1994年9月10日         労働者の力                第59号

国際主義労働者全国協議会第六回総会議案から

 
 以下の文書は、国際主義労働者全国協議会第六回総会提出議案を加筆・修正したものである。議案そのものは当面の方針を含めて討論されたが、方針としての文章確認には至らず、その大半を討論文書として公表することになったものである。
 
 村山連立政権の成立と左派運動形成の課題

          川端康夫
 
はじめに
 
 細川連立政権誕生とともに自民党一党支配の構造が崩壊して以降、本格化した日本政治の再編をめぐる流動は、ついに村山社会党委員長を首班とする内閣を自・社・さ連立として成立させるに至った。
 五五年体制における与野党の二大勢力を形成してきた自・社の両党が突然に連立するという事態、それにとどまらず自民党の三分の一の衆議院議席しか持たない圧倒的な少数の社会党から首班が出るという事態は、それが明らかに政権獲得のための「政略的結合」であると印象づけたがゆえに、多くの民衆にとまどいを与え、かつ政治再編劇の渦中でうごめいた多くの政治評論家、マスコミを背景とした「政治のプロ」にとっては、描いた青写真に対するどんでんがえしであり、不快感すら与えるものだった。
 しかし他方、新政党ブームの中から公然と登場した「新保守主義」路線に危機意識を抱く側には、幾分かの「ほっとした」側面をもって、すなわち「よりましな政権」の印象を与えることともなった。確かに細川、羽田という二つの短命内閣を通じて表面化した小沢的な「新保守主義」への急傾斜が、「朝鮮半島有事」を直接に意識した軍事発動路線の鮮明な色彩、さらに朝鮮総連への公権力による大弾圧の徴候と重なって現れてきた事実を見れば、新保守主義政権的な政治に歯止めをかけるという村山内閣が自ら唱えた位置を軽視することはできないことだった。
 自民党が政権欲で行動したことは事実だ。が、社会党への連立に抵抗する部分が渡辺や中★根のように小沢新生党路線との親近感を公然と表明すると同時に行動においても別態度をとった部分と対立して河野が掲げた一種の「護憲路線」が「さきがけ」と呼応し、社会党左派との接点をつくったのである。連立を積極的に構成しようとしたそのいずれの部分にとっても、反小沢の緊急避難ではあったが、それを促すだけの根拠も明白に存在していた。
 以上のような過程は、村山政権評価に複雑な性格を付与するものとなった。とりわけ村山首相が社会党「固有の路線」の全面転換を表明し、いわば百八十度の変わり身を見せるにつれて、「よりましな政権論」は困惑し、はては「最悪政権論」まで飛び出す事態ともなった。社会党内部で村山首班、自社連立を推進した左派系も、つくった結果に困惑せざるをえない状況となった。
 だが、社会党の大勢は村山首班支持の枠組みから脱却する様相にはない。一つは政権党であることから利益を引き出そうとすること、二つは新生党小沢路線への対抗の貫徹、三つは党内における主導権争い等々の理由がつけられる。だが表面には出ないが最大の要因は、世界にまれな戦闘的な日本型社会民主主義政党というかつての立脚基盤が揺らいでしまった事実を暗黙に追認するという心理が働いていることにあるであろう。「非武装中立論」を過去の原理とする村山路線は、首班としての高みから旧来型社会党の終わりを宣言し、その陰に党の大勢が「不承不承」に踏み切る図式が築かれつつある。
 反小沢路線の緊急避難的性格を背景とした村山連立政権の成立は、「水と油」の関係にあった自・社両党の結合であった。反小沢を共通項にし、小沢との競合に勝たなければならず、それゆえ選挙管理内閣にとどまることは許されない。支持率の上昇を待ち、選挙協力態勢の整備を進めつつ、次期選挙への有利な態勢を築くことを目標とするに至った。議席において多数であることが「意外に長期」な政権の背景である。その存続は両党の妥協いかんにかかる。
 一方に「西側の一員」であり、アメリカの「強力な同盟者」であり、密接で協力的な経済的パートナーであるという「日本国家の性格」があり、他方に「弱者」や社会的不公正の是正に向き合い、非戦国家としてアジア民衆との位置関係を形成しようとする「日本国家の性格」が、どこまで調整できるかが問われる。
 いずれにせよ、日本における政治再編の新たな段階は「自社対決」段階とは違った位相を示すことになった。新たな小選挙区制度の実施が必至とみられる現段階において、政治の総保守化に歯止めをかけるような制度上の装置はない。多くの観測が共通に示す展望は、小選挙区において共産党の当選者はせいぜい一名程度であろうという恐るべき事態である。こうした選挙制度導入を受け入れてなされる社会党の路線転換は、もはや社会党の内部抗争や路線争い、左右両派のそれぞれのニュアンスなどが一定程度問題であった時期を明白に過去のものとしてしまう。
 社会党が保守政治に飲み込まれてしまうか、それとも何らかの地点で踏みとどまることができるのかを予測することはできないが、非・反帝国主義の政治を掲げるところから基軸が大きく動くことは間違いなく、アメリカ帝国主義主導の世界政治構造の承認を拒否する流れは、社会党の大勢とは別個の地平に築かれなければならないことになった。
 われわれにとっての問題の核心は、われわれが掲げてきた新たな労働者市民の結合する政党形成の命題がいかなる位置におかれることになったか、そして、その将来展望はどのようなものとして設定されるのか、ということである。
 
一、五五年体制からの「意外な」転換
 

 これまでの社会党の進路において、総評解体、連合成立が決定的なメルクマールとなった。重心は連合が主導する現実化路線に傾き、最終的に社会党の独自性の放棄と「政権政党」への溶融を是とする田辺(デモクラッツ)路線が多大な影響を持つものとなった。細川連立政権への参加と連立与党統一会派(旧)への動きは連合労組の全力をあげた社会党への介入に裏打ちされた。
 田辺・デモクラッツの路線体系は、それが持つ矛盾を越えようとすることから発している。すなわち「現実化路線」は社会党支持者から一般に不人気であり、選挙では勝てない路線あることが定着しつつあった。社会党支持者や周辺の気まぐれな革新支持層は、自民党の行き過ぎ、やりすぎへの抵抗政党、異議申し立て政党としての社会党の性格発露に触発されて「政治的に燃える」場合が多かったからである。その解決が、党の解散、新党への溶融という発想としてもたらされた。民社党と同様、社会党の単なる現実路線化が民衆にとって魅力のないものであることは明らかである。第二自民党、自民党亜流では存在の意味がない。
 ここに政権交代可能な二大政党論が登場し、それを制度的に保障する「選挙制度の改革論」が一つのキーワードとなった。
 小沢の新保守主義路線は、そもそも派閥間取り引きで政策的な行き詰まりを示すことが多くなった自民党政府体制の改編を日程に乗せることを前提とするものであった。中★根的な「戦後政治の総決算」路線は、同時に前川レポートが必要になった日米経済摩擦の激化を切り抜ける路線として総体として路線化しなければならないものとなっていた。輸出産業労資の「合意」は新保守主義路線に通じた。
 こうして五五年体制改編の動きは、一九八〇年代いっぱいを通じて成熟し、九〇年代の政治再編時代を準備した。
 その水路を通じて村山政権は「予想外」に成立したのである。
 
二、新たな政治の枠組みと過渡期政権
  
 想定される新たな政治的枠組みとは、大きくは国際的に規定される。いまだ流動的ではあれ、アメリカ帝国主義はその新世界秩序形成にあたって日本、ドイツが「強力な同盟国」であることを要求する。つまり、決してアメリカに対抗せず、アメリカの国益を尊重し、必要なときには必要な役割を果たす――そうした理想的な「同盟国」であることをアメリカは、経済的な大国となった日本とドイツに求める。小沢的新保守主義の路線とは、アメリカが求める「理想の同盟国」という、不可能を可能とするような役割を綱渡り的なものであれ実現しようとすることである。
 村山政権とともに全面化した社会党の転換は、国際政治的にはアメリカの描く「同盟国像」に寄り添い、経済的には多国籍企業労資の意向を尊重し、国内的には社会的不公正の是正や弱者救済に視線を向けるという、かなりの程度矛盾した性格を示しつつ進むことになる。
 桜井環境庁長官の「侵略戦争否定発言」による辞任を契機に、社会党は路線転換(食管法改廃を含む)を背景に、アリバイ工作的な側面を含めて対中国関係の安定、アジア民衆への対応などに踏み込む姿勢を示そうとしている。これは、新生党小沢路線との違いを印象づけるうえでも重要である。もしも諸関係が順調に進むのであれば、社会党は自衛隊の縮小や独自的なPKO部隊の創設、さらには戦後西ドイツを参考にした戦後補償問題への対応、水俣や被爆者援護法などの積極解決などに動く姿勢を示すであろう。
 とりわけ対中関係は、北朝鮮核開発問題と密接にからみ、同時に東アジアにおける政治的な安定構造を独自に模索する中国の思惑との関係で、村山政権にとって核心的な課題の一つとなっていく。
 対米関係が多国籍企業とその労組にとって焦眉の問題であることは変化せず、ここにこの政権(だけではないが)の最大の弱点が露呈されることになるが、対アジア、対中問題、自衛隊やPKO部隊などへの対応は、社会党支持層を連立につなぎとめるうえで重要である。それにとどまらず、村山政権の姿を通じて政権復帰を果たした自民党が村山政権に対する民衆的支持(さほどの力はないが)の中心にはいないがゆえに、自民党は社会党的色彩、あるいはさきがけ的色彩に配慮し、譲歩しなければならない客観的位置にはいる。
 こうした社会党の対応への期待感がどの程度まで持続し、かつ力を持つかは、それゆえ自民党の対応能力に比重がかかる。桜井発言や靖国神社への閣僚公式参拝、被爆者援護法や戦後補償問題、水俣などは、官僚機構を統御しうる政権の力が必要であり、自民党が旧来路線に固執するのであれば一歩も進まない。だが、丸ごとの自民党の対応能力にも限度がある以上、この政権は内部分解を深めるか、あるいは自民党路線に飲み込まれ支持層を失うことになるかの矛盾を不断にはらむことになる。
 村山政権が延命する可能性が三党、特に自民・社会関係が一定程度調整される度合いにかかる以上、政府として従来の政策の劇的な転換を図るまでの力があるわけではない。結局、この政権の延命はきわめて技術的なことにかかることになる。
 技術的という点では、新選挙制度の影響が最大である。小選挙区制度は秋の臨時国会で区割り法案が成立し、周知期間を入れて来年一月以降は新制度での選挙が可能になる。村山政権は総選挙を再来年と想定するが、時間を稼いでも三党間の候補者調整が進む保障はない。自・社両党が調整できずに新制度での総選挙に臨むことになれば、社会党の大幅後退は確実と思われ、これはまさに党としての自殺行為であるから、ここでもまた自民党の側の調整、つまり譲歩にかかる度合いが高くなる。
 自民党がどこまで調整に対応できるは大きな疑問だ。三百議席すべてに候補を擁立することが建て前であり、かつ公認から漏れる部分が新生党などの旧連立側に道を求めるであろうし、社会党からも議席保障によって旧連立に移行する部分がかなり出ることになる。
 新・新党を指向する旧連立側にとっても来年の統一地方選挙や参院選挙での対応が定まっているわけではない。公明党は先般、統一地方選挙を公明党単独選挙で闘うと表明した。そこでは新・新党は国政レベルに限定と明言されている。この定式化がどのような意味をもつのか即断はできないが、少なくとも二大政党化にむけて一直線というためには越えるべき障害が相当にあるということはいえる。
 自・社・さ連立は当然にも統一地方選挙で協同する態勢にはなく、参院選挙での候補者調整の可能性が言及されているだけである。
 政治再編は、自民党という単独政権党の枠組みが公然と壊れるまでいくか、あるいは自民党が諸要素を包摂する巨大政党化するか、そのいずれかがないと終着点が見えてこないであろう。当面ありそうなことは前者である。
 自民党に収れんされてきた保守政治が様々にほころび、民衆的支持が集中する状況にはない。民衆サイドも流動の中にある。
 だが、基軸が移りつつある。総保守化、あるいはアメリカの覇権の承認のうえでの日本国家というものへと政治の軸心が移行し、そうした枠組みで政界再編への流動が持続するのである。
 
三、分解する五五年型革新
 
 和田春樹教授の「転身」が話題になったが、戦後革新の系列をひく多くのオピニオンリーダーたちは、相当程度にリベラル路線に移行しつつある。吉本隆明的にまではいかないまでも、「社会主義の敗北」からこれらの人々が引き出したものは、「リベラル的な普通の(帝国主義)国家」像の肯定であるようにみえる。もちろん、「平和基本法」など、軍縮・自衛隊縮小などの主張も一部にされるが、PKO法が問題となった二年前に比べれば、主張の基軸、視点が大きく移行したことは否定できない。
 この変動は、戦後史における三度目の大変動となる可能性を持っている。一度目は戦後革命時における社会主義革命の展望と結びついた価値体系、二度目は五五年体制を特徴づける第三勢力論的な中立論。
 現在の変動は、資本主義国家の枠組みにおける抵抗、異議申し立てという五五年体制型革新が、「国家」という基軸的位相において解体しつつあること、帝国主義国家を正面から認めるレベルへと移りつつあることである。ここでの対立軸をあえて探ろうとすれば、「小沢的か武村的か」の対立軸になる。そうした意味で語られる二極イコール保守二大政党、三極イコール保守二大政党プラス社会民主主義政党論である。今のところ、保革の二大政党論は存在していない。
 かつて土井社会党が「躍進」した時の原動力は、やはり主要に抵抗、異議申し立て政党の役割が評価されたことであった。国際貢献論や国連中心主義に襲われたとき、そうした性格の弱点の一端が露呈した。「何もしないでいいのか。無責任国家論」などの批判が集中し、院内におけるPKO法断固反対の闘いも、連合が背を向ける中で一定程度土台が崩されつつあることを露呈した。
 だが土井社会党の浮揚には、自民党政治が進むと予感された新たな国際的に要求される政治の枠組みに対するオルタナティブ(対抗案)の必要性を感じる多方面の、様々な人々の運動が含まれていたのである。
 土井社会党的な広がりは、今は三つの大きな流れに分かれていると見ることができる。
 一つはリベラルへの転進。二つは政権党への接近を通じて改良の余地を拡大する「よりまし論」的な動き。三つは、様々なオルタナティブ体系の模索を通じた新たな価値体系への接近。それにもちろん、四番目として態度を決めかねている人々。
 村山政権内部における自・社の力関係が、最後的に五五年型革新の分化のすう勢を決めるであろう。「何もしない」のではなく、「何かをする」という点で新保守主義が先行した。そして自衛隊合憲論に立つ村山政権は自衛隊を使用して国際貢献をする路線に踏み込む。ウガンダへの自衛隊派遣はもはや自衛隊とは別個の組織による国際貢献という主張を「たわごと」化することにつながる可能性が大きい。
 「何かをする」という点において分岐が形成される。「非武装中立」論も、東西対立期においては、積極的で明確な行動指針であった。だが、それは資本主義国家日本との関係ではあいまいだった。
 今後、五五年型革新の分岐において、左的に意味をもつのはオルタナティブ派ということになる。この勢力は、おそらくは既存の政治的、運動的な様々な構造を利用するという点では、相当のハンディを背負わざるをえないことになる。現在の分岐が、既存構造の(大)分裂というふうには発展しないものと思われる。もしそうなるのであれば、すでに徴候は明らかでなければならない。村山政権がシナリオとしては予想外の産物であり、従来の左右対立とは位相を違えて出現したことが事態の変化を導いた。
 
四、労働戦線、諸運動の分岐
 
 連合主流の意向に反した村山政権の成立によって、連合に政治的亀裂が入った。輸出型産業の労働組合と内需型産業の労働組合との対立の構図をとって、各労組の村山政権との距離感が示されている。明確に新保守主義とのブロックを追い求めた勢力と村山政権支持を打ち出した旧総評系労組の大勢との融和を図る山岸連合会長は、社民リベラル論での修復をねらっている。だが、両勢力の亀裂は依然修復される様相にはない。
 連合の路線的展望は大きくずれることになった。社会党内部での左派の一方的な排除という単純明快な立論の土台が崩れたのである。左派は表舞台に登場する機会を得た。もちろん、基本路線の歴史的転換を容認するということの見返りである。岩垂社会党再生ネット代表がウガンダへの自衛隊派遣のイニシアティブをとったことがこれを象徴する。
 労働戦線の現場においても影響は少なくない。国労の対応はよりストレートに村山政権との距離を縮める方向で設定されていく。そこで設定されている「争議の政治解決」の展望は当然、国労側に相当程度の犠牲を背負わせるという前提で進むことになる。それが可能かどうかは、国労争議団や国労左派の対応とともに、多分に連合の内需型産業関係労組との政治的修復の進行度合いにかかることになる。社会党支持労組会議との関係修復であり、したがってJR内部での労労対立構造の転換を促す可能性をも含む。さらに自治労や日教組の社会党党員協における左右分裂へのベクトルも弱くなるとみられる。
 これらが、連合―全労協―全労連という図式の変化をすぐに導くものとはいえないにしても、連合が構造的に安定した、とまではいえない状況が始まったことは事実である。
 全労協にとっての問題も直接的になりかねない。独立派労組は別として、国労や都労連という二大中心組織が社会党支持労組会議との接点を持ち続け、かつ国労が村山政権支持の方向性を明確にしているのである。国労が、旧総評左派から連立政権支持派左派に軸心を移していくと仮定した場合、独立系労組は自力での全国運動展開の長期戦を準備しなければならなくなる。
 大衆運動の分岐も複雑なものとなろう。先行例としての部落解放運動の場合、上田派は旧連立小沢路線との接近に務め、小森前書記長の排除を強行した。生活クラブ生協も社民連的ルートを通じて旧連立の枠組みへの参画を指向した。その構造が崩れたのである。
 だが、大衆運動における「急進主義的傾向」の衰退という一般傾向が、連立政権時代において行政との接点の確保という流れを加速させることになっていることは変わらず、行政や政権への接近指向の深まりの傾向に変化はないであろう。反原発戦線においても行政との接点を求める動きが拡大し、障害者運動においても同様の動きがある。
 ここでも問題は、急進主義に依拠せずに、行政との結合に埋没することを拒否する流れの内容的な再構築と相互の再結合とが問われることになる。
 社会党の一連の政策体系の転換は、多くの分野での混乱を導く。とりわけ反原発戦線や反基地戦線などでは、亀裂は深いものとなる。だが、社会党路線からの離反が主軸になるとも言い切れない。
 労働戦線と同様、大衆運動戦線の再編成の課題は、相当に深い検討を要する課題となった。
 
五、オルタナティブ運動とマルクス主義
 
 国際通貨基金(IMF)や世界銀行(WB)が体現する帝国主義の世界支配構造を批判する運動が国際的に拡大する傾向にある。環境保護運動などの広がりも、時期的な強弱を示しつつも定着した。現在の「資本主義批判、帝国主義批判」の一端の表現である。
 こうした動きが帝国主義のパワーポリティックスと正面から対抗するものとなっているとはいえないし、現代国家の枠組みを突き破る運動として強力に展開しうるかも、もちろん疑問がつきまとう。だが、価値体系の転換という性格において、これらの運動や思考が持つ位置は大きい。
 他方、「国家の廃絶」という透徹した命題に至る体系的強さを背景として生まれた(二十世紀の)マルクス主義運動が中途でねじ曲がり、その結果、歴史的打撃を受けてしまった現在、正面からの世界的な権力闘争という旧来の図式が直接の展望を持たなくなったことも事実である。
 マルクス主義の革命論が歴史的意義を持たなくなったか否かについては依然留保が必要であるが、同時に権力闘争主義への集中が、社会構造や世界経済関係などのありようについての検討の深化を少なからず阻害し、相当程度に「力学主義」に傾斜してきた事実を否定することはできない。「力学主義」への過度の傾斜は、その前提である権力闘争論が行き詰まったとき、後には何も残さないことを露呈した。エコロジストやフェミニストが提起した諸問題は、マルクス主義左翼の陥った落とし穴をえぐり出すものとなったのである。
 マルクス主義の再生には、再度のルネッサンスが必要である。十九世紀後半期から二十世紀初頭の左翼の論争の沸騰は、それに先行するパリコンミューンの敗北とドイツの社会主義弾圧法の暗い時期を耐える中から生まれた。
 マルクス主義は改めて非マルクス主義の運動、実践との協同を通じて資本主義、帝国主義批判とそれを越える新たな社会像、世界像の構築の作業を進めることを要求されている。
 帝国主義のヘゲモニーのもと、世界は安定化の願望からほど遠い状態にある。「北」による「南」の収奪の構造は一貫し、貧困は「南」に蓄積する。諸民族が自己の利害を主張し、諸民族を調和するシステムの展望は問題にもされない。この混とんの制御に関して、さらなる軍事力による統制が強化され、そして世界は少数の「北」による多数の「南」の隷属的関係の強要という構図に突き進んでいるようにもみえる。
 この矛盾はいずれ統御不可能なものへと成長していくものとなり、「世界構造の組み替え」が必要となることは明らかだ。予測されるこうした時代に備えるためにマルクス主義は、非マルクス主義運動が蓄積してきている諸成果との積極的な結合を媒介にして自己革新を進める必要がある。以前の時期、マルクス主義派はこうした運動が必然的にマルクス主義運動に収れんするものと理解し、主張し、そして強要した。マルクス主義の哲学体系が、「強要」するように切り詰められたのである。それを繰り返してはならない。
 
六、われわれの課題
 
 第四インターナショナル日本支部再建以降の基調は、ほぼ党、党派としての運動構造への参加、党派形成への収れんとした構図でできあがってきていた。日本支部イコール前衛党論が底流にあり、同時に独立諸左派との協同を媒介とした労働運動の左派的な労働運動展開を主要な活動分野として設定し推進した。
 後者はしかし全国的に定着するまでに拡大する以前に組織の分解に直面し、各地域組織は党派的求心力を失うとともに分散化した。地域的、分野的な運動と共存し協同するところまで成熟していなかった。あるいは持続する力に欠けた。つまり党派運動的な組織構造が、全国的な組織的後退の打撃をまともにに受けたのである。
 組織後退が劇的に進んだ根拠は、女性差別問題を通じた旧日本支部の中央集権性を支えた思想的、イデオロギー的体系が直面した破たんにあった。中央主導の全国闘争とそれを媒介にした「党派形成収れん型運動」は、いわば新左翼主義運動の典型的なパターンを踏襲するものであったが、同時にそれは中央集権的思考と機構とをはぐくみ、大衆運動には「党派利用主義」的側面を持つことにもなった。つまり、諸運動に対して「党派形成」を媒介にして関与する視点が押し出され、運動の利害を優先する観点がぼやけていた。
 われわれは、分散と分裂を通じて「転換」を進めた。第一にフェミニズム(そしてエコロジー)をマルクス主義体系と無縁な排斥すべき論理体系とする思考からの転換。第二に、「いつの日にかの前衛党」論からの脱却と、「左派協同党」的思考への転換。これらは第四インターナショナルが進めつつある基本方向とも合致するものであると確信できる。
 だが、われわれ自身、新たな転換の地平で新たな成果、前進を具体的に手中にしているとまではいえない。全国的な組織的分散化に歯止めがかからず、全国的に活動家の日常生活への「埋没」からの脱却を積極的に促すまでの力量を示しているともいえない。率直にいえば、われわれは現状維持状態のままにある。市民運動、大衆運動の一翼として、オルタナティブ運動の力ある形成、発展をともにすることを通じて思想的、実践的な深化と変革、そしてそれらの結合体としての自己形成を進める必要がさらにある。
 日本におけるオルタナティブ運動(それは当然国際的な広がりの中の一部となる)の形成、およびそれを媒介とする新たな政治潮流、政党が具体的な姿をとることは、中長期的な課題であると判断される。事実上、社会党・総評運動時代にかわる新たなものの創造であり、作業は一から始めるという覚悟を必要とするのである。
 急進主義的運動の時代を経て、諸運動のサイクルは「連立時代」の影響を色濃く受けている。左派的、独立的な運動構造を独自に準備する段階に突入するためには、連立時代への一定程度の「さめ」の形成に必要な時間と、主体的には広範な準備作業が必要であろう。意識的な作業なしには時間を短縮することが難しいの当然であり、そのためにこそわれわれの活動の拡大飛躍と、独立左派、市民派との重層的な協同作業が前提となる。
 村山政権の成立によって、おそらくは小選挙区体制のもとでの政党再編の区切りがつくまで既成勢力からの離脱と市民勢力の協同の努力を「公選法上の政党」、もしくは「選挙ブロック」形成などの幅で実現をめざす活動を展開することになろう。この活動は、不断に民衆的レベルに独自的な政治結集を呼びかける必要な装置としての活動である。農民連合や地方議員活動の中でのローカルパーティー活動などの動きがあり、また社会党サイドでの離反の動きも一定の規模で続いている。
 労働戦線やその他の急進的大衆運動、諸戦線という固有のサイクルを持つ構造とは総体的に独自に、諸レベルの選挙への対応を中心にしつつ、相互交流と相互浸透を進めることから具体的活動が始まる。
 
七、当面の課題と方針
     (略)

社会党大会 路線転換を承認
新たな政治勢力への決意を新たにしよう

 
 社会党は九月三日(土)、社会文化会館において臨時党大会(代議員総数四〇五人)を開催した。激論の末、投票総数三八三、二二二対一五二(無効・白票九)で村山首相(委員長)の路線転換を承認した。安保・自衛隊、「日の丸・君が代」問題での政策転換が強行された。しかし政策的な転換が党の綱領的枠組みとして定式化されるものではなく、反対派が投票数の三分の一を越えたことから、村山執行部は大会出席者の三分の二以上の支持が必要な綱領改編へ自由なパスポートを得たとまではいかなかった。
 地方代議員からは路線転換に対する反発が強く出された。前日一ツ橋の教育会館に一千名を結集した護憲ネットが大会会場前に詰めかけ、転換反対の激しい行動を行う一方、代議員団の中では、千葉、沖縄、福島、広島など路線転換反対の意見が強く出された。
 そして福岡、北海道、新潟など三〇道県の有志代議員団が修正案での決着を求めた。修正案は、党固有の政策と分離された「村山政権下における政策展開」として村山路線を位置づけつつ、「自衛隊は憲法の枠内」の原案からの削除、「日米安保条約堅持」から維持への変更、「わが国には『日の丸』を国旗、『君が代』を国歌とする法律はない」の挿入、「原発の更新」の否定という内容であった。「党の政策と政権の政策が一致しなくていい」(千葉県本部代議員)という立場に立ちつつ、基本政策で一定の歯止めをかける方針であった。
 この満場一致を求める立場を久保(書記長)派が突っぱねた。いわく「首相と党委員長で政策使い分けはできない」「法に基づく自衛隊を憲法違反と認定してはすぐ解体するしかない」など。
 久保派(デモクラッツ)が強行突破した形だが、代議員数では多数(三〇道県で二六三人)の左派・中間派連合が大きく分解した結果である。山口鶴男らの村山支持中間派が執行部案支持にまわったと思われる。人事では副委員長を争った右派推薦の上原康助(一八二)、伊藤茂(一八〇)両候補が相争ったが、双方ともに中間派といってよく、中間派の一部を引きつける作戦に出た右派がうまく立ち回ったことになる。
 左派は修正案提出の基調において「政権離脱論」には立てなかった。これは村山政権成立の過程からして必然だったといえるが、村山政権支持という土俵を同じくしつつ、党路線と政府の路線を使い分けるという、いわば歴代の自民党政府と同様の立場で切り抜け可能と主張した。これは青票議員の有力筋が、村山首班の路線が提示された当初から主張していたことであるが、左派の力、迫力が一歩欠けることであり、その分だけ久保派の強行突破路線が通用することになった。左派が党からの離脱に傾斜したり、右派の追放を検討することがなかった以上、満場一致論の迫力が欠け、足下を見られることもやむをえないことであった。
 両院議員総会で争われた国対委員長も右派の森井忠良がとり、デモクラッツの「空き巣ねらい」路線は成功した結果となった。「空き巣ねらい」とは、左派の中軸が村山政権成立の論功行賞によって入閣したあとの隙間をデモクラッツがとる作戦に出たことをいう。
 社会党臨時大会は、村山政権支持・存続という大前提のもとで政策転換を決定した。綱領問題が残されたとはいえ、政治方向の大勢は決したといえる。だが同時に、自・社連立維持、反小沢の勢力「村山政権を支え、社民リベラル政治をすすめる会」とデモクラッツらの勢力との二極構造のもとにあることは変わらず、対立の基本図式は持続している。左派の大勢は、村山内閣の政策方向や綱領問題、そして対右派抗争をにらんだ形で党内に残るものと思われる。
 和田静夫前副委員長や外口玉子前議員らが大会を期に離党を表明した。また右派からは渋沢利久元副委員長が離党した。渋沢前議員は新・新党参加の方向である。和田前副委員長は上田前議員の新党「あかつき」参加の意向とみられる。外口前議員は市民運動と同調する方向と伝えられる。他にも離脱者が続くと思われる。また、護憲リベラル(田、国弘、いとう議員ら)は「護憲派政治勢力の結集」を呼びかけ、社会党の路線転換とは一線を画することを声明した。
 村山内閣のもと今後とも現実路線化への流れは加速することになる。国連安保理常任理事国への立候補問題が国際的に急速に盛り上がったことが一例である。流れはますます急になり、同時に社会党の政策体系も地滑り的に移行することになるであろう。
 良心的党員にとって、新たな政治勢力形成への決意の秋であるといわなければならない。
 (川端康夫)
ロシア政治情勢

             ペレストロイカ後の左翼

                    ポール・フンダー・ラーセン、ダビッド・マンデル

 ペレストロイカ時代とその後のロシア左翼に関する基礎的な知識は、ロシアの現状を知るために不可欠である。ロシア左翼が国家に与えた影響は小さかったが、彼らの発展とその政治内容の変化は非常に大きく、かつ複雑である。インターナショナル・ビューポイント誌の二人の特派員は、先の報告に続いて大衆的な基盤を獲得しつつある民主左翼にとっての課題を分析している。

はじめに

 ペレストロイカ時代とそれ以降に登場した様々な左翼組織・グループと労働運動それぞれが完全に別個の道を通じて展開してきたというのは、正しくないであろう。事実、これまでの間、左翼組織の側からの労働運動との結合を強めようとする様々な努力がなされてきた。一九八九年の炭鉱労働者のストライキ以降、そうした努力が実を結び一時的ではあったが成功を収めた。ことに一九九〇年五月の労働連合結成にあたっては、左翼からする一定の影響が認められた。しかし連合自体は成功することはなかった。
 それ以降、少数の地域的な労働者を対象にした政治結集の試み(たとえばラボーチイのようなボルガやウラル地方での労働者クラブ的な社会主義者の結集)社会主義知識人のいくつかのグループ(モスクワを中心にしたKAS―KOR労働運動ブレティンや労働運動支援委員会など)を別にして、ほとんどの左翼組織は労働者との結合を組織的に強めようとする動きを徐々に放棄していった。
 われわれ二人は先の報告「後退する運動」の中で、労働者の政治的な態度と「非政治的な」労働組織に焦点をあてて、左翼の孤立現象を分析しようとした。ここでは、左翼それ自身の問題を分析する。

一九九一年八月以前――「非公認」左翼の時代

 問題を明らかにするために「非公認」左翼の初期の発展期、つまりソ連共産党内(CPSU)の左翼の時期に戻って分析を開始する。これらの潮流は、その政治力学と組織的な意味でも相互に大いに影響しあった。というのは、CPSUとその青年組織であったコムソモールの組織構造が、政治的かつ物質的にもこれら「非公認」左翼の多くに暗黙の支援を与えたからである。これらの潮流のメンバーは多くの場合、CPSUとコムソモールから補充された。だがそれでも一九九一年までは、「非公認」左翼と公式組織との直接の協力関係は非常に限られたものであった。「非公認」左翼は公式組織の干渉とその結果として信頼を失うことを恐れ、公式組織は潜在的な競争者に力を与えることを心配したからである。
 「非公認」左翼の多くは、その源が前ペレストロイカ時代、つまり体制に対する不満が知識人世界で拡大した時代にある。一九八六年から一九八七年にかけてペレストロイカが公式の政治議題になるまでに、これら小グループの多くは、数年間にわたって議論をしてきており、サミズダート(地下出版物)を回覧していた。しかしいくつかの明白な理由によって彼らの政治介入と運動の実践経験はほぼ存在しないのに等しかった。政治的な自由化によって公然たる政治闘争が可能になったとき、この経験不足が大きく作用した。特に党機構の抜け目のない戦術に優れた官僚と競争となったときに、その限界がはっきり現れた(当時の「非公認」社会主義クラブのメンバーの平均年齢は二十五歳以下であった)。
 その当時登場した数多くのクラブや潮流は、限界があったとはいえ真正の反官僚運動の表れであり、そのため基本的な社会的、政治的な課題が課せられた。それまでは、官僚支配の正統性に限られていたり、あるいは公式の政治議題になららない問題に限定されていたのであるが。
 一九八七年八月の社会主義クラブ連合の結成は、非公認民主社会主義者にとって一つの大きな突破口となった。その主役の一つはモスクワ社会主義イニシアティブクラブであり、その指導者にボリス・カガルリツキーやグレブ・パブロブスキーなどがいた。カガルリツキーは一九八二年に「社会主義青年」の指導者であることを理由に逮捕されており、後者はサミズダートの編集者であった。社会主義クラブ連合の公式の設立目的は「ペレストロイカ左翼の確立」であり、この文句は明白に当局の恐れを鎮めようとする意図のものであったが、しかしある程度「最初の波」の時代の多くの非公認政治活動家の政治的な態度を反映してもいた。
 連合の結成宣言は慎重に言葉を選んで、真正面からの衝突を回避しようとしていたが、それでもこれ以降の左翼に関する中心的な二つの関心を表明していた。すなわち民主的権利のための闘いと経済関係を規制するものとしての市場メカニズムの導入についてである。
 だが社会主義クラブ連合が、それ自身の組織的な意欲と左翼に対するある程度の社会的な認知を獲得したという両面で一歩前進だとしても、政治情勢が極めて急速に発展し、政治勢力の再編が急速に進行する時代にあっては、そのイデオロギー的かつ組織的な無定形さはいかんともしがたかった。一年ももたずに政治的に存在しなくなった。
 「民主派運動」が勢いを増すにつれ、民主的な路線を表明した不均質なグループや組織を結合した人民戦線がつくられた。最初は分派意識が強くない地方都市で、そして最終的には一九八八年春にモスクワで。そこでは社会主義者が重要な指導的役割を果たした。
 これらの様々な人民戦線はそれぞれ、広範な民主的、社会的、あるいは環境保護の計画をもっており、重要な活動家層を結集していた。しかしながら彼らは自らの組織体を急進ペレストロイカを擁護するものに転換できなかった。その結果、ゴルバチョフの経済改革の背景に反して、公式のペレストロイカが最終段階に入り、一連の新たな路線、主としてリベラル派の路線が政治議論を支配するようになったとき、彼らの基盤は消滅してしまった。
 人民戦線の経験は地域ごとに違っていたが、この時期にその内部で活動していた左翼が直面した問題に関していくつかの普遍的な結論を導き出せる。この運動に関係していた勢力は非常に不均質であり、時には相互に対立するような側面さえあった。だから明確な政治綱領やイデオロギーらしきものさえ形成できなかったのである。このために彼らは「最少公分母」的な存在となり、実践的には党機構内部の最も進歩的な勢力から譲歩を引き出すのを目的とすることを意味した。モスクワ人民戦線の最も著名な指導者、カガルリツキーが「われわれは現実主義であり、不可能な要求はしない。急進的な要求を提出するが、実現不可能な要求は出さない」と述べているように。それでも運動は一定の急進化を果たし、政治課題の設定である程度の成功を収めた。特に個別課題の運動、たとえば環境保護やソ連の歴史の扱いなどに関してである。

支離滅裂

 人民戦線の政治的な支離滅裂さもまた、これが持続的な組織構造をつくれなかった理由の一つである。加えてソ連の歴史においてという意味で運動参加者の活動水準が高ったにもかかわらず、指導部に対する効果的なコントロールは決して存在しなかった。その結果、リベラリズムに向かっての政治的、イデオロギー的な風が吹き始めたとき、非公認左翼の多くの指導者は、リベラル勢力に同調していったのである。そして、この勢力が国家機構を支配するようになり、それとともに人民戦線の一部が吸収されていった。
 情勢の急速な進展、人民戦線内部の絶え間ない闘争、組織的な流動といった事情のために、左翼が政治活動を展開する空間が狭められ、社会主義潮流が自らをうまく組織する時間あるいはエネルギーを与えなかった。たとえばアナルコ・サンディカリスト連合は千人の活動家を、新社会主義組織は数百人の活動家をそれぞれ有していたが、人民戦線が崩壊したとき、両者ともにリベラルに対抗できる勢力とはなれなかったのである。両者とも、明確な組織構造をもたず、また定期的な出版物ももたなかった。
 登場しようとしている新たな労働者組織と結合しようとしたのだが、非公認運動は基本的に主要都市の学生と知識人のものにとどまってしまった。一九八九年の炭鉱労働者のスト後につくられた結合関係も早々と消滅し、「社会主義的労働組合協議会」を結成して非公認左翼運動に労働者階級的な性格を付与しようとしたのだが、この協議会は左翼を追い出し、その指導部自身はリベラル勢力に同調していった。

ソ連共産党内の左翼

 一九八七年以降の極度に単純化されて伝えられている共産党内の「共産主義者」と「民主派」との間で生じた実際の政治過程は、極めて複雑であった。あるいは、党・国家機構のメンバーと民主派メンバーとの関係は部分的には共存的だったとさえいえる。事実、非公認左翼運動が登場できる政治空間を形成したのは、主要には党・国家指導部に由来するイニシアティブであった。
 実際、独立した民主派諸組織が親エリツィンの民主ロシアに接近したり、あるいは協力関係を形成しはじめたとき、社会主義路線に関する議論は主として、ソ連共産党内反対派との関係で展開されたのであった(これらの反対派は基本的に党機構が設定した枠組みにとどまっていた。機構側は「社会主義の再生」に関して盛んにリップサービスを行っていた)。
 それ自身が非常に不均質な機構内部の保守派は、いわゆる「ソ連共産党内ロシア共産党のためのレニングラード・イニシアティブ」に結集した。この運動の源の大部分は党機構内部にあり、その拠点はレニングラードといくつかの地方都市にあった。そして主要路線であるロシア共産党建設には相当程度に民族主義の傾向がみられ、後に民族主義が実際にこの運動を支配するようになる。しかし彼らは、独自の大衆的な基盤を樹立しようともしたのであった。特に勤労者統一戦線がそれにあたる。これは保守的な戦線組織であるが、運営方法としては集会の開催、署名集め、リーフレットの配布など、非公認運動のやり方を借用した。
 ゴルバチョフに対する保守派の抵抗へある程度の支持があった。党機構のみならず、大衆のレベルでも支持があったが、保守派は明確な政治綱領を提出できなかった。彼らは、綱領の骨格を、過去へのノスタルジア、伝統的な「国家中心」の価値観、経済の再集中化においた。しかし綱領の具体性の欠如が、この組織の不面目を大いに助長した。最初は一九九〇年夏の第二十八回党大会においてゴルバチョフ指導部によって(保守派代議員がむしろ多数派だったのだが)、次にゴルバチョフに続いたリベラル改革派によってである。
 第二十八回党大会に至る数カ月間、党内には保守派以外に二つの反対派が形成されていた。民主綱領派とマルクス主義綱領である。前者は、「急進ペレストロイカ」を支持する広範な勢力を集め、そこにはエリツィン支持者から社会民主主義、社会主義者までいた。後者は最初はモスクワ大学のマルクス主義社会学学者によって組織されたのだが、すぐ後により保守的な勢力に支配されるようになった。
 民主綱領派は数万党員の支持を得たが、この運動もまた、その内部の左翼にとって民主的な非公認運動を窮地に追いやったのと同じ多くの問題を抱え込んだ。その綱領は非常に多義的な言葉でつくられ、内部に共存する様々な傾向を集約しようとした。結果として綱領では、「民主的社会主義への転換」という主張が官僚化した公式ソ連共産党を「現代的な民主的共産党」へ転換するという全くの夢想的な呼びかけと共存していた。こうした矛盾が、民主綱領派が討論クラブ以上の存在になる可能性を消失させ、党大会反対派代議員の緩やかな結合体の域を出なかった。そして一九九〇年七月に中心的なリベラル指導者が離れると、その影響力は急速に弱まった。
 マルクス主義綱領派は、民主綱領派を支配しようとしていた二つのリベラル勢力と「古典的マルクス主義」への回帰を訴える保守派とからは明らかに距離をおいた。このグループの学者出身左翼の大部分は、一九八〇年代後半に党に入ってきたにすぎない。彼らは、モスクワ党の諸クラブで活動を積極的に開始する以前に、非党組織であるマルクス主義研究クラブで教育および研究活動を行っていた。
だが、その宣言が公表されるや直ちに、マルクス主義綱領派に非常に様々な願望を込めて活動家が流入してきた。一般党員のみならず、宣言を自らのより保守的なゴルバチョフ党指導部に対する反対の意思を表明するものとみなした下級官僚も参加してきた。こうした流入は数という点ではマルクス主義綱領派を強化したが、しかし、これを党内の原則的なマルクス主義潮流を結晶化させる手段とする点では反対の作用を果たした。これは、一九九一年八月に確立されたが、その一部の少数派は八月保守派クーデターを支持した。クーデターは失敗し、その結果、マルクス主義綱領派は分裂した。

「共産主義」路線

 ソ連解体後に出現し、しかも公然と「共産主義」路線を表明するすべての組織は、そのメンバーを基本的にソ連共産党の前保守派から獲得してきた。彼ら全員、少なくとも相当部分は、ソ連の官僚的な過去は本質的には社会主義であったと信じていた。社会主義制度に歪みが生じたと認めるにせよ、そうであった。この勢力と反対に、ソ連共産党内の民主社会主義勢力は、ソ連解体後に自らの勢力を結集できなかった。
 それにはいくつかの理由があるが、最大の理由は、多くの点でソ連共産党がソビエト社会そのものの凝縮だったということである。ソ連共産党は、ほぼ六十年前にも生きた党であることをやめてしまった。ペレストロイカまで、この党は民主主義の匂いさえなかったし、一般党員の自律した活動の可能性さえなかった。ゴルバチョフが指導部による党へ対する統制をゆるめた後でさえ、圧倒的多数の党員は受動的なままであった。第二十八回党大会の四千六百八十三代議員のうち、民主綱領派は百人程度、マルクス主義綱領派が百人だったとみられている。
 二つの反対派綱領への支持者は、その大部分がモスクワ、レニングラード、少数の地方大都市に限られていた。そのうえ、彼らの社会的立場からして彼らが党内の政治的に活発でない数百万労働者階級メンバーと対話をすることは極めて困難だった。一九九〇年当時、ソ連共産党の党員数は約千九百万人、そのうちのほぼ二〇%が肉体労働者、一五%が農民、四〇%が事務職であった。残りの二五%は、年金生活者といわゆる「権力機関」、つまり弾圧装置の職員であった。第二十八回党大会後の民主綱領派とマルクス主義綱領派との合同の会議では、参加者の三〇%が大学か研究所の教員であり、二八%が党官僚、労働者はわずか三%であった。

一九九一年以後

 一九九〇年冬にソビエト憲法から第六条を削除し、それとともにソ連共産党が政治を独占する時代が終わった。その結果、数十もの「新政党」が生まれた。典型的な政党は、社会的に認められた指導者の周辺に数百人規模の支持者が結集したものであった。ほぼすべての新党が完全消滅した。大衆的な民主運動が後退した後、一定の意味をもつ政治家は、元ノーメンクラツーラか、彼らと結びつく「民主派」権威者に限られてしまった。これは基本的には、支配的な官僚世界内部でリベラルな合意が形成されたことであり、このことが社会的な議論の枠組みと調子を根本的に変えてしまった。
 前述したように民主左翼は、この急激な情勢転換に対する準備がなく、そのメンバーは小さく孤立していることを実感させられた。イデオロギー的には多少ともしっかりしていても、組織の方法が悪かったのである。この点は、非公認出身の民主左翼勢力やソ連共産党内の反対派にとっても同様であった。これらのグループのどれもが、数百人以上のメンバーをもたず、労働者運動との結合もなかった。
 左翼共同のための広範な枠組みを形成するためのいくつかの試みがあったが、共同宣言を越える成果をあげたものはなかった。たとえば一九九〇年秋に「人民の自己管理のためのイニシアティブグループ」が、社会民主主義、社会主義、アナーキスト、ソ連共産党内反対派などの主要な左翼グループの代表を集めたが、会議は失敗に終わり、統一行動に関して決定できず、また、その後の討論のための枠組みさえ形成できなかった。数カ月後、このイニシアティブ自身が消滅した。
 この間、政界ではリベラルと保守的官僚派との分極化が進行していた。前者は、次第に中央の党・国家機構で優勢になっていたが、大衆的な支持はすでに頂点に達しており、民主ロシア運動は後退局面にあった。後者は、様々な地方と様々なレベルの機構とに拠点を有しており、大衆運動を組織しようとしていた。
 一九九一年八月のクーデターの敗北は、この分極化傾向をさらに加速した。党・国家機構の「中央派」(ゴルバチョフ、ルキャノフ、パブロフ)はエリツィンが率いるリベラルに急激に出し抜かれていった。クーデター後のエリツィンによる憲法の停止とロシア内でのソ連共産党の非合法化措置は、党中央委員会機構を完全な機能停止の状態に追いやった。著名な党指導者の誰一人として、新たな組織の設立を呼びかけもしなかった。新組織が呼びかけられた場合、転換した情勢においても政治活動を持続したいと考えていた党員を結集できたであろうに。中央委員会書記局は九月半ばまで会議を行わず、その会議でさえ報告によれば、「討議されるべき唯一の問題は、前党職員に対する雇用の創出に関連した問題である」と確認しただけだという。
 前中央委員会指導による新たなグループ形成までには、十八カ月も待たなければならなかった。ロシア連邦共産党設立の動きが始まった。それまでにすでに党の高級官僚の多数は、ロシア国家機構にもぐり込むか、あるいは経営者になっている(多くの場合、両方を兼ねた)かで、自らを名目でさえ「共産主義」とする党にはほとんど用がなかったのであった。

周辺の状況

 旧党指導部が崩壊したので、それまであまり有名でなかった人物や、あるいは小さな勢力の代表でも、著名になる機会が生まれた。しかし実際にこの機会をものにしたのは、ロシア共産主義労働党(RKRP)と社会労働党(SPT)の二つだけだった。前者が勢力を主としてソ連共産党の保守派から結集したのに、後者は「左翼ペレストロイカ」といえる綱領を軸に主に党の中間レベルの職員を結集した。
 RKRPの設立は形式的には一九九一年の夏であるが、その後すぐに狭い組織実体をもち、ネオスターリニスト的な、そして多くの場合、民族主義的な傾向をもった活動家や元下級党職員らを実際に動員できるものとなった。この民族主義はソ連共産党由来のすべての政治組織を支配しており、広範に存在する「国家中心」の価値観を利用している。この価値観の源泉は、古くは革命前にさかのぼり、一九二〇年代と三〇年代の官僚反革命によってよみがえり、そして新ロシアの支配者たちの買弁的な性格、つまり、その軍事力にもかかわらず経済、文化の面で急速に衰退させている状況によって明らかに再び活性化したのである。

ロシア共産主義労働党(RKRP)

 この党の設立時の登録党員数は五千人であったが、一九九二年春には五万人に達した。ソ連共産党崩壊後で最も重要な組織となった。この党は「勤労者のロシア」設立の原動力であり、この党の大衆組織は多くの主要都市で加入者をもち、勢力を増しつつある「愛国運動」においてネオスターリニスト大衆組織と共同行動をとっている。この大衆組織は、ソ連の復活、それも大ロシアの形態での復活以外に明確な政治綱領をもっていないが、勤労者のロシアは一九九一年末のソ連解体後の、そして一九九二年一月の「ショック療法」開始以後の状況の中で数万の人々を街頭に動員する力をもっている。部数の多いソビエツカヤ・ロシアなどの日刊新聞に接近するだけでなく、数万部規模の独自の新聞をもち、不満を抱いたり、ひどい状況に追いやられている元党員の広範な層に接近している。
 RKRPは一九九二年、党員の三〇%が労働者であると主張した。確かに同党指導者は、モスクワ労働者組合のような自らの労働者組織の形成に多大な努力を払っている。一九九二年初めの大衆デモは明らかに労働者的な色彩を帯びていた(その多数は貧困化したホワイトカラーと年金生活者だったが)が、独立した労働者階級組織の形成には基本的に失敗した。多くの地域で、そのための組織は存在しているが、どこでも二、三百人程度の活動家(政治化しているが)の集団でしかない。そして、広範な労働者大衆に対してはなんら権威を有しておらず、彼らはストライキを頻繁に訴えるのだが、労働者大衆は全くその呼びかけに応えることがない。
 ショック療法に反対する政治的な抗議行動におけるRKRPの事実上のヘゲモニーは、同様な行動に参加するよう労働者を説得するうえで多大な効果を発揮した。だが同党が抽象的かつ愛国的なスローガンを偏愛し、その指導者に真剣さが明白に欠落している(プラウダのキューバ特派員だったことがある指導者の一人は、自然発生的な反乱による「ファシスト」エリツィン体制の打倒を呼びかけた)事実は、同党の思想がショック療法に対する有効な対置路線ではありえないと労働者大衆に思わせている。「新ロシア憲法」のための百万人署名といったRKRPの他の具体的な運動に対する労働者大衆の反応は冷たく、前進のきざしはない。

社会労働党(SPT)

 社会労働党(SPT)もまた、一九九一年秋に結成されたが、政治的、組織的な性格、由来はRKRPとは全く違っている。ブレジネフ時代の異論派の一人であったロイ・メドベージェフが設立者の一人であるが、組織の実際の中心を担っているのは三十五歳から五十歳までの共産党の中堅幹部だった世代である。同党の路線は、規制された混合経済、ショック療法なしの市場改革、現代的な民族主義――などである。同党は、ゴルバチョフとその中央委員会が提案したソ連共産党の最新綱領草案を同党綱領として採択した。
 SPTは、正式党員数が五万から七万人、今はないロシア最高ソビエトの代議員が三十人(五ないし六の会派に属していたが)の規模であり、プラウダに定期的に登場し、部数一万五千程度の隔月刊行物を出していた。
 だが、同党は党員の積極的な活動を引き出すことができなかった。というのは、同党は大衆動員を真剣に行おうとせず、政治ロビー活動に専念したからである。そのため党員が党への帰属意識を確認できるような党の行動がなかったのである。一九九三年初めにロシア連邦共産党(KPRF)の設立を、一九九〇年に設立され一九九一年八月にエリツィンによって解散させられたロシア共産党議長だった人物が発表したとき、他の「共産主義」小組織の大部分のメンバーと同様に、SPT党員の八〇%が離党し、新党に合流していったのである。

ネットワーク

 ロシア連邦共産党(KPRF)は直ちに、五十万の党員と地域組織のネットワークを有する国内最大の政党になった。この古くて新しい政党は、出発当初から旧中央委員会機構出身(ゴルバチョフ派)の近代的改良主義勢力と、由来は旧共産党機構であるが、「愛国的諸組織」のほとんどと「民族自立指向」財界人とにもっと強く結びついた強引な民族主義勢力との妥協の産物であった。同党支持者の気分が変化している兆候が明白な中で、元中央委員会委員で極右民族主義、ロシア民族会議の共同議長となり、そして広範な「愛国」主義組織、救国戦線の指導者となったゲンナジ・ジュガーノフが、KPRF中央委員会の指導部選挙でクプツソフに勝利した。
 ジュガーノフ指導下でKPRFは、むしろ現在のリベラル体制との国民和解的な路線を採用し、改革指向であるがショック療法に対する社会の反対を意識した勢力として登場した。同党指導者は現在、自らを「左翼社会民主主義」と称しているが、ロシアが「独立した国家である」ことに関する問題では強硬である。ジュガーノフの発言から判断する(今日のロシアでは基本的には指導者はすなわち党である)と、KPRFはいかなる伝統的な意味においても社会主義的とはいえない。彼の中心概念は、「社会的公正」や「人民民主主義」でなく、「独立国家であること」であり、「ロシア精神」である。
 彼がしばばしば言及する歴史上の人物は、マルクスやレーニンではなく、ピョートル大帝やストルイピンである。「愛国」的路線への転換にもかかわらず、同党への大衆的な支持に変化はなく、一九九三年十二月のエリツィン新憲法による議会選挙では、農民党と統一して二五%を得票した(有権者の四八%が棄権したとする公式数字からすると、この支持率は実際にはもっと高い可能性があることに注意すべきである)。
 KPRFと、KPRFへ大部分の党員が流入して残ったSPTが先述の選挙に参加したのに対し、多くの「共産主義」小組織は選挙をボイコットし、選挙に参加することはエリツィンの国家クーデターを正統化することに他ならないと主張した。この事実は「共産主義」小組織の間で、一方で議会活動と改革をめぐって、他方ではより急進的な目標と戦闘的な戦術をめぐって分岐が生じていることの現れである。加えて、「愛国」的な潮流が「共産主義」陣営の間で優勢であるが、現在では、その陣営のより急進的な傾向の中で民族主義と同盟することがいいのかと再考しているはっきりした兆候がある。

民主左翼の危機

 ソ連共産党由来の諸組織がその伝統的な組織構造やネットワークをうまく利用し、自らの活動や立場を伝える報道機関に接近でき、多くの旧活動家を結集できたのに対して、民主的社会主義勢力には、そうした利用できる遺産というものがなかった。この潮流が直面した社会と公式のイデオロギー状況は、民主的社会主義について話したり、あるいは次第に力を増す権威主義的なリベラリズムと潜在的にははるかに権威主義的な民族主義との間の「第三の道」に関して話すことを全く許さないものであった。公的な雰囲気は、「改革に賛成」つまりリベラルか、「改革反対」のどちらかの態度しかありえなかった。この状況の中で反スターリニスト左翼の小集団は、様々な方法で対応した。
 第一の戦術は、分散した力をより広範な左翼民主連合という形で再結集しようとするものだった。この戦術はすでに一九九〇年から一九九一年にかけて急進的な緑の党(これは現在、何も残っていない)を結成したアナーキストが試していた。これを、解散したソ連共産党に由来する社会主義者、アナーキスト、マルクス主義の勢力が一九九一年八月クーデターの余波の中で労働党(PT)を結成するに際して採用した。一九九二年秋には、より広範囲の穏健から急進的までの左翼活動家(SPTから小トロツキストグループまで)が結集して、第一回民主左翼勢力会議を開催した。
 参加者が千人を越えたように同会議自体が成功したにもかかわらず、その後の現実活動の展開に関しては失敗した。現在、PT内の一部は、以前の労働組合機構を含む労働連合の形成に挑戦している。それは緩やかな左翼勢力の連合という位置づけである。当面の目的は、来る地方選挙に参加することにある。
 これまで民主左翼連合形成の計画はどれも目的を実現できていない。つまり、自らの運動への新たな支持者の獲得、持続的な組織体の形成、モスクワ中心の左翼民主的知識人に限定されている影響力の拡大などに成功していない。これら組織の主要な任務は、この潮流を世間に広く知らせることである。現在のところ、広範な大衆にはほとんど知られていない。
 第二の戦術は、思想的にしっかりした小さな宣伝グループを形成することである。これも第一の戦術と同様、うまくいっていない。様々なアナーキストやマルクス主義のグループが自らの小「政党」の形成に挑戦した。つまり全国指導部、綱領、非常に小規模の機関紙をもった体系だった党建設に挑戦した。しかし、どれ一つとして創設当時の規模、範囲を越えられなかった。実際には、大部分は後退し、いくつかの地域に相対的に強力な拠点を持っていてもロシアの左翼世界で全国的な意味を持ちえなかった。
 第三の戦術は、大衆的な基盤獲得に失敗した中で、「イギリス労働党」型の以前の労働組合機構内のより進歩的な勢力の支援を獲得することである。PTがそうした方向の提案を何度か行ったが、その多くに対してことにモスクワとレニングラード地域労組連合組織から好ましい反応を得た。しかし実際には前進はみられなかった。つまり労働組合機構は、シビック・ユニオンのような大きな、かつあまり急進的ではない労働者組織か、あるいは支配的なリベラル・エリートを連合の相手として追求したのであった。こうしてモスクワ労働組合連合の代表(ロシア独立労組連合の代表でもある)ミハイル・シマーコフは、労働党に好意的な人物と長らく思われていたのだが、最近では、モスクワ市との協調を追求したのと同様に、エリツィン政権との良好な関係を追求している。

結論

 過去七、八年間のロシア左翼の状況を観察してきたが、うまくいかなかった理由を客観的な要因(先の報告で分析したように「大衆」が新たな左翼の登場に対応できていなかった)あるいは主観的な要因(そのいくつかは本報告で指摘した左翼の政治的な弱さ、あるいは失敗)に帰せたくなる。こうしたやり方は、分析という点では意味あろうが、実際にはこれらの要因は、一つの全面的で根本的な全体の一部でしかない。単純にいえば、ロシア左翼は自らが登場した場である社会の性格を超越できなかったのである。
 一九八七年から一九九〇年までの大衆の行動力が発展した時期に、そのほとんどは永続的ではなかったが、本当に大衆的な民主的な運動構造が出現した。当時の多くの西側観察者は、グラスノスチが自立した公的社会空間を生み出しており、真の社会運動とその組織が形成されており、公開の民主的議論を展開できる持続する空間が生まれたという印象をもっていたが、その印象が間違っていたことが証明された。六十年間におよぶスターリニズムの時代は、個々人に分断された社会をつくり出しており、これには自主的組織の経験が全くなく、人々の間には「パトロン」や指導者に完全に依存する体質が深く根付いていた。それまでの公的なイデオロギーが瞬時にして崩壊し、旧社会の保障構造が急速に失われていったので、人々は根本からの不安と展望喪失の状況に陥った。
 こうした条件下にあっては、自主組織と真実の大衆民主主義とを基礎とする社会主義綱領が多くの支持者を獲得することは、ありそうにない。ひとたびリベラリズムが信望を失うと、スターリニズムの基本性格の一つであった民族主義が、貧困化したより広範な層を獲得していった。前のソ連共産党の活動家で現在も生き残っている者の多くは、すでに民族主義へ傾斜し、労働者の心に真実の展望を与えるものとしての社会主義にはさらに不信を強めており、民主社会主義者は孤立した立場から社会主義とは何であるかと説明することを余儀なくされている。
 一つの奇妙で非常に印象的なねじれ現象は、一九九三年十二月議会選挙でSPTが民主社会主義グループによる左翼共同候補者名簿を離れ、コサック連合と石油産業経営者らを初めとする穏健民族主義勢力とブロックを組んだことである。しかし、この候補者名簿は、政党・政治団体としての登録に必要な署名数を集められなかった。

外部要因

 民主左翼の弱さの大部分は、こうした外的な情勢展開とその圧力との産物である。民主左翼全体と同様に大部分の活動家も、こうした要因の重要さと、成功するためには何が長期的に必要なのかに向けて、こうした要因から結論を引き出せなかった。ペレストロイカ時代の運動展開は、民主左翼の思考にある種の「自然発生的な傾向」を生み出した。すなわち、次第により多くの大衆が彼らの客観的な利益と旧構造の崩壊がもたらす統制の弱体化から民主左翼の側に来るだろう、という期待が生まれたのであった。少数の例外はあったが、大部分の民主左翼は、この自然発生的な期待と関連する自らの「前衛主義」のために苦しんだ。この前衛主義は、その根元が民主左翼の社会的、政治的孤立にあるだけでなく、旧ソビエト社会の伝統という遺産の産物でもある。
 このことが、民主左翼に現実の勢力の相互関係に関して非常にゆがんだ見解をもたらし、有機的な組織の必要と広範な大衆、ことに労働者の間での宣伝・扇動の必要さを初めとする長期的戦略の必要さを理解させられなかったのである。こうした戦略はもちろん、情勢が急速に転換する時代にあっては、社会主義の活動家にとって魅力あるものではない。というのは、長期戦略は短期的な成果を約束するものでないからである。
 ロシアは長期的には疑いもなく、大きな社会的、経済的な上昇局面に入るだろうが、しかし安定はしないだろう。ロシア社会の矛盾は絶えず深化しているが、その矛盾は政治面での適切な自己表現方法をもっていない。民主左翼にとって現状はわびしいものであるが、普通の人々は価値ある政治経験を獲得してきたし、日々獲得しており、国家機構の保護機能や政治的なパトロンと指導者の役割に関して長期にわたって保有してきた幻想を捨てつつあり、政治家の公約と彼らの実践とを区別する術を学びつつある。
 うっ積してきた大衆の不満は、現在の政治的な解体状況を結局は突破するだろう。この事態が起きたとき、ロシア社会主義の新たな、そしてより広範な可能性が開かれるだろう。だが、その闘いは必ずしも長期的なものではない。
(インターナショナル・ビューポイント誌258、7月号)

第四インターフランス支部第11回大会を開催


 革命的共産主義者同盟(LCR、第四インターナショナルフランス支部)は六月十六―十九日にパリ北部で第十一回大会を行った。参加代議員数は百五十人。フランス国内だけでなく国外(特にブラジル労働党、PT)からも多数のオブザーバーが参加した。フランス共産党(PCF)からも初めての参加があった。
 今大会の目的は、PCF、社会党(PS)、緑の党左翼などの諸潮流の支持を得たフランス反資本主義勢力を構築することである――とする立場(傾向A)は、大会代議員の五二%の支持を得た。傾向Aの路線は結局のところLCRを革命組織から改良主義綱領を結集軸とする様々な勢力が寄り集まった新勢力へ転換させる――とする立場(傾向B)は、二六%の賛成票を獲得した。
 傾向「民主主義と革命」は、右翼に対する労働者統一戦線路線への復帰を訴え、LCR内部に民主主義が欠如していると主張し、九%の支持を得た。前多数派に属していた同志の一部によるグループは、現指導部が提案しているヨーロッパ分析は正しくなく、政治情勢を誇張しており、性急な政治再編路線を追求していると批判し、七%の支持を獲得した。
 大会は、来年の大統領選挙では左翼・進歩的緑の勢力による共同候補の追求を主張していくことを決定した。また、この共同候補が実現しない場合にはアラン・クリビーヌをLCRの候補とすることも決定した。そのために必要な署名集めはすぐにも開始される。
 LCRの同盟員数が増加していなかったとしても、大会はLCRが様々な大衆組織での指導者が相当数、同盟内部にいることが明らかになった。反失業全国デモの成功とそこにおいてLCRの活動家が果たした役割は、LCRのイニシアティブという問題を大会論点の中心に押し上げた。もちろん、いうまでもなくLCRがエール・フランスの争議や高校生を中心とする教育問題での大衆動員もまた、議論の中心となった。
 大会で若い代議員が増加していた事実は、この数カ月間の青年運動での成果を反映していた。否定的な面は、大会参加者のうちで女性が占める比率が低下したことである。LCR内部での女性の比率は今や三〇%以下であり、新中央委員会での女性の比率はそれ以下である。
 大会は第四インターナショナル指導部を代表したアルフォンソ・モロのあいさつを受けた。

ルワンダに関するLCR大会宣言

 フランス政府は、ルワンダ独裁政権を支えることによって、数十万人のツチおよびフツの死者が出ている事実に対する共犯者であり、その責任者である。この虐殺を行った犯人らはフランスに避難場所を見出し、他方、この虐殺に責任があるルワンダ軍事勢力に対してフランス政府は武器を与え、軍事訓練を行ってきたのである。
 フランス政府は恥ずかしげもなく、「人道的な行為」の名目で独裁者モブツの支援を得て自軍を派遣したいと主張した。
 LCRは以下の要求を掲げた行動をとるようにすべての民主的な勢力に呼びかける。
1 ルワンダからのフランス軍の撤退。
2 虐殺に責任ある人物に対する保護あるいは避難場所の提供をやめよ。
3 ルワンダ政府を政治解決のための交渉から除外せよ。
 LCRは、この数年間の最も悲惨な虐殺に関するフランス政府の責任について沈黙を守ることを拒否するすべての民主的な勢力との共同行動を願っている。