1995年9月10日         労働者の力               第70号

「国際主義労働者全国協議会」第七回全国総会を開催

 
 八月**日〜**日、国際主義労働者全国協議会(NCIW)の第七回全国総会が開催された。総会は、第四インターナショナル第十四回世界大会(オブザーバーとして代表参加)の報告、今日における「社会主義像の再建」、および七月下旬に行われた95参議院選挙の総括を中心議題にし、ソ連邦崩壊後の社会主義像の再建とインターナショナルの進むべき方向、国内的な社会主義運動再構築の課題をめぐった活発な、ある場合には緊迫した討論が行われた。第七回総会は、以上の諸課題についての討論が、成文化した「決議」に集約されるには至っていないとの認識をもち、次回総会へのさらなる検討を続けることとしつつ、現段階での基本的問題提起として総会提出文書を公表することを確認した。
 文書は逐次、『労働者の力』紙上で発表される。

第三議案
 以下の文書は、総会提出文書と討論から、主要に労働運動にかかわる部分を抜粋し、削除と加筆を加えたものである。文責は川端にある。

 95「決戦論」のバランスシート

 1、労働者政党の展望と左派労働運動の停滞

(1) ソ連邦解体という世界史的変動を直接の契機として明確になった「社会主義」運動の解体の趨勢が、日本における社会党・総評的なあり方の、左翼的な再結集を阻害する最大要因であることは間違いない。拡大成長する日本資本主義経済がその労働者的団結を掘り崩し、労働運動、革新運動における右翼的ヘゲモニーを形成してきたという事実は否定できない。にもかかわらず、左翼部分の解体がかくも一挙的で壊滅的な今日の事態を、それだけで説明できはしないということも明らかである。とりわけ日本労働運動の戦後的あり方において、ソ連ないし革命中国の存在がきわめて重大な要素を形成してきたことを見れば、日本における社会主義的勢力」の必要条件だった国際的インパクトの喪失が、左の翼の求心力の弱体化に直結したことは事実の問題である。
 国際的インパクトを欠いた日本における五五年体制型左派運動、革新運動を九〇年代において再結集する課題が、「社会主義」的ではなくして「民主主義的」な「護憲」という水路で提出されたには、国際的な歴史的時期が色濃く投影されている。
 
(2)八〇年代の後半期、総評の解体が進行する中において、労働戦線における左的結集の軸心となったものは、修善寺大会における分裂をくぐり抜け、中曽根行革と対決する闘いを進めた国鉄労働組合であり、とりわけ首都における都労連勢力と結ぶことによって形成された全労協が九〇年代における社会党の左派的再結集の基盤となることも期待された。
 われわれの展望は、直接には以上の状況の進展が一定不可避的に新たな労働者政党への、新たな共同作業の場を準備するであろうとして立てられた。すなわち、社会党左派勢力と独立左派運動の共同作業の場として七〇年代末から八〇年代初頭にかけて形成されてきた労研センターの活動が一定の担保となって国鉄労働組合の左的突破を支える力の一つともなったことが、全労協、そしてそのさらなる運動領域の拡大を意図した「平和と地域運動連絡会議」の形成へとつながり、そこでもってつくられる全国的な組織ネットワークが新たな労働者的新政党(社会党左派的新政党)の骨格を形成することになるという展望であった。
 われわれは、こうした展望のうえに、労研センター、全労協、平和と地域運動連絡会議の活動に積極的に関わり、全国単産レベルと地域における労働運動の再編成を推進しようとしてきた。独立左翼の側の結合は七〇年代後期から持続されてきた労働情報運動と大阪集会・十月会議の流れであり、それが全労協、労研センター・平和と地域運動連絡会議の場を通じて社会党左派との協同作業の主体であり、窓口であると認識された。
 政治的には、従来からの関わりから国際労研の岩井章氏が結び目となるであろうということが暗黙の前提となり、運動的には全労協の組織的な、産別的地域的強化が主軸であるということも設定された。いわば、岩井章氏を結び目とする全国的な左派労働者運動の独立的形成を基盤とした広範な左派勢力の形成の展望であったのである。
 
(3)岩井氏の政治展望は、われわれが推測する限りにおいては、基本的には広範な独立左派や市民運動戦線を包摂した、社会党の左翼分裂を軸心とする新政党、というものであった。言い換えれば、新政党の軸は社会党左派の独立・自立であり、それが他の諸勢力の支援と協同のもとに民衆的な広がりを形成するというものだった。従って、岩井氏の政治的なテンポは常に、社会党左派勢力の「踏み切り」の見通しに依拠し、社会党の「変質」が確定する度ごとの「党大会」を「旗揚げ時期」として設定するということになった。ある意味ではきわめて健全かつ常識的な戦術設定ではあるが、反面、社会党内の政治的力学、より正確には社会主義協会派(向坂派)の動向に左右されるということである。社会主義協会派が分解を重ね、その中心部分が明らかに岩井氏の自立・独立路線とは一線を画すということが明らかになる中においても、岩井氏の基本的戦術展望は変わらない。あるいは変わりようがなかった。
 岩井氏を軸とした新たな労働者的政党の構想の吸引力は、結果的には年々の社会党党大会という節目を順送りにしていくなかで、風化し始める。
 その要因を、いくつか検討しておこう。

(4)第一に見るべきは、左翼的結集の軸であり、かつわれわれ自身が描いた展望の基軸でもあった国鉄労働組合の運動展開の問題である。
 修善寺大会における国労の劇的な分裂にもかかわらず、その後の国労の実体は「連帯を求めて孤立をおそれず」的なものではかならずしもなかった。分裂の力学は多分に「学校」=派閥間の分解の様相を示し、太田派的部分のヘゲモニーに対抗した向坂派的部分の結束という性格を濃厚に反映したものだった。加えて革同の学校があり、そしてはるかに規模が小さいにせよ諸派の学校もあった。旧太田派系執行部を追い落とした連合勢力ではあるが、委員長に選出された六本木氏は出身地本の盛岡地本との連携は薄く、また書記局業務を担った向坂派系列には国鉄当局の集中的な組織的攻撃が加えられ、そうして革同派は西日本を掌握しつつ当局の攻撃の正面にでることを最大限免れようとした。さらに向坂派学校の中心部分は少数派転落をいさぎよしとせず、再度の多数派への復帰を目論み、旧太田派部分との再統合や闘争の早期収拾の道を不断にさぐり続けた。
 総評から連合への転換においてもこれら向坂派の学校幹部の大勢は旧総評ブロック(総評センター)や社会党との亀裂を回避し続ける路線に固執した。国労内部の闘いのエネルギーはもっぱら自力で闘争態勢を持続する国労争議団とそれを支援する勢力から供給される以外にはなかった。国労の闘いを労働者階級のなかに浸透させ、国鉄解体、民営化の過程のすさまじい「国家的不当労働行為」を全国的な支援戦線に形成によって押し進めるという構造は現出しなかった。国労闘争は、民衆的な国鉄(解体反対)闘争として成立するには至らなかったのである。
 結果において、国労中央が推進した全労協形成路線は地方的にはほとんど受け入れられなかった。地方全労協は、たとえその地の国労が一定の力量を有していたとしても組織されることはなかった。端的に言えば、東京全労協を例外として、全国の国労組織は全労協を組織しようとはしなかった。革同派勢力が全労協とは関わりなく全労連との提携を進めたことも当然といえば当然ではあるが、向坂派勢力の大勢も立場は変われ、結果はおなじであった。しかし幹部多数の思惑はどうあれ、JR総連と当局(東日本)、運輸省の結託の壁は厚く、また連合や社会党右派勢力の壁をこじあける展望も開けなかった。
 こうした内部的すくみ状況に転機が訪れたのが、自社連立村山政権の誕生であった。細川、羽田連立政権期に動揺を繰り返した社会党が反右派勢力のヘゲモニーによって村山政権を誕生させると同時に、国労執行部の積極行動が開始される。国労は村山政権を率先・公然と支持し、そうすることによって従来国鉄対策のヘゲモニーを掌握してきた右派・田辺ライン、および連合の勢力に対抗するチャンスをつかもうとした。
 巨大な争議団組合としての国労がその争議の解決を求めて、戦術的にさまざまな道を探り、かつ「和解」を含めて選択肢にあげるということ一般を、外的に非難することはできない。とりわけ、絶対的対決の道を敷いて国労の歴史的封殺をねらう勢力が政府部内中枢への影響力を行使してきたという過去の経過からして、国労がその力学の逆転をめざすことも争議団の戦術としてはありうることであるから、ここではそれへの評価は控えておく。現在の国労執行部の基本が、村山政権持続の内に「和解」の可能性をつかまえようとする立場にあるように見え、岩井氏が闘争の展望として掲げた徹底抗戦の「十年闘争」路線は現実に受け入れられなかったことだけを指摘しておく。
 ここで問題にすべきなのは、国労闘争を軸心にして形成された全労協と、それらを下敷きにして描かれた新たな左派政党形成の展望との関係である。
 村山政権成立という新局面において、国労の「非政治化」が加速する。ここでの「非政治化」は、左派の新たな政党形成という観点からである。村山政権との関係では国労は政治化しているというべきかもしれないし、国鉄=JR内部での労組再編での動きに踏み込んでいるのかもしれないが、いずれにせよ国労が軸心になった全労協の全国展開と、それを基盤にして構想される新たな左派新党の骨格という図式はほぼ成立しないものとなったことは確認されなければならない。

(5)第二には、向坂派協会そのものの分解の影響である。分解を重ねては来ても、依然全国勢力として維持されてきている向坂派勢力は再度、いわゆる別党コース派と隠忍自重派との亀裂を深めてきた。別党コースは当然にも少数派であり、同時に協会派に共通する党内分派闘争、労組内ヘゲモニー闘争におけるベテランではあっても、大衆性にはいささか欠けるという存在としても、より強固でもあった。こうした強固さは、ある意味では過去の反戦青年委員会運動や社青同内部の闘争の産物ともいえるだけに、外部勢力、市民運動や急進的諸運動への警戒心の強さとしても並々ならぬ存在でもあった。より積極的にいえば、別党コース派は「協会党」、協会社会党路線であったと見ることもでき、社会党県本部レベルでの組織体として突出して現れた。
 いつかの岩井氏の言葉を借りれば、全体としての北海道、東北、九州には手がかりがないというまでに「隠忍自重」派勢力が協会中央の山崎を押し上げる形で多数を制圧してきた。このような隠忍自重派が村山支持かどうかはまた別問題である。たとえば北海道では多分に横路支持派の体裁のもとにあるようである。東北協会は国労の例に見るようであり、九州は北部を中心に全般に旧太田派の勢力が強く、鹿児島をのぞけば向坂派系列は逼塞状況を強いられているという事情もある。
 このような向坂派協会の地域的に顕著な分解は、旧総評諸単産の社会党党員協における力の分解・分散と影響力の弱体化によって加速されてきた。国労をのぞけば、社会党党員協という全国レベルでの公然たる連合への対決方針を採用で一致した協会派フラクションはない。結果として連合へのなだれ込み方針となった向坂派系列の党員協は、そのことによって国労の闘争を孤立化させ、国労内部の「妥協派」への不断の援軍を形成すると同時に、自らまたそれぞれの単産内部においての妥協派となり、したがって全国政治レベルでの結束力を必然的に衰退させていくことになった。
 繰り返せば、岩井氏の方向は「主戦論」であり、それが国労においても「長期争議方針」論として提出されてくることになるが、協会派の大勢は別の方向を向いていた。岩井氏と提携しようとする部分は、総じて労働組合戦線における「全労協」派であり、政党レベルにおける「左派社会党」路線である、という図式が次第に鮮明になっていく。
 国際労研を自らの場とする岩井氏は労研センターを組織し、派閥や学校を越えた横断的連携を志向し続けた。旧太田派協会の太田薫氏、旧高野派の系譜を引く市川誠氏の連携や、旧全金の中里忠仁氏らを包摂して行こうとする方法は、後に見る「平和憲法の会21」にも引き継がれるが、広範な戦線を結合して連合や社会党の右転換の策動と対決しようとするものであった。だが向坂派系列の党員協の多くはこうした岩井氏のイニシアティブに同意することはなかった。

(6)しかしながら、日教組左派からの呼応がなされる。前の書記長である中小路清氏を中心に組織されてきた日教組の左派フラクションが独自に連合との対決の方向を模索しつつ労研センターへの接近を計ることになる。この動きは、即、向坂派の動きではなかった。むしろ日教組内協会派と中小路氏の間はよく行っていないという見方が有力であった。中小路氏は、東北から九州までの左派フラクションをもって岩井氏の動きに呼応し、路線的には旧総評の枠組みの維持、再建を、地区労、地方労、県評レベルの機能維持と横断的連携として展望しようとし、労研センターと結び、全労協との非公然共闘を組みつつ、より広い範囲での左派労働戦線の再結集を方針化せんとした。平和と地域運動連絡会議の結成である。ここで、労研センター、全労協、平和と地域運動連絡会議というそれぞれ位相を違えつつも、枠組みを共有する組織構造ができあがった(ように見えた)。
 だが実際に現れたのは、地域的に全くの雑多な政治色彩を持つ向坂派協会の現実であった。一方に「協会党」路線があれば、他方に現状にあえてメスを入れる必要を認めない「地方大名」ありという実態が、広範な左派勢力の、広範な協同による新たな左派主体の形成という展望とはまさに溶け合うことなく登場したのである。
 そこに国労の「足踏み」が加わることによって、平和と地域運動連絡会議の運動と展望は困難なものとなっていく。
 全国性というレベルにおいて、労働戦線の横断的結合を進める動きは決定的な浮揚力を有するまでには到達しえず、それが政治的な局面での動きを制約する最大の要素に転化していく。
 
2、護憲派政党論の離合集散
 
(7)昨年秋の「平和憲法の会21」、今年初頭の「護憲のための連帯」、今年五月の「平和・市民」と、社会党の迷走に対して新政党を対置しようとした動きは、めまぐるしく変化した動きを示した。
 それを人格的代表として表現すれば、平和憲法の会21は岩井氏、連帯は小森氏、平和・市民は田氏・国弘氏の護憲リベラル、という図式になる。岩井・小森の両氏は「平和・市民」に参加しなかった。護憲派・市民派総結集という運動は、たかだか半年のうちに崩れ去り、「平和・市民」は護憲リベラル、別党派協会派の一部、市民勢力の一部という構造に帰結した。
 この経過を簡明に述べるのは容易ではないし、煩雑に過ぎることにもなるが、結論を象徴的にいえば、別党派協会派は「平和憲法の会21」には消極的であり一定の距離を置き、「平和・市民」には一部が積極的に関わった。一部とは「護憲社会党兵庫」である。中途までは関東の千葉勢を中心に護憲社会党路線に同調する護憲ネットの勢力が協同作業の可能性を探ったが、結局は兵庫の護憲社会党が護憲リベラルと戦術的バーターとして選挙協力方針を採用したにとどまった。
 「平和憲法の会21」と「平和・市民」の関係は、向坂協会左派の立場からすれば兵庫の選挙バーター方針、および東京選挙区での田候補の支持受け入れを除けば、結果としてほぼ変わらない。
 
(8)われわれの観点からいえば、問題は「平和憲法の会21」にほぼ集約される。
 八〇年代から九〇年代前半を通じて形成持続されてきた左派労働戦線の自立的、横断的結合のための努力とそれを土台とする新たな政党形成−−革新政党でも労働者政党でも左派社会党でも規定の仕方はさまざまだが、それはここでは立ち入らない−−への結び目は、流れからして岩井氏をイニシアティブとするものとほぼ共通認識として理解されてきた。そうした流れに沿って呼びかけられた「平和憲法の会21」は、上田哲氏、和田静夫・吉田正雄氏ら、前議員がそれぞれに提唱した新党の動き、新党・護憲リベラルの結成などを受けて、岩井氏の言によれば「ばらばらにならないようにつなぎ止める」目的で政治団体を結成しようとするものだった。同時に、この会は「新党」ではないことも定義されていたのである。
 こうした性格付けは微妙であり、後のさまざまな紛糾の要因ともなっていた。すなわち、すでに「新党」として旗あげした人々や新党形成を待望する人々は、この会が即座に「大合流新党」に転化するべきものと理解し、そのように行動しようとした。他方岩井氏は、社会党左派、護憲ネットの大勢の動き出しを「新党」の必要条件とし、そうした条件のないままの「平和憲法の会21」が政党に転化するとは理解していなかった(と考えられる)。そうした意味合いから、この会は限りなく不透明で、内部的なまとまりをまったく欠いた組織として発足したのである。別の観点からすれば、岩井氏の立場が貫徹するに必要な力量的重し−−それは労働戦線の強力な後押し以外にはない−−が弱く、そして護憲ネットの主軸はこの会が「新党」に至る必要不可欠ななプロセスとは解釈せず「党は別個に準備している」と言明していた。
 ここに「結び目」として了解されてきた岩井氏の立場にかげりが生まれることとなったのである。「新党」派は、護憲ネット的な社会党左派の動きを待つことには耐えられず、また護憲ネットは「雑炊」的な「新党」派の糾合に重きを置くことはなかった。「新党」派として登場した前議員たちは、自らの議員生命が社会党籍のままでは断ち切られるという観点から新党の旗あげを急いだのであり、衆議院選挙を意識するこれらの人たちは新党でなければ立候補すらできないという危機意識から行動したと評価できる。この衝動は小森氏らの現職議員や社会党からの離脱に踏み切ろうとしていた人たちにも共通するものであり、そうした観点からいえば岩井氏の立場は限りなく「新党」を彼岸化するものとして理解される要素を含んでいたし、岩井氏自らそうした内部的不協和音にたいする積極的な手だてを欠いていた。

(9)平和憲法の会21」は、内部的な「新党」派による「クーデター」へと急速に移行することになる。「連帯」への動きである。「連帯」が理解した「新党」がいかなるものであれ、ここに突き出てきたものは岩井氏が体現してきた従来からの流れとは相当に切断されたものにならざるを得ないことは明白だった。(前)議員集団を中心にする新政党であるが、労働運動や市民運動あるいはそれらの全国的ネットワークの支えを欠いた、あるいは二義的なものとした新政党というものが提起されたのである。実質として、「連帯」はすでに護憲ネット的な存在を前提的に考慮するものではなく、また内心、市民戦線とのつながりを尊重するものでもなかった。また相対的に独自の枠組みを崩さなかった「新党・護憲リベラル」も事実上、対等のパートナーとして処遇するというのでもなかった。労働戦線や市民戦線を二義的なものとする「新党」がどこまでの求心力を持つものかは言及には及ぶまい。にもかかわらず「急速に新党に転化する」ものとして「護憲のための連帯」を位置づけた人々は「新党という名乗り」がすべてを解決する魔法の杖のごとく理解し行動した。そしてそうした理解は、後の「憲法・みどり・農の連帯」結成と選挙にまで貫徹した。協同や共闘、合流のための必要なプロセスや相互の一定の信頼関係の醸成という必要な論理は基本的に無視されていた。
 こうした「クーデター」にたいして、対応方針は大きく二つある。一つは無視であり、あとの一つは「闘い」である。市民派(市民の政治全国ネット)は、多分に反射的に「闘い」を選択した。その内容は「連帯」を諸勢力の対等・平等の開かれた協同の場とする要求であった。労働戦線は概して第三者的、沈黙的に終始した。積極的なイニシアティブを発揮するには労働戦線の共通性が解体されていた、というべきであろう。すでに「岩井氏を結び目とする」結集という図式が揺らいでしまっており、その後の方向はいまだ出ていなかった。
 できあがった「連帯」は端的に言って「得体の知れない」ものである。「闘い」の過程で調停役を引き受けた岩井氏が内田事務局長路線を支持し、表面は「平和憲法の会21」的枠組みを引き継ぐ形で正式に発足したのであるが、実質的内容としては「護憲ネット」の色彩は全くなくなり、労働戦線的要素も大きく後退し、(前)議員集団の、選挙立候補を射程に入れた個々的な利害の観点からの行動に振り回されるものであった。上田哲氏の東京知事選出馬問題に象徴されるように、「連帯」は集団としての意志結集を築き上げるという水準には到底近づきえないようなものとして生まれたにすぎなかった。

(10)平和・市民」への動きは、直接には「連帯」に関係を持たなかった護憲ネットの内部の「護憲社会党兵庫」とそれに連動するグループと護憲リベラルとの接点から生み出されてきた。選挙共闘の模索が「選挙新党」をも領域に含むという討論過程から、「連帯」、護憲社会党・護憲ネット、護憲リベラルという討論関係がつくられていく。「連帯」からすれば形式論的な理屈的にはねじれたことであるが、「連帯」に一部であるはずの護憲リベラルが、独自の位置をもって当事者として登場した。これは「連帯」が護憲ネットからしての交渉対象ではすでにないことの反映であった。
 「平和・市民」への討論のイニシアティブは、したがって「連帯」内部の「新党」派にはなかった。つまり、(前)議員個々人が自らの利害の観点から行動し、その立場から組織的ヘゲモニーを掌握しようとするような水準のままで護憲ネットが討論参加することはありえない。護憲リベラルと護憲社会党の選挙バーターという利害関係においては個々の前議員集団の利害関係は問題にならない。「議員は落選すればただの人」であるが、とりわけ社会党組織という傘から離脱した前議員が個々的に組織的力を有している訳ではなく「新党」の装いで再度「勝負する」ということであるから、そうした個々的な「勝負」に無関係な人々からすれば第一義的な討論対象とならないのは自明である。
 こうして「平和・市民」への討論は、それぞれに「資産」を持っている諸グループの利害に基づく選挙協力への話し合いという、ある意味では「鮮明かつリアル」な場となっていった。この「リアルさ」の上に「護憲派・市民派総結集」という大義名分が重なり、同時にその行く先が(選挙のための)「新党」であるという図式ができあがる。「連帯」内部の「新党」派勢力が正面から抵抗しにくい構図として討論枠組みが進行した。

(11)そのほころびが見え始めるのは護憲ネット勢力が「閣外協力」という方針を決定した以降である。兵庫護憲社会党の選挙戦を除いて護憲ネットが退却を開始する中で「平和・市民」の領域的な縮小、その力量の範囲も定まり始める。労働戦線的な側面のエネルギーが薄く、岩井氏は参加せず、小森議員も退却を始め、押さえ込まれていた「新党」派の「反乱」の余地が生まれた。だが、「平和・市民」が体現する「護憲派・市民派総結集」という名分と正面から対抗するエネルギーをもつような「新党」派の結束の内実があるわけではない。個々人の利害関係での結合であるから、「新党」派がその構成部分の全部の要求を満たすということができるわけもなかった。こうして「新党」派の結束が崩れ、前議員集団はそれぞれに自らの道を求めて去り、現職のいとう議員の個人的利害に集約された分裂劇となっていく。いとう議員の「決断」は大多数からすれば意外であった。その理由はいまだ不明であるとしかいいようがなく、「議員心理」としてしか理解できない。いとう議員が表面的には「議員心理」からもっとも遠い人であるという、一種の信頼感を諸方面に与えてきただけに意外であり、残念でもある。だが前述したように、いとう議員をかついだ「新党・民主フォーラム」の論理は明白であり、その帰結の惨めさも言及するにおよばない。願わくは二度とこうした「新党・民主フォーラム」的な発想が現れないことを期待するだけである。
 
 3、低迷した独立派の労働戦線
 
(12)「リアリズム」的な選挙共闘政党として成立した「平和・市民」ではあるが、その展開過程と評価はすでに報告しているので重複は避ける。ここで踏み込むべきは、労働戦線の協同を基軸に構想されてきた一連の枠組みをいかに把握するかにある。
 八〇年代初頭からの一連の推移がワンサイクルを終えた、あるいは終えつつあるのではないかと理解せざるをえない事態について触れなければならない。
 いわゆる「国労史観」は論外ではあるが、国労の闘いが九〇年代の展望の重要な要素となってきたことは事実である。そうした国労の闘いを軸にして社会党から自立した新たな政治表現の可能性を追求しようとしてきたが、労組機構(社会党党員協も含んで)は社会党の流れ解散か分裂かあるいはなにものへかの吸収かを問わず、それとは相対的に距離を置く、現実の生身の機構として企業別労働組合的特性にあえて逆らうことなく行動しようとしているように見える。
 それは現在的には「社会党的なくびき」とも表現できるが、必ずしもそれには限定できない、労組(官僚)機構の資本との関係におけるリアルな論理の反映と理解できる。こうした客観的強制力に抗するために必要なものの一つに政治性がある。独立左翼の政治性もまた明らかに、客観的に独自的位置を衰退させてきている。

(13)「平和憲法の会21」が明らかにした労働戦線の「足踏み状況」は、すでに「平和と地域運動連絡会議」に対する国労の対応に兆候として明白だった。国労中央は一時、有力各地本の代表を参加させたことがあったが、結果としては「平和と地域運動連絡会議」が政治的な社会党からの政治的自立の媒体になることへのブレーキの役割を果たしたという経過がある。日教組左派グループの中には、もちろん奈良県教組における「平和と地域運動・奈良連絡会議」のように「平和・市民」に積極的に関わった例もあるが、大枠としての「連絡会議」は社会党との関係における政治的立場として立ち往生と表現せざるをえない状況に置かれてきている。
 企業別労働組合機構としての「大衆基盤」の維持を優先させるとすれば、資本との一定の「調整」が不可欠ともなる。連合型への雪崩は官公労労組においても「労使正常化」への希求、すなわち労組(官僚)機構の企業内的安定の追求として進行して行っている。象徴的な日教組の「路線転換」の枠組みに正面から対抗するとすれば、それは必然的な組織的「分裂」の要素を含むことになるが、それは労組の「大衆性」とのバッテングに転化する可能性をはらむ。結果として、可能性は不断に限りなく存在するが、現実の選択としては結びつかないという事態として推移していく度合いが強くなる。
 そうした力学に抗するものとしての独立左翼の政治性という観点から見るとき、七〇年代後半期以降明確に持続されてきた左翼的労働運動の求心力の衰退は、今日、否定しようのない現実としてある。「平和憲法の会21」の形成過程において、独立左翼は全国連合的な主体としては一度も登場しえなかった。結果を云々するだけではなく、そうしたことへの努力の過程としても見るべきものはなかった。
 独立左翼の労働戦線は政治的に風化してしまったのかどうか、あるいはまた、そうした独立的な政治性格を体現し、結集しようとする努力はもはや、むなしいものであるのかどうか。あるいは、そもそも「独立左翼の労働戦線の政治性」という視点に関して否定的に構えるのかどうか。そして、これらすべてに対する回答はすでに出ているのかどうか。
 われわれは否と考える。

(14)この十余年を要約してみたい。
 まず第一に、総評解体の過程において、独立左翼は基本的に「企業別労働組合」の論理から脱出することを追求してきた。もちろん整合的に物事が組み立てられたといとはいえず、多分に試行錯誤を伴うかつそうした展望が明確な成果を収めたともいえないが、少なくとも組織技術論的な「勢力温存」路線にもとづく連合型組合への埋没という結論からは逃れようとしたし、そこでの全国性としての政治的結合力を保持しえたことは事実として評価されなければならない。
 第二に、そうした闘いは例外なく少数派への道を選択することであった。企業組合の大多数の「大衆性」から「独立」するということでもあるがゆえに、その少数派は再度の大衆の獲得をめざして、新たな必要な論理をつかみ取らなければならない。一つの指針として出されたものが「ゼネラルユニオン論」であった。企業組合の論理からゼネラルユニオンへの論理への飛躍は、戦後日本労働運動のなかで長年いわれ続けてきた論理でもあり、各企業の内部で不可避的に少数派にならざるをえない左派が企業の枠組みを乗り越えた地平からの再組織化をめざすという視点は多数によって採用された。
 しかしそこでの問題点は、そうした提起がいかにも組織論的レベルでの提起、あるいは抽象的にならざるをえない「階級」論に依拠していること、例として参照されるものが多くはイギリス労働組合運動の経験であり、社会構造的、経済実体的な分析、運動の形成という点ではいまだほとんど検討されてきていない、という事実であった。
 第三にしたがって、社会的な「階級性」が実態感覚としてはつかみきれない高度経済成長以降の日本社会における左派の階級性をもった労働組合運動はいかなるありようがあるのか、労働組合はまずは企業内部での利害表現から社会的な利害表現の道筋を求めて飛躍するところからその試みを開始しなければならない。社会的労働運動論が提唱されてくる。
 
(15)以上の一連の過程の検証が今なされているとはいえないが、そもそもの問題設定としては肯定できる。繰り返すが、ゼネラルユニオン論と社会的労働運動論は切り離して提起されたものではないと理解される必要がある。たしかに、従来の総評左派的戦闘的労働運動の諸伝統を多分に引きずった左派労働運動が容易に社会的労働運動・ゼネラルユニオン論の地平によじ登れるものではないことがさまざまな形で立ち現れてきたし、それらもあって現在的にはそうした問題設定の深化・追求が弱まってきていることも否定できない。また弱まるにはそれなりの理由があるはずであり、大きな枠組みでの問題設定にいまだ多くの弱点があるというべきかもしれない。社会的労働運動論が「社会的課題」に取り組むというレベルで推移してきていることもまた、越えられていないなにものかの反映であるのかもしれない。おそらくそうであろう。
 だがそれらを通じて明らかなことは、ゼネラルユニオン論と社会的労働運動論の結合ということにおいて左派労働運動の新たな政治的基軸を見いだそうとしてきた意識総体が、今日明らかに霞の彼方にあることである。たらざるは何か、克服すべきは何かを切開する意識的作業の衰退それ自身に最大の問題があると考えるし、われわれもそれに直面していると考える。
 独立左翼の労働戦線が自らのよってたつべき主体的展望を切り開く努力を放棄すれば、その独立的政治性も解体する。九四年〜九五年を通じて明らかになった独立左翼労働戦線の求心力の解体の影響は、政治的には旧総評左派運動への「従属」という姿をとって現れたといって過言ではない。そのままで推移すれば、結論は、旧総評左派労働者運動の中から出てくる可能性や意識性が結実することなく連合型への雪崩の中に再度舞い戻っていくというサイクルをに介入できないとになっていくことになりかねない。
 
 4、検討すべき任務と課題
  
(16)われわれは今日、国際的・国内的な政治転換のただ中にある。国内的に、それは社会党・総評構造という過去数十年の日本民衆の政治的結合を代表的に表現してきたものの最後的解体過程にある。この最後的過程において、新たな民衆的結合を求める一つの、かつ重要な水路としての労働組合運動と労働運動の転換飛躍を求めてきたサイクルが閉じつつあるといわなければならないことはきわめて重大である。こうした現状は、あらためて左派労働戦線そのものを対象化し再検討と再出発を求めていると考えざるをえないのである。
 岩井氏は『国際労研』誌において、参院選の結果が出ていない段階で、護憲派結集の大波はあらためて来るという期待を表明していた。「平和・市民」への参加を留保した岩井氏は社会党の消滅=左派社会党の再建という展望を最大の節目とし、その観点から行動したことはすでに述べたが、それは同時に何年も引き延ばされてきた「事態」であった。また岩井氏がそう行動せざるをえないことも、その一定の限界を含めて、氏の置かれている位置からして避けられないことも理解するにむずかしいことではない。そうして、岩井氏の基本的スタンス、すなわち社会党左派と市民派、独立左派の結合を求めるという立場の客観的重要性も変わらない。そして岩井氏が結び目となるか、あるいは岩井氏を含んだ「護憲派・市民派」総結集論もまた、今後とも繰り返し提出されてくることにもなろう。われわれはこうした可能性一般に特別の異論はもたない。「平和憲法の会21」形成時点で明らかとなった「弱さ」や「不協和音」を克服できるような再度の試みがなされるのであれば、歓迎すべきことである。
 しかし同じことは二度は繰り返されない。「平和憲法の会21」が内包していた、「護憲社会党」論=「左派社会党」論か、あるいは新たな「政党」なのかについての隠された論点が表面化することは避けられず、また避けることはもはや正しくはない。
 共闘のメリットを推し量り、その上で協同作業のレベルを探るという性格でなされた「平和・市民」への二度の「円卓会議」は、護憲社会党路線と「護憲派・市民派大結集」論のぎりぎりの接点として生まれたものだった。それが護憲社会党兵庫の選挙バーター方針を除いて、結果としては不成立に終わったという事実を無視して次に進むことはできないのである。厳密にいえば、「平和憲法の会21」の発想の底流であった「護憲派・市民派大連合」論はその当初から成立してはいなかったし、「平和憲法の会21」の内部的クーデター騒動の帰結でもある「連帯」はさらにそうした可能性をもたなかった。そして、その現実を共闘のリアリズムで越えようとした「平和・市民」の試みも、大枠においては目的を達成できなかったのである。
 「平和憲法の会21」の「瞬時」の挫折と「平和・市民」の敗北を経た現在、リアルな選挙共闘を模索した相互の位置関係や力量程度のバランスシートは出されたといっていい。次はこの決算書の数字を踏み台にして始まることとなる。
 すなわち状況はより厳しさを増した。戦術協力的レベルでの関係は繰り返し現れ、要請され続けるにしても、今日以降の「護憲派・市民派総結集」論は、「小異を捨てて(置いて)大同につく」という「美しい言葉」一般に依拠するだけではもはや実質的には深まらないと理解すべきである。同時に、左派社会党的なものが一定の必然性を持って成立し、それに参加することが、客観的にも主体的にも問題の中心ということではない以上、新たな政治勢力・政党の形成について主体的な関与の土台、基盤を築くこともより以上に要求される。新た協同のメリットと、協同作業の枠組みの成立の度合いを、リアルに検証しあって成立する「大合流」であること、言い換えればそうしたリアリズムに基づくものとしての「大合流」の可能性を主体的に探り、かつ実現のために闘う意識性が必要である。

(17)全労協的なレベルでの左派労働戦線は大枠として三つの政治的色彩を示している。一つは村山政権との関連における現在的な「非政治化」、二つは護憲社会党(左派社会党)路線、そして三つが左派大連合路線。
 われわれは第三の路線のうちにある。これは護憲派総結集とも護憲派・市民派大連合ともあるいは市民派連合とも、それぞれの見地からの意味づけがされるし、今後さらにそうした規定の仕方をめぐる論議は深まらざるをえないであろう。それを今後の課題と意識しつつも、つくられるべきものが左派社会党的な形の、社会党的なものの「再生」とはイメージはできない。相当程度はそうしたものの尾を引きずるであろうが、変化は必然的である。
 独立左翼の労働戦線は、自らが掲げてきた社会的労働運動とゼネラルユニオンの展望を、新たな社会的な左派政治勢力の形成へと結びつけ、そこにおいて市民運動や市民派政治の水路を通じて形成されてきている新たな政治スタンスや結合の有りようとの接点を見いだすことを課題とすることとなるであろう。
 企業別組合的団結を、すぐに飛び越えることはできないにしても、社会的な存在として自らを位置づけるのでない限りはそうした力学からの脱出はそもそも不可能である。独立左翼の労働戦線は、企業組合的大衆性を犠牲、放棄し、あるいは独立組合として、あるいは明確な左翼反対派として闘ってきているのであるからこそ、社会的な広がりの中での民衆的な結合を共通に必要としているのである。これは、まさに、自らの「孤立」と引き換えにした新しさと新しい大衆性の追求であり、それが企業組合論理と左派性との狭間で苦闘し、ともすれば足踏みを強制される旧総評単産左派との比較での、数少ないアドバンテージの一つである。

(18)新たな政治的結集、新たな左派政党のためには検討を深め、諸問題の再規定を含む多くの努力が必要である。端的に言えば「階級性」と「社会性」、「市民性」とがいかなる関係をとるのかは「階級的労働運動」を標榜してきた独立左派の労働戦線にとっては直接的問題であることは明らかだ。資本主義批判が共通の出発点であることは間違いないが、従来「階級性」と「市民性」が相当に隔絶してきていたことも事実なのであり、そこにおいて「左派社会党」的なものの、不可避的に帯びざるをえない「狭さ」も表現されてきている。
 現在的に、「市民運動」は多分に意識した「個」の意識した選択の要素が強く反映されている。社会的な広がりを持った「市民層の運動」としては基本的には成立していないという指摘も正しいともいえる。だが反面、社会的な形での組織のされ方が、保守党的な「地域末端までの行政機構」のルートや経済利害的な企業ルート、あるいは特殊な利益擁護的圧力団体や業種的結合、さらには宗教的な結合等々として存在しているなかで、労働組合的結合が埋没し片隅に押しやられ、ひいては従来の社会性を急速に喪失してきているということが現状である。
 労働組合的結合の社会的後退は、「市民運動」的な結合の水路によって「補完」される必然があった。あるいはより正確には、「市民運動」として独自化する必然があった。一例として、消費者運動、生活協同組合運動などの拡大が、意識的な活動によって導かれてきた。一部の企業城下町を除けば、労働組合の領域ではなかなか手が届かなくなった労働者の労働者の日常の生活に接近する方式として、こうした生協運動が一定の成果をしめしてきたことに、運動の提起者たちの「先駆性」を見ておかなければ不公平になろう。そのような広がりを持った生協運動的「市民運動」だが、にもかかわらず「社会的な層」としての運動というには相当の断絶的距離があることも事実であろう。
 さらに市民層は政治的に無定型である」というときに、それは「市民層」を積極的に規定しえているわけではない。現在的に「市民層」は、前述の諸々の社会的結合関係にすっぽりとはまっていない、あるいははまりきれない広範な人々の意識の、それも現実の経済関係から分離・遊離された一つの側面の集合体としていえるのであって、西ヨーロッパ的な、中世社会に揺籃された近代ブルジョアジー「市民」としては当然にも成立していない。

(19)他方、戦後日本の労働者運動は労働者階級の社会的な横断的存在という社会構造を背景にせず、従って労働者階級の社会的要求、政策体系というものも具体化はしなかった。たとえばマルクス・エンゲルスの「教育政策」が典型に示す「階級の強化」の視点からの政策体系と日教組運動の政策体系は基本的に無縁であったといえる。
 こうした社会構造における「階級性」はしたがって社会的な表現の仕方としては相当に困難である。戦後期におけるいくつかの路線的提起(革命運動と直結した展望)を除けば、六〇年代以降は特に労働組合運動の直接的な階級性が定式化されてくることは薄れた。協会派が結果として到達したのは「社会党強化」であり、民衆にそうした路線を「強いる」ことは、厳しく、意地の悪い言い方をすれば、まさに基底還元主義的、階級還元主義的な論理のもたらす「セクト主義」そのものであるが、協会派だけを一方的に批判できないことも、われわれを含めたマルクス主義左翼がおしなべて陥っていく論理的陥穽の一つとしてとらえれば自明である。
 あらためて、「今日の資本主義批判」としての原点から、「階級性」を検討・追求しなければならず、同時に「市民層」、「市民運動」との交流、結合を、地域・社会における新たな左派的・政治的結合の具体像の構築へと踏み込むために、積極化していく必要がある。そのために必要な回路として、地方議会選挙への継続的な取り組みが意識されるべきであろう。地方的な運動的蓄積と、全国的な独立左派労働運動の再結合の努力をともに進めなければ、「ワンサイクルの終わり」の現状が提起する左派の「隘路」を主体的に脱却することはきわめて困難であると考える。
  (九月十一日)
第四インターナショナル

第14回世界大会報告

                新たな組織戦術へ

                                          小平宏

 第四インターナショナルは六月初旬、第14回世界大会を開催した。大会には、四〇ほどの国と地域から正式代議員からゲストに至るまで約一五〇人が参加した。旧ソ連邦解体後最初の世界大会ということもあって、熱心な議論が闘わされ、社会主義運動の大衆的な再建の新たな第一歩を刻した。(六面にインターナシュナル・ビューポイント誌による大会報告)

ヨーロッパ、ラテンアメリカ情勢など四つの議題に関して討論

 今回の大会の議題は主要に四つで、「世界情勢」「ラテンアメリカ」「ヨーロッパ」「インターナショナル建設」があらかじめ準備された議案と対案にそって熱心に討論された。
 第一議題の「世界情勢」に関する討論では、旧ソ連邦の解体に伴って市場経済が一般化する状況で、いかにして階級闘争が組織されるべきかが話し合われた。ヨーロッパでは、欧州連合(EU)のもとにブルジョアジーが国際化するとともに、それに対抗する労働者階級も新たな国際主義的対応を求められるようになっている。
また、旧スターリニスト党である共産党がこの間の政治情勢の変動によって大きな変貌を余儀なくされつつある状況の中で、いかにして左翼勢力の再編を革命的マルクス主義に有利なように進めていくかが問題になっている。このような戦後最大の政治情勢の転換期にあって、基調報告は、他組織との融合、他組織への大胆な介入が必要になっていることを訴えるものであった。
 これに対して少数派の対案は、基調報告を基本的に支持しながらも、トロツキスト国際組織としてイデオロギー的に優勢に立てる機会を十分生かしてこなかったことを批判した。また指導部のスターリン主義把握の甘さを指摘し、独立したイデオロギー、組織活動の重要性を強調した。
 第二議題の「ラテンアメリカ」を主題とする討論では、キューバのカストロ指導部による「社会主義」建設の危機と、ラテンアメリカにおける労働者運動の全般的後退の問題にいかに対応するかが話し合われた。
 基調報告は、カストロが市場経済を部分的に導入し、また政治的には官僚化を深めつつあることを認めながらも、キューバがアメリカの資本家を初めとする国際ブルジョアジーの包囲下にあることから、カストロを当面は批判的に支持せざるを得ないこと、彼に対抗する「キューバ支部」建設といったスローガンが極めて非現実的であることを主張した。対案は、これに対してキューバでのトロツキストの主体的活動を開始すべきであると訴えた。
 第三議題の「ヨーロッパ」についての議論では、ヨーロッパ・ブルジョアジーが欧州連合をもとに統合を図っている状況で、労働者運動も攻勢的に国際主義化を図るべきことが主張された。日々の労働組合活動のほかに、旧ユーゴスラビアの民族対立を抜本的に解決するための国際的支援運動、移民労働者の防衛の課題の重要性が指摘された。
 第四議題の「インターナショナル建設」に関する議論では、基調報告は世界政治情勢が急転回する中、反資本主義的な運動主体を非セクト主義的に再編成することの必要性を強調した。共産党の路線はスターリン主義から急速に脱したものになるという予測から、共産党の非官僚主義的部分、エコロジストなどとどのような組織をつくりなおしていくかをともに展望すべきことなどが提起された。少数派は、トロツキスト・イデオロギーの強固な保持を訴え、独立活動の強化を主張した。
 大会は、新たな国際執行委員と統一書記局員を選出し、情勢への大胆な挑戦を確認して閉会した。

スターリン主義の崩壊によって転機に立つインターナショナル

 今日の第四インターナショナルは、ヨーロッパとラテンアメリカを中心として組織されているといっても過言ではないが、これらの地域では旧スターリン主義党がセクト主義的な形態で存在しておらず、再編が急速に進行している。現実にフランス、イタリアなどでは、共産党がトロツキズムの正しさを部分的に認めつつある。官僚指導部と直接的に結びついた部分がいまだに存在し続けている一方、明らかにその統制から脱しつつある部分が出現しているのである。また、ブラジルでは労働者党(PT)というセクト主義的でない大衆的階級政党が存在し、トロツキストもその指導部の重要な一角を担っている。
 世界的規模でスターリン主義運動の崩壊という歴史的状況の中にあって、階級的で、かつ反資本主義的な大衆運動の新しい核が出現しつつあるといってよい。現在の指導部が提起している、他組織との融合なり、他組織への介入という問題は、このような新たな現実に有効に応えていく組織戦術であると考えてよいであろう。
 他方、トロツキズムのイデオロギー的中核をいまだに建設しつつある国や地域においては、当然トロツキズムの主体的な独立活動に重点を置くことが基本になる。指導部多数派と少数派の意見の相違は、こういった地域間の情勢の相違の反映であるとみることができる。結局、それぞれの地域に現状に合わせた組織建設方針が容認されたといってよいであろう。
 これまで第四インターナショナルは、スターリン主義官僚が強固に存在していた現実に対して、民主主義的社会主義を対置して対抗していたといってよい。ところがこの現実は一九九一年末をもって終わった。労働者運動の一翼を担っていたトロツキズム運動もこの社会主義の苦い現実の影響をまったくこうむらなかったわけでは必ずしもない。が、その被害はおおむね軽微で、革命的マルクス主義の最も強固な思想的拠点として大きな可能性を担った勢力として踏みこたえているのが現実であろう。大衆的な労働者運動の再建を自ら担って情勢に挑戦すべき現状にあるのである。
 そこで、可能な地域で採用されつつあるのが、他組織との融合、他組織への介入という大胆な組織戦術なのである。このような戦術は、かつての共産党、社会党への加入活動以来の組織戦術であるといってよいかもしれない。ともかく、トロツキズムの小さな独立活動を超えた組織上の新たな挑戦が開始されたといってよい。しかしながら、このような戦術は、トロツキズムがサークル活動にとどまる運動ではなく、第三インターナショナルの堕落を超えるべきインターナショナルとしての運動であるかぎり、当然考慮されるべきことである。
 しかし、このような戦術はどこでも採用できるわけではない。地域によっては、独立活動以外は非現実的であることも事実である。そのような事実を踏まえながら、新たな現実にともかく挑戦してみようというわけなのである。

エルネスト・マンデルの死 迫る国際指導部の世代交代

 戦後の第四インターナショナルの運動を担った最大の人物は疑いなく、マルクス主義経済学者として世界的に知られたエルネスト・マンデルであった。彼は大会冒頭部で、統一書記局を代表して、一九九一年早春に開催された前回の第十三回世界大会から今回の第十四回大会までに闘いのうちに倒れたトロツキストたちの名前を読み上げ、その業績を紹介して弔意を表したものだった。大会期間中も、多くの同志たちに直接話しかけ、また大会で発言して現役の革命家としての役割を果たしていた。しかし、彼の活躍は病気をおしてのものだった。大会が終了して、ほんの間もなくの七月二十日、彼自身が亡くなってしまった。彼にとっても志半ばの死であったに相違ない。
 マンデルは、トロツキー没後、ギリシャのミシェル・パブロ、フランスのピエール・フランク、アメリカのジェイムズ・キャノンなどが細々と継続していた第四インターナショナルの運動を若い戦闘的世代へとつないだ。今日のトロツキストで、マンデルの教えを受けなかった人はほとんどいない。彼の思想になにほどかの批判を宿していたにしてもである。
 マンデルは、特に一九六八年五月のフランスの革命を闘った青年活動家たちを、確固たる信念をもったトロツキストに育てあげた。その意味でマンデルは、トロツキーと今日の世界の第四インターナショナルの指導者たちを橋渡しする重要な役割を果たしたということができるであろう。同世代には彼以外に、イタリアのリビオ・マイタンという重要な指導者が存在するが、マンデルほどのインパクトをインターナショナル内外に与えうるとは思えない。マンデルの思想と実践は、パリの五月革命を機に成長してきた新しい世代の活動家たちに明確に引き継がれた。
 今日のインターナショナルは、トロツキーが守護した革命的マルクス主義の精神を新たな現実をバネに飛躍させようとしているといってよいだろう。旧労働者国家圏からはポーランド、チェコ、ロシアの有力な活動家が大会に参加した。アジアからも大衆的基盤をもってスリランカの代表が、また香港から重い中国の現実を背景にした若い活動家が、さらにフィリピンから新しい政治的活動の場を求めてゲストが参画した。
 旧ソ連邦の解体を契機として第四インターナショナルは、もはやセクト的規模で充足していた時代を明確に終えた。トロツキーというまさしく孤立した闘いを余儀なくされた革命家の周辺的組織から真に大衆的なインターナショナルへの挑戦の時代が開始されたといってよい。挑戦すべき課題に比して第四インターナショナルの現実はまだまだ貧しい。しかしながら、個々の活動家の意気はまことに軒高である。
 エルネスト・マンデルという指導者の死後、第四インターナショナルはどのように発展していこうとしているのであろうか。世界の運動にとって、またアジアの運動の発展にとってのわれわれの任務はますます重い。

新書紹介 吉見義明著(岩波新書) 「従軍慰安婦」

      日本人の戦争責任の一端を解き明かす

用語の問題

著者の吉見義明(敬称略)は、一九四六年生まれ、現在は中央大学商学部教授、専攻は日本近現代史と奥付に紹介されている。
 「序」において著者は次のように語る。
 「本論に入るまえに用語の問題を検討しておきたい。もっとも気になるのは、書名ともした「従軍慰安婦」である。「慰安」ということばの本来の意味と、実際に強制されたおぞましさとの落差に、いっそう許しがたいものを感ずるという声は多い。……また、「従軍」という語には、元来「自発的」という意味はないが、「従軍記者」のようにみずからの意思で、あるいは役務の内容に納得して参加するニュアンスがあるケースもあるので使うべきではないとする意見もある。
 「従軍慰安婦」とは日本軍の管理下におかれ、無権利状態のまま一定の期間拘束され、将兵に性的奉仕をさせられた女性たちのことであり、「軍用性奴隷」とでもいうしかない境遇に追いこまれた人たちのことである。わたしも「従軍慰安婦」という用語が適当だとは思わない。しかし、すでに広く流通しており、代替すべきことばはまだ成立していない。したがって本書では、従軍慰安婦という用語を用い、その実態を検討していくことにしたい。……
 なお、「売春婦」「芸娼妓」「酌婦」「女給」といった用語もまた、本来は「性的搾取を受けた女性」という意味をもつ用語にいいかえていく必要があると思っている。わたしとしては、「従軍慰安婦」をふくめ、いずれもカギ括弧をつけたいと思うが、読みやすさを考え、いずれも省略する」
 著者のこうした姿勢に、すでに本書の基本的な立場が明確に表れている。と同時に「用語にいいかえていく必要があると思っている」という姿勢に注目すべきだと思う。こう思うのはあるいは私だけかもしれない。
 アメリカで「神」を男性と記述する聖書の書き換えを要求する女性の運動があった。それを新聞で読んだとき、歴史的に定着してきた用語だからやむを得ないのではないか、というのが私の感想だった。宗教が一面では、性差別や民族差別をはじめとする様々な差別の基盤となってきたという歴然とした事実があるのだから、これは真剣に考えるべき運動だったと今にして思う。神学について知らない私だが、そもそも神に「性」を与えて人間になぞらえること自体が神をおとしめるのではないか、との根本問題が存在すると思う。著者の、問題を考え抜こうとする姿勢、「広く流通して」いるからやむを得ないという立場に立たず、変えていこうとする姿勢には学ぶことが多い。
 こうした自戒を含めて著者の「用語の問題」に対する姿勢に注目すべきだと思うのである。

山崎朋子さんの書評

 本書について日経新聞(7月9日号)に山崎朋子さんの書評が掲載されている。以下、その三分の二を引用する。
 「かつてわたしは、娘子軍とも呼ばれた〈からゆきさん〉を日本のアジア侵略の先遣隊と位置づけたが、〈軍隊慰安婦〉は、その後継者として、まさしくアジア侵略そのものを行った日本軍隊の不可欠要員だったのだ。必要がなくなると遺棄された点まで彼女らは全く同様なのだけれど、唯ひとつ、重要な違いは、前者が民間業者によるものであるのに対し、後者は国家権力の発現としての軍隊の直接関与によっていたという事実である。
 著者の吉見義明氏は、その軍隊関与の決定的な資料を発掘し提示された功労者である。一九九一年暮れに来日し、決死の思いで辛い体験を初めて証言した韓国女性の金学順さんその他の日本国家への抗議を、民間業者のせいにして逃げ切ろうとした政府の、いわば退路を断つ役割を果たされたからだ。三年前には『従軍慰安婦資料集』の大冊も出されている。
 この本は、その大冊を一般向けに分かりやすく概説されたおもむきのものだが、根底には、日本軍隊への供犠者であり最大の被害者であった女性たちへの痛恨きわまりない思いがある。と同時に、そうした性奴隷を輩出させて恥じることのなかった軍隊への、さらには現在も女性を性の対象物としか見ない同性への、痛烈な批判がある。その意味でこの本は、歴史的事実の報告にとどまらず、日本男性の女性観を撃つ性格を併せ持つ貴重な一冊であると言えよう」

女性に対する複合的人権侵害

 著者は「日本社会の特質」として、「近代日本自体が、男性の性的放縦、つまり女性の人格・人権を無視することによって男が性的欲望を達成することを認める文化をもっており、第一次世界大戦後には、それが……民衆にまで広がる条件ができたことと深い関係があったと思う」と分析し、従軍慰安婦問題の本質を次のように述べている。
 「第一に、軍隊が女性を継続的に拘束し、軍人がそうと意識しないで輪姦するという、女性に対する暴力の組織化であり、女性に対する重大な人権侵害であった。従軍慰安婦たちは、公娼制度のもとで認められていた廃業の自由や通信・面接の自由でさえ保障されない、まったくの無権利状態に置かれていたのであった。
 第二に、人種差別・民族差別であった。……日本人慰安婦はおおむね成年の売春婦にかぎられていたのに対し、他のアジア人の慰安婦の大多数は未成年者であるか、成年であっても売春婦ではなかった。この背景として、日本の男性社会にアジア人女性に対する性的蔑視意識が広くあったことを見逃すわけにはいかない。……
 第三に、経済的階層差別であった。慰安婦として徴集された女性たちの多くは、オランダ人女性を別にすれば、……いずれも経済的に貧しく、学校教育を満足に受けていない女性たちであった。……
 第四に、国際法違反行為であり、戦争犯罪であった。……未成年者を連行したり、債務奴隷状態にしたり、だましたり、強制的に連行したりした事例、および慰安所で強制的に使役した事例がいかに多かったかは、すでにみたとおりである。
 従軍慰安婦問題とは、以上のような複合的な人権侵害事件であった。そして、これが決して偶発的なものでなく、国家自身が推進した政策であったところに問題の深刻さがあった」

 本書のテーマ自体が非常に重い。そして、組織内女性差別を総括できていない私たちにとっては、この上なく重い問題を扱っている。本書を読むとき、思わず姿勢をただしたほどである。著者が「日本社会の特質」として指摘する問題は、私の子ども時代に形成されてきた性意識の構造を浮き彫りにするようでもあった。
 また、先の国会で極めてあいまいな「戦後五十年国会決議」が採択され、その過程と内容がアジアの人々をはじめ世界から嘲笑を浴びた。そして、相も変わらず戦争責任を認めない永田町の政治家が愚劣な発言を繰り返し、日本社会は「敗戦」を「終戦」といいつくろっている。現実にきちんと対面できない、しようとしない日本国家と社会――これを最も象徴的に体現しているのが、本書のいう従軍慰安婦問題であろう。
 日本人は、戦争の被害者であると同時に、加害者でもある。後者に関する視点をきちんと保ち続ける姿勢が不可欠である。小林信彦の小説「ぼくたちの好きな戦争」であったか、そこでは戦争初期の「勝利」に熱狂する人々の姿が描写されているが、旧天皇制と軍部は人々の支持がなければ戦争に突入できなかったのは間違いない事実である。加害者としての日本人を明確にする作業がさらに要求されているといえよう。
 著者が最後に掲げている「一、従軍慰安婦に関する政府所管資料の全面公開と、すべての被害国の証人からのヒアリング 二、国際法違反行為・戦争犯罪を日本国家がおこなったことの承認と謝罪 三、責任者を処罰してこなかった責任の承認」など六つの措置を実行せよ、との提案は、加害者としての日本人を明確にするために不可欠である。~S~(高山徹)

吉田文彦著(岩波新書) 「核解体」

         人類は恐怖から解放されるか

 核拡散防止条約の無期限延長が決まった途端、中国が核実験を行い、また、大統領選挙の公約として核実験再開を掲げていたフランスのシラク大統領が公約の実行を宣言した。核実験の全面的な禁止(もちろんの各種の抜け穴があるだろうが)が予定されているので、その前にやってしまえ、というわけである。
 ところで、われわれは、旧日本支部の時代には「労働者国家の核実験、核兵器保有支持」の態度をとっていた。そして、他方では核兵器廃絶を願望し、スローガンとして掲げていた。この態度は、労働者国家無条件防衛を一つの絶対的な前提とし、他方で「世界的二重権力構造」――冷戦構造と帝国主義勢力の核武装という現実を前にして導かれたものだった。これは正しかったのであろうか。
 この態度のうちには、帝国主義(とその核兵器)が存在する限り労働者国家の核武装は必要悪である、との認識があった。したがって、帝国主義を打倒して冷戦構造を終わらせることが核廃絶への唯一の道である、との論理が存在していたはずである。
 私は、この論理の明確さと単純さが好きである。だが、この論理を貫こうとする場合、一定の前提条件が存在しなければならなかったと思う。つまり、核兵器を「必要悪」という場合、その必要性と核兵器の反人類性との比較、そして、この論理が無意識のうちに承認していた「核抑止力論」の徹底的な吟味である。この二つを実行してからのみ、労働者国家の核武装支持の論理を展開できたのではないか、と思う。
 ところが、われわれはこうした作業を実行したのであろうか。そうではない、と思う。しかも、こうした態度、つまり帝国主義を打倒しない限り核廃絶は不可能である、という最後通牒的な態度は、核廃絶を心から願う人々にとってはとてつもなくごう慢なものに映ったに違いない。
 以上のような思いをさせられたのが本書である。
 と同時に、帝国主義を打倒したのではないが、少なくとも冷戦構造が終わったのだから、核兵器廃絶についてわれわれは根本的に考え直さなければならないのも事実である。
 本書の著者は、一九五五年生まれの朝日新聞外報部記者であり、これまで共著であるが核兵器、軍事関連の本を出している。著者は「はじめに」で次のようにいう。
 「冷戦後の核は、ヒロシマ、ナガサキという惨劇を生んだ第二次世界大戦という「熱戦」時代の核、米ソがイデオロギー的に対決した冷戦時代の核とは異なる、新たな「効用」をを背負って、残存し続けようとしている」
 「核解体の時代を迎えて、私たちが直面している課題とは何か。核廃絶への道筋を敷くには、どのような模索が必要なのか。こうしたテーマの奥底は、計りしれないほど深い。だからと言って、目をそむければそむけるほど、核の居座り状態は続くことになるだろう」
 こうした問題意識を貫く本書の章構成は次のようになっている。
 はじめに―「熱戦」、冷戦、そして
 核だらけの地球
 軍縮の序曲
 核解体の時代
 プルトニウムの逆襲
 拡散していく核
 地域問題と核
 実験全面禁止への道
 「核依存」の解体へ
 あとがき
 著者は、あとがきの中で、レーガン政権の国家安全保障会議の上級スタッフとなったステアマン博士との関係を述べている。
 「博士からは、核問題の実態について、多くを学ばせてもらった。だが、ある日のこと、博士に異議をさしはさんだことがあった。
 「核を抜きにして現実の国際政治を議論できないのは、よくわかります。しかし、核に依存した世界、核への依存心をいつまで継続していくつもりですか。核時代には、終わりはないのですか」
 博士は、少し間をおいて、こう答えた。
 「哲学的な質問だね……。アメリカは、大量の核保有を前提に万事を考えることに慣れてしまっている。簡単には後戻りできない。この質問には、被爆体験から非核政策をとっている日本の人たちのほうが、より明確な回答を提示できるのではないかな」
 これを博士の「宿題」と考える著者は、本書が一つの方向性を示すものであり得ることを願っている。
 冷戦後の核廃絶への道を考え直していくうえで、そのために必要な一書であろうと考える。(高山徹)
第四インターナショナル第14回世界大会

一九九五年六月六−十日に開催

           インターナショナル・ビューポイント誌報告

 第十四回世界大会の主要な論点は、次の四つであった。第一は、世界情勢に関してであり、資本主義のグローバリゼーション(地球化、世界化)とその危機、現在の基本的な政治傾向、東欧における資本主義の復活が中心的なテーマであった。第二の論点は、ラテンアメリカの現状と展望認識についてであり、キューバのカストロ政権の動向が特に注目された。第三の論点は、西欧の基本的な社会政治情勢であり、左翼の現状と欧州連合(EU)への対応が関心を集めた。第四の論点は、現代のグローバル化した新しい時代において革命党とインターナショナルを建設するための戦略とその諸問題をめぐるものであった。
 特別の討論や作業グループの会議、小委員会などが、フェミニスト活動、青年対策、エコロジー、ボスニアとチャパス(メキシコ)との連帯運動、第三世界の債務を帳消しにする運動について開かれた。大会はまた、いくつかの国における諸グループと第四インターナショナルとの関係という組織問題を検討し、決定した。大会はまた、ドイツとメキシコにおける第四インターナショナル勢力の分裂について討論を行い、関係する諸党間での共同活動への道を追求した。
 スターリニズムの崩壊と持続する資本主義の危機(一九七〇年代に始まった危機の長期波動の継続に対応する危機)は、矛盾する影響を及ぼしてきた。スターリニスト体制が崩壊した社会における資本主義復活に関連する神話と幻想は、実際の市場経済に直面して消えてしまった。しかし、社会主義への信頼が失われたこの時代にあって、社会経済的な危機への反応は、民族や人種、あるいは宗教的な性格をもつ極めて反動的なものとなってしまった。
 だからこそ、世界規模の社会主義への展望をもつ反資本主義運動を、社会民主主義とスターリニズムとの二重の失敗の結果として生じている労働者運動の再編を考慮して再建することが、緊急の課題となっているのである。
 帝国主義が優位な世界的な力関係にあって、反資本主義左翼の隊列における政治的な混乱は、数多くの政治的、時にはイデオロギー的な屈服さえもたらしている。だが、他方では、スターリニズムが形成してきたセクト主義的な傾向――これが過去数十年間にわたって反資本主義左翼に根付いていた――が大きく克服されてもいる。スターリニズムという忌まわしい歴史から教訓を学ぼうと決意し、流れに抗して資本主義と闘い続けようと決意をしている勢力の再結集は、一連の国で実現しつつあり、その規模の大きさからすれば、この勢力こそが新しい時代における中心勢力であると考えるのは、まったく正当である。
 この再結集は様々な形をとる。ある場合には、反資本主義勢力の広範な再結集があり、それはスターリニズムの分解だけに由来する再結集ではない。他の場合は、革命的左翼の内部で進行している変化に根ざす諸傾向の狭い再結集である。これは時には、民主的な複数主義にもとづく新たな政治組織の形成という形をとる。その新しい組織は、参加した諸傾向の違いやそれぞれの独自性を尊重し、しかも、統一行動と集団的な規律を基礎とし、選挙戦および基本的な社会的、政治的な闘争の両方の分野で行動することになる。
 この可能性のどちらかが存在するすべての国において、第四インターナショナルの諸組織は、この再結集過程に参加する用意がある。われわれは、これを世界規模の反資本主義左翼の再結集に向けた重要な一歩と考える。国際的なレベルでは、第四インターナショナルは資本主義とスターリニズムとに対する長期の闘いの伝統をもつ、この過程への積極的な参加者である。

代議員、ゲスト 大会への挨拶

 百五十人の参加者は、次の諸国のインターナショナルに関係する組織、グループの代表などで構成されていた。
 オーストラリア、オーストリア、ベルギー、カナダ/ケベック、デンマーク、エクアドル、フランス、ドイツ、イギリス、ギリシャ、香港、インド、アイルランド、イタリア、日本、レバノン、ルクセンブルク、モロッコ、メキシコ、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、ポーランド、ポルトガル、プエルトリコ、セネガル、南アフリカ、スペイン、スリランカ、スウェーデン、スイス、チュニジア、トルコ、ウルグアイ、アメリカ合衆国(ABC順)。
 アルジェリア、ボリビア、チリ、コンゴ、グアドループ、イスラエル、ヨルダン、マルチニク、モーリシャスの組織、グループは、財政的な問題あるいはビザの関係で参加できなかった。
 ゲストとしては、オーストラリアの民主社会党、ベルギーの統一左翼と三大陸センター、ブラジル労働党(PT~K~)、アメリカのソリダリティ、バスクのZutik、フランスのルットウーブリエ、フィリピンの人民共産党、MLCB、Bisig、ロシア労働党、イタリアの共産党再建派、セネガルの民主主義と社会主義のためのアフリカ党から参加した。
 大会はまた、イスラエル占領地のパレスチナ解放人民戦線(PFLP)をはじめとする文書による多くの挨拶を受けた。
(インターナショナル・ビューポイント誌7月、268号)

フランスの核実験反対

                                   ジャン−ルイ・ミシェル

 広島と長崎への核爆弾から五十年、当時はフランスの植民地であったアルジェリアでのフランス最初の核爆発から三十五年、虹の戦士号に対する破壊活動から十年、そして核拡散防止条約の無期限延長から数週間、フランス大統領シラクは、自らの本質を極めて露骨に示している。
 この挑発行為の理由は明白である。第一は、ワシントンやハリファックス、カンヌで行われる重要な国際会議を前にして、自らの力を強硬なジェスチャーで自慢せよ、という時代遅れになった熱心な人物からの雷光がある。なんと哀れな~GAJFB037~ シラクは、かつてのフランス大統領ドゴール将軍ではありえないのだ。そして一九九〇年代の核兵器政策は、ドゴール将軍の「私は核兵器を保有している。それ故に私は精神的に存在しているのだ」という計算の上には成立しえないのだ。
 第二に、もちろんジャック・シラクという人物に予測できない側面がある、ということがある。この側面は、今年五月のシラクの大統領当選以前から彼の支持者たちを心配させていた。そして、この事実は、この挑発行動がヨーロッパのいくつかの首都で生み出したぼう然自失状態を確実に増やした。
 われわれのこの国の孤立、消え去った偉大さを夢みるというこの戯画は、われわれのひとりよがりのアイデンティティの危機をあらわにした。そして、なんと憎悪すべき約束をわれわれは与えられたのであったか――その一部をシラクから、そして国民戦線(NF)のルペンから。
 大統領決定のアメリカ式の強化と、「私が決めたのだ」という反民主的な態度、これらは、われわれが考えていた以上に国の内外で人々の意識をいらいらさせている。時代が変わったのだ。
 八回の核実験を行う理由として、既存ミサイルの信頼性確保、つまり老朽化の阻止があげられた。しかし、目的の一つに核兵器の小型化がある。小型化によって実際の「作戦」での使用を容易にしようというのである。
 シラクの前任者たちは、何度にもわたって軍からの圧力の下に「伝統的な」核制限政策の破棄を図ってきた。核実験の目的が使用が容易な核兵器の開発にあるのだからこそ、核実験を阻止しなければ、精密な核兵器開発競争を許すことになるのだ。
 しかし当面、アメリカとドイツの政府は、フランスとは違う技術的、軍事的な重点がある。だが、イギリスとフランスが基本的に一致している可能性がある。このことが、ヨーロッパにおける軍事的、政治的な同盟関係に変化をもたらす可能性がある。
 核実験を行う最後の、しかもそれなりに重要な理由は、大統領とその党、RPRが国民戦線との関係で危険を冒さないと決定したことにある。社会党大統領時代にひどく傷つけられたフランスの栄光を守れという主張(を核実験で実際に展開しようとすること)は、右翼政府のイメージをその潜在的な支持者の間では改善することになろう。そう考えない限り、これら投票者たちが巨大な経済的、社会的なコストがかかるシラクを支持した理由が説明できない。
核兵器は、すでに軍事費の三分の一を飲み込んでいる。そして、軍事費は、軍事目的の研究開発費を除いても、国家予算の二〇%を占めている。核兵器関連の支出が増えれば増えるほど、予算の緊縮さが強まる。
まさに、共同の大きなイニシアティブが必要である。男女、青年、政党、労働組合、その他の政治組織、市民、文化団体、宗教団体などを結集できるイニシアティブが必要である。死の論理、人類と生態系破滅の論理を拒否するすべての人々が結集できる場が必要である。フランスやその他の国で一連のデモを展開して、核実験反対の運動を国際的なものとしなければならない。核実験計画の再開をやめさせなければならない。もちろん、最終目標は、核兵器の廃絶である。そして、その第一歩が核実験停止状態の継続である。
(以上は、フランス支部機関紙ルージュ六月十五日号の論説である。インターナショナル・ビューポイント誌268号

ラテンアメリカ左翼の展望

第5回サンパウロ・フォ−ラム報告

アルホルソ・モロ

 選挙の敗北が総括されなかった理由

第五回サンパウロ・フォーラムは五月二十五―二十八日にウルグアイのモンテビデオで開かれ、これに参加するラテンアメリカとカリブ海地域の六五の組織、運動団体、政党が結集した。フォーラムが開催された状況は、一九九三年から一九九五年にかけてラテンアメリカで行われた各種選挙で左翼が最低の成績しか収められず、しかも、この地域を襲っている経済的な危機を克服するために、当初の民主的、大衆的な計画を推進し続ける必要があり、過去二年間の事態を総括して左翼の方針を新たに決定する必要がある、というものだった。

 参照のために、一九九三年七月にはキューバのハバナにこの地域から百以上の組織が集まって、第四回サンパウロ・フォーラムが開催された事実を思い出す必要がある。そのフォーラム総会での焦点は、近いうちにいくつかの国(ブラジル、メキシコ、エルサルバドル、ウルグアイ)で左翼が政権をとる可能性があることと、キューバ革命の危機であった。勝利の仮説が実現しなくても――少なくとも過去二十五年間では一般的に左翼は最善の結果を実現したが――第五回フォーラムは、事態を明確かつ根本的に総括する場となるに違いなかった。
 若干の例外はあったが、明確かつ根本的な総括という問題は、フォーラム総会の議論ではなされなかった。その理由は何か。この問題に概括的に答えるためだけでも、各種選挙の過程で展開された論争を検討しなければならない。主要には二つの傾向がラテンアメリカ諸組織に登場した。
 一つは、政権掌握のために闘うもので、そのため「統治能力、公開性、社会的な対決の回避」方針をとった。他方の傾向は、明らかに少数派であったが、社会的な大衆動員と戦闘的な対決の道を追求した。
 今から考えれば、現実の結果は後者の正しさを明らかにしており、それが今後の左翼政治活動の基礎となるべきことを示している。だが、フォーラムの議論が示しているように、モンテビデオに集まった諸組織の多数派は、各種制度と選挙を通じた前進の道にとどまった。だからこそ、選挙で敗北した原因は議論されず、上院、下院の議員数や知事や市町村長の数が議論されたのであった。
 私は次のように主張した。
 「左翼にとっての中心的な問題は、それぞれの国における現実の社会的な分極過程を、左翼に変革の可能性を見ている大衆を戦闘化させ自主的に組織していく過程に転換する能力にある。「統治能力」なる間違った方針がとられると、社会的な大衆動員が勝利に向けた中心的な原動力としての価値を減じられ、そこから左翼大衆は多くの場合、明確な展望のないあいまいな選挙の力学に吸収されてしまう」
 以上の私の分析は、すべての国の支配階級が左翼の勝利を阻止するために国家機構を動員する意味を過小評価するものではない。むしろ、一つの中心的な要素を考慮することなく生じているこれらの過程に参加することを強調しようとしているのだ。左翼は何が賭けられているのかに関する理解不足を露呈した。
 この大陸のいくつかの国に生じている危機に直面して、ブラジルやウルグアイ、メキシコ、ペルー、ベネズエラ、アルゼンチンのように独裁化と反民主主義的な支配という方向への事態の悪化を予測した。左翼はこの状況にあって、まるで機能不全に陥っているかのようである。

誰と対話すべきか

 昨年十二月のメキシコ通貨ペソの切下げ――「テキーラ効果」と呼ばれる事態を加速した――の結果として明らかになったネオリベラル路線の危機は、フォーラム総会の中心的な検討課題の一つであった。参加者全員が、この危機は少なくとも過去十五年間押しつけられてきた経済開発モデルが消耗した表現であるとの認識で一致していた。
 この地域の人々が苦しんでいる打撃に対処するための方針を実行していく必要性は、かつてなく緊急であり、しかも、左翼潮流が彼らと社会運動とを切断しているギャップを埋めることができる場合のみ、この必要性を満たすことができるのである。この点に関してフォーラム総会の最終宣言は、問題を一般的な形でとりあげているが、しかし、この問題こそがつくられるべきフォーラムのタイプを決定するのだ、ということを言っておかねばならない。換言すれば、われわれが対話すべきは誰か、という問題である。
 この点について説明しよう。社会主義インターナショナル、COPPAL、ラテンアメリカ社会主義調整、ラテンアメリカ経済委員会(ECLA)などや国際開発銀行(IDB)の代表が、このフォーラムに招待された。実際に参加したのはCOPPALの代表だけであったが、フォーラム側が彼らを招待した背景には、既存機構内の左翼野党になり、われわれが抱えている危機をもたらした張本人たち(たとえばIDBの場合)と「対話」ができるようになりたいという考えがある。そして、彼らが採択している経済政策が最善でないことを納得させようというのである。

メキシコの実例

 この問題は非常に重要であり、フォーラム作業グループ(一種の指導部)に属する諸組織による別の選択との関連で検討しなければならない。作業グループは、前述の諸組織の他にメキシコの制度的革命党(PRI、政権党)の「オブザーバー」としての参加を満場一致で承認した。PRIは、過去六十年間メキシコを支配し、現在、その結果を予測できないほどの最終的な危機のさなかにある。作業グループは他方では、メキシコ民族民主大会と民族解放サパチスタ軍(EZLN)とを招待することを「忘れて」しまった。
 PRIのフォーラム参加を批判したわれわれは、「頑迷」とか「官僚的~K~」「非民主的」と言われた。驚くべき非難である。それが当該地域で残っている共産党の元指導者からなされた場合も多くあり、とりわけ驚きに値した。
 これを別にしても、中心的な問題は、フォーラムに参加した絶対的な多数派が、その意味が明白である沈黙を守ると決定したことである。つまり、これら諸組織の多くは、EZLNが今日けん引しているメキシコ大衆運動を支持することより、PRIとの関係を優先させることを明確にしたのであった。
 ウルグアイのフレンテ・アンプリオ(広範戦線)の代表の一人とアルチギスタ前衛のメンバーは、PRIのオブザーバーとしての参加を、オブザーバーの地位がエリ・バタスナ(バスクの準軍事組織ETAの政治組織)にも与えられていると指摘することによって正当化しようとした。われわれがETAの方法を共有していないにしても、エリ・バタスナとメキシコのPRIとを同一の基盤の上で比較できないことは明らかである。
 「メキシコ問題」は、サパチスタの闘争をラテンアメリカの左翼政治勢力が「地域」問題と考えていることを明白に示した。この考え方が、人が予測する以上にサパチスタとの連帯行動がラテンアメリカよりもヨーロッパやアメリカで盛んである事実を説明するのである。
 こうした理解不足のためラテンアメリカ左翼は、PRI路線の真の意味を理解できない。その路線は、メキシコ国境の北(北米)を中心としてラテンアメリカ全体を射程に入れているのである。こうしたラテンアメリカ左翼の理解は、メキシコ政府とその帝国主義後援者を強めるだけである。これは致命的な間違いである。なぜならば、メキシコの民主的運動、サパチスタ運動が敗北するならば、ラテンアメリカ左翼全体が非常に大きな代償を支払わなければならなくなるだろう。

参加の二重基準

 フォーラムは、第四回フォーラム以後のラテンアメリカとカリブ海地域の経済、社会、政治情勢を討論し、地域の統合過程を検討した。現状認識に関する討論でも、非常に異なった見解の対立がみられた。
 明白な例を挙げよう。数週間前、これもネオリベラリズム経済路線が適用された典型のボリビアで、教育労働者が先導するストライキが展開され、これに鉱山労働者、女性、学生、コカ生産者などが参加していった。この闘いは、サンチェス・デ・ロサダ政府が実行しようとした政策を拒否するものであった。
 一連の抗議行動に対して戒厳令が発令された。三百人以上の社会運動の指導者が拘束、逮捕され、様々な権利が停止された。戒厳令は、議会多数派の支持を受け、ことに自由ボリビア運動は明白に支持した。この組織は、これまでサンパウロ・フォーラム作業グループに所属していたのである。
 したがって、ボリビアの異常な情勢の中で、社会的公正のために闘う戦士を弾圧した組織はどれか、どの組織がフォーラムの一員たりうるのか、選択を迫られたのであった。
 これに対するフォーラムの回答は、残念ながら「メキシコ問題」と同じだった。「可能な限り広範な統一」という名目と「われわれは民主的である」ことを示す必要があるという口実で、自由ボリビア運動はフォーラムの正式会員たり続け、作業グループからはずれただけに終わった。
 この決定からして人は、広範な複数主義という環境――排除に関する議論を行おうとしない――が優勢だった思うかもしれない。実際はそうでなかった。作業グループは、サンディニスタ革新運動(MRS、セルヒオ・ラミレスとエルネスト・カルデナル、ドラ・マラ・テレスが率いる、FSLNから分裂した組織)の参加を拒否した。ダニエル・オルテガが現在の指導者であるFSLNが拒否権を発動したからである。フォーラム参加に関して二重基準が存在していたのであり、それとは闘わなければならない。
 また、フォーラムが沈黙を守った別の重要な問題があった。エクアドルとペルーとの戦争、アメリカのハイチ侵略、ボリビアの戒厳令などが、それである。これらに関して明確な立場がないことが問題である。なぜならば、これらの事件は非常に重要であり、その結果は将来にも影響を及ぼすからである。これら諸問題は、この地域の民主的政治勢力や反帝国主義、社会主義の勢力が直面している迷路のような複雑さを反映している。

左翼と社会運動との結合を

 第五回フォーラム総会で、加入条件、作業グループの構成、調整方法などが修正された。ラテンアメリカとカリブ海地域全体をさらにいくつかの地域に区切って、そこで機能する組織形成が承認され、「常設事務局」がサンパウロに設置された。これらの措置の効用は、数カ月後には判明するだろう。とりわけ、われわれが直面している膨大な任務に応えられるかどうか、その能力をテストすることになるだろう。
 客観的な理由からフォーラムの多数派は、つい最近の選挙活動に焦点をあてた。しかし、選挙の時期が終わったのだから、現在必要なのは、われわれ左翼と社会運動とを切断しているギャップを埋める努力である。
 PRIがオブザーバーとして参加したこと、そして、これに関する議論は、中心的な問題を未解決なまま終わらせた。議論と交流のためのフォーラムという組織をどの程度、オープンにするのか。ある人は無制限にオープンだという。そして、中道右翼のスペイン人民党が参加を希望するなら、それを承認すべきだとさえ提案する。
 われわれの考えはまったく違う。セクト主義の考えをもたないが、しかし階級の利益を考える。サンパウロ・フォーラムについては、二つの選択しかない。一つは、従来の立場を維持することである。それは、総会で形成される以上の関与を行わず、善意の宣言を出し、参加組織の利益が対立するような国際問題に関しては連帯活動を行わない、というものである。
 もう一つの選択は、従来の立場から転換し、われわれが直面している多大な困難を認識し、と同時に一九九〇年の第一回フォーラムの宣言を実現していく展望に立つことである。われわれを歴史の担い手ではなく、歴史の証人として行動するようにさせている危険な不活発さを振り払う必要がある。
 これこそが、われわれが実行すべき最大の課題であり、われわれは、このために行動する用意があり、一九九六年の第六回フォーラム総会(エルサルバドルで開催予定)で、この問題への回答を見出す助けとなりうるだろう。
(インターナショナル・ビューポイント誌7月、268号)