1997年1月10日         労働者の力              第85号

新時代の枠組みに応える

環境社会主義を提唱する

小平 宏

沖縄と巻−注目すべき二つの大衆運動

 最近注目すべき二つの大衆闘争がありました。二つとは沖縄の反基地闘争と新潟県巻町の反原発闘争です。いずれの運動も、ブルジョア民主主義の枠組みを超えて、運動の頂点の一つとして直接民主主義的な住民投票を実現しました。これらの二つの運動は、法律的に制度化されていない住民投票を実現した事実にとどまらず、その背後には極めて大規模な大衆動員があったこと、そして、いずれの住民投票においても支配階級側の意思に明確な反対を圧倒的な多数として突きつけたという重要な成果がありました。
 しかも、これらの二つの運動に関して一部の既成政党を除いて基本的に武装解除の状態にあります。また自民党や新進党などのブルジョア政党から離反する傾向にあります。社民党や民主党などは、これらの二つの問題に関して抜本的な解決の手順を提示しようとさえしなかったといえます。二つの運動について少し
具体的に説明します。
 沖縄に関してですが、日本国内にいるヨーロッパ系の友人から「冷戦構造が崩壊したのに、なぜ、あれほど多くの米軍基地が沖縄を中心に日本に存在し続けているのか」という質問を受けることが頻繁にあります。
 アメリカの知識人や意識的な一般市民も、米軍が日本、ことに沖縄から撤退しない事実を不思議がっています。 冷戦溝造が崩壊した現在、資本主義のクローバリーゼションの中でアメリカ帝国主義は、その世界的な地位が相対的に上昇し「唯一の超大国」となり、その立場から世界戦略の転換、再編を図っています。軍事戦略を再編する狙いの一つは、中東、イラク、イランなどの西アジア、あるいは中国、朝鮮半島などアメリカの世界戦略に繰り込まれていない国々を意識したものとなっています。 日本の既成政党は、こうしたアメリカ帝国主義の世界戦略再編策として打ち出されているクリントン大統領の政策に、何ら抵抗することなく飲み込まれています。確かに冷戦構造の崩壊、ソ連・東欧圏の崩壊後、日本に限っていっても、大衆意識の保守化、後退というか、社会主義に対する信頼の低下、崩壊があります。
 しかし沖縄では、基地で働いている一部の人を別にして、圧倒的な多数で基地に反対の意思を表明しました。沖縄に関連して日本本土に演習場を移転しようとしているのですが、その候補地、私が直接見聞した宮城県の王城寺原では、町長から町議会、町民まですべてが反対の態度をとっています。全般的な大衆意識の後退という状況の中で、健康な反戦意識が生きており、自民党や新進発と隔絶し離反する傾向が生まれています。
 日本の思想界なんかでは、一九一七年ロシア革命以降の階級的、あるいは政治的な意識が後退しているとか、薄れているという否定的な見解が強まっているのですが、私はこの点に関しては反帝国主義的な、日本でいえば戦後民主主義の一部としての戦争を否定する意識など、健康な意識が存続していると考えるべきだと思っています。
 もう一つ話題になった住民投票が巻町です。原発をはっきり否定する意思表示がなされました。
 日本の原発をめぐる状況を説明します。その対照として昨年の十月末から十一月はじめにブラジルで行われた原発に関する会議に触れておきたいと思います。これは同国の科学技術庁が動員した会議で、基木的には原発推進の立場から会議が行われているのですが、原発反対の人々も参加し、二年に一回開催されるのですが、昨年で第六回になります。
 ブラジルは、水力が豊富にあって水力発電が盛んで、原子力発電は実験炉的なものが一基あるだけです。この国では、オッペンハイマーなどと連絡をとりながら核エネルギー開発を進めてきた長い歴史があるのですが、原発が一基だけ、しかも実験炉約なものしかないという状況の背後には、政治的な反対のみならず、物理学者などから安全性に問題があるという強い反対があって、それを無視してこなかったという事実があります。
 私が入手した情報によると、昨年の会議は原発推進を基本の立場としながらも、原発反対派にも十分な意見表明の機会があり、その意見を聞くという態度があり、民主的な公議運営が行われたようです。
 こうした状況は、原発に関するかなりの情報公開が行われていることを示しています。
 これに対して日本はどうかといいますと、主要国の中で突出した位置にあります。
 チェルノブイリの原発事故以降、世界的な原発建設は抑制されてきました。その中で日本が最高の建設数です。 これにとどまらず、極めて毒性の高いプルトニウムを燃料とし、冷却剤に金属ナトリウムを使う高速増殖炉の開発でも、世界で突出しています。当初は原発大国といわれるフランスが、この分野で突出していたのですが、事故を起こして開発を中止しています。ロシアとインドで開発が進められている可能性がありますが、日本が突出しているのはまぎれもない事実です。
 日本では、一九五〇年代に入って原発ファミリーともいうべきグループが形成された。読売新聞の正力や中曽根などがその中心です。広島、長崎の被ばく体験から核兵器を拒否する極めて強い国民約な合意がありますが、彼らは日本が資源小国であることから核エネルギー開発が不可欠だとして「核の平和利用」にゴーサインを出し、その結果、現在五十基程度の商業炉(原発)が存在しています。
 日本の核エネルギー開発の特徴を一言で説明すると、トップダウン(上意下達)方式と情報の非公開です。しかも核エネルギーとその開発に伴うリスクを極度に軽視し、「よい面」だけを過大に宣伝します。前述の高速増殖炉に関しては、「プルトニウムが増えるのだからエネルギーは無尽蔵となる」と宣伝しますが、ブルトニウムそれ自身の危険さや、燃料の再処理の難しさ、金属ナトリウムの危険性などは無視されます。
 昨年あたりから状況はやや変化してきましたが、情報は公開しないし、反対派の意見をまったく聞こうとはしてきませんでした。そして日本が地震多発一国であることを考えると、日本の支配階級が非常に危険なエネルギー路線を突っ走っているといわなければなりません。
 巻町の地域住民全体は、住民投票を通じて、これらの状況全体を否定し、「ノン」といったわけです。こ重要な政治的な意義をしっかりと考える必要があります。そして、これを通じて提起されている問題に対する抜本的な解決策を提示していく任務がわれわれにあります。

一九六八年革命世代

 沖縄は反戦・反軍の、そして巻町は環境・資源問題をめぐる運動ですが、こうした問題に対する主体側の認識という点を考えてみましょう。私はここで一九六八年革命世代(六八年世代)という言葉をキーワードとして使いますが、その意味についてはおいおい説明していきます。この世代が、現在の第四インターナショナルの指導部あるいはオピニオンリーダーを形成しています。日本でいえば全共闘
世代です。
 この世代と、それ以前の活動家世代との間には、一つの非連続性があります。この非連続性を端的に象徴していると私が考えるものに、アイザック・ドイツチヤーによる岩渡新書になった「大いなる競争」があります。同書は周知のようにソ連の雪解けと部分的な平和共存を前提として、計画経済を基礎とするソ連の方が経済成長率の面でも、あるいは科学技術の開発・利用の面でも優っており、こ
こに「社会主義の優位性」があるから、米ソ両体制間の「大いなる競争」でいずれはソ連が勝利するだろうと主張しています。
 六八年革命世代は、最初から本書に対して批判的でした。というのは、六九年ですかアメリカがアボロを打ち上げて月面に初めて人類の足跡を印しました。そこで必ずしも「ソ連の勝利」を楽観視できないと考えたからです。
 また宇井純氏などの新しい科学論、技術論などから水俣問題や工場・自動車の排ガスなどの公害問題といった容易ならぬ事態が起こっていることを感じていました。そして工場の煙突からの煙も、一九六〇年代の終わり頃には、高度経済成長のシンボルとみるのでなく、明確に批判的な社会的心理が形成されていました。
 ところがドイツチャーの書には時代の制約といえるかもしれませんが、環境・資源問題を扱う視点がありません。当時マルクス主義の問題を考えていた私は、ベトナム反戦問題のみならず、環境・資源問題を資本主議論の内部にどのようにして取り込んでいくのかを真剣に考えていました。例えば原発問題を資本主議論の内部でどう扱うのかという問題です。
 これに対して一九六〇年代初めまでの世代は、環境・資源問題が重要ではなく、積極的でなかったようです。
 ところで一九六八年革命ですが、ベトナム反戦闘争を中心とする世界的な青年の急進化、トロッキストが大衆運動として初めて活躍をしたフランス五月革命、チェコスロバキアでの大衆闘争とソ連の侵攻ーこの三つを指しています。 世界システム論で有名なI・ウォーラーステインは六八年革命とは何かと問い、資源や土地などの自然が無限に存在することを前提にしてきた産業資本主義と、産業革命以降の世界システムが限界に突き当たったことを示したのであり、前述の三つを政治的に鮮決しなければならない課題として提起しています。戦後資本主義を規定できるフォーデイズムの限界を突きつけたのが六八年革命といえます。
 つまり世界システムの転換期しての六八年革命です。 ブルジョアジーの側でもローマンクラブなど環境問題を意識し始め、この頃に最初の会議を行い、「成長限界」がその最初の集大成となっています。ここから資水主義を前提として環境・資源問題を解決していこうとする環境資本主義ともいうべきものが登場してきます。
 他方、トロッキストに近い立場の人でいえば、湯浅赴男氏は現在マルクス主議ではありませんが、環境・資源問題に真剣に取り組んでいます。また室田武氏は、一九七〇年代にアメリカに留学し先住民の居住地を回っている時、突然として従来のマルクス主義ではだめだと考え、新しい思想の枠組み形成に取り組んでいます。
 フランス五月革命を領導したアラン・クリピーヌは、反帝国主義の立場を貫徹するためにトロッキストになり、その延長線上で資源・環境問題に取り組んでいます。 こうして資本主義論、つくるべき社会主義像について一九一七年ロシアのそれらとは違う新しいものが形成されはじめています。

世界資本主議論について

 世界資太主義を便宜的にヨーロッパを中心にみていきますと、十六世紀からアメリカ大陸だとかの新しい市場をにらみながら、新しいタイプの近代資本主義が登場してきます。これは、十八世紀のフランス革命までは、農業を主体とする封建的な産業体制からマーラァクチャー(工場制手工業)という商業資本を中心とするものへと変化をとげ、フランスではそれを絶対主義的な国家体制がが支え、イ
ギリスでは民主的な議会による体制で進められました。
 フランスの資本主義化、工業化が遅れていたので絶対主義的な体制となりました。 この中でフランス革命は、イギリスよりも遅れた資本主義、かつ絶対主義的な王権を背景とする巨大な国家体制に対して起こりました。革命の当初、つまりジョコバンが政権をとっていた当時は、小ブルジョアジー的な平等主義の色彩が強かったのですが、大ブルジョアーが政権を握ったテルミド−ル(熱月)以降は、平等主義の傾向が後退し、産業資本主義の勝利が確定していきました。ナポレオンもこの状況の上に乗っていきます。
 ところが社会主義にとっても重要なことは、例えばサン・シモンの社会主義がありますが、これは産業資本主義の経済成長や資本主義による科学技術の利用などについて、あるいは技術の進歩について非常に楽天的に認識していました。ある意味で産業社会主義とでいえましょう。
 こうした社会主義の状況にあってマルクスやエンゲルスは、サン・シモンの社会主義の一部を継承すると同時に、資本主義の進歩に関する楽天的な認識に批判的でした。資本主義が環境や自然を破壊していく側面を認識しているところもあります。資本論の中でも、例えば農業に与える影響など資本主義の破壊的な側面が示されています。
 だが、いずれにしても環境や資源を問題にしないですんでいた面があります。すなわち、この時代の産業資本主義は各国の民族資本が競争をしながら植民地争奪戦を展開していました。各国が競争しながら植民地支配を拡大していくことは、それらの国々にとっては資源が無尽蔵に存在することであり、環壊を全面的に搾取しながら発展をとげていきました。
 そして十九世紀末から二十世紀初頭において、産業資本主義が帝国主義に変質していったわけです。帝国主義の時代、戦争と革命の時代が登場してきました。そして周期のようにイギリスをモデルにして考えたエドアルド・ベルンシュタインはマルクス主義の革命性の時代はすでに終わって、資本主義の成長による、そのおこぼれにあずかるという部分的改良の路線を提出レました。彼は、レーニン、トロッキー、ローザ・ルクセンブルクが明確に抵抗、反対しょうとした帝国主義を認識できず、むしろ、その中に取り込まれていく方向にありました。そしてイギリスの社会民主主義なり、その頃の最大の社会主義政党であったドイツ社会民主党がこの方向に向かいました。
 第二次世界大戦が終わった一九四五年までの世界を、政治的、経済的に指導したの帝国主義内の一言でいうと反動的な部分でした。また労働者の側もこうした反動的な帝国主義戦争に巻き込まれていきました。その代表が敗北した日本の労働者であり、ファシズム下のドイツ労働者です。イギリス、フランス、アメリカの労働者も部分的にしか、反戦、反帝国主義を表明できませんでした。
 第二次世界戦争後の世界資本主義は、アメリカ資本主義に成長する余力が十分にあったこと、ヨーロッパ各国や日本などが戦争で荒廃したため、市場としてみれば大きなものがあり、世界市場も同様でした。いわば一九六〇年代の中頃までは、世界システム論からいっても一九世紀的なモデルが機能した産業資本主義的な高度成長時代といえます。

ロシア革命モデルヘの評価

 こうした世界資本主義論の一環として、ロシア革命をどのように認識するのか、という問題を考えたいと思います。
 ロシア革命のモデルが六八年革命の中でどうだったかといいますと、まず六八年革命はベトナム反戦として帝国主義戦争に反対する最も勇敢な闘争、運動だったし、キューバの革命もそうでした。また五月革命はフランス帝国主義にまさにその本拠地で闘いを挑みました。この中で連動の中心となった青年たちは、新しい問題意識を感じたものの、それを理論化することができないでいました。しかし、これらの運動から新しい問題が提起されていました。青年は少なくとも運動が突きつけた問題を意識していました。例えば日本では、東大闘争で一番白然発生的に急進化していった医者の予備軍である青医連や都市工学の若手研究家などが、その一部です。彼らは最も新しい問題意識を突きつけました。特に後者は私にとって印象的で、一方では成田空港の設計をやりながら、他方ではチェ・ゲバラの顔を図案化してポスターなどをつくって研究室に飾っていました。
 こういう中で資本主義に関する新しい分析が始められていきました。そこでレーニンやトロッキーの社会主義構想が検討されました。ことにレーニンの「社会主義とはソビエトプラス電化である」という有名な言葉が吟味されました。 レーニンのこのテーゼは、当時のソ連の建設段階からすればやむを得ない面があります。また資本主義、帝国主義がそれまでの既成の生産システムに対して極めて破壊的に対処してきたのを超えて新しい社会を建設するモデルとしては、歴史的には大きな意味をもっていました。
 しかしレーニンやトロッキーは、六八年革命世代が感じた環境・資源問題については極めて楽観主義的な態度をとりました。ここからレーニンやトロッキーを否定約に評価するわけではありませんが、一九一七年のロシア革命モデルでは解決できない新しい資本主義の問題が出ていることはしっかりと認識する必要があります。逆にいえば、六八年革命は、レーニンやトロッキーの路線では解決でき
ない問題に直面していたのです。
 そしてアメリカやヨーロッパ、日本でも、ここで新しい資本主義論が登場してきます。ここで六八年革命から自己形成を行ってきたという意味での「六八年以降世代」という言葉が許されるとするなら、この世代と、例えぼ前述のドイツチャーの「大いなる競争」に表される資本主義論や社会主義像で自己形成を図ってきた世代との間には大きな違いがあります。
 私からすると、ドイッチャーの「大いなる競争」は先の世界システム論のウォ−ラーステインも同様な評価だと思いますが、米ソがいわば同じ目標、ウォ−ラ′−ステインの言葉でいうなら「十八世紀モデル」の中でどちらが生産力を高められるか、最終目標にどちらが速く到達できるかを競争している事実それ自体に無批判的なのです。こうした競争の最も端的な象徴が軍事が絡んだ宇宙開発競争な
のです。
 戦後の資本主義が一九六〇年代までに労働者階級の革命性を吸収できた事実の背景には、先述の意味での産業資本主義がフォーデイズム的に生かされたことがあります。マルクスが描いた十九世紀約な資本主義の破滅、つまり恐慌によって資本主義が破局を迎えるというマルクスの予測は、ある意味で正しく、また、ある意味では間違っていました。それは、二十世紀初頭に帝国主義が植民地を犠牲にした上で、社会民主主義を通じて労働者を体制の側に取り込んでしまうことができたからです。
 そして戦後はアメリカやフランスを例外として霧骨な植民地支配ができなくなり、また、植民地解放闘争が高場しました。こうした戦後資本主義をマルクス主義経済の立場から最も深くまともに分析したのが、エルネスト・マンデルの「後期資本主義」だと考えます。戦後は、フォード主義プラス科学技術の大きな発展が特徴だったのです。特に科学技術のブームとなり、資本主義がそれを体制内化した時代だといえます。これを通じた帝国主義の変質を分析したのが、マンデルの本書なのです。例えば、経済学者の伊藤誠氏は、マンデルの本書をこうした科学技術を体制内化して変質した新しい資本主義を分析していると評価しています。エルネスト・マンデル白身も、六八年革命世代が登場して以降、この世代の活動家との対話、討論を通じて脱原発、環境・資源問題(環境革命)を反資本主義闘争の極めて重要な柱と考えるようになってきました。
 そして第四インターナショナルも一九七〇年代半ば以降、ヨーロッパでエコロジストが明確に登場してきた時期とも一致するのですが、環境問題を重視し、資本主義のデッドロックとして資本主義の危機を論じる際には必ず言及していました。ついでにいえば、第四インターナショナルは、エコロジー運動に対しては、そのシングル・イッシユーの立場を批判し、社会主義あるいは反資本主義的な綱領の
中に環境問題を取り入れる必要を訴えていました。ここではっきりしていることは、レーニン、トロッキーの時代の資本主義認識とは異なっている要素として環境・資源問題が入っていることです。

環境社会主義の必要性

 私が環境社会主義をスローガンとして掲げるようになったのは、ある意味で六八年革命以降の世界の動きの中で、私と同じ世代が世界の学会でその中心を担うようになっていることと関係しています。その中には、同じような主張を展開するので、よく討論するようになって分かったのですが、第四インターナショナル系の運動に関係していた人物もいます。そうした人物は環境・資源問題を重視して
います。
 現在、日本では科学技術を導入して資本集約的な成長を図る路線、モデルが通じなくなっています。資本・自然環壊はあくまでも有限なのです。また、技術なども日本は、プルトニウム利用の高速増殖炉だけでなく、核融合の分野でも突出しています。この分野でもアメリカは撤退の方向にあるのですが、日本は前述のように、科学技術の常識からすれば当然のリスクを無視あるいは軽視して、甘い
ところだけに着目しています。そのうえどのくらい開発費や建設費がかかるのか、どんな危険が予測されるのか、こうした面が分からないのですから、大変なリスクを背負っているわけです。
 日本の政府あるいは支配階級の環境政策を見てみますと、資源小国論を基礎として情報がコントロールされ非公開であるし、トップダウン方式によるので直接の利害関係がある住民の意思が反映されないという特徴があります。十九世紀モデルとは違う新しいモデルを考えなければならないのに、こうした政策ではまったくダメです。この意味で日本の環境・資源政策は、欧米のいかなる国家よりも
極めて遅れた段階にあります。
 また資本主義のレベルからいっても遅れています。企業などの環境・資源問題に対する取り組みも、日本はヨーロッパに比較して大きく遅れています。ヨーロッパでは環境革命という言葉さえ登場しています。そして環境・資源問題に力を入れない企業は、ヨーロッパでは反人類的な存在とみなされ、消費者から相手にされなくなります。こうした企業は生き延びていくことさえ困難になっています。
 こうした状況にあっては、ヨーロッパが追求している「環境資本主義の要求」をとりあえず支配的な政治経済システムに対して提出していく道があり得るかもしれません。しかし、われわれとしては、ヨーロッパの環境資本主義の要求−例えば企業、資本に対してゴミ問題や産業廃棄物、環境問題に責任をもって取り組めという要求−をすべて盛り込んだ新しい社会主義の綱領を追求すべきです。
 なぜなら、資本主義を前提とした環境資本主義で絶対に解決できないと考えられる問題が存在するからです。地球環境問題と関係した資源問題がそうです。特に、石油、石炭などの化石燃料は、今のままではこれから半世紀ももたないだろうと予測されています。ここで、例えば化石燃料問題のみならず、環境問題でもマイナスの作用をもつ自動車を中心とする交通政策を長期的な展望の中でどのよ
うに位置づけていくのかという問題があります。
 社会主義というと全体主義的な「国有化」をイメージする人が多いのですが、この社会主義像は一九三〇年代にスターリンが進めた重工業化と農業の集団化という「国家社会主義」に近い国有化から生まれているのですが、こうしたイメージは古典的なマルクス主義とは無縁なものです。また、トロッキーもスターリンによる農業集団化や国家社会主義モデルに対してはっきりと否定的な政策を打ち出
したことを省みなければならないと思います。
 社会主義の特徴の一つに、経済に対する大衆の下からの要求が反映されるという 民主主義的な側面があります。民主主義的な社会主義的要求を盛り込んだ新しい経済政策を打ち出していく必要があります。これから半世紀後の一定程度の文明・文化をもつ政治・経済体制を展望できなくなるような、資源・環境をめぐる状況が訪れているのですから、この意味で企業に資源・環境問題を考えていくように要求するだけでなく、抜本的に解決していく方向をどうしても追求しなくてはならないのです。
 多くの労働者が資本主義の側に取り込まれている状況にあって、資源・環境上の犠牲を負わせられる地域住民、一定の政治意識をもった市民、反資本主義の意識をもつ労働者が結合した運動を形成していかなくてはならないと思います。労働者の側についていえば、労働組合の枠にとどまらない、社会主義の(これはブルジョア民主主義を超えた真の民主主義を当然にも内包していると私は考えていますが)反帝国主義的な運動の活性化を図り、市民、住民の運動と連帯していく運動形態ができていく必要を示しています。
 あるいは社会主義の綱領的な宣伝ということでも、環境・資源をめぐる要求と結合した社会主義、反戦・反帝国主義の綱領の再建が不可欠です。いまだ十分に深められているとはいえませんが、六八年以降の新しい資本主議論に裏打ちされた新しい社会主義像を形成していかなくてはならないのです。
 こうした問題意識の上にある環境社会主義を運動として具体化して作業が求められていると考えます。
 沖縄と巻町の大衆闘争が突きつけた問題は、以上の意味でマルクス主義と社会主義像の再建を考えていくうえで極めて本質的であったのだと思います。
 (一九九七年一月四日談)

神谷 哲治さん
キューバ訪問記 インタビュー


                       のびやかな生活に
                革命の現在を知る

第一印象 暗い街と
のびやかな人々

−キューバに行くこと自体が難しく、大変だと思っていますが、それについては最後に話していただくとして、キューバの第一印象から聞かせて下さい。
 その前に断わっておきたいのですが、私はキューバで話されているスペイン語は全く話せず、また、キューバ革命についても詳しくないので、以下の話が印象あるいは感じの水準だということです.また、二日前に帰ってきたばかりなので、感じも深められていません。もう一つ、現地ではキューバはクーバ、首都のハバナはアバナと発音されており、日本のマスコミは現地音採用を基本としながら、ここでは、その原則が無視されていますが、私の話も慣例にそっていきます。
 メキシコシティを現地時間で午後二時に出発して、ハバナに午後七時頃に到着したのですが、第一印象は明りがきわめて少ないな、暗いな、ということでした。おそらく燃料問題が関係しているのでしょう。私たちが宿泊したのはハバナ・ビエハと呼ばれる旧市街、つまりスペイン植民時代からの街にあるホテルでした。
 この街全体も暗い感じがしました。特に一階の部分が非常に暗いのです。しかも旧市街ということで、道路も狭く、何か危険な場所にきたような気さえしました。だから、燃料問題だけでなく、旧市街地そのものに、そんな特徴があるのではないかと思います。
 翌朝、付近を歩いて回ったのですが、旧市街というだけあって、確かに街全体が旧く、全体が老朽化している印象を受けました。実際に旧くなった建物を、その特徴を生かしつつ再生する工事があちこちで行われていましたが、キューバの状況としては「しんどいのかな」との印象が避けられませんでした。人々は、植民地時代に金持ちのものだった、こうした建物を利用して生活をしているのです。
 ところが歩いているうちに印象が少し違ってきました。行き交う人々の雰囲気、彼らから受ける印象は、非常にのびのび、のびやかなものでした。ガイドブックなんかには、自由化以降、外国人観光客にドルをせびるキューバ人が多いから気をつけろ、と書いてあるんですが、確かに声はかかります。だが、強引ではないし、つきまとうこともありません。危ない、危険という印象は人との関係ではありませんでした。
 行く前から治安状態はいいと思っていましたし、そういう情報でしたが、実際、その通りで、しかも規制や統制で抑えられているのではないのに、いいと感じました。むしろロサンジェルス空港の方が怖く、緊張しました。

革命博物館を訪問

−ハバナではどんな場所に行ったのですか。
 ハバナでは、少なくとも革命博物館と、美術館を兼ねた国立博物館を見たいと思っていたんですが、後者は改装中か何かで閉館していて、とても残念に思いました。
 革命博物館は、キューバ革命の経過を展示しているのです。カストロらの革命を展示しているんだと思っていたのですが、一番最初に展示されていたのは、スペイン人に絶滅させられたキューバ先住民に関するものでした。これには感心しました。
 スペインからの解放闘争から始まって解放闘争の歴史が非常に長いこと、そして現在の革命指導部が自らの革命をその一部と考えていることを表現しているのだと思いました。
 キューバは、人種的には基本的にアフリカ系とヨーロッパ系の二つがあり、それらが混合してきたのですが、長い解放闘争を示す絵や写真などで、この二つの人種的な流れが一緒になって闘っていたことが示されていました。
革命博物館にはいろんな展示があります。強い印象を受けた展示だけを説明すると、まずホセ・マルチィ(一八五三−九五、作家・愛国者で解放闘争の英雄)の本がカストロよりも多かったことがあります。
 また一九六一年に反革命を撃退するのですが、そのことがキューバ革命にとって非常に重要な位置を占めているかをはっきりと示すような展示が行われていました。
 さらに国際主義の現れとしてキューバはアフリカに派兵したことがあるんですが、南西アフリカの大きな慎型をつくり、どこに派兵をし、どこでどのような戦闘が行われたのかが詳細に展示されていました。全般的に軍事作戦の解説は詳細にわたっており、それぞれの戦闘が詳しく分析されていました。
 またキューバの国際支援のコーナーがあって、そこに飾られている唯一の外国新聞はアメリカSWPのミリタントでした。トロツキー博物館で彼がミリタントを読んでいる写真を見たばかりだったので、複雑な思いがしました。
 なお本館とは別の建物に、カストロらが使った本物のグランマ号や革命の装甲車などが展示されています。

ゆとりある生活態度

−キューバ社会の状況をどう思ったか聞かせて下さい。
 私たちが訪ねたのは、ハバナとキューバ第二の都市サンティアゴ・デ・クーバ(カストロらが最初に攻撃をしたモンカダ兵営があるところ)だけですので、ハバナから受けた印象を説明します。
 まず二つのことを説明しておきます。一つは、一番最初に触れた言葉についてですが、スペイン語以外ははとんど通じないのです。人々は、テレビでアメリカの番組がどんどん放送されているのに、いくつかの単語や数センテンスの英語を解するだけ。これは、ホテルやタクシーなど観光客と煩雑に接する機会があり、外国語による一定程度の会話力が必要と思われる職種の人々も同じです。
 もう一つは、通貨で、キューバ政府は通貨の交換を禁止しており、ドルが使えるのはホテル、ドルショップなど限られており、パスゃ普通の食堂など多くの場所ではキューバ通貨のペソしか通用しません。
 しかしスターリニスト社会主義国家につきものだった、管理・統制のイメージはまったくありません。国内の移動は完全に自由です。
 ハバナは、基本的にハバナ・べタード(新市街、政府機関や大学などがある)とハバナ・ピエハ(旧)に分かれており、主として旧市街を歩き回りました。建物の様子は先ほど説明しました。
 それとは正反対なのが人々の服装です。服装は千差万別、自由闊達そのもので、おしゃれという感じを受けました。ヨーロッパ系の人が圧倒的に多数を占める観光客と区別がつきません。車はぼんぼん走っています。商店に商品がたくさんあるわけではないのですが、しかし、生活がかつかつであるとか、窮迫しているという印象はなく、むしろ私たちとは違う生活上のゆとりを感じました。国営商店でパンを売っていたのですが、行列はなく、一時日本のマスコミがキューバの生活の苦しさを喧伝していましたが、そんな状況はありません。
 ただ数十人規模の行列がある商店を見かけました。それは、衣料品や靴を扱っていて、キューバの人々のおしゃれさ、こうした品物への強い愛着の表れだと思います。つまり私たちとは違う、生括の楽しみ方を知っているという強い印象をもちました。
 この印象を強めた一つの例に、みやげ物の販売店があります。そんな店に私たちが行くと、東洋人の観光客は少ないのですから、すぐに観光客と分かり、パキスタンや台湾、中国などで、そんな経験をしていたので、当然しつこく迫ってくると思っていたのです。
 ところが売ることに熱意がないという感じです。また値段の駆け引きということもなく、値段は自分がつけたものを変更することもありません。商品経済の浸透程度は分かりませんが、商業に慣れていないというよりも、むしろ「国民性」なのではないかと思います。

芸術を愛する人々

 もう一つ気づかされたのは、音楽や絵などの美術が人々の生活に入り込んでいることです。
 街中にギャラリーへ画廊)が非常にたくさんあります。どう見ても観光客向けだけではないのです。絵がたくさん売られています。しかも、いろんな傾向のものがあります。こうした事実と関係しているのかもしれませんが、時折見かけるスローガンにも見事なものがありました。旗や横断幕に描かれたスローガンはなく、建物の塀や壁に描かれているのですが、全体のデザインや字体の面で非常に凝った、程度の高いものも相当見かけました。キューバの人々の高い芸術的な素地を感じました。
 音楽もそうです。街中に音楽がいっぱいあります。キューバはマンボをはじめ、レゲエなど音楽世界で一つの極となっており、そんな息吹きを感じます。ホテルでも、バーやレストランで生演奏をしています。演奏の水準に高いものを感じました。またサンティアゴ・デ・クーバで実際に体験したのですが、ホテル脇の公園に日曜の夜七時頃に人々が集まり、そこで市民楽団によると思われる演奏会が行われていまレた。人々は音楽を聴いたり、ダンスをして九時頃まで楽しんでいました。
 芸術的なセンスの水準が一般的に高いことや、人々が日常生活の中で芸術を愛好していることがうかがわれます。音楽や美術を愛する人は一度はキューバを訪問した方がいいのではないかと考えました。

サンティアゴ・デ・クーバ

−キューバでもう一個所訪問した都市の印象を聞かじて下さい。
キューバに行く前にこの都市を訪問する計画を立てていたのは、これがキューハ第二の都市ということだけでなく、一九五三年七月二十六日にカストロらが最初に攻撃を加えたモンカダ兵営があるところだからです。この都市の近くにアメリカ畢のグアンタナモ基地があります。ハバナと同じく旧くからの港町です。
 モンカダ兵営は現在、その半分が革命博物館、残りが小学校になっています。写真を見てもらってもはっきりと分かりますが、建物の壁にはカストロらが攻撃した際の弾丸の痕が残っています。
 革命博物館の展示内容は基本的にハバナのそれと同じで、スペイン支配者に対する鮮敢闘争から始まっていますが、さすがにというか、兵営の立体模型があり、それを使って実際に展開された戦闘が説明されています。また、ここでも一九六一年の反革命攻撃を撃退したことがかなりのスペースを使って展示されています。
 おもしろかったのは、ソ連のロケットに乗ったキューバの宇笛飛行士の写真があります。そのそばにキューバとソ連の両方の国旗があるんですが、ソ連の国旗は世界で現存している唯一のものではないかと思って、つれあいに広げてもらって記念の写真をとりました。
 街の印象ですが、やはりハバナとは違って経済的な苦しさがはっきりと表れていました。乗合馬車が走っているのですが、観光客向けでなく、普通の人が乗っていますし、トラックがバスの代わりに走っていて、改造した荷台にたくさんの人が乗っていました。
 それからキューバ国旗と並んで7・26運動の旗が掲げられていました。この運動に対する人々の特別な思いを感じました。
 またキューバでは、新聞グランマ(キューバ共産党中央委員会機関紙)の売子が街中にいて、人々が結構グランマを読んでいますが、サンティアゴ・デ・クーバでは、新聞に行列ができており、一時間後に戻った時にはすでに売り切れていました。
 ついでに述べておくと、出版物は相当多様にあるようで、革命からある「ボヘミア」という雑誌もあります。中国語よる新聞など、多種多様なようです。

革命キューバの現状

−革命キューバの現状、あるいはその将来について感じたこと、思ったことを聞かせて下さい。
 キューバに関する情報は非常に少ないので、行く前は、相当にしんどい経済、社会状態ではないかと思っていました。キューバに行く気になったのも、私たちが訪問してわずかでもドルを使えば、その分アメリカの対キューバ制裁への反対表明になるし、キューバ支援に頁献できるのではと考えたことがあるのですが、
実際に苦しい状態があったとしたなら、相当に立ち直ったのだな、というのが第一の感想です。
 アメリカとの関係ですが、昨年アメリカはより厳しい対キューバ制裁法を新しく制定しました。そいう前提でみると、例えば空港のセキュリティチェックがその典型ですが、非常にずさんというか甘い。パキスタンなんかでは、軍が非常に厳しいチェックをしています。ことに国際空港は国境線ですから、パキスタンの方がむしろ当然といえるのですが、キューバでは警察がおざなりな警備をしているだけで]線による荷物や身体の検査も少ない人数で適当にやっています。私の万が、対米措置として、これでいいのかと心配したくらいです。
 こんな状況と人々の態度から判断すると、アメリカの側が手を出せない状況、あるいはそうしたアメリカの認識があるのだと考えられます。
 その理由の一つは、アメリカの新しい制裁法をヨーロッパやラテンアメリカの諸国が無視している事実があります。これと関連しているのかもしれないのですが、ヨーロッパ、特に北側からは大量の観光客が訪れています。直通便(チャーター機)もあり、キューバ料理専門店やみやげもの店で大量のヨーロッパからの観光客を見ました。
 それ以上に重要なのは、現在の革命指導部と人々のの関係です。フィデル・カストロ、チェ・ゲバラを私たちは通常、カストロ、ゲバラと呼びますが、キューバではおそらく親愛の気持ちからだと思いますが、フィデル、チェと呼んでいます。また労働者国家ではうるさいくらい存在する指導者の大きな像や写真はなく、あるとするとゲバラやホセ・マルティなどのすでに亡くなった革命、解放闘争の戦士のものです。個人崇拝が存在せず、むしろ指導部の側の強い自制の気持ちを感じました。

トロッキー博物館へ

−トロッキー博物館へ行つたそうですが、その経緯や感想を話して下さい。
 キューバに行く途中のメキシコシティで飛行機の待ち時間があって、ガイドブックなどを見ると短時間で行けそうなので、タクシーで行きました。運転手が場所を知らなかったので、案内書にある電話番号に電話をしてもらい、近くまで行き、付近の人に聞きました。
彼らはよく知っています。三〇ないし四〇分で行ける近さです。
 トロッキーの孫が来日した時に説明していたように、現在は完全に「トロッキー博物館」になっています。
建物全体だけでなく各所から要塞であるという感じを受けます。例えば、寝室のドアは鉄製です。また、ベッドには銃痕がありました。
 おそらく第四インターナショナル・メキシコ支部の関係者じゃないかと思うんですが、案内人が自分がトロッキストだというので、私もトロッキーの顔が掲載されている日本の出版物を示し、自分もトロッキストだと名乗ったところ、親切に案内してくれました。普通は中には入れない食堂の椅子に座った写真をとることができました。
 トロッキーの墓には驚きました。墓ということで下の方、地面を見つめて探したのですが簡単に見つからず、分かった時に、その大きさに驚いたのです。高さはおよそ二メートル以上、幅も一メートル以上あります。写真では分からない大きさです。

キューバに行くには

−最後に、どんな方法でキューバに行ったのか、時間や経費なども教えて下さい。
 まず時間ですが、キューバヘの往復に日本からでは五日間かかると考えて下さい。それを前捏にキューバでの滞在予定日数を加えると、必要な持間が割り出せます。キューバへの直行便があれば、もっと簡単になるのでしょうが。
 日本を出発してまずロサンジェルスに行き、そこから別の便でメキシコシティに飛びます。そこでまた乗り換えをしてハバナに到着することになります。往復の航空費用は、高いのかどうか判断つきませんが、約十七万円です。
 キューバは、三十日程度以内の滞在であれば、ピザなしで入国できます。ただしキューバ大使鯛が発行す
るツーリストカードが必要で、それを発行してもらうためにはキューバ国内での滞在先を明確にしなければなりません。スペイン語ができて国際電話や国際FAXに慣れているなら、個人でもホテルの予約などとしてツーリストカード発行の条件を満たせると思います。
 私たちは、日本の旅行社にやってもらいました。メキシコで同じ便で行く中年の夫婦に聞いたところ、メキシコに来てからキューバに行くことを思いついたのだが、必要な手続きは極めて簡単だったと説明していました。