1995年10月10日        労働者の力           第71号

フランスの核実験強行弾劾!安保破棄・米軍基地の撤去を!


 フランス・シラク政権による核実験の強行再開、NATO軍による一方的なセルビア勢力への空爆の強行、そして沖縄における女子小学生ら致暴行事件が再度明るみに出した米軍の太平洋十万配備と基地沖縄の維持路線。
 「東西対立」の終えんにもかかわらず、諸大国の軍事オプションへの依存はさらに強まっている。「話し合い調停」を前提とするはずの国連はP5(安保理常任理事国)を統制できず、P5の枠内でアメリカの主導権に対抗するフランス、中国の核戦力増強にも手出しできない。
 東の解体=「平和の配当」などの政治用語は今や死語となった。帝国主義陣営の世界秩序の強制の論理はただ軍事力を背景とするだけであり、東西対立時代に成立したPKOの論理も明らかに放棄されつつある。平和維持=PKOではなく、国連主導の平和執行=PKFへの転換を夢想したガリ事務総長の構想は、NATO軍の直接投入が示すように、国連の枠組みを取り払った「大国の論理」に道を開くだけのものであった。
 フランスは欧州防衛のための核オプションと語り、米軍の太平洋十万配備論は、明らかに東アジアにおける中国の影響力を意識したものであり、そして中国は空母配備を含む東アジアでの海上軍事力の増強を公然と行っている。軍備増強の悪循環である。
 日本政府がフランス核実験強行に及び腰であり、アメリカの東アジア、太平洋の軍事力維持に積極的でなければならない理由はどこにあるのか。自らがフランスに依存したプルトニウム大国化路線を敷き、アメリカとの政治的経済的関係を、軍事力での負担を担保にして維持しようとすることによる。アメリカ国内で基地削減が進められているにもかかわらず、海外基地が当該政府の費用負担で存続・強化される。沖縄の膨大な基地群を正面から問題にしようとする沖縄太田知事の行動の客観的意義は大きい。
 日本政府は、プルトニウム大国化路線を放棄し、極東米軍配備支持の安保「再定義」路線を撤回し、非核・非軍事の太平洋と東アジアという構想に正面から取り組むべきだ。
 安保破棄、基地撤去。プルトニウム大国化反対。十月行動の大衆的高揚を勝ち取ろう。

橋本自民党と社会党の新党移行
政治的漂流の拡大再生産


 九月二十一日の社会党臨時大会、翌二十二日の自民党総裁選挙。相次いだ連立与党をめぐる二つの出来事は日本政治がさらなる漂流にむけて動き出したことを明確にした。
 社会党が解散と「民主リベラル新党」という第三極路線を方針化し、自民党は単独政権復帰を主題として橋本総裁を誕生させた。当面の「三党連立」の枠組みは維持されるものの、連立の二大軸がそれぞれに独自の道を明確にしたことで、村山連立政権の命運はほぼ定まった。次の局面は新たな合従連衡の舞台となることは間違いない。
 連立与党の一翼である新党さきがけもまた、将来ともに現行の連立の枠組みにとどまり続づけることについて明らかに留保的である。「離脱を辞さない」とのニュアンスの言辞が繰り返し出されている。これらが自民党や社会党へのけん制なのかそれとも参院選敗北の衝撃によるものか、おそらくはそのいずれでもあろうが、先行きを模索していることは間違いない。
 他方、新進党内部のきしみも衰えを見せるということにはなってはいない。参院選での勝利が「保保連合」論を押さえ込んだかのように見えるが、それはおそらくは表層的なもので、「影の内閣」改造や「党首公選」論、党執行部の新人事、さらには宗教法人法問題など、小沢・市川ラインへの対抗の動きはむしろ拡大しているようである。
 橋本自民党の本音は、小沢抜きの「保保連合」による政権樹立という噂も流れ、これらをめぐる永田町の暗闘は加速することになるだろう。
 橋本新総裁の自民党は明らかに前執行部(河野・森)とは違う「自民党らしさ」を前面に出すスタートを切った。国会代表質問での自民党代表は「戦後五十年決議」の行き過ぎを主張して遺族会や軍恩連へエールを送り、村山首相が正面から反論するという構図を演出もした。「タカ派橋本」の路線は国際路線においても国内路線においても自民党本流らしさを明確にしたいというものといえる。
 国連への積極「協力」、常任理事国化推進、人的貢献の明確化の一方、「対抗馬」小泉に対しては政・財・官の協調という「安定路線」を主張し、積極財政によって経済界の支持取りつけ、「第三次行革」論による官僚集団との結合の再建を含意する。
こうした方針は一種の「開き直り」である。創価学会票を基礎にした新進党の集票力に対抗する保守本流の伝統的支持基盤の総体的なフル動員の構造――これが橋本に期待される姿であって、従って宗教法人法改正問題などは舞台の影に隠されていく。相手に創価学会があれば自己には「新宗連」やその他がある、と。
 都市部における自民党の敗北を契機として「改革派」の装いが必要との認識は、地方選・参院選を通じて捨て去られた。河野執行部が「改革派」らしさを発揮しえたというわけでもなかったし、また連立政権成立が河野執行部の手柄だったわけでもなく、むしろ橋本陣営に参画し、また、その背後にある梶山らの勢力が連立政権の一方の立役者であったことも周知の事実である。
 従って、これらの勢力が喧伝されるような「保保連合」論であるのか、連立政権維持は当面の方策にすぎないのか、これらはマスコミ的表層情報を鵜呑みにはできない。「保守本流路線」が過去の思い出にすぎないということも橋本自民党の先行きを見通ししにくいものとしている。
 未だ定まりつかないカオス的状況でさらなる再編劇が模索されている。だが同時に、村山政権すなわち「自社さのまるごと」連立という局面の終わりの近さも疑えない。
 社会党の新党構想も暗礁の中にある。
党内の二大潮流――村山系と久保系の大枠組みのみならず、それぞれの陣営内においても明確な一致があるとはいえない。なによりもこの党の基本方向が自民党との連立維持なのか、それとも新進党との結びつきの方向なのかが、一切明らかにならないことが構想の不透明性を倍加している。だが反対から見れば、方向性を明確にできるなら、このようなどたばた劇を繰り返してはいないはずなのだ。
さきがけは「親・新進党」路線を警戒し、また独自姿勢を維持する横路は筋の通ったものを何一つ提出していない。二大政党のいずれかへの流入なのか、それとも真剣に第三極という「困難な道」を模索しているのか、誰にもわからない。これでは新党が広範な人々を結集できるはずもない。おそらく社会党は、真ん中から折れていくつかに分解し、それぞれが自らの意志をなんらかの形で表明しつつ合従連衡を自発的に模索するということにならない限り、現在の内部妥協の結果としての不透明性をむなしく持続するということになるのではなかろうか。田辺、山口、五十嵐がそれぞれ、相反する立場ではありながらも、引退を表明したのも社会党の行く末の展望のなさを痛感したからであろう。
自社両党をめぐる九月の二つの出来事は、漂流する政治再編劇がさらに持続することを意味したに過ぎない。

「平和・市民」、解散の方向へ


 参院選の敗北という結果にどう対応するか――「平和・市民」の選挙後初の全国懇談会が九月三〇日、東京都内で開かれ、田、国弘両共同代表、金田、中尾の両議員を含む百名近い全国からの参加者が活発に意見を交換した。会議の主題は、選挙戦敗北という事態を受けて「平和・市民の今後をどう展望するか」をめぐったものとなった。
 全国各地から、選挙は敗北したが選挙戦を戦った手応えはローカルパーティーとしては相当にあった(新潟)、さまざまな新しい関係が作れ、この成果を継続発展させていきたい(関西)、などの感想や総括が出された。また全くの新しい試みとしてなされた「政治契約」の発想は高く評価され継承されるべきだとの意見も強く出され、地方的、ローカル的な運動や諸運動領域、戦線が相互に対等な結びつきを組織的、運動的な基盤としようとした平和・市民の発想や構え方を評価する見解が大多数だった。
 「敗北」に関しては多くを踏み込むには至らなかったが、準備と浸透のための時間がなかった、護憲派の「分裂」という印象をぬぐい去るには至らなかった――などが出された。また、少数勢力である平和・市民の敗北ははじめから決まっていたことであり、社会党の新党構想や連合の政治的シフトに積極的に参加していく姿勢が必要という異色の見解(?)も飛び出した。また、政治的な平和・市民自身の位置づけや選挙戦における焦点づくりの不十分性なども提起された。
 今後をどうするかという討論は、一方で平和・市民の積極継続という意見が出されつつも、他方では田代表の選択した国会内会派のあり方をめぐる不満や反対論が出され、田代表が院内会派と政党は別問題として理解を求めたが、納得しない向きも多かった。
 一方に東京の宮本さんが早期解散論を代表すれば、他方に、単純に運動の国会内への反映が必要という立場から議員を含めた政党を存続させるべきだという見解から、議員が院内で行動の自由を行使するのは当然だという見解まで出されて討論は錯綜した。田議員の院内活動を拘束はできないが、とすれば田議員は代表をはずれるべきだ、議員の自由と平和・市民の政治性格を双方ともに満たすためには田議員は代表からはずれた方がいいという見解の一方、田代表なしの平和・市民は存続しえないという反論も提起された。
 田選対事務局長の小峰さんから、平和・市民の役割は終わった、社会党の動きもあり、新たな結合を求めて解散すべきとの提起がなされ、国弘さんから、解散でも存続でもいいが、膨大な負債の財政処理を抜きに提起するのは無責任ではないか、という苦言もあった。
 田議員は平和・市民所属ではあるが、院内会派や政治的な諸協力関係はそれにとらわれず進めていきたい、二大政党制と闘う小政党の運命はきつい、様々な連携の中で政治的な「排除」の論理を克服していかなければならない、狭い枠組みでは今後は政治活動は不可能であるなどを表明した。田代表の見解を積極的に支持し、同時に平和・市民の枠から自由になって活動を展開したいという見解も出され、他方では国弘さんがせめて事前に知らせてくれたならと田代表への不満を述べる一幕もあった。
 結論的には、平和・市民の積極維持には、相当に見解や立場の差があり、無理はできないというのが全体のほぼ一致するところとなったが、各地方での討論や残務(財政)処理の課題があり、それらを早急に終えて年内に結論を明確にするという確認で散会した。
 なお先日急死した平和・市民宮城の加藤滋さんへの黙とうが冒頭に行われた。
(K)

エルネスト・マンデル
その生涯と活動
(一九二三―九五)
            フランソア・ベルカメン(ベルギー社会労働党(SAP/POS)と第四インターナショナルの指導者)
                  一九九五年八月(ブリュッセルにて)


 第二次大戦後の第四インターナショナルの主要な指導者であった人物がいなくなった。極めて創造的なマルク主義理論家であり、熱心な教育者であり、優れた演説家であり、不屈の扇動家であったエルネストは、いつも自らを労働者運動における革命家と位置づけていた。彼の根源的な志しは、レーニンとトロツキーの思想にそって一つの組織、第四インターナショナルを建設し指導することにあった。そして、この組織を世界社会主義革命の政治的、組織的任務に応え得るものにすることにあった。

活動家形成期

 エルネスト・マンデルは、一九二三年四月に生まれた。その年、ドイツ革命の局面は取り返しのつかない敗北に終わった。ドイツ国籍のユダヤ人である彼の両親は、すでにその時期にはベルギーのアントワープで生活していたが、出産のためにドイツ、フランクフルトに戻った。父親のヘンリ・マンデルは、第一次大戦(一九一四年)の軍務につくことをきらい、ドイツからオランダに逃亡したのであった。一九一八年十一月にドイツ皇帝が倒され、ヘンリ・マンデルはドイツに戻った。
 そして、ボルシェビキ政権が新設したソビエト通信社ベルリン支社で働いた。ドイツ共産党の党員であった彼は、革命ドイツへの大使としてレーニンとトロツキーが派遣したカール・ラデックの友人となった。だが、一九一九年二月のローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの暗殺に衝撃を受けた彼は、再びドイツを離れ、今度はベルギーに移住した。
 若きエルネストの生活を取り巻く時代は、まさに経済危機と戦争の脅威であった。労働者階級の惨めさ、彼の家庭の共産主義的、革命的、反ファシスト的、反スターリニスト的環境からしてエルネストは若い時から、労働者階級と被抑圧者の側に身を寄せるようになった。彼の父親は毎日ニュースを説明し、ドイツ労働者運動の強固なマルク主義的な伝統を与えていった。

 一九三〇年代のアントワープは騒然としていた。活発な労働者運動の内部では、社会民主主義、共産主義、トロツキストによる政治闘争が繰り広げられていた。エルネスト・マンデルは、社会革命党(SRP/PSR、今日の第四インターナショナル・ベルギー支部の前身)において非常に前衛的な労働者、独学で大衆闘争の指導者となった人々と付き合った。SRPは当時、追放された第四インターナショナル・ドイツ支部の中核が集まっていた。こうした事情によってSRPは、熱い、国際主義的な小宇宙であり、情熱的な議論が交わされ、ドイツに秘かに持ち込む新聞がつくられ、地下でヒトラーと闘う同志たちが接触する組織であり、トロツキーとも直接に手紙を交換した。
 この時期にこそ、エルネスト・マンデルのドイツプロレタリアートとの断ち難きつながりが、ドイツ社会主義革命の可能性に対する信念が、そしてカール・マルクスとローザ・ルクセンブルクとの絶えざる「対話」が形成されたのであった。彼の一九四四―四五年における一九一八―二三年と同様にドイツ労働者の時代がきたという確信と、一九八九―九〇年のスターリニスト官僚が身震いした局面におけるドイツ民主共和国(東ドイツ)の社会主義的再生の可能性への「熱狂的」な信念とは、エルネスト・マンデルの活動初期に確立されたものであった。

 こうした初期の経験によって彼は、最も困難な時期にあっても、すなわち第二次世界大戦のさなかにあっても、ベルギー占領ドイツ兵にリーフレットを配布するという向こうみずな活動を展開した。また、一度捕まった時には、ドイツ兵らが解散させられた社会民主主義党や共産党に所属していたことを聞き出し、説得して逃亡を許させたのであった。そして一九四五年に収容所から解放された彼は、いくたの困難を克服してベルギーに戻り、党の同志たちと合流したのであった。
 こうした青年闘士としての活動経験が、彼の周知の楽観主義と人間的な温かみの基礎にあった。これらの彼の特質の背後には、人間の善意に対する素朴な信頼あるいは啓蒙的な哲学思想があったのではなく、人間というものがその強弱を問わず、勇気あるものも臆病なものも、あるいは抑圧されたものも反抗的なものも、彼と同様に資本主義という困難な条件にあって闘う用意があり、そして政治意識を形成していく、その可能性への限りない信頼にあったのである。われわれの活動の出発点となり、われわれの組織の中心軸となっている、こうした信頼こそが、われわれが労働者階級や青年と結合し、直面する任務に応え得る革命党を建設するという「奇跡」を起こせるのである。

レジスタンスと追放

 エルネスト・マンデルは一九三九年にSRPに加盟した。この党は、その当時までにある程度の成長を遂げ、一九三三―三六年のゼネストや部門ストなどの各種ストライキに参加をしていた。そして鉱山労働者、金属労働者、港湾労働者の間に根付いていた。だが、一九三八年の労働者の敗北で打撃をこうむり、一九四〇年五月と一九四一年六月の弾圧法規によって大きく後退した。
 ベルギーのトロツキスト運動は、ヒトラーの軍隊による占領へのレジスタンス活動に積極的に参加していった(スターリニストは長年にわたって、この事実を否定してきた)。SRPは大きな犠牲を払った。指導者や活動家の多くがドイツのナチ収容所で死んでいった。エルネスト自身は三回、捕まった。
 最初はリーフレットをドイツ兵に配布していた時である。ブリュッセル近くの収容所に入れられ、アウシュビッツへ送られそうになったが、うまく逃げることができた。二度目は一九四四年三月で、リエージュにある工場でリーフレットを配布していた時のことである。この時は、強制労働とドイツ国内収容所への追放判決を受けた。逃亡したが、再び逮捕され、三度目の収容生活から解放されたのは、一九四五年四月のことであった。もし収容所の官僚機構の混乱が大きくなっていなかったなら、彼は確実に死んでいただろう。その混乱のおかげで、彼がユダヤ人であることに看守が気づかなかったのであった。
 SRPは開戦時に解散させられていた。占領下に再建したのは、アブラハム・レオンであった。レオンは、一九一八年生まれで、地下活動組織と、細胞間や地域間の通信を確立し、「レーニンの道」という最初のレジスタンスリーフレットを発行した。彼はベルギー支部の活動をナチ占領に対する闘いに向かわせ、二つの戦線を切り開いた。一つは、国際主義的かつ広範な基盤をもった労働者階級を中心とする反ファシスト・レジスタンスであり、もう一つはドイツIKD(国際主義共産党)の同志たちと提携したドイツ兵を直接の対象とする政治活動であった。彼の展望は、第四インターナショナルのそれと大筋で一致しており、一九一四―一八年の状況でそうであったように、第二次世界大戦をヨーロッパ大陸における社会主義革命へと転化するために闘うことであった。

 エルネスト・マンデルは、党中央委員会の一員になった。一九四三年十一月、彼は初めて第四インターナショナルの会議に参加した。それは、当時新設された臨時ヨーロッパ書記局の会議だった。そして翌年四月に第四インターナショナルの第一回ヨーロッパ大会に参加した。それ以降、彼の活動は一貫してベルギーの革命党建設と第四インターナショナル建設という二本柱に捧げられてきた。彼はそれ以後、両機関の会議に出席し続けた。一九六〇年代以降は、国際活動が中心となっていたのであったが。
 彼はアブラハム・レオンとともに、ベルギー支部で当時の諸問題に関して採択された「ヨーロッパにおける第四インターナショナルの任務(一九四二年二月)」「民族問題(ドイツ以外の帝国主義諸国におけるドイツ占領の政治的な影響をテーマとする)」や「帝国主義戦争の革命的清算(レオンと一緒に準備した決議草案)」などを第四インターナショナルに最初から積極的に提起していた。
 第四インターナショナルのヨーロッパ指導部は、こうして再建を開始した(ミシェル・パブロの役割はすでに重要であったが、一九四〇年代と五〇年代に増大する)。だが、この再建過程もレオン、マンデル、フランスの指導者、マルセル・イクの逮捕によって中断された。エルネストだけが収容所で生き延びた。
 アブラハム・レオンは三年間、社会と労働者運動に関する自らの見解と、戦闘性、革命的楽観主義を非合法闘争の同志たちに伝えていった。レオンの「ユダヤ人問題に関する唯物論的考察」第一版(一九四二年執筆)に寄せたエルネストの序文は、殉教した指導者の信条「絶望の原因の背後に、希望の根拠を探せ」が載せられている。

 一九四三―四四年にかけてエルネストとレオンは、ヨーロッパの革命的状況の出現が遅れた原因は社会民主主義指導部だけにあるのではない、という見解を展開した。彼らは、イタリアやフランスの実例のように労働者階級が受動的な状態から攻勢へと転じた局面にあって、スターリニストと社会民主主義がその政治的、組織的支配力をふるえる理由を説明しようとした。彼らは説明の出発点を「労働者運動の全般的な危機」に置いた。ここにおいて彼らは、改良主義指導部と(労働者階級の)階級意識の弱さとの相互作用を定義した。エルネストはこれ以降、この弁証的概念を整備し展開していくことになる。

ベルギーの労組運動

 エルネストとベルギー労働者運動との関係は、彼が若い時に始まり一九六五年まで持続し、彼にとって比類なき豊かな経験であった。この経験が、彼に基本的な政治主題をもたらし、革命活動に戦闘的に従事することに関する彼独特の概念(一九四四年二月発行の第四インターナショナル理論誌「クワトリーム・アンテルナチオナーレ」は、一九四三年のエルネスト論文(署名はER)「労働者運動の世界的危機と第四インターナショナルの役割」を再録した。この論文は、一九四一―四二年のベルギーにおける金属労働者の大衆スト、鉱山労働者のストへのRKP/PCR介入の結果に基づくものだった。これはまた、マンデルとレオンが改良主義と決裂し、その思想的な混乱にもかかわらず反資本主義を貫いた新しい労働者運動の「労働組合闘争委員会」の秘密会議に参加した結果でもあった)にみがきをかけ、理論家としての能力、しかも抽象的にでなく一般化する能力を鍛え上げることになった。それには学者ぶった教えるような態度はいささかもなかった。
 第四インターナショナルは一九五〇年代の孤立と周辺化の状況にあって、自らの力を「加入戦術」に向けていった。すなわち、自律的な革命潮流として改良主義の大衆政党に参加していく戦術である。エルネストはベルギー社会党(BSP/PSB)に加盟し、一九五四―五六年にかけて、その日刊機関紙「人民」のジャーナリストとして活動した。その活動中、彼はベルギー労働総連合(ABVV/FGTV)の書記次長アンドレ・レナールに見出された。レナールは、アナルコサンジカリストの闘士であり、レジスタンスの指導者であった。そして、労働組合運動内部の強力な左翼潮流の「アイドル」であった。彼は、エルネストを連合組織の研究委員会の一員とし、金属労働者組合の日刊紙のジャーナリストとしての仕事を見つけてやった。

 ここでのエルネストの任務は、政治権力と経済機構、主要な資本家団体の真の目的などを分析・暴露することだった。エルネストは、「所有財産と経済民主主義」というベルギー労働者運動の歴史的綱領文書の起草において中心的な役割を果たした。ついで彼は、構造改革綱領の起案に関わった。これは、内容上の曖昧さにもかかわらず、ゼネストを目的とする行動綱領の入口となるものだった。
 エルネストは、レナールのチームのメンバーとともに綱領の大衆化を図った。彼は、この過程を通じて労働組合運動の底辺から頂点まで、その強さと弱さ、日常活動と闘い、ことに一九六〇年から六一年にかけた冬のゼネストなどに熟知していった。彼は、何百人もの活動家や闘士、当時の最良の前衛的な労働者と接触し、搾取された工場労働者の諸条件を間近に見ることになった。
 ベルギーにおける加入戦術への転換は、党がレジスタンスと一九五〇年のゼネストの経験を教訓化した結果であった。それは具体的には、アンドレ・レナールの戦闘化した労働組合と結合し、その影響力をBSP/PSB内部で拡大し、労働者階級に根ざしたマルクス主義革命党への基礎となり得る広範な左翼潮流の基盤を形成することだった。
 彼はこの期間、二つの週刊紙の創刊に成功した。一つは彼が編集するフランス語のラ・ゴーシュ、もう一つはフラマン語によるリンクスである。これは、一九五六―五七年から今日に至るまで、社会党内部の労働者と知識人との複数主義に基づく広範な左派潮流を形成してきている。この潮流と社会党の綱領的立場とは食い違い、相互に矛盾していたが、左派潮流は、一連の政治闘争、社会闘争を通じて自らを改良主義右派とくっきりと区別してきた。
 めざましい成果があった。われわれ革命的マルクス主義者は次の点を示した。すなわち革命的マルクス主義者は数は少なくても、政治的イニシアティブをとれるし、労働者運動の政治活動の中心点に自ら登場できることだ。この教訓を忘れてはならない。エルネストは、ベルギー支部の新しい同志たちに、この戦略の重要性と確実さを説明することを決してやめはしなかった。
 一九六〇―六一年のストライキとその余波は、この広範な反資本主義運動の頂点だった。この左派潮流は、一九六四―六五年に社会党から追放された後、徐々に小さな潮流に分裂していき、大衆的な新しい社会主義党の形成に至ることはなかった。

ヨーロッパ革命の戦略

 エルネストは、二〇世紀労働者運動に関する大きな議論となった点に注目して自らの考察を深め、「マルクス主義経済学」(一九六二年にフランスで第一版を出版)を著す中で、ヨーロッパの先進資本主義諸国における社会主義革命戦略を深めていった。第二次大戦中に生まれた自問がよみがえった。すなわち、改良主義指導部の労働者階級に対する一貫した支配をどのように説明するのか、という問題である。
 彼は、問題の両端から分析を行った。すなわち、資本主義制度のいかなる客観的矛盾が核兵器の使用と大量殺戮を意味する世界戦争に至らない、新たな革命情勢をもたらすことになるのか。そして、いかなる主観的条件の変化が経済繁栄下にある労働者階級の意識を反資本主義、革命的なものへと変えていくのか。マルクス主義革命家は、いかにすれば階級闘争を指導できるのか、いかにすれば革命党を建設できるのか――これらの問題を彼は考え抜いた。
 マンデルは、「後期資本主義」(初期の著作ではネオ(新)資本主義なる用語を用いていた)において現代資本主義の原動力と、それが社会諸関係と階級闘争とに与える影響を見出した。彼はまた、その当時、ヨーロッパ規模で自己を主張しはじめていた社会党、共産党内部の左派潮流との対話を通じて初期の戦略と綱領的結論を深化させようとしていた。そして、一九六八―七四年の南ヨーロッパにおける革命的な波が彼の命題を検証することになった。

 この新しい政治局面は、資本主義ヨーロッパの社会と社会運動に一連の重要な変化を引き起こし、それらの変化を従来の戦略に組み込む必要が生じた。長年にわたって小さな闘士のサークルだけの関心事にすぎなかった問題が、国際規模で数十万の闘士による議論のテーマになっていった。

一九六二―六四年の離陸

 エルネスト・マンデルの主要な活動舞台は一九六〇年代半ば以降、ベルギーでなく、インターナショナルとなった。最初は学生の急進化に応えようとすることから始まったが、その急進化が次第に政治的な意味をもつようになるとともに、第四インターナショナルをその歴史的使命にふさわしい水準に引き上げようとする懸命の努力、世界プロレタリアートの新しい革命的社会主義指導部の建設に第四インターナショナルを参加させようとする努力が開始された。
 エルネストが彼の最初の妻、ドイツSDSの活動家、ギゼル・ショルツと知り合ったのは、この時期のことだった。彼女は、インターナショナルとベルギー支部の指導部に加わり、一九八二年に早すぎる死を迎えた。
 振り返ってみると、一九六四―六六年が大きな転換点だったことは明白である。この時期、三つのゆっくりとした、その影響が累積して現れてくる情勢の転換があり、それらがインターナショナルとエルネストの命運を決する客観的状況を形成することになる。第二次世界大戦の勝者であったアメリカ帝国主義とソビエト官僚との間の重々しい癒着関係――これが世界を規定していた――についに裂け目が現れた。
 ★キューバ革命の勝利(一九五九年)とアルジェリアでのフランス帝国主義の敗北(一九六二年)。
 ★東ベルリン(一九五三年)、ポーランドとハンガリー(一九五六年)での労働者階級の反乱、中ソ対立、共産党の一枚岩の終わり。
 ★帝国主義諸国における初々しいストの波の再生。
 これらの裂け目を通して微かな光が輝いた。誇張していえば、われわれの革命的楽観主義――幻滅を感じた広範な左翼から大いに嘲笑されるが――が新しい情勢を分析する強力なベクトルであることが証明された。第四インターナショナル第七回世界大会は、その中心決議「今日の世界革命の力学」を全面的に承認した。

 突如「一九六八年」が出現した。世界革命の三セクター――新植民地、スターリニスト官僚、帝国主義――すべてで同時に、闘いの高揚が始まった。この現実に対するわれわれの驚くべき鋭い感受性は、予言能力の結果では決してない。それは、より大きな指導部の組織的な活動の結果なのであった。われわれの国際主義、地球規模の考え方は、インターナショナルとその支部、その闘士たちの活動と密接に結合していた。
 一九三八年の創設以来の「砂漠を越える」ような不毛な時期から受け継いだ政治的影響力の決定的な弱さにもかかわらず、第四インターナショナルは、自らを戦闘的な諸闘争と政治的に豊かな革命的経験とに結びつけることができたのであった。そして、手本となるような第四インターナショナルの行動は、労働者運動の既存の支配的潮流とは対照的だった。

 まさにスターリンが「ユーゴスラビア独自の革命の道」を窒息させようとしていた一九五〇年代に、同国に労働旅団を派遣し、社会主義的再生の梃子として同国の自主管理運動を認識すること、アルジェリア民族解放戦線(FLN)のための「配達少年」となってフランス帝国主義を敗北させ、そしてアルジェリア革命を社会主義革命へと発展させようと支援すること、キューバ革命の社会主義的要素を一九六〇年のできるだけ早い時期に理解し、いかなる偏見ももたずにチェ・ゲバラとフィデル・カストロ指導部を支持し、キューバ革命の諸々の側面とともに彼らのラテンアメリカにおけるゲリラ活動を支援すること――これらの活動に関して第四インターナショナルは、確かに小さな組織であったが、単なる少数派としての活動にとどまることはなかった。第四インターナショナルは、とりわけ自己防衛と自己宣伝にこだわるセクトとして行動するようなことは決してなかった。
 エルネスト・マンデルは、これらすべての活動に参加した。彼自身、これらの活動を通じて成長していった第四インターナショナルの申し子であり、豊かな内部対話を特徴とする第四インターナショナル指導部において成熟していった。この過程を通じてエルネストは、今世紀におけるすべての大問題に習熟していった。そして一九六三年までには、こうして獲得された知的成果が四分の一世紀にわたる大衆的労働者運動における彼特有の戦闘主義を柔軟なものにしていった。

インターナショナルを指導して

 エルネストの一九六五年から一九八〇年代までの活動は、最高の頂点だった。知的創造活動のみならず、世界中の革命的前衛や左翼知識人に及ぼした政治的影響という点でもそうだった。このことは、世界情勢の変化と、第四インターナショナル自体の数的、政治的な重みが増大した事実と結びついている。すべての支部は、闘いの新しい契機をつかみ、それらを世界社会主義革命の要素として解釈した。
 エルネストの前線が閉じられはじめた。スターリニスト諸国の査証が拒否され、アメリカ、フランス、ドイツ、スイス、フランコ支配下のスペイン、オーストラリアへの入国が禁止された。
 エルネストの最大の喜びは、若返り新しくなった、しかも組織と完全に調和した指導部チームとともに彼自身が活動できる事態を実現することにあった。彼は、第四インターナショナルがその当時もっていた実際の力量以上の第四インターナショナルのための新しい活動空間をつくり出した。彼は、組織を直接的な闘いを超えた歴史的な展望のもとに導いていった。彼は、そのすごい戦闘主義を支えるにあまりある強固な政治的な基礎を築き、その運動に自信を注入していった。この時期におけるエルネストの貢献は、第四インターナショナルの歴史に刻み込まれている。彼の貢献をその全体像と複雑さにおいて十分に分析するためには、はるかに大きな時間が必要である。

 エルネストは一九六八年以後、活動家の世界以外でも有名になった。彼は、世界の至るところで、大衆集会、講演集会、進行中の活動に関する討論会、大学の課程などに登場した。エルネストの声を収録した数多くの「海賊版」カセットテープが全世界の活動家の本棚にあるに違いない。エルネストの講演や演説をもう一度聞くと、戦闘的な聴衆――彼に対して批判的あるいは熱烈に支持する双方――との直接の対話を通じて彼の思考がいかに発展していったかを理解できるだろう。
 彼の大量の公的活動には「隠された顔」があった。エルネストは、一貫して第四インターナショナルとベルギー支部のオルガナイザーだった。彼は活動のあらゆる側面――翻訳や機関紙の割付のような最も「技術的」な側面、基金集め、シンパサイザーの組織化、物質的な基盤の形成など――に関心をもち続けた。
 彼は一九四六年、ヨーロッパがいまだ荒廃の中にある時点で国際書記局に入った。彼は、「旧大陸」における第四インターナショナル支部の再建に自らを捧げた。ベルギーだけでなく、ヨーロッパ主要国、ことにイタリア、ドイツの敗戦国でも再建のために闘った。ついでアジアに赴き、インド、インドネシア、スリランカ(ここではスリランカ社会党、LSSPが主要な労働者階級政党になりつつあった)の第四インターナショナル組織との接触を確立した。
 彼はまた、インターナショナルとアメリカ社会労働党(SWP、戦前と戦時中のトロツキスト運動の支柱だった)との関係の重要性を認めた。エルネストはいつも、インターナショナルだけでなく大衆運動においても、セクト主義に反対し、統一のために闘った。事実、インターナショナルの統一は、彼の大きな関心事だった。
 彼は、一九五〇年にユーゴスラビア労働旅団に参加した後、ヨーロッパ社会主義知識人による会議に参加した。また、アルジェリア民族解放戦線連帯行動のイニシアティブ形成に貢献した。ベルギーは、地下連帯活動の大切な基地となった。
 彼は、一九六二年にチェ・ゲバラの招待を受けて一九六二―六三年にキューバで開かれる社会主義建設とその経済政治路線に関する討論に参加できることを飛び上がって喜んだ。

 一九六八年以後、エルネストと世界の至るところの反資本主義の革命的活動家や左翼知識人との対面会話、相談、討論は増加し続けた。多数の人がやって来て、彼の家のドアをノックした。彼はとりわけ喜んで、東欧とソビエトの「亡命者」と会い、これらの社会、つまり彼の入国が完全に禁止されている社会の実際の生活に関する知識の吸収に務めた。
 彼の個人的なノート、組織内会議での会話、(様々な内部討論ブレチンに掲載された)内部討論への貢献、膨大な量の手紙などの通信、インターナショナルの各種刊行物での論文など、つまりマンデルの主張を記録したものすべては、未来を探求する上での金鉱山である。
 彼は、関心を寄せる分野のを拡大し続けた。スピノザの研究に情熱を注いだ。また「一六世紀のフランドル(オランダ)における(ブルジョア)永続革命」の執筆を夢みていた。彼はまた、倫理学に非常な関心を寄せており、エルンスト・ブロッフの思考に接近し、彼を「二〇世紀最大のマルクス主義哲学者」と考えていた。彼は、犯罪小説の読書にもふけり、この問題に関する著作(「喜びに満ちた殺人―犯罪小説の社会史―」一九八四年)でその事実を「告白」することになる。

 この時期の彼の研究活動の中心となったのは、今世紀の三つの基本問題だった。資本主義全体としての矛盾の力学、先進資本主義国での労働者階級の行動と労働者運動の役割、スターリニズム――の三つである。
 彼は、トロツキーのスターリニズム分析が二〇世紀におけるこの野蛮な現象に関する政治概念を大きく前進させたものであることを知っていた。エルネストは、多数のトロツキーファンの教条主義とは対照的に、トロツキーの分析を力強く現代化した。彼は、すぐに第四インターナショナルにおけるこの問題に関する書き手となった。彼は、一九五七年に報告を提起し、それは当時のスターリニズムに関する総括文書となり、再建への提案(一九五七年初めに開かれた第四インターナショナル第五回世界大会に提起された)となった。

 彼は、続いて東欧とソ連における官僚改革の様々な試みを関心をもって追究し、官僚体制の経済的、社会的基礎を次々に著作や演説の中で明らかにしていった。水平線の彼方にあるであろう政治革命の兆候を絶えず探し求めた。最初にソ連、それからドイツ民主共和国(GDR、東ドイツ)に。
 生涯の終わりになって、「社会主義的民主主義」の本質に関する政治的に明確な認識こそが「現存社会主義」という破滅的な経験をしたこれら諸国の労働者や諸民族、青年などの社会主義の展望に対する支持を(再)獲得するための絶対的な前提条件であると考えるようになった(「社会主義的民主主義とプロレタリアート独裁」一九八五年に第四インターナショナルが採択した決議。エルネストが報告作成の中心となった)。

最後の闘争

 スターリニスト体制崩壊後のGDR、東欧、ソ連における情勢展開は、エルネストにとって大きな失望を与えるものだった。スターリニスト崩壊後に反スターリニストである真実の社会主義左翼の出現を期待していたからであった。彼が資本主義復活の重要な一歩が踏み出されたと最終的に認めても、まだ個人的には強く保留する点があった。
 エルネストは、残されたエネルギーのすべてを最後の闘いに向けて動員した。すなわち、この大崩壊から救い出すべきものを最大限救出する闘いである。活動家と資金を総動員して旧ソ連と東欧にマルクス主義の革命細胞を形成しようとした。そして「十月革命の正統性」とトロツキーの思想とその役割とをポストスターリニスト世界との新たな接触の中で防衛すべく闘った。そのため旧ソ連や東ドイツで開かれた公開討論会に参加し、以前の支配政党である共産党の指導者らと会った。彼は、旧共産党系出版社がトロツキーに関する新刊本を出すのを助けた事実をことに誇りに思っていた。

 よく知られたマンデルの楽観主義は、世界情勢の反動方向への転換を見失わさせることはなかった。第四インターナショナルとその革命精神、組織的統一性の存続が、これまで以上に幹部と活動家の政治信念にかかっていることを、彼は知っていた。だからこそ「社会主義か、それとも野蛮か――二一世紀を前にした第四インターナショナル宣言」の出版を準備し実現したのであった。
 この出版の当初の目的は、世界の左翼を襲っている社会主義への疑いの中で第四インターナショナルの政治的な成果を確固としたものにすることだった。だが彼は、進行中の大変動が力関係に影響せず、諸社会の構造、国家、階級、政治勢力、文化環境、多数の国の意識などに深い変化をもたらすことを、すぐに理解した。二一世紀に向けて第四インターナショナルを準備させることは、われわれの革命的マルク主主義綱領を大きく拡張し、すべてのセクト主義と教条主義を拒絶し、未来と来るべき活動家世代に向けた新たな政治活動の展開を意味している。

 最初の心臓発作が起こったのは一九九三年十二月だったが、それは彼がインターナショナルの中心で役割を実行するのをやめさせることはなかった。彼は、その可能性はないのだが、情勢の転換、とりわけブラジル左翼の突破による転換を希求した。そして、資本主義の野蛮さ、「古典的」労働者運動の衰退、伝統的改良主義指導部の道義的、政治的崩壊に怒りを燃やした。また、核戦争後あるいは生態系の破局後の人類の生存について自問した。
 健康が衰えても、自らを活動に駆り立て続けた。「わが命の根本、インターナショナルのために」と、彼は遺言に書いた。妻アンが彼の心を安めた。彼女は、エルネストの最後の十三年間をともにした。
 エルネストは、もはやわれわれとは同じところにいない。彼を悼む。だが同時に革命闘争に自らを向かわせる。彼の人生は、被抑圧者、被搾取者の側にあれ、革命的社会主義党とインターナショナルを建設せよ、との力強い呼びかけであった。彼は、驚くべき政治的遺産を残してくれた。われわれは、それを批判的精神を忘れずに、来る政治闘争、イデオロギー闘争において利用するだろう。それらの闘いは、社会主義の綱領と新しい戦略の再構築において避けられないものである。
(インターナショナル・ビューポイント誌9月、269号)
追悼 加藤滋さん
 あまりにも突然の訃報であった。加藤滋さんは、九月二十三日午後十二時二分、くも膜下出血により永眠した。享年五十二であった。
 頑強な身体と精神力が彼のずばぬけた行動力を支えてきた。だからこそ、疲労も過度に蓄積していたことだろう。悔やみきれない、無念の死であった。
 加藤さんは一九九〇年代、政治再編の渦中で新しい政治勢力づくりに全力を傾けた。「旧来の概念を超えた」労働運動と市民運動とのネットワーク形成に尽力し、特に参議院選挙では比例区の得票率二%突破を掲げ、全国、地域を奔走した。「平和・市民」の敗北以降、次の闘いの準備のために活動を再開した直後の死であった。
 また加藤さんは、ソ連・東欧崩壊後、ヨーロッパの労働運動の展望に注目していたが、その作業は未完のまま残された。
 十一月十九日、仙台で市民運動の方々の呼びかけによって「偲ぶ会」が開催される。

加藤滋さんの略歴(年は西暦一九〇〇年代)
43年 二月、宮城県多賀城市(現)で生まれる。父が国鉄労働者であったため家族と転勤生活を重ねる。
61年 電電公社福島県原町電話中継所に入社。以降、秋田県の能代を経て66年、仙台南統制電話中継所に転勤。本格的に労働組合運動に携わる。
68年 全電通の分会・県支部の役員、宮城県労評青婦協役員を歴任。
以降、宮城反戦の先頭で三里塚闘争や全国反戦に参加。
74年 全電通仙台統制電話中継所分会執行委員長。全宮城ゼネスト貫徹共同闘争委員会に結集し、全組合員行動隊体制を組織して四月ゼネストを闘う。
三里塚闘争に連帯する会・労働者委員会の東北ブロック代表として参議院選挙を闘う。
77年 大阪集会を経て「労働情報」の発足に参加。
78年 3・26三里塚開港阻止闘争。電通宮城から四名が逮捕される。電電公社と組合からの二重弾圧のなか全電通から除名処分。公社を相手取り三里塚年休裁判を提訴するとともに、「全電通の階級的再生をめざす被処分者同盟」を結成。
80年 電気通信産業労働組合を結成。
83年 全国労組連結成。東北、宮城労組連を結成して合流。
85年 電電民営化。「スト権を人民の武器として」をスローガンに春闘24時間ストを貫徹。宮城労組連による地域統一ストを実現。
86年 電通全国協議会結成、事務局長として産別内の交流に務める。
NTTの電子番号案内導入に対して、反VDT連続ストを一年間にわたり展開。
87年 全民労連発足。反連合を掲げ十月会議や88春闘懇談会、地県評連絡会、労研センターなどに参加、「闘うナショナルセンター」づくりを推進。
89年 電通労組結成10周年記念集会。全労協結成に参加。
91年 宮城全労協結成、事務局長として地域労働運動の発展に尽力。また、反PKO法案など市民運動との連携に全力を注ぐ。
93年 小選挙区制反対運動を通し、新しい政治勢力形成をめざす。
95年 統一地方選挙、参議院選挙に奮闘。

追悼の言葉

 わが電通労組の加藤滋本部特別執行委員の突然の逝去にたいし全国の皆様のお悔みと励ましに心から御礼申し上げます。
 今回の加藤滋さんの悲報に接し、私たちは深い悲しみと誰にもぶつけようのない悔しさの中にあります。
 電通反戦、電通青年運動から三里塚の闘い、そして右翼的労働戦線に踏み込む全電通と電電公社の一体となった不当処分との闘いの中で、一九八〇年十一月「右翼的労働戦線再編反対派の斥候兵」と自らを位置づけ、その橋頭保たらんと電通労組を結成しました。一方、闘う労働者の全国結集に向け、大阪労働者集会から労働情報、そして反連合を掲げ十月会議に結集し全労協に参加し、新しい労働運動を目指した私たちの最先頭で、そして政治的、組織的指導者として加藤滋さんは走りつづけてきました。
 組合結成後の公社、全電通に電通労組を認知させる闘いの困難な状況の中で、全国からの支援と期待の大きさに応えなければと張り詰めた私たちに、あの笑顔と懐の大きさ、情勢の洞察力の鋭さで、闘いの日常性の獲得を教えてくれ、団交ルール確立、便宜供与獲得から、大阪、四国電通合同労組の結成、電通労組全国協議会結成をもってNTT労働者の組織化の展望を切り開いてきました。
 加藤滋さんのすばらしさは、労働者を信じて決して裏切らず、常に笑顔で受け止めてくれる包容力、骨身を惜しまない行動力、闘いの基本の筋を通し論議をいとわない、資本・権力に妥協しない、情勢分析に裏打ちされた現状の改革、たとえ自分たちが作り上げたものであったとしても前に進める柔軟性にありました。
 東西冷戦構造の崩壊、国内政治再編の進展という今日的情勢の中で、総保守化、二大保守政党化に危機感を持ち、国政を闘える新しい政治勢力の形成のために、統一地方選を市民の政治の全国ネットワークとして闘い、参院選は平和・市民として常に全国性を問題にし、加藤さんはその中軸を担い闘ってきました。
 しかし連立政権、とりわけ社会党の根本的路線転換、総与党化による大衆の政治不信の深まりと左派の大衆組織化の立ち遅れから惨敗した選挙戦。この権力の危険な体制を許さないために、企業内労働組合の枠を越えた未組織労働者の組織化、社会的労働運動の形成、市民運動との結合に向かい始めた矢先の悲報であり、本人の悔しさは如何ばかりだったか。
 私たちは、あまりにも加藤滋さんに頼りきり、きっと大変だったろう日々を黙々とやり抜いてきたことを思うと、悔やんでも悔やみきれません。しかし、いつまでも悲しんでばかりはいられません。あなたの遺志を引き継ぎ、全力で闘いつづけることを誓います。加藤さん安らかにお眠りください。
 一九九五年十月
  電気通信産業労働組合本部執行委員長 大内忠雄

加藤ちゃんの急逝を悼む
私たちが失ったものはあまりにも大きい

織田 進


 加藤ちゃんがほんとうに突然、まるで全速力で駆け抜けて行ってしまった。
 倒れたと伝言があり、脳がすでに破壊されていて、「アウトということです」と聞かされたときにも、別なことのようで、加藤ちゃんについては、今までも何回もそうとうの危地から無事生還したことであり、今度もきっと大丈夫になるような確信が、理性とは別に働いていた。だが、悲しい知らせがもう一度伝えられるまでには、それからわずか一日が過ぎただけだった。
 こんなことがあっていいのだろうか。実際、ほんとうのことなのだろうか。
 そんな思いがずっと去らなかった。それは、追悼の言葉を探している今も、まだ私の心を去っていない。ほんのこの夏に、松島の海で最近の労働運動と社会主義運動の動向についての加藤ちゃんの判断を聞き、夜には酒をのんで騒いで同宿の客にうるさがられ、翌日には町内の夏祭りの世話をやらなければならないので会議を中座すると話すのを加藤ちゃんらしいなと感じたことなど、「思い出」になるにはあまりに近すぎる。
 加藤ちゃん。貴方はほんとうに忙しい人だった。忙しすぎて、命をずいぶん削ってしまったのだなと、いまになっては遅すぎることであるが、悔しさでいっぱいになる。周囲の仲間に急いで訃報を伝えたとき、みんな一様に信じられないと言い、そしてなんと惜しいことかと嘆いた。「あんないい奴が、なんで……」と。「むかしずいぶん世話になったんだよ……」と、思いがけない人から聞いたりもした。こんなことになっていっそう、加藤ちゃんの人柄を知ることになるのも、もはや及ばぬことである。
 私たちや多くの人にとって、「加藤ちゃん」という存在感は、労働者の確かさを表してきた。立ち向かういかなるものに対しても、驚くほど恐れを抱かず、そのためにともに進んでいくみんなが、いつも自然に明るくはげまされた。
 彼のまわりでは、「出口がない」という意識がよどむ状況は決して長く続かなかった。いつでもなにかしら新しい動きが彼のところから始まり、新しい希望がたぐり寄せられた。何か難しいことがおきれば、私たちは必ず「加藤ちゃんの意見」を聞いた。彼はいわゆる雄弁ではなかったけれども、説得力に満ちていた。彼の説得力は、他ならぬ彼がそういうのだから、きっとそうなのだと人に思わせるものであった。そして人はそのようにして彼に説得されながら、なぜか幸福な感覚に満たされるのであった。
彼は、最も「土着」的な労働者でもあった。田植えや稲刈りの季節には、仙台のいろんな会議などに彼を呼び出すのはかなり難しいことになった。その時期には、まず田んぼが彼をはなさなかったからである。もちろん、田んぼだけでなく「町内」もまた彼をしばしばつかまえた。
そんな彼が、その土の香りのしみついた普段着のままで全国に向かい、世界につながっていった。国際主義という思想は、彼の中では職場と地域の闘いが限りなく広がっていくあたりまえの行き先であった。だから、彼自身が自分の中に偏狭な垣根をつくらず、運動にもそれを許そうとはしなかったのだ。
 彼は、どんなときでも最初に、「弱い」もの、虐げられたものの味方であった。彼の頼もしい肩幅のまわりに、どれほど多くの仲間が寄り添ったことだろうか。そして彼からどんなに力強い支えを手に入れてきたことだろう。
全労協や電通労組にしても、三里塚にしても、市民運動や選挙その他のことなどにしても、加藤ちゃんの確信と働きにふれることなしには、私たちは何一つ語れない。だが、それらのことを詳しく話すのは、私の役目でもないし、その能力もない。
今日までずっと加藤ちゃんは、「国際主義」を冠した私たちの運動の誇りであり、確信であり続けた。私たちが失ったものは、あまりにも大きい。その大きさを、私たちが実感するのは、まだまだこれからのことになるだろう。
私たちのつながりの真ん中に、突然あいたこの大きな穴を埋めることは、とうていできない。だから、埋めようとも思わない。私たちは、加藤ちゃんなしでやっていかなけれがならない。そのことを、深く決意しなければならない。彼を悼みながら、彼をほんとうに惜しみながら、私たちはまた進み続けなければならない。
加藤ちゃんも、きっとそう望み確信しているだろう。あの、人なつっこくて心の底から明るい笑顔で、私たちを見つめながら。