集会』が取り組まれ、すでに20ヵ所延べ1000名が参加している。引き続き全力を挙げて成功させる。
4、4月24日に行う『採用拒否とJRの不当労働行為責任をあらためて検証する』シンポジウムを開催し、JRの不当性を内外に明らかにし、中労委に命令の引き延ばしを許さない。
5、4月26日の『JR株上場に異議あり!討論集会』の成功を通し、国鉄分割・民営化の矛盾を内外に明らかにする。
6、5・1メーデー、5・3憲法記念日には全国的に様々な集会等が開催されるが、積極的に参加し、国鉄闘争及び反失業・反過労死・憲法改悪阻止の運動をアピールする。
7、5月連休明けより、5・28中労委解決案一周年に向かって各共闘組織から中労委に命令を求める要請行動を集中する。同時に5月末までに全面的な解決を求め、運輸省・労働省・JR各社への要請もあわせて強める。
8、5月19日の中労委総会にあわせ、政府(運輸省・労働省)、JR、経団連及び中労委に対する国鉄総行動を取り組む。
9、全国的には国鉄闘争を軸に反失業、反過労死、米の自由化反対、佐川疑獄・政治腐敗徹底究明、人権と民主主義、憲法改悪阻止の全国一〇四七ヵ所集会を取り組み、国鉄闘争の再構築と広がりをつくりだすことに全力を挙げる。
         以上
ロシア革命、過渡期、社会主義(中)

                                 城山隆

  複合的過渡期社会のダイナミズム

 世界史の複合発展法則の歴史的・地理的に独特な作用から生じたロシア革命は、それ自体、一国史的に見れば、近代化革命と脱近代化革命の複合であり、世界史的に見れば、近代市民社会の勃興を告げる最後の声と古典的資本主義・帝国主義の没落を告げる最初の声との複合であった。この二つの複合性は、ロシア革命の偉大なダイナミズムの源泉であり、ボリシェヴィキをあれほど短期間に権力につけ、世界を震撼させた原動力であると同時に、ロシア革命が勝利するやいなや、それを制限し、引き裂き、軋ませる二つの主要な矛盾ともなった。
 まず、近代化革命と脱近代化革命との矛盾から見てみよう。
 権力についた労働者階級自体が、西欧化された革命的インテリゲンチァーの指導とイニシャチブなしには片時も権力を維持することができなかった。その内的構成においても、社会主義思想を自己のものとした部分と、つい先日までは農民であった部分との結合であった。
 国家組織の場面においても、近代的で合理的な官僚組織の形成と官僚組織そのものの克服という二重の課題がボリシェヴィキに与えられた。軍隊においても、旧帝政の将軍なしには何もすることができないにもかかわらず、それは社会主義的事業に奉仕する軍隊でなければならなかった。軍事専門家とコミッサールの二重指揮制度はロシア革命の胎む二重性の端的な表現であった。
 一九〇五年革命の過程で半ば自然発生的に生まれ、一九一七年に権力の中心機関となったソヴィエトは、最も初歩的な形態の近代代議制とそれを越えるコミューン(一八七一年にパリに存在した歴史的コミューンのことではなく、より普遍的な概念としてのそれ)との矛盾的結合であった。またロシア革命は、これまでの被抑圧民族による近代民族国家の形成を促すとともに、それらを民族国家の止揚たる連邦制に包含しようとした。
 これらの二重性はあらゆる場面で衝突しないわけにはいかなかった。ボリシェヴィキ内のさまざまな群小の反対派や主流派との対立、ボリシェヴィキとそれ以外の政党の対立、軍事専門家とコミッサールの対立、正規軍とパルチザンの対立、軍隊や工場での選挙制と任命制の対立、連邦と各共和国の対立、労働組合論争などのうちにその衝突は表現されている。ある者は社会主義的理想という一端をつかみ、またある者は合理的で近代的な制度の整備という別の一端をつかみ、またある者はその両者をつかんで、争いあったのである。
 それにもかかわらず、ロシア革命の生命力も、したがってまたボリシェヴィキ党の生命力も、この二重性を廃棄するのではなく、それを健全な姿においてともに維持し、相互に媒介することのうちにあった。したがって、ロシア革命とボリシェヴィキ党の運命をめぐる闘争は、意識するとしないとにかかわらず、この二重性そのものをめぐるものとなった。この場合、考えられる闘争の極は次の四つである。
 第一に、二重性のうち近代化の方に収斂するもの、第二に、二重性のうち社会主義的理想のうちに一面化するもの、第三に、両者をその健全な姿で維持し、発展させようとするもの、第四に、両者をその堕落した姿で維持し、発展させようとするもの、である。この四つのうち、第一と第二は、ロシア革命の出発点をなす生命力が完全に枯渇しないかぎりけっして強力となり得ないし、その政策が非現実的なものである以上、エピソード的なものでしかありえない(たとえば、単純な社会主義派の代表たる労働者反対派は早々にスターリン派に屈伏した)。
 したがって、一九二〇年代に中心となった本来の極は、後の二つである。最初の方はトロツキーが代表し、後者はスターリンをその代表としていた。トロツキーが、官僚主義との闘争を呼びかけ、言語の文化性や労働者における個性の開花を訴え、産業の合理化と品質の改善を進めつつ、産業のより急速な社会主義化を提唱したのも、また、急速なプロレタリア革命を唱道した永続革命論者でありながら、プロレタリア文化に反対したのも、この二重性をそれぞれ健全な姿で維持し発展させようとする努力であった。
 第二の複合性から生じる矛盾は、ヨーロッパで最も遅れた国が、はるかに強力な帝国主義諸国に包囲されて社会主義建設をしなければならない、という矛盾に端的に示されている。この矛盾は、これはこれで、第一の複合性から生まれる矛盾をさらに激化させ、極端にし、その悲劇的性格を強めた。革命後の封鎖と干渉戦争がロシア革命に及ぼした破滅的影響を思い起せば十分である。それは、近代化と脱近代化の二重性を媒介するための資源と力を最小限のものにした。危機が最も深まった一九二〇―二一年に熱病的に繰り広げられた労働組合論争は、戦時共産主義の枠組みの中で、そして最も乏しい資源と力に基づいて、この二重性を媒介しようとする絶望的なあがきであった。
 ネップが導入され、焦眉の危機は切り抜けられたものの、ネップもまたけっしてこの第二の矛盾を破棄しはしなかった。この矛盾は、直接的に軍事的な形態から、経済的もしくは政治経済的な形態をとって再び革命ロシアを苛み始めた。この矛盾を端的に示せば、こうである。
 経済を発展させ社会主義経済を建設していくには、世界市場との結びつきを深め、その資源を利用しなければならない。しかし世界市場を支配しているのは資本主義・帝国主義であり、世界市場との結びつきの深化は資本主義への依存の深化であり、その力と運命への相対的従属である。この矛盾を媒介するには、慎重で先見の明のある政策的対応が必要であった(トロツキーの世界市場利用論は、この矛盾を正面から見据えて、それを最も巧みに、最も犠牲の少ない方法で媒介しようとする試みである)。
 だが、国際革命の遅延というにっちもさっちもいかない状況のもとで、社会主義建設の自足的なアプローチが急速に力を増し、革命初期の進歩的ユートピアニズムを侵食した。この自足的なアプローチを代表する勢力は、この第二の矛盾を、存在しないと思い込むことで「解決」しようとした。彼らはその政治的気分を「ロシア一国において完全な社会主義を建設することは可能である」という定式のうちに簡潔に表現した(この楽観主義が穀物調達危機によって脅かされた時、彼らは最悪の形態の暴力を用いて、矛盾を実践的に「解決」しようとしたのである)。
 こうして、近代化と脱近代化の二重の革命として出発したロシア革命と、それによって成立した労働者国家は、この第一の矛盾と第二の矛盾に規定されて、近代化と社会主義化の二重の堕落という形で生き延びた。すなわち、スターリン主義的近代化は、個性の発達、政治的民主主義の確立、市民社会の発達等々といった要素を欠落させたままで、生産力の自己目的的推進と巨大な官僚機構の創設という形で実現された(したがって、それは前近代性をも色濃く残したものとなった)。
 社会主義的要素もまた、労働者のごく一部の特権階層による独裁、「一国社会主義」イデオロギー、産業の全面的な国有化と官僚的計画経済、農業の強制的集団化といった堕落した形で存在した。こうして、スターリン主義社会のあらゆる側面には、この「二重の堕落」が融合し、まじり合い、権力によって固められることになったのである。
 このような意味で、ソ連社会は複合的な過渡期社会であった。しかも、この複合性から必然的に「過渡期性それ自体の二重性」が生じてくる。すなわち、一方では、堕落した社会主義的要素が堕落から解放されて真の社会主義的なものへと移行するまでの過渡期性と、堕落した近代的要素が堕落から解放されて真の資本主義へと移行するまでの過渡期性である(したがって資本主義への移行は前進であるとともに後退である)。この二つの移行の可能性のどちらが実現するかは、ソ連社会の内的事情ばかりでなく、何よりも、国際的な動向によっていた。
 ソ連の国家権力は、一方では、国際帝国主義の経済的・政治的・軍事的圧力に抗するために、他方では、ソ連社会の両要素の解放を防ぐために、ソ連社会を徹底的に一枚岩化し、単一の全体主義的な構造をつくりあげた。しかしながら、国際帝国主義に対抗するためのこの一枚岩的構造は、同時にそれに対する敗北をも準備したのである。
 先進国革命がいつまでも起こらず、資本主義が新たな発展を開始し、それが巨大な経済力と軍事力を背景にソ連に挑戦してくるのに対し、ソ連もまた、急速な工業発展と不釣り合いに巨大な軍事支出、対外援助とを社会に強制せざるをえなかった。この何十年にもわたる冷戦は、アメリカ社会をも疲弊させたが、ソ連社会をもっと疲弊させたのである(不均等な弱体化)。これはいわば両大国のがまん合戦であった。
 この「がまん合戦」の帰趨は、出発点の生産力水準の相違や国際的経済力の差のみならず、それぞれの社会の内的構造によっても決せられた。一枚岩的体制は、一見したところ強固なようであるが、しかし実は内的もろさをもっている。それに対して資本主義社会は、国家と市民社会の相対的分離によって成立している柔構造のおかげで、危機を乗り越えていく内的強さをもっていた。かくして、ソ連社会はがまん合戦に耐えられなくなり、ペレストロイカに行き着いたのである。
 ペレストロイカは、帝国主義との対立を緩和しただけでなく、国内的には一枚岩的体制を放棄し、権力によって封じこめられ凍結されていた両要素が自由に発展する可能性を開いた。これまで、力づくで阻止されてきた両要素の公然たる闘争が再開された。しかしながら、その闘争は、スターリン主義が基本的に清算されるまでは、スターリン主義に対する闘争のヘゲモニーをどちらが握るかという形で進行せざるをえない。
 そして、国際資本主義に圧倒的に有利な力関係のもとで展開されたこのヘゲモニー争いは、最初からその帰趨が見えていた。スターリン主義に対する民主主義的闘争、すなわち、堕落した両要素を堕落から解放する闘争として出発した「革命」は、解放された近代的要素による社会主義的要素の破壊と清算という「反革命」へと結合したのである(私はこれを「複合的逆永続革命」と呼ぶことにしたい)。
 この複合性は、その国際面でも発揮されている。ソ連労働者国家の崩壊は、一方では――日本共産党の好きな言葉を使えば――旧来の覇権主義の挫折であり、その大幅な後退(後退であって消滅ではない)であるが、他方では、キューバへの援助停止や国際帝国主義陣営への正式な仲間入りに見られるように、国際革命の最終的な清算と労働者国家への敵対である。さらには、ソ連・東欧の労働者国家の崩壊が世界の人々の意識に与えた否定的影響も見過ごすわけにはいかない。それは、多くの人々にとって、社会主義という道の完全な破産に映った。この、意識革命ならぬ意識反革命の深刻な打撃に、長期にわたったわれわれは呻吟せざるをえないであろう。

 一九九一年八月のクーデターとその帰結T
 −クーデター派とゴルバチョフ

 ゴルバチョフのペレストロイカから始まった「複合的逆永続革命」の比較的緩やかな過程が一気に加速されたのは、一九九一年八月に起きた、当時の副大統領のヤナーエフらを中心とする国家非常委員会のクーデターであった。
 本論の「上」の冒頭で述べたように、私はこのクーデターとその帰結について、この事件が起きて間もない時期(同年十―十一月)に、あるリベラル左翼の雑誌の依頼で論文を書いている。この没になった論文から、いくつかの文章を引用してみたい。当時、日本の多くのリベラル左翼がエリツィンにはにかみながら拍手喝采をし、自由と民主主義の旗手と持ち上げたのと比べるならば、多くの不十分性を伴いつつも、それなりに歴史の試験に耐えたと思われるからである。
 「まず、何よりもはっきりさせておかなければならないことは、国家非常事態委員会によって八月に引き起こされた『クーデター』は、いわゆる『保守派』によるものではなかったという事実である。
 実際、非常事態委員会のメンバーである八人は、いずれもゴルバチョフによって登用された人々であるというにとどまらず、それなりにペレストロイカを担ってきた人々でもある。もちろん、彼らが、いわゆる急進改革派とはまったく異なる人々であったのは言うまでもないし、また産軍複合体の代表者であり、典型的な特権官僚であったということも厳然たる事実である。
 しかしながら、『保守派』という言葉を通常の意味で使うならば、すなわち、教条的な『共産主義』思想を信奉し、スターリン主義的な政治経済体制の復活を願望している人々という意味で使うならば、彼ら八人はそれとは異なり、左右の若干の偏差を持ちながらも全体としてはむしろ中間改革派であった(したがって、ピノチェト的独裁をめざす『ソユーズ』派のような連邦右派ともまったく異なる)。典型的に保守派といわれている共産主義イニシャチブ派やボリシェヴィキ綱領派はクーデターの直接的参加者ではなかったし、クーデター支持の大衆的動員も行なわなかった(たとえ心情的に支持した人々がその中にいたとしても)。
 国家非常事態委員会が発した声明や国民への訴えをみても、このことは明白である。そこには、共産主義どころか『社会主義』という言葉も、共産党という言葉も登場していない。スターリン主義型の経済体制への復帰や反帝国主義についても一言も述べられていない。それどころか、『私企業を支持し、生産とサービスの発展に必要な機会を保証する』とすら述べられている。そして、その声明の中心的な基調は強烈なナショナリズム、それも連邦ナショナリズムであり、規律と秩序と祖国愛であり、強大で統一した連邦の維持である(この点は、彼らの獄中尋問調書を見ても明白である)。要するに、このクーデターは、統一した強力な連邦を再建することを目的とし、上からの強権的改革という手段を用い、連邦のトップの官僚層を主体とする企てなのである。
 したがって、これは本質的に、連邦の再建を目的とした『上からの改革』であるゴルバチョフのペレストロイカの論理的につきつめた表現なのである」
 「ゴルバチョフのペレストロイカは、すでに行き詰まっていたスターリン主義的な一枚岩的統治体制から、より柔軟で――ある程度――多元的で活動的な体制へと計画的で秩序ある移行をめざしたものであり、その目的は、停滞し二流国に転落しつつあるソ連邦を再建することであった。したがって、ソ連邦の力を強めもしたが、それ以上に弱めもした東欧支配を放棄しつつ、連邦内の共和国の独立を厳しく抑圧したのも、また、ソ連邦をもっとも疲弊させる原因であったアメリカ帝国主義との対決姿勢を放棄しつつ、バルト諸国やアゼルバイジャンに戦車を動員したのも、まさに『連邦を、そしてそれのみを救う』という同一の基準の当然の適用なのである。
 しかしながら、ソ連邦を再建するための、一枚岩的体制から多元的な体制への移行は、ソ連邦指導部の思惑を越えて下からの民主化運動を噴出させないではおかなかったし、何よりも連邦内の共和国独立の動きを未曽有に刺激しないではおかなかった。当面は、下からの民主化運動を利用しつつ、それを統制して上からの改革を推進していたが、ついに下からの運動は上からの統制を越えて広がり、もはや上からの改革と両立し得ないものとなった。
 また、各共和国の自立と分離の動きは、巨大な権力をもった巨大な連邦機構の維持と両立し得ないものとなった(とくに新連邦条約は徴税権も連邦から奪うことになっていた)。それが、それらの機構に自己の政治的・経済的基盤を有している連邦官僚にとって死活の問題となったのは言うまでもない。まさにこの時点で、改革派の連邦官僚に二者択一が迫られたのである。すなわち、連邦を上からの改革によって再建するという当初の目的を完遂するために強権的支配を導入するか、それとも、当初の目的を放棄してしまって、下からの改革と共和国分離の動きをその勢いに任せ、ソ連邦解体を黙認するかという二者択一である。
 自ら改革を始めておきながらゴルバチョフがどちらにも決意できずに、ますます連邦官僚の地歩が掘り崩されているのを見かねて、ついに連邦官僚は二者択一の前者を選択する決意をしたのである。したがって、彼らは、その直接的行動においては反ゴルバチョフ的であったが、その根底的な目的においては完全にゴルバチョフと同一であった。クーデター派が、いわゆる保守派からではなくゴルバチョフの側近から出たのは、しごく当然のことだったのである」
 以上の「反ゴルバチョフ」的記述は、原稿依頼をしてきた雑誌のリベラル的確信と一致せず、かくして掲載拒否となったのである。

 一九九一年八月のクーデターとその帰結T−エリツィン派と民衆

 さらにその論文で、私はエリツィン派の批判に移っている。
 「クーデター派が誤解されたように、クーデターと『対決した』エリツィン派も誤解された。彼らは、一般マスコミによってだけでなく、日本の一部の左翼知識人によっても『自由と民主主義の旗手』であるかのように言われた。こうした見方にあっては、クーデター派は、保守、反動、スターリン主義、反民主主義、全体主義、反ペレストロイカ、官僚主義という負の価値をもついっさいのカテゴリーが属し、エリツィン派には、改革、進歩、反スターリン主義、民主主義、自由、ペレストロイカ、反官僚主義という正の価値をもついっさいのカテゴリーが属することになる。
 たとえば、『知られざるエリツィン』(窓社)はエイリツィンのことを『連邦指導部によって企てられた反憲法的クーデターにたいして、彼はその先頭にたってたたかい、自由と民主主義の勢力を勝利に導いた有能なリーダー』(同書、5頁)と全面的に礼賛しているし、『思想と現代』誌の編集後記は『反動的反乱軍の戦車の前で一歩もひるまずに闘い・勝利したエリツィン氏とソ連民衆の勇気と決断に心からの賞賛を送ります』(同誌第27号)と手放しで喜んでいる。左翼としての屈折した感情から生まれるこうした全面礼賛は、しかしながら、的を得ていない」
 『思想と現代』という雑誌は一応マルクス主義哲学者の全国雑誌であるが、この一記述で明らかなように、その本質は単なるリベラル左翼だったのである。また、ここで述べている「左翼としての屈折した感情」とは、「スターリン主義者だと思われたくない」「保守派だと思われたくない」「教条だと思われたくない」と願うあまり、実際には民主主義と社会主義の敵であるような人物を――けっして心からのものではなく――大げさに誉めたたえようとする感情のことである。
 当時、この種の感情に支配されたリベラル左翼は数多くいて、無責任な言動をあちこちでふりまいていた。今ではもちろん、そんなことはすっかり忘れて、「もうエリツィンも駄目だね」などと飲み屋でうそぶいていることであろう。それはともかく、引用を続けよう。
 「そもそも、エリツィンもシュワルナゼもヤコブレフも、またエリツィンの片腕であるルツコイも、ペレストロイカ以前からのエリート官僚であり、典型的なスターリン主義者であった。要するに彼らは、機を見るに敏であり、連邦官僚の無能で小心な連中と比べて、不可避的な情勢の流れを読み取ってさっさと馬を乗り換えるのが早かっただけのことである。したがって、クーデター後に起こった事態は、ごく狭い意味でも革命ではなかった。
 なぜなら、旧支配層にかわって、これまで権力側にいたことがない人々が新しい支配層になったのではなくて、旧支配層にかわって、やはり同じ旧支配層が権力を掌握したに過ぎないからである。もし両者に違いがあるとすれば、前者が、解体しつつある連邦に基礎を置いているのに対し、後者が強化しつつあるロシアに基礎を置いていたことである。
 同じ旧支配層を主体としているという点だけが両者の共通点なのではない。その目的も、若干の政策的振り幅があれど、基本的には同じである。すなわち、多かれ少なかれ資本主義化を伴った上からの改革によって、大国としてのロシアを再建するという点である。違うのは、この場合も、前者が連邦のイニシャチブによって、そして連邦のヘゲモニーにおいてこの目的を達成しようとするのに対し、後者が、ロシア共和国のイニシャチブとヘゲモニーによって達成しようとしている点である」
 「しかし、ここで問題が生じる。すなわち、それではなぜ、エリツィン派は市民を動員することができ、自由と民主主義の旗手という外見をもつことができたのか、ということである。ここで、ペレストロイカ以来、旧支配層の思惑とは別に『下からの民主化』の巨大なうねりが実際に存在し、それが、八月事件の帰趨を決めるのに本質的な役割を果たしたということが重要になってくる。エリツィン派は、自ら急進改革派と名乗ることによって、この下からの自主的な民主化の動きを自己の権力獲得と強化に一貫して利用してきた。そして、連邦権力と対抗してロシアに依拠することによって、同時に大ロシア民族主義をも利用することを可能にした。さらに、さっさと共産党を離党し、反共の旗手となることによって、市民層の反共意識をも利用することができた。
 これらはいずれも、連邦派にはない有利さであった。一般の市民は、『巨大な』(実は空洞の)連邦権力とそれを支えてきた共産党こそが悪の根源であると信じていたので、その巨大な権力に対抗するためには、一時的にであれロシア共和国の力を強め、その執行権力を強化する以外にはないと考えた。こうして、エリツィンはかなりの程度、下からの民主化運動を自己のために動員することができ、それをクーデター派に対抗させ得たのである。
 しかしながら、連邦権力が瓦解し、共産党が解散させられた今や、エリツィン派と下からの民主化運動とは、今後、ますますお互いに対立する方向に動くであろう。エリツィンを権力の頂点にまで高めたこの市民の民主化運動は、やがて、エリツィンの墓掘り人となるであろう。ロシアの社会主義的左翼の使命は、この民主化運動を中途半端に終わらせるのではなく――労働者や年金生活者や社会的弱者の既得権を擁護するたたかいと結びつきつつ――それを貫徹させることである。真の民主主義は、スターリン主義的な全体主義と相容れないだけでなく、エリツィン式の権威主義体制とも相容れない。そしてそれは、大ロシア民族主義や、私有化・資本主義化とも衝突せざるをえないであろう」
 この最後の結論は、現在、なおいっそう大きな確信を持って言える。すでにバルト諸国や東欧では、民族主義リベラルによる急進的な資本主義化は人民の激しい反撃に遭い、今や完全に使い果たされようとしている(一九九三年二月一四日に行われたリトアニア総選挙で、旧共産党の民主左翼党が勝利したのはその一例である)。民主主義者を装ったリベラルたちは、資本主義化のためになりふり構わなくなってきている。目的のために手段を選ばぬという非道徳主義のかどでボリシェヴィキを激しく非難していたリベラル知識人たちは、資本主義化のためにソ連・東欧で行なわれているさまざまな反民主主義的措置に対しては慎重に沈黙するか、目的のためにはやむをえないと正当化している。
 アメリカ帝国主義の新しい頭目クリントンに全面的に支持されつつ、エリツィンは、共産主義の妖怪をふりかざして、独裁の必要性を納得させようとしている。かつて、民主主義のためには資本主義化(彼らの言葉で言えば「改革」と「自由化」)が必要であると言われ、今では資本主義化のためには民主主義は邪魔であると言われている。かくして、自由と民主主義というマスクを被った紳士淑女たちの、吐き気を催すような仮面舞踏会は、しだいにそのクライマックスへと近づきつつあるのである。音楽が終わり、踊りをやめたこの紳士淑女たちが、マスクの下からどのような素顔を出すか、注目するとしよう。
     (つづく)

決議

多民族が共存する主権国家ボスニア・ヘルツェゴビナを

第四インターナショナル統一書記局    一九九三年二月


 第四インターナショナル統一書記局は、一九九三年二月の会議で以下に掲載する決議を採択した。

 ジュネーブで行われている和平交渉に関連して、われわれは再度、多民族が共存する主権国家ボスニア・ヘルツェゴビナを擁護する立場を明らかにする。この共和国を、民族を基礎にして、ベオグラードとザグレブのそれぞれの政府に支援されたセルビアとクロアチアの民族主義者によって分割された諸地域に引き裂くことを承認するいかなる計画も、平和を実現するものではない。
 ボスニア勢力(イスラム系)への武器輸送禁止の解除要求は、中心的な大セルビア主義勢力の攻撃に対する一つの回答である。この要求はまた、大クロアチア主義政策への抵抗を可能にし、包囲されたサラエボのような諸都市で混住している住民による共同の抵抗行動への動員をもたらすであろう。これらの都市住民は、自らをボスニア人と考え、民族的な出自にかかわらない共存・共生を継続したいと望んでいる。
 外国の軍事介入は、ボスニア人の願いに込められている論理とは逆の論理にもとづき、彼らの主体性を無視する。外国の軍事介入は、大セルビア民族主義勢力を弱めるのではなく、その逆の効果をもたらす。それは、戦争を終結させるのではなく、逆に拡大するだけである。われわれはそれゆえ、こうした外国の軍事介入に反対をし、他方、セルビア勢力への武器輸送に賛成する。
 この立場は、各共同体間での対話と民主的かつ多民族共存の自由な連合国家を追求する政治的、市民的な運動を積極的に支持する行動と一体である。この戦争の開始と拡大におけるその責任いかんにかかわらず、われわれは排除と報復の論理すべてに反対である。これこそが、大セルビア民族主義を弱めるための政治的な前提条件である。この勢力が、旧ユーゴスラビアのそれぞれの共同体にとって最大の暴力的な脅威であり、屈辱感を与える行為やレイプを行って自らの主張である「民族的純化」を押し付けようとしている。
 レイプを戦争犯罪および人類に対する敵対行為に含めよというフェミニストの要求と運動を、われわれは支持する。レイプの犠牲者たちに対する積極的なわれわれの連帯行動は、権力を握っている民族主義勢力と闘う独立市民運動、とりわけミロセヴィッチの政策と闘う反戦闘争内部のセルビア人女性と、クロアチア人もまたレイプをしているとあえて発言したためにクロアチアの報道界から「魔女」と呼ばれて攻撃されている女性たちと連帯するものでなければならない。
 もし大セルビアの地図がセルビア民族の自決の名目で力づくで描かれるならば、戦争は継続し、さらにコソボとマケドニアにも拡大していくだろう。また、クロアチア民族自決の名目でクロアチアでのセルビア民族問題が解決されるならば、そこで戦争が再燃するだろう。
 もし、いくつかのバルカン諸国間に分断されているアルバニア、セルビア、クロアチア各民族間での平等な権利を、同時かつ体系的に承認する論理が民族的な国民国家の論理に打ち勝たないならば、バルカン諸国が戦争に飲み込まれていくことになる。
(インターナショナル・ビューポイント誌243号、93年3月)

英国

資本主義の危機と政治再編


フィル・ハース


 【一九九三年二月二十三日、ロンドン】英国の保守党政府は、様々な方法で発表する失業者数を減らそうとしてきた。一九七九年以降、失業者数の計算方法を十七回も変更した。二月二十日発表の失業者数は三百万人だったが、これは実態を隠すものだ。実際の失業者数は四百万人以上、およそ労働者六人に一人が失業している。

英国の危機

 この数字に示されている余剰人員の急増は、サッチャー主義経済路線の完全な破産の兆候の一つである。そして、これは、ジョン・メージャー政府の袋小路の背景となっている。五カ月前に英国通貨、ポンド・スターリングが急落し、欧州為替相場メカニズム(ERM)を離脱して以来、保守党政府は、一つの危機からまた別の危機へとよろめいてきた。同時にこの間、労働者の反政府闘争があったが、この闘争は、労働党内部の思想的な混乱と破産によって発展を妨げられてきた。この背景には、労働党の相次ぐ四度の選挙での敗北がある。
 国際的な関心はドイツ経済の危機とクリントンのアメリカ経済再生計画に集まっているが、実際には英国経済の衰退は破滅的なのである。一九八〇年代の経済ブームの核となった金融と不動産の両部門は、破局的である。工業投資はほぼゼロである。国家財政の赤字は約五百億ポンド(約八兆五千億円)。そしてポンドは数カ月間で二・九五ドイツマルクから二・三五に下落した。
 全面的に崩壊したのはサッチャー神話である。それは、労働組合を粉砕し、経済に対する様々な規制を緩和し、大規模な金融などのサービス部門を頂点に小規模であれ適切な工業部門という経済構造をもつ、という三つの条件を満たせば、英国資本主義を再建できるという路線だった。国際金融市場は、強力な工業基盤をもたない経済は衰退せざるをえないという真理を信じない。
 保守党政府は、経済以外にも統一欧州のマーストリヒト条約に関しても持続的な危機をかかえている。議会では議席数差二十だけの多数派であり、「反欧州」派の反乱の可能性にたえず脅かされている。この傾向を励ましているのが、欧州に敵意をもったレディ・サッチャーと彼女の代表的な副官、右派の中軸であるノーマン・ティビットである。
現在の政治危機の原因は、昨秋の二つの「爆弾」にある。一つはERMからの離脱、もう一つは英国のほとんどの炭鉱を閉鎖するという政府の決定に対する広範な怒りである。前者は保守党右翼「欧州懐疑派」の反撃を招き、後者はこの十年間で最大の労働者デモを生み出した。ここで労働党にとって、政府に強く反撃する材料があった。
しかし、事態はそうならなかった。昨年四月の保守党の選挙勝利(労働党の勝利が予想されていたのだが)の余波の中で、労働党指導部は、思想的な混乱状況にあった。一九八三年以来、当時のキノック委員長のもとで労働党は次第に右傾化して、サッチャー主義に適応し、ケインズ主義の政府介入路線と社会福祉政策を弱めていった。新委員長ジョン・スミスの労働党で、こうした傾向がさらに進んだ。

クリントンの経済政策

労働党の思想的な混乱状況の中に、ビル・クリントンの大統領選挙勝利の影響が忍び込んできた。「クリントンの経済政策」は労働党指導部のあこがれの的となり、ジョン・スミスは二月七日には、「個別企業とその努力」を労働党の新たな議題にすると演説した。レーガン―サッチャー時代の市場経済がまさに信頼を失ったその瞬間に、労働党指導部は、失敗した経済政策の実行を強める以外の何も思いつかなかったのである。
この愚挙の他に労働党指導部は、党と労働組合との関係、党大会を支配できる大会での「ブロック投票制度」をめぐって、激しい内部闘争に入った。影の内閣の一員、トニー・ブレアを中心とし、大部分の右派労働組合官僚の支持を受けている労働党の一分派は、党と組合との組織的な関係の完全な切断を望み、アメリカの民主党路線を下敷にした資本主義政党の創設を公然と語った。
しかし現在の力関係では、右派の願望は実現不可能である。だがジョン・スミスは、旗色を鮮明にし、労働組合との結びつきを断つ方向に向かった。党内左派の影響力は、この二十年間で最低であった。
しかしブレアの路線にとっての大きな壁は、組織労働運動全体の力にあった。労働党の財政は基本的に労組に負っている。労働組合との関係を切断して「新しい大衆政党」をつくろうとする狙いを実現するための労組に代わるの党の基盤形成は、党員数そのものが減少しているという壁に直面する。政党に対する国費補助制度がないので、労働組合との関係を切断した労働党は、財政的に破産することになる。
いずれにせよ、ジョン・スミスの新政治路線と組合との関係の切断を追求する動きとは、これまでの労働党感情を刺激した。ブレア路線の実行は、新たな党内戦争が始まることを意味する。
一九八〇年代の経済問題は、北海原油からの収入と国有企業売却による収入によって、そしてレーガン政権の軍拡によるアメリカ経済の発展に結びついた金融サービス業のブームによって、隠されていた。これらの支柱は消え失せた。急増する失業に対処するための社会保障支出の膨張と税収の減少によって、国家財政の赤字が膨らみ、経常収支の赤字もまた増大してきた。
経済再建の方策がないまま、ジョン・メージャー政府は、単純明快な方向を選んだ。すなわち、労働者階級と福祉政策への攻撃の強化である。そこに、サッチャーが先鞭をつけた反動的な社会政策がからんだ。
昨年は選挙の年であったが、保守党は新たな反労組の立法と人種差別的な政治的庇護法を策動した。そして今は、新たな民営化と福祉国家への攻撃の強化とが行われている。これらはすべて、工業の衰えの中で労働組合主義の最後の拠点である公共部門を破壊しようとする攻撃に結びついている。
英国鉄道、郵便などの公共事業が、民営化されようとしている。医療制度の民営化も強められ、ロンドンでは大学などの重要な付属病院が閉鎖されている。不快な社会政策の導入が検討されている。

破滅的な支出削減

しかし最も破滅的なのは、すべての公共サービス、ことに地方自治体の公共サービスに対する政府の財政支出の廃止である。そのため地方自治体は、教員を強制的に削減しており、地方公務員は今後二、三年間に十万人が解雇されることになっている。
こうした支出削減とともに、公共歯科治療制度の実質的な撤廃や、特に国語と歴史などの科目で進歩的な内容を排除するような教育カリキュラム改悪の一連の改悪措置がとられている。
そして英国では現在、「日本化」として知られる「新管理制度」の導入が進められている。これは、労働力の削減を狙った労働内容の再編であり、数百万の労働者の上に影響がおよんでいる。
数十万の労働者のデモをはじめとする炭鉱労働者を守る抗議の闘いの発展が、こうした状況の中ではなければならなかった。大量失業と「新現実主義」右派指導部の支配という要因は、保守党への反撃を妨げている。炭鉱労働者防衛は、大衆運動となったが、しかしストをはじめとする行動にまで高まっておらず、抗議の域を出なかった。
これが、情勢の中心矛盾である。ブルジョア側の政治的な袋小路に対して初歩的な大衆行動は生まれるが、力関係を変えるに十分な大衆ストには至っていない。
それでも政府は、炭鉱閉鎖に関して後退している。政府内部では、どこまで譲歩するのかをめぐって激しい闘いとなっている。炭鉱の少なくとも半分を維持しなければ、政府は議会において、この問題で敗退するだろう。多くの炭鉱を維持するための補助金の計上は、閉鎖反対の大衆運動の勝利を意味するだろう。人頭税策動の破産とサッチャーの辞任以来、保守党はこうした流れの逆転を味わったことはなかった。
マーストリヒト条約問題は解決には程遠い。保守党内の欧州懐疑派は、同条約に関する労働党の修正案に賛成することを決めた。その修正案は、英国がその適用を条約上免れている「社会憲章」の受け入れを誓約するものである。理論的には、このことは保守党が条約を批准することを不可能にする。しかし政府は、政府が条約を批准する権利をもっており、議会での投票結果を無視すると態度を明らかにした。これは、国の政治制度の根幹にかかわる危機的状況をつくり出すことになる。
全体状況は、長期にわたる経済不況、労働者階級の後退、政府内部および労働党での政治危機、とまとめることができる。この政治の混迷状況がどのように爆発するかは、経済情勢にかかっている。
メージャー政権にとって成功といえるものがあるとすれば、それはインフレ率が一・七五%に低下したことである。しかし、この背後に何か特別な努力があったのではない。デフレが持続し、消費支出が下落したために、物価が急落したにすぎない。経済がいささかでも回復すると、たちまちインフレとなり、失業を減らすだろう。一九八七―八九年に失業が減少し、経済が回復した時、たちまち一一%のインフレとなり、賃上げ闘争が爆発した。メージャー政権の公共部門の賃上げ率を一・五%に抑える政策は、高い失業率と持続するデフレを基礎にして実行されている。経済が少しでも上向けば、低いインフレと賃上げ率の防波堤となっているこの二つの条件がたちまち崩れる。

左翼の状況

だが、現在の政治的な混迷状況が爆発するかどうかはまた、労働運動内部での信頼にたる左翼潮流の形成にかかっている。そうした左翼潮流は、労働運動をより力強い行動に発展させることができるだろう。労働組合内部では、三月五日の民営化と公共サービス支出削減とに反対するスト権投票を同時に行ういくつかの組合で、「公共部門連合」形成の最初の兆候が現れている。一般組合員の組織がいくつかできており、そのうちで最も重要なのは、過激派のミリタント派が領導するものであり、これらの組織はこの問題について恒常的な組織をつくろうとしてる。
政治面でいえば、労働党内の左派は数的には非常な差をつけられている。全国指導部では左派はトニー・ベンだけであり、数千人の左派活動家が党を離れた。しかし党内左派としては、欧州の大衆的な労働者政党では依然として最大であり、労働党議員社会主義運動グループと結合したネットワークを中心に、再結集の第一歩を踏み出している。
過激派の中心は、先のミリタント派と社会主義労働者党(SWP)の二大組織である。SWPは、その盛んな宣伝活動を通じて若年層から勢力を補充し続けているが、全国的な政治的影響力という点ではその数に見合ったものではない。その理由は、労働運動を基盤にして労働党内の新現実主義指導部との力関係を、統一戦線を通じて逆転しようとする戦略がないためである。

長期的な再編

ミリタント派は、分裂し、労働党を出た後、弱体化している。そして政治内容、特に女性解放や黒人解放の問題に関しては路線を「現代化」した。しかし過激派が長期的な政治再編の時代に入ったことは明らかである。
SWP内部でさえ、その独善的なセクト主義――この党派は現在、ゼネストの必要性を訴え、非常に低い政治水準で新メンバーを獲得する運動を行っている――に関して政治論議が行われている兆候がある。
先進資本主義諸国で最強の過激派諸組織の今後は、労働者の反撃が維持されるかどうかにかかっている。一九八〇年代の英国労働者運動は、厳しい攻撃を受けた。その回復と一定の組織力の維持は、フランスやスペインの半政治主義的な組合主義とは違う、大衆的な組合主義のたまものである。
一九七〇年代と八〇年代、ブルジョアの側は、サッチャー主義という根本的に新しい路線を採用し、戦後のケインズ主義による福祉国家に関する国民的な合意の破壊と経済再建を図った。国民合意は打ち砕かれたが、経済再建はならなかった。サッチャー主義に代わるいかなる路線も現れていない中で、保守党は考えがなくなり、労働党は党内の急進左翼を脇役に追いやった。
しかし、以上の事態は、英国の歴史的な衰退と破局への動きなのである。英国資本主義は、アメリカ、ドイツあるいはフランスにさえあるとみなされている資本主義再建のための資力を有していない。衰弱した英国ブルジョアジーは、現在の袋小路から抜け出すには、新たな歴史的ルートを模索せざるをえない。もし労働運動が自らを鍛えてその歴史的な役割を果たさないならば、サッチャー後の英国ブルジョアジーはレディ・サッチャー以上に残忍になっていくだろう。
(インターナショナル・ビューポイント誌243号、93年3月)