1994年4月10日         労働者の力                第55号

細川の自滅と内閣総辞職

保守化連立へのたらいまわしを許すな
解散・総選挙で民意を問え


   川端 康夫

 佐川急便からの一億円借入金問題の膠着によって、細川はついに政権を投げ出した。佐川問題で頂点に達した自民党政治の腐敗を糾弾し、その構造からの脱却をうたって登場した細川の幕切れとしてはまことに皮肉である。だが細川は同時に、日本新党党首として、新生党や公明党との連携を見越した新会派「改革」を結成し、盟友武村や婚約者新党さきがけに対するうっぷんばらしを行いつつ、政界再編のキーマンとして居座るつもりである。佐川との深い癒着を素知らぬ顔をしながら「政治改革」の旗手としてふるまい続けた細川は、おおかたの自民党の腐敗ボス連中と変わらないだけでなく、むしろ意識においてはより悪質だともいわなければならない。政界の中心に居座るなど途方もない話である。細川は「道義的、法的責任を感じて」辞任したにもかかわらず、それだけで事がすむと理解しているのである。

後継内閣への混迷

細川の業績はなにか。「政治改革法」成立のための役者を演じただけ。より積極的にいえば、小沢路線のもとに政治の保守化を加速させるためのパフォーマンスを果たしただけである。自民党の要求のままに実質的な完全小選挙区制に踏み切った。ウルグアイ・ラウンドを口実にした農業切り捨てに踏み切り、消費税の大幅アップの道を清め、米日韓軍事同盟の積極推進を公約した。まさに「自民党ができなかった」帝国主義国家への離陸のためのパフォーマンスであった。
細川辞任による内閣総辞職によって後継首班問題が焦点となった。各党の勝手な組み合わせによる政権たらい回しに反対しなければならない。総辞職、衆議院解散によって、この細川連立政権が、前選挙での各党の公約と全く正反対の政策を強行してきたことの是非を問うべきであると考える。
 衆院の解散が理の道理である。
新生党、公明党、日本新党の組み合わせだけでは衆院多数派に数が足りない。そこで自民党から渡辺美智雄を引き出して本格政権化をめざす。そうした骨格ができれば小選挙区制度のもとではどうにもなる。これが、内閣改造の紛糾挫折以降、小沢が画策してきたことである。
自民党内の若手改革派もまた、世代的圧力から自由になる魅力もあり、新生党サイドの引き抜きや、さきがけへの合流などに傾斜する部分も多い。潜在的離党分子といわれる後藤田や海部の声が出てくる背景は、さきがけ・武村、さらには民社、社会両党の一部との接近が進み、連携が深まってきたことにある。
社会党は声だかに「連立の枠組み」維持を叫び、村山(暫定)首班という選択を示唆しているが、連立の枠組みがここまで崩れてはむなしい叫びをあげているだけである。
武村のもとにさきがけがどの程度の結束力をもつかはわからないが、少なくとも全員が武村から離脱し連立の枠組みにとどまるとも思えない。社会党もまた数を減らす。その分を埋めるためには、やはり自民党から連れ出さなければならない。渡辺との合流は、社会党勢力内部のきしみをさらに拡大させるだけの悪循環であろう。
羽田首班が新生、公明、細川の本命なのか。その時は「密約相手」の渡辺をどう処遇するのか。あるいは結局はもとにもどって、小沢の覇権を認めようとしないさきがけ・武村を含んだ連立の枠組みに耐えるのか。
あるいは渡辺首班というウルトラもありうるのか。あるいは大連立か。
細川の投げ出しによって、こうした問題が一挙に噴出した。いずれの組み合わせがあっても(本紙が届く頃にはすでに決着ついているはずだ)、その政権は「本格政権」ではなく暫定政権、選挙管理内閣的なものにとどまるであろう。
小沢をかかえる限り、当面の(保守)政治の安定は困難である。政治再編期はしばらく続かざるをえない。大連立には小沢は乗れまい。小沢つぶし勢力が相対的多数を占める構造を認めることはありえない。小沢が覇権主義である限り、それが成功するか、挫折するか、その結論が出るまでいずれにせよ政界再編の流動が続くのである。

社会党の揺れ

中選挙区制度での総選挙論も当然一部にはある。主要には社会党サイドが観測気球をあげているようである。
万が一にも衆院解散、中選挙区制度のもとでの総選挙があるとすれば、それは文字どおりの乱世の始まりともなる。新選挙制度も吹っ飛んでしまう可能性もある。だが、その「当然」の主張も、たらいまわし論や組み合わせ論の横行の中で、後継首班問題がよほどこじれない限り実現は難しい状況だ。
旧五五年型勢力ではない新政党グループ、特に日本新党にとっては、自己を押し上げた追い風が止まりつつあることを感じるがゆえに、小選挙区制度における新生・公明ブロックに頼って生き残りをかけることが当面の最大の戦術になりつつある。中選挙制度での再試験を望むわけはない。
小沢が公明党の応援を得て今後を展望するうえで、最大の武器が選挙協力のはずである。すでに社会党のデモクラッツがその魅力に傾斜し、参院での統一会派づくりを方針化したことにも現れている。この画策自体は日本新党の一方的なさきがけとの絶縁や、細川辞任で中途挫折することになろうが、底流は持続する。社会党―さきがけか、社会党―新生党かの選択は一筋縄ではいかない。いずれにも決めかね、日和見する部分が多数になるとも思われる。ここでは連立政権の枠組みが持続すれば一番いいということになる。
つまり社会党は決定力を主体的にはもてない。いずれの勢力に追随するのか――保守化の道を歩み、主体的立場を失った党の悲劇である。
すでに社会党はデモクラッツか否かをめぐる亀裂を深めている。衆参両院の青票議員の多くが参加した政策集団「太陽」が四月五日、二三人(衆院七、参院一六)で旗上げし、また社会党会派から追放された田、国弘議員の参院会派「護憲リベラル」には離党した三石、翫(いとう)議員と西野(旭堂小南陵)議員が参加することになった。太陽には護憲リベラルと衆院無所属の岡崎議員も参加している。
とりわけ参院での青票議員は、選挙法改悪法案を一時否決に追い込んだ立役者たちであり、与野党対決法案では数的にキャスティングボードを握ってもいる。数問題は簡単には無視できない要素となっているのである。

保守化からの離脱と
新たな革新の生成

社会党は「大人」になろうとしてきた。政権につくことによって政策実現の場を拡大する、という理屈もあった。もはや社会主義の時代ではない、資本主義に積極参与をという理論もある。あるいは「いかなる反動的政党でもその内部で変革の動きを進める」というレーニン理論の無限的拡大解釈論者が今もいるかもしれない。そのいずれにせよ、ひとたび敷居を踏み越えたら、それはルビコン川になってしまった。連合などの有力支持団体が金縛りをかけていることもある。
しかし、江田五月が日本新党から小沢新生党との合流へと動くさまをみれば現実路線の行く末もなんらの幻想を与えないはずだ。
社会党という存在の歴史的功罪を考えなければならない時でもある。
労組や支持団体に依存することになれてしまった議員活動、議員集団があれば、他方では地域での、よくいえばどぶ板、悪く表現すれば地域保守との癒着の活動という形しか残らなくなった社会党の合同以降の四〇年が決算書を求められている時でもあろう。
同時に、社会党への「委任」、「代理」(小寺山康夫氏「Op―al」紙)というありかたを一方の前提にしてきた民衆運動の側も等しく問われる。
新しい革新、新しい野党、異議申し立て運動、その規定は様々あっていいが、今や旧となりつつある革新の党である社会党の良心部分と委任、代理の枠を越えようとする民衆運動との合流が必要だ。社会党における内的動揺は今後ともあらゆる形でありうるが、少なくとも保守との野合連立を拒否する会派の核はできたわけである。
民衆運動のサイドも急がなければならない。いくつかの水路を通じて社会党サイドの動きが拡大しているのと同様に、民衆サイドの動きも複数的、重層的なものとして始まりつつある。
政治流動のテンポは関係するが、少なくとも早期に必要なことは、新たな政治勢力に向けた民衆的な大円卓会議的なものを共通の実現課題にした、相互の検討に入ることであろう。
保守政治への風穴をあけ、つき崩すための行動を。
    (四月九日)

北部朝鮮の「核疑惑」をつうじた米日韓の軍事同盟化と戦争準備

日本政府は封鎖策動への加担をやめよ

  川端 康夫


(1)

 朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の「核開発疑惑」を契機にして、米日韓軍事同盟化へのきなくさい動きが急激に高まり始めた。
 韓国国防相の来日、愛知和男防衛庁長官との会談、米国防省長官の日韓歴訪など、北部朝鮮との「有事」が明日にも起こるかのようなあわただしさで戦争有事態勢への扇動がなされている。米国は、韓国にパトリオットミサイルを配備すると同時に、チームスピリットの実施を決定した。
 一連の有事状況が高まる直接の発端は、韓国政府が板門店での南北交渉のビデオテープを公開したことだった。この中で、北朝鮮代表は激こうのあまり「戦争」を口走った。「ソウルは休戦ラインに近い。戦争になれば火の海だ」といった発言に対して、韓国代表はそれは宣戦布告かと言い返すなど、お粗末といえばあまりにもお粗末な言い合いが、意識的に韓国政府によってれ放映されたのである。
 だが、北朝鮮の代表が激こうするのにも十分すぎる理由がある。
 核疑惑問題が一挙に国連の場を通じた経済制裁発動問題にエスカレートした。経済制裁の実施とは、ペルシャ湾封鎖の例が示すように軍事力を背景になされる以外にはない。半島北部の東西両水域を艦隊で封鎖し、陸路(これは中国と一部はロシア)が軍事的な監視下におかれる。空域は、最悪の事態を考えれば対イラクと同様に封鎖空軍機が跳梁する可能性がある。これは、まさに北朝鮮にとっては仕掛けられた戦争を意味する。換言すれば、米国(そして同調する日本、韓国)は、北朝鮮に対して意識的に「戦争を仕掛け」ようとしているのである。
 封鎖軍の主力は当然、米第七艦隊になる。それに在韓米軍、在日米軍がプラスされ、同時に韓国軍と日本自衛隊もなんらかの形で動員される。
 こうして中国政府の安保理決議に対する抵抗、北朝鮮の日本国家に対する公然とした憤激にも、さらに板門店における北朝鮮代表団による韓国代表団に対する激こうにも、まさに十二分すぎる理由があるのである。
 
(2) 
 
 IAEA(国際原子力機関)の「一方的な査察」に抵抗し続けていた北朝鮮が、ようやくにして査察団を受け入れた。だが、予測されたように査察団は行動を妨害されたと憤然たる抗議をして帰還した。北朝鮮はまた、IAEAが事実を歪曲して報告していると主張し、同時に歪曲の上になされた安保理議長声明を徹底的に拒否する態度を明らかにした。
 安保理議長声明への経過は、中国が大きく左右した。IAEA抗議声明を待っていたように米国を中心に、北朝鮮への経済制裁の動きが急浮上し、それを安保理決議として行う構えに出た。中国が抵抗し、議長声明というより穏健な形に落着した。
 だが北朝鮮はこれをも真っ向から拒否した。こうして「次はなにか、戦争か」がきわもの的にマスコミがあおりたてる焦点となった。
 核問題には無視できない、いくつかの要素がある。
 一つは、IAEAという国連機関がよって立つNPT(核拡散防止条約)がそもそももっている根本的な矛盾。二つには在韓米軍が公然としている核装備。三つにはプルトニウム処理問題における日本の高速増殖炉実用化への公然たる動き。
 これらいずれも、国際的な指弾の対象となっている北朝鮮の立場からすれば完全に自己を正当化しうる要素である。
 現連立政権をはじめ歴代自民党政府の政策が、東アジアにおける核の緊張を助長し、対立の根底を支えてきた。そして今、その長年の政策の延長線上に北朝鮮の核疑惑をあおり、戦争をあおっているのである。
 
(3) 
 
 第一のNPT問題の根本矛盾とは、安保理常任理事国の五カ国には核兵器保有権を認め、それ以外には禁止する条約であることだ。核兵器保有が大国の証ともなっているのだが、彼らが東西対立の崩壊以降も核の廃絶を論議している様子は全くない。
 さらにはNPT未批准国が少なくない。相対立するインドとパキスタンは、ともに未批准であるが、核保有の可能性をもつ。またイスラエルと南アフリカ。前者は確実に保有していると思われるし、後者は公式には実験段階で計画を放棄したというが、確実なことはわからない。イランやエジプトなどにも核武装の可能性はある。IAEAの査察はイラクや北朝鮮の批准国には向けられるし、その査察は執拗をきわめる。軍事圧力の使用もためらわない。だがイスラエル、さらにインド、パキスタンなどについてはどうか。放置状況といって過言ではない。
 第二には在韓米軍の核装備である。かつて朝鮮戦争に際して「国連軍」司令官マッカーサーが核の使用を公言した記憶は消えていない。在韓米軍は公然と、在日米軍は隠然と核装備されている。その核の対象は北朝鮮そのものである。対象とされる北朝鮮が、核の撤去を南北対話の最大の主題にするのは当然であり、核攻撃を想定したチームスピリット(米韓合同軍事演習)に神経をとがらせるのもまた当然である。すなわち韓国政府は金泳三大統領体制であれ北朝鮮への核戦争体制を頑強に維持している。チームスピリット中止が南北対話の前提条件となる必然がある。
 第三に、プルトニウム大国化を図る日本の問題がある。日本政府は、その非核宣言とは裏腹に、今や世界に類を見ないプルトニウム備蓄とその増殖を国策とし、同時に核保有の選択を放棄しないという立場にあった。増殖実験炉「もんじゅ」、増殖実用炉「ふげん」という、いずれも仏教の菩薩から名をとったプルトニウム計画は巨大であり、プルトニウム備蓄政策とその利用計画の総体は、日本が核大国の道を歩んでいることを示している。連立政権は昨年、もんじゅ完成をひかえ、形だけ核不拡散条約の延長に応じた。それ以前自民党政権のもとで、日本政府は「核のカード」を手放すべきではないという外務省筋の見解を支持し、延長問題に消極的姿勢を示していたのである。そのことが「あかつき丸」によるプルトニウム海上輸送問題をきっかけにして、各種民間運動団体にとどまらず、対米をはじめとする国際問題となったがゆえに、連立政権に引き継がれて延長問題についての姿勢の転換となった。
 安保理常任理事国入りをめざす上で核武装が必要なカードだという本音が消えたわけでは絶対にない。それが、プルトニウム政策の大々的な推進に重なっているのである。
 
(4) 
 
 一部マスコミの過激な危機あじり報道は、政治的で意図的なものである。米国政府は、北東アジアにおける北朝鮮の政治的、経済的封鎖網を強め、政治体制の転覆の契機をつかもうとしている。
 危機あじりは、日本的には半島有事や北朝鮮のミサイル攻撃に備えよという有事体制論、海外派兵論をあおることであり、国際的には米日韓の軍事同盟関係を一段と進ませ、緊密な連携関係を強化することである。そして同時に日本、韓国の政治的、経済的な密接な連携関係を固める狙いへの援軍である。
 戦争の危機あじりを別にすれば、現時点で明らかなことは、第一に韓国大統領金泳三が日本と中国を相次いで訪れ、北東アジアの「安定」を名目に「北包囲網」を政治的、外交的、さらには軍事的にも明確なものにしようと動いている事実である。第二に、米国は中国の抵抗にかかわらず北朝鮮包囲の強硬姿勢を崩さず、経済封鎖実施のチャンスをうかがっている。そして第三に北朝鮮もまた依然として「核開発疑惑」を国際政治上、とりわけ米国とのかけひきの最大の材料として使用している事実である。
 韓国、そしてアメリカの意図は明白である。北朝鮮を北東アジアのイラクとして描き、金正日を北東アジアのフセインとし、イラクに対して国連が行った封鎖を実現しようとするものだ。キューバ封鎖と同じことを北東アジアでも行おうというのである。北朝鮮の孤立は韓国の勢力拡大である。
 韓国政府は北方外交の「成果」に続き、経済関係が強まっている中国との関係をも一歩進め、あわよくば北朝鮮の四方を包囲する狙いをもって動いている。韓国政府筋は表面的にはきわめて慎重、冷静な姿勢を口にしている。だが実際の行動は、金体制を包囲し弱体化させ、その崩壊を導くための布石を行うことにほかならない。
 北朝鮮が、実際に核兵器を開発しているかどうかは不明である。CIAなどの情報機関を除いてては、北朝鮮が核兵器製造段階に至ったという観測はほとんどない。だが、イラク・フセインへの執拗な「核とミサイル」の査察と解体圧力と同様に、北朝鮮が同じ文脈の圧力にさらされている理由もないわけではない。この体制の「鎖国」的状況が憶測に次ぐ憶測を招き、金親子政権が核非拡散条約からの脱退を外交上のカードとして使用するほどに、核疑惑は高められるのである。
 核問題をかけひきの材料に使うのはバカげているし、北朝鮮の孤立をさらに促進するマイナス材料しか生み出さない。まして核問題は、火遊びの対象としては危険そのものである。
 
(5) 
 
 日本の外交的基軸は、北朝鮮包囲網の一翼を担うことで確定している。だが、その外交基軸は日本的には内政問題に直結している。
 細川の姿勢に対して、連立政権内部から一切疑問や批判の声があがらず、さらにはポスト細川の政治的枠組みをめぐって基準的に押し出されたのが「半島有事への備えを強力に進めることのできる政権」というものである。社会党久保書記長は、突然の細川辞任に伴う後継問題に関し北朝鮮問題との関連を問われ、「朝鮮労働党との長年の友好関係、友党関係にある社会党が最もよく対話、説得できる」と述べた。だが、この言い方の相対的正しさにもかかわらず、連立政権推進派は限りなく韓国に接近し、細川内閣の基本路線を支持していた。
 日本の保守政治は、社会党的勢力を必要な限りは利用するが、政権の中心にすえることをいささかも考えていない。まして政策の基軸もまた北朝鮮の制裁であり、久保発言は保守勢力との連立を放棄するというのでないかぎり意味あるものとはならない。
 自衛隊や在日米軍の半島北部封鎖への出動を許容する「葵の紋章」は、国連決議となる。国連協力のために「必要あれば法の改正をして」と公言したのが悪名高い小沢の協力者、斉藤大蔵事務次官である。斉藤は、経済、財政の主管省庁の責任者として経済封鎖の大きなポイントとなる海外資産凍結、海外送金凍結を意識して発言したのである。
 経済制裁が現実となるとき、直接に問題となるのが北朝鮮が中国に依存する石油などの資源と、海外からの送金、すなわち朝鮮総連系の人々の問題である。細川や斉藤がいう経済封鎖への積極協力は、総連系の人々の送金を強制的に停止させることを絶対的に含まなければならない。
 細川は、国連安保理が決定すれば「憲法の枠組みで最大限の協力を行う」と言明した。これが意味するのは、あらゆる法的措置をぎりぎりまで駆使して経済封鎖を行うと同時に、現行憲法の枠組みを限りなく拡大解釈して適用することである。現行憲法の限りない拡大解釈論は黒幕小沢の持論であり、それはすべて「国連が決めれば」という立論に基づいた「理論」である。
 その理屈を要約すれば、国際関係は内政を越えた論理を求めており、憲法の制約を相対化するものなのだ、ということに他ならない。一連の北朝鮮問題が提出しているのは、むき出しの集団安保論と米日韓軍事同盟論、そして軍の海外派兵へと日本政治が動き出し始めたことである。これらに徹底的に対決する論理をもつことなしには、新たな政治的胎動が生まれないことは明らかである。
 
(6) 
 
 北朝鮮をイラク・フセイン化させる狙いをもって進められる米国の攻勢に対して、北東アジアの現実はどうか。北朝鮮の対応をどう考えるべきか。
 中国の江沢民主席が、米国訪問とクリントンの会談の後にキューバを訪問したことが象徴的である。キューバ・カストロ体制が政治的、経済的、軍事的な米国の封鎖、包囲のもとに呻吟している。米国はカストロ政権の転覆以外の道を用意していない。クリントンとの会談後にキューバを江沢民が訪問したことは、中国が米国の庭を横切ってその敵に手をさしのべたことを意味する。
 政治体制を維持しつつ、経済開放路線とそれに基づく西側との共存関係の強化が、中国共産党が国際関係の基軸として採用した路線である。その点から見て、米国の対キューバ政策は、中国にとっては絶対に同意できないものである。中国の北朝鮮への観点も同じであろう。金日成政権に対して、「火遊び」をやめ、巧妙に国際社会との折り合いを粘り強く追求することを期待しているのであろう。
 だが、鎖国と独裁、および意識的な「臨戦態勢」による体制維持の試みは、それ以前の問題である。それは経済の停滞を必然化し、その矛盾に対処するにあたって外敵に対処する論理による民衆抑圧と、さらなる一層の国際的孤立化以外のなにものも導かない。
 現在、北朝鮮と中国との関係が冷却しているとも報道されている。だが、中国の支持を失っては、米日韓が策動する国際封鎖の強行を打ち破ることはきわめて困難であろう。
 北朝鮮はまず、中国がさしのべている手と結ぶことから、鎖国主義から経済的、社会的開放、そして大胆な政治的自由化への路線的転換を始める必要があると考える。前述したように、北朝鮮の憤激には十二分すぎるほどの理由が成り立つ。だが同時にその理由を生かすためのも、大局的に広範な民衆的との連帯が北東アジアで形成されていくことが必要であろう。
 核査察妨害などの報告が、歪曲されたIAEAの故意のでっち上げであるとすれば、IAEAの査察活動を、国際的に公開されたものとして行わせればいい。 
(7) 
 
 日本民衆にとって、東アジアとの民衆的な共生のために必要な視点はなにか。
 まず第一に、軍事的な緊張関係の最大の原因である帝国主義の軍事同盟を解体し、米国の核配備の全面撤去、米軍の撤退を実現し、第七艦隊を本国へ帰国させること。第二に、北東アジアが相互に門戸を開放し経済的な共存関係を推進すること、軍事的緊張関係を解消していくことである。
 日本民衆は、まず最初に「半島有事の備え」などの詐術的たわごとではなく、真剣に率先して軍事的緊張の根源を除去することを求められている。一切はここから始まる。あるいはここからしか始まらない。
 米日韓の実質的な軍事同盟化は、日本が安保理常任理事国に、韓国が安保理非常任理事国なるという展望をも背景にしている。軍事的な側面なしに東アジアを代表する安保理常任理事国化が可能である状況はありえない。細川連立政権は、たった半年前に東アジア、太平洋地域の民衆に対する戦争への謝罪を口にした。それは歴代自民党政府と比較してはるかに好感をもって東アジア民衆に受けとめられた。だが、現実には米日韓の軍事同盟、軍事的(核)プレゼンスを前提とする安保理入りの実現に走り始めている。
 連立政権のもと日本は、プルトニウムの増殖を国策とする核増殖炉を稼動させ、巨大ミサイル技術の「成果」である国産ロケットの打ち上げを成功させた。日本政治は、まさに自らが「脅威の隣国」への道を歩んでいることを自覚しなければならないのである。
 細川連立政権の危機が叫ばれつつ、連立の組み合わせや新・新党などの権力抗争が加速した。この過程をつうじて総体的な保守化への傾斜が勢いを倍加した。その最大の現れが北朝鮮問題での米国への追随、それにとどまらない自己の「普通の帝国主義国家」路線への屈服である。
 細川政権が自ら倒れ、力ある政権論が横行する今、非自民連立の幻想も基盤も急速に失われよう。現実主義路線からの大胆な離脱を進め、保守化に正面から立ち向かう新たな勢力の登場こそが急がれなければならない。 (四月八日)

東京・立川市議選

 島田清作氏返り咲きをめざして挑戦 

 来る六月、東京の立川市議選が行われる。前回惜敗した島田清作さんが、返り咲きをめざした選挙準備活動に入った。
 島田さんは一九六〇年代の三多摩労協運動や青年運動の高揚を背景にして立川市議に当選して以降、無所属革新として連続して市議選を勝ち抜き、また立川反戦市民連合を組織して反戦、反基地を主軸にした活動を行ってきたが、前回選挙ではあと一歩票がのびず涙をのんだ。
 一時は議会活動からの撤退を決意した島田さんだが、地元支持者たちの強い意向を受け、昨年暮れに再度の挑戦に踏み切る決意をかためた。今年早々から職場をやめて選挙準備活動に入った。再挑戦にあたっては、選挙態勢の枠組みも刷新し、反戦市民連合を土台としつつも、より広い支持者層が活動の主体になることをめざした姿を追求している。
 選挙情勢はかなり厳しい。総人口が増えているにもかかわらず、行革のあおりを受けて議員定数が削減され、また昨今の新党ブームや政治再編を背景にした立候補者数が大幅に増えるとも予想されている。だが乱戦になればなるで、島田さんが二四年という長年の議会活動で培った根強い支持層と、骨太い政治信条に集まる信頼が効を奏してくるともいえる。
 昨年から今年にかけての三多摩では、政治的な波乱が相次いだ。日野市長選での革新市長の誕生に始まり、都議選府中選挙区での三宮候補の予測をはるかに越える善戦、東久留米市での現職革新市長の再選、同じく日野市議選、町田市議選での革新無所属候補の健闘などがそれである。
 三多摩革新構造の厚い土壌が、社会党の右傾化、保守路線への合流、さらには連合の全面的な介入による革新候補への敵対という一連の動きに対する社会党そのものの内部的あつれきや支持者の離反、独自化を支えるものとなった。
 昨年暮れには、こうした三多摩地域での新たな流動に対応し、横断的な連携をはかろうとする「三多摩フォーラム」が結成され、地域の構造によって、ともすれば各市町村に分断されがちであった三多摩革新の政治的求心化を回復する動きも活発になっている。
 今回の島田さんの再挑戦は、大きく揺れ動きはじめた三多摩政治を背景にしている。地元立川をはじめ三多摩各地の活動家が選挙準備活動の中心をにない、区部を含めた活動家の参加も始まっている。
 外側の支援の動きも、「島田清作さんを勝たせる三多摩・一票一揆の会」が三月に発足し、カンパ、賛同人募集、立川在住知人の紹介や具体的選挙活動への協力を呼びかけている。
 一票一揆の会の代表は、井上スズ(国立市議会議員)、内田雅俊(小平市、弁護士)、宮本なおみ(これからの市民の政治や政党を考える集い)、吉川勇一(保谷市、市民の意見30の会・東京)のみなさんである。
 長年にわたって基地の町立川で革新無所属の議会活動を続けてきた島田清作さんを議会に再度送り込むことは、一票一揆の会の呼びかけにもあるように大きな意義がある。
 会の呼びかけに応え、読者のみなさんの積極的な支援を要請する。

米問題入門書勝手流紹介 下

井上ひさし著「どうしてもコメの話」を中心に


高山 徹


「平成米騒動」

 最初に前号の訂正を。三冊の本、1「わが農業革命」2「コメを考える」3「ドキュメント日本の米づくり」を紹介したが、書名の位置が文書とは違っています。123の順序は312となります。
 二月末から三月中旬頃まで「平成米騒動」と呼ばれる事態になった。新聞やテレビ、ラジオでは連日、米を題材とする報道を行っていた。「米が店頭にない」なんて、つい最近までほとんどの人は考えたこともない。この騒動の原因がいろいろ取り沙汰されている(だが日本が米を完全自給できるようになったのは、つい最近といっていい一九六〇年のことだ)が、ここで明らかになったこと、明らかにならなかったことのいくつかをとりあげてみたい。
 第一は、米の国際市場の問題だ。これまでに紹介した本でも、また、これから紹介する本でも指摘されている点であるが、米の国際市場は年間取引量がおよそ一四〇〇万トン程度、そのうちの二〇〇万トンを緊急に輸入するというのだから、規模の小さな市場にとっては大問題だ。国際市場の側に、こうした大規模な緊急事態に対応する準備がなかったのは当然だ。そして日本の関係者にも、そうした準備は全くなかった。日本政府の、農水省のお役人がこの可能性を全く予測していなかったのも明白である。彼らの対応はことごとく後手に回った。
 第二は、国産米指向の強さだ。特に自分の体験として「外米」や「黄変米騒ぎ」を知っている人にとっては、深刻なようだ。日本政府が量は十分にあるのだからといくら宣伝しても、その内訳を明らかにせず、しかも販売方法を二転三転させるので消費者の防衛策は強まる一方だった。ついでながら、タイ米の味の悪さを主張する人が多いが、これはやめてほしいものだ。タイ米をおいしいと思い、日本米はまずいと思う人が世界各地にいるのだから。好きだ、嫌いだはあっても「おいしい、まずい」の問題ではない。米、ひいては主食の問題は文化に強く関係するのだから、他文化にどんな態度をとるのかという問題に直結している。
 第三は、明らかにされていない点である。おそらく意識的に報道されていないのではないかと考えるのだが、米の国際市場で価格が相当に高騰しているだろうに、これが全くといってよいほど報道されていない。自分さえよければ、という態度は不愉快だ。
 井上ひさしが後述の書でかなり強調しているが、米や農業問題に関して信頼できる報道は日本農業新聞(農協機関紙の側面あり)と日本共産党の赤旗だけというのも、なるほどとうなずける。前号と同様、敬称略で。

米問題を包括的に考える

■どうしてもコメの話□
 井上ひさし著
 新潮文庫(四四〇円)
  九三年十一月発行
■コメの話□
 井上ひさし著
 新潮文庫(四四〇円)
  九二年二月発行
  九三年十二月十一刷
 両書とも数年間にわたって書いたものや講座録を再録した書である。遅筆を自称し、実際にそのために演劇の初日にあなをあけた実績をもつ井上ひさしが、これほどの分量をあちこちに書いたという事実がまず不思議な気分である。米問題のためにはどんな犠牲も厭わない、という姿勢の現れなのであろう。
 まえがきは「これからの農業はどうあればいいのだろう、コメの自由化をどう考えたらいいのだろう。そう自問自答しながら書きためたものが、またしてもたくさんの数になってしまいました。いずれもこの二年間に書いたものです。
 農業についてのわたしの態度は……日本の地形や気象が水田稲作に嘘みたいによく向いているからそれを捨て去る手はないということ、地域資源を有効に活用することがこれからの日本の、というより世界の課題ではないかしらということ、そして水田や田園で生きる人々にも所得が保障されてしかるべきであること、この三つがこの論集の主調音になっているようです」という。
 講座としては、みずから校長を自称している遅筆堂文庫「生活者大学校農業講座」(山形県)での講演が岩波ブックレットに収録されたものを加筆の上に本書に収めている。この部分の見出し(文庫冒頭の文書)を「どうしてもコメの話」から抜き出すと、本書のおおよその内容が判明する。以下の文書は、それを補足したり、より詳細に展開する形になっている。
アメリカの言い分は何だろう(世界の農業の二つの型 アメリカはたいへんな農業保護国 コメを開放しても摩擦は解消しない)
世界の農業と食糧が危ない(減りはじめた穀物の収穫量 異常気象の影響 地下水が枯渇 穀物一トンに八トンの表土流出 人間の浅知恵 バイオテクノロジーの限界 アグリビジネスににぎられる技術 世界の人口と食糧 水田のすばらしさ あと継ぎがいない)
おコメのすばらしさ(栄養価の高いコメ パンを普及させたアメリカの宣伝 「日本の食事が理想的」)
いのちと大地をつくるコメ(コメの値段は乱高下 輸入食品は農薬だらけ 競争原理と地球 農業の教育力 次の世代へ、ましなものを)
 この二つの本(読むとすれば、相当に内容が似かよっているので新しい一冊で結構だろう)のすばらしさは、著者の発想が自由であること、あるいは人間と自然、文化、地球と食糧というように問題を根元のところでとらえようとする態度にある。たとえば、ガット協定について「地球規模でおこる環境汚染など全く視野にいれなかった時代の産物」だから改新される必要があるという。
 あるいは「それからの「吉里吉里国」」では、その原形となったラジオ放送の発想について次のように述べる。
 「それがどうだ、日本が復興した途端、中央が地方を厄介者扱いにするとは。「都合のいいときばかり地方を便利に使いおって。それなら地方は地方で独り立ちしようではないか」そう考えて分離独立の方法を研究……した。……以上の三条件が揃えば、日本国からの分離独立は可能なのである」
 著者は、中央と地方の対抗関係の中で地方のほうに立つだけでなく、国民国家という共同体に愛想尽かしをして何か別の共同体を模索していると思えてならない。それは、単に過去に存在した「地方」あるいは農村共同体ではないはずである。

水田と「自然」を考える

■日本の米□
 富山和子著
 中公新書(七二〇円)
 九三年十月初版
■水と緑と土□
 富山和子著
 中公新書(六八〇円)
 七四年一月初版
 九三年六月34版
 実は、これら一連の米問題に関する入門書を読みはじめたきっかけは、「日本の米」であった。本屋の棚に並んでいた同書をなにげなく手にとって読んで一種の衝撃を受けたからだ。
 著者は現在、立正大学短期大学部の環境社会学教授で、著書から判断すると水がその中でも専門分野のようだ。これが分かったのは本書読了後だ。前書きと後書き(奥付も)から読むのが普通だが、本書では、私にとっては突拍子もない世界だったので、本の順序のまま読んだわけである。「日本の米」の副題は「環境と文化はかく作られた」、「水と緑と土」の副題は「伝統を捨てた社会の行方」である。
 米問題(特に輸入自由化関係)だと思って購入した「日本の米」が、実は水田を中心とする日本の土地や川を扱った書であった。水田がつくられたものであるのは分かっていたにせよ、縄文時代が終わる頃から始まる営々とした土地つくりの歴史を教えられると、驚くほかはない。
 実際にどのようにして水田を中心とする土地がつくられてきたのか、これについては本書にあたっていただくほかはない。実例がたくさん挙げられているので、興味はつきない。そのいくつかをこれまでに見たことがある人もいるだろうし、ここに例として挙がっている場所の近くに住む人は実際に見学に行きたくなるに違いない。
著者の基本的な認識を示すのは、以下のような部分であろう。
「文明とは余剰生産物の結果であり、その量の増大が今日に至る人類の発展を保証してきたこと、けれども文明を確実に限定する余剰生産物の量は、土壌の生産力によって制約されているということについて、現代社会はあまりに無頓着であった」
「この視点に立って改めて日本列島の来し方を眺めるとき、稲作開始以来の国土の開発のありよう……日本中の川を作り変えた近世の大土木工事にせよ……「米の文化」として何と鮮やかに迫ってくる」
「この視点に立てばこそ、地球環境問題の深刻化した今、米に養われた日本文化を世界にどう位置づけ、評価しなければならないかも、おのずと見えてくる」
最後に、人間と自然の関係についての著者の基本的な考えの一端を紹介しておこう。
「日本列島とは……米作りを基盤にして築き上げた、土地と人との壮大なネットワークであった。そのシステムを通して、川も平野も作られ、緑の山々も育てられ、地下水も川の水も養われ、土から得たものは土に還元される、自己完結型土地利用が実現された」
「自然を守るとは人間が手をふれぬこと、との思い違いが蔓延しているのと軌を一にして、人間の労働とか技術への評価を忘れがちである」

米を歴史的、空間的にとらえる

■コメ食の民族誌□
 福田一郎
 山本英治共著
 中公新書(六八〇円)
  九三年二月
 これには「ネパール・雲南と日本」という副題がある。著者たちがネパールと雲南を実地調査(二〇年間でネパールへ十数回、雲南に数回)して、ネパール、雲南、日本を結ぶ「アジアのこの地域では、「コメ食」をめぐって、それを基盤に生活や文化が展開していることに、われわれは深い興味を感じ……そこにコメをめぐって、開拓し、育成し、普及し、料理をし、享受するといった対応の仕方が民族によってかなり異なり独自性をもっていることを知った」その結果が、本書である。
 今、大きな話題になっているインディカ米とジャポニカの違いやその歴史的な由来、中国で盛んに育種されているハイブリッド米、各地で実際にどのように米が食べられているのかなど、興味深いが話がたくさんある。
 その背景には、福田一郎が植物学者、山本英治が社会学者であり、二人の共同作業で本書がつくられた事実があるといえよう。
 ネパールの話である。米作りは高度二千メートルが限界でシェルパ族のすむ高地では栽培は不可能だが、著者たちがバザールを見学した折、インディカ米が山積みされていたという。その事情を次のようにみる。
 「いかなる人類でも、これまで日常化している伝統的な食事がもっとも好みにあうものである。とくにシェルパ族にとっては、ツァンパとギーを捨て去ることはできない。それにコメは貨幣でもって購入しなければならない。……自給できるオオムギやジャガイモなどの食生活パターンを続けるほうが賢明である。
 そうはいうもののコメへの憧れは潜在的にあり、また一度口にしたコメの味への欲求も生まれてきたことは否定しえない。潜在的なコメへの憧れとは……コメを食べることがよい生活をおくることである、という思いである」
 このように本書には、食物としての米に対して様々な自然条件の中でそれぞれの人々がどのような態度をとっているのか、どのように変化しようとしているのかが詳細に展開されており、興味は尽きない。

日本の農政を考える

■日本の農業□
 原剛著
 岩波新書(六二〇円)
 九四年二月第一刷
著者は現在、毎日新聞編集委員・論説委員であり、環境ジャーナリストの会会長や日本自然保護協会の理事を務めるなど、環境問題への関心が深いようである。
著者の問題意識は次の言葉に端的に現れている。
「日本人は農業を社会のどの部分に位置づけて理解し、食の安全を図るのか。
農業者は、消費者の求めを正面から受け止め、自立した営農を、自発的にどう展開しようとしているのか。
日本農業の“危機”とは、当事者である私たちが、この二つの根本的な問いに答えることを避け、実践を引き延ばしてきたところに根ざしている、と私には思える。そのことを考え始めるささやかな手がかり」が本書である、と。
本書の大きな特徴は、ノー政といわれる農業政策、農業にかかわる政治の分析に重点を置いているところにある。この点について本書のうたい文句は「コメの市場開放、食管制度の変貌、農薬・化学肥料による環境汚染……。担い手の高齢化が進み、戦後最悪の凶作にも見舞われた日本の農業に未来はあるのか。各地の農民の肉声を伝え、数多くのデータで農政の実態を明らかにし、若い世代が挑戦する新しい農業の可能性までに説き及ぶ」と。「農民の肉声」を伝えるというのだが、「ドキュメント日本の米づくり」ほどの迫力は期待しないでいただきたい。やはりジャーナリストの限界であろうか、どこかに第三者的に眺めているという雰囲気がある。これを別にして、本書は日本農政を考えていくうえでの入門書として適当だろうと思う。
  (三月二十五日)

インターナショナル・ビューポイント誌論説

カオスにひそむ強者の論理

 サラ・ジャーベル 一九九四年一月二十六日


どんな関係が

 この数カ月間に世界では、アメリカ議会での北米自由貿易協定(NAFTA)批准、ロシア議会選挙、ガットのウルグアイ・ラウンド交渉が一定の結論を得たこと、かつてのフランス植民地諸国で使われているフランの切下げといった大きな出来事があった。これらの出来事にはどんな関係、結びつきがあるのだろうか。
 これらの出来事の間の関連を求めるのは、ある地点での蝶の羽ばたきと別の遠隔地点での大気の乱れとの間に関係がある(バタフライ効果)と主張するカオス理論の新たな副産物だろうか。だが、この隠喩は、ロンドンやニューヨークの証券取引所での相場変動がはるかに離れた第三世界の農民の日常生活に直接影響を与えるという、地球規模の動的な社会経済システムとして認識されている古典的なイメージを想起させないであろうか。
 事実、様々な社会経済的な現象とその地球規模での政治的な結果との直接的な関係を明確にとらえることは、気象観測で小規模の事象間の関係を認識するよりもはるかに簡単である。先述した様々な世界的な出来事の間にある共通分母は、実に明確である。これらに責任あるものは、識別できないわけでない。
 この共通分母には名前がある。「自由貿易」がそれである。そして自由貿易の支配人とは、富裕な工業諸国、もっと正確にいうとこれら諸国の金持ちと従属諸国での彼らのパートナーである。激怒した貧しい人々――少数民族反乱を闘っているメキシコ・チアパスの人々や投票行為を通じてみずからの絶望を表現した人々など――は、地球を覆いつくした資本主義経済にほかならない、この動的なシステムに埋め込まれた無秩序とカオスに向かう傾向をより強めているにすぎない。
 このシステムの熟練した支配人であると自称するものどもは、みずからが見習い魔術師以外の何者でもないことを定期的に明らかにしている。彼らは、単に相対的だけでなく絶対的にも進む貧困化の傾向を強めるだけである。そして、この傾向は、日々地球規模でその存在を驚くべき壮大な形であらわにしている。
 実際、世界経済はおよそ二〇年前、長期の停滞局面に入ったのであり、惨めな境遇に置かれた人々の割合は絶えず増加し続けている。マイナスではないにしても、ほぼゼロ成長の時代にあっては、「最下層」の人民はかつては生存の手段であったパンくずを手に入れる権利さえをも、もはや持たない。この傾向を共産党宣言は「利己主義という冷たい水」と称したが、これによって金持ちは、餓死する貧しい人々が増えたり、あるいはすでに現実生活に苦悶の刻印を押しているバーバリズムに沈み込んでいくのを放置しているのである。

「自由貿易

 ポストスターリニスト諸国が「自由貿易圏」に入った事実は、上述の傾向をさらに強めた。旧ソ連地域や中国でさえ、経済自由化のショック療法は、社会的な不平等をもたらし、それは大部分の従属諸国での不平等よりもさらにひどいものである。
 また、二超大国の地球規模での対立が、開発途上国、少なくともそれら諸国の指導者にとって有利に働いていた事実は否定しようもなかった。超大国は彼らのきげんをとり、そしてみずからの陣営にしっかりとつなぎとめておくために、あるいは好意的な中立を保たせるためにさえ、贈物をした。これら諸国のうちで最少の国家でさえ、どちらもが勝利できない地球規模の対立の中で、戦略的に非常に重要な位置を獲得した。
 しかし現在では、現金と融資の意思が不足する富裕な諸国からの使いでのある融資が減少する一方で、スターリニスト国家制度が崩壊し、ロシアを初めとするそれら諸国の「第三世界化」が進行しているため、乏しくなった融資を求める国の数は相当に増大した。
 G5(アメリカ、日本、ドイツ、フランス、イギリス)は、もはや「共産主義の脅威」を恐れず、そのため困難な状況にある諸国への「贈物」を減らしている。そのうえ、贈物を与える場合の条件は厳しさを増し、援助はますます乏しくなり、被援助国は厳しくなる一方の融資条件という選別基準を強制されている。
 世界銀行が定義する低所得諸国、ことに政治的あるいは軍事的な戦略上の直接的な価値がない諸国は、全く完全に打ち捨てられた。ロシア革命以降とはまるっきり違って、純粋の経済計算が帝国主義諸国の対外経済政策を決定しており、融資は豊かな諸国あるいは発展の可能性をもつ諸国のみに与えられている。
 
バーバリズム

 先述した五つの出来事は、G7、国際通貨基金(IMF)、世界銀行といった、この数年間に前例のないほど猛烈な「構造改善」を貧しい国に強制してきた諸機関の採用している一連の計画に適合している。メキシコ社会の最も貧しい人々、とりわけ農村住民に対するNAFTAの破滅的な影響は、同協定が発効する以前からでさえ明白だった。チアパス住民の反乱は、まさに一月一日からのNAFTA発動に対する彼ら独自の「歓迎」だったのである。
 ガットをめぐる欧米間の交渉妥結は、最も貧しく、かつ最も人口が多い諸国の犠牲の上になされた。インドは、そうした犠牲を受けた国の一つである。フランスは、購買力の大幅な低下を意味する平価(CFAフラン)切下げを強制し、さらにまた、IMFと世界銀行の指令に従わせることによって、かつての保護国たるアフリカ諸国を完全に見捨てたのである。
 これでも「新しい世界秩序」がすばらしいのだろうか。
(インターナショナル・ビューポイント誌253号94年1月)

対外債務問題

人民の連帯


 シャルル・アンドレ・ウドリー

以下は、昨年末にベルギーで開かれた第三世界の対外債務をキャンセル(帳消し)するための委員会で報告された一連の文書を、インターナショナル・ビューポイント誌が同委員会の許可を得て掲載したものの一つである。報告者は、第四インターナショナルの支持者で、スイスの新聞レ・ブレッシェの編集者である(労働者の力編集部)

分極化した世界経済

 世界銀行(世銀)と国際通貨基金(IMF)とは、すべての疑いを超越する父、すなわちG3(欧州同盟、アメリカ、日本)をもち、そしてG7は良き家庭出身のその母である。
 これをいうことは大切である。というのは、IMFと世界銀行の方針を決定するのは、G3とG7諸国の支配階級であり、彼らが管理するシステム特有の経済論理だからである。
 第三世界の対外債務帳消しの根拠を探ったり、世銀の報告書あるいはIMFの第三世界諸国の購買力に関する最新の計算を検討するのに、その背後に存在する社会的な利害関係や経済のメカニズムを理解する必要はない。
 世銀とIMFが押し付ける「構造改善」が実際には何を意味しているのかを、しっかり知ることが重要である。その意味は、センターの要求に最も弱い諸国――それぞれが国ごとに違っているにせよ――を適応させることである。
 あるいはむしろ、複数のセンターの要求に適応させることといえようか。なぜならば、世界経済は今日、分極化がますます進行しているからである。一方には、特に日本、アメリカ、ドイツなどの先進国があり、周辺国から選別した諸国グループの分割をめぐって相互に競争をしている。他方には、第三世界があり、その内部の違いは相当に大きいが、全体として破滅的な状況に直面している。
 半工業国でさえも、解決への出口(一九世紀のヨーロッパにはアメリカへの移民という出口があった)のない農業危機の結果である大量の失業が存在する。現在の経済では、資本と商品は自由に移動するが、しかし労働者は自由な移動ができない。失業の規模があまりに大きいので、すべての部門で搾取は驚くべき水準に達している。
 国際労働機関(ILO)が最新の報告で、これほど多数の強制労働が世界に存在したことはかつてない、と述べたのは決して偶然ではない。われわれの関心を集めるのは、たとえばインドとパキスタンを例にとると、強制労働が増大している部門が輸出関連だという事実である。
 ドイツ誌デル・シュピーゲル最新号の表紙には、腕にレンガを抱えて運ぶ児童の写真が掲載されている。ILOによると、パキスタンでは二百万家族のその何人かがレンガ工業で奴隷労働を行っている。そしてパキスタンでは、二千万人が強制労働に従事させられており、七歳あるいは八歳から輸出工業で働く児童の数はますます増大している。この児童たちは、じゅうたん製作、繊維、木製品、玩具製造などで働いているという。同様の事態はインドでも発生しており、かつては男性労働者を追放した女性労働者が児童にとって代わられている。
 構造改善計画とは、まさにセンターの要求への適応である。台湾からインドに至るまで、資本は完全に全世界的に前例のない規模で自由に労働力を獲得している。資本と商品は世界を移動できるが、労働力はそうではない。労働力は、この特定の搾取形態のもとで世界経済に組み込まれているのである。
 
銀行家たち

 構造改善に関して、さらに二点を。
 第一は、スーザン・ジョージが銀行にとってはもはや対外債務問題が存在しないといった点に関して。確かに銀行は公然とはいわないが、元本が返却されないことにあまり注意を払わない。というのは、その場合でもマイナス分を十分に帳消しにできるからである。つまり帳簿に記載される純益が少なければ、それだけ税金が少なくなる。彼らの大きな関心は、融資に対して支払われる利子にある。彼らはこれを財務上の備えとしてとっておく。納税額を減らすことができるうえに、予算上の危機があり、社会の獲得物を減らすべきだと主張できる。
 換言すれば、債務危機といっても銀行は、それを利用して税制上の利益をあげ、みずからへの圧力をやわらげ、債務の重荷を自国の勤労人民全体に押し付けることができるのだ。
 第二は、ニューヨーク連邦準備制度理事会(FRB)発行の資料十二月号が「現れつつある市場」と題して、マレーシア、フィリピン、韓国、台湾、ブラジル、メキシコなどの証券取引所に関する長文の記事を掲載した事実に関連して。つまり、どこで実際に金が生まれているかに関する記事である。バンカー(フィナンシャル・タイムズ社の月刊誌)九月号も、全く同じ主題を扱った。
 富の再分配を基礎とするヨーロッパの社会保障制度は今日、元来アメリカとカナダで発展してきた個人年金基金の制度が拡大するにつれて崩れつつある。こうした基金は、フランス、スイス、イタリア、ドイツなどで計画が進められており、中でもスイスは最も進んでいる。一九九五年までには個人年金基金が四千八百七十億ドルに達すると予測されており、これはいずれなんらかの形で投資されることになる。だから社会保障制度の崩壊は、個人年金基金をいかに有利な投資に活用するのかという新たな問題を生み出したのである。

推論による結論

 これが第三世界が直面する状況である。そして推論の結果は、世銀やIMFによる構造改善計画が遂行されるなら、個人年金基金がそこに、たとえば国有企業の民営化が行われる部門へ投資されるということである。前述のバンカー誌は、アルゼンチンを例にとり、そこでは石油産業と電力部門で乗っ取り計画が準備完了の状態にあると伝えている。スイス企業がアルゼンチン電力事業の民営化を進めており、電力料金を支払わない、あるいは支払えないアルゼンチン人は電気を止められることになる。
 通常、国家は自国通貨の為替レートを安定させるのに必死となるが、アルゼンチンはアメリカドルに対する切上げを強制された。こうすれば、アルゼンチンへのスイスを初めとする外国からの投資が安上がりになり、利益が大きくなるからだ。
 IMFは、ブラジルに対して高金利を課した。これによって、短期市場操作を通じて現地の預金を吸い上げ、利益を本国に送金できるようになるからである。
 チリは、少なくとも一年を経過しない利益の本国送金を許可していないので、それを理由に不公正であると非難されている。外国の銀行は、三カ月経過した利益が送金できることを要求している。
 一方では、社会保障制度が破壊さている。他方では、構造改善計画が証券市場や資本市場での操作をやりやすくするための基盤となり、それによって大きくなった利益の本国送金を可能とするために利用されている。
 こうして対外債務は、巨大な富が南から北へ、そして東から北へ移転する過程の機構となっている。貿易が実質的には先進国間でなされているので、第三世界にとって貿易はあまり重要でないというのは、半分の真実でしかない。というのは、構造改善計画が富の移転において果たしている役割を無視しているからである。
 もちろん、これに対応しなければならない。ミッシェル・ウソンがいくつかの考えを提起しており、その一つ、つまり限定的な「自給自足」の概念を積極的にとりあげるべきである。ますます分極化する世界、ここでは地域的な結合関係の強化、複数中心をもつ国際化といった過程が進行しているが、これまでとは全く違う貿易の仕組みを検討することが絶対的に不可欠である。対外債務の帳消しだけでは、不十分である。
(インターナショナル・ビューポイント誌253号)