1998年2月10日         労働者の力           第97号       

現実との格闘から社会主義の復権を
大量失業時代を闘う過渡的要求の体系

                                     高木 圭


現代資本主義の「体制的危機」という問題が論じられはじめている。資本主義が深刻な、ある面では「恐慌直前」というような姿を見せはじめている。大量失業時代という状況は、新自由主義(ネオリベラリズム)路線のもとでは当然にも現れてくる。そのなかで社会主義的な綱領がどうあるべきかを解明していく理論的課題が再浮上せざるをえない。当面の問題として、第一に金融危機の状況、第二に政府問題、すなわち行革問題、第三に地球温暖化を中心にする環境資源問題、第四に沖縄問題と新ガイドラインというセクションに全体として答えを出していく具体的な努力を通じて綱領的課題へ接近していく必要がある。

金融危機が問いかけるもの
金融の「社会化」と過渡的政策


金融危機への公的資金投入は、十二月末までに三〇兆円規模のものとして公表された。途方もない巨額さだ。端的にいえば、一九八〇年代、九〇年代を通じて世界経済の主流を占めてきた新自由主義経済が明白な破たんを示しはじめた徴である。
国家予算の四〇%に接近する巨額の資金が金融資本にそそぎ込まれる。日本だけではない。韓国は深刻なウォン危機にあり、東南アジアもそれ以上の深刻な破産的な金融危機あるいは金融不安に襲われている。八〇年代から九〇年代にかけたバブル的経済のつけがまわってきているわけだ。新自由主義経済(新古典主義経済の焼き直しだ)では、強い者が勝ち、弱い者は抵抗しない限り大変な被害にあうという結果になるが、今回の金融危機にそれが如実に現れた。
二〇世紀の前期から中期には、資本主義の経済政策でもケインズ主義などの影響のもとで「国家的な介入」が当然視されてきたのだが、それが七〇年代以降逆転した。ケインズ主義的な傾向が主流になるのは一九三〇年代であるが、第二次大戦を経て六〇年代に至る時期、すなわち左翼側の抵抗と闘いが一定の地歩を固めた時期には、ケインズ主義は保守派を代表する理論であった。つまりケインズ主義を採用することで攻勢を強める左翼陣営に対抗しようとする発想である。
しかし七〇年代の末、資本主義の最も「傾いてきた」国、イギリスから国の威信をかけて資本家の威信を防衛しなければならないという新しいナショナリズムが台頭した。それは「反ケインズ主義」を唱え、ケインズ主義の「大きな政府」に対置した「小さな政府」論をキャッチコピーとして売り出した。ケインズ主義は労働者や民衆への社会的保護を重視するために大きな政府となり、イギリス病を招いた要因の一つだという、相当に巧みなキャンペーンが社会を席巻した。
このイデオロギーを通じて先進資本主義各国の資本の強化が図られたのだが、その政策の矛盾のつけが一挙に経済成長の最も著しかった東南アジア、韓国、日本において金融危機の到来となって表現されたということである。
 新自由主義政策の柱の一つである資本移動の自由化は、投機的な金融活動の国際的なまん延を導き、不断に移動する巨額な資金が一国の金融状況を左右するという事態にまで達したからである。国際的な資金に依存してバブル化し、そして破たんした各国の経済は、それらの資金の引き上げによってたやすく打撃を受けてしまう。
公的資の金投入が行われなければ「金融恐慌」から製造業へと波及する「恐慌」が起こりかねない状況に追い込まれている。
こうした状況に対する労働者側、社会主義の側の対応が問われるわけだが、大きくは二つの方向が考えられる。
まず一つは修正資本主義的対応である。この方向は部分的には、すでに現実の政策としても政府によって緊急に発動されはじめてもいるものだ。修正資本主義の立場は要約すれば次のようになる。
 経済とは資本主義、社会主義を問わず「公正、公平(衡平)」をめざすものだ、と。(金融)資本は、好景気の時期は「放任」を唱え、富める者はますます富み、金力と権力を集中し独占していく。バブル的な環境が崩壊すれば、中小金融資本救済のために国家資金が投入されるように、手のひらをかえして国家の援助を声高に求める。
 そこで投入される国家資金は消費税などの大衆収奪によって得られた資金に他ならず、社会的な公正・公平は一切考慮されない。こうした不公正を打破するためには、株式などの金融取引に高度の累進課税システムを導入する必要がある――と。修正資本主義論者のこうした立場、ケインズ主義が復活する理論的可能性は当然ある。
二つは社会主義の立場からの対応である。問題の核心点は「金融の国家独占」という概念を提出していけるのかどうかということにあるだろう。一般に社会主義者は現在、社会化という表現はできるが国家独占には、ためらい、ないし否定的気分をもっている。国家独占ということによって経済的活力が保てるかどうか分からないという意識が反映されている。旧ソ連邦の戦時共産主義――内戦時代の強硬手段――は、はっきりと失敗した。さらには一九二九年以降のスターリン時代が国家独占によって経済を破たんさせた歴史がある。
しかし社会化という一言で社会主義の当面の展望をくくるには、どうしても概念としての抽象さを克服できない。社会化の具体的姿が国家独占でいいのかどうか、他の方策が必要、可能なのか――この点を真剣に検討しなければならないし、その検討作業に取り組まなければ社会化の具体的イメージは生まれてこない。ここが社会主義にとって解明すべき課題として残っている。
だが修正資本主義的、あるいは社会主義的、そのいずれの方向をめざすにせよ、国営化、社会化は、避けて通ることができない問題であることは間違いない。
飲み食いという人間の最も基本的な欲求を満たす最低生活を営むことが経済の基本であるとき、投機によって一方の側だけが儲けるということは、資本主義にとっても「公平」を欠く。社会化の問題は当然日程に上るのである。修正資本主義的(ケインズ主義的)方策と社会主義的対応との間に、はじめから絶対的、非和解的な隔たりがあると立てることは誤りだろう。改良主義的な要求を包摂しつつも、それを社会主義的解決へと進ませる、それを「過渡的要求」と社会主義の側は規定するのである。
当面の結論としては、ケインズ主義的な国家的な介入、高度の累進課税システムを採用するという方向性――これを過渡的な政策として採用するのか、それとも金融の国家独占を直接に出していくのかは、労働者側の強さ、不公平感に関するどのような意識を持つのか、抵抗の意識を持つのかにかかってくる。そのいずれを志向するにせよ、最低バブル期に儲けた人々への償還――経理の公開や累進課税など、一見、改良主義的に見える要求――社会主義的見地からは「過渡的な要求」の具体的な項目を早急に整理しなければならない。

新自由主義と「行革」
彼らの行革とわれわれの行革

第二の「行革問題」。これも新自由主義路線の下で案出されたものだが、素直に見て、確かに行革や規制緩和が必要な分野、対象は多々あることは事実だ。戦後期から引き継いだままの過剰な行政の介入・関与、官僚や族議員の横行、横暴、利権・権益の乱用など、長らくつぶせないままに放置されてきたことは多い。だが再編の仕方が極めて「政治的」なのだ。
例えば、現在の日本の人口構造をみれば、高齢化、少子化、さらには若年労働力の意欲・質の劣悪化――世界的な現象でもあるが、特に日本の場合に顕著である――など、トップヘビーになっており、財政的に支えきれないという問題がある。だが金融問題と同様に、新自由主義的再編はそれに応えられるものでは決してない。
 彼らが進めている行革とは、端的には弱者負担の強化、再編すべき社会的、産業構造的な方向性の旧態依然、大衆収奪による膨大な公共投資資金の獲得など、「健全化」「スリム化」とはまったく裏腹の、かつ「公平感」を著しく欠いている代物である。ケインズ派経済学者の伊東光晴氏も最近、行革を批判し「行革や規制緩和はかえって大きな政府をつくる」と述べている。
「弱者切り捨てによって小さな政府をつくる」というのが行革の論理のエッセンスであり、労働者などの「弱者」の政治的・経済的民主主義を切り捨てることにほかならない。これは旧ソ連邦のスターリン主義が採用した労働者民主主義を抑圧した方法の、まさに裏返しと言うる代物なのだ。
さらに強調されるべきは、まともな科学者なら当然にも否定する高速増殖炉や核融合研究などに巨額の資金をつぎ込むという「壮大な無駄」が強引に継続されていることである。建設・土木業界に巨額の政府資金が投じられているのと同様に、その資金の調達もまた弱者からの収奪によっている。
行革のかけ声には全面的に反対するものではないが、進むべき方向がまったく逆なのだ。伊東光晴氏が言うように、「民営化、規制緩和の悪い側面」が今後数年間に一挙に噴出する可能性は大きい。
ヨーロッパ型、なかでもフランスのジョスパン政権は、はっきりと新自由主義論理に決別しつつ、拡大する失業に対して雇用確保のために苦闘しているが、こうした弱者に対する社会保障の努力がなければならない。
社会主義を掲げる労働者が認識すべきことは、改革の要求というものは、それを裏打ちする階級的要求を掲げた闘いなしには決して良くは進まないということ、大きな政府や小さな政府などの問題の内実は、結局は階級的な力関係で決まるということなのだ。まさに「歴史は階級闘争の歴史である」というマルクスの言葉が実感される八〇年代、九〇年代である。
労働者の闘いという観点で、具体的に問題を郵政労働、教育労働で見てみたい。
郵政労働の場合、公社化が日程化されているが、現場で働く労働者の権利、社会保障や、雇用条件をいかに擁護するか。国営化はその一環で語られる必要がある。過渡的要求として雇用条件、一般国民へのサービスのありかた、経営状態など、国営の形態での十分な運用が実現しうる方向などを具体的に提起していくというあり方が必要なのであり、「はじめに国営ありき」という紋切り型で対応することが良いのではない。
教育労働での問題では、いわゆる自由主義史観との関係がある。藤岡という元共産党員の東大教授――彼はアメリカ留学中に右転換したが、留学経験者には結構あるケース。江藤淳と同じで、アメリカ人がここまでナショナリズムなのに日本人がナショナリズムで何が悪いという、日本で戦争の犠牲になった人々やアジアの民衆を無視した日本的ナショナリズムの右翼的居直りである。こうした低水準の学者がマスコミにもてはやされるイデオロギー状況が中高等教育の現場に困難を持ち込んでいる。
日教組が「日の丸、君が代」でほぼ降伏したような事態であるが、保保連合の構図が浮上してくるときに、歴史の書き換えが資本側のイデオロギー攻撃として大々的に出てくることを念頭に置いて戦線の建て直しを急がなければならない。

新自由主義と社会、環境
温暖化防止京都会議にふれて

新自由主義という名称だが、これは「自由」とは無縁である。アダム・スミス的な古典的自由主義とも無縁である。
新自由主義は現実には、強い資本を育成するために国家が介入する路線である。社会に責任を持つことが第一義的なものではなくなっているがゆえに、人的要素を軽視・切り捨て、失業問題などを増殖させていく。旧ソ連とは逆の意味で社会的矛盾、社会的負債を次々に背負い込んでいくことになるのである。
ここで第三に、京都会議についてふれてみたい。
新自由主義の最大の弱点として、全体的な経済的調和を人的側面から見ないと同時に、あと一つ自然環境を射程におさめないことがある。
十二月の地球温暖化防止条約京都会議については、議定書に調印しないよりはした方が一歩前進であったとは率直に認めた方がいいだろう。とりわけアメリカのゴア副大統領が環境派であり、アメリカ産業資本むき出しの論理よりはましであったのは事実だ。
 ただし、クリントン、ゴアが議定書にサインしてもアメリカ議会が批准しない可能性は大である。議会に対するアメリカ産業資本の圧力はさらに強くなると思われる。彼らは、広大な国土と森林を持つアメリカでは自然環境的キャパシティーは大きく、二酸化炭素などの排出量を規制しない方が、EU(ヨーロッパ連合)や日本など環境保全が切迫している国々との競争には有利だと踏んでいる。 
会議の結論としては、EU八%、日本六%、アメリカ七%、先進工業国全体で五・二%の削減という結論が出された。が、はたしてこれでいいのかとなれば、様々な問題点がありうる。
一つには、いわゆる発展途上国が議定書から抜け落ちている点。
 インドネシアやブラジルといった熱帯雨林国における森林伐採が自動車の排気ガス以上に地球温暖化に「貢献」していることは常識である。もちろん、これらの国々が先進国と同様の数字的基準を背負うことがむずかしいのだが、例えば中国という膨大な人口を抱える大国が野放図な産業活動を継続している事態を想定すればどうだろうか。
二つには、様々な抜け道が用意されている点だ。
 アメリカが七%削減に合意した背景である。彼らは今までは環境政策にはさほど努力してきていなかった。今回七%削減に踏み切った理由の一つに、ロシアへの援助と引き替えに排ガス量の権利を買うことが可能と見たからだといわれる。
もちろん日本が国内的には二酸化炭素などの排気ガスの削減に努めてきたとはいえ、それは六〇年代以降の反公害闘争の圧力があったこと、および東南アジア諸国への公害輸出などの結果であり、今回の京都会議でも主催者でありながら、すべて後手後手にまわり、調印した六%削減も産業界からは強い抵抗が表明されている。
EUの場合は、北と南の落差をネット方式というEU全体で覆うことに努力した。
世界的に産業資本の圧力は衰えていない。様々な抜け道や引き延ばしを講じてくるだろうから、現在の国際的な政治環境のもとで温室効果ガスの抑制、削減という目標が効果を発揮するかどうかは予断を許さない。
佐和隆光京大経済研究所所長の著作がある(岩波新書「地球温暖化を防ぐ」――副題が「二〇世紀型経済システムの転換」となっている)。趣旨は、現代の資本主義体制にとっても環境に優しい政策が経済的にも決してマイナスではないのだというものだ。前述した区分でいえば修正資本主義の立場からの著作である。
 その内容にはほとんどもっともだとうなずけるのだが、問題点は誰がそうした活動を実現し、させていくのかというところにある。つづめて言えば、佐和氏は良心的な資本家に訴えるというところにとどまっている。
さらにいえば、現在の地球環境問題の切迫した状況についての視点に鋭さが見られないこともあげられる。温暖化防止の切迫感は、大洋に浮かぶ島国が水没しかねないというところに典型的にあるのだが、佐和氏の著書はそれらには直接はふれず、ごく一般的に極めてソフトな経済の環境型への転換を、特に関西の資本家に呼びかけているという形になっている。
自然環境が突きつけているものは極めて絶対的なもので、地球的規模でトータルにとらえなおさなければならないのだ。そこから各国の努力目標や経済のあり方、開発途上国の森林伐採を国際的にどうくい止めていくかなどが具体的目標にならなければならないのだが、佐和氏はそこにはふれていない。
社会主義の側のいう「計画」が地球人民規模で確認され、そこに「環境社会主義」が目標にならなければならない。佐和氏は「環境資本主義」というべき立場であろう。「競争によって環境に優しい企業が利潤も獲得するだろう」という予定調和的な構造になっている。これでうまくいくだろう、現状よりはましだろうというような「改良主義」型だ。
 資源・環境問題のうち、環境問題は漸進的にしか進まないものだから、氏の論調には傾聴すべき点もなきにしもあらずなのだが、はたしてもう一つの資源問題についてはどうなのか。
石油資源があと四〇年で枯渇するといわれる。佐和氏は原子力を止めろとまでは言っていない。危険性と隣り合わせの技術に頼ってはたして「持続可能な成長」が実現できるのか。そうはいえないであろう。
「飽食、過大消費型」の資本主義ではない、共同体全体としての豊かさ、生産と消費のシステム全体を見直す環境政策をみすえた方向性――全体としての社会化や一国レベルではない国際的な規模での環境政策をNGOなどの民衆規模で出していくなかで、資本にそうした課題の遂行を迫っていく。すなわち過渡的な要求を掲げながら国際的な労働者の勢力こそが環境・資源問題を解決できるのだという方向に進むことが必要だ。
環境問題、軍事問題、政府の作り方――ソ連型モデルではない新しい斬新な社会主義のプログラムの創出が迫られている。ヨーロッパだけでなく日本でも労働者の階級的な反撃は今後ありうる。社会主義思想の再建は抽象的に図ることはできず、具体的な労働者の闘いを通じて現実化されていくだろう。
さらに日本社会の抱える問題点としての農業の危機に対する労働者側の自覚も必要だろう。工業にとどまらず農業を含んだ全体としての社会主義イデオロギーの再建も焦眉の課題である。
(一九九七年十二月二十五日収録/文責は編集部) 

一坪共有地切り崩しをゆるさない!
反対同盟とともに政府・公団も策動と闘おう。


 次の文書は一月一八日の三里塚空港反対同盟旗開き会場で配布されたもの。
 政府・公団は依然として空港の「完全開港」を画策し、その狙いのもとに芝山鉄道早期完成へ動きを強めている。土地の強制収用断念とは裏腹なこうした動きにとって最大の障害が地権者及び一坪共有者の不屈の意志である。公団は再び周辺自治体を通じたり旧地権者を動員したりなど、地権者及び一坪共有者の切り崩し策動を強めているが、こうしたつけ込みを許してはならない。あらためて一坪共有者の皆さんに訴える。 

【資料】
一九九八年一月三里塚空港反対同盟旗開き
芝山鉄道の着工にあたって

一、私は成田空港敷地内三、五〇〇メートルの滑走路建設予定地と芝山鉄道建設予定地に土地を所有しているものであります。私はこの土地を手放すつもりは毛頭ありません。このことをハッキリ意思表示しておきます。
 私が土地を売らないことによって、建設された駅の建物に閑古鳥が鳴き巣を作り軌道のトンネル内に野良犬が住みつく事態が生じてもそれは私の責任ではないことをハッキリ申し上げておきます。
二、三里塚で問われ続けてきたことは、「主権在民」の民主主義の基本が守るべき政府の強権政治によって蹂躙され破壊され三里塚の農民が人間として無視されてきたことにあります。
 私は、民主主義の発展は国民に危害をあたえる政府に対して、その政策の中止を求め、私たち自身の意思と力において政府をいつでも取り替えることができる行動の中で民主主義は育ち発展するものであると確信をしています。
三、三里塚の農民は先祖伝来の土地に生きて行くことを政府の強権政治によって拒み続けられ、あらゆる屈辱と犠牲を強制されてきました。三里塚の農民は「俺たちは人間なのだ」と雄叫び挙げて戦いつづけてきました。この三里塚の農民の戦いに共鳴しあらゆる犠牲と困難に立ち向かい自らの命を三里塚の私の土地に捧げていった全国の多くの人たちのことを生涯忘れることはできません。
 三里塚、木ノ根の私の土地に熱い思いを寄せて下さっている全国の皆さんと思いを一つにして日本の民主主義を守り発展させるために私の土地を守っていきたいと決意を固めております。
四、政府・公団は、私の土地、及び八百名余の一坪共有者の存在を深く認識し、三里塚において民主主義を蹂躙し破壊した歴史的罪の深さを日々反省し二度と過ちを繰り返さないよう誓うがよい。
 一九九八年一月一八日
   加瀬 勉
公共性の考えを守って
         ネオリベラリズムの公共部門攻撃
                                    マキシム・デュラン
 現在、公共部門と社会サービスに対する攻撃は、普遍的かつ世界規模のものとなっている。これは、「公共部門」における公有財産という考え方に対する攻撃のみならず、現に進行している、人間の欲望を充足する社会的方法それ自体の急激な変化の原動力ともなっている。公共部門に対する攻撃が、社会のあり方それ自身の変化を伴うという深い水準で進行しているため、労働運動がこれに反撃していくのが困難となっている。

攻撃されているモデルとは

 第二次世界大戦後(戦後期)の資本主義は、非常に特殊な状況において発展し、その生産性と経済機能を高めてきた。この状況にあっては、公共部門と社会サービスの拡大が鍵だと考えられていた。
 この点を理解するためには、保健衛生や教育などの社会サービスと、エネルギー、運輸、郵便、通信といった社会的な経済基盤たるネットワーク化した社会サービス、国立銀行や鉱山などの国有企業(公共産業)という三つを区別する必要がある。また、国ごとの相違、例えば、アメリカとヨーロッパ、あるいは帝国主義諸国と第三世界諸国といった違いを考慮する必要がある。
 これらの社会サービスは、ある意味で依然として長期にわたる困難な社会的闘いの結果として実現された労働者の夢を体現している。しかし他面では、戦後期のほぼすべてにおいて公共部門は、資本主義を安定させ、その存在を正当とみなさせる役割を演じてきた。
 福祉国家、公共サービス、そして完全雇用――この三つこそが、大恐慌を契機に一九三〇年代に始まった資本主義の危機に対する世界的な解決策であり、また、ファシズムと世界大戦を導いたのであった。この三つはまた、ソ連邦と中国に体現された革命運動の高揚と、ヨーロッパ及び日本における革命的な社会運動とに対する対応でもあった。
 こうした解決策は無数の規制メカニズムを伴っていたが、それにもかかわらず、あるいはおそらく規制のために、後に資本のダイナミックな活動を強化することになった。そして今日、これらの規制が市場を拘束している。この経済モデルに関する理論家たちは、このやり方で組織された資本主義は最大利潤を不断に追求することと、急激に成長する生産力を吸収するために市場を拡大する必要性との矛盾を克服できると結論づけていた。
 ネオリベラルの攻撃は、このシステムを全面的にひっくり返そうとするものであり、これまでのモデルに対する信頼をなくさせようとする共同の企てでもある。
 フランスでは、五十年前に存在した状況への逆戻りは、第二次大戦終了時に獲得したすべての成果、つまり最低賃金制度、団体交渉権、国有化に対する挑戦となってきた。

広範囲な攻撃

 こうした逆転の企ては、次の三つの比較的大きな相互に結びついた傾向の結果である。
 まず第一に、経済面の傾向である。戦後期に形成された様々な解決策がその力を使い果たし、その結果として戦後期の経済成長の長期波動が終わったことがある。
 例えば、かつては特定分野に対する社会支出は、純粋に市場指向の論理からは自立していたが、現在ではもはや需要を拡大できないほどに成長をとげ、むしろ「利潤率」にとって「過剰な」圧力となってさえいる。
 第二に、資本の攻勢の結果、社会的な諸勢力間の力関係が一国的レベルでも国際的なレベルでも変化している。一国的には、危機が深刻であるがために社会民主主義思想に対する不信が強まっている。この考え方は、どんな場合でもますますおずおずと適用されるようになってきた。
 他方、東欧と中欧における官僚体制の崩壊のために、資本主義にとって代わる新しい社会に関する考え方が後退し、資本主義の全世界的な圧力――ことに第三世界において――が増してきている。
 第三の傾向は、グローバリゼーション(全世界化、地球規模化)である。これは、イデオロギー的な圧力を世界規模で増大させ、社会的な成果に対する攻撃の残忍さ、ひどさを加速している。公共サービス部門では、大規模な多国籍グループが国民国家からの一定程度の自律を保障されて形成されたきた。そして、これらのグループは、干渉なしに自らの利益を追求できる――通常は民営化という形で、あるいは民間資本の参入に対する「門戸開放」として――立場に位置できるようになっている。
 各経済部門間や国民国家間には明らかな相違があるが、ネオリベラル攻撃は、これらの相違を無視して普遍的な関係を前提としている。実際、ネオリベラリズムを推進するための論法と、それぞれの国における実行戦略との類似性には、驚くべきものがある。
 メキシコでは、電話が民営化され、見せかけだけの年金制度が多数の相互に競争する民間年金基金に再編されたが、その際の論理は、ヨーロッパで展開されたものとまったく同じだった。ある種の「複合不均等発展の法則」によって、ネオリベラル計画がその最も露骨な姿を現すのが第三世界諸国である。国家財政の社会支出は、常に事前に策定された「基準」にそって削減される。その基準とは、公共部門の負債、あるいは社会サービスの負債を支払うために必要な額である。
 こうした普遍主義は組織面でも存在する。例えば、IMF(国際通貨基金)の専門家たちは、世界のどこででも同じ鋳型からつくった構造調整計画を実行する。OECD(経済開発協力機構)には、東欧における財政制度構築を監視する任務が与えられてきた。最後の例だが、世界銀行(WB)は退職年金と社会保障に関する報告を作成し、全世界に通じさせようとする。それらの国家による遂行計画から民間資本による年金基金への転換方法を集大成し成文化した。

市場の攻勢

 老齢年金と郵便切手の価格とに何か共通するものがあるだろうか。本質的に二つのサービスは、相対的に社会化されたやり方で利用できる。社会保障年金は、老齢に備えた資金の積み立てを個人的な預貯金とは区別し、働けなくなった人と働ける人とのある種の社会的な連帯を組織するものである。現在、社会保障費を自分の賃金から控除されている人が、将来において一定の規則に従って退職年金を受け取れることを保証しているのは、全体としての社会であって、決して個別の保険会社ではない。
 郵便切手の価格も同様に、社会化されたやり方で定められている。普遍的な価格という基本原則は、ニューヨークからアラスカ(国内郵便)に手紙を送るのと、通りの反対側に送るのと同じ費用がかかることを意味している。こうした社会サービスの価格というものは、先の手紙の例のように、その個別費用に応じて決められるのではない。
 これらの社会化されたサービスというものは、商品やサービスに対する市場法則の影響が小さくなっている。他方、ネオリベラルの攻撃は、こうした社会的な性格を排し、自由市場のルールをあらゆる分野に貫徹させることにある。ここで問題となっているのは、公共部門財産の所有形態だけでなく、より原理的な、社会の需要が将来において充足されるやり方もが問題とされている。自由化(民営化)とは、商品とサービスの供給それ自体を個別化することを意味している。

ネオリベラルの主張

 ネオリベラルの攻撃は、部分的には客観的に見える次のような議論に基づいている。すなわち、現実に進行している変化の過程は、従来の公共サービスを時代遅れにしている――需要面でいえば、社会サービス需要は非常に多様化しているから、一定の標準を想定したサービスの提供というやり方はもはや通用せず、他方、供給面では、技術の進歩によって新しい、より柔軟なサービス提供組織や供給ネットワークの構築が可能となり、そこでは民間のイニシアティブが決定的に重要になる――などである。
 確かに、現実の変化によって自立し、収益性が非常に高い公共部門を民間に移行させることは可能である。これに対応する傾向は、公共部門をインフラストラクチャーの運営部門と、そのネットワークの利用とに分割することである。
 しかし、以上のような再編が実行可能だとしても、それが必要だということは意味しない。技術的な可能性と実際の必要性とを区別することが、この議論にとって非常に大切な点である。
 ネオリベラルの第二の客観的に見える主張に、効率性というものがある。ある一定の状況、つまり公共部門の機能がとりわけ弱いところ、昔からの例でいうとイタリアの郵便サービスなどでは、すべての問題に手を入れて直すと考えられる民営化に反対するのは難しい。しかし、この主張の証拠は誤解を生じさせようとするものである。すなわち、効率性の定義が微妙に変化していく。問題の公共サービスが廃止され民営化ないし民間企業がそのサービスを提供するようになると、利潤率に最大の眼目をおく民営化企業(民間企業)は、社会全体にサービスを提供する公共部門よりも「効率性が高い」とみなされる。言葉を換えれば、「優れた」民間企業は、社会的な需要を選択的に、収益性の高いところだけに提供するのである。
 民間部門に関する主張は、利潤ではなく、その結果から判断する必要がある。事実、いくつかの民営化は、非常に一般的な効率性の基準にも達していない実例を示している。イギリスの国有鉄道を分割したのには、どんな論理が働いていたか。イギリスをモデルにした民営化は、その究極の姿をルクセンブルクで示した。この国だけで、七つのそれぞれ独立した鉄道会社が誕生したのだ。

グローバルな圧力

 周知の主張の一つは、グローバリゼーションによって公共サービスを一国レベルで供給することは実質的に不可能になるというものだ。国際競争に耐え、新しい世界貿易規範に適合するためには、公共部門を圧搾して事実上無に帰することが必要だ、とこの主張はいう。この極めてイデオロギー的な主張の根拠は、不完全だ。この内容はただ単に、国際的な自由化自体が強力な社会サービスと両立し得ないといっているにすぎない。
 だが、この説の主張者らは、ヨーロッパ統合それ自体が公共サービスと社会保障制度の全体系との民営化を意味する理由を説明できない。本当のところ、社会サービスに対する圧力は、グローバリゼーションではなく、規制緩和とそれに伴う各種の措置に由来しているのだ。
 航空輸送産業は、事実上グローバライズ(世界規模化)している唯一の公共部門である。そして、ここでは、民間企業と国営会社が直接に競合している。この分野では、国際的な規制というものは国家の規制論理によっていたが、中心的な関係国(アメリカとイギリス)が大幅な規制緩和政策を実行したとき、それまでの規制の論理構造が作用しなくなってしまった。
 しかし航空輸送は例外である。少なくともヨーロッパでは、健康衛生や教育といった部門では、公共企業と民間企業との競争は依然として激しいものがある。そして、より重要なことに、「市場」は物理的なインフラと設備に対して無制約に接近し入手することができない。
 イギリスの資本家がフランス国内でSNCF(フランス国鉄)と競合する高速鉄道会社を設立することはできない。資本は移動できるが、建造物のようなインフラは移動できないからだ。
 すなわち直接ではなくても世界的な競争にさらされている多くの分野で、単一の世界価格が登場するという傾向は未だに発生していない。規制や規範というものは、国境の開放に関して非常に大きな重みを有している。ヨーロッパのように相対的に均一な領域内でも、価格決定や金融制度、社会的な規範などに関して相当の違いが存在している。

レジスタンス

 こうした変化に対するレジスタンス(抵抗闘争)が、ヨーロッパ全体で巻き起こっている。フランスでは、世論の一翼が現に作成中のヨーロッパ連合タイプの規範とはかなり異なる「フランス型」公共サービスの創出を追求している。しかし一九九五年十一―十二月に激しく展開された公共部門労働者のストライキと、これに続く近隣諸国での闘い、これらの問題をめぐるその他の闘いなどはすべて、マーストリヒト条約が明示的に定めていない問題に関して起こっている論議に影響を及ぼしている。
 そうした議論の結果として生まれた一つの概念が「普遍的サービス」である。これは、社会的な必要の充足を保証しようとするものである。現実のヨーロッパ(連合)諸機構は、マーストリヒト条約の精神と文字面さえもが合致する超リベラルの方向を向いているのだが。これは、明らかに議論の本質をそらそうとする主張であり、「両輪」論、つまり一方の公共サービス部門を非常に狭い範囲に限定し、他方では、それ以外のすべてを民間のイニシアティブに委ねる、というネオリベラルの論理を強化しようとするものである。

反論

 三十年前には多くの経済学者が、公共部門の存在は理論的に正当化できると考えていた。その当時の主張は、今日でもその重みを失っていない。一つの端的な例は、公共資金を使って構築されたネットワーク(保健衛生や運輸)であり、かつての主張がそのまま十分に適用できる。重厚なインフラ(社会的経済基盤)は、その構築や維持・拡張、修理などに大規模な投資が必要である。もし、こうした部門が民間開発業者に委ねられたら、投資家たちは、この膨大な投資を引き受けないのが最善だと考え、必要な資金は国家財政でまかなうのが当然だとみなす。
 従って、一定の規則を定め、財政上の義務に関する制度を明確にし、関係する様々な民間業者の調整を行う必要が生じる。だからこそ、最も過激なネオリベラル計画でも、異なった機能を実行するための規制を作成しているのだ。規制というものは純粋に管理上の逸脱に関するものであるという見解は、的外れであり、妥当ではない。
 どのようなメカニズムであろうとも、一定の規則が定められ、社会的な選択を行うことによって、その機能が実現される。民営化企業は、短期的な視野で運営され、安全性や製品・サービスの質などへの配慮を弱めるばかりか、その運転費用を国家に引き受けさせようとする多大な危険が明らかに存在している。
 第二の反論は、支配的なネオリベラルの思考方法に内在している論理的な矛盾を指摘することにある。もしグローバリゼーションが真実の世界市場創出を意味するのであるなら、最も合理的かつ効率的な対応方法は、競争による市場の断片化ではなく、柔軟な調整にあるのではないか、ということである。ヨーロッパ統合が、一つになった領域の形成をその目標とするのであれば、それを本当に実現する最善の道は、現存する運輸や郵便制度、エネルギー供給システムなどのネットワークを解体することだろうか。
 マーストリヒト条約でさえ、現存するネットワークの「相互接続」を明示しているが、この考え方を他の部門に適用する際に生じるであろう論理的な結論を出してはいない。単一のヨーロッパエネルギー政策あるいは単一の運輸・通信政策などがあってはいけないのか。異なった経済的なネットワーク間の調整や相互接続、統合を伴わずに形成された経済的な実体があるだろうか。
 第三の、そして最後の反論は、純粋の技術的な考慮や認識なるもは存在せず、単なる「生産力の発展」だけからは推論できない社会的な選択によって、技術的な諸問題が決定されるべきだということである。結局のところ、自由化と民営化に向かう運動は、社会的な必要に対する否定と選択的な対応とに暗に結びついている。これこそが議論の中心問題なのだ。
 社会的な必要を充足する方法は、結局次のどちらかになる。一つは、社会的な手段で満たしたり、個人の購買力とはほとんど関係しないやり方でサービスを提供するか、あるいは社会が逆の選択をして、利潤の出る必要だけを満たすようにすることである。後者の道は、社会的な不平等を当然とするだけでなく、これを加速し拡大する。
 以上のような反論が正当だとしても、人々を説得させるには十分ではない。人々を説得する上での基本的な難しさは、公共部門や福祉国家が社会化の中間段階(中途半端な社会化)にあることに関係している。。つまり一連の社会的要求を純市場の外部から充足しながらも、そこに内在している論理が市場原理を超えていることを認識していない。社会化が中間的な段階にあることが、公共部門を守らなければならない理由を説明するだけでなく、市場原理を超える考え方を描き出す必要をも明らかにしている。
 社会サービスに関するいかなる議論も、社会的な必要を充足する方法と、それ故に少なくとも間接的であれ、われわれの目標としての社会主義を論じなければならない。
 純粋な市場原理に基づいた論理と社会化された方法による諸サービスの「自由」な供給との間には、公的な課税あるいは国家財政による助成金などの要素を含む様々な方法の広い領域がある。ネオリベラリズムが目標としているのは、市場メカニズムの普遍的な再導入である。他方、社会主義は、適切な生活水準を実現できるレベルで人々の基本的な必要を充足することを保証しようとする。

われわれの考える効率性

 人々の基本的な欲求を充足しようとする考え方の体系に関する闘争は、公共サービスを組織する方法をめぐる闘いでもある。基本的な考えは、ますます多くなっている社会運動が要求している権利の概念に置かれるべきである。労働、居住、健康、教育などに関する権利である。人々が社会サービスのために闘うのは、それが社会的な必要を充足する合理的かつ普遍的な方法だからである。
 われわれの効率性――特定の部門における短期的な利潤では測定できない効率性――に関する考えを実践に移すことは、民主的な管理・運営というより全般的な要求になりうる。公共部門を守ることは、その非効率さや官僚主義を守ることではありえない。非効率や官僚主義を守ることになるなら、ネオリベラリズムが間違いなく勝利する。具体的には、この立場は次のことを意味している。一般的に労働運動と社会運動がこれらの要求を取り上げるなら、各公共部門のそれぞれの労働者には、自らの職や労働条件を防衛する手段で守るべき社会サービスが残されていないことになる。
 しかし少なくともヨーロッパにおける最大の困難さは、普遍的な要求を各国の特殊性に合致させて提出しなければならない点にある。ネオリベラリズムは、各国ごとの状況を無視した非常に似通った政策を適用する。しかし、人はすでに存在するもののために最もよく闘う傾向があるから、労働運動はしばしば間違えて、社会サービスの自国モデルを防衛できると考えたり、あるいはより均質で国際的な社会サービスの概念を試み発展させようとする。一九九二年の国際行動デーを実現した鉄道労働者のような国際的な協調の二、三の実例は、これが不可能であることを示している。国民的な伝統があって、そのため真に共通な要求項目を提出するのを不可能にしている。

グローバルに考える?

 以上のことから、国際的な協調が必要な各国ごとの社会闘争をいかに組織するのか、というより広範な論議に立ち戻ることになる。国際的な協調というものは、将来(あるいは不確定な時点)の一致や収れんを基礎にした条件付きであってはならない。ヨーロッパ共通の最低賃金制などの象徴的なスローガンを叫ぶのではなく、各国の不均等な発展を考慮した分節化された最賃制度の考えを推進する方がましである。
 調整とは、絶対的に同一な行動を意味しない。公共サービスにかかわる共通の戦線とは、かなりの程度まで組織的な装置のことである。社会保障制度を守るための国際闘争デーを想定するのは、それほど困難ではない。それは、各国ごとに固有の要求を提出しつつ、他方では、近接諸国の要求や闘いを支援するものである。
 公共サービスへの反民主的な攻撃に対する反対は、大衆動員として実現されたが、しかしデモ参加者という面から行動の成否を判断するなら、それは各国における組織者の能力にかかっている。その能力とは、公共サービスの定義とその運営に関して、全体としての社会が行使する民主的な管理に参加したいとする広範な人々の要求に応えて行動を組織する能力である。
 フランスで一九九五年十一―十二月に展開された公共部門ストライキが、そうした行動の必要性と、その可能性を示した。フランスのストは公共部門をめぐる防衛的な闘いであったが、と同時に、いくつかの経済調整以上に人々の琴線に触れる闘いでもあった。
 多くの国で情勢は非常に両義的である。一方では、ネオリベラルの攻勢がその前途に横たわるすべてのものを粉砕する勢いで、かたくなな論理でもって進行している。他方、ネオリベラルのシステムは基本的に壊れやすい。なぜなら、そのシステムは結局のところ、自らの正統性を確立できないからだ。
 資本主義史上初めて――少なくとも地球的規模では――体系的な社会を後退させる政策が意識的に協調して展開されている。資本は、完全雇用と社会保障はぜいたくとなってしまったと明確に述べている。しかし資本が二、三十年前に擁護した完全雇用や社会保障がなぜ不可能になったのか、その理由を明らかにできない。
 公共部門を守る闘いには、多くの困難さがある。特に労働運動が後退した影響は巨大である。しかし共通の体験や良識といったものが、大衆運動の側にあり、それが希望と夢との源泉となっている。主要な関心は、ネオリベラル政策にどれほど悩まなければならないか、ではなく、いかにすればネオリベラリズムの攻勢を敗北させられるか、である。こうした観点からするなら、水平線上に現れた最初の兆候、すなわち次の段階の闘いは、市場を超えた非官僚的なコミットメントである。
(インターナショナルビューポイント誌一月、二九六号)