1997年6月10日         労働者の力               第90号

 特措法改悪−暫定使用の永久化と沖縄の闘い
 「安保翼賛体制」と対抗する論理と陣形を築こう

     川端康夫


「安保翼賛体制」と勢いづく右派勢力

 四月十七日、参院を圧倒的多数で通過した米軍用地特措法改悪は、暫定使用という名の下に米軍用地の永久使用に道を開いた。衆院と参院、それぞれ一週間という猛スピードで改悪案が採択され、それをもって橋本はクリントンとの会談のためにアメリカへ飛んだ。 自民党と新進党の談合の成立によって成立のめどがつけられて以降、なんらの実質的審議もなく、「粛々」と議事日程が消化され、民主党が醜悪な議会内駆け引きの術策と称して賛成にまわり、また社民党も反対の「方向」を固めつつも、議事進行には協力するという、まことにわかりにくい対応が目立っただけであった。
 こうした経過に勢いづいたか、自民、新進、太陽、そして民主の一部をも横断した形で、保保連合的様相をもったさまざまな動きがすすみはじめた。靖国公式参拝実現をめざす自民・新進を横断する形の会が成立し、さらに憲法調査会を正規に国会内に設置するための会もまたつくられた。
 自民党内部には、保保連合派と自社さブロック派が競っていると騒がれ、また保保連合勢力は、「小沢付き」か「小沢はずし」かでもめているとも騒がれる。しかし、特措法改悪をめぐる一連の事態が示したもことは、議会内勢力が圧倒的に保守勢力によって制圧され、旧野党勢力は、それぞれがその周囲をまわる衛星的な勢力にすぎない、という現実である。
 政権交代可能を可能とするための小選挙区制度の導入、あるいは責任政党論などをごり押しした、「連合」や世論の恣意的形成のためになりふり構わぬ対応を行ったマスコミ各社、理論的装いを付与したマスコミ文化人や学者の責任をあげつらうことはたやすいが、それは、同時にかなりのむなしさをともなうことである。
 いわゆる「安保翼賛体制」の成立といわれた沖縄国会であったし、圧倒的議会内勢力の違いのまえに旧来の革新派勢力は無力感をよ余儀なくされ、また、右派勢力、改憲勢力を久々に活気づけた国会でもあった。
 が、古きを訪ねれば、「夜明け前はもっとも暗い」と歌われるように、総評解体から小選挙区制度導入に至る一連の過程がその最低の水準に到達した結果と現象であると同時に、「沖縄」が日本の世論を奥深く揺さぶったことも事実だ。そして、議会あるいは旧来の「革新勢力の中軸」の「安保翼賛体制」への安易な乗り移りに対して、強烈なボディーブローが加えられたことももう一つの事実である。民主党、社民党それぞれが受けたインパクトは決して軽いものではなかったはずだ。では今後はどうか。
 沖縄特措法改悪問題が提出した論点をこの視点から探ってみたい。

 なぜ米軍用地特措法改悪か
  漂流した民主党と社民党の論理的怠惰

 一昨年の秋、大田沖縄県知事が代理署名拒否に踏み切ったとき、時の村山首相は全くの無防備状態におかれた。「安保承認」が現実の沖縄との関係でどのようなことを意味するのか−−村山首相にはその構えがなかった。大田知事サイドとの会談を重ねて、ひたすらに時間を稼ぎつつ、村山首相は結局は大田知事を相手取っての裁判を起こすこと以外の道を見つけられなかった。だからこそ村山首相は、その年の暮れには首相職の放棄を決意せざるを得なくなったのである。
 結果は、いったんは首を切った当時の防衛施設庁長官・宝樹山の指摘、「粛々と強制使用のための手続きを進める」ということに落着したのである。が、これだけですますことは村山氏にたいして、失礼に当たるかもしれない。すなわち、後を引き継いだ橋本の路線が、一方では経済的優遇措置を提起し、他方で基地縮小へのポーズに最大限の肉付けをおこないつつ沖縄県とのパイプを持続させるというものであり、これは村山首相の模索した方向性を具体化したものとも思われるからである。
 村山首相には、そうした日米の政府関係に一歩踏み込んで策をこらすだけの力量はなかったのであろうし、首相職という、自らの責任において沖縄県民の意志を踏みにじることへの逡巡を断ち切ることもできにくかったのであろう。いいかえれば、人がやるのであれば結構だ−−。
 そして、旧社会党のコア部分をそれぞれに引き継いで、村山退陣後に成立した二つの政党−−民主党と社民党−−のいずれの側も、やはり問題を同じように引きづったままであることが明らかとなった。
 民主党はその「駐留なき安保」論のためになんらかの行動や展望をもって政策的、政治的接近を行ってきた形跡はない。特措法改悪問題においても、この党は、最終的には保保連合にくさびを打つことを名分とし、法の空白を避けることを補助材料とした。では、「法の空白」があってまずいことは何なのか−−民主党の回答はない。
 社民党はどうか。「政策的一貫性なき漂流」−−これがまさにあてはまる。「安保承認」、「安保堅持」と沖縄基地の縮小・撤去との関係について、この党派最後まで明確な定式化を行わなかった。否、行えなかった。ひたすらに抽象的な「沖縄県民の心」を裏切れない−−の一点張りであったといって差し支えない。「論理の透徹性」においては民主党以下である。
 この双方ともに、日本における政権党とは、日米関係において、アメリカとの同盟関係を維持することを背骨にするという認識を受け入れた以上ではなく、その時点で思考は停止してしまっているのである。
 沖縄に、巨大な米空軍基地は必要なのか。唯一の海外駐留海兵師団はは必要なのか。必要だとすれば、それは何のためにか。どのような機能として必要なのか−−これらの党が真剣に考えてきたとはとうてい思えない。

 米軍一〇万人体制の論理
  日本周辺有事−−朝鮮有事とはなにか?


 こうした問題は、基本的にアメリカサイドから流された。それを大枠でくくれば、第一には「朝鮮有事」、そして第二にはアジアにおける中国への備え、である。アジア太平洋に一〇万人の前方展開部隊を配置する−−これは大西洋・ヨーロッパにおける一〇万人配備とならんだ、アメリカの同時二方面作戦の体制であるとされる。
 この計画は明らかにアメリカの統合参謀本部の描いたデザインにほかならず、それをアメリカ政府が後押しし、そして日本においては小沢が「ロビー」の役割を果たしている。
 だが、とりわけ対中国への備えに関しては、ここには政治は関与してはいないというべきである。対中国への軍事的備えのために沖縄に海兵隊が必要なのかどうか−−これはアメリカ政府の深部で真摯に検討されて出てきた結論だとは言えまい。軍−−しかも海兵隊による、軍−−海兵隊のための論理にすぎない。
 そのうえで、日本の政界は、「朝鮮有事」論に押された。沖縄基地は、海兵隊のそれをふくめて、「朝鮮有事」の最大の出撃拠点として準備されている。この点について、おそらくは民主党は承認し、社民党もまた、おそらくは対案をもたない。
 官房長官梶山らから流される意図的な情報は、「朝鮮有事」を前にして、基地の縮小撤去などを言い出せる雰囲気にない、というレベルにつきた。外務省は率先して米政府筋、米軍筋の代弁者の役をかって出、そして小沢新進党は、「有事の備える」日米の軍事的一体性の「高み」から、逆落としに、日本全体を米軍と自衛隊とが一体となった共同軍事態勢に組み込む観点から、沖縄基地問題を論じた。
 朝鮮有事とは、米軍が韓国軍と一体となって、朝鮮半島の北半分を軍事的に封圧し、かつ「北」の軍事力を解体する侵略戦闘行動を発動することに他ならず、そこに日本自衛隊が積極的に関与するのみならず、日本全土が米軍の出撃拠点として機能することを想定する。まさに第二次朝鮮戦争のシナリオであり、それはかつてのサダム・フセインの軍隊を一挙に壊滅させた強力な武装力の発動への道筋である。湾岸戦争が多国籍軍の形態で組織され、それに日本政府が九〇億ドルの巨額の資金提供を行ったことを見れば、「朝鮮有事」は、資金のみならず、直接の軍事力発動を日本政府が要求されることは火を見るよりも明らかである。
 こうした、「朝鮮有事」が、「北」の一方的な軍事的冒険主義によって引き起こされるという宣伝にはもちろん確かな根拠はあるわけはない。ただ、一方的なアメリカと韓国政府筋の「情報」が流されているだけである。
 「北」が直接的な軍事行動に出たら−−すべてはこの一点の仮定・虚構でもって展開されているのである。そして、この一点の仮説・虚構で組み立てられる米政府筋の「恫喝」に、日本政府は率先して迎合し、そして、日本政界の圧倒的多数派は、「有事への備え」の論理の前に雪崩うつのである。
 確かに「北」は、極度の政治的経済的緊張状態にあるのであろう。経済政策の失敗がこの国の根幹を揺るがしていることは事実として疑いえない。それがもたらす、体制の底辺における動揺は、強権的締め付けではとうてい克服できないはずのものだ。「飢餓」状態を強権が克服できる訳ではない。強権はただ、体制をぎりぎりに維持するためにのみ機能しうるだけだ。
 その体制的緊張を軍事的冒険主義へと転化させ、それを打破することを通じて、「北」の体制そのものを壊滅させる−−アメリカが描くシナリオの一つはこのようなものであるだろう。
 そして日本はこうした「朝鮮有事」を歓迎するのか? はたして小沢は内心で「朝鮮有事」を待ち望んでいるのか? 「北」の軍事的暴発を誘い出し、そこで「南」の経済の打撃、日本の「特需」を展望するのか? 日本の戦後法制、憲法体制の一挙的な改変のチャンスをつかもうとするのか?
 そうだとすれば、あまりにも古典的、帝国主義的な発想であり、もしもこうした発想が現実の政治の場で採用、展開されるとすれば、それは、一直線に東アジアにおける軍事的な極度の緊張状況の、一方の積極的当事者として、日本が立ち現れることを意味する。
 「朝鮮有事」の論理は、日本においては、まさに東アジアの軍事的緊張を意識的に作りだし、操作し、そしてまた一方の当事者として日本が軍事的にも登場していく道筋であるにほかならない。

 安保翼賛体制の論理と対抗の論理
民衆にとって「日本周辺有事」とはなにか

 「朝鮮有事」が意味する日米安保体制ろ冷徹な論理に対して、民主党も社民党も、党として、真っ正面からの検討を加えてきた様相はない。単に、日米の政府関係の基軸として認識し、それ以上は深くは考えていなかったと思わざるをえない。その浅薄さが沖縄によって直撃されたのだ。
 もしも、日米安保体制堅持の枠組みにおいて、政権政党や責任政党論を展開することが必要とするのであれば、民主党も社民党も、想定される「朝鮮有事」における軍事的関与、国家の再武装の論理に、何らかの形で積極的にコミットする方向を選択するしかないであろう。「論理」はそのようなものとして動く。そしてそれは、すぐれて社民党にとって「与党の一翼として」、安保再定義、有事法制などの目白押しの日程に対処する基本的構えを根本的に問うことになる。社民党はどこへ向かうのか? 特措法問題が提出した問題群はもはやまったなしなのだ。そして、沖縄の平和行進に一万人近くもの派遣を組織した、本土の旧社民党系労組もまた、直接に問われることに他ならない。
 極東(東アジア)の範囲における安全保障(軍事)同盟−−安保条約のそもそもは、日本においてはこのように規定され、解釈された。日本国家は、極東の範囲における米軍の行動の協力者である、と。だが、米軍はそうした枠組みの制約をなんら意識していないことも明らかだ。在日米軍は世界の半分の領域を分担する。中東から「東」、アメリカ本土から見れば西側の半分を一〇万人体制が受け持つのである。そして、極東において日本軍、日本自衛隊は、そのアメリカ軍の補助部隊、支援部隊として行動する−−このように「朝鮮有事論」は論じている。
 日本政府に対して、アメリカ軍が、湾岸地域への出撃に際して「事前通告」をおこなったことはいっさいない。日本国家は、在日米軍を世界軍として承認し、同時に東アジア、極東での積極的侵略行動の同伴者、共同者として行動することを暗黙の前提としている。
 その「暗黙」を明文化しようというのが「安保再定義」に他ならないが、そうした再定義の文脈は、すべて「日本有事」、「日本周辺有事」にいかに効果的に、かつ、ぎりぎりの拡大解釈によって憲法の枠組みをすり抜けることにのみ費やされている。
 こうして、安保体制堅持とは、東アジアにおける、アメリカの巨大軍事力の存在を「保障」し、アメリカの「国益」すなわち唯一の軍事大国としての地位を「保障」する体制の堅持にほかならない。
 日本は東アジアに位置している。その日本にとって、東アジアとの関係、なかんずく中国との関係をいかに友好的に展望し、設定しようとするのか、これが本質的な課題のはずだ。
 だが、中国がアメリカに屈服しない国民国家としての独自の地位を求め続けるときに、アメリカは、対中国軍事包囲網を増強し続けることになるであろう。そして日本は、この中国という存在に対して、軍事的な対抗国家として自らを位置づける。安保体制とはこうしたものだ。
 いずれにせよ、対中国、対北部朝鮮を対象とした、まさに米軍主導の軍事包囲網が維持され、かつ増強される−−そこに東アジアにおける新たな「軍事力拡大競争」が生まれ、再生産されていく。
 はっきりさせれば、アメリカが主張する東アジアの軍事的緊張とは、台湾海峡と南北朝鮮休戦ラインであり、前者は中国国内問題、後者もまた朝鮮分断の克服と民族統一の問題に他ならず、そのいずれもまさに国内問題なのである。それにたいして、アメリカは台湾海峡と南北休戦ラインを、国際的な火薬庫のごとく扱い、国際紛争の最大の焦点として位置づける。これは明確な詐術であり、そしてその詐術によって民衆意識の操作を行っているのである。
 もちろん、このことは、われわれが、現在の中国指導部や北部朝鮮指導部の路線を批判するにもかかわらず、そうなのである。
 したがって、台湾海峡と南北休戦ラインを指して、「日本周辺有事」すなわちアメリカと日本の軍事的介入が前提されること自体が、内政干渉の極にほかならない。台湾海峡と南北休戦ラインは、論理的に「日本周辺有事」の対象には、決してならないのである。

 東アジア地域の平和的展望
  ポスト冷戦のアジアが向かいはじめていること

 中国における台湾、朝鮮における民族統一−−いずれも、永久的な現状固定化はありえないであろう。その行く末が、たとえば台湾独立か、一国二制度か、または完全な統合かはさまざまにありえるが、しかし、現状がこのままに固定化されることだけはありえない。「一つの中国」は国際的に承認されたテーゼであり、台湾海峡に永久的な「国境線を引いいたままにしておく」試みは、なんらの将来展望をもたない。ちなみに、「独立」は現状固定化とはまったく違う問題だ。
 冷戦時代には、問題はかなり簡略化されて提出されていた。そこでは台湾問題の解決は、中国本土による軍事的解決の方向か、あるいは台湾に盤踞する国民党政権の「大陸反攻」の成功か、の二者択一であった。これは、あくまでも「論理上」ではあるが。
 現在においても、もちろんこうした論理上の解決方策が依然ありうるが、しかし現実は台湾問題が、正面武力激突以外の方途での解決を模索しはじめたといえる。
 南北朝鮮統一問題もまた同様である。南進論やその逆の論理も、また残存してはいるだろうが、しかしそこでもまた、正面武力激突がなんらかの積極的な意味での「南北統一」に結びつくと考える夢想家は、いまやごく少数派であろう。
 第二次大戦後の「アジアの熱い戦争」が停戦してから、もはや半世紀近くが経過する。東西冷戦の構造も基本的に終了した。「東西」間の経済的格差が顕著となってもいる。
 「東」陣営が、革命の熱気のもとに地域的に勢力拡大の勢いを示し、それに帝国主義が軍事的攻撃をおこなうというパターンもいまや現実味をもたない。むしろありそうなことは、「東」の経済的苦境とそれに起因する体制の動揺に「西」がつけこみ、軍事的挑発をしかけることのほうだ。
 すなわち、東アジアにおいて、熱い戦争の時代は遠い過去となり、そして冷戦時代の論理と展望もまたその基盤を失った。熱い戦争の時代の産物であり、遺物である中国・台湾問題、そして南北朝鮮問題は、いずれにせよ不可避的にその解答を見いださなければならず、そしてそれはまた同時に、過去の論理、思考方法と異なった新たな方法の回路を通じて実現されていかざるをえない。
 一国二制度などの「賢しこい」、過渡期の方策がどの程度の現実的成果を導くかは別としても、ここに新たな発想があることを否定することはできない。東アジアはあらたな思考方法をもって、過去の遺物からの脱却をはかろうとしているのである。そこに日本が棹さす道筋がある。

 極東有事、日本有事論に対抗する運動と勢力を

 沖縄特措法問題は、まさに「沖縄発」の問題提起として、本土の各政党、とりわけ民主党と社民党に「安保堅持」路線とは何か、を突きつけた。
 特措法改悪阻止の闘いは、確かに、圧倒的な「安保翼賛体制」の成立によってねじ伏せられた。沖縄はあらためて、国権の三権によって、犠牲にされたのである。特措法の改悪によって、一昨年秋の少女暴行事件への憤激に発する沖縄県政と沖縄民衆のタイアップした闘いの構造、手段は相当程度封じ込められた。また、そこにひそむ「ヤマト」の後ろめたさは、米軍基地の「本土移設」への抵抗力を弱めた。むしろ沖縄県民の心情の内には、率直に「基地を本土が背負え」と投げ返したい側面も強くあった。「安保があるから基地がある」、「安保を必要だというのなら必要な人が基地を背負え」、と。
 だが、沖縄の意見共闘をはじめとする諸運動団体が、心から主張した「日本にいらないものは沖縄にもいらない」の論理は、脈絡と生きている。まさに今後も、「沖縄発」の発信は、日本本土の民衆意識の土台を揺さぶり続けよう。沖縄からの発信を通じて、問題の核心は鮮明となった。米軍基地は本当に「日本に必要なもの」なのか。もし「日本にいらないもの」ならば、なぜ「安保」を必要とするのか。
 われわれは、たとえば、民主党が、今後とも「駐留なき安保」を主張するのであれば、その主張を徹底的に磨くべきだと考える。たとえば、社民党が「沖縄県民の心情を理解する」とするのであれば、その理解と安保体制の現実を論理的に整理することが必要だと考える。「安保翼賛体制」に組みするのであれば、政治屋技術ではなく、出処進退を明確にしなければならないと考える。
 そしてわれわれは、「日本にいらず、沖縄にもいらない米軍基地」の論理を、徹底的に明らかにしていきたいとおもう。ここに「安保翼賛体制」に抗する民衆の政治理念、政治的オルタナティブへの入り口があると考えるからである。
 特措法改悪から「安保再定義」へ−−沖縄特措法改悪問題は、この一連の問題群が日本政治の流れの、大きな転換点になりうることを示した。
 安保再定義と闘い、あらたな「反安保」の陣形を広くつくり出す−−すなわち、極東有事論と闘いきる論理と陣形を切り開くことこそが、安保翼賛体制、日米同盟基軸の政権構想論と対峙しうる新たな、歴史的な政治勢力形成の鍵となろう。
 (六月六日)

沖縄‥‥見てある記
    電通労組 高橋喜一


 五月十四日、沖縄軍用地使用期限切れを前に仙台を飛び立った。
 初めて訪れる沖縄に色々なことが錯綜する。沖縄本土復帰闘争、コザ反米暴動、返還協定批准阻止闘争、安保条約、日米地位協定などなど。昨年から宮城の地で展開してきた、百万人署名運動、王城寺原の闘いと取り組み。
 そんなことが頭をかけめぐる。
 仙台から二時間半の行程の中で初めて見る沖縄は、淡いブルーの海の中に浮かぶ緑のオアシスに見えた。しかし那覇空港に降り立つと、そこはまったく違う現実を見せられた。航空自衛隊、海上自衛隊の戦闘機がいならぶ中に、そこはあった。
 沖縄。私にとっての沖縄は私の歴史の中にどう占めているのかをおもいながら、沖縄の地に足を踏み入れた。

 五月十四日
  軍用地使用期限切れ

 この日、同行したK君と、南部戦跡を訪れることにした。
 始めに首里城(首里グスク)を訪れた。「城」に対する、私たち「大和」の概念が、「支配の道具」であることとは異なり、沖縄でのそれは、「魂の宿る所」というものであり、沖縄の二百を超える「グスク」のありようを知るとき、琉球王朝の歴史の中で培われた沖縄の心に触れた感じがした。
 海軍壕跡、マブニの丘。ひめゆりの塔。ほの暗い中に浮かぶひめゆり部隊の少女たちの写真の前で、さきほどまで騒いでいた修学旅行生徒が食い入るように見つめている姿と、胸がつかえり思いの自分を感じながら、戦跡めぐりを行った。
 沖縄市民会館での県民大会。
 私の記憶では、沖縄市という市はなかった。それは、コザ反米暴動以降、コザ市が沖縄市に変わったのであり、沖縄の人々にとっては沖縄市は「コザ」でしかありえない。
 それで、那覇市民会館と間違ったのは「一理」があるとは言えないが、那覇から高速を飛ばして集会場に急いだ。
 全国から千八百名の参加、市民会館を埋めつくす人々。
 日本政府の特別立法法案可決に対して、「民主主義は殺された」、「沖縄は生き抜く」と「怨」の旗を掲げた沖縄の人々。
 普天間基地返還とひき換えの海上ヘリポート基地建設(恒常的基地の建設)に対置して、基地の全面・無条件返還を掲げながら、全ての米軍基地の縮小撤去を求める沖縄の人々の要求は、「日本が変わらなければ沖縄は変わらない」、「沖縄が変わらなければ日本は変わらない」、「日本と沖縄が変わらなければアジアに平和は訪れない」とする、大会集約のように、沖縄と日本の運動のありようと方向を主張した。

 五月十五日
  土地立ち入り要求闘争と普天間

 炎天下開始された反戦地主の土地立ち入り要求闘争。
 第一ゲート前に集まった二千名の闘う人々。反戦地主の土地立ち入り要求に、防衛施設庁は仲介もしない。(特別立法の後ろだて)。
 全国の支援の仲間の訴え、反戦地主の要求と決意。基地内に残るガジュマルの大木は、そこに沖縄の人々の住居があった証(あかし)。刻まれた年輪は、沖縄の人々の土地が奪われてきた年数を一つ一つ刻んできたものであり、その太さを実感するとき、さらに土地強奪への怒りをおぼえる。
 基地司令部にむけたデモが開始された。
 延々と続く色とりどりの旗。
 地域のおばあさんが道路わきから「ご苦労様です」との声がけ。思いやり予算でつくられた高級マンション(おっと米軍将校用宿舎)の群。つつましやかに、山辺に沖縄の人たちの住居。広大なグリーンとスポーツ施設。騒音下におかれる沖縄の人々。そして普天間小、中学校。
「ピースサインとそこ抜けの笑顔」にはげまされ、コザ・ロータリーを出発してどれほどたったかわからない。延々と続く「夾竹桃」の垣根。基地の目隠しのための「思いやり」。極東最大の基地嘉手納飛行場はかいま見ることもできない。海側は米軍専用ビーチ。
 いったいどうなっているのか。
 一路普天間基地へと一生懸命に歩く。途中で平和行進団と合流。みんな日焼けした顔、顔、顔。(私たちは真っ赤焼け)。
 今回の集約地は普天間中学校グランド。普天間についたK君と私は、普天間第二小学校を訪れると、組合旗を掲げた先生方に会った。
 「宮城からきました」。
 「本当にご苦労さんです」。
「中に入って見ていいですか」。
「ぜひ見て行ってください」。
 校庭では子供たちが野球の練習。その上を戦闘ヘリが飛びかう。グランドから十メートル。そこは治外法権の世界「米軍基地」。
 「子供たちの教育ができる環境ではありません」と、先生たち。
 日米安保の縮図がかいま見えた。
 普天間中では、ブラスバンドの歓迎の演奏。(私の耳でもわかる安室奈美江、パフィーの歌だった)。続々平和行進団。麦茶の接待を普天間中の生徒。「イエイッ」と声が飛びかい、二階からピースサイン。全国から一万人。年々増える参加者。沖縄の闘いに引きつけられる人々が確実に増えていることを実感しつつも、心の中は、ここに結集した本土の労働者、市民が、もっともっと、あの百万人署名を「ヤマト」において実現しきっていたらという思いが胸をよぎる。
 アワモリとクースと沖縄料理。六時間以上歩き続けたクタクタの身体を休めながら、頭の中がさえわたっていく自分を感じ、そして、「安保が見える沖縄」を眼のあたりにし、「なぜ」、「どうしたら」を自問自答している自分を見た。

 数日の沖縄であったが、私にとっては想いをはせていた沖縄にやっと行けたという想いでいっぱいである。
 「沖縄と結ぶ王城寺原の心」を掲げて実弾演習場移転反対を闘うとき、沖縄での一つ一つの出来事が、私たちの運動を見ているということを感じながら、闘い続けていきたい。
B・スカンサクマールにインタビュー
                マレーシア労働運動の展望を語る                             
                                                                          聞き手 アロキア・ダス

 MTUCの起源

(注 アロキア・ダスはマレーシア労働運動をその起源から現在に至るまで歴史的かつ全体的に追跡している。長い間、運輸機器産業労働組合の指導者を続け、現在は労働者教育事業に携わっている。「ノット・ビヤンド・リペア」(一九九一年香港で出版)の著者である。一九八七年には、かの悪名高い「国内治安法」で逮捕され、一五カ月間拘束されたが、起訴されずに釈放された)
ダス 現在の労働組合運動の主流はマレーシア労働組合会議(MTUC、最初はマレーシア労働組合協議会の名称)だ。これは、一九五〇年代初めに存在していた進歩的な労組運動に対抗するために、植民地当局が設立したものだ。その目的は、反共主義を基礎とする労組指導者の集団を形成し、労組協議会を形成する
ことだった。
 その運動の先頭に立ったのがイギリスの労働組合会議(TUC)がマレーシアに派遣したジョン・プレイジアで、植民地政府の労働大臣と結んで進歩的な労組運動を破壊する目的をもっていた。この動きの背景には、当時のマレーシアの次のような状況があった。マレーシア共産党や、後にMTUCとなる陣営に属さない労働組合活動家が中心となった進歩的な勢力による反植民地闘争が展開されていた。この運動は非合法を強制され、「非常事態令」のために破壊された。
 プレイジアは、植民地政府の政策に沿った労組とするために、英語をしゃべる労組活動家を彼の影響下に置こうとし、その過程で一九五〇年にMTUCが生まれた。
 MTUCは、労組のセンターとして行動したが、法的には承認されず、社会法で登録され、真正のナショナルセンターとしては機能できなかった。MTUC設立の条件の一つは、ストライキを行わないと確約することだった。
 非常事態令以前の労組は、共産党の影響を受け、合同労組だったので動労者が職種や技能ごとに分断されることはなかった。これは、各種産業が未発達だったので、労働者階級の運動にとっては好都合だった。
とりわけプランテーションが産業の中心で、国民所得の大部分を占め、しかも植民地政府の資本蓄積戦略の柱となっていたからである。
 当時のブランチーション労働者の運動は、左翼に属し、経済課題だけでなく、社会問題をも取り上げ、当時、主としてインドと中国から来ていた移民労働者にも影響を及ぼしていた。植民者は、労働者をプランテーションに拘束し、他産業の労働者との交流を妨害した。彼らはまた、中国人労働者には麻薬を、インド人
労働者には椰子の実からつくるアルコール飲料にふけらせ、労働者の分断を図った。こうした客観条件からして、ブランチーションで労働組合運動が前進するのは、極めて困難だった。

労組運動の現状は

−(ダス)以上の流れを受けて、組合運動の現状はどうなっているか。
スカンサクマール 進歩的な運動を壊滅させた後にイギリスが形成した労組は依然として残っている。労組内の左翼が逮捕され追放された後の真空状態の中に、協調派の指導者が乗り込み、彼らの影響力は今日でも強い。植民者が用いた別のやり方は、組合の承認のために国家の登録(基本的には労働組合登録機関による)を必要とすることだった。
 こうして国は、自らの意思で労組の乗認、否認を自由にできた。中心的な労組連合体は、左翼の影響下にあり、三〇万のメンバーを擁していた。そのパンマレーシア労組連合(PMFTU)が登録を認められないとは考えられていなかった。
 現在でも労働組合は、一九五九年に制定された労組法による監督官庁の規制に従わなければならない。MTUCが設立された時点で当時の指導者らは、新しく成長しっつある産業労働者を組織することよりもむしろ、法的な承認、法的な代表権に関心を寄せていた。組合官僚の一部は、企業を設立して事業を起こすべきだと考えている。(注 銀行員労組は最近、自らの本部建物を売却し、エコツーリストエアーマパークの開発に向かっている。その他の組合も土地開発業者と組んで不動産事業に乗り出している)だが、こうした事業のすべては破産した。というのは、これら組合の役員は、共同事業会社役員の肩書きを望んだからであ
る。組合は非常に官僚化している。組合の書記長は、物事を専断で決定する。彼らは、建物への投資やその売却を勝手にやるし、建物を特定の個人や関係者に貸してリベートをとったりもする。最大の労組、プランテーション労働者労組は、自前のオフィスを所有しているが、それだけでなく学生用のホステルを建設し、これらの資産を売却して借金を支払ったり官僚の賃金を支払ったりしている。
 いい加減な計画に投資した労組員の膨大な資金を、民主的な組合活動に関する教育や各種の組合行動、運動への参加という組合員自身のために使うべきだったのである。

−最近、MTUCとマレーシア政府との間で緊張が高まっているが、その理由は。
一九五〇年代後半と一九六〇年代に、これら組合指導者は、労働党から立候補した。政府は、労組が政治に関与するのを不快に感じた。産業発展につれて政府は、一九六七年、産業関係法を制定し、労組運動の抑制を図った。
 その理由は、労組が戦闘的あるいは民主的だったことではない。ただ国が、労働者階級が自らの政治的な代表をもつことをきらったからである。政府は「新経済政策」(これはマレー人及びその他の土着の民族を総称するプミプトラを優遇するプミプトラ政策と同義)を自由に推進できる条件を必要としていたのだ。
この政策は、一九六九年五月に発生したマレー人と中国人との衝突によって民族間の緊張が高まった時点で導入されたものである。
 MTUCに対する不満は、一九九〇年代にマレーシア労働機構(MLO)が政府の祝福を受けて設立されるまで続いた。これが設立された理由は、電子労働者全国労組の承認を政府が拒否していることについて、MTUCが国際的に異議を申し立てたことにある。
 また雇用安定基金(EPF)理事会や国際労働機関(ILO)などの三者機関で、どの労組が労働者代表になるかの点でももめていた。政府はMTUCよりもMLOを支持した。

 政府との関係

−MLOが自主的に解散をし、MTUCに参加するという決定をどう見るか。
 MLOが存在し、しかも政府と近い関係にあることがすべての関係者にとって困惑の種になっていた。というのは、MTUCは国際的な労働組合に支持者がおり、ILOにさえ支持者がおり、そうした支持者が適切な代表権の問題を提起していたからだ。国内的には、MLOは、経営者の支持を受けており、彼らの利益を代弁している。例えば、EPFへの拠出金を一〇%から一二%に上げるのにMLOは反対をした。
 人的資源相が親政府のMLOと政治的なMTUCとの統一を媒介した。私は、これによって労働運動全体が右寄りになり、これまでよりも保守的になると考えている。組合指導部は、親政府となり、自主独立の見かけも減って政府にイエスしか言わない存在になっていくだろう。
 二つの組織には多数の腐敗行為があり、政府はこれらに関する情報を利用して、組合指導者らをしばっている。MTUCの現委員長、ザイナル・ランパクに関して、裁判所に彼を告発するかどうか検討中であり、これが彼に対する政府の切り札になっている。政府筋の最近の発言は、彼が着服した金を戻せば告発されないだろうことを示唆している。

−経済成長率は年八−一〇%だが、労働者に何か利益はあるのか。
 経済はブームを続けており、公認労働運動指導部は、マハティール首相の二〇二〇年までにマレーシアを完全な先進国にするという二〇二〇年ビジョンを支持し推進すると表明している。
 こうした成長率なのに政府は、さらなる労働条件切り下げを狙っている。政府は「マレーシア株式会社」の考えを打ち出し、労組を国家と資本に対する社会的なパートナーと位置どけている。
 だが、これら三者の間に平等な権利もなく、法的な抑圧のために自立した民主的な労組が存在できないのに、どうして社会的なパートナーになれるだろうか。労働者階級が必要としているのは、こうした法律やシステムから自由になることだ。
 自立した労組運動を困難にしている別の要因に、マハティール政府が「ルック・イースト」政策として、西欧のやり方ではなく、日本や東南アジアの経験を学んで経済発展を追求する中で、企業内労組をも導入していることがある。マレーシア労働組合の大半(約五五%)は、経営者がつくった企業内組合である。こう
した組合内部の活動家は、組合員の福祉に深い関心を寄せているが、しかし経験不足や他の連動との交流が欠如していることを悩んでいる。MTUCは、これらの問題に応えようとはしていない。

 国際的な関係は

−自由貿易地域やその他の場所で外資系電子企業労働者を組合に組織する計画が挫折したことに、国際的な労働運動関係者が問題を提起しているが。
 マレーシアは世界最大の半導体輸出国で、電子産業には約二〇万の労働者がいる。また、これらの産業では技術移転はなく、労組を結成させないと投資家に保証している。
 過去二〇年間、これらの産業で企業内組合結成の様々な動きがあったが、いずれも失敗に終わった。成功に近い例はRCA・ハリス労組の揚合だが、この組合は、産業裁判を勝ち取り、一九九六年十月一日には職場復帰をすると伝えられている。再度、組合を組織する動きが始まるだろう。政府は、これら「斜陽産業」の企業に対して、単純な組立工場としては先が長くないので、ハイテク産業に移行するよう指導している。政府の政策が実現するなら、労組の結成はさらに困難になっていく。
 ここで興味を引くのは、MTUCは政府が電子労働者労組を承認しないことを知っており、しかしながら承認要求を繰り返し提出している点だ。政府が譲歩して、全国組織ではなく州(マレーシアは一三の州と二つの連邦直轄地域で構成される連邦制度をとっている)を単位とする労組を認める可能性があった。だがMTUCは、この方法を受け入れなかった。
 例えば二〇万の繊維労働者が州単位の労組を結成しようとすると、MTUCはこれに強く反対するだろう。MTUCがすべきなのは、まず州単位の労組を結成して、ついでその全国連合組織をつくることだ。MTUCの基本的な考えは、企業内組合は効果がないというものだ。もちろん、MTUC自体も雇用ベースで組織されているから効果的ではない。しかしRCAハリス労組の場合、立派な指導部のおかげで、六年間にわたって組合の承認を要求して闘い続けることができたのだ。これは、われわれが直面している状況において注目すべき点である。したがって企業内組合の問題に関して、一般原則から方針を考えるよりも、むしろそれぞれの事案ごとに検討すべきだと思う。

−民族問題がマレーシア政治の中心問題になっているが、労働運動に関してはどうか。(注 マレー人が六〇%、中国系が二七%、インド系が八%の民族構成。一九五七年の独立以来、与党連合である国民戦線を構成するのは、この三民族。政府は、マレー人優遇政策を採っている)
 マレーシア労働力人口の七〇%から八〇%は若いマレー人労働者であるが、その指導部、ことに民間企業労組の指導部の大半はインド系である。この事実を利用して政府と経営者は民族的な分断を図り、トラブルメーカーと言われがちなインド系人に従うマレー労働者を非難して緊張を高めてている。もちろん、インド系人が本来的にとトラベルメーカーというわけではなく、彼らが工場やプランテーションで占めている位置や、それらの労組がインド系人に指導されている事実によって、そういわれているのだ。
 ここにはまた、ノンド系人労働者階級の闘いを始めとする歴史的な要因も働いている。マレーレア社会ではいつも、民族問題が政治化し、それに伴う緊張が不愉快な頭をあげており、この事実が権力に役立っている。しかし、マレー人労者老が自らの代表としてインド系人を選出している事実は、労働者の団結にとって民族問題が必ずしも障害ではないことを示している。
 労働運動は、民族問題が大きく作用していないマレーシア社会の例外的な一部である。だからこそ、立法ではなく闘いを通じて統一した社会を建設する道への希望は、労働運動にこそある。そのためにも、国家、資本、政党から独立した労働運動を建設しなければならない。そうした労働運動こそが、労働暑階級の利益
を最もよく代弁できるのだ。
一九九四年のMTUC執行部選出の過程で、公務員と民間との労働者は私が先に述べた民主的な考えを実行し、「第三勢力」という名のグループを形成した。こもグループは、最強と思われるポストを獲得した。委員長と書記長では僅差で敗北した。この新しい勢力の出現によって、力のバランスは右に移るだろう。しかし、第三勢力は闘い続ける。

民族問題の影響

ー労組指導部は「不法」外国人労働者を閉め出すよう要求しているが。
これは非常に重要な問題だが、MTUCは適切に対応していない。現在、約二〇〇万人の移民労働者がいる。その大部分は、インドネシアなどの東南アジアやフィリピン、バングラデシュから来ている。彼らは当初、低賃金労働、プランテーションでの苦労が多い臨時雇い、建設産業などで就労していた。しかし現在では、製造業で就労し始めている。
 一九八〇年代後半から九〇年代前半のように労働力が不足していたときは、労組は、これら労働者の賃上げ、労働条件の改善などを要求すべきであったが、そうしなかった。外国人労働者の雇用が一般化するにつれて、賃金が抑制されてきた。
 マレーシア人労働者と外国人労働者の間に摩擦がある。その理由は、外国人労働者の雇用条件の一つに経営者による住居の提供がある。しかしマレーシア人労働者には、そうした条件はない。つまり企業が低コストで外国人労働者に住居を貸し出しているが、貸し出し用住居そのものが少ないので、いきおいマレーシア人労働者が借りる費用が高くつくことになる。これが社会問題化しており、こうした認識からの解決が必要である。われわれは、外国人労働者の流入を歓迎するが、同時に彼らが労組員になるべきだとも考える。そしてマレーシア人労働者と同様の便益を受けるべきだし、彼ら固有の問題にも注目すべきだ。
 問題は爆発寸前の状態に近づいている。外国人労働者は、マレーシアに来るに際して、雇用主や斡旋業者に借金をしている。彼らは一二時間労働をしており、その理由の一端は借金の支払いにある。しかし生産性が低下する傾向がある。というのは、ことにバングラデシュから来た多くの労働者は、農村出身で技術水準が低いからだ。そのうえ職業訓練を受けていないので、安全性の低い工場設備と劣悪な労働条件のために、負傷したり、死亡する外国人労働者が多いという問題がある。
 外国人労働者の多くが不法移民であり、しかもその流入が続いている事実は、経営者が彼らの流入を要求していることを示している。彼らを送還するのは不公平だ。進歩的な解決方法は、外国人労働者とマレー
シア人労働者とをまったく同等に扱うことにある。外国人労働者を組合に組織するのを法律は禁止していな
い。多くのバングラデシュ人労働者は、闘いの経験をもっており、戦闘的である。彼らが積極的に闘おうとしない労組に入ろうとしないのは、むしろ当然だ。MTUCは、こうした外国人労働者を組織化しようとはしていない。MTUCを恐れているのは、外国人労働者ではないのだ。

−マレーシア労働運動の将来展望はどうだろうか。
 現在、岐路にある。つまり、初期の労組とその指導者がもっていた夢や希望を持続して、そして自らのエネルギーと生活を壊牲にしてでも闘い続けるのか、それとも国家の単なる協力者になっていくのかの岐路にある。進歩的な労組運動の勢力が指導権をとり、民主的な傾向が大きく育ち、腐敗した非民主的な指導者を追い出すということがなければ、労働組合運動の未来は暗いものとなる。マレーシアの一般組合員は自らの要求に関して十分に戦闘的だが、しかし指導者はその要求に応えようとしない。組合運動を再度発展させようとする政治的な決意が必
要である。(インターナショナルピユーポイント誌五月号)

ヨーロッパ反失業闘争

欧州各地から
アムステルダムヘ大行進

 六月十四日、欧州連合加盟十五カ国から徒歩による大行進がアムステルダムに到着する。プランソア・ベルカマンが、この失業や社会からの疎外である周辺化、雇用不安と闘う∃ーロッパ大行進を紹介する。

決定に至る過程

 今年の六月、ヨーロッパ各国の首脳がアムステルダムで会合を開き、マーストリヒト条約の修正やヨーロッパ連合の機構改革、東欧諸国の加盟問題、共通の内部政策と対外政策に至る道筋などを決定する。建前としては、これが加盟各国首脳による、共通通貨採用をはじめとするヨーロッパ統合戦略の次の段階を決める
最後の機会である。
一九九六年十月にマドリードで開かれたヨーロッパ首脳会談に平行して、マーストリヒト条約のネオリベラル的な本質に反対する大規模な社会運動とフランス公共労働者のストライキが展開された。
 フランスのストはネオリベラリズムの勝ち誇った態度に最初の裂け目をつくり出したが、西ヨーロッパ労働連動は全体として混乱したままで、「ヨーロッパ問題」に基本的に沈黙を守った。欧州労働組合連合(ETUC)は、資本主義の統合に関する順応主義と受け身の姿勢に支配されていた。多数の組合指導者は、ヨーロッパに関する「一つの真実派」に属している。ETUCは、関係する労働者の動員を図ったが、しかしヨーロッパ全体における歳出削減や労働者に対する攻撃を「正当化」するマーストリヒト条約が定める基準そのものとは闘おうとはしなかった。
 労働運動のトップが不可能なことを可能にしようとしている中で、労組代表、失業者のグループ、社会運動、第四インターナショナルを含むラジカルな潮流などによる緩やかな集団が、一九九六年はじめにトリノで会合を開き、労働運動の側からする一定の対応をつくり出そうとした。同年六月に再度フィレンツェで会談をし、そこで簡潔なアピールと一つの提案を採択した。つまりヨーロッパ首脳会談が行われるアムステルダムを集約地点とするヨーロッパ全体を貫く大行進である。
 これはしかし、危険な面もある提案だった。左翼のすべての人がこれが可能だと考えていたわけでなく、あるいは、こうした努力が実行に値するとは考えない人もいたからである。幸いなことに、この計画は実行に移された。
 行進組織者たちは、政府筋の公式発言の裏にヨロッパ統合を妨げる通貨と政治の面で様々な矛盾が存在していることを知っていた。資本主義的な統合過程が、苦痛なしに、まっすぐに進むはずはないし、進むことは不可能だ、と。
 また、ヨーロッパで持続する大観模な失業が「新たな」社会問題を「豊かな」国に生み出していることをも知っていた。しかも、ますます爆発的になっていく社会問題であることを。公式式統計で千八百万人の失業者。そのうえ千八百万人はパートタイム労働者だ。彼らははフルタイムでの労働を望んでいるのに。
 われわれの挑戦課題は、この巨大な問題をヨーロッパ社会の中心に押し出すてこを見出すことだった。労働運動と社会運動の公式機関は、何もやろうとしていなかった。フィレンツェ会議の出席者らは、言葉ではなく、行動を望んだのであった。そして問題の規模を正確に把握し、適切な反応をつくり出すことを。

不均質な集団

「失業、排除、不安定に反対する行進」計画で形成された集団は、次の三つの理由で非常に優れたもので
あった。
●強い決意をもって行動したことー欧州連合に関係する労働と社会連動における優先順位の大幅な変化を正当に要求できる課題に関して。統合に関して、通貨統合よりもむしろ、その社会的な側面を重視したこと。
●周辺化された人々や社会的に排除された人々が集団の中心に位置していたこと。ここには、行動を起こす決意のある若者、老人、移民とヨーロッパで誕生した彼らの子ども、職のあるものと失業者などが集まっていた。しかも、広範囲の労組、フェミニスト、反人種差別運動などの活動家から支持を受けた。こうした
集団の存在は、ネオリベラリズム政策に対するわれわれの厳しい批判や、よりよい、もっと平等な世界を、というわれわれの願いを具体化したものであった。
●これは、全ヨーロッパ規模の連合であり、各国ごとに大小はあるものの、欧州連合加盟国にとどまらず、その他の七カ国でもグループが形成された。

一九九七年二月、ブリュッセルに六百人が集まり、行進を決定した。トリノ会議からちょうど一年後である。十五カ国で委員会ないしは集団を組織し、これ以外にノルウェーとスイスにも組織ができた。ここに集まったそれぞれの集団の代表は、政治的にも戦闘性の面でも非常に違いはあったが、ブリュッセルの全体会議は、トリノ会議以来、弱い集団はそれなりに自らを確立し、強い集団は一層の前進を遂げたことを示した。

新しい声

 ブリュッセル会議参加者の半数以上は、これまでこうした会議で光を浴びたことがない人々ーホームレス、証明書類をもたない移民、失業保険が切れたものを含む失業者であった。集会の基調を決定したのは、ストライキを闘っているリバプールのドック労働者、工場閉鎖の脅威に直面しているベルギーの鉄鋼労働者、フランスの「書類なし」という移民労働者の代表などであった。
 参加者それぞれの闘いや要求について議論した後、全体会議で共通要求を詰めていった。金持ち上位の課税強化、女性労働者に対する平等、週労働時間の短縮、若者に対する特別措置等々が検討された。
 参加者は、運動の基本構造を決定した。すなわち、アムステルダムを集約地点とする十八のコースによる行進、コース沿いに歓迎委員会を設置すること、職業センターや学校、大学、自治体の役所などを目標とした行動、公開集会と討論会の開催などが決められた。
統合推進者のコーロッパ中心地主義傾向に対する批判を明確にするために、第一の行進は、モロッコのタンジールとサラエボから出発することにした。出発日の四月十四日に、同時にヨーロッパ全体で行動を展開する。
 共同計画を作成するのは楽ではない。というのは、参加者の社会的な状況、政治性、活動経験、優先事項 などが大きく違うからだ。行動の詳細に不一致があったし、運動の基本目標に関してさえ不一致があった。ゆっくりと、だが着実に三つの合意点に向かって前進していった。フィレンツェアピールが行進の基礎文書となった。ブリュッセル会議参加者は、マーストリヒト条約の統一基準に現れているネオリベラル、マネタリスト的な考えに対するわれわれの反対にも注目を集めるようにすべきだと決定した。また行進委員会はこの連動に参加する活動家やもっと広範に労働運動内部でも、現在の欧州連合に代わることができる戦略に関する議論を組織し展開すベきだとも確認した。
 ヨーロッパ事務局(フランス、ベルギー、オランダの行進委員会による構成)が作成したアピール草案を採択しなかった。おそらく、そうした文章を提案すること自体が時期尚早だったのだろう。あるいは遅すきたのかもしれない。いずれにしても、参加者は中心的な文言に関して意見が分かれていたし、幅広く相談した文書ではなかったので反対はありえたことだ。
 その結果、アピール案は議論の「土台」として確認され、ブリュッセル会議で表明された様々な意見が付け加えられた。

運動の方法論

 いくつかの潮流や個人は、この行進を自らの見解をより広範な人々に伝える絶好の機会と認識した。彼らは「可能な限りの自律」を強調し、「公然とした意見表明」の機会の拡大を訴えた。彼らは、行進運動内部で正しく活動する方法と、運動の政治目標とをしばしば混同した。明確な社会主義的目標を追求する新しい世代の活動家化たも見受けられた。彼らは、運動綱領に一層の明確さを求めた。行進がまったく新しい社会展望を体現すべきだとか、欧州連合諸国の政府と完全に決裂すべきだとか、労働運動の伝統的な指導部に挑戦すべきとか、こういった問題では、参加者全体が一致していたのではない。
 掛け金は高額だった。目標は、マーストリヒト条約定めた統合過程、統合計画を中止あるいは挫折させることだ。ますます多くの人々が欧州連合のネオリベラル的な本質に批判的になってきているから、行進が労働運動内部のより重要な潮流の間に大きな反響をつくり出していく可能性はある。そのためには、ヨーロッパ行進委員会内部になぜ対立が存在するのかを理解しなければならない。
 すなわち、この計画に積極的に参加してきたほとんどの勢力は、広い意味での社会運動の最もラジカルな部分である。だが、修正された「運動綱領」は、非常にに広範かつ開かれたものだった。実際、この文書は、以前はマーストリヒト条約が定めた過程を支持したり、あるいは受け入れたが、条約の反社会的な影響やそれが生み出す政策に反対する人々を対象としたものであった。 社会民主主義潮流の政治と労働連動の指導部は、はなはだ困難なジレンマに直面している。彼らが欧州連合と通貨同盟を支持し続けるなら、一般大衆と対決せざるをえない。ますます多くの人が、マーストリヒト条約の統一基準がネオリベラリズムであり、一九九六年十月にタプリンで開かれた首脳会議で合意された「安定協定」がネオリベラリズムそのものであることを理解するようになっているからだ。ヨーロッパ統合が進むにつれて、かってなく労働運動と社会運動との連動が強まっていく。ことに、労働運動内部のより行動的な部分と、フランス、ドイツ、ベルギー、オランダといった統合推進諸国で。
 従って労働組合官僚と社民政治家は、「ランプリング」の世話を引き受けようとする。だが、そのためには、これまでの欧州統合、マーストリヒト条約、統一通貨支持といった自らの過去に挑戦しなければならない。自らの過去に対する反省をためらえばためらうほど、彼らへの不信は強くなっていく。

ヨーロッパ行進戦略

 行進準備の最後の週において、組織委員会は、運動にさらに力を与えるために、二重の戦略を採用した。一つは、ベルギーのルノー工場閉鎖などと闘う労働連動との連携を図ったことである。同時にヨーロッパ行進委員会は、もっと広範囲な労働運動に対して、開かれた心をもって接した。ますます多くの労働者が、マーストリヒト過程の破滅的な側面を認識するようになっており、そこから労働運動の要求と戦略に関して一定の結論を導き出し始めているからだ。こうした労働者を行進の側に獲得することが極めて重要である。
 この運動の中心は、マーストリヒト条約の統合基準に反対することであり、失業と闘い、賃金切り下げのない労働時間の短縮を実現することであり、こうした課題を現在の統合に関するヨーロッパ規模の議論の中心に据えることである。フィレンツェアピールは、欧州連合に対抗する思想としては確かに適切ではない。
だが、現在の運動にとっては、十分すぎるほどの文書である。
 ヨーロッパ行進が掲げる要求は、労働運動や社会主義連動に満足していない人々を結集していく基礎になりうる。より多くの労働者がこの行進を観測するだろうが、しかし、自ら行動に参加することには幾分のためらいがある。ここにこそ、課題がある。
(インターナショナルビユーポイント誌5月、288号 仏語インプレコールからの転載)