エコロジーと社会主義

 第四インターナショナルの第15回世界大会が今秋開催される運びとなった。その準備のための国際執行委員会が昨年11月に開催され、その会議で、大会議案書のひとつ「エコロジーと社会主義」を公開し、公の議論に付すことになった。われわれの「環境社会主義」の討論のために、きわめて重要な文書なので、ここに掲載する。日本でも議論が盛り上がることを期待する。(高木 圭)

訳者コメント:私の翻訳に対する**氏のご指摘の大部分は正当と思われたので,ご指摘に沿って内容の一部を変更した.特に数値の変更にはご留意いただきたい.(2001年6月3日)
     

I.  序

II. エコロジカルな危機の諸要素

 1. 気候の変化

 2. 大気の汚染

 3. 水汚染と土壌の悪化

 4. 森林破壊

 5. 生物多様性への脅威

 6. 産業災害と核危機

III. エコロジカルな危機の構造的要因

 1. 帝国主義大都市のエコロジカルな危機

 2. 従属国のエコロジカルな危機

 3. 旧官僚主義的社会のエコロジカルな危機

IV. 労働運動とエコロジー

V. エコロジー運動の到達点と限界

VI. 環境問題とブルジョア支配

VII. エコロジー運動の政治的組織化の経験

VIII.  第四インターナショナルとエコロジカルな危機

IX. 行動綱領

 1. 公共サービスの防衛

 2. 汚染との闘争

 3. 雇用を守るために

 4. 土地のための闘争

 5. 負債システムの除去

 6. 長期展望とデモクラシー



I.序

 人類は今日までずっとエコロジカルな問題に直面してきた。しかしこの問題は今日、その範囲や規模の大きさゆえに新しい緊急事態をむかえている。環境破壊はしばしば、人や自然に対して取り返しのつかない影響を及ぼす。21世紀初頭に予想されるエコロジカルな危機は何百万人もの生命を危険にさらすはずである。
 労働運動の一般的潮流、即ち環境問題を無視、軽視する傾向と対照的に、エコロジー運動や緑の党は、これらの決定的な懸案事項を議題に載せていることは信じて良い。しかし、彼らが出す解決法はしばしば、結論的には間違っている。なぜなら、環境破壊と資本主義の利潤の論理との当然のリンクを見落としているからである。エコロジカルな危機と真剣に関わるために、われわれは、民主的に計画された社会主義の展望のもとに、利潤目的で作られた体制から抜け出さなくてはならない。
 
II. エコロジカルな危機の諸要素

 人類が 自然に与えた結果としてのエコロジカルな危機は、人類の生存を脅かす地点に達した。あらかじめエコロジカルな影響を評価することもなく、小集団の経済的利益を維持するために、新しい生産形態をますます速く作りだす。これらの小集団の利害は、有害とされる生産技術の維持をも求める。技術的進歩が自然に作用する可能性を増やしている間、このことは続き、それゆえ自然を乱し破壊し続けるのである。
 19世紀資本主義の勃興にリンクした産業革命は、大気に放出される廃棄物の割合を劇的に増やし、労働者や市民の健康を著しく損なった。全体的に見て、人類によるエコロジカルな衝撃波は、すばやく、かつ激しくなっている。しかしながら、エコロジカルな危機は、周知のように、19世紀以来の産業発達の直線的結果ではない。それは、以下の質的躍進の結果である。即ち、石油の利用の大規模な一般化、自動車の並外れた発達、化学産業とそのあらゆる経済分野での利用、特に化学肥料や殺虫剤の農業分野での利用の結果である。1970年代以降、この質的飛躍は、官僚的計画経済の危機の結果として、さらに顕著になっている。とりわけ非常に劇的に、"第3世界"では、経済危機となんでもありの産業化が結びついた結果として、顕著になってきた。

 1. 気候の変化
 人類の活動、即ち、化石燃料への依存(エネルギー生産、輸送)、農業活動と家庭生活用の薪の使用による、第3世界における劇的な森林伐採は、現在の地球温暖化の根本的な原因である。これらの活動は、年間、温室ガスのおよそ70億トンを大気に放出している( CO2、CH4、N20、CFC)。このうちの半分は海や森でリサイクルされない。その結果、地表の生命に適した温度を維持するために必要な温室効果は制御しきれなくなり、地球の複雑な気候システムの混乱をきたす。地球温暖化はまさにこの局面の1つの表れである。多くの地域で、その影響は、巨大な人類共同体の経済に壊滅的打撃となるだろう。大気のウオーターサイクルの乱れは、重大な関心事である。というのは、この乱れは雨と蒸発のシステムを変え、それにより、熱帯サイクロン、台風は数を増し、その激しさを増す。海面が上昇する可能性がある。その規模によっては、特定の島や沿岸地域は危険にさらされる。
 将来予想によると、これらの気候の乱れは、成層圏のオゾン層の持続的減少及び、それに関連して地上に届く発ガン性の太陽紫外線の増加と結びつくだろう。オゾン層の破壊は有機ハロゲン化合物(主に冷凍やスプレーに用いられるクロロフルオロカーボン(CFC))(訳注;いわゆるフロンガス)の効果によって引き起こされる。これらは事実上禁止されているが、既に発生したCFCの破壊的影響は、終わっているどころではない。それは、2060年まで続くと言われている。
 地球環境(大気、大洋、生物圏)それぞれの主な構成要素及びその要素間を調整するメカニズムのグローバルな変化は、21世紀をとおして影響を与えるであろう。それぞれの時間の枠はさまざまだろうが、一般に、変化を引き起こした人類の活動が使う予定表よりは、遥かに長い。この事実は、エコロジーの命題を、社会の全機構の中に統合することの緊急性を強く訴えている。

 2. 大気の汚染
 産業、輸送、そして多少なりとも耐久性のある消費物資の故障が、空気中にさまざまな有害物質を放出する。抑制不能で、調整ができそうにない自動車交通の増加は、二酸化イオウや一酸化炭素の主な出所となっている。それは、家庭や産業の暖房装置からの排出よりはるかに多い。ホルムアルデヒド、水銀、アスベスト等は産業的な汚染である。これらは日々の消耗品の中にもかなり顕著に広がっている。ホルムアルデヒドやアスベストはビル建材から、水銀はバッテリーからというように。
 都市の大気は、田舎の空気の1000倍もこれらの毒物を含んでいると思われる。空気の汚染は、大都市の中心部では、豊かな国でも、貧しい国の無計画に広がる無政府状態の都市でも、非常に深刻な事態になっている。都市では、この汚染は呼吸器疾患(喘息、気管支炎、肺ガン)の驚くべき増加を引き起こした。ヨーロッパでの研究によると、西ヨーロッパの大中心都市の汚染は、年間何千人もの死亡に対して責任があることが明らかになってきている。
 アスベストは、造船所やビル建設労働者の間に、命に関わる癌患者を多数生み出している。これらの癌には潜伏期があるため、年間死亡者数は一足跳びに増え続け、問題の広がりは明らかである。フランスだけでも、21世紀最初の25年の間に、10万人以上のアスベストによる死亡が予想されている。アスベスト災害に対する抗議は、豊かな工業国では、その使用の急激な減少や、代替え材料を模索させた。しかし、第三世界では未だにその使用は急上昇を続けている。
 二酸化イオウや一酸化炭素は酸性雨の原因であり、北半球温帯森林のダメージの大きな原因になっている。

 3. 水汚染と土壌の悪化
 家庭、農業、産業から出る廃棄物は、世界中の 水域に運び捨てられ、それは巨大な下水道と化す。陸の水路、川、湖は最も大きな打撃を受けているが、汚染は川や沿岸都市を通して、海により多く到達し続けている。この直接的な結果として、海底、河床、湖床の沈殿物の中に、重金属(水銀、カドミウムなど)や非常に有害な有機化合物が蓄積する。とりわけ、硝酸塩やリン酸塩を含む化学肥料の増加が、藻類と水生植物のばく大な急増を引き起こしてきている。それらが崩壊するとき水中の酸素が使い尽くされ、水生生物の大量死をもたらす。
 海洋の状態は急激に悪化している。何よりもまず、海底採掘現場からの石油の浸出や、船の排気ガス、さらには有毒廃棄物、化学廃棄物、放射性廃棄物の海洋投棄によって直接汚染されている。
 水汚染は土壌の汚染とリンクしている。それはある種の、水と大気の汚染の原因であり、結果である。このことは、市場圧力によって強制的に課された農業活動の結果である。つまり、集約農業(化学肥料や殺虫剤の悪用)の単一栽培、地方の生態系や風土に合わない作物、などの結果である。このことは、地球規模の、土壌の大破壊を意味している。即ち、汚染、枯渇、砂漠化、大規模浸食などの有毒なスープが、第3世界の八億人に影響を与える経済的、社会的飢餓の原因と密接に関連している。

 4. 森林破壊
 エコロジカルな危機の非常に劇的に現れているものの中でも、世界中の森林破壊は、その影響の広がり故に大いに気がかりである。50年間で、世界の森林地帯の3分の1が消失した。これは熱帯の国々で最も激烈であった。工業国では、樹木の多い地域は比較的保たれた。しかし、森林は、大気、石油、および土壌汚染が原因で、ゆっくりと死にかけている。しかしながら、"第三世界"では森林伐採がエコロジカルな危機の核心である。森林伐採は耕作地の不毛と消耗の悪循環の結果である。もう1つの原因は、維持管理を考慮せずに熱帯木材を収穫しすぎたことである。つまりこのことは、西側の建築物や家具の市場に、より安価な生産物を提供するために、我らが惑星の動植物種の50%以上の住みかであり、森の住民の生活資源である熱帯林の生物多様性を破壊することを表してるのである。さらに、1997年以来、アマゾン、中米、ロシア、東南アジアでは、森林火災が激増した。インドネシアでは、大規模森林火災が、3年間で1000万ヘクタールを破壊し、7000万人に影響を与え、45億ドル以上の出費を要した。地球レベルで見ると、森林伐採は温室効果をさらに悪化させている。

 5. 生物多様性への脅威
 幾万種という生物種が生態系への数限りない攻撃によって脅威にさらされている。地球上の生物種の4分の1はこの25年内に消滅するであろう。ある場合には、これらの攻撃はやがては環境のバランスを崩し、人類の生存状況にばく大な結果をもたらすかもしれない。
 生物多様性は守られなくてはならない。感傷的理由や美的な理由のためでなく、われわれ自身の種のために。環境に影響する取り返しのつかない変化を起こさないよう、人類は、自然のエコロジカルなバランスに敬意を払いながら気をつけて行動しなければならない。
 エコロジカルなバランスを守ろうとする人は誰でも、資本主義のさまざまな基礎を攻撃しなくてはならない。
 資本主義は汚染にはなんら配慮せず、短期的な利益というただ1つの目的で資源開発をする。たとえこの目的が、熱帯林や、動植物種の宝庫や、海洋生物の存在そのものを脅威にさらすとしてもである。同様に、遺伝子組替え作物(GMO)のような技術的導入を定着させようとする。そしてこれが環境に広がると、取り返しのつかない、おそらくは危険なプロセスとなる。
 実験室での技術にとどまることなく、GMOの生産は、 新しい市場を見つけるために資本主義体制が利用しているバイオテクノロジーの鍵になってきている。資本主義は、これまでは視野の外にあった、生物の最も内奥に迫るようなレベルのコントロールを模索している。つまり、動植物の生殖や遺伝子的なコントロールを視野に入れている。 

 6. 産業災害と核危機
 資本主義生産の、悲惨なエコロジカルな影響はまた、化学プラントや原子力プラントといった産業複合体の中で、大規模な事故という形で現れたり、あるいは事故の潜在的危険という形で現れたりする。ボパール(Bohpal)の災害(1500人の死と、メチルイソシアネートの被害者が多数おり、今も毎年数百人規模で死んでいる)は、チェルノブイリと並んで、最も悲劇的な例の一つである。
 原子力のまさにその本性、つまり、その災難の与える測り知れない範囲、そして、特に、長期間続くその影響力は、そのオルタナティブな解決法の存在と並んで、生産力の発展の点から異常な選択を求められる、まさにその例である。
 放射能の危険は大事故の脅威を意味するだけではない。存在して40年たった今でも、原子力産業は核廃棄物の貯蔵問題の解決法を見つけていない。衰退に脅かされて、今は行き詰まっているものの、新しい電気・核プログラムを進めるために、そのエコロジカルな長所を宣伝している。原子力はCO2排出量を減らす道の1つだと主張している。この主張は、放射能汚染災害(認可された放出、あるいは偶然の放出)、及び、車が遥かに主要なCO2の原因であることを軽視している。さらに、このような変更しにくいエネルギーシステム(ばく大な生産ユニットや、新しい発電所を何百も建てることに基礎を置く)は、他のシステム、つまり、エネルギーを節約し、再生できるエネルギーのシステムを犠牲に、投資を独占するだろう。さらに、必要以上の生産や分配システム
によるロスが、電力の浪費を促すだろう。それはまた、長期的には有害な、発展モデルを永続させることになるだろう。

***

 伝統的な経済的・社会的・政治的問題を隅に押しやって、新しい緊急事態を創り出すのではなく、反対に、エコロジカルな危機のすべての要素はこれらの問題と密接に結びついている。
 エコロジカルな危機は、一部地域の大災害を引き起こすほどの、ドラマチックかつ広範な現象になってきた。ある場合は、非可逆的であり、またある場合は、短期、中期、あるいは、ほんの2〜3世紀(多くの木の樹齢にあたる)でもとに戻り得る。これは、人類共同体の意識的な選択にかかっている。

III. エコロジカルな危機の構造的要因

 自然の法則から逃れることはできないが、色々な意味で、資本主義的生産様式は自然、および自然の進化のプロセスと基本的に矛盾している。資本は、価値法則の枠の中で労働時間と金銭の関係を決める際、量的な観点だけを問題とし、質的な、グローバルな関係は考慮の外に置く。
 資本主義生産は、投資した資本に見合う利益を得るために、最も短期間の循環プロセスで行うことに基礎をおいている。このようにして、自然のプロセスがなじめないリズムと枠組みを押しつけざるをえない。自然資源の開発にあたっては、その形成や再生に必要な時間をとることができない。商品生産物の普及にあたっては、社会組織にそれまで存在していたものを考慮することはできない。生産をスムーズに進めるのに必要なスペースを占めるために、エネルギーの供給と分配は、自然環境、つまり動植物群のことを考慮せずに進まざるを得ない。環境破壊を引き起こすのは、資本主義に智恵がないからではなく、そのシステムの基になっている論理そのもののせいである。これが、社会民主主義者が"質的成長"を求めたときに資本の論理によって妨害される理由である。即ち、質的成長と価値の法則は相互に相いれないのである。
 資本主義的合理性が個々の資本の動きを決定する。しかし、資本間の競争は全体のシステムを不合理にする。生産の改善や原材料の節約のために働く知性は、企業のドアの前で立ち止まる。"誰も責任を感じない"場所、例えば、水、空気、土壌汚染では、環境が勘定を支払う。さらに、競争は周期的な生産過剰の危機に到る。つまり、エネルギーや材料のかなりの量が売られない生産物にずっと使われてきたことが明らかになる。そしてさらに、市場は、使用価値からすれば余分な生産物(広告、さまざまな薬物、武器)であるがしかし、大きな利益をもたらす交換価値のある生産を促進する。競争と、利潤や超過利潤を求めたレースが、資本家の法律自身が犯罪と認める行為の背後にある根本的な理由である。即ち、環境的規制の無視、有毒物質の使用、不充分な品質テスト、偽造した内容目録、廃棄物の不認可投棄、などの犯罪行為の。

 1. 帝国主義大都市のエコロジカルな危機
 最も進んだ経済的搾取、即ち、それまで存在した自然、社会、歴史的土台の経済的量化(economic quantification)のプロセスが、資本主義が発達した国々で見られる。今日では、商品生産が社会生活のすべての分野を支配し、一方、生産の社会的プロセスはますます分断されてきている。利害関係はますます集中するようになってきている。生産手段所有者間の競争のために、利害関係が完全に凍結することはない。 
 これは、すべての帝国主義諸国で、同様の大きなエコロジカルな問題をもたらす。これらの問題は、"故障(breakdowns)"あるいは"システムの欠陥(system failures)"とはいえない証拠がある。なぜなら、これらの問題は、世界中でこのシステムの論理と符合するからである。
 工業地帯、ショッピングセンター、郊外型住宅、テーマパークや行政地帯の使用目的で、土地の最後の1立方メートルまでほぼ完全に開発してしまったことで、通勤時間や交通量は大いに増えた。一方需要の構造は本質的に不変のままだ。化石燃料を使い、個人の車に基礎をおいた輸送政策は、慢性の交通混雑をもたらした。それが、大都市に、マヒや窒息の脅威を与えている。
 特にエネルギーの分野では、集中した所有関係(centralized property relations)は、 大規模な化石燃料基地や、原子力発電所の設立を促してきた。この選択は大気の質にとって有害であり、エネルギーの経済的利用の観点からは全く不合理である。
 廃棄物問題では、市場の無分別と利潤目的が決定的な役割を演ずる。それぞれの会社が役に立たない物を投棄したり、流したり、燃やしたりすることは、ますます"好都合"である。このことから、廃棄物の山が、特に有害な廃棄物の山が、実際、資本家の過剰な富の社会のシンボルとなってきた。
 これら基本的なエコロジカルな問題の結果は、豊かな自然に恵まれた土地(natural sites)の破壊、都市のスプロール化現象(urban sprawl)、道路システムの過密、個人車により引き起こされる大気汚染、化学工業による汚染、核エネルギーによる放射能汚染、増大し続ける廃棄物の山々などである。資本主義は、これらの "失敗"を正すことができない。自然資源が、つまり水、木、土壌などが、"自由に"利用できるなら、資本主義の下で資源は、ほとんどコントロールされることなく、使い果たされ、浪費され、毒される。資源は、経済的意味においてのみ"外因的要素(exogenousfactors)"なのではない。それは私的利益追求の対象物なのだという条件付きのままである。言葉を換えれば、資源の限られた性質は、ただそれを購入しなければならない人によって理解されるだけなのである。資源の売人は根本的な拡張に関心を寄せ、その安全を守ろうとするどのような試みにも反対する。
 コントロールのあらゆる企ては、いっそうの規制緩和を求める資本家一般の圧力とぶつかる。もしそうでないとすると、 価値の法則は "良い"(環境にやさしい)利益と "悪い"利益を区別できるという、偽の前提を土台にして考えるしかない。それ故帝国主義諸国は、害が起きた後で、問題につぎあてをして取り繕おうとする。これは、せいぜい、水や大気の浄化のために必要なフィルターを付けるというような、大変限られた部分的な治療法に終わるだけだ。
 資本主義的生産はまた、自らの消費者を再形成する。このように、個人的行為が、エコロジカルな危機をさらに悪化させる要素である。しかし、個人的行為が変化したとしても、資本主義的生産の基本的な環境破壊体質に、わずかに影響を及ぼすにすぎない。

 2.従属国のエコロジカルな危機
 環境のための国際連合機関の研究は、"第三世界"のエコロジカルな問題は、貧困の問題であるとの明快な結論を引き出した。この貧困は、運命の結果ではなく、帝国主義諸国の経済政策や経済行動の結果であるということをはっきりと心に留めておくべきだろう。事実をねじ曲げることによって、資本主義諸国の環境危機を、市場経済の結果ではなく、豊かな社会の結果であると提示できるかもしれない。
 しかし、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの従属国では、経済危機とエコロジカルな危機の関係が注目の的になっている。何百万人の人類にとっては、大きくなり続ける環境・生物圏の破壊と、日々の生存競争は、同様の直接経験である。八億以上の人々が栄養不良であり、四億人が毎年、飢えや栄養不良で死んでいる。ほぼ20億人は、きれいな水を何時でも手に入れられるわけはでなく、毎年二千五百万人がその結果死ぬ。15億人は、彼らの唯一のエネルギー源である薪の深刻な不足に苦しんでいる。世界のこの地域では、食料、水、燃料、即ち人々のまさに命に関わる3要素が深刻に不足している。
国際連合は、約5億人が"環境難民"であると評価している。彼らは、干ばつ、洪水、土壌浸食、輸出用農業の拡大などの結果として、生まれた土地を去らざるを得なかったのである。事実はこうだ。世界のこれらの地域のエコロジカルな危機は "時限爆弾"、あるいは未来の問題ではなく、まさに今ここにある危機なのだ。
 緊急事態である貧困とエコロジカルな危機の主な原因は資本主義的生産様式にある。帝国主義が作りだした従属の周知の構造と、それが支配する世界市場が、支配される国々の自然環境に、帝国主義諸国でその原因となっているより遥かに直接的な、過酷な経済的搾取を行ってきている。世界市場の需要と多国籍の利害による環境破壊は、社会構造や歴史を通じて伝えられてきた生活方法と、さらに一層目に余る矛盾を起こしてきている。世界市場に頼る経済活動の中心部に、ほぼ完全に築き上げた下部構造を押しつけることにより、帝国主義は、これらすべての国々で、テリトリーを形成した。このことをベースにして、輸出用の生産のために、"天然資源センター" (natural resource centres)、ビジネスの中心、休暇地帯、プランテーションや牧草地が選別される。これは、これらのプロセスの犠牲者となった人々にばく大なプレッシャーをかける。つまり彼らに、違った生き方を押しつけたり、"時代遅れ"の社会的機能を国の周辺地域に向かって押しつけたりするのである。その影響は、資本主義大都市におけるより、遥かに重大であったし今もそうである。なぜならこれらの国々は、他の国々により進められるプロセスに左右されるのだから。
 われわれは、エコロジカルな視点から、従属国の "複合的・不均等的な発展"法則の致命的な結果をも見ることができる。世界市場は、世界の最も "遅れた"地域に、環境破壊の原動力をもたらし、最もひどい矛盾をもたらす。ここでの活動は、比較にならぬ程一層破壊的であり、反対勢力はあまりに弱い。
 われわれは、このメカニズムの一連の構造的特徴を明らかにしよう。 
・世界市場のための原材料の直接的採取」(鉱物、木材、綿、ゴムなど)、社会的生産基盤、道路、鉄道、発電所などの同時並行の発達。
・土地の、輸出生産用の農場や牧草地への転換、即ち、化学肥料や殺虫剤の大量使用を含む土地転換政策(結果として汚染を引き起こす)。
 この二つのプロセスが、ほとんどの従属国で、土地問題を、激しい争点にさせている。田舎の住民は、永住したり農業を維持したりできない地域に押しやられる。この人々は、土地を切り開き、土地の枯渇や浸食のスピードをあげるだけの農法を使うしかない。丘の斜面をきれいさっぱり切り取ること、熱帯林を燃やすこと、乾燥した、あるいは洪水の危険のある地域に住むこと、肥沃な土壌層の破壊、などが混じり合って、長期的な気候変化の危機や "自然災害"を作り上げる。
 都市化は、特有の経済構造と土地問題を招いた。国際連合の評価によると、従属国の都市は、工業化された資本主義国都市の三倍の速さで大きくなっている。これらの都市では、通常的な都市問題は、環境と生活状況にとって、より一層破滅的である。車交通と家事による発熱による大気汚染は、まさに大きな脅威である。クリーンで浄化された水の質が従属国の都市が直面する第二の問題である。廃棄物の処理は第三である。アジア、アフリカ、ラテンアメリカのほとんどの都市では、ごみは単に山積みにされていたり、野焼きされたりしている。
 従属国の住民のほとんどにとって、エネルギー供給は日々の生存の問題である。十五億人が薪不足に陥っている。薪(あるいは、肥やしや植物のかすのような他の燃料)を集めるために捧げられる労働時間は四倍にも増え、時には年間190〜300労働日にも達する。特に、多くの他の地域同様、都市近郊の田園地域では、エネルギー不足のため森がすっかり切られている。
 このところ最も語られる、従属国が直面する問題は、銀行や帝国主義政府に対する債務である。債務はエコロジカルな危機に影響を与える。なぜなら、それは、輸出生産の優先順位を上げさせ、それは次には、深刻な貧困と都市への人口流出を増やすからである。1990から95年に、最も貧しく最も債務の多い国にランク付けされたアフリカの33カ国の森林伐採は、他のアフリカ諸国の森林伐採と比べて50%以上も大きい。そしてそれは、世界の森林伐採の平均値よりも140%も大きい。また同時に、保護対策に出費する資産がない。世界銀行(WB)や国際通貨基金(IMF)といった国際的な金融機関は、債務の結果に対して、人や自然にますます高い使用料を強いる。これらすべては、帝国主義多国籍企業によってなされた自然破壊やエコロジカルな犯罪の一連の直接行動により、皮肉にも、グルグル回っているのである。危険な生産部品(特に化学産業)が、従属国に運ばれる。そこでは、安い労働力から利益を上げられるのみならず、罰せられることなく環境を汚染することができるからである。
 ほとんどの従属国政府は、エコロジカルな危機に直面しても力がない。彼らの帝国主義の利害との結びつき、彼ら自身の特権や階級的利害が、経済的従属や、エコロジカルな危機を拡大させる。特定の国際的な援助プログラム(飢えと闘うための、エコロジカルな災害と闘うための、あるいは環境保護基準と引き替えに債務の一部取り消しを求めるための最近のプラン)は、しばしば権力のあるエリート階級を富ますことになるだけである。
 従属国のエコロジカルな危機の解決は、帝国主義への従属を打ち破らずには考えられない。さしせまった社会問題を解決するためにクレジットや債務を通じて"近代化"を求めるのは、単に状況を一層悪くするに過ぎず、誤りである。このことは、エコロジカルな危機についてはますます当てはまる。貧困と経済的従属が、何百万人もの人々に、環境に深刻な害を引き起こす行為に加わることを強制するが、そうしなければ彼らは、生き残ることさえできないのである。このことは、従属国では、反帝国主義革命、つまり"永久"革命のプロセスは意識的にエコロジカルな問題を取り上げ、それを資本主義的略奪に対する闘争のプログラムの一部にしなければならないことを意味している。これは、オルタナティブな社会主義的生産関係をうまく築くための条件である。

 3. 旧官僚主義的社会のエコロジカルな危機
 ソ連が消失し、ソビエトをモデルとしたほとんどの社会がなくなったけれども、その国々の環境政策を簡単に見ておく必要がある。ソ連および官僚的中央計画システム(bureaucratic centralplanning system)をもつ国々のエコロジカルな足跡の記録は、帝国主義大都市以上ではないにしても、同じくらい悪い。特に、大気、水、土壌汚染、原子力 チェルノブイリ!、そして大都市が直面している問題点において。
 この状況の理由の1つは、次の事実、即ち、これらの社会は、資本主義的価値法則の克服、ならびにそれが課する生産の客観的な制限にほんの一部でしか成功しなかったという事実である。多くの鍵となる生産部門で、資本主義や世界市場への依存はまだ残っていた。輸出経済のための天然資源の開発、資本主義産業から得られた製品や技術への依存が、これらの社会でもまた、環境の必然的な破壊へと導いた。これは、ある意味では、従属国についてわれわれが見てきたのと同じようにして起こった。計画経済は直接的に社会経済を発展させる試みであった。市場、つまりは商品価値だけに基礎をおいて労働の有用性を決める資本主義とは逆に、非資本主義社会は生産の前に社会的ニーズを決定し、計画を立てようとした。この試みは、すべての人のニーズと特定の利害が、民主的討議と決定の全プロセスの中に持ち込まれるような条件下でのみうまく行くのは明らかである。現にある不足を分かち合わねばならないとき、民主主義は一層絶対
に必要である。しかし、過渡期の社会の官僚政治は、民主主義を完全に排除した。多数の社会的、国家的ニーズ、さまざまな人間の文化的、経済的ニーズが規格化され、強制的に上からの命令された計画に組み入れられた。あらゆる質的面はデモクラシーと並んで葬り去られたので、計画決定の特徴は、ただ単に、量的な成長の水準と率のみであった。このようにして、過渡期社会は、成長においては、量的増加に力点を置いた。時には資本主義社会よりも一層強く。成長率は法令で布告され、抑圧をもって実施された。資源や環境の保護は、せいぜい量的問題として、例えば浄化ステーションの数、フィルターの数、ある予算支出などが、このような計画に含まれるだけだった。このプランニングは始めから、誤り(資源の誤用を伴う)と計画の大きな見落としに悩まされた。社会的コントロールが無いため、これらはただ、最終的に "お偉方"に認められたときのみ修正された。
 さらに、その計画の別の部分は、それをセットした官僚の別のフラクションの利害と一致した。このようにして、ソ連や他の官僚国家に典型的な、巨大主義(gigantism)が存在するようになった。プロジェクトがより大規模に、より中央に集中されると(例;シベリアの川のコースを変える)、官僚の権力はより強まる。1970年代以来、環境問題に関心を持つ官僚が登場してきたが、彼らは影響力を欠き、小さな低レベルの部門に埋もれたままだった。
 楽観主義と進歩への信仰が官僚的イデオロギーの信条である。官僚は、"二つのシステム間の競争"と資本主義社会に "追いつき追い抜く"との将来予想を打ち出した。この観点から、このような環境問題を引き起こした資本主義的消費と近代化のモデルが価値あるものとされ、計画の組立の役割を演じるイデオロギー的価値として、取り上げられた。官僚は、自然資源の量を量ることを基礎にしたモデルを使うだけだった。(即ち、保守的ブルジョア経済学者に使われたものに匹敵するモデルを。)
 西側勢力とIMFの祝福を受けて、ソ連の崩壊以来、今ロシアで勢力をふるっている経済的略奪や野放し主義を背景にしていては、エコロジカルな危機は悪化するばかりである。 

 IV.労働運動とエコロジー

 エコロジストはマルクスやエンゲルスを生産力主義と非難する。この非難は公平か?いや、次の範囲ではノーだ。即ち、誰もマルクスほどの勢いで、生産の利益のための生産、資本の蓄積、それ自体を目標とする富と商品の生産、という資本主義の論理に対抗してものをいった者はいなかったという点において。みじめな官僚的風刺画と対照的に、社会主義のまさにそのアイデアそのものが、使用価値、すなわち人類のニーズを満足させる製品、を生産することなのである。マルクスの目に映る技術進歩の至高の目的は、際限なく品物を増やすこと(所有"having")でなく、労働時間を短縮することであり、もっと自由な時間を持つこと(存在"being")なのである。
 しかしながら、時にはマルクスやエンゲルスの中に、そしてさらに一層最近のマルクス主義の中に、次のような傾向があるのに気付かされることも事実である。つまり、"生産力の発達"を進歩の主なベクトルにしようとする傾向、工業的な文明化に、特に自然を破壊する手段となることに対して、あまり批判的でないスタンスの傾向があるのも事実である。『経済学批判要綱』(Grundrisse)の次の一節は、資本主義的生産の"文明化"の使命や、自然の残虐な手段化に対する、マルクスのあまりにも無批判的な賞賛を伝える一例である。

"このようにして、資本がはじめて、ブルジョア社会を、そして社会の成員による自然および社会的連関それ自体の普遍的取得を、つくりだすのである。ここから資本の偉大な文明化作用が生じ、資本による一つの社会段階の生産が生じるのであって、この社会段階に比べれば、それ以前のすべての段階は、人類の局地的諸発展として、自然崇拝として現れるにすぎない。自然ははじめて、純粋に、人間にとっての対象となり、純粋に、有用性をもつ物象となり、独自の威力と認められることをやめる。またそれどころか、自然の自立的な諸法則の理論的認識が、自然を、消費の対象としてであれ生産の手段としてであれ、人間の諸要求に服従させる、そのための狡知としてしか現れない。"(マルクス『資本論草稿集』2、大月書店、1993、 pp. 17-18).

 他方、マルクスがテキストの中ではっきりと、資本が自然環境に働きかけてきた破壊について述べているのにも気付かされる。例えば、『資本論』の、資本主義農業に関する有名な一節の中で、生産力によってもたらされた"進歩"の矛盾についての弁証法的な視点を立証している。

 "労働の生産力の上昇と流動化の増大とが、労働力そのものの荒廃と衰弱とによってあがなわれる。そして、資本主義的農業のあらゆる進歩は、単に労働者から略奪する技術における進歩であるだけではなく、同時に土地から略奪する技術における進歩でもあり、一定期間にわたって土地の豊度を増大させるためのあらゆる進歩は、同時に、この豊度の持続的源泉を破壊するための進歩である。ある国が、たとえば北アメリカ合衆国のように、その発展の背景として大工業から出発すればするほど、この破壊過程はますます急速に進行する。それゆえ、資本主義的生産は、すべての富の源泉すなわち土地および労働者を同時に破壊することによってのみ社会的生産過程の技術および結合を発展させる。"(『資本論』第1巻、 S. 529)

 エンゲルスでさえ、彼は非常にしばしば、自然に対する人の"優越"と"支配"を讃えたが、次のテキストにみられるように、このような見通しの危険性に、もっとはっきりと注意を向けるよう呼びかけた。例えば、"猿が人間になるにあたっての労働の役割"(1876)の論文の、次の一節でこう述べている。

 "しかし、自然に対して人間が勝利したからといって、あまりうぬぼれてはいけない。勝利の一つ一つに対し、自然は復讐する。各々の勝利は、実際、最初はわれわれが期待した結果を引き起こす。が、第二、第三では全く違った、予期せぬ効果を果たす。それは、あまりにしばしば、第一の結果を帳消しにする。メソポタミア、ギリシャ、小アジアなどで、農耕地を得るために森林を破壊した人々は、次のことは夢にも思わなかった。即ち、森林と共に、水分を集める中心地や貯水池を移すことによって、彼らは、上述の国が現在の荒涼たる状態に到るための基礎を敷いていたのだとは。・・・・・
 このように、征服者が外国人を支配するように自然を支配してはいけない、ということを、一足進むごとに、われわれは思い知らされる。即ち、自然の外側にたつ者のように支配してはならないこと、肉体、血、頭脳を持ったわれわれは、自然の一員であり、その真っ直中にいるということ、われわれの自然に対する優位はただ、自然の法則を学ぶことができ、それらを正しく適用できる点で他のすべての創造物より優れているのだということを。"

 他の例を見つけるのは難しくないだろう。しかし、マルクスとエンゲルスは全体的なエコロジカルな展望を欠いていたという事実は残る。エコロジー問題は、マルクス主義者の新生のために21世紀初頭に考えられる最も大きな挑戦の一つである。それは、マルクス主義者に以下の要求をする。即ち、彼らの伝統的 "生産諸力"(productive forces)の概念を徹底的に批判、再評価すること、また、直線的進歩のイデオロギー・近代産業文明化の技術的、経済的パラダイムときっぱりと決別することが求められる。労働運動の位置づけ上の改良主義(reformism)の発展と平行して、自然への脅威的な資本主義文明の姿勢についてのマルクスとエンゲルスの批判的見解は軽視された。改良主義は、ブルジョア社会の生産力主義者の概念・予想を取り上げたが、それは、ブルジョア社会の主要な制度(州、軍隊、法律など)を受け入れることによって、ブルジョア社会にとってまさに不可欠な要素となってきた。例えば20世紀初頭、ドイツの金属労働者組織(Metallarbiterverband(DMV))は、社会民主主義の支配下で、以下のような説得力のある説明をした。"技術的発達が速ければ速いほど、資本主義の生産様式は一層速く自壊して、もっと高い生産様式にとって代わらざるを得ないような地点に到達するだろう。" 
 社会民主主義とスターリニズムは、多くの問題で意見が合わないにも関わらず、経済の生産力主義者としての概念と環境問題への無関心では意見が合った。一般に革命的潮流、特に第四インターナショナルが、エコロジカルな問題を統合したのは、ほんの最近になってのことであることを認めなければならない。不断に続くエコロジカルな災害、環境保護運動の増大、これらの運動の部分的勝利、そして運動を政治的に組織化しようという試み("緑の"党など)は、労働運動の中の分化を導いてきた。一連の国々で、すべての組合、あるいは少なくとも、その中の強力な少数派は、イタリア、イギリスの鉱山での核エネルギーの "平和的"利用に反対し(CGIL)、エコロジカルな問題に敏感に反応してきている。例えば、ブラジルのCUT、フランスのSUD、スペインの労働者委員会、ドイツのIG-Metallなど。
 現在われわれは、労働者の代表と表明している党や組合の4つの潮流をはっきりと区別できる。
 a) あたかも何も変わっていないかのような態度をとり続けようとする"中核"フラクション
 このフラクションでさえ、環境にとって破壊的な発達ということを考慮して、いくぶん調整せざるをえなかった。この流れは、今、放射能の基準と新しい規則を求めているが、原子力の継続使用を擁護している。近視眼的な立場を修正せずに、特に、もしそれが新しい市場を開発するなら、エコロジーに "つぎあて"することに同意を表明している
 b) ハイ・テクの解決法でエコロジカルな問題を解決できると考えるテクノクラートの潮流 実際はほとんどの場合、問題を先送りするに過ぎないだろう。例えば、ばく大な量の濾過された残りかすや、浄化した後のヘドロやその他のごみをどうするのか?ドイツSPDのピーター・グロッツは、大資本の "パイプテクノロジー末端"フラクションに協力を求めている。"伝統的左翼、技術エリート、成長について健全な見通しを持つ資本家の中の批判的少数派"間の同盟を通じて、社会的な方向の技術革新が獲得されるだろうと。彼は、生産手段の私的財産へのどんな挑戦も明白に拒否する。
c) 第三の潮流は、"改良主義的エコロジスト"と呼べるだろう。これもまた、生産関係に言及するのを拒否する。彼らもまた、資本主義から、あるいは厳密には "産業社会"から、エコロジーに対する罪を取り除けるという。エルハルト・エップラーは、ドイツSPDの "基本的価値委員会"の議長として、次のようにいった。"以前よりもっと、社会民主党の仕事は、新しい改革政策を通して、即ち、民主的、人間的、エコロジカルな修正を行いながら、産業社会に向かうことである。"
d) 第四の流れは、少数ではあるが数の上で無視できない、環境社会主義( eco-socialism)である。それは、マルクス主義から生産力主義的なかすを取り除き、その基本的な成就をはかろうとするものである。環境社会主義者は、市場と利益の理論(すたれた「人民民主主義」の権威主義とともに)はエコロジカルな要求と矛盾すると考える。労働運動の指導的潮流によって推進されたイデオロギーを非難する一方で、彼らは、労働者とその組織がシステムの変換のための本質的な力であることを理解する。
 環境社会主義は、南の労働者、人々の利益に最も敏感な労働運動やエコロジー運動の潮流である。それは、資本主義者や官僚的形態(いわゆる "現存社会主義")の生産力主義者の発展イデオロギーを捨て去り、生産や消費の環境に対する破壊的様式の無限の拡張に対抗する。"持続的な成長"は資本主義市場経済の枠内では不可能であると理解している。革命家として、われわれの目的は、この流れに協力し、部分的改革は全く役に立たないことを労働者に悟らせることである。ミクロな合理性(micro-rationality)は、文明社会の本当の変化を求める社会主義者やエコロジストのマクロな合理性に取り替えられなければならない。これは、徹底的な技術的方向付けのし直し、即ち、現在のエネルギー資源を別の、有害でない、再生できるもの、例えば太陽エネルギーのようなものに換える模索なくしては不可能である。まず手元にある最初の問題事項は、生産手段、とりわけ、投資と科学技術的な変さらに関する決定についてのコントロールの問題である。生産と消費の様式について、資本主義市場とは異質の基準、即ち人々の本当のニーズや環境的な安全保護に基づく全体的な再構成が必要とされる。別の言葉で言うと、社会主義の過渡期の経済は、優先順位や投資を人々自身が民主的に選ぶことをベースにするのであって、"市場の法則"や、すべてが分かる政治官僚をベースにするのではない。計画経済は、社会的ニーズの充足とエコロジカルに不可欠な事項の間の緊張を克服するための永続する方法を見つけることができる。過渡期は生活をオルタナティブな方向に導く。即ち、金の支配や、広告により人工的に煽られる消費習慣、環境に有害な果てしない品物の生産(個人の車!)を超えた新しい文明の方向に導く。

 V。エコロジー運動の到達点と限界

 エコロジー運動の基本的到達点、それは、環境問題に対する公の認識に徹底した変化を引き起こしたが、最近の資本主義が環境を破壊しているという程度の了解に留まっている。自然破壊は、人類すべてを危険にさらす地点に達した。ここでは、世界核戦争の場合のように、生き残りが問題になる。しかし、核破壊の危険とは反対に、いつも "新しく"そしてますます明らかに、さらにさらに深刻になっている問題である。エコロジー運動の基本的到達点は、同時に根本的限界でもある。この運動は、環境問題を、人類すべての死活に関わるものと見ているので、階級間の融合を探しだし、その結果、十分な手段(資本に対する階級闘争)を呼びかけることができない。

 エコロジー運動のもう1つの到達点は、"進歩"の概念に疑問を投げかける方向である。それは、最近の資本主義に対するマルクス主義者の分析の欠点を論証してきた。生産力が積極的に発展した資本主義的発展初期の頃のように、生産手段の個人所有により束縛された、とか、プロレタリアートの犠牲で発達した、とかは、われわれはもはや言えない。生産力の発展のために歴史上必要だったより遥かに長く生き残った資本主義は、さらに一層、生産力を破壊力に変換している。しかし、これは次のことも意味している。この力は皆のために、社会主義体制の中で使われるように、解き放たれることはできない。この力については、詳しく調べ、厳しい目で分析される必要があるだろう。これは単に理論的問題でなく、非常に実践的問題、即ち、スターリニスト官僚体制の考えに典型的な、"資本主義を追い抜く"という考えに対する批判をも含むものである。さらに、どの生産物がエコロジカルな、また社会的な観点などからみて望ましいかなどを問うことによって、生産の物質的側面(使用価値)の、より念入りな分析が、まずなされているところである。
 1968年の運動に続く敗北の後、エコロジー運動は、今一度ユートピアの次元を政治に持ち込んだ。社会体制の根本的変化、別の生き方、および生産方法についての討論が、エコロジカルな要求を基礎にして再び持ち込まれている。生産の使用価値についての前述の討論は、社会的に有用な生産についての議論を含む。異なる社会についての新しいユートピア構想が話し合われ、そして、具体的な "再転換計画"の概略が述べられた。
 エコロジー運動は、まずヨーロッパで発達した。それは、大規模な大衆を巻き込んだ。労働運動が防衛的態度をとっている国々、即ち、オーストリア、スイス、ドイツなどにおいてすら。デモ、封鎖、占拠といった、戦闘的、具体的闘争形態が、"抵抗の文化"を引き起こした。当初、これらの闘争は、とりわけ核問題に焦点を合わせていたが、いまや、例えば大気や水汚染そしてGMOといった、他の問題を取り上げ、動員している。"狂牛"危機のようなスキャンダルが、"ジャンクフード"や資本主義市場の論理から起こる危険についての大衆的な自覚を目覚めさせた。フランスでは「農民連合」が急進的活動の触媒となった。ホルモン処理をした牛肉輸入のフランスの禁止に基礎をおいて、米国の制裁に反対する象徴的行動(マクドナルドの追い出し)から始めて、労働組合(trade unions)、エコロジー組織、左翼諸政党の支持を受け、また世論の強い同意を受けて、世界貿易機構(WTO)の相手になるまでに、その闘争は広がった。2000年6月には、ミヨー(フランス)の裁判に直面した小農民への連帯の大集会で、強い支持が示された。 大きなエコロジカルな動員は、米国でも起こり、複雑な、異質の運動を生んだ。それは、植物種や人間以外の動物種に人間以上の優先順位を与えよと主張する "ディープエコロジー(deep ecology)"から、環境社会主義にまで広がる。最近の、シアトルでのスプリング2000の大結集は、この運動の強さと、そのいくつかの部分の意志を示した。例えば大きなエコロジカルな連合の"地球の友"のような、WTOや商品化の進み続ける世界に対抗する組合や左翼と進んで協力しようとする部分の意志を。シアトルはまた、北アメリカの運動、ジョゼ・ボヴェ(Jose Bove)をスポークスマンとする農民組合などのヨーロッパの運動、そして第三世界の運動が、闘争の中で最初に合流した場となった。
 エコロジカルな問題を北の国々の豊かな社会のぜいたくと考えるのは、大変な間違いだろう。さらにさらに、エコロジカルな次元の社会的運動は、資本主義の周辺、『南』にまで現れている。
 これらの運動は、アジア、アフリカ、ラテンアメリカで、深まるエコロジカルな問題に反応している。つまり、帝国主義諸国の"汚染輸出"という故意の政策、および『競争力』を求められて抑制のきかなくなった『生産性』。われわれは、小農民の農業を防衛し、市場(ないしは国家)の攻撃的な拡張によって脅威を受けている天然資源の共同体による獲得を防衛するために、『南』で民衆の動員が行われているのを目撃している.
 他の闘争は、不平等な交換、従属的産業化と田舎での資本主義の発達(アグリビジネス)によって起こる、環境への損害との闘いに立ち上がっているところである。しばしば、これらの運動は、エコロジカルとしては自らを規定しないが、それでも本質的にエコロジカルな次元を持っている。
 これらの運動が、技術的進歩による改善に反対しないことは言うまでもない。反対に、電化、水供給、適度の下水やもっと多くの診療所の要求は、運動の要求リストの中でもランクが高い。運動が拒んでいるのは、"市場法則"や資本主義的 "拡張"が不可欠という名のもとに、自然環境を汚染したり破壊したりすることなのである。ペルーの小作人のリーダー、ウーゴ・ブランコ(第四インター)による1991年のテキストは、この"貧困のエコロジー"の意味するところを、顕著に表している。"一見したところ、環境保護者、あるいは資源保護論者はナイスというよりも風変わりな人間のようにみえる。彼らの人生の主たる目標は、シロナガスクジラやパンダの絶滅を防ぐことである。普通の人は、例えば、次の食事はどこから来るだろうか、といったような、もっとさし迫った関心を持つものだ。・・・しかし、ペルーでは、環境を保護している人が沢山いる。もちろん、あなたが彼らに向かって、「あなたはエコロジストです 」と言えば、彼らはおそらく、こう答えるだろう。「 エコロジストだって。とんでもない」と。・・・だがしかし、Iloの町や周辺の村の住民が、南ペルー銅会社(the Southen Peru Copper corporation)によって起こされた汚染と闘いながら、環境を保護しているのを誰が否定できるか?略奪から森を守るために死ぬ覚悟ができているアマゾンの人々は、ことごとくエコロジストではないのか?あるいは、水を汚されたことに反抗する、リマの貧しい人たちも、そうではないのか?"
 ブラジルは、社会問題と環境問題を大規模にリンクさせた国の一つである。そこでは、土地を持たない農民運動(Landless Peasants Movement (MST))が、GMOに反対して結集するのが、即ち、大多国籍モンサント(Monsanto)と、直接対決しているのが見られる。労働者党(PT)に支配された地方自治体および地方はエコロジカルな目的を、彼らが参加する民主的プログラムの一部にしようとしている。リオグランデドスル(Rio Grande do Sul )地方の行政機関(MSTやPTと近い関係にある)は、GMOがその地方に入るのを禁止したがっている。その地方の富裕な土地所有者たちは、憤慨し、いわゆる "古くさい見解"への反対を表明している。彼らは、遺伝子を組み替えた種に反対する闘争を、"農業改革を押しつけるための陰謀"と見ている。森と直接関わって生きている先住民族(indigeneous peoples)は、農業資本主義(agrarian capitalism)に押しつけられた "近代化"の主な犠牲者の一人である。結果として、彼らは多くのラテンアメリカの国々で、環境と調和し、資本主義的 "文明"のブルドーザーに反対し、従来の生活方法を守るために集結している。ブラジルの "貧者のエコロジー"の数え切れない表明のなかで、ある運動が特に典型的で目立つ。社会的な・エコロジカルな観点、地方的な・地球的な観点、また "赤"・"緑"の観点で。それは、大地主や多国籍アグリビジネスの破壊的な食欲に対してブラジルのアマゾン地域を守るための、シコ・メンデス(Chico Mendes)と森の住民連合(Coalition of Forest Peoples)の闘いである。この衝突で起きた主な出来事を簡単に思い出しておこう。シコ・メンデスは、労働組合の活動家で、CUTとブラジルの労働者党(PT)とつながりを持っていた。社会主義とエコロジーについてはっきりと言及しつつ、80年代初頭に、メンデスは、セリンゲイロ(seringueiros)(ゴムの木の樹液を取ることで生計を立てる小作人)の土地占拠(ブルドーザーを送り込んで森の木を切り倒し牧草地に変えた大地主(lantifundistas)への反抗)を組織した。その後、彼は、森の住民連合の中で、下部教会組織(Church community)の支持を受けて、小作農、農場労働者、セリンゲイロ、労働組合、そして先住諸部族を統合するのに成功し、多くのあからさまな試みを失敗させることができた。これらの活動は世界的に知られ、1987年、彼は地球環境賞(Global Ecological Prize)を受けた。しかしその後間もなく、1988年12月、lantifundistasは暗殺者を使って彼を殺し、このエコロジカルな闘争は、大きな代償を強いられた。 社会的闘争とエコロジカルな闘争、小作人の抵抗と土着民の抵抗、地方の人々の生存と地球的不可欠事項の保護(最後の大熱帯林の保護)をリンクさせて、この運動は、"南"でのこれからの大衆的な動員の規範となりうる。
 特にヨーロッパの、ある国々では、エコロジー運動は多くの改革を勝ち取ることができた。一部では、環境破壊の急なペースはゆっくりとなった。例えば、実際、新しい原子力発電所は建設されていないし、ある種の化学製品の生産(CFCや肥料など)は数を限られているし、一定の工場や自動車などに、厳密な基準が規定された。資本主義的環境産業が現れてきた。また、エコロジカルな改良は、ブルジョア政党の政策要項の中にさえ、その道を見つけることができるようになった。だが、改良のあらゆる試みにも関わらず、環境産業に関わらず、地球規模の破壊はかつてない以上に深刻になってきている。海の汚染、熱帯林の開墾、気候変化のどれもが、このことを表しているのである。地球規模のエコロジカルな危機は変わらずに残ったままである。この点からみて、この危機は、われわれの社会の根本的な変化の必要性、即ち、日の光を見るかもしれないどんな改良をも遥かに超えた、基本的な変化の必要性を示している。 

VI.環境問題とブルジョア支配

 資本主義生産が環境に与えた影響のせいで、人間社会にとって自然の基礎の破壊が新しいレベルに達した。ブルジョア的秩序やイデオロギーにとって、それ自体、本質的問題となってきた。
 ・ エコロジカルな危機は、世界的に広がっている。資本主義に固有な競争的状況下では、それは社会共通の悪としてのみみられる。
 ・ エコロジカルな危機の、ある原因は、はるか以前からのものである。また、ある原因は、いろいろ別々の要素が結びついて発展したことの産物である。このため、その時間を特定したり、生理学的な原因を突き止めるのは難しい。同様に、エコロジカルな危機を克服するには時間と投資が必要である。それは、生産と投資(imput/output)のサイクルのブルジョア的概念の破綻を意味するであろう。
 ・ 最後に、古典的経済危機に見られたものとは反対に、資本主義の有害な社会的結果や、また軍事衝突の結果において、支配され搾取された階級はエコロジカルな危機に対しての責任の一端がある。しかし、被抑圧階級が、とりわけ従属諸国では、その負担を集中的に負わせられることは否定できない」。これは、社会・経済危機とエコロジカルな危機の相互作用が与えられると、一層真実となる。 
 エコロジカルな危機の認識の成長と、1960年代始めから発達してきたエコロジー運動は、ブルジョアイデオロギーの鍵となる概念の一つを、活発に攻撃した。つまり、ブルジョアの社会的・経済的秩序は、永続的な "すべてのための進歩"(" progress for all")を保証できること、自然の利用が、本来積極的であること、それに付随するすべての問題は解決されるだろうという概念を攻撃した。このイデオロギー上の挑戦に直面して、ブルジョアイデオロギーを最新のものにしようとする試みがあった。最初のものは、世界中に周知の、ローマクラブ(the Club of Rome) のレポート ("成長の限界"、"The Limits of Growth"、1972年)であった。このレポートは、環境破壊の急速な進行を記録し、天然資源の消耗や環境破壊などの統計的な進行に対する、超国家的政策を打ち出した。この研究、そしてそれに続く他の研究は、両刃の剣であった。一方では、科学とブルジョアイデオロギーが環境問題についてイニシアチブを取り戻し、出された予測や解決についての討論を引き受けた。もう一方でこれらの研究は、世界の未来について悲観的見解を強め、環境運動の一層の推進力となった。現在の経済上の秩序である資本主義世界が、その優位のオーラを失った。つまり、その終局とそのメカニズムが内側から問題にされた。同時にこれらの分析は、ワールドプランニングと経済の政治的規制を促進しようとする要求のカタログとなった。このようにして、それらは、資本主義市場経済、経済的自由主義(economic liberalism)、当時世界的にあった政治的規制緩和攻撃と正面衝突した。1980年代中頃、環境的地平での第二のブルジョアの攻撃が必要になった。その後、これらの矛盾の解決法の提供が、特に具体的政策で、必要になってきた。1988年に国連総会で採択された、ブルントラント(Bruntland)レポート("共通の未来""Our Common Future")は、このことを表現したものであった。ブルジョアジーは、資本主義は不幸にも環境を傷つけているが、必要な訂正をする立場でもあると確信している。だからそれゆえに、もっとバランスのとれた成長形態("持続可能な成長")に必要な要素を寄せ集めるよう主張した。1990年代には、地球化した資本主義の新しい国際制度の約束と、まさにこの体制のもつ、残酷な社会的、環境的衝撃の間の矛盾が深まった。地球サミット(1992年)のリオ宣言(Rio Declaration)では、いくつかの原理、例えば、予防原理のようなものが述べられ、エコロジカルな危機の要素の認識に進歩を示した。アジェンダ21(Agenda 21)(2500もの手段を混ぜ合わせたばく大な袋)も、生物多様性や気候変化への国際的協定も共に、必要なラディカルな解決法には到らなかった。WTO(環境をさらに自由化された国際貿易の影響の下に置く)の誕生と共に、これらの協定はほとんど効果がなくなった。生物多様性保護のための宣言は、自然環境に対して絶えず進行する損害には何の力にもならない。政治レベルで、宣言は、農業化学的な、また薬学的な多国籍企業の利害と出くわす。彼らは、GMOの使用を増やし、遺伝子特許を取ることに組織の生存をかけている。温室効果についての東京議定書(1997年)は、温室ガス放出を減らすという非常にささやかな目標を達成できる対策を講じるために、豊かな国々にいかなる負担も課さなかった。1250億ドルを、10年にわたって出すことが、世界規模の環境保護政策のために、リオで発表された。1996年、3億千5百万ドルだけが投資された。ブルントラント・レポートで示された改良主義者の考えと、リオで再び支配的になった超リベラル帝国主義モデルとの間では、さしあたり後者が勝った。
 今日、環境問題への実践的アプローチは、どのブルジョア政府のプログラムでもその一部をなしている。一般に、大気、土壌、水汚染については、限界を設定しようとしている。これらに、生産過程で出る残りかすの危険な影響を減らすための漸進的な計画が付け加えられる。あらゆることが言われ行われても、これらは実際起こっている破壊を中和できない応急策に過ぎない。"エコロジカルな市場経済"に関する経済的プログラムと政策方針がまた重要性を帯びてきた。今日に至るまで、資本主義経済を、環境に優しく作用する方向に向けなおそうとする試みは、机上の話に過ぎなかった。しかし、資本主義的グローバリゼーションの状況下で、温室ガスの量を減らすための世界的基準について、"汚染の権利の売買(marketing the right to pollute) "のシステムを押しつける広大な攻撃が進んでいる。米国に擁護されて、このメカニズムはヨーロッパ連合に採用された。これは、闘うべき危険な発展である。まずそれは、発展途上の国々の北側への依存を強める道を開く。それぞれの国に、交換できる汚染の量を割り当てるメカニズムでは、その決定力は、汚染を商売にする財力のある国に所属する。南や東の債務の多い国は、こちらの方が遥かに汚染しているにもかかわらず、北側諸国に自らの割当量を売るというリスクを冒すことになるだろう。さらに、このシステムは、汚染を商品、つまり、利益の資源、にしようともくろんでいる。このような条件下で、このシステムが汚染の効果的な減少に導くだろうと、どのようにしたら想像できるのか。最後に強調しておくが、このメカニズムの目的は、つまり環境の分野へのリベラルな攻勢の主要なねらいは、エコロジカルな批判の秩序破壊的力(資本主義体制の全機能への挑戦)、を緩和することなのである。それは、市場は、汚染と闘う最高の道具であり、資本主義は本質的に "もっとクリーンな"資本主義に向かうという考えの信用回復を目的にしている。環境保護が "資本主義経済の新しい近代化"の背後で、後ろ盾になりうるような、このようなテーゼとは闘わねばならない。大きなギャップが豊かな地域と貧しい地域を分ける。一方では、豊かな帝国主義諸国では、汚染や破壊の最も多い問題のいくつかをくい止めることが出来つつある。一方では、貧しい国々では、資金の欠如や、環境に害を与えることで利益を生みだした一握りの会社の利害に直面して、最も僅かの必要手段さえうまく行かない。

 VII。エコロジー運動の政治的組織化の経験

 ますます多くの国で、緑の党が発達している。西ヨーロッパでは、ドイツ、フランス、オーストリア、スエーデン、ポルトガルなどさまざまな国で、議席を得た。47名で、重要なヨーロッパ議会グループを設けている。彼らは今や、連合の三国(ドイツ、フランス、ベルギー)の左翼連合と並んで、政府に参加している。緑の党は、従属国でさえ見られる(ブラジル、トルコなど)。米国での、ラルフ・ネーダー(Ralph Nader)の大統領選への立候補は、グローバリゼーションへの闘争を基盤に、エコロジストを若者や労働組合員と結合する共同戦線の政治的出現を象徴する。もちろん、過去20年以上に渡る緑の組織および党の発展は、地球規模の環境危機によって説明できる。しかしそれは、労働運動の伝統的なリーダーシップによる全体的展望の欠如や、1968年来、資本主義ヨーロッパで革命的突破が無かったことなどの付加的要素が無ければ理解されない。すべての、異なった "緑"の経験を同じバッグに入れるのは完全に誤りである。国、政治的文化、その具体的な歴史的起源に依存しているため、それらは、固有の特徴を持っている。彼らの独特の色彩は、ブルジョアやプチブル勢力の強い影響から、最左翼、オルタナティブな社会主義者、環境社会主義者の共存にまで分布している。そしてまた改良主義的緑の潮流を含む。われわれは、一般的に、そしてそれなりの注意を払っても、次のように言うことができる。 
 ・ これらは、左の改良主義(伝統的リーダーシップの左翼)に組織する試みである。
 ・ 彼らの社会的ベースの75%はサラリーマンであるが、これらの潮流は、自らの立場を、労働者運動の一部としてみなしていない。
 ・ 彼らはしばしば、エコロジーを中心においた政策要項に基礎をおいて、非公式選挙構造として始まったので、緑の運動は、他の領域には批判的立場をとった(社会政策、軍拡競争、第三世界など)。
 緑の活動には、架空の改革 "戦略"と、部門的社会的不公平に対する、しばしば正しい批判の組み合わせという特徴がはっきり見える。ほとんどの場合、政府あるいは議会活動は事実上、緑の党の草の根運動を抑え込み、権力代表団に伝統的な形態を取るようにうながし、そうすることで、その運動のラディカルな本質を土台から壊そうとする。一層悪いことに、ドイツの緑は、例えば、エコロジカルな批判によって具体化されたユートピア的力のすべてを失いつつある。そしてまた、単なる改良党になりつつある。ドイツ緑の党(Grunen)が1998年末に政府入りしたとき、このことが彼らの諸階層に本当の政治的地震を起こした。その衝撃波は、核問題、コソボ戦争や政府政策の一層強まった新自由主義政策との困難な妥協と共に続いた。同じく、エコロジスト党が受けるかも知れない変化のリズムや形態を、そしてどの程度まで、緑の党の真の本質が、彼らの選択や政策のシフトによって変えられていくのか、あれこれ考えても実りはない。革命的マルクス主義者は、政治活動を、自己の要求、プログラム、あるいは自己の役割を自覚しているかを基に判断するのではなく、階級闘争の中での実際の機能を基に判断する。一般的に、緑の組織と党の出現は一歩後退ではなかったと、われわれは断言できる。反対に、多くの場合は、左翼活動を広げたといえる。緑を無視してはいけない。反対に、行動政策は、緑の方向を向いて、即ち、彼らとの共同の活動、理論的立場についての討論などを通じて発展されなければならない。ある国々では、 抵抗政党とエコロジー運動が立ち上がって、選挙連合体制を作り、批判的意見の一部分を動員した。このような党や運動との共同の最良の形態を具体的に決めるのは、インターナショナルのそれぞれの支部の責任である。

 VIII  第四インターナショナルとエコロジカルな危機

  W章で見たように、マルクス主義者のオリジナルテキストの中に、資本主義への急進主義的エコロジカルな批評の前提が見られる。しかし、労働運動においてほとんどの党がそうだったように、我が第四インターナショナルもまた、結成当初からは、それを取り上げることができなかった。例えば、過渡的綱領(Transitional Programme)、つまり 1938年の結成会議における基本的プログラムの記録の中にそれを探しても役に立たないだろう。第二次世界大戦後の期間、革命的マルクス主義者は、環境破壊、大気、水汚染を無視しなかった。しかし、これらの現象は、搾取的、非人間的体制のネガティブな結果の1つと考えられた。生きとし生きるものすべての基礎を破壊しようとしている地球規模の現象とはみなさなかった。このことは、1970年代初頭から変わってきた。その時期、資本主義の自己破壊傾向が広く討論の主題に、例えば、1972年のローマクラブのようなブルジョアイデオロギーに対する討論の主題になってきた。われわれの運動の仲間によって書かれた記事や研究が出てきた。しかし、労働運動の組織化のための本当の試練は、核エネルギーに反対する大衆運動の誕生、特に、日本、西ヨーロッパ、そして米国における誕生であった。 
 実際、第四インターナショナルのすべての支部は、これらの大衆運動に関わっていたが、ほとんどの支部は、反核運動が衰退していったとき、エコロジーの仕事を強める道にたどりつくことはなかった。これらの運動の経験は、まさに世界大会に向けた討論の道を作り出したのである。第10回大会のテキストでは、エコロジーやそれに関係がある問題が述べられることさえ無かった。しかし次の大会で、1979年、核産業に反対する闘争は"労働者階級の生存の問題"とみなされ、次のことが宣言された。インターナショナルとその支部の仕事は、闘争の中に"産業労働者を取り入れることで運動を強化する"ことであると。1985年の大会で、その立場は一層発展した。記録によれば、世界革命の三つのセクターそれぞれに、もっと詳細な分析をしている。主な決議は、インターナショナルとその支部に、宣伝や活動の中でエコロジー問題をもっと強調するよう、また、エコロジー運動と並んで普通の活動も組織するよう求めた。1990年、インターナショナルのさまざまな支部からなる委員会は、エコロジーについての草案を作成した。それは、13回大会の討論の中で出されたものであるが、議案を採決する前に、さらに討論を重ねることが決められた。
 今日、第四インターナショナルは、環境破壊を、人類への主たる脅威の1つと見ている。つまり、ローザ・ルクセンブルグの有名な定式、"社会主義か野蛮か"に新しい意味を与える問題として見ている。それは、労働運動による公約、及び、惑星の破壊に対する闘いの組織化を、この領域における最初の仕事とみなす。それは、社会運動とエコロジー運動の間に、破壊の様々な形態に反対するだけでなく、最初にそれらを引き起こす体制に反対する、共同の道を開こうと懸命に努力するものである。それは、これらの運動の討論に加わりたいと思っており、また、"クリーン"な資本主義の可能性について広がった幻想に反対しようとしている。多くの国で、インターナショナルは、現に進んでいる闘争に積極的に参加している。例えばGMOや、ブラジルではアマゾンの森林破壊に対する闘争などに。ヨーロッパの支部は、自国のエコロジー運動に前よりもっと参加している。われわれの分析では、エコロジーの問題は、労働運動が再組織しなければならない最も重要な極の1つである。少なくともこれは、われわれの運動活動に、これらの "新しい問題事項"を取り入れる際に、問題が無かったというわけでない。多くの仲間は、エコロジー問題を、資本主義の他の多くの問題と同様の矛盾の1つとみなし続けてきた。彼らは、それを労働者階級の日々の生存競争、即ち、非人間的な生活、労働条件や戦争の脅威に対する闘争と密接につながった問題としてみてこなかった。支部のほとんどは、他の勢力が行動を起こし、エコロジー問題がニュースに大きく出た後に、それについて考え始めるだけだった。結果として、インターナショナル内の討論がはっきりとした形が付いてきたのは、かなりゆっくりとであった。他の潮流や個人は、エコロジーや社会主義の問題を何十年も討論し続けたが、革命的マルクス主義者は比較的静かなままだった。マルクス主義者は、自らの方法を、手直にある、実際の問題に当てはめていくよう、特別の努力をしなければならないことがますますはっきりしてきた。単にエコロジカルな思想の2、3の要素を取って、それに赤い色をほんの少量付けるのはもはや不可能である。第四インターナショナルは、具体的なエコロジー政策についての討論に単に参加しようとは思わない。大衆運動に必要なステップ、政治的、組織的なステップを踏み出したいとも思っている。大衆運動の活動を通じてのみ、今の状態は変えられるのである。

 IX. 行動綱領

今日、世界中で、自然の略奪や破壊に対するイニシアチブや運動が広がっている。第四インターナショナルは、これらのイニシアチブや運動を支援し、それらに参加する。時には批判的に。なぜなら、ある種のエコロジストの一般的見通しは、ときおりかなり混乱しているからである。エコロジー運動の経験が、幅広い結集や大衆的な抗議だけが、世論を味方にし、本当の結果を獲得させることができることを証明している。広範囲に渡って、環境危機や社会危機が同一のメカニズムによってかき立てられている。大経済圧力団体の利害、さらにもっと排他的な "市場"の独裁、WTO、 IMF、 WB、 G8により具現化された世界秩序などが結びついて、人間や自然から搾り取れるだけ搾り取っているのである。普遍的なファクターが、今日のエコロジカルな社会的危機の中で作用しているので、普遍的な救済策が出され得るし出されなければならない。"経済のリベラリズム"が阻むもの壊し、人間のニーズや環境に不可欠のものを最前に押し出すことが大切である。このような理由で、エコロジカルな闘争と社会的闘争の共同体、及び共通の収束地平が存在するのである。

 1. 公共サービスの防衛
 輸送の例は、公的政策が社会および環境に不可欠なものに対して、十分な責任を求められる範囲をはっきり示す一例である。ヨーロッパで、市場の論理は、"儲かる"テクノロジーやルートのために鉄道のシステムをカットし、その代わりの解決法として道路やハイウエイを当てるよう要求している。社会的ニーズ(経済的公的輸送、全領域をまかなう完全なシステム、見合った給料と労働条件)とエコロジカルな条件(有害な物理的破壊を起こす、エネルギー集中型の輸送形態を減らす)は、公共事業の論理で公的輸送の発展を求める。他の領域でも同様である。しかし、この観察は、現代社会で公共事業はどのように組織されるべきかについての議論を終わらせない。実際、州の独占事業は、非民主的目的をベースに、自らのポリシーを発展させようとする。(エネルギー分野では、アフリカの石油生産者と帝国主義の介入とのリンク、あるいは、民間の核使用と軍隊のそれとのリンクを挙げることができる。)彼らは、私的独占をまねた、儲かる能率的な基準を適用して、厳密に資本主義的経営方法と生産モデルを使う

 2. 汚染との闘争
 われわれは、汚染の人的コスト(健康へのダメージ、物価高など)や自然のコスト(生物多様性への攻撃)を、一層意識するようになっている。また、この問題を一層悪化させる、多くの経済的利害が演じる役割についても同様である。即ち、車の支配的な場所については、その結果起こる都市の中心部での大気汚染と増加する健康問題。アグリビジネスの力については、水システムのひどい汚染と地下水の取り返しのつかないほどの汚染。フランスやその他の国々における、核圧力団体の勢力と放射性廃棄物の非常に長期の蓄積。北では、飲み水の値段が社会的に受け入れがたいほど上昇し、南では、飲み水を得る手段が大いに不足していることに、大私的企業の利害が演じる役割。この領域のどれにおいても、エコロジカルな、社会的闘争は、支配的な経済勢力が出す論理と、オルタナティブな論理を釣り合わせることを要求する。汚染と公衆の健康問題の重大さが、公衆の自覚を増加させた。いわゆるエコロジカルな問題事項を、あまり重要でない問題、社会問題に無関係なもの、あるいはエリートの関心事、およびプチブルの贅沢として表現するのは、ますます難しくなってきた。ヨーロッパでの"狂牛"危機は、おそらく、原子力の分野でのチェルノイリと同じく、事態を完全に一変させてしまった。それは、アグリビジネス化した生産モードにより起きた深刻な脅威に光を当てた。北の諸国がこの惑星に押しつけようとしている、汚染権の市場といった人を惑わせる戦術と闘うことも必要である。汚染は、最も高く入札する者に売られるのではなく、根絶させられるべきである。

 3. 雇用を守るために
 環境保護政策は、多くの分野で新しい仕事を生み出すだろう。支配的な経済理論、つまり、自然環境をおおいに搾取する理論は、失業を引き起こすのも当たり前である。アグリビジネスが良いケースである。それは田舎を空っぽにする。即ち、自然はさまざまな景色や生物多様性を徹底的に減らされ、人間は徹底的な失職と人口流出を起こすのである。自動車産業でも、同じことがいえる。つまり、労働力を大きく減らす一方で、生産能力を増やす。その言葉は、輸送、町や地域のプランニング、都市の発達モデルの観点からの規範になってきている。オルタナティブな社会学的、経済学的理論は、自然やわれわれの生活からの略奪が少なく、その一方でもっと多くの職場を創り出すような生産手段を発展させることを可能にするだろう。

 4. 土地のための闘争
 これは、国際規模で、社会運動とエコロジー運動を近づける、最も本質的なベクトルの1つである。社会的見地から最もラディカルな農民運動は、最も進んだ環境意識をも持っていることは偶然ではない。それらは、有害なアグリビジネス(GMOや環境を汚す肥料や殺虫剤を使う)に対して立ち上がったものである。つまり、それらは、土壌や森林を破壊する資本主義農業に反対の立場をとっている。南の諸国では、この闘いは、ラディカルな土地改革のための闘い、大地主の土地所有の独占に反対する闘い、そして土地の再分配のための闘いと切り放すことはできない。しかし、オルタナティブな農業のための闘い、即ち、環境を大切にし、小農の労働、田舎のコミュニティ、あるいは土着のコミュニティに基礎を置いた闘いが、惑星レベルでの挑戦なのである。それは、第三世界と資本主義大都市の両者にとって大事である。土地のための闘争の最も重要な勢力の1つは、"Via Campesina"である。それは、農業左翼の国際的ネットワークであり、ブラジルのMST、あるいはフランスのConfederation paysanneと同じくらい重要な運動をしている。これらの社会運動は、農業生産に対する、別の見通しを促進させる。グローバルな資本主義市場のニーズよりも人々の社会的ニーズを満足させることを目的にし、人々の、自らに食べ物を与える権利を大事にする。

 5. 債務システムの除去
 "債務を通じての発展"の最初の推進力は、北の財力であった。それは、債務国の経済政策(とりわけ南の)を管理体制下に置き、IMFやWB(北も含んで)のための力を強めた。債務利子の支払い命令とWTOの超リベラルな強硬派は人類社会への恐ろしい影響(社会の安全ネットの破壊や生活のための農業の破壊)と、自然への恐ろしい影響(輸出目的のために自然資源の破壊)をもたらす。このことは、社会的、またエコロジカルな観点の両者に立って、この支配体制の根本的メカニズムと闘わねばならないことを意味する。GATTによってもたらされ、WTOにひきつがれた貿易ルールは、北の大多国籍企業の支配力を補強する。彼らの生産物に地方の市場を開放するよう強いることで、これらの制度は、依存(食料の点でさえ)を増やし、社会的平等の土台をゆるがせ、国際貿易の不合理な増加へと導く。そしてそれは、エネルギー危機とエコロジカルな危機に餌を与える行為である。

 6. 長期展望とデモクラシー
 エコロジカルな問題は、長期に渡る影響を考慮に入れるようわれわれに求める。なぜなら、自然のリズムは、市場が必要とする短い時間枠とは全く別の時間枠を持っているのだから。多くの社会的ニーズ(教育、健康など)にも、"全能な市場"が目的を達するために必要とするより、もっと長いタイムテーブルが必要である。そしてこのことが、本当の意味でこれら社会的ニーズが公共サービスであることの主な理由の一つである。環境の影響と人間のニーズは共に、われわれのオルタナティブな政策が、これらの長い、とても長い期間を時間枠とするように要求する。つまり、世代間の連帯の観点で考えるようにいっているのである。社会的ニーズを守るために、エコロジーはプランニングの概念に新しい正当性を与えてきた。そもそも長期効果を考慮しない場合、プランニングとはなんなのか?しかしエコロジーも、以前の東ブロック諸国における官僚的経験の徹底的批判の発展に一役を買った。エコロジカル・民主的・社会的な問題事項と、それぞれの勢力間の欠くことのできない合流は可能か?可能である。なぜなら、時代のエコロジカルな、社会的な危機は、ともに資本主義から発生してきたのだから。共通の原因には共通の解決策である。反資本主義は、"ネガティブな"アイデアのセットなのではない。本当にそれは、エコロジーと社会闘争の間に共通の立場を予見させる。それはまた、連帯という積極的意識で、共有するオルタナティヴ(shared alternative)を述べるのに役立つ。それは原因と解決に関してわれわれに教えてくれる。他方、もし政治的エコロジーが資本主義批判を全うすることができないなら、それは主流に順応し、ラディカルな鋭さをなくし、エリート主義者に頼り、完全に反民主主義的解決、即ち社会的に反平等主義的で、同時に無力で不公正な解決の危険を冒すであろう。このことは、真のリンクを、エコロジーとその社会的影響を、ただ同一視するのではないリンクを要求する。エコロジストの思想は実際、社会思想が発見してこな かったような人間社会と自然との関係の分析を、重要な広がりをもってもたらしてきた。これは、その独自の貢献であり、その特定の領域である。そこで、われわれは、エコロジーの問題を刈り込んで社会的な領域だけにしてもいけないし、地球的なエコロジカルな至上命令の名の下に社会的な対立(antagonisms)を無視してもいけないと考える。 (訳 水沢 一) 

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