1993年6月10日         労働者の力               第45号


保守二党化をめざす小選挙区制に反対する

政治改革の選挙制度論議への歪曲許すな


   川端 康夫

 
金丸・竹下・小沢問題と
政治改革・政界再編


 金丸逮捕と起訴という激震は、自民党政治の腐敗した性格を全面的に明るみに出した。金丸はその一部であり、竹下や小沢などの竹下派支配の全体構造が右翼・暴力団を一方で引き連れ、他方で官庁を支配下に組み込んだ利権・金権の政治体系の頂点に存在していたことが刻印されたことであった。政治改革が叫ばれるのは当然である。
 ここで一つのシミュレーションを行ってみよう。
 自民党に改革派が登場するとすれば、それは腐敗の極にある自民党の自己解体による出直しを掲げるような存在であるはずだし、そのときに旧来の利権金権政治を防衛しようとする「守旧派」との分裂は避けられず、結論的に一挙に自民党支配の崩壊にまで突き進む論理が内包されるはずだ。
 わずか数年前を思いおこすまでもなく、自民党はそのままであればあらゆる選挙において絶対的な敗北を覚悟しなければならなかったであろう。与野党逆転はまさに現実の問題であり、現行中選挙区制度は、その金属疲労を克服し、劇的な自民党政治の終えんを画すものとなったはずだ。
 新たな(社会党を中心にする)多数的政治勢力の政府は当然にも政財官の癒着に全面的なメスを入れると同時に、徹底的な政治浄化法・腐敗防止法を制定し、高級官僚の天下り禁止や一定期間の出馬禁止などの方策を打ち出すことになったはずだ。また日商会頭の石川は当然として、財界の首脳がおしなべて連座せざるをえないものとなったであろう。
 民衆の怒りは、リクルートの時を越えた政治改革の要求として噴出したはずだ。
 
金丸問題のバランスシート――
社会党の解体的状況の全面化
 

 だが皮肉なことに現実は逆である。政治不信は既成政党不信にはねかえり、組織基盤や集票力のぜい弱な社会党が最大の打撃を受ける形で進んでいる。リクルート疑獄と消費税導入反対を掲げて支持を集めた当時の面影は完全に失われた。
 都市浮動票が社会党から離れ、保守新党として登場した日本新党へ流入している。
 二大政党論(実質は保守の)が叫ばれ、社会党の現実政党論への諸方面からの圧力が高まり、そして政財官の癒着への言及はたまに思い出したようになされるだけである。
 唯一、連用制や並立制という小選挙区制度を導入し、その制度的圧力のもとに、社公民を横断し、はては自民党勢力の一部をも含む第二保守党的なものをでっちあげようという狙いだけがさまよっている。
 金丸、竹下、小沢疑惑のバランスシートは何であったかのかを問えば、答えは最悪の大衆欺まんであると言わなければならない。
 政治再編、政治改革論議は、まさに政財官癒着と右翼・暴力団のと結託を隠ぺいし持続するための目くらましに利用され、その結果は利権金権構造に群がる政治集団の総与党化を加速するだけに終わったのだ。
 
自民党政治を延命させたもの――
戦後革新勢力解体への策動
 

 昨年秋に登場した民間政治臨調の構図は、産労懇的なあり方を引き写している。それに自民党の小沢派、その盟友である公明党、民社、社民連、そして社会党右派が乗っかった。政治ブレーンの代表格に、中選挙区制度粉砕を掲げる東大の佐々木毅が入り、政治評論家の内田健三などがマスコミに登場する。
 金属労協などの大民間企業連組合が制圧した連合の誕生は、日本資本主義の中枢部を担う意識を共有する労資の協調体制を完成させるものであった。ここから生ずるものは、鉄鋼の鷲尾らが表現する労働界の保守陣営への接近・移行の意識である。すなわち、企業の塀の中にあった労働組合の労務部化の状況が、国家レベルへと拡大されることの始まりである。
 日本政治の基本構造を転換しようとするこうした動きは、80年代にはすでに政財官労の癒着の姿をとって公然と現れるようになってきた。その頂点は臨調の名による国鉄解体、国労解体攻撃であった。その「成功」が総評解体の決定的なステップとなったのである。
 ここでの名分が「行政改革」であったことを想起すれば、そしてその改革は政財官労の癒着の構造になに一つ手を触れることなく終わったことを想起すれば、これらの改革論の根底的欺まん性は明らかとなる。
 いままた、自民党政治の疲労、その現れである腐敗の顕在化による政府体制の危機の常態化の局面にあって、民間政治臨調という保守二大政党論を掲げる「改革派」の装いをとっている。
 土井社会党のもとにおける自民党の敗北は、こうした勢力に対して、土井社会党的なものを生み出す基盤構造そのものの解体が急務であるという意識をもたせ、同時に権力機構の自民党独占に割り込もうとする諸勢力を動員しうる(保守)二大政党論を加速させたのである。
 民間政治臨調が体現するものは、政財官労の癒着構造である。その政界再編とは、そうした構造の中での利益分配の再配置の要求である。
 
保守二党体制をねらう
「改革」の欺まんを許すな

 連合勢力、その中心にあって猛威をふるう全電通などと、従来からの社会党支持層との間には、もはやなんらの歴史的共通性、連続性はないといわなければならない。いまや、一時もちだされた「社民勢力の結集」概念すら放棄され、政権交代可能な新党形成(保守二大政党論)だけが残っている。
 シリウスが突撃し、赤松新書記長が援護する「社会党改革派」は、あらたな路線体系として「93宣言」の策定を急いでいる。これは、連合の要求である基本政策の転換、すなわち安保・自衛隊、米、原発政策の全面転換であり、自社公民をつらぬく新たな党づくりの基盤を整備しようとするものである。山花体制という主流四派執行部は、転換の軟着陸のための体制にほかならない。
 連合も、この五月に集約した基本政策の確定にあたって、九条改廃の本音は一応棚上げにされ、なんらかの「基本法」策定で対処するということになった。
 憲法に優先する法律を策定しようとするのであるから「賢い」ともいえるが、その発想は先に雑誌世界に掲載された「平和基本法」や、以前から取り沙汰されてきた「安全保障基本法」構想を借りたものだ。
 この賢さは欺まん、詐術に等しい。竹下の消費税導入しかり、宮沢のPKO法しかり、立法化にあたっては詐術を用い、その運用には既成事実化に依拠した限りない拡大解釈で対処する。「**基本法」なる方便に訴える思考そのものが問題なのである。

新たな自立革新勢力の創設へ
――歴史的解体に突き進む社会党


 政治離れ、既成政党不信の根源には、こうした欺まん、詐欺の横行に対するさめた眼差しがある。日本政治総体が限りない不透明化を深めている。地方政治は総与党化状況にはまりこみ、そして中央政治も理念なき利権癒着型の与党化に突き進んでいる。
 社会党が最大の打撃を受けている原因は、まさに総与党化に自ら組み込まれ、利権金権政治にすりよっているからにほかならない。
 金子辞任にともなう新潟知事選挙での社会党の選択が、この一連の事態を象徴したのであり、東京での確実なちょう落は鈴木与党に転じ、軍国主義者であるタレントを参議院選挙で擁立した一連の動きにある。
 社会党はもはや、土井委員長退陣によって最後的に自己再生の力を失ったといっていい。
 惨敗必至といわれる都議会選挙をめぐって、社会党はすでに組織的な混乱と分裂的な事態を示しはじめた。各地の総支部は分裂的な事態を内包し、一部では公然たる離党と無所属候補での立候補が決行された。
 日本新党が既成政党離れの票をかきあつめる勢いであるが、そのブームも長続きはしえないであろう。自民党からのくらがえ組みが多数であり、保守政治家養成システムである松下政経熟出身者が横行するこの党が政財官労の癒着の構造に対立することはありえない。日本新党は、その「清新さ」をもって、戦後革新勢力への最後的とどめをうつ役割を果たすための存在なのだ。
 いつわりの政治改革論を越え、新たな革新勢力の歴史的再生のために闘うことが必要だ。戦後社会党はすでに終わっている。連合との関係を維持しつつ党の再生を願う努力も無駄である。
 東京都議会選挙をめぐる組織のきしみは、タイムラグがあれども全国の先駆けである。
 いまや連合勢力から独立した地平で新たな革新勢力を創出する決意がなければならない。都議会選挙における社会党護憲派、および護憲派無所属候補の独立した闘いは新たな革新勢力形成につながる闘いであり、その支援はますます主体的意味において重要である。
 
 欺まんの政治改革論を許さず、保守二党体制を画策する選挙制度改悪を許すな。あらゆる形の小選挙区制度導入に反対しよう。
 総与党化に抗し、自立した市民、労組をつらぬいた横断的協同の具体化に踏み込まなければならない時である。

政府・空港公団
収用裁決申請取下げ、二期工事計画白紙化を受け入れ

 
 五月二十四日、成田シンポジウムの最終回が成田市国際文化会館で行われた。前回明らかにされた反対同盟の三項目提案(前号参照)に対応する隅谷調査団の所見が述べられ、反対同盟、政府がそれぞれ受諾した。所見は反対同盟の三項目を了承し、同時に一坪共有運動の収束を望むという一項が付け加えられている。最終シンポには、事前の同盟幹部会の確認にもとづき幹部がはじめて出席した。
 収用裁決申請の取下げ、二期計画白紙撤回は、四半世紀に及ぶ反対運動が勝ちとった成果であり、運動の正当性がだれしも否定しえないことであることを明確に物語る。強制収用の脅しが取り除かれたことは用地内の反対同盟員にとって大きな「勝利」である。
 だが同時に、交渉がつねに持つ妥協の側面も、「空港をめぐる、地域の理性あるコンセンサスをつくりあげる新しい場」という文言にみてとることができる。隅谷調査団所見があえて運輸省の意向をうけて「一坪共有運動収束を期待する」と言及していることも、二期が計画白紙撤回であって、二期断念ではないことを示唆するものだ。
 二期工事の完成部分がとりこわされるわけでもない。成田治安法が撤廃されるのでもない。成田治安法の廃絶、二期部分供与の撤回など、政府公団がやらねばならないことは山積みされている。
 所見が意味するものは、「ボタンの掛け違い」の修正を意図することであり、それ以上ではない。
 二期阻止をめざす反対運動は、新しい段階に入った。成田治安法や周辺自治体などを媒介にした二期完成への圧力は、姿を変えて持続するであろう。これらをいかにはねかえし、二期計画の白紙撤回を実態あるものにしていくという闘いが直面するものである。
 一坪共有運動は、「反対闘争が解決した時には反対同盟に返還する」のであり、反対同盟は一坪共有運動の収束という圧力を最後まではねつけたことを確認しておくことが必要だ。
 反対同盟の見解、および隅谷調査団所見をあわせて掲載します。三里塚闘争の新たな段階とその性格について、大衆的な検討、討論をすすめていただきたい。
仮死の土地に地発しを

  三里塚芝山連合空港反対同盟



 第一回シンポジウムにおいて、私たちは国家と対等な立場で話し合うために、「事業認定の失効を政府が勇気をもって認めること」と、「二期工事を含む空港計画が見直し可能なものとして国民の前に提示されること」が必要であると主張いたしました。本日の第一五回シンポジウムにおいて、運輸省・空港公団が私たちの提案を実質的に受け入れたことによって、私たちと国家は対等な立場にたって、成田空港問題を平和的に解決する大きな扉を地域の人々とともに開くこととなりました。ここで、私たちは第一回シンポジウムで予告しておりました四つ目の課題、「二期予定地および周辺の地域再建計画」の基本的な考えを展開して、シンポジウムでの最後の意見発表としたいと存じます。



 シンポジウムの次に設けられる協議の場では、当然、空港の存在、空港の将来そのものが問題となってきます。そこで、私たちは《農民にとって空港とは何だったのか》《農民にとって土地とは何か》という検証を通じて、二期予定地を含む地域再建のイメージに迫ることとします。
 空港とは、農民から見れば、三里塚芝山という自然の生態系(エコシステム)の中に突然侵入してきた、わけの分からない“異物”でありました。それは農村社会の人間関係を不意打ちのように引き裂いたばかりでなく、自然の生態系をも切断する行為を伴って、この地に暴力的に登場したのです。
 古代から広大な野生馬の放牧地であったこの地帯は、「一望千里の草原であり、樹木は極めて少なかった」といいます(『下総御料牧場史』)。明治時代になって御料牧場が開かれ、防風用、風致用、日陰用に絶え間ない植樹がおこなわれてきました。杉や松だけでなく、トチ、クヌギなどの雑木も、毎年何万本も植えられました。その結果、広大な樹林地が形成され、風害は減少し、森林のもつ保水能力により豊かな地下水が養われました。空港は九十九里浜と利根川の分水嶺にあたる御料牧場の樹木二六万本を、すべて切り倒してしまいました。そして、その周辺に集う古い村々の生活や開拓者の労苦を踏みにじり、人々の生きざまをコンクリートの下に一様に埋め込んでしまったのです。
 空港が来たときの農民の気持ちについて、かつて、私たちは次のように述べました。「農民とは大地に足をつけているからこそ、その魂が形成されるものです。……自然になじみ、土に親しみ、そこに生きる動植物とも交流を重ねてきた農民に、有無もいわせず他の土地に移れということは何を意味するのでしょうか。農民が、それをとりかこむ自然との対話のなかで形成してきた精神の土台を奪うということではないですか。……不安にゆれる自分の心の奥をのぞきこみ、そのゆきつく先に精神の崩壊が垣間見えたとしたら、人は誰しも精神の土台である大地に足を踏んばろうとすると思います」(東峰裁判、『冒頭意見陳述』から)
 空港の不時着を契機として、私たちは農民としての自覚と誇りを呼びおこされたといっていいでしょう。空港に反対するということは、自らのよってたつ大地を、自らの手で把握し直そうという行為なのです。ですから、私たちの目は当然のように大地へ土へと向かいました。そのとき、私たちの肌の感覚とともにあった土地が、空港問題によって“広さと価格”によって評価される《何か》へと変わってしまうような不安が感じられたのです。私たちは戸惑いを感じながらも必死の思いで「土地は守りきれないかもしれないが、土を守ることはできる。われわれは土を武器として戦う」という戦闘宣言を発しました。これが私たちの土地問題に対する最初の直観的な発見だったといえます。
 やがて、私たちは自らが耕す土地が、日に日に痩せていっていることに気づきました。代執行前後のころのことです。化学肥料と農薬に頼っていた畑で穫れる里芋や落花生が、まるで盆栽のようになってきたのです。肥しが足りないと思いさらに化学肥料を振ると、ついには枯れてしまったりしたのです。牛や馬を手放し堆肥を作らなくなってから十数年がたっていました。「土は守ることができる」と大言壮語したにもかかわらず、私たちは土のことをまったく分かっていなかったのです。そのことに気づいた私たちは深く恥じ入れ、いままでの農法を反省し、初めて有機農法を知り、何年もの試行錯誤の結果、土が生きていることを身体で感じることができるようになりました。土が蘇り作物が豊かな稔りを復活させました。それとともに田圃や畑が、それだけで独立して存在しているのではないことも分かりました。成田市東峰の堀越昭平さんは次のように語ります。
 「御料牧場や県有林の森が伐採されてから、おら家では二メートルぐらい地下水が下がっただよな。丸井戸で二メートルだから、ボーリングの井戸だと十メートルは下がってべ。やっぱ森がもってた保水能力を壊したんだと思うな。森が切られっと赤風が直撃するし、地下水が下がるからどうしても雨水に頼るべ。森を通ってきた水は有機成分を含んでっけど、雨水というのは栄養がないだよな。酸性雨が降ったって森があると薄めてくれべえ。原っぱの畑ではしょうがねえだよ。雨水が川のように流れてくることもあっだから。おれは森と畑は一対一ぐらいの比率が理想だと思うだよ。田圃にしたって畑にしたって、川とか森とか地下水という自然環境のなかでみんな繋がってんだよな」
 有機農法を進めていく中で、私たちは山や森や川、田や畑、そして動物や植物は、互いに有機的な繋がりと循環を行っていることに気づいていきました。そのような繋がりと循環を、人間が一方的に断ち切ると、必ずどこかに弊害が生じてくるということは、苦い経験から学んだことです。機械化や肥料や農薬がどんなに進歩したとしても、農民は自然の壁を打ち破ることはできないのです。たしかに、農業は自然を管理しようとする技術の体系です。自然界から田圃や畑を区画化し、稲や麦だけを育て、他の植物を雑草として排除し、作物の成長を肥料や水の駆け引きで調整しようとするのですから。でも、工業のように、自然を破壊しても成り立つ産業ではありません。むしろ、人間が森や川や動物や植物とともに、自然のなかの一員に過ぎないという謙虚な認識をしたとき、はじめて立派な作物を稔らせることができるのです。私たちは、空港がさまざまな生き物や風景を、一方的に潰していく光景に、常日頃から深い危惧を抱かざるをえませんでした。二期工事だけでなく、周辺では、いまもホテル建設などによって、森が切られ、地下水が変動し、動物が棲息場所を追われる日々が続いています。



 開港によって、空港周辺地域は騒音地獄、落下物への恐怖、ビニールハウスの汚染、排気ガス、異臭など、およそ農村地帯には似つかわしくない環境に投げこまれてしまいました。滑走路延長上および空港周辺にすむ人々は、つねに「騒音」という終わりのない不快感を抱いて生活しなければならないのです。空港があるかぎり、このような理不尽な状況が今後も継続されることを、どのように考えていけばいいのでしょうか。
 どんなに辛い山登りでも、頂上という目標があるからこそ耐えられるのです。国は騒音下の人々に責任をもって“希望”を提示すべきです。たとえば、五年を目途に騒音を何デシベル軽減するとか、夜間飛行時間を短縮するとか、現在のように永遠の忍耐を強いている状況を変えるために、法的措置も含め、一刻も早く発生源改善への努力に取り組み自らを律するべきです。
 解決のない騒音地獄、この一点をとっても、空港との“共存共栄”という言葉を使用することは、《不遜な態度》と見られることから逃れることはできないでしょう。この上BC滑走路を造るということは、騒音地獄を拡大すること以外のなにものでもなく、人道的見地からさえも決して許されるものではありません。



 次に現在の成田空港問題を、経済や地球環境をも視野に入れて考えてみましょう。まず、二期工事を完成させ完全開港が必要であるという考え方が、どのような根拠に基づいているのかを見てみます。さまざまな理由が挙げられていますが、結局のところ『航空需要が無限に増え続けるだろう』という仮説に基づいています。だが、航空需要が無限に増えるためには、経済がこれからも無限に拡大していくという、もうひとつの仮説がなければ成り立ちません。テンミリオン計画のように、運輸省のさじかげんで航空需要を演出することができたとしてもやはり経済の総体的な拡大傾向がなければ、予定より一年も早く計画が成就することはなかったでしょう。いってみれば、日本経済の継続的な拡大が、自由な海外旅行を保証しているといえるのです。
 しかし、「大型化、高級化、レジャー、グルメ」に象徴されたバブル経済の崩壊は、これまで経験し乗り越えてきた不景気とは、少し異なる面影を各界に与えていると思われます。それは“経済は無限に拡大するもの”という考え方に陰りが出てきたということではないでしょうか。このような時代、はたして、航空需要は無限に増え続けるのでしょうか。
 また、経済の拡大を無条件に良しとする価値観は、さまざまな方面から厳しい試練にさらされています。一九六〇年代、私たちは能率本位の企業利益の追求が「公害」を生み出している事実を知りました。
 それから三十年、いまでは問題はより深刻となり、人類の存続が可能かどうかが問われる時代となっています。石油や石炭などのエネルギー資源の問題、ゴミ問題、酸性雨、砂漠化、熱帯雨林の破壊、海洋汚染、土壌の崩壊、そして地球の温暖化、オゾン層の破壊など、地球規模での環境問題が経済の無限の拡大に反省を強いています。
 たとえばこんな例をとって、問題の本質を考えてみましょう。石油資源の有限性や地球温暖化のことを考えて、『すべての人間は、自動車を百五十日以内しか使ってはいけない』という規制案をつくり、賛否を問う国民投票をしたと仮定します。おそらく現在の状況では「車もガソリンも私が買ったのだ。どう使おうと自由ではないか」との意見が多数となり規制案は否決されることでしょう。
 その結果、私たちの世代は石油エネルギーをふんだんに使い、地球温暖化の主要な要素である炭酸ガスを撒き散らしたとしたら、一体どういうことになるのでしょうか。私たちの子供や孫の時代には、もしかしたら石油資源が枯渇しており、そうでなくても温暖化現象のため異常な気温上昇という事態がおきているかもしれないのです。仮に、炭酸ガス濃度がいまの二倍になったとしたら、関東地方の気候は九州南部のようになり、九州南部は亜熱帯・熱帯の条件となり、農作物生産すべての面に影響が出てくることが予測されています(農水省、農業環境技術研究所資料より)。
 しかも、二十一世紀の後半には人口は今の二倍、百億になると予想されています。有力な学説では、地球の人口が百億になったときは、資源の面からも炭酸ガスの排出量の面からも人類は生存の危機に直面するといわれています。ということは、私たちの世代がいまの欲望を満足させることは、下手をしたら次の世代の大量死をもたらしかねない、そんな恐ろしい問題が提起されているのです。
 仮に資源が無限にあったとしても、自然の循環系を断ち切るゴミ問題、地球温暖化につながる炭酸ガス、メタンガスなどの排物、排熱の問題は、石油や石炭を浪費している以上、解決不能の問題として横たわっているのです。
 そこから、次のようなテーマが浮かび上がってきます。もし、子供や孫など次の世代の生存権を考えるならば、私たちの世代は、資源の自由な使用や経済のさらなる拡大にたいして、なんらかの制限を課さなければならないのではないか。簡単にいえば、環境をこれ以上破壊せず、次の世代の生存を保証するために、私たちの世代は自らすすんで、ある程度の不自由を引き受けざるをえないのではないかということです。
 自由を制限する、もちろんこの問題は痛切な問題です。議論を尽くし慎重に対処すべき課題です。いまのまま成り行きでいったら、二〇三〇年ころには現在の三倍のエネルギーを消費するようになり、炭酸ガスも二倍になってしまうといわれています。たとえ経済の拡大が可能でも、未来をにらんで意識的に経済規模を抑制することが、現在の緊急課題となっているのです。
 経済の継続的な拡大をベースとした航空需要の無限の増加という仮説も、このようなテーマと真正面から向かい合うしかないと思います。成田空港の問題も、このような人類的課題から離れては存在しないのです。次の世代の問題や地球環境の問題を考えず、また徹底的な議論をおこなわず、安易な多数決でものごとを決定するようなことをしたら、未来世代から“愚かな選択だ”と、嘲笑と非難が浴びせられることは間違いありません。私たちはいま、試されているのです。



 芝山町菱田の辺田部落では旧の六月十五日は「祇園」といい、人々は一斉に田の草取りをおこない、一軒一品ずつご馳走をつくって村の神社に持ち寄り、酒を酌み交わす風習が続いていました。盆前には「道刈り」といって、道路に覆いかぶさる草をみんなで刈り、旧の七夕が近づくころは「川刈り」といって、一斉に川の掃除をおこないました。マコモという名の草を刈り、七夕の馬をつくるためにとっておきます。定期的に行われる道普請では、部落総出で村の道を整備し、その上がりにまた公民館で酒を飲み食事をすることが楽しみでした。山をたくさんもっている人は、山をもっていない人に“マテヤマ”とよばれる部分を貸し、下刈りをして落ち葉や薪を採る権利を与えていました。
 現在では田圃や畑などの農地は、たんに生産力だけで評価されるのではなく、水質の浄化、土壌の浸食防止、洪水の防止など環境保全の側面からも重視されています。声高に自然を守れというでもなく、昔から農村では自然の循環を助ける行事が共同でおこなわれていたのです。
 「“子孫のために美田を買わず”という言葉があるけどなあ、私んとこの先祖は美田を買って残してくれただよな」今年の一月、いまではめずらしい茅葺き屋根をふきかえた、芝山町朝倉の秋葉哲さんは次のように語ってくれました。
 「屋敷から一歩出れば田がある、畑がある。朝に晩に作物と対話ができないと農業はできないんだよな。だから、どんなに騒音がひどくとも、私は通い農業はできないと思っているんです。裏山には樹齢三百年を超える杉の木が三本あるんだよ。それを見ると何代前かわからないけど、これを植えてくれた先祖に感謝しますね。だから私も、子供や孫やその先のことを思って木の手入れを一所懸命やるんです」
 農村では当面の成果が分からなくても、次の世代あるいはその次の世代を考えて、田や畑や山が守られていました。空港問題が起きたころには生き生きとあった共同作業や人間関係の輪が、農業の近代化・機械化の進展によって急速に薄れてきたことは事実です。目に見える結果が出ないことを、私たちも疎ましく思うようになってしまったのです。しかし、いま自然が破壊され環境保護の問題がクローズアップされてきますと、村々に息づいていたこのような行事、精神を現代に生かすことが、非常に大切なことだとしみじみ思います。
 空港をこの地に決めたとき、まわりの農村のことは考えたこともなかったと、このシンポジウムで運輸省が告白したように、工業優先、農業軽視の時代が長く続いてきました。農業は、単純な能率性、生産性で工業と比較されたため、低い地位へとおしやられてきたのです。
 農村から急速な人口の流出がおこり、いまでは後継者難で農業の存続そのものが危機に瀕しているような状況です。しかし、科学技術が先導してきた近代文明は、能率を高めるためにエネルギーを大量に浪費し、処理のできない排泄物を吐き出し、現在のような環境問題を引き起こしています。そのことを考えたなら、工業優先の価値観を根本から見直し、農業や農村のもっていたものに新たな照明を与えるべきだと思います。



 「百姓がいやでいやでよう、それになんとなく家も暗くて、農家の家はただ働くだけだからね、どっか遠くへ行ってみたいといつも思ってたんだよね。そしたら空港がきて、毎日毎日ドラム缶が鳴って、機動隊に初めて会って、世の中初めて知って、そっで闘争の帰りに家の畑に戻ったら、麦が一面黄ばんでいてね、それが綺麗で、麦ってこんなに美しいんだと初めて分かったんだよね、ああ百姓やっててよかったと思ったら、涙が出てきて止まらないんだよ」
 闘争の初期のころを語った婦人行動隊の言葉です。百姓の初々しい開眼から、戦いの中で有機農法を知り、自然の循環を守らなければ農業がなりたたないことに気づき、また、次世代のことを考えると、勝手気ままに自由を謳歌していてはいけないことを私たちは学んできました。
 そのような目からこの成田空港を見るとき、BC滑走路の完成は、騒音地域を拡大し、また、滑走路とその付帯設備しかない「大きな飛行場」となるので、外界にたいし自らを開くスペースをもたず、社会に対しても自然に対しても閉じられた空間となってしまいます。
 以上述べてきたことを踏まえて、私たちは元BC滑走路予定地を、政府が勇気をもって“地球的課題の実験村”として開放することを提案いたします。
 環境の問題、人口の問題、農業の問題、これらは人類がこれから生存を続けるための緊急の、しかも一国では解決できない国際的課題なのです。元BC滑走路予定地に、これらの課題を学び実験できる施設や農場を建設すれば、成田空港は真の意味での国際的なスペースとして、自らを開くことができるでしょう。
 また、地域や自治体も、この地球的な課題を自らのうちに取り込むことによって、はじめて「国際性」と「地域性」を深い結びつきのなかで獲得することができるのです。このような大きなイメージのなかで議論を煮詰めていくことが、成田空港問題の平和的解決への唯一の道であると私たちは信じています。あくまでも、目先の要請よりも“次の世代に受け渡せる解決の仕方”が問われているのです。
 政府や地域の方々が私たちの提案を真剣に検討され、その方向に沿って政策をたてることを強く望みます。この政策が実現されたとき、それは「完全飛行場」を上回る地域的財産になることは間違いないとの確信があります。
 このとき、第一回シンポジウムで述べたように、「日本農民」の名において貸しつけている仮死状態の土地に、再び生命を吹き込むことができるのです。地発しがあらためてなされるのです。私たちは、“徳政をもって一新を発す”決意を再度表明して、シンポジウムの締めくくりの意見発表とさせていただきます。
 一九九三年五月二十四日
隅谷調査団所見
「成田シンポジウム終結にあたって」

 1 シンポジウムの経緯
 過去四半世紀をこえる長い年月の間、地元三里塚の農民や地域の住民、その他関係するすべての人たちの上に、暗雲のごとこ重く垂れこめて来た成田空港問題を、良識のある話合いのもとに、社会的公正にかなった形で解決することを目指して、成田空港シンポジウムが一昨年秋に開始されてから、今日で一五回を数えるに至った。
 この間、反対同盟から、当時の羽田空港の限界いっぱいの運用状況からいかにその実現が急がれたとはいえ、民主主義体制のもとでは許容することのできないいくつかの行き過ぎや過誤が、空港建設計画を推進しようとする国の側にあったことについて、空港が現在の地点に決定された経緯にさかのぼっって、詳細な事実の究明に基く発言が積み重ねられた。
 これを受けた国の側からは、当時の記録に基いて、事実関係についての国としての認識を述べた上で、当時の社会一般の状況の中ではやむを得なかったとされる面があったとしても、今日これを顧みると適正を欠いたと認めざるを得ないいくつかの事実のあることを率直に認め、またそのことにより農民が長い間苦難の道を歩まざるを得なかったことについて、心から遺憾の意を表する旨の発言があった。
 成田空港問題の発生いらい、国はひたすらその計画の正当性を強く主張し、そのとって来た強圧的な行動について一言の弁明もすることがなかったので、そのことが反対同盟との間の関係を硬化させ、両者の間に抜き難い不信感が醸成されて来たことを考えれば、シンポジウムの場における国の側のこのような率直な反省の言葉の持つ意義は極めて重く、その姿勢は高く評価されるものである。
 シンポジウムがこのような経過をたどることが出来たのは、反対同盟がつねに良識ある話合いという当初の趣旨を尊重し、内部のさまざまな意見の調整・集約に務めながら、ひたすら誠実に一回一回と積み上げ、国側の姿勢の転換に対応して来たことによるものであり、その努力に対して深い敬意を表する。
 
 2 反対同盟からの提案 このようにして進められて来たシンポジウムの積み重ねの上に立って、第一四回会合の終りに反対同盟から3項目の提案がなされた。その趣旨が正しく理解されるよう、ここにその全文を掲記する。
 「私たちは、本日まで三つのテーマについて、シンポジウムを進めてきました。
 第一は、事業認定後二〇年を過ぎて強制収用ができるか否か、ということでした。第二は、二五年間の闘いの意味について、第三は、航空行政批判と二期工事不要の主張でした。
 第六回シンポジウムにおいて、隅谷調査団は「運輸省が土地収用法は形式的にはなお適用可能であるとすることは、社会的正義の視点からも問題があると言わざるを得ない」との見解を示され、この見解を運輸省も了承しました。
 そして、二五年間の闘いの検証及び航空行政批判の中で、空港が富里案の当初から、地元の農業のことや地域のことを考えずに計画されたこと、また地域のコンセンサスを得ることなく位置決定を行い、強引に建設を進めてきたことが明らかにされました。運輸省もシンポジウムの中でそれらのことを認め、率直に反省し、今後の空港づくりに活かしていくことを表明しました。
 運輸省が以上のことを具体的に施策化することで、『力による対決』の時代を終わり、空港問題の話し合い解決のための対等の立場が確立されると考えます。
 さらに、歴史検証と一連のシンポジウムの中で私たちだけでなく、この地域の方々がそれぞれの立場で空港問題に関わり、今後も積極的にとりくんでいかれることが明らかにされました。
 このようなシンポジウムの経過を踏まえて以下の提案をいたします。
 一、運輸省・空港公団による収用裁決の申請の取り下げ。
 二、二期工事B・C滑走路建設計画を白紙に戻す。
 三、今後の成田空港問題の解決にあたっては、「空港をめぐる地域の理性あるコンセンサスをつくりあげる新しい場」がもうけられ、そこにゆだねられるべきである。
 私たちは、今後とも成田空港問題の平和的解決にむかって、尽力する所存です。
 一九九三年四月二十七日
 三里塚芝山連合空港反対同盟」
 この提案の内容とするところは極めて重要なものである。特に第一と第二の2項目は、一四回にわたるシンポジウムによる相互信頼感の醸成の上に立って始めてその現実的意味を持ち得る提案であるし、それが国の側に受け入れられることによって第三項という新しい場の設定に導かれるのである。そしてこれらすべての点について両者の合意が具体的に実現されることにより、同盟の文書に言う「力による対決」の時代の終ることが期待されるのである。

 3 提案についての調査団の所見
 さきにも述べたように、この提案は一四回にのぼるシンポジウムでの話合いの積み重ねの上に立ってなされた、いわば必然的帰結とも言うべきものである。すなわち提案そのものは反対同盟からなされたものであるが、ここに至るまでのシンポジウムの話合いの全過程における双方のエネルギーと良識とが、基本的にここに結集したものと見るのが正しい。その意味においてこの提案はシンポジウムの最大の収穫というべく、この提案が国の側によってどのように受けとめられるかについて重大な関心が持たれたのである。
 第一四回シンポジウムにおいて、国側もこの提案を前向きに受けとめる旨を述べ、最終的な解決の仕方については、両者とも調査団の所見に一任されたのである。あらためて両者の意見を確かめた上で、調査団としての所見を述べれば次のとおりである。
(1)提案1「運輸省、空港公団による収用裁決申請取下げ」について
 成田空港問題をめぐる長期の力による対決に終止符を打つため、国側は、土地収用裁決申請を取下げることとされたい。
(2)提案2「二期工事B、C滑走路建設計画を白紙に戻す」について
 過去における成田空港建設の経緯の中に、民主主義社会であるならばあってはならないいくつかの行為が国の側にあったことは、シンポジウムの席上明らかにされたところである。国はその反省の上に立って、二期工事B、C滑走路の建設計画について、いままでの行きがかりに捉われず、ここで白紙の状態に戻すべきである。この問題については、地域の人々と民主的に話し合いをすることにより解決の道を採ることとされたい。
(3)提案3「今後の成田空港問題解決にあたっての新しい場を設けること」について
 上記(1)及び(2)を踏まえて、成田空港問題の解決のために、真に民主的、理性的コンセンサスを形成するための前提条件が出来上がる。(1)及び(2)の実現により、反対同盟関係者はもちろん、空港のために土地を手放して、さまざまな思いをこめながら、他へ転出して行った人々を含め、広く地域住民がはじめて国と対等の立場で、自らの地域における空港というものをどう考えるか、地域と空港の共生のための仕組みとはどういうものか、というような問題について国側と対等の立場で自由に話し合いをすることができるようになるのである。この新しい協議の場をいかなる形でつくるかは、なお残された課題であるが、その具体策については、シンポジウムの経緯を引き継ぐ趣旨から、調査団に一任することとされたい。
 国、千葉県、関係自治体及び広く住民の参加するこの新しい場が設けられ、上記のような問題について話し合いの進められることを期待する。なお、この場には、従来シンポジウムに参加していなかった農民の方たちも参加し、意見を表明されるよう期待する。またこれが可能となるよう、シンポジウムに関係して来た人たちの協力を要請したい。われわれもこれを契機にこれらの人たちとの話合いの場を設ける用意のあることを申し添える。

 4 むすび
 一年半の時間と一五回の公開の場での対話により成田空港問題シンポジウムは、ようやくその終結の時を迎えようとしている。この過程を通じて最大の成果は、反対同盟と国との間の正しい意味での信頼関係が少しずつ醸成された来たことである。
 およそ民主主義の社会においては、人々が相互に平等の立場で自由に意見を交換し合い、少しずつ相手の意見への理解を深めて行くことがそこでの基本とされる。それを十分に尽くすことなく、議論を未成熟のままに打ち切り、とりわけ直接的関係者の意向を無視あるいは軽視して、いわゆる多数決により事を決するのは、民主主義の本旨ではなく、多数決原理の濫用と見るべきである。またそこでは、多数者の利益のために少数者の存在が侵害されたり、人間的尊厳が犯されたりすることがあってはならない。
 われわれが問題とした成田空港の建設について見ると、残念ながらそのような民主主義社会の基本的なあり方が、当局者によって十分認識され尊重されて来たと認めることは出来なかった。国際社会に向かって開かれる日本の玄関として、多数の内外の人々の利用に供される空港であるからと言って、その予定地において生活を営み、血と汗との結晶としての農地を護って来た人たちの存在を、大の前の小という比較によって、軽々しく考えていいものではない。ましてやその必要性などについて、農民たちに十分な時間をかけて説明したとは認められない期間の中に、国の決定した方針だからと言ってその実施を強行したことは、当時の羽田の空港事情がいかに窮迫したものであったとしても、許されるものではなかった。
 成田空港問題が今後いかなる方向へ展開することになろうとも、ここに述べたことはその基本に据えられていかなければならない。日本における民主主義をどのようにして地域の中に根づかせ、社会的公正を実現して行くのか、その壮大な実験がこの地域において展開されようとしている。調査団としては、近く形成される新しい場を通じて、このことが着実に進められて行くことを強い関心をもって見守って行きたい。なお関連して、このようにして力による対決の時代が終り成田空港問題があたらしい方向で解決されて行く中で、いわゆる一坪共有運動もすみやかに収束されることを期待する。
 一五回のシンポジウムを毎回充実した内容をもって開催して来ることが出来た功績は、すでに述べたように何よりもまず反対同盟の人たちの理性的かつ誠実な話し合いの姿勢に、次にはそれを受け止める立場の国や県の当局者の優れた時代認識と勇気、そしてそれらすべてを支えた縁の下の力持ち的な役割を果たされたすべての関係者に帰せられるべきものである。わけても一年半の長きにわたり、毎回この場に出席して議論を熱心に聞いて下さった地域住民の方々なくしては、この長丁場を走り切ることは出来なかったであろう。 終りに臨みひとつだけ残念なことがある。それは反対同盟の熱田派以外の農民の方がついに参加してもらえなかったことである。われわれは、熱田派とのかかわりのみでシンポジウムを行って来たのではない。この地に空港の建設が決定された時点にさかのぼって、地域のすべての人たちの置かれて来た立場を余すところなく視野に入れて議論を進め結論に導いたつもりである。熱田派の立論もその線に沿ったものであり、最終提言もその趣旨に立つものであった。熱田派以外の農民の方がこのような趣旨を理解され、何らかの方法でその意見を表明されることを重ねて強く期待するものである。
 シンポジウムをこれをもって終結し、今後は新しい協議の場へと舞台が移って行く。シンポジウムにより、過去四半世紀の歴史的事実の検証は終わったが、地域の展望をひらく協議の仕事は、すべて今後の関係者の肩にかかっている。それは決して平坦な道でないと思うが、シンポジウムを通じて得られた関係者相互の信頼感の上にたって話し合いが重ねられるならば、必ずや良い成果が得られるものと信ずる。そしてその時はじめて、成田空港問題という長い重苦しい問題から、関係するすべての人たちが解放されることとなるであろう。われわれ調査団としてもその成り行きについては深い関心をもって見守って行くつもりである。
 平成5年5月24日
  隅谷 三喜男
  高橋  寿夫
  宇沢  弘文
  山本 雄二郎
  河宮  信郎

フランス総選挙の結果が示すもの

社会党の完敗
一つの時代の終わり

 クリスチアン・ピコー、フランソア・オリビエ(93年4月、パリ)


 一九九三年三月の国民議会選挙はフランス情勢の大きな転換点となった。新たな歴史のページが開かれた。一九七〇年代、すなわち左翼連合の形成と一九八一年の社会党の政権獲得を出発点とする一つの時代は、終わりを迎えた。

社会党の完敗

 第二回投票で右翼と極右は六三%を得票し、他方、左翼とエコロジストの得票率は四〇%以下であった。左翼が右翼諸政党全体の得票率より二五%も低かったのは、この数十年間で初めてである。社会党と共産党は、新国民議会の議席配分ではとるに足りない存在となり、国政で一定の意味をもつ影響力を行使できなくなった。
 選挙制度の不公平さのために左翼諸政党の敗北が増幅された面はあるが、選挙結果は勤労人民にとって不利な方向への力関係の悪化を反映したものであった。
 しかし、こうした事態は、右翼の政策に対する大々的な支持を意味していない。右翼の共和国連合(RPR)とフランス民主連合(UDF)は、フランス連合(UPF)として一つの選挙母体で選挙戦を闘ったが、それでも一九八六年時の得票を越えなかった。したがって右翼の勝利は、これまでの政権を構成してきた左翼諸政党に対する支持が喪失した結果なのである。
 棄権率が高っただけでなく、無効票もまた多かった。百五十万もの無効票が投じられた。ここには、既成政党に対する批判と同時に、社会的、経済的な危機――失業、不安定――でこの間、一番ひどく打撃を受けてきた人々のどうしようもなさが反映しているが、それでも右翼諸政党がこの部分を政治的に獲得したのではなかった。
 この選挙の大きな特徴は、社会党に対する絶対的な拒絶である。得票率は一八%以下、議席数は五十、社会党はその歴史上、最悪の敗北を喫した。これは、十二年間にわたる公約破り、資本家の利益優先、党指導部の腐敗・汚職の結果である。社会党は、一九六九年に社会主義労働者インターナショナル・フランス支部(SFIO)を継承し、七一年のエピネー大会で再生のスタートを切った。一九七〇年代の急進化の波に乗って基盤を形成し、そして今や完敗の憂きめにあっている。選挙後の同党指導者たちのキャッチフレーズは「再生しなければならない」である。
 左翼の側には、社会党にとって代わりうる勢力は登場していない。エコロジストは、自らの展望の実現に近づいたわけでない。確かに彼らの得票率は、一九八八年の〇・三二%から今回の一〇・七〇%に上昇した。しかし二つのエコロジー勢力――緑の党とエコロジー世代――の連合は、一九九二年の地方自治体選挙ほどの高い得票率を達成しなかったし、指導者たちが期待していた得票率にもおよばなかった(いくつかの世論調査は、一七%の得票率を予測していた)。これは、はっきりしない綱領と左右の対立に距離を置こうという態度の結果であり、また、その指導者たち、とくにミッテラン政権の前環境相であったエコロジー世代のブリス・ラロンドの政治的マヌバーの結果である。
 共産党は、議席を維持し、社会党支持者の一部を獲得したが、それでも大きな打撃を受けた。第二次大戦後で最悪の選挙結果を記録した。その他の左翼勢力もまた、有意な成果を達成できなかった。革命派の成果は安定しているといえるが、いくつかの地域では五%の水準に達した。

社会的な爆発の脅威

 フランス社会では現在、これまで機能していた社会的な参照点がばらばらになってしまった。右翼は国民議会で圧倒的な多数であるが、実際の力関係をはるかに越えてそうなのである。彼らは、社会的な爆発を引き起こしかねないフランス資本主義の危機と社会的な危機とに直面している。
 労働者運動は、時がまさに一九九五年の大統領選挙が近づき、支配階級からの攻撃が予測されているのに、信頼できる展望を欠いている。
 東側世界でのスターリニスト制度の崩壊と西側世界での社会民主主義の危機とは、方向感覚喪失の状況を広範に生み出した。そして、人民のこれまでの成果と左翼のこれまでの政治的な表現形態との間の分離は、次第に大きくなってきた。労働組合運動は、自らの存在価値と戦略の明確化に関して危機にあり、運動の断片化と分散を強めている。
 不安定と動揺のきざしが見えている労働者運動には、来るべき対決において本当に信頼できる勢力が存在しないという、真の危機がある。この事実は、闘争に突入していく部分の急進性とそこで表明される意識水準との間の既存の分裂をさらに深める可能性がある。
 極右がこの状況から漁夫の利を得る可能性がある。この勢力は今回、一三%の得票率という前進を実現し、経済危機に由来する社会的な不安的状況から基盤を拡大した。
 フランス情勢の不安定さは、右翼の過激さをやわらげる方向に作用した。だからこそ、新首相のエドアール・バラデュールは表面的には穏健なのである。だが、彼らの政策は明確である。すなわち、前社会党政権のリベラル路線を深めていくであろう。
 「市場によるデフレ(的調整)」のスローガンの下に、賃金が抑制され、競争力のある公営企業が民営化され、企業への課税や企業の負担が減らされていく。そして労働や社会的な保護に関する様々な規制が緩和される。だが当面、政府は「波風を立てる」ことを好まないだろう。
 右翼は明らかに一九八六年から八八年にかけて政権に復帰したときの経験から教訓を得ている。当時、彼らは労働者や青年層に対してすぐに攻撃をしかけ、これが国民の反感を呼んだ。力強い青年層の大衆動員は、就任後わずか九カ月のジャック・シラク政権の大学改革政策をとりやめさせるに至った。
 今日の右翼は、様々な社会階層が社会的な危機の中で不満を爆発させる危険性を自覚しており、一九九五年の大統領選挙で勝利する可能性を無に帰したくないと考えている。だからとりあえず、人民との対決を回避する道を選んだのである。
 しかし新政権は、極右国民戦線の圧力下で、有権者のうちの最も反動的な社会層を「失望」させることは避けなければならない。だから彼らは、社会的、経済的分野で攻撃をひかえたことの代償として治安と移民に関係する分野で乱暴で攻勢的な態度をとった。内務大臣シャルル・パスクワは、八六年から八八年に経験した職務への復帰であるが、移民家族の再統合方針の撤回と警察による外国人の身分証明書の点検の強化、「不法滞在者」の追放を表明した。

暴れ回る警察

 こうした政策の影響はただちに現れた。種々のファシスト型ネットワークに影響され、かつ人種差別の考えに毒つかされている警察は、一切の束縛から自由になったと感じた。右翼の勝利から一カ月後、少なくとも六人の青年が死に至る攻撃があった。その青年のほとんどは、移民の子どもであった。
 同じ方針にそって、新政権は国籍法の改悪を主張した。これは、フランス革命に起源を発する成果に対する前代未聞の攻撃である。現在、両親が移民であってもフランスで生まれた子どもには自動的にフランス国籍が与えられている。改悪案によると、移民の子どもはフランス国籍の取得の申請を義務づけられることになる。この措置は、子どもの間に出身地による差別をもたらす。
 バラデュール首相がこの路線を追求し続けられるかどうかは不明である。世界経済の危機の中でのフランス資本主義の弱体化という状況にあって、ブルジョアジーの様々な勢力から人民の生活水準、労働条件に早く攻撃を加えるようにとの圧力が強まってくる。
 同時に、ヨーロッパ統一に関する議論が支配階級内部で再び始まるだろう。多くの財界指導者は、ヨーロッパあるいはフランス規模での保護主義への復帰を主張している。リセッションの局面において、競争力を強化できない。新政権にとっての最初のテストは、昨年の十一月にECの交渉団が調印し、当時の首相、ピエール・ベレゴボワが反対した「ワシントンでの妥協」の扱いである。
 バラデュール首相は今、農民からの圧力とECの軸である独仏同盟の必要性との板挟みになっている。ワシントンで調印された妥協は減反の強化と補助金の大幅な削減を含んでいるので、農民は深刻な打撃を受けることになる。
 新政権はまた、多数ある課題とともに、ヨーロッパ通貨制度(EMS)の改革という課題も処理しなければならない。この制度は現在、フランス中央銀行がドイツ連銀、ブンデスバンクの後についていくことを、あるいは平価切下げの危機を、もたらしている。これが、フランス経済に高い短期金利を、そしてアメリカ経済には低金利をもたらしている。
 フランス右翼、ことにRPR内部の民族主義者やポピュリストたち(彼らを率いるのは昨年秋の国民投票でマーストリヒト「ノン」運動を展開したフィリップ・セギンとシャルル・パスクワである)の間では、短期金利引き下げのためにドイツマルクとの連動をやめるべきだとの声が次第に強くなっている。
 一九七〇年代初めのエピネー大会で再生を実現した社会党は今や、死んだ。四月三、四日の指導部会議で社会党は内部分裂をした。前書記長のローラン・ファビウスが少数派となり、長い間ミッテランを継ぐ社会党の「当然」の大統領候補だと考えられていたミッシェル・ロカールが多数派となった。
 ロカールは最近のいくつかの選挙で社会党を敗北させた綱領とのいかなる決別も望んではいない。彼はこれまでずっと、ある種の「歴私的な妥協」を提案してきた。これを通じて、フランスの社会民主主義が社会リベラリズムへの執着を明瞭に表現できる。
 彼はこれまでの社会党を越えることを望み、同党が今でも維持している社会民主主義的な伝統や組織労働者運動との結合を切断しようと考えている。還元すれば、社会党をアメリカ民主党をモデルにした政党へ転換しようと望んでいる。選挙期間中、彼は「ビッグバーン(大転換)」の必要性を訴え、エコロジストから中道右翼までの勢力の結集と少数ではあるが共産党批判勢力の一部の獲得を狙った。

荒廃した家

 ジャンピエール・シュヴェネマンを中心とした社会党内の伝統的な一派は、第二回投票の直前に離党した。彼は「フランス国民は、社会党が社会主義であるから反対しているのではない。そうではなく、社会党がもはや単に旧くなった家であるだけでなく、荒廃した家でもあるからだ」と述べた。そして党を「中道右派勢力が喜んで迎えられるような、ネオリベラリズム路線に奉仕する既成支配機構の一部としての政党」へ転換させようとすることを非難した。そして独自の潮流、市民運動の建設に力を傾注した。
 社会党政権を左翼から批判する勢力(これは、湾岸戦争反対運動とマーストリヒト条約批准「ノン」運動を領導した)を明白なフランス民族主義と結合する潮流は、その戦略と基本路線を明確にしなけらばならない。この潮流は、左翼を再生する運動の一部となれるだろうか。この潮流は、ゴーリストやRPR内の保護主義派との結合を強めていくだろうか。自らの指導者を大統領選挙で独自候補として立てて、独自性を主張する道を選ぶだろうか。その将来は、これらの問いにいかなる回答をするかにかかっている。
 共産党は、社会党の危機に対するいささかでも信頼できる対応策を提供できていない。確かに同党は、小さな政治空間を占め続け、労働者運動の一定の部分に対して新政権の攻撃に直面して分解する流れの中で抵抗闘争の一つの極として登場できるだろう。しかし指導部が硬直しているため、同党は機能を果たせていない。
 エコロジストは戦略の再構築を開始した。緑の党にとっては、一定のいい結果をもたらすかもしれない。選挙での失敗と右翼が圧倒的な多数派になったという事情のため、自らを左翼の側に位置させることを拒否してきたこれまでの方針の検討を迫られている。緑の党がエコロジー世代と結合することの有用さが問題となっている。これは指導部内の一定の再配置の結果であるが、混乱が続くだろう。
 革命派は、大衆動員を強化し、統一し、政治および労働組合の次元での議論と再編の過程を促進する必要がある。大切な課題は、過去および政治的、戦略的な相違に由来する対立を克服することである。
 革命的共産主義者同盟(LCR、第四インターナショナル・フランス支部)は、現在の困難を自覚し、反撃を組織し人類の解放に向かう道はこれ以外にないことを確信して、闘っている。すなわち、右翼の攻撃への社会的な抵抗を組織し、新しい政治勢力の出現のための条件を実現するための共同を努力を積み重ねていっている。
(インターナショナル・ビューポイント誌245・5月号)