1996年2月10日         労働者の力                第75号

住専への税金投入に反対する

住専の政治学――「地価神話」の復活のたくらみ

 
 (一)

 橋本新首相の滑り出しの支持率は極めて高い。細川内閣には劣るものの各種調査は軒並みに歴代二位の六〇%程度を示している。毎日五九%、読売五七%、共同六三%。例外は時事の四七%だが、これでも歴代四位の高率である。村山内閣末期の時事の調査では支持率は二九%であるから、一番低い時事の調査でも約二〇ポイント上回っている。村山の支持率が極端に低かったわけではなく、海部や宮沢という自民党単独政権時代末期の内閣支持率も同様である。
 単独政権回復への切り札として自民党がかつぎだした橋龍ではあるが、連立の組み合わせや三党合意の政策内容に変化がなかったことを見れば、個人人気や、マスコミが演出する漠然とした期待感などに依存した側面が強く、いわば「ゲタ」をはいているようなものである。同時に、村山内閣の一年余を通じて、いわゆる反自民ムードの勢いが薄れ、新進党の浮揚力にかげりがさしてきたことの表れともいえ、単独政権復帰をめざす自民党の戦略がそれなりに功を奏している側面も否定はできない。
 だが、村山が中途で投げ出した住宅金融専門会社と沖縄問題に象徴される諸問題は、歴代の自民党政府構造そのものが蓄積してきた矛盾の表れであり、自民党政治の延長上に自己を位置づけようとする橋龍人気の「ゲタ」を急激に取り払うであろう。衆院解散・総選挙の日程が繰り上げられてきている状況は、その予感への反応である。
 日本の政治経済の全般状況が深刻に行きづまっている事実を否定するものはいまやどこにもいない、と言っていい。歴代自民党内閣の保守本流政治のみならず中曽根流の新保守主義論も相当に底割れしている。政・財・官の癒着のうえに作り上げられてきた国家主導の「護送船団方式」そのものが通用しない――これがここ数年で全面化した事態である。
 住専の大蔵、沖縄の外務――ともに政治的重圧に直面している。住専問題は大蔵省そのもののあり方、その機能の分割や削減の課題をも提出し、また沖縄基地問題は国際貢献論で突っ走り、アメリカとの協調関係のみを優先してきた外交路線の根幹を揺るがすものだ。

 (二)

 住専問題の端的な問題点は、私企業である銀行などの金融機関を支えるために「公的資金を投入する」方式への反発が頂点に達していることである。東京・青島知事誕生の最大の契機も、破たんした金融機関への公的資金、すなわち税金の投入という方式への反発にあった。その構造が全国化した――これが住専問題を最大の政治焦点化している根拠である。およそ数兆円にのぼると見られる税金投入によって銀行集団を支える必要はどこにあるのか。「バブル」時代に投機に走り悪業の限りを尽くしてきたこれらの金融機関の国家財政による救済とは、あまりにも理不尽である。さらに、大蔵当局による銀行へのあまりにも手厚い保護と庇護の数々が日を追って暴露されてきているのである。
 連立三党も新進党もこうした世論の動向に敏感にならざるをえない。公的資金投入にあたって責任所在を明確にする、あるいは不良債権回収に全力をあげる、など泥縄的に騒ぎ出してもいる。だが反対キャンペーンを張る新進党も、根本においては公的資金投入に反対しているわけではない。
 住専問題の本質は、百兆円とも二百兆円ともいわれる、日本金融システムが抱え込んでいる「不良債権」の総額そのものを解消するための解決方策が「土地と株」の再度のあぶく的な上昇を画策すること以外には見あたらないということ、そのための最初の方策であることにある。
 要約していえば、公的資金投入の論理は主要に二つの点にしぼられていく。一つは国際的金融関係、とりわけ膨大な財政赤字に直面するアメリカ政府の利害の観点、二つは、戦後高度経済成長システムの基礎ともなった地価と株価の右肩上がり神話への再度の依存である。
 
(三)

 村山内閣の住専への税金投入の方針化は、外国為替相場と株価水準とに連動していた。前者すなわち為替相場は、ここしばらく一ドル一〇五円のレベルで推移している。後者すなわち株価水準も上昇カーブを描いている。この両者についてそれぞれ簡単に概観すれば、日本における景気後退とそれを通じて噴出してきた金融不安と株価の下落は、国際的には相当に深刻な経済的・金融的要因として作用した。以前の日本経済が洪水型輸出によって世界経済のかく乱的要因になってきていたとすれば、「バブル崩壊後」の日本の経済と金融は、とりわけアメリカの財政状況の観点からはまさに不安材料そのものとなった。膨大に膨れ上がった日本マネーの世界金融市場における劇的な縮小が仮に起こりうるとすれば、その影響は計り知れない。
 意識的な円高是正策が国際的に採用されてきた理由がここにある。アメリカ・クリントン政権のこうした政策観点は、同時に、日本政府に対する公的資金の導入による日本の金融状況の危機脱出策の要求としても貫徹する。
 土地と株を資産とする日本マネーの「復活」とは、国内的に見れば土地神話と株神話の復活に他ならない。これが第二の問題点である。
 税金数兆円を投入しなければ処理できないまでに膨れあがった住専問題は、明らかに大蔵と銀行の癒着の産物であり、両者は共犯関係にある。右肩上がりの土地神話におぼれたのが何よりも大蔵省であったことは、国鉄清算事業団の債務処理を土地売却で進めるとした姿勢に明確である。
 銀行と大蔵の癒着が、資金貸し出し総量規制枠から住専を除外し、同時に農協系資金を最大に取り込む仕掛けをつくったのである。もちろん農協系金融機関も野放図な貸し出しの自己責任を免れることはできないが、この間明らかになりつつある事実からみれば、大蔵と銀行の共犯関係が一連の事態の仕掛けにほかならない。
 付け加えれば、大蔵は土地の右肩上がりの復活に相当の期待感をもって「不良債権の処理」という事態に対処してきた、と状況証拠からは断言できる。住専問題の十兆円余をはるかに上回る国鉄清算事業団の累積債務の処理は土地の再度の高騰がはじまらなければ展望はないということも、この事情を裏づけるのである。
 土地神話の崩壊とともに、闇の世界へ流れた膨大な資金の回収は困難となり、中小金融機関の相次ぐ破たんの顕在化とともに日本金融の危機が叫ばれている。だが、大蔵はこの間、極度の低金利政策を進め、そこで銀行に最大限の利益を確保させつつ、同時に銀行にかかる法人税を様々な手段で削減し、その延長に今回の住専処理策を提出してきた。言い換えれば、いわゆる「母体行」そして農協系金融機関もついでに、実質として最大限に救済しつつ、形式としてだけの責任をとらせることを追求してきたのである。そして、その切り札が、巨額の税金の投入方針に他ならない。
 だがこれは反面、大蔵の「責任」をも明らかにすることである。住専各社の中枢に天下った大蔵官僚OB集団は、住専の経営責任主体である。それらが経営悪化とともに一斉に逃げ出したのであるが、そうした事情を隠ぺいしきれなくはなってきている。だが、それは「大事の前の小事」である――大蔵、銀行、そして農協の三者が少しずつ「傷を負った」形を作りつつ、何よりも優先する「税金投入」の道を切り開こうとしているのである。

(四)

 以上の背景を裏返しにすればどうなるか。すなわち「公的資金の投入を拒否」すれば何か生まれるか。青島都知事が、「破たんした二信組」への資金投入を拒否するとした公約を遵守するかどうかが一時期焦点となったが、「拒否」はまずなによりも「土地と株価の神話」を打破する最大の鍵を手にすることである。
 土地本位制と呼ばれる日本経済の構造は、異常に高い日本の物価水準の基盤である。労働賃金の大半が住宅資金に消えていくという、まさに「奇妙」な構造は、同時に地代の高騰を消費者物価に転嫁せざるをえないこととなる。かつて池田内閣が提唱した所得倍増論は同時に物価の倍増論であった。
 それが極度に肥大化した「バブル経済」とは、土地投機、株投機の別名であり、そこの暗躍したブラックマネーが「地上げ屋」や「仕手筋」による巨額の「不良債務」として残されている。すなわち「闇に消えた」わけである。「住専処理」とともに再び土地と株の神話が復活することになる。まずはこのことを断ち切ることが必要である。
 確かに、そのことは「景気」に影響を与える。バブル崩壊とともに不動産業界の不況も顕在化した。企業の含み利益も減少し、リストラ時代が到来した。環境破壊のゴルフ場開発の勢いもゆるんだ。氷河期といわれる就職難が到来した。だが反面、物価の上昇が低水準で推移し、大量消費の風潮も幾分かは沈静化した。「価格破壊」の時代もここに始まる。
 地価と株価が崩壊することによって、日本マネーがアメリカ金融市場から撤退することの影響は相当のものともいえる。だがそれはアメリカの事情だ。アメリカが巨大な軍事力によって世界を支配することも一助に日本マネーの存在があるのである。これにいささかの配慮も必要ではない。
 地価と株価神話の崩壊はすなわち、戦後日本資本主義の数十年の基礎構造――政・財・官そして労(=企業連組合)の癒着関係を終わらせることにつながっていく。社会構造は否応なく変化と動揺の時期に入らざるをえない。変動は当然、各階級や階層の「痛み」を伴うことも避けられない。階級間・階層間の利害衝突は厳しさを増していく。
 だが同時に、住宅取得費用を最大の象徴とする日本社会の「超収奪構造」の打破は、日本資本主義の戦後の宣言となろう。対米外交――安保と沖縄基地。対アジア外交――経済侵略と戦争責任への開き直り。これらはすべて、洪水型輸出戦略において築かれてきた日本資本主義のあり方の帰結なのである。
 現在の自・社・さと新進の政策の構造は、こうした日本資本主義の「過去」の構造の反映にほかならない。社会党が社会民主党に変わり、そしてさきがけと合流した「民主党」を展望しようとも、それは「過去」の延長である。
 住専への「税金投入」は、中期的観点からみれば、一時しのぎのカンフル剤以上の役割をもたないともいえる。だが、政治的な国家と政府の「超然化」を狙う小選挙制度と重ね合わせれば、民衆の一方的な犠牲において国家システムの根幹をなんとしても維持する狙い、すなわち小沢流改革論の底深い危険性も浮かび上がってくる。
 民衆は、変動の犠牲になることを拒否するとすれば、全般的な社会的・国家的な闘い――階級主体のあり方の再組織を含めた――を準備する必要がある。住専への国家資金投入を拒否することは、まさに新たな時代の新たな闘いを主体的に準備することになるのである。
 住専、そして沖縄の闘いを軸に春季闘争を闘おう。

フランス――闘いの三週間
フランソア・オリビエ


 フランスは一九六八年五月以降、初めて、ストライキやその他の闘争がすべての公共部門を襲い、他産業の勤労者は、これらの闘争に対する真実の共感をもった。
 鉄道労働者、郵便労働者、電気技術労働者、教育労働者、公務員のストライキは事実上、フランスを機能停止に陥れた。彼らには一大共通目標があった。それは社会保障を解体する「ジュペ計画」の撤回であった。と同時に、それぞれの労働者に独自の要求もあった。ことに鉄道労働者は、数千人の失業や数千キロにもおよぶ社会的に必要な路線の廃止を意味する政府計画の撤回を要求として掲げていた。
 しかし、こうした要求すべての背後には、より根本的な社会的不安感が表明されていた。すなわち、現在のヨーロッパ社会における社会保障制度の変化というのは、歴史的な変化、文明の転換をほぼ意味するという感覚がある。
 ジャック・シラク大統領とジュペ首相は、国家財政の赤字削減、社会保障関連赤字の削減、公共部門の支出削減を盛り込んだ大幅な緊縮財政方針を決定した。その理由は、ヨーロッパ連合(EU)の共通通貨採用(通貨統合)の前提条件としてマーストリヒト条約が定めている「基準」に適合することにあった。
 社会保障と年金の制度は、その部分的な崩れにもかかわらず、勤労人民が社会的に前進したことを具体的に表現しているのであり、その意味で今日のフランス社会における基本的な階級間の力関係を表現している。ジュペ計画は、労働者と、資本家と国家との間の歴史的な関係を転換しようとする戦略の一環である。もしジュペ計画が採用されるならば、資本家とその国家からするその他の様々な反動的な計画の道を開くことになる。
 マスメディアは、この闘い、運動を産業部門別、職業別、そして「コーポラティスト」的要求が混合したものだと表現した。しかし本誌の以下の論文(六つを掲載)が示しているように、この闘いは統一した運動であった。ジュペ計画に反対してわれわれは、「過去二十年間にわたって実行されてきた新自由主義(ネオリベラリズム)政策をやめよ」と主張したのだった。
 ルモンドのあるジャーナリストは、この闘いを「グローバリゼーションに対する最初の反乱」と呼んだ。事実、フランスの今回のストライキは、ベルリンの壁崩壊以後の資本主義世界における最も重要な闘いであった。(そして勝利できなかったために)階級闘争は後退した。
 この運動の限界は、過去二十年間続いた危機がもたらした様々な分散、分解にあった。労働者運動は公共部門で強力で、公共交通が機能しなくなったにもかかわらず、全国勤労人民の共感を得ながらも、闘いは決してゼネストへと発展することはなかった。一九六八年五月とは違って、ストが波及していくドミノ効果はみられず、民間部門のゼネストには至らなかった。
一部の解説者は、こうした現象を「代表スト」あるいは「代理スト」と表現した。民間労働者は、公務員労働者のストライキを支持したが、それに合流することはなかった。これは、経済危機の結果の一つなのである。これまでの敗北、失業の脅威、不安定あるいはパートタイマーといった雇用条件、これらすべてが重なって民間部門に対して否定的な影響を及ぼした。
 運動の力は、労働組合運動における分極化を促した。CFDT指導部を構成しているのは、ジュペ計画を支持したブロックであった。そしてCFDT(フランス民主労働同盟)内の左派は、CGT(労働総同盟)やFO(労働者の力派)、FSUと同じく、この運動を支持した。SUD(郵便通信労働組合)やCRC(看護婦労働組合)のような新しい戦闘的な組合も同様に運動を支持した。こうした分極化の影響は依然として効果を発揮している。
 労組は、この運動において力を獲得した。しかし大部分の労組指導者は、その言葉にもかかわらず実際には大衆動員の波で「波乗り」をしただけであり、指導しようとしたのではなかった。労組間の行動を調整する機関は存在しなかった。その結果、ストライキを闘った鉄道労働者は、「自然」に運動の指導部になった。CGTとFOの両指導部は、ストの「全般化」について語ったが、公共部門と民間部門双方でのゼネストを明確に呼びかけることは決してなかった。CGTの指導者は、ジュペ政府辞任の要求すら掲げなかった。
 社会党と共産党の両党指導部は、運動が「政治化」しないように躍起になった。社会党は一九九八年の選挙を待ち望んでいるだけ。フランス共産党は、現在の方針に代わる新しい方針について漠然と語ったが、ジュペ政府の打倒や彼らのいう新しい方針に左翼を結集して力とすることも呼びかけなかった。共産党指導者らは、社会党の指導者らと同様に次の選挙を控えて脅威を感じ、行動できなくなった。議会内左翼は、この社会危機が政治危機に転化しないよう懸命に努力をした。
 しかし、この社会危機は今なお、ジュペ計画の背後にある資本主義的リベラリズムに代わる新しい路線の問題を提出し続けている。マーストリヒト条約の論理と決別せよという主張、資本への課税を強化し、それを財源として社会政策を実行せよという主張、労働時間の大幅かつ全般的な削減によって失業をなくせという主張――こうした主張、方針に対する信頼性を、今回のストライキは高めた。現在の任務は、こうした政治主張を明確に展開し、それを十二月の闘いを領導した多数の人々に提起することである。
(インターナショナル・ビューポイント誌96年1月、272号)

フランスの三週間
                             クリスチアン・ピケ


シラク幻想の消滅

 まず最初のストライキとデモ行動が、数百万の人々にネオリベラリズムと「ポスト・マーストリヒト欧州」のマネタリスト的概念に対する疑問を抱かせた。ジャック・シラクの大統領選挙前の「社会的な分裂」に関する公約への幻想は、完全に消え失せた(彼はミッテラン政権のバラデュール政府のリベラル正統経済政策とは決別すると主張し、十八歳から三十四歳までの有権者から絶対多数を獲得した)。一九九五年六月の大統領選以来、シラクが厳格にリベラル正統的な経済政策を実行してきたからである。財政赤字の削減が最優先された。その目的は、ヨーロッパ連合(EU)を構成する諸国が共通通貨「ユーロ」採用の準備ができているかを判定する基準を実現することにあった。
 これらの基準が厳格であることに、フランスブルジョアジーは危機感を抱いた。保守党の共和国連合(RPR)議員、ピエール・ルルーチェは、一九九二年のマーストリヒト条約国民投票では賛成の運動を行ったが、現在では「人々の生活は(マーストリヒト条約の定める)ロボット的(予定表にそって進められる機械的な)なものでは決してない。最も厳格な法制度でさえ、すべてのヨーロッパ諸国、ことにフランスに現れている社会矛盾に対して長期間抵抗することはできない」と憂慮している。
 シラク大統領とジュペ首相が犯した大間違いは、彼らが公共部門、公務員労働者の労働条件、とりわけ「福祉国家」という社会の前進を象徴する社会保障制度に対して同時に攻撃を開始し、そのことが社会的な不満を拡大させた点である。
国鉄の闘い軸に

 マーガレット・サッチャーのイギリス炭鉱労働者を攻撃した戦略こそ、シラクとジュペが採用したものだった。彼らは、労働者運動はいくども敗北を重ねてきたのだから非常に弱く、行動力がなくなっており、同時に攻撃を仕掛けたとしても一部門、特に公共鉄道ネットワークSNCF(国鉄)だけでストライキが行われるにすぎないだろう、と考えた。彼らは、二十年間にわたる経済政策がもたらした社会的な不満が蓄積して爆発寸前に達していることを全く理解できなかった。彼らはまた、はっきりと形の見える効果的な交通労働者のストが他の社会運動を激励する点を過小評価していた。
 一九八六年から八七年にかけて、学生、鉄道運転士、電力労働者がそれぞれ次々と闘いを展開していったが、それらの闘いを集約する要素を見出せなかった。しかし今回の闘いでは、政府のへたなやり方のため労働者がお互いに結合しやすくなった。
 大学生は新学年の始まりに際して、教育予算の削減とその結果として予想される一定の教育課程の学習が困難になることに抗議する扇動を開始した。ほぼ同じ時期に、公務員と公共部門労働者は、賃金凍結に抗議して二回の一日ストを展開した。その後、ジュペは、社会保障制度、公共部門労働者の退職年金制度の改革案、国鉄の五千キロの路線廃止と一万五千人の人員削減を発表し、フランス電力公社(EDF)やフランス・ガス、フランス・テレコムの「改革」(市場原理の導入)計画を意識的にもらした。こうした事実は、様々な部門の闘いを集約させていくのに貢献する。そして大多数の労働者は、政府の攻撃の規模からして勝利の展望は、決定的かつ大規模な運動にしかないことを理解した。
 鉄道労働者の闘いに最初に合流したのは、パリのバス・地下鉄企業(RAPT)の労働者だった。その後、闘いは飛躍的に拡大し、電力労働者、郵便区分労働者、税務署職員、教育労働者の一部が運動に合流していった。「ジュペ計画の撤回」が、様々な運動を統一する要因となり、かつ新しい部門に闘いを拡大していくスローガンとなっていった。

ゼネラル・ストライキ?

 この数年間で初めて、ゼネストが可能な客観的条件が存在した。だが、それは次の三つの理由で起こらなかった。
 ストのため、パリ、マルセイユ、グルノーブル、その他の都市の鉄道、バス、地下鉄がマヒした。しかし、これで公的サービスと公共部門のすべてだったわけでない。そして、より重要なのは、民間部門がストに入らなかった事実である。公共部門労働者に対する共感、連帯感は存在し、大きなデモが行われた日には民間労働者の職場放棄も見られた。だが、危機の重さ、最近の民間部門での敗北、「企業再構築(リストラクチャリング)」の規模、不安定雇用労働者の増大、民間企業における労働組合組織率の甚だしい低下――これらの要因が相まって、公共労働者の運動に最初から終わりまで共感を抱いていた民間労働者にすさまじい圧力となって働いた。
 ゼネストへの第二の壁は、指導部の不在だった。労働組合連合組織(CGT(労働総同盟)、CFDT(フランス民主労働同盟)、FO(労働者の力派)、FSU)は、絶対にゼネストを呼びかけなかった。そうした呼びかけがあったとしてもゼネストの成功が保証されていたわけでない。だが、呼びかけることによって、こうした労組連合体が「これは大闘争の始まりだ」と確信して自らを行動に駆り立てることにはなったであろう。しかし指導部は存在しなかった。また全国レベルでの労組間の調整機関すら存在しなかった。
 闘いの集中や部門間の調整といった問題、デモの日時や場所などは組合ごとに決定された。運動が極めて強力だったため各組合指導者は、デモや集会などの公開の場所ではしかたなく握手をしたりしていた。だが、彼らが組合間の協調行動をためらった事実が、自主組織不在の最大の理由だった。
 ストライキは基本的に、各企業に存在する複数の組合を糾合した全体総会を基礎にして行われた。しかし各産業部門あるいは全国レベルでのストライキ委員会は、ほとんど形成されなかった。それどころか、一九八六年の鉄道スト、一九八八年の看護労働者ストを担った労組間行動調整委員会さえ存在しなかった。
 ゼネストに至らなかった第三の理由は、左翼の側の新しい政治路線の不在である。社会党はストを「政治化」させたり、あるいは選挙日程を混乱させるような一切の行動を完全に拒否した。社会党指導者のジョスパンは、事態がうまく進行して一九九八年選挙に勝利することだけを願っていた。彼が喜んで行う唯一の行動は、ジュペが改革を実行しようとしてとった権威主義的なやり方を非難することだけだった。これに対してジュペは、自分の前任者である一九八八年から一九九二年までのミッテラン大統領下の数次にわたる社会党政府が実行した政策を継続しているだけだ、と答えた。
 共産党(PCF)は、「建設的な野党」の戦略をやめる可能性があった。だが、社会保障に関する社会的な抗議の水準を超えて進む新しい運動を心配した。共産党指導者は「ジュペ政府を問題にしたり、国民議会の解散につながるようないかなる行動」も支持しないと述べた。左翼の側の新しい路線について依然として(共産党以外の左翼は)「進歩的な新しい路線をもっていない」(十二月七日)と発言した。
 そしてゼネストに至らなかった。クリスマスの数日前、マヒした産業部門の多くで職場復帰となった。

部分的な勝利

 数十万もの「普通」の女性と男性がストに参加した。十二月十二日と十六日、ジュペ計画に抗議して二百万以上の人々がデモを展開した。多くの都市で一九六八年五月以来ではなく、第二次世界大戦終了によるフランス解放以来で最大のデモが展開されたのだった。
 マルセイユ、ルーアン、ボルドー、リヨンなどの都市の運動の力強さは、パリ発の中央集権的なエリート支配というフランス様式そのものへの拒否を示していた。ある地理学者は「これは、社会とのつながりをますます失っているエリート支配というパリ方式の拒否である。デモ参加者にとってジュペは、この「横柄な権威」の権化にほかならない」と語った。
 ジュペ計画それ自体は撤回されなかったが、提案された改革の一部、すなわち公共部門退職者年金制度の改革、鉄道事業の一部廃止、電気通信と電力に関するヨーロッパ連合からの規制緩和方針が撤回された事実は、社会運動にとって部分的な勝利を意味する。大学に対する新たな資金提供の約束も同様である。そして、これらの部分的な勝利は、一九八〇年代と一九九〇年代初めの敗北で塗り重ねられた歴史を転換させるのである。
 階級闘争は、フランスで一国的には後退した。様々な労働者間の連帯が危機のために破壊されたように見える。だが、それ以上ではない。今回の動員は、労働者運動における闘いの伝統を更新し、そしてこれまでの闘争に関する人々の記憶を新たにした。デモの場には赤旗が林立した。「インターナショナル」を再び聞くだろう。
 職業間スト実行委員会が存在すると、それは信じられないほどの力を発揮する。ルーアンでは、鉄道労働者の全体総会が闘争中の他産業労働者とすばやく協調し、地域の闘いを統一する場となっていった。
 新しい左翼路線の必要性、ヨーロッパ規模でみた現在の危機、社会における女性の位置に関する政治議論が活発に行われた。
 カードはシャッフルされ、再び配られようとしている。労働組合運動について考えてみよう。それぞれの連合体(CGT、FO、FSU)を基礎とする統一は、かつてなく強くなっている。CFDT指導者、ニコル・ノタが恥ずかしくも政府を支持した事実は、この連合体における分極化を促進した。第二のCFDTが生まれようとしている(CFDTは分裂してできた)。
 それを象徴するのが、五百人の職場委員と地域代表がCFDTの仲間に行動に結集するよう訴えるアピールに公然と署名したことである。ノタは、これらの活動家に対する追放手続きを開始して応えた。そのためCFDT臨時大会開催の圧力がかけられるだろう。だが、その大会は、CFDTの分極化を加速するだけとなろう。
 一九八〇年代にその「過剰な」戦闘性を理由にCFDTから追放されて結成されたSUD(郵便通信)とFSU(教育労働者)のような新労働組合は、闘いにおいて決定的な役割を果たした。
 フランス左翼知識人のストライキへの反応は、それぞれがひどく違っていた。最近になって流行の理論に夢中になっている知識人の一部は、政府の「現代化」努力を支持した。多くの知識人は、ストを闘う労働者支持の声をあげた。
 ストの終わりは、フランスにおける社会運動の終わりではない。ジュペは布告という方法で、つまり議会での議論を避けて改革を実行しようとしている。その最初は、新しい所得税(社会保障や年金に対する課税も含む)であろう。それに続くのが公的病院の改革である。これらの一つひとつが社会運動への挑戦である。人々を正しく結集できるイニシアティブさえあれば、闘いを再度開始する機会は豊かである。
(インターナショナル・ビューポイント誌96年1月、273号)

インターネットと自己責任原則
                               高山徹


インターネットとは

 日本経済新聞紙上で一九九五年九月五日から「インターネットビジネス」(インターネット産業研究会)が三十五回連載で掲載された。この連載は、題名通りインターネットの基礎を紹介し、それが実際にどのようにビジネスに利用されているのか、どんな可能性があるかを分析したものだった。
 16ビットパソコンの世界で生活し、ウィンドウズ95どころかウィンドウズ3・1にも無縁な私にとっても、インターネットは、想像の中のことといえ、なかなかに興味深いものがある。それで、前記連載のコピーを図書館ですべて入手し一読した。インターネット上で実際に動いているソフトの説明は、「ああ、そうですか」と言うよりほかない面がある。それでもインターネットの原理やその可能性については考えさせられるものがあった。以下、引用は前記掲載から。
 「インターネットは、一言でいえば、世界中のコンピュータのネットワーク同士が相互につながった集合体の総称である。だからそれは、特定の会社が提供する単一のサービスではない。超大型コンピュータからパソコンまで、機種を問わずつながる」と説明されるインターネットは、われわれとしても注目すべきだと思う。
 「インターネットの特性を上手に理解・活用すれば、予算や人員に制約のある非営利組織でこそ、その威力をいかんなく発揮できる」という直接的な利用価値の問題だけによるのではない。第四インターナショナルがホームページを開設すれば、現在、大衆的な宣伝手段がインターナショナル・ビューポイント誌にほぼ限定されている状況を突破できるのではなかろうか。ちなみにインターナショナル・ビューポイント誌宛の電子メールは、〈100666.1443@compuserve.com〉で送ることができるようだ。
 このインターネットに関して様々な角度から考える必要があるが、ここでは「自己責任原則(原理)」との関係でみてみたい。というのは、現在の日本で最大の政治課題となっているといわれる住宅金融専門会社(住専)問題に関して、自己責任原則が問われているからだ。
 昨年の阪神大震災後に、当時の武村蔵相が被災者の財産補償に公的資金を使えない理由として「日本が私有財産制(資本主義)であり、自己の財産は自己責任の原則によって扱われるべきもの」といった主旨を国会答弁で主張した。私がそうだったが、思うに、多くの日本人にとってこれをを聞いたのが、自己責任原則を明確に意識した最初の経験ではなかろうか。
 これを聞いた時は「ああ、そうなの。それじゃ、それでやってくれよ」という感じだった。ところが、今回の住専問題では、自己責任の原則が適用されない。こんな二重基準が許されていいはずはない。そもそも自己責任原則が明確に意識されてこなかった事実の背後には、歴史的あるいは社会的な理由があったはずだからである。

主体の自律と情報公開

 本紙一月号の新春放談会で明らかにされているように、資本主義がその原理(自己責任)をむき出しで貫徹すれば、様々な問題が生じてやっていけなくなるという歴史的な経過があった。その過程で中心的な役割を果たしたのが、自己責任原理の貫徹で矛盾が集中する労働者階級、人々が抵抗し、その原則の修正を実現したことである。
 現在の政府・与党の自己責任に関する主張は、こうした歴史的経過や社会的背景を完全に無視しており、仮に資本主義是認の立場に立ったとしても、とうてい容認できるものではない。
 もう少し具体的に自己責任原則を考えるために、インターネットのそれに即して考えよう。インターネットの自己責任について次のようにいわれている。
 インターネットの「ネットワークの構造が利用者に対して開放され、原理的にはすべての利用者がネットワークの詳細な構造を知ることが可能である。ネットワークの不均一性とこの公開性、自律性が、他の通信サービスとは大きく異なる点である。手厚いサービスを求める利用者にはなじまない部分も多い。利用者にも自己責任が求められるからだ」
 「「インターネットはビジネスに使えない」「だれも管理していない、無秩序なネットワークだ」といった批判をよく聞く。果たしてそれは当たっているだろうか。インターネットにも管理・運用の仕組み、制度はある。でなければ「ネットワークのネットワーク」が機能するはずがない。ただし、単一の組織ではなく、世界中の数十万のネット、数百万の組織が、自己責任原則を中心に、相互に協調して管理・運用している」
 「公共交通機関は、事業者側が、全責任をもち、乗客は定められた時刻表通りに何も考えずに移動できるシステムだ。しかしインターネットはマイカーの運転に似ている。駅も時刻表もなく、好きな行き先と時間帯を自由に選択できる。事故に遭っても基本的には自己責任原理である。自由度は高いがリスクも高い。つまり、自らが主体的な情報発信者、情報資源の利用者となる反面、自己責任が求められる」
 この引用部分のインターネット(ネットワーク)をたとえば資本主義に置き換えて読んでみるといい。
 キーワードは、主体の自律と公開である。アダム・スミスの「諸国民の富」を引くまでもなく、資本主義は経済主体の自律と透明な市場を原理的な前提としていた。たとえば、労働者が高い賃金を求めて労働力を売る相手を自由に変更できると想定されていた。その場合、その労働者の家族や居住地域の問題などは無視されており、それこそ労働者は時間と空間を超えて自由に移動できることになっている。こうした前提が現実と大きく違っているからこそ、自己責任原則に枠がはめられてきたのである。
 自己責任原則に枠がはめられたことの最も象徴的な事態が、資本主義国家の市場への介入である。すべての経済主体の自律が前提とされていながら、国家が介入することによって経済主体の自律を規制している。連立政府と与党が自己責任原則を主張するのであれば、国家の介入などの自律を規制する一切の措置の撤廃をめざさなければならない。あるいは、自己責任原則に枠がはめられている現実を承認し、その枠の内容を明確にするか――この二つのどちらかしか、論理的にはありえない。
 さらに原理的にいうなら、自律した主体と完全な公開を前提とすると、現在のような中央集権的な国家の存在自体が否定されることになる。また、この問題は「組織論」とも関係して、特にネットワーク組織論として考えられるべきだろう。
 「インターネットには、技術標準を策定するためにIETFという組織がある。このIETFの活動原理が実にユニークだ。参加資格は一切不要、意思さえあればだれでも参加できる。テーマ別に八十余りの小グループが存在し、活動の大半はオンラインのメールグループ経由で行われる。このメールグループの討論に地道に参加し、発言することが、IETFへの「参加」の実体なのだ」
 「IETFでの決定には多数決は用いない。「ラフ・コンセンサス」を重視し、みんなで使ってみて、使いながら議論し、その結果をみて全員の合意で決める。特定の国や企業の利益のみを代弁しようとしてもうまくいかない。全体の共通の利益が優先し、まとめ役が存在する。西欧型の「投票民主主義」より、アジア型の「寄り合い」による全員の合意を重視する組織原理であるところがおもしろい」
 自己責任原理(とその裏返しとしての主体の自律と公開)を前提とするなら、こうした組織原理は当然だと思われる。
 なお、ここで注意すべきは、インターネット内部では根本的な敵対関係は存在しない、と前提されている点である。市場もまた、同様であるが。
 結論的にいうなら、インターネットで実行されている自己責任原則は、参加主体の自律と公開が確保されており、それだけ直接民主主義に近くなっており、一つの望ましい方向を示している。
 「これらの(運営)方式はすべて公開を前提とし、「自己責任原理」で成り立っている。インターネットのこのやり方は、リスクもあるが、利便性も高い。決定までの速度が必要以上にかかると危ぐされるが、大半はその逆となる」
 インターネットの自己責任原則は、今後の問題を考えていくうえでの一つの参照点になると思う。
ボスニア和平
          アメリカ主導の平和
                             カトリーヌ・サマリ

矛盾に満ちた和平協定

 西側諸大国の大量重武装軍事力による介入を支持する人はたいがい、NATO(北大西洋条約機構)のボスニア・セルビア勢力に対する「強硬方針」が戦争の終結をもたらしのだ、と主張する。真実は違う。デイトン―パリ和平協定(いわゆるボスニア和平協定、以下パリ協定)は、西側諸国のリアルポリティーク(現実政策)と二重基準とを浮かび上がらせた。この協定の結果としての「和平」は、もろく、かつ矛盾に満ちている。
 一九九五年十一月二十一日にデイトン(米オハイオ州)の交渉で合意に達し、同年十二月十四日にパリで調印された和平協定は、交渉過程でアメリカからの強い圧力を受けていた。クリントン大統領は、国内事情からして即座の外交上の成功が必要だった。その結果が、あわただしい交渉と「分割できる一つの国家」としての新ボスニアの誕生だった。ボスニア、クロアチア、セルビアのそれぞれの指導者は、地上戦で明白な勝利者がいなかったこともあって、それぞれのやり方での協定の実施を考えている。クリントンは、いくつかの約束の裏で、戦争を続ける三勢力抜きで協定を締結すると脅した。
 クリントンは、戦争の一方の陣営に直接加担することはなかったが、三勢力の軍事・政治的な力関係をシニカルに利用した。NATOによる空爆は、確かにボスニア内セルビア人指導者、カラジッチの立場を弱めた。しかしセルビア指導者、新ユーゴスラビア・セルビア人共和国大統領ミロセビッチを支持し、セルビア民族主義勢力を支持したのではない。パリ協定は、カラジッチのボスニア内セルビア人共和国を承認し、それがボスニア・ヘルツェゴビナ全体の四九%(一九九五年秋のクロアチア・ボスニアの攻撃以降、同勢力が事実上支配していた地域に相当)を支配することを認めた(パリ協定による新国家は、ムスリムとクロアチア人で構成する「連邦」(領土の五一%)と「セルビア人共和国」(四九%)に事実上二分される)。
 協定は、ミロセビッチがセルビア人すべてを代表できる場合にのみ実行できる。もしボスニア内セルビア人指導者らが、ミロセビッチに委任状を与えるとするなら、それは彼らが、協定に「戦争犯罪人」(ハーグ法廷の定めによる)は新ボスニア内のいかなる場所でも公職につけないという条項があるのを知らないからだ。だから現在、カラジッチとムラジッチ将軍が平和計画に反対している事実は、彼らが過去四年間行ってきた戦争の「成功」を確証しているのである。
 だがNATOの空爆は、三勢力間の政治・軍事的力関係の変更に関して副次的な役割を果たしたにすぎない。実現された一つの変化は、ボスニア政府(ムスリム)軍のゆっくりした構築と強化である。ボスニア軍は、数的には優位にあるが、重火器、戦車、航空機の面で劣り、また地理的には不利な点がある。ボスニア政府が支配する地域は、新ボスニアの中心部であり、セルビアとクロアチア勢力に包囲される形になっている。しかし軍事的な力関係上の大きな変化は、本質的にクロアチア軍――アメリカとドイツからの援助で利益を得ている――に有利である。
 クロアチ大統領ツジマンにとっては、これは彼の「大クロアチア構想」をしっかり固めるものである。彼の戦略は、反セルビアのクロアチア・ムスリム連合を形成し、ボスニア・ヘルツェゴビナをセルビア系とクロアチア系とに分割することでセルビア大統領ミロセビッチの暗黙の支持をとりつけることだった。
 ボスニア幹部会議長イゼトベーゴビッチが協定調印を最もためらった。彼は、ボスニアのいかなる民族的な分割をも拒否するよう義務つけられていた。しかし多民族ボスニアに関してパリ協定が約束したことは、何も実行されていない。そして協定が承認する現在の事態は、民族分離の方向を明確に示している。
 サラエボ政府は、セルビア・クロアチアあるいはアメリカ(相当の融資という「ニンジン」つき)の圧力に抵抗する政治力も軍事手段ももってはいない。クリントンは確かにボスニア軍への支援を約束したが、それもより安定した力関係ができる範囲内、彼の願望するところでは、数カ月以内にNATO軍が撤退できるようになるまでのことである。彼にとっての問題は、共和党が支配するアメリカ議会がボスニア政府軍への一方的援助計画の発動を要求していることである。しかも「コンタクト・グループ」のロシアとヨーロッパ連合(EU)との代表は、これに反対している。

危険が大きい平和

 NATOの平和履行軍(IFOR、約三十カ国、六万人)は、一二カ月間駐留する計画である。だが、一年後の状況はどんなものになっているだろうか。クリントンの表面上の外交成果は、はなはだ危険が満ちている。確かに彼が中心的な和平計画立案者かもしれないが、大量の米地上軍をボスニア政府に派遣(第二次大戦後初めての欧州への派遣)せざるを得なくなってしまった。そしてNATO軍介入の責任者とみなされる。彼の現在の目標は、バルカン半島から若い米兵の命をあまり失うことなく無事帰国させること――できれば彼が再選へ立候補を表明する前に――である。アメリカ世論は、流血の、あるいは長引く軍事介入を許さない。そして彼が立候補を表明する時に、米軍がボスニア政府に駐留しているようだったら、彼に背を向けるだろう。
 以上が、クリントンが単に歩兵にとどまらず大量の重武装軍派遣を強調し、そうした重火器が雪におおわれたボスニア山岳地帯では使用が困難なことを知っている将軍らに反対する理由である。これが、IFORが国連防護軍(UNPROFOR)とは違う「強硬な」イメージの背後で、「現地」武装勢力の敵対行動に直面したらIFORが最初に攻撃すると主張する理由でもある。
 こうした明白な危険性にもかかわらず、和平協定と軍の配備こそが、不信をかった旧ユーゴスラビア国連防護軍にとって代わりつつある「平和実現者」としてのNATOの新たな正統性なのである。

分割できる一つの国家

 左翼の一部は、諸大国の今回の介入に奇跡を期待している。彼らは、奇跡を期待するのではなく、アメリカとその他の諸大国が当該地住民に対して行使している法外な力こそを認識すべきである。というのは、パリ協定は、ボスニア・ヘルツェゴビナの休戦ならびに国家再建、その国民への全面的な主権の回復を問題にしているのではないからである。
 この協定の基本目的は、新しい国家制度全体の早急な確立のためにアメリカ主導の計画を押し付けることにある。パリ協定は、統治機関を定めており、そのための選挙を一九九六年六月から十月までの間に実施することにしている。しかし、この選挙には、すべてのボスニア人代表による制憲議会の考えはまったくない。
 既存のボスニア・ヘルツェゴビナ共和国が二つの国家――クロアチア人とムスリムで構成する連邦(五一%の領土)とボスニア内セルビア人の共和国――から構成されることに決まっている。三武装勢力(ボスニア内セルビア人、クロアチアHVO、ボスニア・ヘルツェゴビナ軍)それぞれは、新ボスニア幹部会(セルビア人一人、クロアチア人一人、ムスリム一人から構成)の一員の統制下に置かれることになっている。
 ボスニアは、中央国家機構の一部をもつことになっている(それぞれの勢力が支配する地域ですでに統治機構ができているが、中央のそれはまだ形成されていない)。新共通機関(中央政府)は、外交、貿易、通貨などについて権限をもつ。しかしセルビアとクロアチアそれぞれの支配地域は、セルビアとクロアチアの近隣諸国と独自の直接的外交関係をもつことができる。そして通貨だけは、三地域で共通であるが、それはドイツマルクである。ボスニア・ヘルツェゴビナ中央銀行初代総裁は近く、IMF(国際通貨基金)が任命することになっている。
 クロアチア・ムスリム連邦と(ボスニア内)セルビア人共和国との市民は、それぞれが中央議会の代表を選出することになっている。
(訳注 パリ協定では次のようになっている。新ボスニア議会は上院と下院の二院制。上院は十五人の代議員、その三分の二は「ボスニア連邦」、残りはセルビア人共和国から。下院の定数は四十二で、ボスニア連邦が三分の二、セルビア人共和国が三分の一を選出する)
 下院の決定は、新国家を構成する連邦と共和国のそれぞれの上院における三分の二の議決(どちらかの一方でよい)で覆すことができる。この方式は、旧ユーゴスラビアのチトー時代に由来し、その狙いは多民族国家における少数民族の権利保護にあった。だが、新ボスニアに課せられている特別な統治構造には、次に述べる三つの問題がある。
●ボスニアの地域的な分割が民族を基準としてなされている(民族浄化)。
●主要政党は、政治綱領でなく、民族を基盤に支持を訴えている。その結果、各地域は「自らの」党へ投票することになる。
●各地域の市民は、家族の系統あるいは父祖の名字によって特定の民族に帰属する。その帰属に反対する市民は、自分がどの民族であるかを自分で「証明」しなければならない。

 こうした制度は、政治選択と「不十分な」民族帰属とを完全に押しつぶしてしまう。セルビア共和国内の非セルビア人は、自己の代表をもつのは極めて難しい。この点、クロアチア・ムスリム連邦の基準に合致しない市民はどうか。この場合、すべての少数民族が同様の地位にあるわけではない。複合民族に属するすべての人が、その対象となる。

永続的な平和

 パリ協定の反動性は、新たな敵対行動の発生を促す、あるいは協定に定められた諸権利を法的に無効にする可能性が強い。自由に文書を発行する「権利」や三百万人の難民が帰国する権利はどうか。あるいは新ボスニアを構成する(民族的に定義された)セルビア共和国とクロアチア・ムスリム連邦の様々な場所をつなぐ「回廊」について諸大国が交渉しているが、その地域に居住する人々が帰国する「権利」はどうか。
 確かに、休戦と協定が保障する諸権利の行使は、政治闘争の舞台を拡大する。新ボスニア内部で、民族的に排他的な国家の建設に反対する人々が展開する二つの活動に注目しなければならない。新ボスニアでの「下から」の統制の発展と、平等・民主社会の再建に向けた動きとが、それである。
●IFOR配備の意味とその効果を監視・批判する活動は、IFORの役割非難とNATO軍の撤退要求へと発展するかもしれない。新ボスニアの全土を自由に往来したいという住民の要求や権利と、「各民族統治地域」の間にベルリンの壁の小型版を構築しようとするIFORの論理(IFORの最初の任務の一つは、各勢力を前線から二キロずつ引き離すこと)との矛盾は、対立を確実に拡大するだろう。あるいは、疲弊し長期の内戦で崩壊しつつある社会に相対的に豊かな二万人の米兵が出現し駐留することが引き起こす緊張も無視できない。
●反民族主義勢力は、ボスニア全土でもっと好ましい選挙運動ができるように選挙遅延のための扇動をしたい、と決定するかもしれない。そうした要求が出れば、それをより広く伝えるよう準備しておく必要がある。意見表明の自由は、選挙に不可欠な前提条件である。
●西側諸国政府は、パリ協定を悪用して自国にいるボスニアならびに旧ユーゴスラビア難民、避難民の追放を図っている。新ボスニアのいかなる選挙でも、こうした西側諸国のやり方を勇気づけることになる。こうして帰還させられた難民が直面するであろう諸条件については、何も保証がない。
●援助の配分は透明でなければならない。そして地域の共同体性を回復しようとする人々の計画を支持しなければならない。こうした状況にあっては、国家の分断を導く民族主義勢力の側に必然的に立つことになる私的利益を追求する人々を支持してはならない。

今すぐ行動を!

 もし平和が持続するのであれば、平等・民主の社会再建を援助しなければならない。
●新ボスニア全土で人々は独立系メディアと自由に接触できなければならない。こうしたメディアを通じて反民族主義の声を聞くことができるからである。クロアチア・ムスリム連邦内の反民族主義者も含めて反民族主義勢力は、昨年九月に共同して「ボスニア・ヘルツェゴビナにおける恒久的平和を確立するための原則宣言」を公表した。
 この文書は、単一構造でなく「分権的連邦構造」をもつ「多文化・多民族共存国家」樹立のための具体的な条件を提示している。これらの問題について、国民投票を要求するのは論理的である。そして国民投票は、ボスニア内の民主勢力がクロアチアおよびセルビア内の反民族主義勢力と連帯するためにも重要であり、セルビアおよびクロアチア民族主義勢力の支配下にある人々に、その意味を明確に示すことになる。
 「帰還」する権利は、それが旧ユーゴスラビアのレベルで実行される場合のみ、信頼できるものとなる。帰還の全過程を非政府組織が監視する必要がある。この組織が一切の共同合意とその保証を遵守させるべきである。帰還する権利は極めて重大な問題である。というのは、難民が帰国して再び出身地に居住したり、送還させられることが、少数民族の諸権利と密接に関連しているからだ。
 ハーグ法廷は、一切の戦争犯罪人に対して具体的な行動をとらなければならない。自由な選挙と難民の帰還は、クロアチアが支配するヘルツェ・ボスニアとボスニア内セルビア人共和国内のテロリスト首謀者が追放されない限りありえない。
 こうした目的を共有する非政府組織の一連の国際会議は、今後の過程に対する人々の統制を確立し、さらなる動員のためのイニシアティブを形成することになる。ツズラはすでに、そうした会議の開催場所として立候補している。そうした行動を、モスタルとボスニア内セルビア人共和国のバニャルカで行うべきであろう。
(インターナショナル・ビューポイント誌96年1月、273号)