1996年4月10日         労働者の力               第77号

「日米安保再定義」−集団的自衛権への道
 「極東有事」への地域安保への拡大を許すな!
 安保を破棄せよ!

                                 川端 康夫


クリントン訪日の真の「位置」は、まさに昨年秋以降の沖縄民衆の島ぐるみとなった「基地撤去」へ正面から冷や水をかけるものとなることは、はっきりとした事実である。日米両政府が進めてきた「安保再定義」作業は、クリントン訪日による首脳会談でなされるが、それは「極東有事」への備えを前面に出した米軍との密接な協力関係に踏み込もうとするものであり、集団的自衛権行使を事実上承認することに直接につながるものだ。いっさいが明らかにされないままに首脳会談によって確認される「安保文書」がその後の両国政府の軍事関係を規定するものになるという理不尽を許してはならない。

 集団的自衛権承認への動きの全面化

 クリントン訪日を控えて、四月七日の小沢新進党党首の見解、四月八日の経済同友会の安全保障問題調査会報告と、期を一にして「集団的自衛権行使」への転換を求める見解が公表された。これは偶然ではありえない。おそらくは首相官邸を軸に水面下で意思調整が計られてきていた結果である。これらの内容は、小沢見解は「集団的自衛権行使も合憲と認められる」とし、同友会見解もまた集団的自衛権の行使を含む安全保障政策の転換を求める、というものでまったく共通しているのである。一方自民党は、再定義の具体化として、「極東有事の際、民間飛行場や一般港湾施設を米軍に提供する方向で具体案の作成に踏み出している」(『朝日』4/9朝刊)という。さらに四月十日のテレビ報道によれば、アメリカ外交筋は、今回のクリントン訪日の眼目を「安全保障問題におく」と表明し、同時に韓国訪問の日程を延ばし、朝鮮民主主義人民共和国軍への休戦協定違反行為への共同対応の姿勢を演出するという予定を組み立てている。
 こうして、日米双方ともに先日の台湾海峡での中国軍演習そして今回の北朝鮮軍の休戦協定違反行為を最大限に利用しつつ、公然たる軍事同盟化への道を掃き清める一里塚としようとしているのである。
 四月九日の梶山官房長官の記者会見は、「集団的自衛権(の行使)とは画然と言えない分野」について、日本がどの程度、協力できるかを早急に検討するとともに、集団的自衛権の行使は憲法が禁じているとする政府見解を変更する考えのないことを確認した(『朝日』4/10朝刊)という。同記事は、「政府は九日、憲法上許されないとしている『集団的自衛権の行使』をめぐり、違憲か合憲かの議論が分かれる『グレーゾーン』の中でより広範な対米協力を進めていく方向性を明確にした。…政府は昨年十一月、日米安保を『日本周辺地域の安定要因』とも位置づけ、地域安保への拡大という側面を盛り込んだ。…内閣法制局など政府は、日米安保の極東有事対処への拡大は、安保条約第六条の具体的な運用指針を明確化することにすぎず、直ちに憲法問題にはならない、との解釈に立っている。しかし、政府は後方支援について、米軍の武力行使と『一体』となっているようなものは違憲、との解釈も取っており、これをどこで線引きするかが、今後、政治問題化する可能性は高い」という。
 梶山のいう「グレーゾーン」の分野とは、「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)見直しの課題として浮上している朝鮮半島有事などの際の米軍への燃料補給、艦船・航空機の補修といった「後方支援」や沖縄基地をめぐる日米協議でも議題とされた米軍による自衛隊基地の共同使用など(同上)である。さらに見過ごせないのは、武器三原則の全面的な骨抜きもクリントン訪日にあわせて具体化されようとしていることである。日米物品役務相互提供協定(仮称)案とは、自衛隊と米軍が相互に物品や役務を融通しあうというものだが、ここでは明確に「武器商品」が三原則の「例外」とされている。政府は、「国連憲章と矛盾しない」「他方の政府の同意なしには第三者へ移転しない」との制限によって「武器輸出三原則の基本理念は維持される」という。だが、「第三者に移転しない」ということが新たな原則になれば、「当事者」への武器輸出は全面的に解禁されることにならないのか。三歳の赤子ですらわかることではないか。そのうえ、日米安保が地域安保へと拡大されるという動きが顕在化している中で、武器輸出の対象に「第三者」を除外してもなんらの本質的「実害」はありはしないのだ。
 
 極東有事論の人為的煽り立て
 
 「憲法」は風前の灯火となろうとしている。政府が憲法解釈を変更すれば、司法(最高裁)がそれを実質追認するというのが戦後五十年の歴史であった。憲法解釈論議にとどまらない政策展望と運動が急務である。社会党が社民党に変化し、護憲派勢力の中軸としての力を失った今、あらためて実質改憲の全面化との闘いが求められる。そしてそれは、沖縄民衆にはじまる新しい反安保反基地闘争の主体的戦線形成こそが契機とならなければならない。
 そうした意識に立って、問題を二つの側面から整理しておく。一つは、「地域安保」の構想は、「極東有事」事態から想定され、導かれるということの問題である。二つは、現在の与野党を横断した構想として急速に浮かび上がったことの政治的意味である。
第一の問題は、日本政府が「冷戦終焉」以降の政策体系、枠組みを、今あらためて対中国、対北朝鮮への軍事的シフト強化ということで踏み切ることを明らかにしたことに他ならない。「極東有事」の主要な対象地域は当然にも台湾海峡と南北朝鮮休戦ラインにある。そこでの有事に備え、そして「仮想敵国」を前提とした集団的自衛権を承認するということは、まさに米日安保が地域安保として米日韓台安保へと、実質的に公然と発展していくことになる。
アメリカ軍のアジア地域十万人配備構想が、アメリカ帝国主義の東アジアにおける軍事的プレゼンスの絶対的維持の表明であるとすれば、沖縄の巨大な基地群がフィリピンからの撤退後の東アジアでの第一線の存在であり、そしてさらに日本政府がそうした基地群を自ら必要としている、という論理がでてくる。
沖縄の基地縮小、廃止の論理は、いうまでもなく東アジア地域における「仮想敵国」を想定し、その上に軍事・政策体系を作り出すという地平とは正反対の論理から導かれている。仮に東アジアにおける地域的安全保障体制というものがあり得るとすれば、それは過去の時代の遺物である対決的軍事同盟論とは無縁のものでなければ成立しない。台湾を含んだ中国そして朝鮮半島の南北が対等平等の位置についた平和的相互関係が生まれない限りにおいて、軍事的緊張が不断に持続し、同時に軍拡競争も悪無限的に持続されていくのである。
さらに近年の「軍事緊張」は相当程度に「人為的」に作り出されたことをみなければならない。まず第一は、台湾海峡を「二つの中国」の国境線とも位置づける方法であり、第二に朝鮮民主主義人民共和国の要求する「休戦協定」の「平和協定」への移行に正面から向き合わない対応の問題である。後者については二年前の九四年に「北」は明確な意思表示を行っている。にもかかわらず、アメリカ政府は「北」の崩壊を期待した政策を基本としてきた。若干の「融和策」を見せながらも、その融和策に乗らないとすれば軍事行動の恫喝を行う。一昨年の「プルトニウム製造」問題と軍事的恫喝を想起すればいい。「北」の行動や言動に衝動的な点や軍事主義的な点があることは明らかだが、アメリカが「北」の体制崩壊を望んで行動するのであれば、「北」の軍事的緊張状況を解きほごすことはできるはずもない。
そして、台湾民衆が仮に中国からの独立を望むとして、これは民衆意思として尊重されるべきだ。だが同時に、台湾民衆が「独立すべきだ」と主張することもありえない。なおのこと「二つの中国」政策を支持することはありえない。そうした立場から、台湾を中国と対立する一方の側の軍事同盟に組み込むことと闘うと同時に、中国による軍事的な台湾民衆への恫喝とも闘うことが必要だ。
結論を急げば、「極東有事」や「地域安保」構想などは、東アジアの今後にとってまさに有害・無益なものでしかないのである。
橋本内閣が官房長梶山を通じて、「アメリカに基地を安定的に提供する義務」を強調するほどに、日本政府が「極東有事」の意識的な演出に加担し、かつ有事に備えた「集団的自衛権行使」に踏み込もうとすることがさらに明確になるのだ。

新たな「保守」路線の集成を許すな

第二に指摘すべきは、明らかな「保保連合」論の徴候である。橋本・小沢の党首会談の眼目はまさに極東有事と地域安保論での横断的な合意にあったといって過言とは言えない。梶山は、独断的に演出したというこの党首会談以降、沖縄の楚辺通信所の知花昌一さんの土地をめぐって、村山前首相の対応の「おくれ」を追求する新進党議員の発言に同調し、あるいは「日米安保条約に基づいて米軍に施設・区域を提供する義務を負っている国の根幹にかかわる問題だ。行政が不法な状態にならない努力をするのは当然」と述べて、「国の権原喪失に対応するための特別立法を含む何らかの法的措置」が必要と繰り返し表明している。そうした上でのこの間の一連の小沢や財界団体の提言であり、いわゆる「根回し」が保守陣営を横断してなされてきたとみることは的外れではあるまい。
 現国会が住専問題をそっちのけにした加藤自民党幹事長の「首」問題に転化してきていることも、考えようによっては大きな関係がありそうでもある。梶山が保々連合論者であれば、加藤が連立維持派であるとの色分けがなされており、前述の「党首会談」が加藤抜きでなされたこともまた明らかなのである。
 住専問題や政界再編騒動の陰に隠れて、旧小沢調査会以上の水準で新たな政治的枠組みが企まれてきている。旧小沢調査会(小沢が自民党時代に作った「国際社会における日本の役割に関する特別調査会」)では集団的自衛権を「憲法上、疑義がある」とし、また昨年末の新進党党首選挙でも小沢は「憲法九条に抵触するおそれがある」とも表明していた。そうした立場は新進党内部で集団的自衛権合憲論にたいする異論が根強いことをも配慮したものだったのであるが、その立場をこの七日に突然翻したのだ。三月十五日の党首会談が住専問題での物別れに終わった反面で、朝鮮半島や台湾海峡を念頭に「万一の場合は与野党を超えて安全のためにやらなければならない」と合意した。これから「集団的自衛権をめぐる論議をテコに自民党と新進党で『救国内閣』をつくることを意識しているのかもしれない」(閣僚経験者)との見方もある、と『朝日』4/9朝刊は伝える。
 「救国内閣」などが現実の問題になっているわけではないが、保守陣営の新たな「小沢を含んだ全的統合」があるとすれば、それは小沢路線を承認しつつ、それを包摂するレベルでの政策体系の枠組みが論理上必要なことも明らかだ。小沢が、自ら他陣営の軍門に下ることは到底考えられない以上、そうである。
 仮に、以上のような政策的枠組みでの保守陣営の再編の可能性を考えれば、政界再編騒動を通じたバランスシートは、反安保、護憲勢力であった社会党の消滅と得たいの知れない存在に化した社民党の惨状を記すだけであろう。
 この意味でも、沖縄民衆の闘いに呼応するヤマト民衆の反安保闘争の新たな再構築が重大なのである。
 「極東有事論」と闘い、安保条約の破棄のために闘おう。沖縄民衆とともに。
  四月十日
寄稿     3・31〜4・1沖縄レポート
 
          「象のオリ」の土地を知花さんに返せ!

                                      梨木石 雅夫
 
 三月三十一日午前九時、沖縄県読谷村楚辺通信所(通称「象のオリ」)の使用期限切れを数時間後にひかえ緊迫する沖縄に向かうために、羽田行きのモノレールに乗り込む。「象のオリツアー」には全国より総勢百十三名が参加、定刻の十時三五分、全日空機で羽田を後にした。
 天候は曇り。天気予報によると沖縄は前日来の雨で一〇〇ミリを越えているとか…。天候の回復を期待しつつも、雨具なしでは済みそうもない見通し。
 二時間半程の後、一三時二〇分那覇空港に到着。曇り空から小雨がぱらつく悪天候だが、窓越しの海の色は、まちがいなく沖縄の海だ。
 午後三時、読谷村・象のオリ近くで開催されている「命どぅ宝コンサートinゆんたんざ」の会場に向けてバス二台で出発、国道五八号を経て読谷村へ。途中、普天間飛行場、嘉手納飛行場や米軍用住宅、病院等の施設が切れ目なく続き、立ち並ぶ。本土の一〇〇〇分の六の面積に米軍基地の七五%が存在することは頭の中では知っていたものの、文字通り「基地の中に沖縄がある」現実の重さに圧倒される。
 国道五八号を離れ読谷村に入り、車窓より「象のオリ」が見えてまもなく、コンサート会場に着いた。バス道路沿いの建設資材置場をにわかに会場に仕立てたらしく、せまい敷地に大勢の聴衆がつめかけており、積み重ねられた鉄材の上まで人がびっしり並んでいる。一説には一〇〇〇名の参加。
 反戦地主会、一坪反戦地主会の共催でひらかれたこのコンサートには、地元沖縄の歌い手はもちろん、北海道から民族楽器ムックリの演奏に訪れたアイヌの仲間、大阪や東京から訪れた在日朝鮮人の歌い手の参加あり、フォークに、ロック、島歌と、何でもあり。歌だけでなくメッセージも、フィリピンのバヤンの仲間からは基地撤去の経験を踏まえた発言もあった。時折、道路を右翼の街宣車ががなり立てていくが、主催者側は一向にお構いなし、強まる雨の中、整然とコンサートが続けられる。コンサートの終わり近く、知花昌一さんが舞台に立った時、聴衆は最大の盛り上がりを見せた。使用期限切れにも関わらず立ち入りを認めず、強制使用を目論見る日本政府の強盗行為に対して、みんなの怒りが一つになる。最後は、ギター・三線に合わせて「沖縄を返せ」「一坪たりとも渡すまい」の大合唱。二十数年ぶりに聴く「沖縄を返せ」に初め戸惑いを感じたが、「沖縄を返せ、沖縄に返せ」と歌うのを聞いて納得がいった。
 コンサートは午後六時過ぎで終了。深夜〇時での期限切れに伴う知花さんの立ち入り行動には残念ながら残れず、宿舎に引き上げることになる。バス発車までの間に、チビチリガマの見学にいく者、象のオリのすぐ近くまで行ってみる者と、みな心残りなのがありありだが、午後七時過ぎにはバスで引き上げた。
 
 国側の立ち入り拒否に憤激
 
 明くる四月一日。午前〇時をもって楚辺通信所(象のオリ)は使用期限切れを迎えた。法的根拠を失い不法占拠を続ける米軍と、安保を楯ににそれを容認する日本の政府。米軍に管理権があることを理由に「直ちに違法な状態とは言えない」と強弁し、警備を強化する日本政府の強盗まがいの行為に、反戦地主会池原事務局長は「国家権力は我々を無法者あつかいしているが、無抵抗の抵抗を貫き、国の無法に無法を重ねる行為を明らかにしていく」と明快だ。
 午前一〇時を少し回って、知花昌一さんが反戦地主の仲間、弁護団とともに那覇地方裁判所に、所有地への立ち入り承認を求める仮処分申請を提出のため到着。全国から駆けつけた一五〇名の支援者は激励のシュプレヒコール。その後、裁判所構内で開かれた共同記者会見に正門を押し開いて全員が合流し、地裁周辺は一時騒然とした熱気に包まれた。
 知花昌一さんは、象のオリ近くの会場で集会後、午後一時を期して、五一年前のこの日(四月一日)上陸した米軍に殺された祖父の墓参に父母家族ら十三人とともに「象のオリ」に向かうが、那覇防衛施設局の職員は立ち入りを拒否。一〇〇名を越える支援者、反戦地主、一坪反戦地主等と二時間にわたり、抗議、立ち入りを要求するが叶わず。
 一方、太田沖縄県知事は、午前中の新職員辞令交付式で「土地使用で国側と対立があるが、県民の声を大切にして力を合わせていこう。」と発言。米軍基地代理署名訴訟の高裁判決を不服として、上告期限のこの日午後最高裁に上告。夕方四時半、県庁前に右翼の街宣車三台が集結、太田知事・知花さん攻撃の大宣伝。
 夕方六時からは、違憲共闘、反戦地主会等の主催する県民大会が雨のため、与儀公園から市民会館に場所を移して開かれ、主催者発表で三〇〇〇名が参加。集会後、那覇市内をデモ行進。発言に立った一坪反戦地主会の新崎盛暉さんは、この日午後の知花さんの立ち入り拒否にふれ、フェンスの向こう側の防衛施設局職員もウチナンチューであり、日米安保により強制されているこの矛盾を越える闘いが求められていると事態の本質を提起。照屋秀伝反戦地主会会長は、反戦列車はすでに発車した。全国を駆けめぐり始めたと発言。四月十五日大阪、十六日東京での集会の成功をみんなの力で実現しようと力強く呼びかけた。
 
 沖縄県民に応える各地の闘いを 

第四インターナショナル国際執行委員会決議 一九九六年二月
パクス・アメリカーナ下の
ボスニア・ヘルツェゴビナ

 現在の休戦は、反動的かつ矛盾した状況のうえに成立している。われわれは、この状況をはっきりと認識し、反動的な諸政策と闘うための空間を拡大していかなければならない。以下の決議は、一九九六年二月に開かれた第四インターナショナル国際執行委員会が採択したものである。

1反動的かつ矛盾した状況のうえの休戦

1・1国際状況
 パクス・アメリカーナとNATO軍の配備
 デイトン・パリ協定は、「ポスト共産主義」時代における最初の大きな危機の「管理」に当たって、国連と欧州連合(EU)が二重の誤りを犯したことを明らかにした。NATO(北大西洋条約機構)の平和履行軍(1FOR)が、不信を買った国連保護軍(UNPROFOR)にとって代わりつつある。米国政権は、劇的なやり方で軍隊を派遣した。米国、フランス、イギリスの軍事作戦面での任務分担があるのに、パリで調印された米国主導の計画は、欧州の和平交渉担当者らの基本哲学、つまり民族を基礎とするボスニアの分割の立場に立っている。米国主導の計画は同時に、政治・軍事力の新たな均衡を反映してもいる。
 クロアチア軍が確立されたために(一九九五年夏以降)、この軍による(クラジナの)セルビア分離主義勢力への攻撃とボスニアでの軍事作戦が可能となった。と同時に、セルビア大統領スロボタン・ミロセピッチの立場は、パレのボスニア内セルビア人指導者らの弱体化という犠牲のうえに強くなった。デイトン・パリ協定などの第三の政治・軍事的な前提は、サラエボ政府がクロアチアと米国との「同盟」に依存している事実にある。この同盟関係は、「ボスニアの大義」を守る戦争に米国が従事することではない。そうではなく、戦争に「参加」することをもくろんだ現実政治の結果なのである。
 米国大統領クリントンは、依然としてボスニア戦争で自国が当事者になる用意はできていない。というのは、米帝国主義は、この地において自国の若い兵士の命を失うことや戦争を行うのを、米国世論に対して正当化できるほどの直接の利害がないからである。
一定の期間、直接の利害がないという事実は、米国政権がユーゴスラビア、後にはボスニア危機に対して距離を置くことを許していた。しかし次の局面、この事実のために米国政権は、民族浄化の論理を受け入れた欧州和平交渉者らを「道義的」に批判させるに至った。そして米国は、ボスニア軍に対する武器禁輸措置の解除を要求しはじめた。これはムスリム世界に善良なるものを見出し、内戦にうんざりしている世論の一部に受ける道であった。これら米国のすべての態度は、戦争に巻き込まれないようにするというものであった。
 米国野党の共和党もボスニア勢力ヘの武器禁輸措置の解除を主張しはじめたが、米国内の危機および諸外国−ロシアとの関係や米国の孤立主義に対する欧州の圧力−との関係から、クリントンは新たな政策の採用を迫られた。クリントンヘの圧力は、一九九五年夏に頂点に達した。米大統領はこの時、どんな犠牲を払っても外交上で成功を収め、国内で自らの立場を強化し、国際政治における指導力の強化を図らねばならなかった。その道がNATO軍の配備であった。だが米国議会で多数派である共和党は、「和平」協定が信頼できる範囲内での米軍のボスニア駐留に賛成するだけであった。世論は揺れ動いていた。一方には米軍が派遣されて和平が実現した場合の「米国の国際約な役割」を誇りたい潜在約な願望があり、他方には失敗に終わったためのソマリア症候群があった。
 パリ協定は、武器禁輸の漸進的な解除を可能にした。米国の目標は、派遣した軍隊が十二カ月以内に撤退できることであった。しかしクロアチア軍隊が礁立されたために、各武装勢力間に一定の軍事上の均衡をもたらすためのボスニア軍への援助問題が浮上してきた。この軍事援助問題に関しては、米国、欧州連合、ロシアの「パートナーら」の問でかなりの意見の相違がある。また、1FORの構成に関しても、影響力をめぐって対立がある。米国の主導権に対する抵抗は依然としてあり、ことに欧州では欧州として一つの旗を立てたいという願望がある(通貨統合問題にみられるように、欧州が統一した外交政策を採択するのは困難という自覚は存在している)。
 他方、和平協定の実行はNATO軍の大量配備に依存している。NATO軍は現在、米軍の指揮下にあるが、「平和軍」の役割という新たな正統性を獲得している。同時に、ロシアと東欧諸国とのパートナーシップを再定義する過程が始まった。フランス軍をNATO軍に再編入する問題は、公開の議論は行われていないが、この過程の一環である。
 世界の左翼勢力は、ワルシャワ条約機構が解体した現在であっても、米国の強権政治ならびに軍国主義NATO軍の再配備が具体化しているこの過程を非難しなければならない。国連方式の破産を承認することが、帝国主義諸国軍の新たな集中に転換されている。このことが、デイトン協定の結論という完全に反動的な諸条件をしみ込まさせている。そして、その結果は、必然的にもろい平和ということになる。
 こうした非難と同時に、帝国主義諸国地上軍の大量かつ長期派遣に伴う影響に対する監視と暴露の活動を展開しなければならない。この活動が、これら軍隊の撤退を要求する運動に連なっていく。そして、矛盾した論理を内包する和平協定を明確に認識し、この地域を支配する反動約な諸政策と闘うための空間を拡大していかなければならない。

1・2・1 反動的な同盟関係

 排外主義的、民族主義的 な諸政策を否定することなく、和平協定は承認された。否定するどころか、その正反対の方向、つまり反動的な諸体制および同盟関係の「バランス」を前提にして(その存在を是認して)和平協定は締結されたのであった。反動的な諸体制と同盟関係とは、次の通りである。
●反セルピアのクロアチア・ムスリム同盟
●反ムスリムのクロアチア・セルビア同盟
●「大クロアチア」構想とそのための武装勢力
●ミロセビッチの権力の肯定。ただし彼のかっての極右同盟者と「大セルビア」構想を信じた住民を犠牲にして
●ボスニア・ヘルツェゴビナ国境を防衛するために米軍とNATO軍に依存するボスニア政府

 クロアチア大統領ツジマンは内戦開始以来、二枚舌を使ってきた−一方でボスニアを承認し、他方でボスニアを分割するためのセルビア・クロアチア同盟の形成−し、それによって破が主要な後援者となれる状況が形成された。ツジマンは、彼の疑似同盟者であるムスリムを「文明化」させたいと言っているが、その根深い軽蔑は、狭い民族主義、つまり強烈な反セム族(反ユダヤ)と反セルビアとの産物である。
 この民族主義はクロアチア内部では、政治的、文化的な多元主義、ことにダルマチアとイストリア地域の独自性主張と衝突する。
 ツジマンの軍隊を主としてドイツと米国の授助で強化することは、新たな力関係において極めて重要な要素であった。ツジマンのHDZ党の極右方針を体現する、ヘルツエゴビナからの亡命者であるクロアチア国防相は、一九九二年以降の民族を基礎にするボスニア分割と、以前はセルビア分離主義者が支配していたクラジナに対する一九九五年夏の軍事力による「民族浄化」の直接の責任があ
る。こうした政策遂行に対する非難が不在であった事実が、ツジマンが必要としていた彼への信頼を与えたのであった。
 その信頼によってツジマンは、一九九一年に国際的な圧力の下に導入された、クロアチア内部のセルビア少数派に有利な憲法上の措置をつぶすことができた。また、クロアチア外部で生活するクロアチア人がザグレブ議会に関して投票権と議席を持つことを可能とした。ヘルツェ・ボスナを「民族的に浄化」し、モスタルのムスリム人居住地域を破壊したクロアチアロ民兵組織HVOの責任者とその五人の同僚が、ハーグ国際法廷で戦争犯罪者として起訴されたのに、クラチワ軍隊での昇進を可能にしたのだった。クロアチア・ボスニアニア同盟は「反フアシスト」同盟とは程遠いものである。本質的に軍事同盟であり、反セルピアである。これは、ボスニア内部のクロアチア・ムスリム連邦を弱め、セルビア民族主義とセルビア人すべての恐怖心を強める。
 ミロセピッチもまた、戦争の勝利者となった。彼は、戦争を助長して自らの権力を強化し、そして同じ理由(自らの権刀の強化)から戦争を止めた。彼は(経済的疲へいの原因と考えられている)経済制裁で利益を受けた後、その解除によっても利益を得るだろう。彼は、他国からの政治的承認を求め、バルカンをめぐる外交ゲームで中心的な位置を占めようとした。これが、彼が多分、その経済方針(ネオリベラルの方針に反対してきた)を転換するであろう理由である。そしてネオリベラルに経済方針を転換すると、資本主義復興の道を歩んでいるすべての国と同様に、セルビア社会
の分極化が加速するであろう。だがミロセピッチも同様に、次の諸点をめぐって従来の同盟者である極右勢力を統制するという困難な問題に直面する。それらは、クロアチ内部とボスニア・ヘルツェゴピナのセルビア人問題の「解決」と、遅かれ早かれ前面に登場する凍結されていたコソボ問題である。
 当面、ミロセピッチは、セルビア国内で自らを支持する社会的な基盤を見出せるだろう。人々は、戦争に飽き飽きしており、大セルビア構想実現に向かう積極的な動機をもっていない。しかし社会経済問題が再び衣面化し、それを経済制裁のせいにすることができない場合、この同じ社会的な支持基盤が解体するかもしれない。カラジッチとムラデイッチは、自らの権力や特権、あるいは生命自体をもめぐって争っている。彼らは、自らの基盤を悲惨な状況にあるセルビア人難民、つまりクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナとにおける大セルビア構想の敗者に見出している。この二人の指導者の役割低下は、当該地域の人々から大きな信頼を得ている新しい指導者の出現を意味している。ミロセピッチが、この大問題を解決する可能性はほとんどない。この地域の安定化はすべて、信頼を再び確立できる政治路線にかかっているのである。
 大クロアチア構想やボスニアにおけるカラジッチの力の相対的な低下にもかかわらず行われる、スルプスカ共和国の承認のような和平計画の矛盾した側面は、クロアチ・ムスリム連邦とボスニア大統領イゼトベゴビッチの政党、SDAとにおける政治的、民族的な分化を深めていく。
 全般的に、いずれの勢力にも存在する民族主義過激派は、「民族浄化」という「自然」の論理にしたがって、単一民族による領土の礁立という目標に向かっている。暴力は、憎しみと恐怖だけを増幅し、「自然発生的」な離散をもたらし、離散者の復帰を実現することは決してない。各コミュニティ問の共存と地域的な一体性は、人々の大量移動によって破壊されてしまった。そのため、居住単位における民族構成と政治風土は一変してしまった。
 このことは、サラエボのセルビア人居住地域にも基本約にあてはまり、そこでは多くの人々が不安定な生活を送り、時には他人のアパートメントを占拠して生活している。ボスニア支配下の大部分のサラエボ人は、モンテネグロとセルビアとの間にある農村地帯から大量のムスリムが移ってきたため、町の様相が一変したと不満を表している。ツズラは、農村地帯からの難民でさらに溢れかえっている。セルビア人難民は、クロアチア人とハンガリア人に圧力を加え、ボイボジナから追い出そうとしている。コソボ内のアルバニア人居住地域だけが、セルビア人難民がそこに移動して生活するのを拒否したために、「セルビア化」の目標実現を避けられた。

1・2・2 矛盾した協定調印、その矛盾した解釈

●ボスニアの主権は協定では確立されたが、当面、その実現に向かう具体的な保障措置は何ら存在していない。ボスニア全土の公式通貨は、つまり現実に通用しているドイツ・マルク以外の統一通貨は存在しないし、統一軍もないし、共通の外交政策もない。
●統一の方向とは反対に、協定の重要な諸点において民族による国の分断が確立されている。スルプスカ共和国は承認された。近隣諸国との関係は、統一した国家としてよりもむしろ分断した「国家的な実在」が決定するようになっている。
「回廊」(二つのセルビア園をつなく北部のポサビナ回廊とゴラズデとサラエボを結ぶ回廊)をめくる対立が存在している。国家が再統一されるべきだとすると、これらの議論は何を意味するだろうか。
 こうした事実にもかかわらず、多民族連邦の存在(十五万人以上のセルピア人が生活している)は、そこを民族主義勢力に対する抵抗の場とする。ことにセルビア人「市民評議会」の存在が重要であり、それらは大セルビア構想に反対し、同時にクロアチア・ムスリム連邦内部でのセルビア人差別にも反対している。
 イゼトゴビッチの政党SDA内部の権威主義的な傾向−その他の民族主義政見の同様な傾向に類似しているににもかかわらず、ボスニアの「ムスリム問題」は、大セルビアと大クロアチアといった民族主義的な計画の問題とは非常に異なった論理をもっている。ツスラとサラエボは、「ムスリムが多数派」であり多元的、多民族による国際会議の会場都市たりうるが、クロアチア・ヘルツエゴビナ・ボスナとその首都モスタルでそうした会議の開催は当面、考えることさえ不可能である。この地では、恐ろしい人種隔離策がとられている。スルプスカ共和国でも同様である。
 ミロセピッチとカラジッチとが対立しているために、カラジッチの共和国内のもろいセルビア人野党諸勢力が初めて相互に接触することができている。このことは、別の動きの可能性を示している。
 クロアチア・ムスリム連邦内部のすべての非民族主義狙織が九月に集まり、「ボスニア・ヘルツエゴビナに恒久平和を確立するための諸原則」という声明を掲げた。この文書は「多文化、多宗教、多民族」国家のための条件をあげている。その国家は「分権約な連邦構造」をもつ。そして、住民の声を本当に聞くための住民投票制度を要求している。
 ボスニア、クロアチア、セルビアにおける反民族主義勢力の協働を強化することは、和平協定に対して肯定的な影響を与え得る唯一の方法である−少なくとも、政治的な複数主義と少数派の権利(したがって難民の帰還する権利をも)を守るうえで。

2反動的な諸政策と闘う空間を拡大するために

2・1和平協定の矛盾Lた側面

こうした任務を実現するには、以下の二つの課題を実行しなければならない。
●協定履行の意味を明白にする(関係する帝国主義勢力と反動勢力の利益追求を非難することを含めて)
●表現と結社の自由の可能性を拡大する−進歩的な政治勢力登場の前提条件として
  
2・1・1選挙について

 協定によって非常に短期間−六カ月ないし九カ月−のうちに選挙組織を形成しなければならない。この期間は、米国の政治事情という都合によって決定されたのであり、内戦によって形成された論理を転換することを考えてではない。全土に立候補予定者や様々な政治主張を浸透させずに選挙をすると、その選挙は、恐怖と報復心をかき立てるだけであり、新たな連帯を生み出す要因としてよりも、民族主義過激派政党を有利にするだけである。
 最も必要なのは、政権から独立した多元的なメディアヘの支援・育成であり、それは全土に通じるものでなければならない。われわれは、こうした前提条件が確立されるまでは選挙を延期するべきという野党民主勢力の要求が出る可能性を考え、それに備えておかなければならない(デイトン協定は、そうした条件の確立を保証することになっている)。1FORの実際の役割を示すすべての実例−民族分断を押し付け、国の再建を援助するのではない−を活用し、これら軍隊を撤退させる運動を展開しなければならない。

2・1・2 地域社会と住民の連帯再建を

 平和を実現するには、バルカン規模で各コミュニティ問の協働と連帯を推進する再建計画が必要である。戦争よりもはるかに大きく社会経済的な組織を破壊する私有化を実行する条件付き援助−新たな敵対意識の形成を刺激しないとしても−に反対である。援助の分配における「積極的な差別」を要求する運動は、すでに形成されている自治体間の結合をさらに拡大し、欧州議会と各国政府とに向けた行動を発展させる。
 諸「民族」が協働して行う計画に対する援助が優先されるべきである。そうした援助は、難民の帰還を組織する第一段階を実行しようとするコミュニティを対象とすべきである。1MF(国際通貨基金、協定によると、ボスニア・ヘルツェゴビナ中央銀行総裁をする権利を有している)が提唱する方策に関する監視と公開性の要求が大切である。

2・l・3 難民が帰還する権利の問題

 この問題は、当該地域全体(旧ユーゴスラビア全体)を対象とし、体系的に、かつ集団的な保障がある場合のみ、信頼できる解決方法が生まれる。当面、協定によって完全な「形式上の帰還する権利」がある。現在の状況にあって、それは集団ではなく各人の権利とされている。各国をそれぞれの反動的な政権が支配し、しかも「民族」国家確立いう枠組みにおいて難民問題を解決したいという反動政権の共通利益がある中で、帰還を「選択」するという願望は基本的にユートピアになっている。
 それでも、圧倒的な人々が帰還を希望している。特に難民はどこにいても、不穏を覚え、歓迎されていないと感じているからである。難民は「移住者」あるいは落ちぶれた縁者として扱われ、各人の出身民族コミュニティにおいてさえ歓迎されていない。帰選する権利の問題は、これからの闘いの本質的な軸となる。というのは、これはそれぞれの国家や領土的な存在である地域における少数派コミュニティの権利に根本的に結びついているからである。
 この権利は現実に、民族主義過激派とその仲間が指導部からはずれた場合にのみ、実現される。われわれは、以上の主張との関連においてハーグ法延の戦争犯罪者に対する司法活動を妨害しようとする諸政府の一切の行動を非難する。
 強制帰還を監視し、差別的あるいは非人道的な扱いが起こる可能性があるので、それをも監視する必要がある。特に、欧州連合の各国政府がデイトン協定とその条項を利用して、「平和が実現したのだから…」として来る選挙に帰還者を参加させることを理由に、難民を追放しようとするからである。この分野での中心軸は、帰還する権利あるいは難民となったことへの補償や生活保障の権利を履行する諸条件を管理すること、しかも当該者の自由な選択の権利を伴って管理することである。
 「救え難民」型の運動を組織することは、ボスニア内外での難民の多様な要求を汲み上げ、彼らの権利について有用な情報を提供することになる。この活動を別の活動、すなわち難民が本来のコミュニティとの接触を回復できたり、援助を自ら管理できるようにする選挙行動の組織化の活動と結合する必要がある。
 以下の四点に関して「管理の論理」を展開すべきである。選挙、ボスニア再建のための援助、戦争犯罪者に対するハーグ国際法廷の活動、難民の権利 − の四点。多文化で多民族のボスニア・ヘルツェゴビナを再建する事業、計画を支援する活動とともに。各労働組合間の結合と個人と集団の権利を守る諸組織間の結合体は、頂点で作成された和平協定を帝国主義の政策を批判する論理をもって「下から管理」するための特別な組織の基盤となれるだろう。
 1FOR軍隊の行動を監視し、軍隊を派遣しているそれぞれの国において監視の結果を明らかにしていくことは、以上の論理に従う活動の一環である。ツズラが依然として反動政策と闘うための国際会議の主要な会場候補であるから、国際的な支援阻徽である国際労働者支援は、自らが介入する様々な手段を防衛しつつ、この新しい状況にあって会議場を見出せるだろう

2・2休戦は平和を意味しない

 バルカンでは、ことにコソボとマケドニアでは、複雑な民族問題が存在し続けている。すべての民族問題をバルカンの次元とその枠組みにおいて体系的かつ対等に扱わないかぎり、平和はありえない。しかも、他の民族を排除した単一民族による国民国家を建設することに反対するものでなけ
ればならない。このことは、バルカン全体と同様に、ボスニア・ヘルツェゴビナに関して、市民社会と一切の民主的自由とを基盤にした諸国家という枠組みにおいて、すべての民族的な主体を承認し、全コミュニティの集団としての権利を守る(換言すれば民族浄化に反対する)ことを意味する。
●個人と集団の権利を尊重する民主主義に関する社会経済的な選択が、前面に登場する。平和は私有化競争の中では確立されないし、地域間の格差が拡大する状況や貧困が深刻になっていく状況にあっても確立されない。われわれは、戦争と民族浄化に反対する連帯活動を通じて、あるいは労働者の権利擁護や私有化政策に反対する活動を通じて、確立された労働組合の国際的な団結をいっそう発展させていかなければならない。
 以上は、欧州の挑戦、人民と労働者のための「もう一つの欧州」のための挑戦でもあり、課題でもある。
(インターナショナル・ビューポイント誌3月、275号)

追悼   ミッシェル・パブロ

              1911−96年  リピオ・マイタン

 ミッシェル・パブロ(ミハリス・ラブティス)は、若い時分からギリシア労働運動に参加していった。一九三〇年代の初期から彼は、パンテリス・ピリオポロス(一九四三年にイタリアのファシストに銑殺された理性的かつ勇敢なマルクス主義指導者)と協力して反資本主義、反スターリニズムの組織建設において中心的な役割を果たした。
 パブロは、ギリシアでは何度も投獄され、人生の大部分を亡命者(主としてフランスで)として送らざるをえなかった。一九三八年九月には、スベロスなる偽名を用いて第四インターナショナル創立大会(フランス)に参加した。ナチ占領下のフランスにとどまり、極度に危険に満ちた地下活動を行い、弾圧のために壊滅状況にあったヨーロッパ・トロッキスト運動の再建を図った。まさに、この戦争中に彼は、インターナショナル内部で中心的な役割を果たし始めたのであった。その後の二十年間、彼はその役割を果たし続けることになる。
一九四八年から一九六〇年にかけて私は国際書記局の一員として、「ミッシェル・パブロ」の活動を知る機会を得ていた。親しい関係を通じてパブロの資質のすべてを知るに至った。われわれ二人は、友人であり、同志であり、そうした関係の中でインターナショナルの発展に貞献し、人生における重要な決定を行ってきた。だが三十年たった現在から振り返ってみると、私は、ミッシェル・パブロから非常に多くを学んだとだけ言える。思うに彼の資質が全開したのは一九五〇年代であった−特に、変化している情勢の本質を即座に認識する能力において。彼は、目標をいつ転換すべきか、戦略をいつ変更すべきか、そして新たな分析と一般化した結論をためらいなく実践に移す潮時を判断する能力に秀でていたのであった。
 例えば、スターリンとユーゴスラビア指導者チトーとの決裂のもつ重大な意味を最初に強調した一人が、彼であった。朝鮮戦争が始まった時に、両陣営への「等距離」路線に最初に反対したのも彼だった。アルゼンチンのペロニズのようなラテンアメリカにおけるポピュリズム運動のもつ重要性を革命的マルクス主義者に理解させたのも、彼だった。
一九五一−五二年の後に革命的闘士、ことに資本主義ヨーロッパの闘士に「宣伝主義的」逸脱を避けるべきだと主張したのも、彼だった。当時、スターリニストそのものであった共産党への加入戦術を主張した。換言すると、加入戦術の採用によってわれわれ自身を現実の労働者運動から切断するのを回避でき、成長を開始していた労働者運動(共産党)の矛盾を内側からとらえ、利用できると主張したのであった。
 また、第四インターナショナルがスターリン死後のソ連内部の変化をすばやく分析できたのも、彼の貢献によるのであった(彼が編集したカトリーム・アンテルナシオナール誌一九五三年四月号参照)。
 一九五〇年代後半に、植民地革命の新たな発展の重要性を最も鮮明に強調したのも、ミッシェルの論文や報告だった。私見では、いくつかのヨーロッパ諸国における労働者運動の発展の可能性を理解していなかったが。
 彼の最良の著作も、この時期に生まれている。インターナショナルの機関誌に掲載された被の膨大な著作(そのいくつかはジャン=ポール・マルチンの名前で発表された)をみるといい。あるいは第四インターナショナル最初の二十年間の歴史に対する彼の貢献を、世界大会と国際執行委員会への彼の報告を。一九八〇年にイギリスで出版された論文集「社会主義、民主主義、自主管理」といった本をみるといい。
 女性解放に関する一九六○年五月の彼の文書を忘れてはならない。多くの読者はフェミストの活動と研究が進んだ二十五年を経過した現時点から判断すると、この論文が部分的に時代遅れで、いくつかの点で批判すべきと考えるだろう。しかし、それでも本論文は、一連の根本的な問題に革命
的マルクス主義者の関心を喚起した最初の文書だったという栄誉を担っている。
 彼は、多様なアルジェリア革命連帯活動に最初から直接に関係していた。一九六〇年六月にアムステルダムで国際書記局員であるサル・サンテンとともに逮捕され、虚偽文書と偽造銀行券保持で起訴された。彼が拘留されてから一九六一年の裁判までの間、広範な救援運動が国際的に発展した救接遇動を呼びかけアピ−ルに署名し、運動の中心となったのは、ジャン=ポ−ル・サルトルやシモーヌ・ボーボワール、ブラジルの作家ジョルヘ・アマドらであった。
 彼は十五カ月の投獄刑を下され、裁判終了時点で釈放された。そしてモロッコに逃れた。アルジェリア革命が勝利した後、その地に移り、ペン・ベラ政権に協力した。
 獄中から解放された後、インターナショナルの指導部に入った。アルジェリア革命に関する彼の報告は一九六三年の世界大会で最も感動的なものの一つだった。しかし、われわれの間をを引き裂く何かががあった。彼は、少数派としての闘争を開始し、一九六四−六五年の決裂に至った。この分裂後、彼は第四インターーナショナルの外で革命的マルクス主義潮流を率いることになる。
 数年前、彼は第四インターナショナルへの再加入を希望した。彼とその潮流は、第四インターナショナルの歴史約な重要性について決して否定しなかった。再加入の件でわれわれは合意に達したが、ギリシアにおける革命的マルクス主義運動の状況や旧ユーゴスラビアの戦争に関してとるべき方法における重要な意見の相違などの種々の理由で、彼個人に関しては合意が実現しなかった。
 ミッシェル・ラブティスの活動と著作を、業績を判断するのは、国際労働者運動の歴史家たちであり、われわれの共同の目的のための活動に参加した人々である。そして私は、革命闘争に対する彼の疲れを知らぬ貢献を絶対に忘れることはないだろう。
(インターナショナルビューポイント誌3月、275号)