1996年12月10日        労働者の力                第84号

基地のたらい回しを許すな!米軍基地の縮小・撤去を!
SACO最終報告を許さず沖縄連帯闘争の高揚を!

川端康夫


 米海兵隊員による少女暴行事件から一年三カ月が経過した。知花昌一さんの土地を不法占拠し続けている日本政府は、さらに来年五月に三千人にのぼる反戦地主、一坪反戦地主の土地使用期限切れをむかえる。橋本内閣が、この膨大な地権者の権利を踏みにじり、さらに大規模な「不法占拠」継続へ強引に居直るのか、あるいは沖縄特別措置法やその他の特別立法による強権的な用地強制使用に踏み切るのか―事態は重大な局面に移行する。基地縮小・撤去への沖縄県民の意思は、基地固定化を許さないということにほかならず、五月用地使用期限切れは闘いの重大なターニングポイントとなるであろう。沖縄民衆の闘いと連帯する本土側の闘いの構築がさらに急務なのである。一九九七年を基地縮小・撤去への決定的年にしていかなければならない。

「基地堅持」か「基地ゼロ」か

 十万人を結集した県民集会、大田沖縄県政の機関委任事務拒否、そして最高裁反動判決、普天間基地返還の日米合意、大田知事と橋本首相の会談、知事による公告縦覧への踏み切り、そしてSACO(日米特別行動委員会)による一部基地用地返還合意。
 沖縄民衆と県政とが共同した闘いとして始まった昨秋からの闘いは、村山社民党首相の政治生命を縮めた。そして過半数を越える県民の明確な「基地ノー」の意思表示となった県民投票の勝利という経過の中で、確実に日米両政府を追いつめてきた。橋本は普天間「全面返還」の演出、沖縄県への財政手当て、各省庁によるさまざまな沖縄経済振興策などの手段によって、県民世論を懐柔し、大田県政を妥協へと引き込もうとしてきた。
 大田県政は「二〇一五年基地ゼロのアクションプログラム」という基本路線に立ちつつも、公告縦覧に応じた「妥協」は極めて分かりにくい。何よりも「基地ゼロ」のプランに対して、日米両政府の意向が前向きだという徴候はどこにもないのである。
 基地のたらいまわし、形だけの用地返還――SACOの最終報告の実体はこうであった。十一施設、五千ヘクタールの用地返還は沖縄県内米軍基地面積の二一%にあたるというのが売り物だ。しかし、その多くは実際には使用されていないものや急傾斜の崖地、細切れや帯状の用地など、まさに「返還の実」を演出するためのつじつま合わせ以上のものではない。普天間基地の海上施設移転案などが仮に現実化されたとしても、沖縄における米軍基地は、沖縄本島の八%を占め、米軍が沖縄を占領した当時の比率に戻るにすぎない。
 さらに、SACO以降の基地整理縮小にあたる機関・組織はない。普天間海上移設案を除けば、基本合意がすでにありながら長年たなざらしにされてきた「縮小」計画の実現の形式をとっただけであり、新たな踏み込みはほとんどないといっていい。これを日米両政府は「区切り」と称しているのである。
 さらに「全面返還」とされ、目玉である普天間飛行場の機能は、そっくり本島洋上に移される計画である。このたらいまわし案について、候補地とされているキャンプ・シュワブ沖に対して、名護市など自治体は絶対反対の姿勢を表明している。このことを考慮してか、SACOは具体地名を明記しないというごまかしの手段に出た。まさに米軍基地機能を維持することを最優先としている日米両政府の悪あがきである。
 「基地ゼロ」の展望は、日米両国政府が、安保体制を「紛争や軍拡競争の抑止に必要であり、それは沖縄を含む日本ばかりでなく、中国や韓国にとっても有益である~K~」(ペリー国防長官)と主張している根拠、根元をひっくり返すのでなければ、開けない。「基地の島」ではなく「平和の島」として広く東アジア世界に臨もうとする沖縄県民の展望は、安保体制を不可欠の柱とする日米両国政府とは水と油の関係にほかならない。平和の島は、軍事的抑圧によるものではない、民衆自身が共存し共生する東アジアを築いていく積極的方向性を提起している。
 これはまさに安保体制主軸論に立つ政府体制、そして議会内多数派への全面的なオルタナティブの提出そのものである。
 沖縄の闘い、沖縄県民が提出している問題の総体が、現在の「本土」政治の主流への対抗であり、それらを突き崩す力、鋭さを秘めている。この攻勢的な闘いの主張に応える「本土」民衆の闘いが、「本土」における新たなオルタナティブ形成のための最も核心的なものにして、最も鋭い軸心を構成する。
 日本民衆は、沖縄民衆に続き、自らのアクションプログラムを持たなければならない。すなわち「日本にいらないものは沖縄にもいらない」のスローガンは、「本土」の民衆に対して「沖縄を犠牲にした平和」論の欺まん性を突きつけている。沖縄「復帰」以降二十余年、「本土」はこうした欺まん性の上に自らの「平和」を求め、「闘い」としてきた。そうして、いま新たに形成されつつある議会内の多数派勢力は安保堅持の立場であることを基軸にして再編成されてきているのであり、さらに「沖縄を犠牲に」する政治を継続しようとしている。
 同時に、議会政治の枠組みを越えて、「沖縄を犠牲にした平和」の意識こそ、極めて危ういものだという視点から、本土民衆の運動をつくりかえ、つくり出す意識が必要である。「反動化」への相次ぐ防衛戦という、五五年体制後半期の意識では、「日本にいらないものは沖縄にもいらない」という攻勢的スローガンに肉薄することはできない。それは衰退する旧社会党ブロックが体現してきたことだ。
 日本における「基地ゼロ」の積極的アクションプログラムを持つ新たな政治、運動を生み出すためにも、改めて沖縄県民の闘いとの連帯、その本土における全国運動化の努力を傾注しよう。

軍用地強制使用のためのあらゆる法的阻止を阻止しよう
特別立法阻止沖縄百万人署名運動のさらなる拡大を

 百万人署名第一次国会提出

 十二月三日夕、沖縄百万人署名運動は国会への第一回目の請願署名提出行動を行った。
 沖縄の違憲共闘議長の有銘政夫さんや一坪反戦地主会・関東ブロック代表の上原さんらを含む百人を越える参加者が見守る中で、衆議院議員面会所には、社民党所属の濱田健一、保坂典人、中川敦子の各議員、さらに代理として秘書参加が民主党の金田誠一、社民党の辻本清美両議員。参院議面には社民党の照屋寛徳、沖縄社会大衆党の島袋宗康、新社会党の栗原君子の各議員と秘書代理として社民党の大脇雅子議員、山口哲夫議員がそれぞれ請願受付に立った。事務局からの報告によれば、十万をこえる署名がすでに届いているうちの、事務上の整理を終了した九万四千人分の署名が衆参両院議長それぞれあてに提出された。
 議面前でのセレモニーは、衆参それぞれで時間をずらして行われた。日本消費者連盟の富山洋子さん、弁護士の内田雅俊さん、婦人民主クラブ議長の山口さんや全労協の城西さんなど、参加者側からの発言と請願受付の各議員からのあいさつがなされた。
 三日の提出行動に先立って、十一月二十九日の臨時国会開会当日には、呼びかけ人の信太さんや事務局を中心にして、衆参両院議員への協力要請の行動が行われ、さらに当日午後には、有銘議長、上原代表らを先頭にして百万人署名運動の各政党への「特別立法阻止」の申し入れ、および署名運動への協力要請行動、総理府を通じた橋本首相への申し入れ、共同記者会見が連続して展開された。翌四日には、有銘議長を中心にして各労働組合組織への協力要請行動が行われ、さらに来年五月の用地使用期限切れに向けた運動の拡大を訴えた。
 各政党の反応は以下の通り。
 民主党(政審) 民主党の基本立場は「安保維持」である。そのうえで「駐留なき安保」などの見解などが出されているが、それらの政策的具体化はまだまだの話である。特別立法などの政府による法的な対応について、あらかじめ反対という態度にはならない。ただし、民主党は基本的に「党議拘束」方針はとらないので、議員個々人の判断による行動には干渉しない。議員個々人との折衝は自由にしていい。
 社民党(国民運動部) 特別立法の可能性はないと理解しているので署名運動への協力の必要はない。そのうえで、用地の不法占拠状態が継続することになる可能性があるとしてもいたしかたない。しかし、それに対して強制的な法的措置を講ずるというのであれば、政権与党としての社民党との関係は悪化し、政局問題となる。そういうことにはならないだろう。
 共産党(国対) わが党とは相いれない人が呼びかけ人にいるので署名への協力はできない。また、特別立法などの法的措置ではなく地方自治法の手直しによる機関委任業務そのものを国が掌握する方向、こちらの方が可能性が高いと理解している。
 民主党は党はできないが、個々人対応にまかせる――安保維持という党是と寄り合い所帯の現実の距離か。社民党は不法占拠になっても黙認する。法的措置はとらせない――いささか無責任の感がある、村山的安保堅持論と土井的ゼロからの出発論との落差の深さか。共産党へは、一度FAXを通じて非協力の回答があり、もう一度申し入れたが、態度は変わらないとのこと。沖縄現地における共闘関係と「中央」の国会対策委員会の認識の差か。
 以上はしかし、現時点での対応である。議員個々人への働きかけを含め、各政党に対し沖縄の現実と沖縄民衆の要求にさらに向き合い、そして安易に「新保守主義的風潮」に寄りかかることの危険性を粘り強く明らかにしていく活動もまた、百万人署名運動の課題だろう。

百万人署名運動の経過

 百万人署名運動は、七月いっぱいでの準備期間を経て八月十五日の共同記者会見を皮切りとし、同月二十八日の第一回実行委員会総会において正式に出発した。記者会見以降の各地からの反応は広範囲に及び、とりわけ九月八日の沖縄県民投票当日に行った全国六十カ所の一斉街頭署名活動への反応は大きなものがあり、九月の最初の一週間でおよそ一万人に達する署名が集約された。宮城県の古川市では八月末からの街頭署名数が八日当日で千百七十人に達した。八日当日の行動では、広島市で六五〇、大阪四カ所で一一〇〇、長野県松本市で三五三、東京・新宿で九五〇、仙台で四五〇など、各所で久々の手ごたえを感じられる盛り上がりとなった。
 他方、県民投票への連帯の意思表明として全国的には地方議員連名、関東一坪反戦関連など三団体の「意見広告運動」がそれぞれ実行され、沖縄タイムス、琉球新報紙上に掲載されたが、いずれも予測をはるかに越える反応が寄せられた。さらに九日当日には全国一斉で「市民投票」の運動も、複数の団体や地域の実行委員会などによって実行され、いずれも相当の反応を呼んだ。
 最高裁の反動判決(八月二十八日)にもかかわらず、九月八日の県民投票への期待と熱気は全国規模での盛り上がりを示し、橋本連立政権の直面する最大の政治課題となった。県民投票では、過半数を越える沖縄県民が明確に、基地ノーの意思表明を行った。
 街頭署名の盛り上がりと並行して、八月末から連日、署名や賛同が事務局に郵送され始めた。「日本にいらないものは沖縄にもいらない」の簡明な主張が、沖縄と「本土」を結びはじめたのである。
 また、県道一〇四号線越え実弾射撃訓練の本土への移転構想は、対象地とされた当該地域の住民運動に火をつけ始めていた。そして日出生台や王城寺原、矢臼別、東・北富士などを結び、六月に「沖縄発」として取り組まれた全国キャラバン運動が、沖縄民衆と連帯する全国規模の取り組みの、昨秋以降はじめての試みとなっていた。
 そのなかで提唱された百万人署名運動は、戦線的・地域的な規模の枠組みを一挙に飛躍させ、全国的に結合された運動の可能性と方向性を提示したものとなった。運動の枠組みづくりは当初から全国規模であり、また党派的運動の制約を越えようとした。社会党・総評構造の崩壊以降の全国運動のまったくの不在を越えようとする運動の方向も暗示されていた。
 発足段階での署名運動への反応は、まさに新らたなものへの挑戦が意識されていた。

沖縄」への「本土」の責務

 九六年二月、二日連続で東京と大阪の沖縄連帯集会がもたれた。沖縄違憲共闘会議が直接に主催した連続行動は、全労協・全労連の二つのナショナルセンターを中心にした久々の大集会となった。この集会の構造は、違憲共闘の「本土」への申し入れに対して「本土」サイドの受け入れ構造ができなかったことにしびれを切らした違憲共闘の、決意した「本土への乗り込み」であった。社会党、共産党、社会大衆党、そして県労協、さらには公明をも含む沖縄の革新共闘の枠組みを受け止めうる構造は、すでに本土にはなかったのである。この違憲共闘の乗り込みの衝撃は、重く、深いものがあった。
 そしてそれ以降、沖縄側の明確な意思表示に応える責務が本土側に生じた。だが社会党が社民党に、そして新社会党が分岐するという状況が具体的イニシアティブの所在に暗雲を投げかけていた。言い換えれば、本土サイドでの全国規模における運動構造の再構築という課題の「巨大さ」の前に立ち往生している、というのが実状であったろう。
 運動は依然、部分的、戦線的な制約を突破できずにいた。確かに沖縄闘争への連帯の動きは各地で、各層でさまざまに広がりはしていた。
 沖縄の「行動する女たちの会」の「ノーレイプ・ノーベース」運動に触発された女性たちの運動、映画やビデオの製作上映運動、そして三月三十一日の知花さんの楚辺通信所の土地返還の行動に呼応する「本土」からの訪沖団派遣などが生まれ、東京を中心にして関東一坪反戦地主会の行動への大衆的参加が拡大した。しかし、それらの動きに示される広がりも、まだ戦線的であったり、党派的であったり、個別的であったりの状況を抜けきれなかった。あるいはまた「沖縄の基地を本土に持っていけ」との鋭い、かつ苦い意識からする問題提起を、頭から否定・無視はできない本土サイドの政治的意識。さらには反安保・反基地闘争の構築をまさに本土サイド自身の主体的任務として、沖縄依存型、利用型から脱却しなければならないというような思い。これらが折り重なって九六年の前半期が経過した。
 こうした「本土」運動の閉塞状況への「風穴」は、やはり再び「沖縄発」として提示され始めた。沖縄は本土への働きかけの意欲を減退することはなかったのである。
 さまざまな契機のうち、百万人署名運動につながる特徴を抜き出してみる。
 一つは、五月、沖縄社会大衆党が全国のローカルパーティーの諸流を沖縄に招集し、ローカルパーティー相互の政治的・運動的連携の可能性を探ったことに始まる。Jネットや市民新党にいがたなどが参加した協議は、安保・基地問題への対応をめぐって、結果として「分裂」したが、にもかかわらず六月の全国キャラバンをローパス(地方議員政策研究会)の枠組みを中心にして実現していくことに結びついた。
 二つは、やはり連合沖縄が提唱した県民投票運動のインパクトである。ここから意見広告運動や、市民投票・模擬投票といった市民運動や議員運動が展開しうる方法が見えたのである。そして、これらを土台にして百万人署名運動への発想が導かれ始めた。
 そうした発想の土台には、「平和・市民」の運動があったことを指摘しておく必要もあろう。周知のように「平和・市民」は、結果としては成功はしなかったにせよ、「護憲派・市民派結集」を掲げ、そして選挙戦の結果においては惨敗したにせよ、政治的な全国的運動を遂行した。戦線的、課題的ではない、すぐれて政治的な政党的運動として構想されたがゆえに、その広がりの視野は旧社会党からローカルパーティー運動、市民運動を横断する地平にあった。そして具体的な政治レベルの共有感も一定程度形成されていた。
 百万人署名運動の発想は、こうした平和・市民の地平の延長上の産物でもあったといって過言ではない。ここに、沖縄社会大衆党のローカルパーティー結集の発想が直接に作用したのである。

「沖縄発」を本土全体で受けとめよう

 百万人署名運動は、ローカルパーティー運動や四月の違憲共闘本土集会の構造を意識しつつ、沖縄の運動構造に対応する枠組みに接近しようとする意識を含んで出発した。運動団体、労働団体、市民運動、生活者運動、住民運動など、そして政党そのものを含み、それらを横断して共通の運動素材に取り組むこと、それを通じて可能ならば新たな運動の協同の枠組みを展望すること――あくまでも「可能であれば」であるが。具体的出発は、沖縄社会大衆党と新社会党の協力、全労協の支援を基盤にして実行組織が発足するものとなった。発足当初において、護憲懇談会を除く社民党や共産党へまでは届くかなかった。また恒常的な運動的、共闘的枠組みの直接に対象にするものでもなかった。
 一方、旧社会党の青票議員を中心にする護憲懇談会と新社会党は、反安保の恒常的共闘機構をイメージし、その発足を急いでいた。しかし市民運動のサイド、さらにローカルパーティー、あるいは沖縄社会大衆党の立場から見れば、そうした共闘機関は、何かしら「党派性」が先行するものであり、運動の共有からの相互の信頼関係、共闘関係の形成にはなりきれないとの思いが反射的に作用することでもあった。百万人署名運動と護憲懇談会の「全国連絡会議」は相互に提携しつつも、それぞれ独自に発足することになったことには必然性があった。
 また共産党は、以前の安保共闘レベルの再現を意識した共闘関係の構築を旧社会党左派や全労協を意識して働きかけていたとも伝えられた。新社会党側が恒常的共闘機関の設立を急いだ背景の一要因でもある。
 しかし「五五年体制」崩壊、社会党・総評構造の解体という歴史的節目に引き続く新たな運動や共闘関係が生まれるには、一定の過程が必要である。沖縄連帯運動の展開が、いずれそれらへの道筋を何らかの形でつけていくことになるのであろう。
 市民からの反応に始まり、宗教運動関係団体の参加、そして労働組合や生協運動への拡大という構図によって、十万署名に至った。
 九月当初の熱気が、大田・橋本合意によっていささか水をさされたことは疑えないし、総選挙とその期間が運動の勢いをそぐ結果となったことも否めない。とりわけ「沖縄発」の枠組みが、これらの両者の直接の影響を受けてしまっていたことも、全体の運動の方向に一定の不透明性を与えた影響を無視することもできない。
 沖縄選挙区における従来の革新共闘のねじれと分裂は、自民党を追い落とすという県民多数の意思が、さらに積極的に表現されていく道筋の障害となった。社会大衆党と共産党のブロックに対抗する社民党と新進党のブロックという図式は、全体の共闘関係に水をさすものだったといっていい。
 あるいはまた、大田知事応援団の性格をもってつくられた大学人・市民の会が、大田知事の公告縦覧手続き受け入れによって揺さぶられたのも、その心情は理解できるものの、運動の勢いに陰を落とした。
 百万人署名自体としても、大田・橋本会談の結果として、そこに演出された「妥協」が、土地強制使用のための強権的な「特別立法」という手段を遠ざけたという印象を与えた。署名運動がその影響を受けなかったとはいえない。運動事務局は、九月下旬の首都圏実行委員会の開催を通じて、特別立法阻止運動の意義と位置を再確認する過程を必要とした。
 にもかかわらず、十月以降も街頭署名や職場での署名運動に目立った落差が生じたという感じはなかった。署名や賛同申し込みは連日事務局に届き、運動の範囲がさらに拡大していっている実感が伝わった。集約日時の問い合わせも引き続いた。大田知事の公告縦覧執行にもかかわらず、闘いの継続をという声も相当数寄せられた。むしろ、事務局が過敏に対応しすぎたのではないかとの感もあった。
 要約していえば、県政密着型から自立的民衆運動へ――沖縄における闘いが直面する課題の性格を一言でいえばこうなるとすれば、「本土」にとっては、さらに「沖縄発」である運動の契機をとらえ返し、「本土」の主体的運動へと高め拡大していく必要をさらに感じさせられたということになろう。
 署名運動としてみれば、十万署名という第一次段階は、まさにスタートから本格走への移行の段階であろう。各県別の集約や団体単位での集約などを一べつすれば、まだまだ運動が端緒にすぎないことが明白だ。
 これまでさまざま試みられてきた署名運動のレベルでいえば、十万という数字は目標達成の数字かもしれない。しかし沖縄百万人署名にこめられた運動の想いからすれば、十万署名はまさに端緒である。
 百万人署名運動に参加する立場はまた全く自由である。それぞれの地域や職場、あるいはサークルやネットワークが、それぞれの運動にとって効果があるように自由に組み立てられる運動である。第一期十万署名をさらに三倍加、五倍加する運動の組み立てをあらたに準備しよう。
十二月十日

「沖縄とともに基地のない未来へ」
11/23 一坪反戦地主会・関東ブロック集会


 十一月二十三日、東京・日比谷野外音楽堂にて「沖縄から訴える! 基地のない未来をともに」と題して一坪反戦・関東ブロック呼びかけの集会が行われた。約二千人が参加した集会は、歌と踊りをはさんで十二時から午後三時まで行われ、沖縄反戦地主会の大西照雄さん、行動する女たちの会の源啓美さん、長男を米軍車両に殺された海老原大祐さん、日出生台から佐藤昌さん、高校生、国鉄闘争団、百万人署名運動、新しい反安保行動をつくる実行委員会など団体の連帯あいさつが行われた。
 主催者あいさつは関東ブロック代表の上原成信さん。「普天間基地移転先予定地の自治体はすべて反対している。来年二月二十一日からの公開審理に対しては、今回は東京でも開催するように要求する。宜野湾と東京の二カ所で開催することになれば、事務手続きはさらに大変になる。東京で反基地・反安保の声をあげよう」
 那覇市長の親泊康晴さん、沖縄市長の新川秀清さんから連帯メッセージ。
 反戦地主会の大西さん。「今、普天間飛行場の代替基地としての海上案には名護市をはじめとする中部の全市町村が反対している。大田知事は微妙な発言を繰り返しているが、基地問題を決めるのは沖縄県民であり、日本国民だ。海兵隊の撤退を求めていくためにも追求していかなければならない。来年二月二十一日、沖縄県収用委員会が用地再使用のための公開審理を始める。三十人の反戦地主、三千一人の一坪反戦地主が収用委員会で政府と論戦を始める。全国からの支援を御願いする」
 基地・軍隊を許さない行動する女たちの会の源さん。「安保反対には女性や子どもの人権が入っていないのか。安保はアメリカと日本の国家の問題であり、女や子どもの人権にわい小化するなといわれた経験があり、許せない。私たち女は軍隊によらない平和をつくりあげる」
歌・踊りは「こどもエイサー~K~」「琉球国祭り太鼓~K~」、そして「沖縄のジンタ・大工哲広&カーペンターズ~K~」。
なお一坪反戦・関東ブロックは来年二月二十一日の宜野湾市における第一回公開審理に向けて訪沖団を組織する準備に入っている。

「あらためて安保再定義と沖縄を問う」
11/22 全国連絡会議集会

 十一月二十二日、東京・労働スクエア東京ホール(旧・東京勤労福祉会館)で沖縄連帯・基地をなくす共同行動のための全国連絡会議主催(略称・全国連絡会議)の「あらためて安保再定義と沖縄を問う~H~11~I~・~H~22~I~集会」が開かれ、約三百人が参加した。主催者あいさつは衆議院議員の濱田健一さん。特別報告として、太平洋軍備撤廃運動の梅林宏道さんがSACO、安保再定義などについて報告。一坪反戦関東ブロックの上原成信さんが「基地用地強制使用公開審理闘争」を報告。つづいて行動する女たちの会の源さん、日出生台の佐藤さん、厚木基地爆音期成同盟の鈴木さんのパネルディスカッション。司会は内田雅敏さん、コメンテーターとして全労協の山崎さん、参議院議員の君原さん、百万人署名の天野さん。
 集会は東水や清掃、国労などの労組関係が中心になった。労働組合の反戦・反安保の運動が日常的になかなか見えなくなってきているなか、全国連絡会議が社民党・新社会党を横断して労働者を中心にした運動の組み立てへの努力を進めていることは貴重。百万人署名運動との関係も密接である。今後の相互の共同の深まりに期待したい。

イギリス
労働党大会報告 ブレア政権を準備
                                   ニール・マーレイ


 今年の労働党大会や各労働組合の大会は、労働党の政権綱領がどのように実行されるのか、あるいは労働者運動内部の反対派の動向を探るうえで重要な位置を占めていた。(筆者のニール・マーレイは、第四インターナショナルを支持するイギリスの新聞ソーシャリスト・アウトルックの一員)

労働党優勢の世論調査

 現在の世論調査は、労働党がトーリー党(保守党)に対して一八ポイントの優勢(労働党支持率四九%、保守党三一%、自由民主党一六%)を示している。保守党は、各種の腐敗が報じられ、またヨーロッパ統合問題をめぐって深刻な内部対立がある。こうした状況を遅くとも一九九七年五月に行われる総選挙までに覆すのは困難とみられている。
 労働党党首のトニー・ブレアは、彼の前任者であるニール・キノックとジョン・スミスが敷いた路線にそって、政策の右転換を完成し、それを支配階級にも受容できるものにしていった。この過程で彼とその同調者は、労働党の歴史的、伝統的な路線の変更という挑戦を行い、さらに前任者がこれに関連して定めていた限界をも打破していった。
 炭鉱労働者がサッチャー政権と真っ向から対決した当時の労働党党首であるキノックは、一九七〇年代後半から八〇年代前半に左派が獲得してきた労組における成果や労働党の政策、党内民主主義に関する成果を徐々に覆す役割を実行してきた。ブレアは、キノックと同様の方針を実行し、党が再び左に傾斜することがないようにした。
 ブレアの考えでは、先の労働党政権(一九七四―七九年)が失敗した理由は、賃金抑制や社会保障支出の削減といったイギリス資本主義と国際通貨基金(IMF)の要求に応えようとしたことにあるのではなく、そうした政策が生み出した大規模なストライキに労働党の一部が呼応したことにある。ブレアの意図は、予測される労働党政権が労働者大衆に妨害されずに資本主義の要請に応えられるようにすることである。
 彼は、IMFが要求するマネタリストの政策を実行すれば労働者階級、とりわけ公共部門の労働者の反撃を受けることを知っており、そこであらかじめ労働組合に合法的に制約を課し、労組が党の政策におよぼす影響力を小さくしようとした。
 二〇世紀初めの自由党の衰退と労働党の急伸を受けて、イギリス・ブルジョアジーは、保守党が不人気な場合に、それに代わる政権政党として労働党を承認してきた。イギリス・ブルジョアジーは多くの場合、保守党を選択したが、時には資本主義の維持を労働党に委ね、その方が資本主義の利益にそって労働者階級を抑えられると考えてきた。だが、その場合でも、労働組合が政策決定のすべての段階で関与し、それを通じて労働者階級が労働党の政策決定に影響を及ぼすことを常に憂慮していた。ブレアは、こうしたブルジョアジーの憂慮を一掃しようとしたのであった。

ブレアの狙い

 ブレアの攻撃には、政策、思想、党の組織構造という三つのレベルがあった。政策に関しては、徐々に変えていくのでなく、資本主義の要請にそった方向に一挙に書き換えてしまった。それは同時に、党綱領四条(社会主義的な社会変革)といった党の理念、基本見解に対する攻撃であった。そして労組が政策決定過程に与える影響力を最小限にし、個人党員の役割を支持者の程度にまで後退させ、さらに年次定期党大会の占める位置を大幅に縮小した。
 現在の労働党は、ヨーロッパ単一通貨同盟への参加を「その条件が正しければ」という限定つきながら承認している。そしてブレアは、現行マーストリヒト条約の定める諸条件が受け入れられるのかどうかに関して沈黙している。彼はまた、年に一〇万ポンドを稼ぐ国民の一%に対する累進課税の思い切った復活の検討をさえも拒否している。
 また保守党政権時代に策定された、労組が合法的にストライキを行う権利を厳しく制限した反労組法の維持を公約している。現在四〇〇万人におよんでいる失業対策に関しては、何もふれていない。労働党はまた、保守党の年金改悪政策を維持しようとしている。国民健康保険制度(NHS)の保守党による改悪に関しても同様である。また犯罪の原因やその背景を改善するのではなく、犯罪の根絶という大衆迎合主義的な政策を掲げている。ブレアはまた、イギリスの核兵器政策の継続を主張し、核のボタンを押すことさえ辞さないだろう。
 労働党の思想は、必ずしも明確ではなかった。だが漠然としていたものの、社会主義を行うという言葉はあり、資本主義社会は二つの主要な階級に分裂しているという共通の認識が存在していた。党綱領の第四条は、生産、配分、交換の手段を共有制にして社会を変革するとうたっていた。これまでのいかなる労働党指導者もこれを実行に移すことを考えてはいなかったが、しかしそれでも共有制への変革という主張は労働党の存在理由であり続けてきた。
 この条項の削除が幾度か試みられたが、その度に反対に遭遇してその試みは諦められてきた。ブレアは、この条項を何ともしまりのない公式に変えることに成功した。それは、一方では労働党が社会主義政党であると主張しているが、同時に市場を受け入れると表明しているのだ。
 組織構造に関する攻撃としてブレアは、労働組合との結びつきを切断する準備を試みてきた。その背後には、もはや労働者と経営者との間に衝突(階級対立)は存在せず、労働党政権の任務とはすべてのイギリス国民に奉仕することだという主張があった。
 一九八〇年代にキノック党首が強硬左派の追放によって党内の「浄化」に成功して以来、党指導部は、党員を従順にさせ、彼らが再び労働党政権の政策に反対するような水路をなくそうとしてきた。そのため、党組織の会合を減らし、「一人一票」の郵送投票制度を導入した。さらに党大会における労組票が占める割合を九〇%から五〇%に減らし、政策を討議し決定する場としての大会に代わるものとして何とも不明確な「全国政策フォーラム」なるものを設置した。
 ブレアはさらに、一党員一票制度(これは個人党員ではない労組党員には適用されない)を拡張して、政策決定過程にも適用し、それによって旧四条の廃止と書き換え、党大会での議論が許されなかった新宣言の承認を実現したのであった。
 こうした変化を通じて労働党指導部は、保守党の「構築物」の上に自らを築き上げた。一九〇八年代、保守党政権は、労働者階級を分断して攻撃をかけてきた。労組官僚が雇用や労働条件を守る気も能力もなかったおかげで、保守党政権は重要な成果を達成し、労働現場における労組の力の弱体化に成功した。彼らは、その成果の延長上に多くの産業の民営化を実現し、労働組合法を制定したのであった。その法律は、ストライキなどの産業行動の呼びかけを非常に困難にし、別企業労働者との連帯行動を合法的に行うことを不可能にした。
 こうした労組の弱体化とともに、産業行動は成功しないという見解が強くなってきた。最近のいくつかの重要なストライキの例にもかかわらず、産業行動はこの一〇〇年間の最低水準を超えていない。労働党と労組の官僚は、こうした雰囲気や状況を利用して、唯一の方向は労働党が政権につくことであり、そのためには労働党の独自政策を薄めることが不可欠だという主張を強めてきた。
 しかしブレアはさらに歩を進めて、サッチャーとその政権の成果を賞賛するに至り、あげくには彼女の成功とその権威を覆す気はないと公然と表明した。こうして彼は、反労組法の継続を公約するだけでなく、この法律を公労協部門にも拡張することをもほのめかしているのだ。

ブレアを支える労組官僚

 大部分の労組指導部、とりわけ大労組の官僚は、ブレアが彼の「党改革」を進行させるのを喜ぶだけにとどまらなかった。その推進を熱心に支援した。時には自らに要求された事柄にためらうこともあったが、しかし、そんな例はめったになかった。
 本年のイギリス労働組合会議(TUC)定期大会では、労働党指導部を困惑させるような方針は採用しないとまで主張した。労組に敵対するすべての法律の撤廃要求は明確に否決された。TUC指導部は、全国一率の最低時給四・二六ポンド要求の採択では敗北すると予測していたので、労働党提唱の「最低賃金委員会」への支持を決め、気晴らし程度の交渉材料を決めただけであった。
 だがブレアは、TUC大会期間を利用して、自らが労組に対して「厳しい態度」をとる決意であることを支配階級に誇示した。教育担当のデイビッド・ブランケットは、大会の場で公共部門の紛争に関する強制的な調停制度と、経営者が「新たな重要提案をした場合」のそれに関する投票の制度化などの方針を発表した。また雇用問題担当のスティーブン・バイアーズは、労働党は労組と党との結びつきを断ち切るだろうと報道陣に語った。
 こうした発言や発表は大会の決定には影響を与えなかったが、穏健派労組指導部は、声明を発表して労組と党との関係の切断、ストライキ権のさらなる侵害に反対した。GMB労組の書記長、ジョン・エドモンズはバイアーズの解職を要求した。またTUC書記長のジョン・モンクスは、TUCディナーの席上でブレアを痛烈に攻撃した。
 ブレアは、労組指導者との関係修復を試みた。彼は、労組指導者を党から追放することを望んでいるのかもしれないが、しかし、ここ当分は彼らの援助を必要としている。そこで彼は、「党と労組との関係は進化し発展するものだ」と強く主張すると同時に、バイアーズは報道陣に実際には前述のような発言をしていないとも述べた(誰も信用していないが)。ブランケットは、自分は誤解されていると主張した。
 TUC大会から三週間後の労働党大会で労組指導者らに光が当てられた。ブレアが労組や労組―党関係にますます公然と攻撃を加えていく中で、彼らにできたのは、ブレアの側に立つか、あるいはブレアに暗黙の支持を与えるのかの、どちらかであった。
 結局、大部分の指導者は後者を選んだ。先述の声明を大会に持ち込むことはせず、党―労組関係の維持に関する緊急動議の論争を拒否した。大会における多くの政策課題に関して彼らは、ブレアとその宣言に支持を与えた。経済政策のように一つあるいは二つの大きな労組の投票次第では、大会決定が覆るようないくつかの政策課題があった。事実、公労協の大労組UNISONの書記長、ロドニー・ビッカースタッフェは、保守党政権が廃止した年金と収入との関連づけの復活を党の公約にせよという決議案の否決に貢献したとして感謝されたのであった。
 これも大労組である運輸合同労組(TGWU)は、その執行部は二対一で「左派」が多数を占めているとみられているが、大会全体で反対票を投じたのは一度だけである。その書記長ビル・モリスは、党―労組関係維持のために懸命に闘うと態度表明していたのだが。
 こうした労組指導者らの態度が頂点に達したのは、党宣言「新しい労働党、新しいイギリス生活」の採択においてだった。これは、前述の腐りきった親資本主義的な政策を網羅したものであり、議論がないまま投票に付されたが、大差で可決された。いくつかの小労組が反対票を投じたにすぎなかった。

反対派の動向

 マスメディアは、党大会をブレア綱領の勝利だと報じたが、実際はそんなにバラ色ではなかった。彼は、労組官僚の助けを得て、党役員による大々的な代議員操作によって乗り切ったにすぎない。党と労組内部のブレア綱領に対する反対派は、本質的に異なっている。事実上、すべての労組は、ヨーロッパ通貨同盟やマーストリヒト条約とその社会条項を支持している。これらに対する反対は、労働党議員のごく一部と活動家に限られている。
 最近のUNISON大会では確かに単一通貨同盟に圧倒的な反対票が投じられたが、その組合の全国指導部は、大会で反対の態度を公然を表明することはなかった。多くの労組大会が決定した方針は、反労組法や年金、最賃、社会保障などに関して労働党綱領が要求する以上を要求していたが、大部分の労組指導者は、これらの課題に関して保守党に反対したり、あるいは労働党ブレア方針に反対することはなかった。
 選挙区労働党の組織は、個人党員と労組地域支部の代表から構成されているが、この数年間、かなり右に傾斜してきたので、政策の変更に関してもほとんど反対がなかった。だが、それでも左派は、選挙区労働党から選出される全国指導部の七つのうち二つをとっており、そして党大会では選挙区代議員の大多数は、ほぼすべての重要な問題に関して全国指導部に反対した。だからこそブレアは、選挙区労働党党員が政策決定に関与する方法を郵送投票に変更して弱め、集団的な決定を排し、党員を党指導部と党を支持するメディアだけの影響下に置こうとしたのである。
 この数年間、新規党員獲得のために多くのことがなされてきた。そうした新規党員は、考えることがないブレア支持者とみなされている。だが事態はやや複雑である。新規に入党する党員のうちで労組活動家の割合が減っており、また、新規党員のほぼすべては保守党政権が福祉国家に加えた破壊攻撃の終わりを目撃したいと思って入党したのだ。間違いなく彼らの多くは、政治的にナイーブであり、ブレアを勝利を実現する指導者とみている。しかし、こうした事情は、ブレアの綱領の本質が事実として明らかになった場合に、彼らがこの綱領の不適切さを認識できないことを意味してはいない。

来るべき闘い

 党―労組関係を切断しようとするブレアの狙いには、労働党をヨーロッパ大陸型の社会民主主義政党か、あるいはアメリカ民主党型のより直接的なブルジョア政党に転換しようとする願いが込められている。しかし、そうした願望をすることは容易だが、その実現ははるかに困難である。
 社会主義者は労働者階級が独自の発言権を維持するために不可欠な党―労組関係を防衛するが、他方、労組指導者は彼らなりに独自の理由から、この関係を維持しようとする。彼らが最後まで維持したいと考えるのは、労働党政権の政策に関する発言権である。なぜならば、労働党政権は、権力の回廊における彼らの位置を否定するのみならず、彼らが労組員の利益を守るつもりがないことを隠してくれる煙幕をも奪うからである。
 もしブレアが選挙で勝利したなら、彼は政党への国家資金による助成制度を導入し、資金面で労働党が労組に依存する必要性を排除するだろうという観測が支配的である。大企業からの資金や少数の金持ちからの寄金はあるものの、労働党の資金の少なくとも半分はいまだに労組に依存している。
 党―労組関係と綱領の第四条に関する議論は、労働党の性格とそこで進行した変化に関する多くの社会主義者の間での論議に混乱をもたらしている。炭鉱労働組合(NUM)の委員長アーサー・スカーギルを初めとする幾人かは、労働党はかつては社会主義政党だったが、第四条を廃止しためにそうではなくなった、と主張している。これが、彼が社会労働党(SLP)を設立したのを正当化する根拠である。
 もちろん労働党の性格はその思想によって定義されはしない。同党は、その綱領上の言葉とはまったく無関係に、政治的にはこれまで一貫して「ブルジョア的」であった。労働党が発展したのは、労働組合がそれまで支持していた自由党が労働者階級の利益を代表するものでないと確信し、自由党と決別してLRC(労働者代表委員会、これが一九〇六年の総選挙に際して労働党と改称)・LP(労働党)を設立してからのことである。自由党との決裂は思想によるというよりも、むしろ組織的なものだった。それでも決裂の理由の基本には、階級としての独立があった。だがブレアは、自由党との決別は「誤り」であったとさえ主張するに至り、彼の目的を鮮明に示唆した。
 労働党は、言葉のいかなる意味でも社会主義政党であったことはない。ヨーロッパ大陸のほとんどの社会民主主義政党とは異なって、労働党は、革命党が堕落した結果としての現在の姿があるのではない。第二インターナショナルの多くの政党とは違って、労働党は第一次世界大戦で「社会帝国主義」の陣営に移行してしまったのではない。
 労働党は、自由党とは組織的に決裂したが、しかし政治的には決裂せず、労組意識、より正確には労働官僚の意識の限界内部にとどまった。労働党はその誕生以来、社会民主主義政党、レーニンの言葉を借りれば「ブルジョア労働者政党」だった。
 党綱領の第四条あるいはブレアが現在推進している方針を判断基準にするなら、ブレアの政策はこれまでの労働党が歴史的に追求してきた路線とは質的に異なっていると主張することになる。労働党は、これまで実践的には一貫してブルジョア秩序の維持に当たり、ときには改良の恩恵を与えることはあったものの、労働者階級を統制してきた。労働党をその政策だけによって評価するなら、「黄金時代」なるものが存在したことはなく、同党は一貫してブルジョア政党だったのである。
 労働党の変質が基本的に完了していないと主張することは、ブレアが党を変質させようとしていることを否定するのと同じではない。労組との関係の切断に成功するなら、同党の性格は質的に変化するだろうし、ブレアは、労働党の伝統的な政策とはまったく別の市場への支持と階級対立の否定という思想を推進している。労働党がその綱領の第四条を廃止したことをもって同党が変質してしまったと主張する人は、今なお進行中の闘いにおける敗北を宣言しているのだ。労働組合を労働党から排除することは、イギリス政治とその労働運動に対して多大な衝撃を与えるだろう。
 労組官僚はブレアに挑戦するのをためらっているのだが、それでも党と労組の関係切断をめぐる闘いは起こらざるを得ない。多くの組合指導者は、関係切断を追求する勢力を脅かせば、切断を阻止できるという希望を抱いて各種の声明を発表している。労組運動右派の強固な拠点であるAEEUでさえ、現在以上の関係弱体化に反対している。だが労働党の変質を望んでいる勢力が、簡単に方向転換することはありそうもない。この問題に関する主要な闘いは、次の時期に向けて現在進行中であり、SLPが主張しているように、その結末は初めから分かりきっているわけではない。
 SLPが無視しているイギリス政治において現在進行中のもう一つの要因は、総選挙に至るまでの労働者階級の気分というものである。多数の労働者が労働党に投票するに違いない――ある者はブレア綱領が何を意味しているかを知りつつ、また別の労働者はブレア政権に幻想を抱きつつ。
 総選挙で労働党とは別の候補を立てることを第一の任務と考える社会主義者は、選挙において泡沫候補となることはないのみならず、労働者階級との関係でも一定の力を発揮できるだろう。労働党に対する幻想が大規模に崩れるのは、ブレアの政策が実際に何を意味するのかを労働者大衆が知ることになる選挙後であって、選挙前ではない。
 労働組合内部での左派の中心任務は、労組官僚のブレア支持の理由を説明させ、保守党政権が進めている攻撃への反撃を組織し、ブレア政権下でも継続される緊縮政策に反対していくことである。こうした任務に関連して重要な事態の展開は、左派連合「広範な左翼」が一二労組の共闘連合体として結成されたことである。
 組合官僚に闘うように圧力をかける方法は、郵便労働者のストライキにおいて実際に示された。通信関連労組(CWU)の書記長、アラン・ジョンソンは、最初から「チーム労働」に関するこのストライキに反対をし、結局のところ執行委員や一般組合員の圧力に屈した。ジョンソンは、ブレアのお気に入りで、長い間、労働党の全国執行部に席を置いていた。だがブレアが郵便労働者は調停を受け入れるべきだと主張した後、ジョンソンは、TUC大会でブレアを批判する演説を行い、労働争議に対する「外部からの干渉」に反対する緊急動議を労働党大会に提出したのであった。
(インターナショナル・ビューポイント誌282、11月号)
第六回サンパウロ・フォーラム報告
         ラテンアメリカ左翼のネットワーキング
                                    ジャネット・アベル

 以下は、第四インターナショナル・フランス支部である革命的共産主義者同盟(LCR)を代表して第六回サンパウロ・フォーラムにオブザーバーとして参加したジャネット・アベルのラテンアメリカ左翼の大切な定期会議に関する報告である。

総括的な報告

 ブラジル労働党(PT)やメキシコ民主革命党(PRD)、エルサルバドルFMLNの一部のような社会民主主義思想の影響を受けている諸政党、政治組織は、「民主的現代国家の建設」を主張した。それは、市場と私有制による経済体制を基盤とし、国家が強力な役割を果たし、最低の社会的な公正を実現し、「持続する開発」を可能とするものである。現在のラテンアメリカにおける経済的、社会的な危機を考慮するなら、こうした戦略の実現は極めて困難である。
 キューバ共産党やサルバドルの共産主義指導者シャフィク・アンダールは、彼らによれば中国やベトナム、ラオス、朝鮮民主主義人民共和国、キューバに体現される新しい「社会主義様式」について好んで語った。
 以上の二つの路線の対立が活発な議論となったが、フォーラム期間中にこの対立が解消されることはなかった。このフォーラムは、連合体的な合意によって運営されるものである。フォーラムが採択した最終文書は、ラテンアメリカ左翼に共通する戦略の不在を表している。ネオリベラルに基づく野蛮な攻撃、北米のヘゲモニー、ソ連崩壊以降の社会主義の参照点の不在といった状況は、ラテンアメリカ左翼を武装解除してきた。マリオ・ミハンゴが率いるサルバドルを初めとするいくつかの代表団は、作業委員会の議論において第三の路線ともいうべき議論を展開したが、公開の総会では先述の二つの路線だけが論議された。
 移民、環境、文化、女性などの問題に関して、新しいイニシアティブが登場した。このことが今回のフォーラムを重要なものとし、これらの問題について広範な運動を展開しようとする人々にとって、大陸規模の枠組みが形成された。サンパウロ・フォーラムは、維持するに十分値する連帯と動員の大切な装置である。

連合的に機能するのは困難

 事務局のような常設機関がないために、定期会議と次の会議との期間では、活動が困難になっていると、活動検討グループは報告した。フォーラムは、ブラジルのサンパウロに実験的に(二年間)事務局を設置することを決めた。この場所となったのは、ブラジルがラテンアメリカ大陸の重心の位置にあるからだ。事務局設置という組織構造の建設に向かう動きは、歓迎されるべきである。しかし、フォーラム参加者間の政治的な違いは、政治的な集権化を許さないだろう。

サパチスタはラテンアメリカ左翼の参照点か

 メキシコのサパチスタに関して、フォーラムでほとんどまったく言及されなかったのは、気にかかる。開会と閉会の総会のみならず、メキシコPRDが何度も発言したのだが、いずれの機会にも言及はなかった。閉会の儀式が終わった後になって初めて、シャフィク・アンダールがフォーラムの代表がチャパスに行ってサパチスタの会議に参加する、と発言しただけであった。
 このフォーラムに参加した諸組織は、サパチスタに批判的である。いくつかの武装闘争運動の指導者は、サパチスタの戦略をはっきりと批判した。あるグアテマラ・ゲリラの指導者は「サパチスタの戦略は理解できない。武器をもっているなら、それを使うべきなのだ」と、私に語った。

フォーラムは、EZLNの人道のための国際会議と同じ時期に開催された

 サパチスタは、このフォーラムが行われる日時を知っていた。彼らがフォーラムと同じ期間に自らの会議を開くことを決めたのは明らかである。これら二つの会議は、数百キロしか離れていない、それぞれの場所で開催されたのだが、安全上の問題から両方の会議に参加するのは不可能だった。

キューバについてはどうか

 キューバに関する特別の決議はなかった。しかし中心文書や最終文書、あるいはその他の委員会声明などは、キューバに対する経済封鎖の強化を決めたアメリカのヘルムズ・バートン法を非難し、現在の経済改革を含めたキューバ支持を強調した。私の知る限り、この問題に関してフォーラムでは不一致はない。

招待だけ?

 フォーラムは、一九九七年に北米とヨーロッパ左翼との共同会議を開くことになっている。第二回会議のイニシアティブは旧大陸(ヨーロッパ)がとっている。これは、ヨーロッパ連合(EU)とラテンアメリカやメルコスール自由貿易圏との関係強化、EUがヘルムズ・バートン法に反対している事実、メキシコに対するEUの利害増大などの状況を表現している。
 いくつかのヨーロッパ議会左翼政党は、多くの時間を費やして議会外左翼を、この会議から排除することを検討した。その結果は「妥協」だった。つまり、フォーラム調整グループとヨーロッパ諸政党を含む準備委員会は、一九九七年前半にブリュッセルで会議を開き、「広い心」を基盤として招待状を発行することになった。

誰が、何を、いつ

 フォーラムを構成する五二組織から一八七人の正式参加者があった。その他、一四四の招待組織から二八九人が参加、ラテンアメリカ地域以外の四四組織からオブザーバーとしての参加があった。
 フォーラム準備段階で、議員らがキューバのハバナで会議を開き、移民に関する作業グループがメキシコシティで行われ、カリブ海地域の統合に関するセミナーがグアデロウプで開かれた。
 サルバドルの詩人、ロケ・ダルトンにささげる文化会議やチコ・メンデスにささげる環境問題会議が開かれた。チコ・メンデスは、アマゾン先住民運動の指導者で、ブラジル労働党の一員、一九九〇年代初めに暗殺されたのであった。
(インターナショナル・ビューポイント誌282号)