1997年4月10日         労働者の力                第88号
沖縄の願いを拒絶 特措法改悪を強行

沖縄と本土を結ぶ新たな連帯の輪を

                                    川端康夫

 沖縄問題をめぐる橋本内閣の「四月危機説」は、新たな「保保連合」への道を開くことへと集約されつつある。橋本と小沢のトップ会談の合意によって、米軍用地収用特別措置法の改悪は、衆参両院ともに圧倒的な多数で通過することとなったが、その結果は自社さブロックから保保連合ブロックへの移行を示唆したからである。特措法の改悪は、日米安保体制護持という大義名分のもとに、民主党を含んだ「与党指向」の諸政党の支持を得た。沖縄県民の米軍用地に対する、あらゆる申し立てや異議の意思をすべて無効化する強権的行政対応を実現する法改悪に対して、これらの諸政党は積極的な支持を与えた。社民党、共産党、新社会党の勢力だけが反対を表明しただけである。

 沖縄と本土の断絶のさらなる拡大
 
 四月三日、橋本内閣は、前日の橋本・小沢合意をうけ、特措法改悪の閣議決定をおこなった。翌四日に衆院に上程された改悪案は、衆参両院をそれぞれ一週間で通過し、四月十八日に成立するものとなった。衆院九〇%、参院八〇%の議員が法案支持に回ったのである。自民、新進、太陽という保守勢力はもちろんとして、第三極論の政党であるはずの民主党が、積極支持に転じたことの影響が大きかった。ぐらついていた社民党が反対の意向を固めることと反比例して、民主党は保保連合化に割り込みをかけるという名分のみで、この党の建前としては異例な「討議拘束」でもって橋本内閣への接近をはかったのである。
 こうして、特措法改悪は、橋本自らが「県民に対して残酷な法改正」と言明した内容でもって、かつ政治再編の数年間のバランスシートを端的に明らかにするものとして、本土=ヤマト側の沖縄に対する意思表示を鮮明化した。賛成に回った諸政党や諸議員が改悪案を深く検討した形跡はない。衆参両院での討議もまた、沖縄県民の意識に冷や水をかける新進党委員の発言こそあれ、委員会で緊迫したやりとりがなされたわけでもない。反対を「表明した」社民党もまた、党内の「与党指向者」たちの「憤懣」がくすぶりつづけ、「造反議員」の存在をあらかじめ容認する対応におわり、対外的に突出したイニシアティブを発揮する以前の状況で推移した。全面反対を貫徹したのは共産党、そして参院での新社会党、沖縄社会大衆党、二院クラブである。本会議は記名投票ではなく、起立採決され、個々の議員の対応は、あいまい、アバウトなものとなった。新進党の沖縄選出議員二名、民主党内部の反対派「造反議員」、社民党内の賛成派「造反議員」、それぞれは大勢のうちのほんの一部の事情ということで処理され、不問化された。
 こうして、保保連合や与党指向、あるいは保保にくさびを打つ、または与党で生き残りをかける−−これらの対応が結果として圧倒的多数での法案通過を導いた姿こそ、現在の議会の、まさに「堕落した姿」を象徴した。もはや現議会の枠組みやそれらを構成する諸政党のほとんどは、沖縄県民をひきつける何物かを積極的に保持することはありえないであろう。
 沖縄とヤマトの関係は、この、あらたな「沖縄処分」によって、一段と断絶を深めることになった。沖縄は国家の「三権」によって、真っ向から拒否されたのである。
 四月十七日の大量上京を決定した沖縄違憲共闘、反戦地主会、一坪反戦地主会の心中には、本土議会への請願の意思はなかった。上京団は、本土=ヤマトに対する、沖縄側の意思の通告のために行動にでたのである。ヤマトがいかに決めようとも、沖縄の意思は変わらない、と。独自の自治体外交、独自の経済圏への指向、独自の政治構造の構築−−沖縄は、復帰後四半世紀をへた今日、あらためて、本土=ヤマトとの関係をいかに設定するかという、避けられない段階に入った。
 半年前の八月末に最高裁判決がだされ、そして今回、本土=ヤマトは、国家の三権の残りの二つである内閣と国会の双方において、日本国家のために沖縄を犠牲にするという宣告を行った。憲法に記された国家の三権がすべて、沖縄民衆の思いと要求を拒否した。そのうえさらに、抵抗の余地のない強制土地収用を押しつけることで、さらなる犠牲の永久化の道を強要したのである。
それぞれの政治利害で法案支持を決めた諸政党の責務は重い。さまざまな理由を付与しようとも、これらの政党が本土=ヤマトの利害の観点からすべて対応したこと、自らの利害で、沖縄を犠牲にしたことを、忘れ去ることは許されない。
 本土民衆にとってもまた、問題は、深く、重い。自らの意思とはかかわりなく、国会が、諸政党が、勝手に決めたことだという論理で、この新たな沖縄処分との関わりを回避することもできないのである。沖縄が自立的に、独自的に、自らのかかえる問題の処理方策を発展させるであろう。そのことの帰結がいかなるものであれ、本土=ヤマトは自らの行動の招いたものとして理解しなければならない。
 
特措法改悪法の重大性−−永久使用化の強行

 付則にほんのわずか書き加えるだけの、最小限度のものだ、という政府筋の前宣伝は、いざそれが文章として出されたときに、全くの欺瞞であることが明らかになった。別表が示すように、強制収用の行政上の手続きのいっさいが、建設大臣の恣意のもとに左右され、収用委員会の役割は文字通り形式上のものとされた。強制使用の永久化を保証する行政手続きへの変更なのである。地権者は、「暫定使用」の名の下に、永遠に自らの土地が強制使用されることへの対抗手段が、事実上、封じられる。すなわち、収用委員会における公開審理において、地権者が収用の不当性を立証し、そこに収用却下の裁定が出されたケースを想定して、改悪法はその場合にも暫定使用が可能であることを明文化し、その決定権を建設大臣に与えている。こうした二重の措置によって、時の収用請求者=国は、その請求権と同時に決定権も事実上掌握する。そして、暫定使用の期限定めはなく、地権者の不服審理を受け付けた建設大臣が判断を下す期限の定めもない。建設大臣の下級機関である収用委員会は、いったん建設大臣が収用委員会裁定を却下した際は、同じ理由での再却下ができない。
 以上の簡単な素描からも十分に明らかだろう。政府は行政手続きとして、「暫定使用」を永久化できるのだ。
 これは、小沢が要求し、橋本も事実上認めた、国家の専権事項としての軍用地強制収用の明らかな先取りであり、当面の暫定的な対処法案というものでは決してない。政府は時限立法を拒否し、かつ沖縄だけに適用されるものでもないと主張する。そこには、沖縄だけへの適用が憲法に明文化されている「一定の地域だけに関わる法案は、当該住民の投票による意思確認が必要だ」という条項への抵触を避けるためであると同時に、軍事や外交などに関する国家の専権を確保するという、小沢理論レベルを先取りして実現するという発想に具体的に接近したものといわなければならない。つまり、小沢路線的な「国家原理主義」という危うい道をとらざるとも、実質的効用は確保される−−これが橋本と梶山の回答であった。
 小沢は自らの建前が実質上は確保されている事実を示されて、歩み寄ったのである。
 しかも、以上を規定している条項が、「付則」であることの問題がある。本文ではなく「行政的手続き」を定めた付則への追加という形をとったことは、法文条項に手をふれていないということをもって、その法令そのものを相手取って問題化する道を、著しく狭めた。行政訴訟は定められた手続きが、正当に実施されたか否かを問うものでしかなく、法文条項そのものを対象にはしない。「行政手続き」に明確な違反がない場合、その齟齬を問うのは至難の業だ。現に、地権者は前回の収用委員会の強引な審理打ち切りと収用決定への異議申し立て(不服審査)を建設大臣に請求して、以来五年が経過したが、建設大臣がその請求に対してなんらかの対応をとった形跡は皆無なのだ。役所のなかでたらい回しにされているだけに過ぎないのである。
 では裁判所の判断を仰ぐことどうか。
 一般論としても、行政手続きの是非を問うことは、あつい行政の壁に阻まれる。そして今回の改悪には、行政の対応について、いっさいの期限がつけられていない。そして、特措法そのものの違憲判断の問題もまた極度に困難な道である。
 私権、私有財産権の保証はブルジョア法体系の核心を構成するものであるが、それに関して地権者の権利をこれほどまでに制限する−−実質上否定する条項をもぐりこませることは、おそらくは違憲である。だが日本の戦後法制上、憲法判断は二重的価値体系でなされてきていることをあらためて指摘することもないのだが、日米安保体制は現行憲法体系からは手をふれることのできないものという憲法判断が最高裁によって積み重ねられてきている。いわゆる伊達判決を振り返るまでもなく、最高裁は「高度の政治判断」という理由、「条約締結優先論」などの立場で、くり返し、憲法体系の枠外に安保体制を優先させてきた。いいかえれば、判断を停止してきた。一般の憲法的常識はいわば超法規的に粉砕される−−これが安保体制を支える最高裁の立場の帰結である。
 こうして、特措法改悪の結果、この「残酷な法案」に対する沖縄県民の対抗手段はほとんどゼロに等しいものにされた。米軍用地の強制使用の永久化は「保証された」のである。

 暴露された健全野党、二大政党論の虚構

 議会の深い「堕落」は、明らかに、この数年の「政治再編劇」と「選挙法改悪」の相乗効果を直接的な契機にしている。より本質的にはソ連邦の崩壊が端的に示す、社会主義への幻滅と、それが導く社会運動の機軸の喪失が横たわる。
 安保体制容認への転換は、日本における主要な革新政党であった社会党とそのブロックが、抵抗力を失い、一八〇度の転換をもって、政権政党への道を「日米安保体制との親和」の地平に求めようとしたことにある。
 沖縄をめぐる社民党や一部民主党のぐらつきは、一つには、こうした大局での転換が、明確な政治的立場の確認なしにすすめられたこと、すなわち「与党化」や「現実政党化」というものが、自民や新進、太陽といった保守政党とどのような違いがあるのかを明らかにできてこなかったことの結果である。
 だがもう一つには、日米安保体制という政治・軍事構造とは別個の方向を、東アジアの現実とその将来を見通したものとして確立していくという決意を欠いていたことの結果、自らの政治的基盤、政治的感性と真っ向から対立する新路線−−安保体制容認−−に安易にすりより、まさに没主体的に「のみ込まれて」しまったのである。
 とりわけ民主党にかかわることとして、民主党というものが、いわば政治的野合というべきものであると同時に、北海道社民党がまるごと移行したことが示すように、旧社会党、ついで社民党の意識や支持層とは「断絶」して民主党となった結果、ただの混乱だけが派生し、醜悪な政権スリより技術と、これまた醜悪な修正案提出劇を演じる、ピエロ的存在に堕してしまった。
 こうした議会内政党のバランスシートが示したものは、つまるところ、「健全与党」も「健全野党」も「ゆ党」(や党・よ党の間)もない、ただの安保体制下の政権願望劇で右往左往しているだけの姿であった。社民党内部に政権離脱論が渦巻き、それが政権与党論派の党からの離脱の引き金になりかねず、その逆もまた真だという状況は、安保体制内部の反対派、あるいは安保体制内部の野党という概念が何一つ生まれていなく、具体化もしていないことを表現している。
 このことはすなわち、健全野党論−−体制内野党論、体制内批判勢力、政権交代可能な二大政党論などの根拠がいささかもないことを示す。日本の体制派勢力が基盤とする日米協力の枠組みにおいて、体制内批判派や健全野党、あるいは政権交代可能な二大政党論が仮に可能であるとするならば、それは対米関係においていかなる位置を表現するか、ということに関わる。しかし今回の一連の米軍基地問題において、あるいは「思いやり予算」などの関係からも明らかに、日米安保体制を規定する主たる要因が、もっぱらアメリカの都合、意向にかかっていることは事実である。現に、歴代の日本政府は、主体的な意向を表明してきたことはなかった、あるいは正確に言えば、意向を表明したように見せてもその実際は「核持ち込み」問題のように裏交渉、秘密協定によってアメリカの意向を受け入れてきた。そして「値切り」交渉の材料はもっぱら、反安保体制派の抵抗の大小を推し量って切り出されてきた。それが五五年体制下の自社対決、あるいはなれあいの構造であったにせよ、批判派、反対派は日米安保体制の枠外にある存在だった。
 九〇年代の政治再編劇は、以上の枠組みの構造的解体と安保体制論容認に主たる政治勢力を抱え込んでしまうことに主眼がおかれ、そしてそれは相当程度成功した。その枠内に移行する論拠に健全野党論や政権参加可能な政党への転換などが叫ばれた。細川から橋本に至る歴代の連立政権が成立する根拠は、これらの連立の枠組みが、すべて安保体制容認論の枠組み内の組み合わせであったことによって可能となったものだ。
 そしてその枠組み内の「健全」や「政権参画」などはしかし、アメリカの強大な圧力とその容認範囲の手の内でのニュアンスの違い以上に出ることはできない−−こうした事情が、沖縄基地問題を通じて明らかにされたのである。
 そうであるからこそ、自民と新進の違いが、アメリカの共和と民主との違い、すなわちアメリカのどの政党、勢力と結びつくかの違い、争いへと集約される。いわばアメリカ政治の日本支部的な様相を呈してきた事情も明らかとなる。小沢が共和党的なタカ派政治と結びつこうとしてきたことが最たるものだ。
 だが留意すべきは、共和党であれ、民主党であれ、これらの勢力は、アメリカ帝国主義という完全に自立し、独立して行動できる政治的存在を体現できることである。巨大なナンバーワン帝国主義の利益という大枠組の実現の仕方、遂行の有りようにおいて、相互の違いがあれ、基本的立脚点は同じである。では日本においてはどうか−−日米安保堅持という大枠組を立脚点にして始まらざるをえない政治的争いは、純粋な、日本の国家の主体的利害の観点からの行動とはなりえない。まさに「ノーといえない日本」にほかならない。アメリカにとっていかに役立つか−−それを売り込み材料にして日本政界の主流へとのし上がろうとする。これが小沢がもっとも良く示してきたパターンである。
 したがって、日本政治における「まっとうな」「健全な」批判派とは、日米安保体制の枠組みの外部、あるいはその枠組みに縛られない存在である必要がある。そして、政権交代可能論とは実は、この日米安保護持論かそうではないのかの間の、「交代」でしかありえない−−この間の政権交代可能論は、五五年体制の時代においては考えられることではなかった。その時代においてありえるとすれば、論理的には、それは政権交代ではなく、体制の「交代」すなわち社会主義か否かの「対決の時代」であった。もちろんこのことはあくまでも「論理として」であって、社会党がその現実的実現を志向してきたというのではない。
 現段階においても、日米安保の枠組みの内外での政権交代という概念は、依然として体制転換的ニュアンスを伴うがゆえに、政権交代論としては、きわどい感を与える。それゆえであろうが、論理として掘り下げられ、検討されているということもない。正確には問題の所在さえもが検討もされていないというべきだ。
 しかし、おそらく将来においては、このような枠組みの論理が必然的に台頭するであろう。なぜなら、日米安保体制が、東アジアにおける中国の存在を意識した体制へと明確に転化していく以上は、日本は東アジアにおいて、対中の軍事的プレゼンスの一翼を担い続ける運命をもつ。そして沖縄は対中国の最大かつ最適の軍事拠点とされる地理環境にある。
 沖縄からの基地の撤去は、いまさらいうまでもなく、対中関係、東アジア政治の関係における、共通の平和的枠組みの創出の方向性以外にはありえない。そのうえで、日米安保関係が、両国の経済的関係をも制御する枠組みであるという現在の意図的に作られ、操作されている「意識」の打破ということと結びついて、ここにはじめて、日米安保体制の枠組みの外部に、「政権を目指す」政党の可能性が形成されてくる。
もちろん「政権を目指す」ということは、また新たな論点を提供することでもあるが、だが、新たな「健全な政党」を日米安保体制の枠組みの外部に形成するという問題群の台頭は不可避である。
 沖縄特措法問題における社民党と民主党の行き方のバランスシートはこのような問題を提起した。

運動のバランスシート

 日米安保体制は、純粋の日米間の「安全保障」協定というものであったことはなく、極東アジア、東アジア、そしていまでは公然と中東にまで広がるアメリカの戦力展開の拠点を日本が提供するというための協定である。在日米軍基地は、文面上は「日本防衛のため」と記されているかもしれないが、実際は極東アジアにおける最大の出撃基地である。そして沖縄返還において、在沖縄米軍はいささかも返還前の性格を変えることなく持続した。日本政府は、本土における米軍基地を、安保条約の文面にいくらかあわせる形で縮小し、それをむき出しの米極東軍駐留地である沖縄へと移動した。
 その移動に必要な地域が「銃剣とブルドーザー」によって、強制的に、問答無用で収用された−−これが在沖縄米軍用地の一挙的拡大の背景である。
 県道一〇四号線越え実弾演習の本土移設の候補地は、すべて、沖縄に移設された旧進駐軍・駐留軍の実弾演習場である。いいかえれば、本土移設は「昔に戻す」ことに他ならない。ここに新崎盛暉教授の「在沖米軍基地を本土で受け入れよ」という逆説的な、鋭い批判が出てくる背景がある。
 実弾演習地の本土への移設反対運動と在沖米軍基地の縮小・撤去とを同時に課題とした過去一年半の運動は、結果としてその双方において成功するには至らない様相となっている。その双方を結ぶ切り札として出された「海兵隊撤去」を、国会の総体の枠組みとして拒否した以上、小沢は沖縄基地の本土への移設のさらなる全面化を、論理として推進することに帰結する。特措法改悪賛成派の総体としてもまた、これ以上の犠牲を沖縄に押しつけることのシンボルとなる、移設反対論を展開することはできまい。
 いわば、「沖縄の痛みを日本全体で分かち合おう」という論理が台頭することになるに違いない。これはまさに移設当地で反対運動を展開する現地住民への新たな圧力となるのである。いわば、「一国平和主義」批判があったと同様な、「一地域平和主義」批判が展開されてくることとなる。
 沖縄に対して、衆院の九〇%、参院の八〇%が犠牲を甘受せよと宣告した、それと同じ構造が移設当地の現地住民にのしかかってくるのである。現地住民の反対運動の主体は、沖縄の基地縮小・撤去を推進している人々と、あらためて、共通の土俵と目標とを築くことを求められる。以前の時期、本土の反安保・反基地闘争は、沖縄に基地を集約するという日米両国政府の策謀を許してしまったという傷をもった。だが、今日以降はその歴史を繰り返すことはできない。沖縄の犠牲による本土の平和主義はもはやありえないのである。
 昨年春以降、沖縄と本土を結ぶ運動の輪は少しづつとはいえ着実に拡大してきた。沖縄社会大衆党の本土への働きかけ、沖縄違憲共闘の本土への「上陸」−−これらにはじまる沖縄−−本土の連帯運動は、明らかに「沖縄発」として、崩壊した本土の革新運動の再構築の契機を生み出すことをも意味した。
 沖縄百万人署名運動のみが持続的運動の構造を担ったに過ぎないという事実をどう評価するか、難しい。民主党や、欲をいえば公明党まで巻き込んだ、沖縄連帯の政治的ブロックを形成するまでには至らなかった。他方、しかしながら百万人運動がなければ、社民党の反対姿勢の貫徹もなかったであろう。百万人運動が力不足であったという評価は当然あるであろう。しかし同時に、百万人署名運動以外に継続的、運動的キャンペーンが存在しなかったことも事実なのである。
 百万人署名運動は、一方では、旧来の社共関係や市民運動の相互のしがらみを越えた運動を展開できなかった。他方では、沖縄違憲共闘、反戦地主会、一坪反戦地主会に対応する本土側運動が未成立のなかで、懸命に本土側の対応の拡大強化に努力したことは正当に評価されていい。
 今日以降、百万人署名運動がめざし、努力した地平は、あらたに拡大した特措法改悪反対の陣営全体を通じた共通の運動へと高められなければならない。衆参両院の審議期間を通じて、社会大衆党(島袋議員)と社民党(照屋議員)、共産党(古堅議員)の三党の沖縄選出議員の呼びかけによる院内議員集会が開催され、また三議員の発起による街頭宣伝も行われた。そして連日のように展開された、百万人署名運動、それを引き継ぐ沖縄緊急行動による議面集会、請願行動には社民党と新社会党、社会大衆党の議員が請願受け入れにたった。
 また四月六日の沖縄緊急行動の東京集会には、古堅実吉議員があいさつにたった。さらに四月十七日の違憲共闘、反戦地主会、一坪反戦地主会の東京行動には、昨年同様、全労協、全労連が共同の集会を構成する。
 あらたな沖縄と本土を結ぶ連帯の輪は、再度、再々度の沖縄処分、琉球処分にと闘い、その規定要因となっている日米安保体制に真っ向から風穴をあける全国的運動として作り出されなければならない。
 沖縄県民の闘いは、特措法改悪でしぼみはしない。沖縄県収用委員会は自らの存在を事実上否定されたことに対する、何らかの意思表示を、行動として起こしていくことになるであろう。反戦地主の運動はいまあらためて多数の地権者の意識を覚醒させはじめた。新たな闘いは、具体的に五月十四日からはじまる。

     (四月十五日) 
ユーゴスラビア
                ミロセビッチの計略
                                 カトリーヌ・サマリー
 セルビア社会党(旧共産党)は、一九九〇年に共産主義者同盟が解散して以来、ずっと政権を掌握してきた。選挙法とメディアの操作が、この党が一貫して政権党だった理由の一部である。

ミロセビッチの位置


 セルビア人は、国際状況を「反ユーゴスラビア」「反セルビア」の共謀が渦巻いているものと認識しており、この中でユーゴスラビア連邦共和国大統領のミロセビッチこそが彼らの利益を最高に擁護してくれるのだと考えている。ユーゴスラビアの危機は、人々の心と行いにおいて一つのシステムから別のシステムへの「移行」のメカニックと分かちがたく結びついている。結局、領土と財産をめぐる戦争が、民族境界の再確定の名で遂行された。
 中欧と東欧で進行中の社会経済的な転換過程は、セルビアではその速度を落としている。その理由の一部は、国連が同国に対して行った経済制裁であり、また、ユーゴスラビア政権が転換を遅くするよう意識的に選択したことにもある。
 在庫を調査し、それを変えるべき瞬間が急速に近づいている。すべてのセルビア人を結集した国家というかつての公約と、実際に展開された政治との間には非常に大きな落差がある。数十万の不満を抱いたセルビア人難民と惨めな状態にある本国セルビア人は、ある種の人々が戦争で利益を得て豊かになるという極めて不愉快な状況を見せつけられてきた。
 セルビア政権は消耗してはいない。ミロセビッチはかなりの政治的な理解力があり、そのため一定の計略を実行する余地を有している。その理由の一部として、野党勢力が不均質であり、しかもあまり魅力的ではない提案を行っている事実がある。
 こうした現実こそが、一九九六年十一月初めに行われた選挙で、国レベルと地方レベルで結果がまったく相反した事実を説明できるのである。

地方自治体選挙問題

 政権党の社会党と、セルビア政府で社会党と連合を組むユーゴスラビア統一左翼党は、ユーゴスラビア連邦(これを構成するのはセルビア共和国とモンテネグロだけ)議会の三分の二の議席を獲得した。中道右派の野党連合ザエドノは、彼らが予想していたよりもはるかに少ない得票だった。だが驚くべきことに、数日後の地方自治体選挙の結果では、ザエドノがセルビアと連邦の首都であるベオグラードを初めとする十五の自治体で勝利を収めたのである。
 社会党政権が地方自治体選挙での野党勝利を無効にしたため、連日数十万人規模のデモが行われるようになった。不均一な群衆が、投票結果を初めとする法律を遵守する国家を、という要求の一点で団結した。学生は、毎日のようにデモを行って自らの力を示すとともに、自由民主党や民族主義者、王政派潮流(これを東方正教会が支持している。この教会は国政に好んで関与する)極右などを含む野党勢力から距離を置くほどには賢明だった。
 確かに学生たちは、セルビア民族主義勢力とは距離を置いたが、セルビアの歴史というものに直面し理解する力量はなかった。彼らが「政治に無関係」なデモを選択した事実は、彼らのそうした弱さを示している。だが、この弱さも、短期的には偉大な力となりうる。
 結局、自主組織の結成とその承認のための闘いと、民主主義を実現する闘いが、当面の中心課題になった。この闘いこそが、人々の大量動員を促し実現したのであった。そして、この闘いこそが、勝利を可能にするものであった。
 信頼に値する新しい左翼勢力の出現に関しては、セルビアでは、その他のどこよりも困難であった。政権党グループは明白な危機を迎えていたが、この事実がすべての「左翼」潮流――スターリニスト、社民的なネオ共産主義者、新旧の官僚層、新議会左翼――に影響を及ぼした。もちろん、社会党とその連合政党が権力を失ったなら、この分化はもっと加速されたであろう。

気のきいた有権者

 人々は、こうした測りがたい状況の中で、いかなる政治勢力も直面したことのないような強い願望を投票として表明した。連邦レベルの選挙では、国内及び対外的な安定を求めて投票した。地方自治体レベルの投票では、現職の腐敗に反対を表明した。
 都市部と農村部では、投票行為に違いがみられた。都市部の貧困化した中間階層は野党に投票したが、しかし政権の主たる基盤は農村部と、国営企業のブルーカラー労働者にあった。多くの農民や労働者は、わずかな土地で野菜を栽培しているが、彼らの心配は、社会保障制度によるわずかな恩典を失ったり、あるいは公認労組が供給している商品やサービスを失うことだった。その結果、野党(また、民営化をも)を支持していたそれぞれの独立労組は、分断され、それぞれの役割が小さくなった。独立労組は、野党のデモに参加するように訴えたが、聞き入れられなかった。
 リベラル派の野党は、国際通貨基金(IMF)によるセルビア経済改革の考え方を受け入れた。そのため、実際には政権党に現在の社会経済的な混乱(国民の六〇%以上が貧困線以下の生活を送っている)の責任があるのに、多くのセルビア人にとっては「なじみの悪」の方が野党よりも利益を守ってくれるように思われた。
 多くのセルビア人は、デイトン協定を締結したミロセビッチを信用している。つまり彼が、ボスニア・ヘルツェゴビナの戦争を終わらせ、セルビア・モンテネグロに対する経済制裁を止めさせたというわけである。
 野党連合のザエドノに関していえば、その指導者は、公衆の前にボスニア・セルビアの超民族主義者の指導者、ラドバン・カラジッチと連れだって登場した。ボスニア・セルビアのSDSは、セルビア共和国のミロセビッチに対する野党をはっきりと支持している。

状況順応型の政治家

 スロボダン・ミロセビッチはプラグマティストであり、一度に多数の弦を引くことができる。一九八〇年代後半、その後に王政派に転じた民族主義野党よりも人々を安心させる人物として登場し、権力の座への上昇を開始した。ミロセビッチは、最初の一段として腐敗した党・国家機構のパージを行った。彼は、親ユーゴスラビアの立場ではあったが、セルビア多数派にとって利益になる方向での連邦の再確定について語ることはなかった。
 スロベニアとクロアチアが一九九一年に独立を宣言したとき、彼は依然として、マケドニアとボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアにとどまるものと判断していた。他方、セルビア再生運動の党首、ドラシコビッチは、「大セルビアを、セルビア人の墓があるすべての土地を含む大セルビアを」と叫び、強烈な反モスリムの立場と好戦的な発言を展開していた。民族主義や反共主義が民兵を組織し始めていた。
 ミロセビッチは一九八九年、民族主義者の主張を取り込み始め、コソボ(中世の第一次セルビア国家の発祥地)に対するユーゴスラビア中央からの支配確立を主張し、コソボからクロアチア、ボスニアに至るすべての土地にいる少数派セルビア人の擁護者として登場した。
 ユーゴスラビア軍は一九九一年、十日間の戦闘後、スロベニアから撤退し、スロベニアは独立した。撤退に続いてパージが行われたユーゴスラビア軍は、様々な民族主義派極右軍事組織にとって強力な後ろ盾になった。極右軍事組織は、クロアチアとボスニアにセルビア人国家を設立すべく民族純化作戦を展開していた。ミロセビッチはこの期間、極右セルビアラディカル党と同盟を結んでベオグラードにおける自らの権力を強化していった。
 彼はすぐに、魔法使いの見習いが彼の権力を不安定にしようとしているのに気づいた。ユーゴスラビア左翼連合(JUL)を結成したマルコビッチが、その見習いであった。彼は、一九九三年に社会党を極右との同盟関係から離脱させた。JULは、ラドバン・カラジッチのボスニア内セルビア人の民族主義者を激しく非難し、チトー時代のユーゴスラビア共産主義にのっとった多文化の伝統に復帰することを主張した。
 JULは、社会党政権の安定化を真剣に追求した。そのために戦争責任を極右にかぶせ、追従者優遇と企業の経営者や役人の腐敗を利用するという旧来からのやり方を採用した。また、農村部や国営企業における社会的に最も苦しい状況に置かれている人々を主たる活動対象にした。そしてIMFの圧力を非難することなど扇動を強め、リベラル派野党に対しては「西側に奉仕するもの、西から金を貰っている」と攻撃した。不幸なことに、これは大部分の場合、真実だった。
 ミロセビッチは一九九三年以降、大セルビアについて語らなくなった。そして、それまでの同盟者であるボスニア内セルビア人の指導者であるラドバン・カラジッチと決裂して国際和平計画を支持するようになった。
 こうしたミロセビッチの政治的な転進は、野党勢力を一度ならず混乱させた。彼が極右と別れたとき、左翼の野党、新民主主義(親自主管理、反戦の立場)は、ミロセビッチとの連立に入った。政権の新しい平和主義的な方針は、リベラル民主主義派の市民同盟とセルビア再生運動(これはミロセビッチが戦争を支持していた当時、反戦に転じていた)を誤らせた。
 野党勢力は、もはや自分たちが西側諸国の対話者の立場にないことを非常に残念に思った。そこで、ミロセビッチと対立するラドバン・カラジッチを支持するセルビア人と同盟を結ぶことにした。
 一九九六年の春、こうした動きの結果として、市民同盟で分裂が生じた。指導者の半数と大部分の青年が小さな社会民主潮流を形成した。これは、無原則な野党連合に反対し、唯一の統一的な立場として反ミロセビッチをとった。この新潮流は、ユーゴスラビア政府が導入した社会的な措置に反対し、共有財産の分配を要求する市民同盟を批判した。彼らは、こうした立場を表明する八番目の小さなグループである。
 デイトン協定が締結され、戦争が終わった後、主要国はセルビアとクロアチアを信頼して地域を安定させようとした。適当な政権と交渉するというわけだった。この数カ月間繰り広げられている反ミロセビッチの巨大なデモは、主要国のこうしたシナリオを変更させるのだろうか。

終わりの始まり

 危機は深まり、主要な権力ブロックの分解が始まっている。モンテネグロの社会党は、セルビアの「ビッグブラザー」である社会党よりも、ポーランドの旧共産党である社会民主党により近い。セルビア社会党は、どちらかというと中国をモデルにした考えであり、政治的な複数主義も制限したものをとっている。モンテネグロの民営化法は、セルビアのそれよりもリベラルだ。小さな国、モンテネグロの統治グループは、自国の外貨収入(この国の海岸地帯は、ユーゴスラビア最大の観光地)を自分で管理したい旨をすでにベオグラードに打診している。モンテネグロの指導者らは、ユーゴスラビアの現在の通貨危機を利用して、自らの計略の余地と自律の程度とを拡大しようとしている。そしてセルビア野党が地方選で勝利した事実を認めないなら、ユーゴスラビアの連邦構成を見直すと発言している。
 セルビア内部では、社会民主潮流である新民主主義が、野党の勝利が承認されないなら与党連立を離れると表明している。社会党自身も分極化している。ベオグラード市長は抗議して辞任をし、そのため社会党から追放された。マルコビッチが率いるネオ共産主義の連合は、最も柔軟性に欠け、始まったばかりのパージにおいて積極的な役割を果たしている。
 つまり社会党は転換の過程にある。軍隊はその中立性を強調しており、将軍らは調停役を果たしているようだ。野党支持を表明した部隊に対して制裁的な措置はとられておらず、将軍らはベオグラードの学生に対して不介入を約束した。ミロセビッチは一九九一年、デモを鎮圧するために戦車を派遣したのであったが。
 事態はいささかも甘くないし、明るくもない。ミロセビッチ政権に対するローブローは、そのほとんどが準軍事組織や警察からきており、軍隊は打撃となっていない。将来、軍隊が打撃となる「可能性」がないとは言えない。
 ミロセビッチは、人々の抗議闘争が拡大していく中で、「アメとむち」の作戦をとりはじめた。彼は、野党勝利の選挙を無効にしたことに対する政府の責任を認めなかった。他方、ベオグラードの社会党地域指導者と極右ラディカル党は、ベオグラード市におけるザエドノの勝利を無効とした選挙管理委員会の決定を支持し続けた。
 しかし中央政権は、ベオグラードは一時的に中央の管理下におかれ、それによって選挙法の改正が可能となり、新しく選挙を実行できるとした。換言すれば、ミロセビッチは、法律は遵守すべきだが、悪法は改正され得ると言っているのだ。
 同時に政権党は、規律を強化している。セルビア第二の都市では、社会党の指導者を初め「悪いリンゴ」のパージが行われている。ザエドノの選挙勝利が承認されるなら、敗北した社会党の幹部は、選挙での失態を責められるだろう。「強硬派」のみならず、ベオグラード市長のように選挙管理委員会の最初のごまかしを非難した「柔軟すぎる」人物もパージの対象になっている。

最終段階に突入

 アメリカは、ミロセビッチを社会主義者ではないにしても、自立しすぎていると見なしている。クリントンは野党への支持を拡大するだろうか。ザエドノは、自らがミロセビッチ政権にとって代わる能力があることを西側諸国に証明するために必要なすべてのことを行っている。野党連合は最近、デイトン協定支持に転じた。そしてコソボに関しては、より柔軟な態度をとる可能性もある。コソボでは、アルバニア系多数派住民が自らの市民としての権利や民族としての権利を守るために、大規模な不服従運動を展開している。
 ミロセビッチはジレンマに陥っている。ベオグラードなど十五の都市における野党の勝利を認めるなら、大規模な選挙でのごまかしを認めることになる。他方で、選挙管理委員会による二、三の部分的な間違いを認めると、それはそれで国際的な信頼を喪失する可能性がある。
 選挙の無効決定を覆すと、野党勢力を力づけることになる。というのは、セルビアのマスメディアのほとんどをコントロールしているのが地方自治体だからである。こうなると、来年に予定されている議会選挙とユーゴスラビア大統領選挙におけるミロセビッチの立場が弱くなってしまう。
 ミロセビッチが選択したジレンマの解決策は、ウィーンに事務所を置く欧州安保協力機構(OSCE)の調査団――形式的にいうなら、彼が選挙結果を検証するようにセルビアに招待した組織――の正当性を承認する法律を採択するよう、セルビア議会に要請することだった。
 彼は、モンテネグロにおける民営化の速度と規模を初め、少しずつ譲歩を行っていくだろう。彼の目的は、連邦レベルで安定した多数派連合を形成し、現在は象徴的でしかないユーゴスラビア連邦大統領の権力――一九九八年に空席になる。彼はこの地位を狙っている――を強化することである。
 一九九七年のセルビア政治における注目点は、連邦の再構成、コソボをめぐる交渉、民営化や対外債務などに関して政府がどのような社会経済政策を採用するか、などである。
(注 ザエドノを構成するのは、非常に小さな反民族主義リベラルグループで最初から反戦運動を展開している市民同盟、程度の違いはあるが、三つの民族主義グループである。後者は、セルビア再生党、民主党、民主党から別れたセルビア民主党である)
(インターナショナルビューポイント誌3月号)
韓国
           蒸発したアジアの奇跡
                                 テリードリー・ローレス

韓国政府の愚かな行動

 【ソウル発】韓国立法府が最近、未明の秘密会で決定した一連の立法行為(与党・新韓国党が労働関係法改正と国家安全企画部法改正を単独で強行採択した)は、愚かさ以外の名前のつけようがない。この行動は、金泳三大統領の政権にとって最悪の社会的な危機をもたらしている。そして韓国がOECD(経済協力開発機構)に加盟して一週間しか経過していないというのに、国際ジャーナリズムの不名誉な取材攻勢を浴びることになり、同国史上最大のゼネストが迫っている。
 政権担当者によるこうした行動は、財政赤字に対処するものとされているが、前年全体よりもこの三週間で政治的な力という点ではるかに多くのものを失うことになったのであり、一体何と呼べばいいのだろうか。また、韓国史上に前例がないほどに労働組合の連帯を強めた政府を一体何と呼ぶべきだろうか。このため保守的な公認労組、韓国労働組合総連盟(FKTU)がいまだに非合法な民主労働組合総連盟(KCTU)と連帯して公式にゼネストを指令したのであった。
 だが、こうした愚かさというのは、ネオリベラル的な世界秩序の中で、それぞれの民族ブルジョアジーがとる政治活動に課せられている根本的にグローバル(地球規模)な制約の別名であるのかもしれない。韓国政府の「愚かな」行為の理由はあるいは意外に単純で、OECD加盟の影響が韓国経済全体に重大な衝撃を与えるのを事前に防ぎ、多くの企業や工場の倒産や地域と国内市場の再編という予想される事態に対処しただけのことかもしれない。
 こうした見方からすると韓国政府がとった厳しい措置は、韓国が先進資本主義諸国のG7と主要市場をめぐって争奪戦を繰り広げ続け、他方では東南アジア諸国の新興経済諸国の低賃金を武器とする挑戦に応えていかなければならないとすると、不可避なものだったといえよう。金泳三大統領は今年の新年挨拶で「誰かがそれを行う必要があった」と語っていたように。
 こうした意見表明は、一年前の金泳三大統領自身にとっては予想さえしなかったもので、当惑したであろう。というのは、一九九六年という年は韓国にとって輝かしいものとなると考えられていたからである。朴正煕大統領の時代からの三〇年にわたる長年の夢がついに実現することになったからである。すなわち韓国がついにOECDのメンバーとなり、先進資本主義国の仲間入りをすることになっていた。
 金泳三大統領は、OECD加盟に関連した過程として「歴史を清算する」として、前の二人の大統領、廬泰愚と全斗煥を一九七九年クーデターの責任者として逮捕し、裁判にかけた。このクーデターが朴大統領の暗殺と一九八〇年の光州大虐殺をもたらしたのであった。そして全元大統領には死刑判決が下された。文民政府を実現するとされた一連の選挙が行われたが、金大統領の一九九二年選挙資金は廬泰愚前大統領の賄賂資金から提供されたのだという噂が流れ続けた。韓国はOECD加盟のみならず、二〇〇二年のサッカーワールドカップをかつての帝国主義支配国日本と共催することにも成功した。

だが厳しい現実が

 こうした事実にもかかわらず韓国ブルジョアジーは、一九九六年を事態が悪くなり始めた年として記憶するだろう。まず最初の予期しなかった打撃は、半導体価格が八〇%も低落したことだった。三星や現代(ヒュンダイ)、LG(前のラッキーゴールドスター)などの財閥の利益が落ち込み、自動車や鉄鋼、石油化学産業などに悪影響を与えた。三星は、一九九五年の利益が二兆五千億ウォン(三〇億米ドル)と報じられていたが、一九九六年はその三分の一に低下した。
 韓国経済の重要な支柱の一つである鉄鋼産業は、深刻な問題に直面している。一九九七年一月二十四日、同国で第二位の鉄鋼メーカーである韓宝鉄鋼は、第一銀行や産業銀行など四行から受けていた融資五兆ウォン(約七千億円)を返済できなくなったため倒産し、事実上銀行の管理下に入った。銀行は、世界第五位の韓宝鉄鋼が忠清南道・唐津に建設中の製鉄所にはつなぎ融資を行うが、同社の長期的な展望や関連した銀行の短期的な財務状況に関しては、疑問符がつけられている。
 韓宝財閥は、三十以上ある韓国の財閥で資産規模からすると十四位、年間売上高で十八位である。この倒産は、韓国史上最大の規模であり、また韓宝鉄鋼への巨額融資疑惑が浮上しており、これも最大規模の疑惑事件になりそうだ。金泳三大統領の次男が、返済の見通しのない融資に関連していたとの噂も流れている。
 問題を複雑にしているのは、OECDが最近、世紀の変わり目に世界的に鉄鋼が供給過剰になると分析し、韓国と中国の野心的な生産能力の拡張を批判していることである。こうした事情から韓国政府は最近、現代財閥から出されていた新工場建設の申請を却下した。
 一九九六年の貿易赤字はおよそ二百億ドルで、前年の二倍となった。貿易赤字急拡大の原因は、年率九・八%で伸びるエネルギー消費を支えるための原油輸入や工業製品輸入の増大、日本からの自動車部品輸入による赤字(六億五千七百万ドル)などである。第三位の自動車メーカーを中心とする三星による第七位の財閥買収が迫っているとの噂もある。
 円安が進んでいるために韓国工業製品は、競争力を弱め、魅力を失っており、ウォンを米ドルに対して一〇%引き下げざるを得なかった。韓国の総合株価指数(KOSPI)は、急速に下げ始め、下げ止まらなくなった。その理由の一端は、外国資本の引き上げにある。一九九六年に株価指数は三〇〇ポイントも下落し、価値は三分の一になった。インフレーションの問題もある。一九九七年のインフレ率はすでに、四・五%に達するものとみられている。
 韓国労働者にとって最悪の問題は、おそらく失業であろう。失業率は絶えず少しずつであるが、上昇している。昨年十一月の失業率は二・二%だったが、上昇は確実で、ことに大学を卒業した若者の間で、この傾向が強い。彼らの多くは、いつになると労働者になれるのか、不確実である。
 ブルジョアジーの間で支配的な考えは、韓国の国内市場を諸外国に開放するに際して、国際競争力を確保するためには労働者を犠牲にするしかないというものである。ことに金融部門では、企業のリストラクチャリングが加速されそうである。というのは、今年四月から銀行、証券、保険の各業態間での相互乗り入れが可能となるなど、金融業でのビッグバンが行われようとしているからである。

OECDへの加盟

 韓国は昨年十二月六日、OECDのメンバーとなった。加盟に際して、透明性の拡大と労働慣行における国際基準の採用が要求された。そこで金泳三大統領は、大統領委員会を設置して労働法の改正を図ることになった。
 この委員会がめざした改正の中心内容は、韓国の労働者が確保している雇用の安定性を弱めようとする条項がある。新労働関係法には、企業のリストラクチャリングや買収の時期には大量の労働者をレイオフしたり、あるいは「フレキシブル」労働時間制度の導入を可能とするなどの内容がある。そしてストライキ中には、スト破りの採用をも可能としている。
 別の条項案は、韓国の労働者階級に対して基本的にG7並の政治的な自由を保障することになっている。現行の労働組合法十二条は、労組のいかなる政治活動をも禁止している。新法案の三つの重要条項は、一事業所に複数の労組を結成する権利、労使紛争に対して第三者(政治的なグループや政党も含む)が介入できる、労組が労働者政党を結成するに至るまでの政治活動の自由――などである。加えて、公務員と教育労働者に対して労働組合にはまだ遠いものであるが、一定の組織を結成する権利を認めることも議論されている。
 こうした法改正は、政府が民主労働組合総連盟(KCTU)の合法性を承認することを示唆している。KCTUは、一九九五年にFKTUから分裂した戦闘的な労組のナショナルセンターである。FKTUの組織人員は一二〇万人、KCTUは七五万人である。KCTUは、一九九五年夏に造船と自動車産業を中心とする重要なストライキを組織し、その結果として昨年では、およそ一二%の賃上げを獲得した。
 昨年の夏以来、労働者に不利な法改正に対しては強く抵抗するものとみられていた。事実、この労組の指導者は、大統領委員会の開催の過程に関して、そうしたことを示唆していた。委員会が妥協に達せず終了したとき、金大統領は、当時開会中の国会終了時点までに採択される、そうした法案の作成を要求した。
の秘密会と 未明の秘密会という異常な事態が起きる一週間前、二つの野党が国会で法案通過を阻止するための妨害行動を展開していた。その活動には、座り込みや金大統領の与党・新韓国党(NKP)の議員との物理的な衝突などがあった。野党は、OECD加盟問題が広範に議論されることを要求していた。
 一九九六年四月の総選挙以降、NKPは国会でかろうじて過半数を維持しているにすぎなくなった。それも無所属あるいは野党の議員を引き抜いたためである。十二月二十六日の秘密会の一週間前、統一自由民主党は同党の重要なメンバーがNKPに引き抜かれ、同党は態度を硬化させた。こうして政党間の緊張が極度に高まっていった。
 野党第一党である金大中の新政治国民会議と、朴元大統領の親友だった金鍾泌の統一自由民主党は、少なくとも新年までは抵抗を続ける以外になかった。
 十二月二十六日、韓国の市民は目覚めてみると、一部の議員が十二の法案を記録的な短時間のうちに採択したのを知って、ただ驚くだけだった。その法案には、国家安全企画部法の改正があった。
 労働関係法改正案は、相当な修正を受けていた。経営側に有利な条項や労働現場に複数の労組を認めるのを二〇〇〇年まで延期することなどだった。後者の修正によってKCTUの公認をこれから三年間遅らせることができるようになった。

ダイナミックなストの波

 労働関係法改正に対するKCTUの反応は素早かった。国会の会議開催のニュースが広がるにつれて、重要な生産現場で自主的な退出行動、職場放棄が始まった。韓国東南部の蔚山で顕著だった。同市には、世界最大の造船所と自動車工場がある。
 十二月二十七日、蔚山は閉鎖された。また、当地には現代の十工場がある。三つの最大級の造船所、韓国テレコム、自動車工場、その他の財閥の工場もある。それらの労働者がストライキの初日から道具を放棄した。同日、FKTUはソウルで十万人規模の集会を開催した。
 同月二十八日の日曜日、FKTUの指令によっておよそ五十万から百万人の労働者がストライキに参加し、ストは三十一日までに拡大された。ソウル大学付属病院など十四の総合病院には、救急要員しか残らなかった。すべての大工業都市もストの影響を受けた。ソウルと釜山の地下鉄労働者も、後にスト破りが働くことになるが、一斉に職場を放棄した。
 バスとタクシーの労働者は、三十日からのスト突入を宣言した。さらに付け加えるなら、スト最初の数日間にみられた事態は、韓国史上最大規模だった。政府は三十日、事態を収拾できなくなったと判断して、弾圧に乗り出し、中心的な労組の指導者二十人の逮捕をにおわせた。その中には、韓国版解放の神学を奉じるソウル市内のカトリック教会、明洞聖堂に籠城していたKCTU(民主労総)の七人の指導者がいた。株式市場は、この四年間の最安値で大納会を終えた。
 民主労総の権永吉委員長は、新年の休日を確保し、なおかつ政府に自らの愚かな行動を再考させるためとして、ストや職場放棄などの産業行動の一時停止を発表した。そして通信とテレビ放送の労組は、一月三日までに法案を廃案にしないなら産業行動を強化すると発表した。銀行労働者は、同月四日に職場放棄を行うとした。
 一月六日、二十三万人以上の労働者が、再度ストに突入した。同月十四―十五日に予定されていたゼネストに向けて、徐々に産業行動が積み重ねられていった。これには百万人が参加することになっていた。KCTUから二十五万人、FKTUから七十五万人である。十日、二十一労組の指導者に対する逮捕状が出された。他方、与党・新韓国党の代表はテレビ番組の議論で、KCTUは、ストの力学が非常に強力だからとして違法ストに対する政府の警告を無視するだろうと述べた。
 OECDの労働組合諮問委員会と自由貿易国際連盟は十三日、それぞれが労組の集会に代表を派遣した後、韓国の内政に干渉しないよう警告された。しかしゼネストは労組が期待したほどの効果を発揮しなかった。銀行やタクシーは、十五日のソウルではほとんどが営業をしていた。他方、釜山のタクシー労働者の間では、広範な連帯活動がみられた。十七日、労組のイニシアティブが弱まったと判断した政府は、最初の逮捕に踏み切った。KCTUは、テレビ対話の申し込みを受けた。
 二十日月曜日、前週末に発表されたKCTUの指令に従ってほとんどの労働者が職場に復帰した。KCTUは、今後は法案の撤回まで公共部門を含めて毎週水曜日に一日ストを行うと発表した。
 金泳三大統領は、二野党の代表と会談をし、労働関係法と国家安全企画部法の改正案を修正すると発表した。また労組指導者に出されている逮捕状はすべて、その執行が停止され、すでに逮捕されている五人の労組指導者は釈放されるだろうと認めた。OECDは同日、韓国の労働関係法改正案は国際基準に達していないというその見解を初めて明らかにした。

若干の結論

 議会内野党は、臆病であり、時代遅れである。金大中や金鍾泌が率いる野党には、まったく、あるいはほとんど期待できない。韓国政府が改正案の修正を言い始めたのは、まさに労働者階級の行動の結果なのである。再度、韓国民主主義は労組の闘いによって守られたのであった。
 与党NKPは、今回の愚かな行動のために多くのものを失った。この結果として、今年十二月に行われる大統領選挙では、金泳三が選んだ候補者の当選が確実視されていたが、この状況が変化する可能性も生まれている。
 今回の事態は、特殊韓国的なものである。もちろん、同様な労働者階級の闘いが他の国でも起きる可能性を示してもいるのであるが。韓国の動向は、アジアの虎の一頭が大リーグ入りをしようとする最初の試みである。労働関係法改正案にみられるように、アジアの虎が先進資本主義国の仲間に入ることは、ただ労働者階級の犠牲のうえにのみなされる。だが経済成長と集中は自らの利益を有効に守ることができる高度に組織された戦闘的な労働者階級を生み出すという逆説は、ここ韓国でも成立する。
 個別の闘いには勝利したが、戦争には敗北するということもあり得る。だが金大統領が個々の闘い、つまり労働関係法の改正などで勝利したのかどうかは今の時点ではまったく決着がついていない。ブルジョアジーのお粗末な攻撃に対して二つの労組ナショナルセンターが密接に協力したのは、非常に積極的な面である。
 韓国ブルジョアジーは、新しい今一度の高度成長という奇跡を欲している。アジアには著しい成長をとげている諸国――インドネシア、中国、マレーシア――があり、こうした存在が韓国の再度の奇跡に対する阻害要因になるかもしれない。外国からの投資や利益を追求して国内市場を開放することは、高い失業率や韓国での事業の失敗といった、ことに世界的な不況と結合した旧来からの問題を引き起こしかねない。これと同じような困難さと命運は、先進資本主義国の仲間入りをしようとしているシンガポール、台湾のブルジョアジーをも待ち受けている。
(インターナショナルビューポイント誌3月、286号 抄訳)