ニューヨークほかへの自爆無差別「テロ攻撃」と

       米軍の報復戦争態勢についての声明

                                        
国際主義労働者全国協議会運営委員会

 一切のテロリズム反対!民衆の世界的連帯の未来を!
        米国の報復戦争、小泉の海外出兵「新法」を阻止しよう!  

(一)

 日本時間九月十一日深夜に発生したニューヨーク、世界貿易センタービルとペンタゴンへの自爆テロは、その手段が民間航空機のハイジャックによる突入自爆という想像を絶する方法であり、その結果が四機の民間航空機の乗客乗員全員および貿易センタービルの炎上崩壊とペンタゴンの一部崩落による総計五千名を越える犠牲者という桁外れの規模において、史上最悪のテロ事件となった。
 事件の犠牲者の国籍は八〇ヶ国以上に及ぶと報じられている。またこの中にはビルのメンテナンス、清掃などに従事していた人々、アメリカ社会の中では決して恵まれているとはいえない階層の労働者も数多く含まれている。まさに無差別に人々が殺傷された。
 しかもこのテロ事件は、その目的が明らかにされず実行声明もどこからも発信されていないという特徴を持ち、仮に政治的理由の目的であったとしても、その政治目的は全世界民衆から完全に隠匿されている。自爆犯たちを含む支援組織や支援政治組織があったとしても、彼ら以外には理由も目的もいっさい明らかではないのである。
 今回の行為を何と呼べばいいのだろうか。民衆に理由も目的も明らかにされない行為は、もはやテロリズムの一般認識の枠すら越えている。
 事件全体の示すこの行為の客観的性格は、民衆にはまったく責任をもたない、正体不明のある種の勢力による「パワーゲーム」の様相を呈している。
 われわれは今回の「テロ」攻撃は決して許されるものではないと考える。
 
(二)
 
 われわれはテロリズム行為一般が本質的に労働者階級に背を向け、マルクス主義に敵対する行為であると確信する。
 それはなによりも、労働者、民衆の自治、自律、自決を連帯の中で深め発展させようとするプロレタリア民主主義を阻害するからである。テロリズムは、既成支配システムに内在する民衆を排除した決定システムと本質において同類なのである。
 そして、ブッシュの画策が「戦争」そのものであるとき、テロリズムとの闘いを高唱する彼らも、同じ土俵の「ライバル」を攻撃しているにすぎない。ブッシュはテロへの対決に向け、アメリカに味方するか否かと全世界を恫喝した。しかしそれはアメリカによる権力政治のさらなる一つの積み上げに他ならない。民衆の公然たる殺戮を公言するブッシュの戦争は、まさに最大のテロリズムとなろう。ブッシュらは本質においてテロリズムに対立してはいない。
 テロリズム批判はブッシュ自身を含む政治支配システムの「戦争の論理」をも貫いて貫徹されなければならない。
 
  (三)

 米国政府はこのテロ行為を一方的に、いわゆる「イスラム過激派」のうちのアフガニスタンに居住するとされるオサマ・ビン・ラディン氏の責任であるとの発表を行い、その居住地域であるアフガニスタンのほとんどを実効支配においている「タリバーン」政権に、ラディン氏の逮捕と引き渡しを要求し、それが受け入れられない場合に全面的な戦争行為を発動するとの「最後通牒」を突きつけている。
 米国政府がラディン氏がテロ行為発動者であるとの根拠、証拠をつかんでいないことは明らかである。またラディン氏の組織やタリバーン政権が支配する地域においてテロ行為が準備されたという証拠もいっさい明らかにされていない。
 アフガニスタンタリバーン政権への全面的軍事攻撃は、彼らの論理においても必要な事実的根拠を欠いているのみならず、それでなくともタリバーン政権の独裁支配の下に呻吟しているアフガニスタン民衆への多大な、肉体的のみならず経済的苦痛を加えることになる。アメリカの「報復」は、抵抗の困難な者にのみ集中されるもう一つの民衆虐殺である。
 いわゆる「イスラム過激派」がいかなる組織であるのか、民衆は僅かな情報しか持ってはいない。一方的な操作された情報が連日テレビ報道からおびただしく流され、そこに作り出される心理的操作を背景にして、アフガニスタンへの軍事攻撃が国際協力によって実行される必要があるという世論誘導がまさに意図的に行われている。
 われわれはこうした米国による報復、アフガニスタンへの戦争行為に絶対的に反対する。
 
  (四)
 
 日本政府も同じである。「最大の支援」を表明し、米国の戦争準備態勢つくりに何らの疑問を挟むことなく協力態勢をとっている。
 だが「憲法の枠内で」と言明する一方で、集団自衛権の承認に踏み込むべきだという火事泥的見解が与党内で公然と主張され、他方で日米同盟の旗の下に、日本を母港とする核空母艦隊がインド洋そして中東に展開することに日本政府は何らの異議申し立てもしない。
 その上に日本政府はインド洋への「支援艦隊」派遣を検討するという。インド洋は明らかに日本「周辺」でもなければ「極東の範囲」にもない。自衛隊法の調査行動の枠組みでの行動は本来的には軍事的に無意味な行動であるが、それと「支援艦隊」を無理矢理組み合わせることによって「旗を立てる」ことを実現しようというのだ。矛盾そのものだが、小泉は明らかに倫理的整合性を無視し、「集団的自衛権」のなし崩しの実質化、「憲法制約」の一挙的突破をねらうことに主眼点をおいている。前提的基準であるはずの「憲法の枠内で」はすでに投げ捨てられている。
 ここには政治的正当性への責任意識のみならず、事態の総体的把握への努力、日本国家の長期的外交戦略、将来展望への関心のひとかけらも見あたらない。テロリズムの土壌となっている世界的諸問題への識見やアジア近隣諸国への配慮もまた完全に欠落している。
 新法は他国軍隊との共同軍事行動を認め、重火器の使用承認に踏み込み、同時に国会は事後承認ですますというとんでもない内容を盛り込んでいる。首相官邸も知らなかった自衛艦隊の米空母直接警備行動が発生する事態をみれば、この新法の危険性は巨大である。政治の無責任さは、戦前と同様の「軍の独走」を導きかねない。
 インド洋への出兵が仮に実現され、それが法的な支持を受けるのだとするならば、五〇数年を経てはじめて現実化する「海外出兵」である。しかも極度の政治的無責任さの下で。  
 小泉のブッシュへの追随、海外出兵策動を許してはならない。

  (五)
 
 その上でいわゆる「イスラム過激派」問題に触れなければならない。
 全世界の民衆はいわゆる「イスラム過激派」と称される傾向の多くがパレスチナ問題に密接な関係をもっていることを知っている。二〇世紀初頭のイギリス外交の二枚舌にはじまり、第二次大戦後のイスラエル建国がアラブ民衆を踏みにじる形でなされたことを直接の契機とするパレスチナ問題とは以下のように要約される。それまでのアラブ民衆とユダヤ民衆の共存の形がすすんでいたパレスチナの地に、シオニズムのもとにイスラエル国家が一方的に樹立されたことによって、民衆的共存は民族的敵対へと転化した。
 幾度かの戦争は両者の憎悪を拡大しただけであった。さらに東西冷戦の激化において両陣営は、パレスチナを含む中東地域全域に、軍事的ボナパルティズム政権を育成し、民主主義の解体を全般化させ、貧富の差は無限的に拡大し、絶望が無限的に拡大した。アラブ諸国におけるマルクス主義運動の後退と解体が両陣営のパワーゲームの中で全面化し、宗教以外に民衆の生活規範が存在しなくなっていった。ここにイスラム原理主義の土壌が飛躍的に拡大することになったのである。いわゆる「イスラム過激派」は現実社会の荒廃の上に成立している。
 そしてアメリカが主導し全世界に強要している「グローバライゼーション」は社会的荒廃を全世界で激化させてきた。テロリズムの土壌をアメリカを先頭とする支配層がさらに拡大してきたのである。
 新しい民衆の闘いが、こうした世界的な社会的荒廃の進行に対して作り出されている。「別の世界は可能だ」を合い言葉にしてジェノヴァでG8首脳を包囲した民衆のうねりがある。連帯と共生にもとづく、もう一つの世界をめざし、社会の荒廃を民衆の側から再生させようとする闘いが始まっている。テロリズムの土壌そのものを克服し、民主主義を発展させ、未来をつくる力はここにしかない。
 
(六)
 
 テロリズムの土壌が増殖し続けるその原因を除去するようにつとめない限り、テロリズムは除去されない。パレスチナ問題をとりあえずではあれ解決しようとするイスラエルとパレスチナ暫定政権の交渉を危機に陥れた勢力はイスラエルのシオニストであり、ブッシュ政権であった。
 国際社会はパレスチナ問題に対していかに対処しようとすべきなのか―ここがイスラム原理主義に関する限り、核心問題である。シオニズムを抑えなければ事態は一歩も進まない。そのことを忘却し、軍事攻撃にのみ訴える方式は、まさに「文明と文明の衝突」に転化し、事態の泥沼化を進めるだけである。それはすでにパレスチナ民衆のおびただしい犠牲という悲惨な現実によって充分すぎるほど示されており、さらに今、アメリカ社会ではムスリム大衆への数多くの迫害が現実化し、殺人までもが発生しているのである。
 日本政府のアメリカ追随、戦争準備への全面協力は、パレスチナ問題に極めて大きな責任を持つアメリカと全面的に協同することに他ならず、日本自らテロと戦争の無益な報復合戦に身を投ずることである。
 ブッシュ政権はアフガニスタンへの戦争準備を中止せよ。事件の全容を明らかにせよ。
 日本政府は米国政府の一方的、独断的戦争準備への協力を即座に中止せよ。
 民衆の世界的連帯の力で、米国の報復戦争、「国家テロ」を止めさせ、小泉の海外出兵「新法」を阻止しよう。 2001年10月1日
 
世界貿易センタービルほかへの自爆テロ攻撃と

米軍の報復戦争態勢について      川端康夫


 (一)

 日本時間九月十一日深夜に発生したニューヨーク、世界貿易センタービルとペンタゴンへの自爆テロは、その手段が民間航空機のハイジャックによる突入自爆という想像を絶する方法であり、その結果が四機の民間航空機の乗客乗員全員および貿易センタービルの炎上崩壊とペンタゴンの一部崩落による総計五千名を越える死者という桁外れの規模において、史上最悪のテロ事件となった。
 しかもこのテロ事件は、その目的が明らかにされず実行声明もどこからも発信されていないという特徴を持ち、仮に政治的理由の目的であったとしても、その政治目的は全世界民衆から完全に隠匿されている。自爆犯たちを含む支援組織や支援政治組織があったとしても、彼ら以外には理由も目的もいっさい明らかではないのである。
 われわれはテロリズム行為一般が本質的に階級に背を向け、マルクス主義に敵対する行為であると確信するが、理由も目的もあきらかにされないテロ行為は、そうした一般的認識の枠を越える行為であり、絶対に許されるものではない。

  (二)

 他方、米国政府はこのテロ行為を一方的に、いわゆる「イスラム過激派」のうちのアフガニスタンに居住するとされるラディン氏の責任であるとの発表を行い、その居住地域であるアフガニスタンのほとんどを実効支配においている「タリバーン」政権に、ラディン氏の逮捕と引き渡しを要求し、それが受け入れられない場合に全面的な戦争行為を発動するとの「最後通牒」を突きつけている。
 米国政府がラディン氏がテロ行為発動者であるとの根拠、証拠をつかんでいないことは明らかである。またラディン氏の組織やタリバーン政権が支配する地域においてテロ行為が準備されたという証拠もいっさい明らかにされていない。
 我々はここで強調しておかなければならないが、十一日のテロ行為の目的も理由も、その背後にあるという組織もいっさい不明なのである。
 アフガニスタンタリバーン政権への全面的軍事攻撃は、必要な事実的根拠を欠いているのみならず、それでなくともタリバーン政権の独裁支配の下に呻吟しているアフガニスタン民衆への多大な、肉体的のみならず経済的苦痛を加えることになる。
 われわれはこうした米国によるアフガニスタンへの戦争行為に絶対的に反対する。
 
  (三)
 
 いわゆる「イスラム過激派」がいかなる組織であるのか、民衆は僅かな情報しか持ってはいない。またいわゆる「テロ支援国家」として米国が認定する諸国の実情においても情報量は極度に少ないか、歪曲されている。この分野における情報はとりわけて操作されていると理解すべきである。
 そうした一方的な操作された情報が連日テレビ報道からおびただしく流され、そこに作り出される心理的操作を背景にして、アフガニスタンへの軍事攻撃が国際協力によって実行される必要があるという世論誘導が行われている。もはやアフガニスタンへの戦争行為は既定の事実であり、ただそれは国際的認知と協力態勢の築くための一定の準備期間を必要としているということとされている。
 しかし繰り返すが、アメリカにしても他の「同盟」諸国にしても、アフガニスタンへの戦争を正当化する理由を一つも明らかには示していないのである。
 
  (四)
 
 日本政府も同じである。「憲法の枠内」での「最大の支援」を表明し、米国の一方的戦争準備態勢つくりに何らの疑問を挟むことなく協力態勢をとっている。それどころか、「憲法の枠内」の解釈を改め、集団自衛権の承認に踏み込むべきだという火事泥的見解もささやかれ始めている。インド洋から中東に展開するアメリカ第七艦隊の母港が日本にあり、そこから米軍は一方的戦争へと出撃する。日本政府は実質的にアフガニスタンへの戦争に荷担している。その上に日本政府はインド洋への(直接戦闘行為には加わらないが)「支援艦隊」派遣を検討するというのである。
 インド洋は明らかに日本「周辺」でもなければ「極東の範囲」にもない。こうした動きは実質的な「集団的自衛権」への動きにほかならない。
 
  (五)
 
 その上で「イスラム過激派」問題に触れなければならない。
 全世界の民衆はいわゆる「イスラム過激」派がパレスチナ問題から生じていることを知っている。今世紀初頭のイギリス外交の二枚舌にはじまり、第二次大戦後のイスラエル建国がアラブ民衆を踏みにじる形でなされたことを直接の契機とするパレスチナ問題とは以下のように要約される。それまでのアラブ民衆とユダヤ民衆の共存の形がすすんでいたパレスチナの地に、シオニズムのもとにイスラエル国家が一方的に樹立されたことによって、民衆的共存は民族的敵対へと転化した。
 幾度かの戦争は両者の憎悪を拡大しただけであった。さらに東西冷戦の激化において両陣営は、パレスチナを含む中東地域全域に、軍事的ボナパルティズム政権を育成し、民主主義の解体を全般化させ、貧富の差は無限的に拡大した。ここにイスラム原理主義の土壌が拡大することになったのである。イスラム原理主義は現実社会の荒廃の上に成立している。そしてアメリカが主導し全世界に強要している「グローバライゼーション」は社会的荒廃を激化させてきた。
 
  (六)
 
 テロリズムの土壌が増殖し続けるその原因を除去するようにつとめない限り、テロリズムは除去されない。パレスチナ問題をとりあえずではあれ解決しようとするイスラエルとパレスチナ暫定政権の交渉を危機に陥れた勢力はイスラエルのシオニストであり、ブッシュ政権であった。
 国際社会はパレスチナ問題に対していかに対処しようとすべきなのか―ここが核心問題であることを忘れてはならない。シオニズムを抑えなければ事態は一歩も進まないのだ。そのことを忘却し、軍事攻撃にのみ訴える方式は、まさに「文明と文明の衝突」に転化し、事態の泥沼化を進めるだけである。ここでテロがおさまることはありえない。拡大するだけである。
 ブッシュ政権はアフガニスタンへの戦争を中止せよ。そこからテロリズムへの真の対応策が生まれてくるのである。日本政府は米国政府の一方的、独断的戦争準備への協力を即座に中止せよ。
                             2001年9月17日
 

 政治情勢と課題

 以下の論文は国際主義労働者全国協議会の第13回総会において、川端によって報告されたもののほぼ全文である。各所に、討論によって補強され、訂正、修正された部分や最低限の組織的必要から省かれた箇所がある。第13回総会はこの報告を、論旨を整理・簡明化して『労働者の力』に掲載することを確認した。
    

1、政局―参院選挙での小泉内閣の勝利とその性格

 7月29日に行われた参院選挙は小泉と自民党の勝利に終わった。小泉人気に後押しされた自民党は都市部の衰退傾向を一挙に克服し、農村部でも力を発揮し、一人区のほとんどを独占した。自公保連立三党は安定過半数を確保し、小泉はその改革へのステップを確保することになった。しかし、株価の失速傾向、デフレスパイラルの恐れに表現される「聖域なき構造改革」への警戒心の高まりが小泉ブームの底流に流れたことも否定できない事実でもあった。投票率の意外な低さに小泉ブームに心底からは乗り切れない有権者意識を見て取ることは誤りではない。
 弱者切捨てすなわち社会福祉の切り下げ、「不良」債権切捨てによる地方銀行や中小企業の経営不安、高失業率の高位安定に加えるさらなる失業とリストラ促進。「犠牲負担」の呼びかけへの懸念に加えるに外交問題の一連のごたごたや靖国問題や外国籍の地方参政権問題への消極姿勢、教科書問題への無対応がしめす外交路線の空虚さ。これらはポピュリズム政治の目玉が早くも底をつき始めつつあることを意味している。
 特殊法人改革などの一連の政策打ち出しは確かに「改革派」としての目玉商品である。これら特殊法人は、中曽根改革の詐欺的行為として温存されてきたものだが、その事実を熟知している小泉が政権の目玉にしようとしたことは、石原が外形標準課税や排ガス規制を目玉にしようとしたことと本質においてはかわらない。
 石原が自民党=国との闘いを標榜したように小泉は橋本派=守旧派の図式を作り上げることによって自民党離れする有権者の意識をひきつけようとした。だが石原と小泉との間の客観的な位置の差は大きい。つまり石原はその登場時のパフォーマンス以外には誰も石原のやっていることを知らない。だが小泉は茶の間のスターであり、国政は都政とは違ったレベルで報道される。目玉商品は小泉は常に準備しなければならないが、石原は時々でいい。
 郵政民営化やNTT大合理化が全国民的な目玉商品になるとはいえない。日経連の奥田は公的機関で100万人の雇用創出を求める声明を行った。これは小泉的「新自由主義」路線への批判を内包するものともいえなくはない。日本の産業資本はその技術力の少なくない部分を中小企業に負っている。それら総体をいかに生き延びさせていくかのビジョンを欠いた、いわば大銀行救済策に切り縮められる不良債権の強行的解消論が、産業構造に与える巨大な影響を産業界は本来は検討しなければならないはずである。だが経団連は座して動かない。労組対策部のはずの日経連が口を出しているのだが、消費低迷にあえぐ国民経済にとっての大打撃に転化していくことは日経連ならずとも火を見るより明らかなことである。
 要するに、現段階の日本経済の直面している「構造的諸問題」に対処するには「新自由主義」の猿真似ではどうにもならないのだが、小泉が用意しているのはその猿真似だけである。

2、野党―選択肢なき政治迷路

 小泉ブームに押され、野党は苦戦を余儀なくされた。これはわかっていたことではあれ、共産党や社民党に与えた打撃は大きい。また民主党も無党派層が離れた影響は深刻である。共産党は一時期の「ブーム」が過ぎ去ったことを認めなければならなかったし、社民党は組織的な存続が危ぶまれる事態に至っている。民主党は野党第一党の位置は確立したかのように見えるが、その内実は単一政党の体をなしていない事実が選挙戦を通じてさらに明らかになった。
 共産党、社民党が憲法を取り上げ、平和を主張する論点は、小泉改革ブームの底流を流れた警戒心を投票所へと引き出すまでにはいたらなかった。共産党の「福祉充実による経済回復」も争点にはならなかった。ほとんど理解されなかったに違いない。経済政策については深い政策的限界に直面したと評価せざるを得ないのである。
 自由党は意外な健闘となった。この党はただ国家主義的小沢節を語ったに過ぎなかったが、語り方、選挙戦のやり方に社民党以上の迫力があったことは事実である。都市部にそれなりの支持層もあるが、石原的なものとの違いがはっきりあるわけではない。小沢も改革の中身を語らずに選挙戦を切り抜けた。
 要約すれば、野党サイドは「小泉改革」に対抗するビジョンに不足があった。それについては別項で触れなければならない。
 民主党は「新自由主義」路線として小泉の立場と基盤を同じくしていた。共同の改革派という「幻想」あるいは期待があったことは事実であり、また外交路線でも違いは旧自民党系列や旧民社党、松下政経塾の部分にとっては本質においてあるわけではなかった。この党の内的矛盾は今後さらに拡大深化していくことは違いないが、しかし社民党の経済政策の行き詰まりや共産党のそれの分かりにくさと同じく、民主党内部の批判派も政策的展望はない。連合主力が新自由主義を容認していることもまた民主党の得体の知れなさに基盤を与えている。
 こうして今回の参議院選は、小泉ブームにもかかわらず日本政治の浮流状況と政治経済的「空白」の持続を刻印したのである。

3、政治―小泉と「守旧」派の構図

 小泉をめぐる政界暗闘は靖国問題に始まった。小泉は8月15日の参拝をとりやめ、13日参拝という妥協を余儀なくされた。自公保三党幹事長はアメリカに続いて中国外交も引き受け、中国外務当局との折衝を行い、中国の出方をうかがったが中国の態度は硬かった。同時に、都議選直後からの野中の動きも活発になった。最初に「ねぎ、しいたけ」問題を取り上げ、あわせて郵政民営化反対を公然と表明し、ついで靖国問題での中国への公明党、保守党国会対策委員長をひきつれて訪問し、小泉への牽制球を投げた。公明党が靖国への強硬姿勢をとり始めるのは参院選直後からであるが、その理由はどうあれ野中との連携を疑うことはできない。
 外務大臣である田中は、事実上外交の主軸をはずされているが、その最大問題は対中、対米問題にあることは明らかである。外務当局が日米同盟路線堅持であるが、外交の主導権=独裁を狙った田中との軋轢は、親中路線的に発言し行動した田中発言を外部に大々的にリークする過程でのっぴきならないものとなった。右翼マスコミは公然と田中罷免を求める動きに等しい行動に出たし、官邸は人事をめぐる主導権確保に動き、最悪では罷免を検討するにいたった。田中の腰折れで問題はいったんは収まっているが、靖国問題の一連を見ても田中の積極的役割はもはやない。
 内閣の目玉であった田中の失墜は、本人自らが招いた要素も大きいが、日本外交が日米同盟路線の枠組みにとどまり続けるのか否か、すなわち21世紀の日本の位置づけをどのようにしていくのかが問われる根本問題を反映したきわめてホットな論点に結びついている。
 小泉の13日参拝は自民党内部での妥協派の立場であるが、しかし中国や韓国が矛を収めることは基本的にはありえない。教科書問題をめぐる石原の動きをふくめて小泉内閣の外交姿勢は、まず内部分裂し、ついでそのまったくの無能力さを明らかにした。中国訪問は当面は無理な話ということになる。「靖国」そのものが問題の焦点だからである。いつ参拝するかは問題ではない。
 「守旧派」の反攻が先制攻勢となり、小泉が妥協を強いられた結果、セーフガード問題などが問題となり、野中のハト派姿勢が強調され、経済産業省の平沼らの高姿勢への牽制も強まることになる。その行く末は予断を許さないものだが、少なくとも小泉主導の本格的確立には不可欠である衆院解散、総選挙への主導権に蔭りが出たことは間違いない。
 年内解散の筋書きは消えたと断言できる。党内がまとまらず、公明が抵抗し、野党も解散反対を貫くであろう。民主党は都議選、衆議院選の苦い教訓を受け、もはや小泉応援団に立つことはありえない。中曽根や石原、さらには右翼マスコミの短期強行突破路線は不可能となった。

4、外交―ブッシュ政権の孤立主義政策と国際情勢の変化

 成立当初からブッシュ政権はクリントン時代を消し去るかのごとく、ミサイル防衛構想、京都議定書拒否、朝鮮半島問題、パレスチナ問題への対応を切り替え、イラクに電撃的攻撃を加えた。ミサイル問題が象徴するものは「孤立主義」の傾向である。広大な国土を抱えるアメリカはエネルギー自給策のために原発復活やアラスカ原油開発計画を発表した。ミサイル問題ではロシアとのAMD禁止条約からの一方的脱退は避けられないとの見解を表明した。
 こうしたブッシュ政権の対応は、クリントン時代の諸政策の行き詰まりの上に出てきたもので、基本的にはグローバリゼーション、ニューエコノミー、新自由主義路線の破壊的影響が世界的に容易ならざる反撃を受け始めたことの影響でもある。新世界秩序なる用語はブッシュ政権からはもはや聞かれない。WTOなどへの消極姿勢も際立っている。ジェノヴァ・サミットはなんらの積極的合意もなかった。
 明らかに前世紀の最後の10年とは国際的関係は大きな変化を示し始めている。アメリカが主導する「新世界秩序」の展望は、経済的には第一にグローバリゼーションの破局的影響(恒常的な世界的金融危機の可能性)、第二にニューエコノミー神話の揺らぎによって基盤を崩された。世界的に復活している労働運動の反撃の高まりも新たな時期の情勢を性格づけている。
 シアトルWTOが何ごとも決めることができなかったこと、パレスチナ和平にかけたクリントンの努力が決定的な成果を見なかったこと、これらが朝鮮半島の和平を含むクリントン流の「新世界秩序」に対抗する共和党の力の政策による世界秩序論を押し上げ、その裏側の孤立主義を表舞台に引き上げたのである。
 だが、こうした露骨な姿勢は内外からの反撃を導いた。共和党からの脱退者が上院の力関係を変え、EUのアジアへの積極対応が始まり、ロシアの積極姿勢も全面化した。金正日の訪ロはブッシュ政権への牽制である。
 内外状況を反映してか、パウエルの国務省は幾分か柔軟姿勢に転じたかのように見えるが、政権全体のタカ派的、孤立主義姿勢には基本的変化は見られず、ブッシュ政権からの世界に向けたメッセージは今もない。
 今年に入って明確化しはじめたEUとロシアのアジアへの「復帰」は、太平洋の両岸の相互関係の今後にとって、小さくはない問題である。なによりもユーラシア大陸における東西対立の最後である南北朝鮮問題がアメリカと日本とに委ねられてきた時期の終わりを記すことになっている。南北問題をアメリカの軍事的支配の材料にしたいアメリカだが、南北朝鮮問題がユーラシア大陸サイド(EU、ロシア、中国)の主体的努力で解決されるとしたら、海洋サイド(アメリカ、日本)がこうむる外交的打撃は計り知れない。ブッシュや小泉的動きが続くとすれば、こうしたありそうもない仮定が急速に現実化しないとは誰も断言できはしない。
 日本外交に軸心がないのはまさに時代の反映である。

5、経済―新自由主義とデフレスパイラル、調整インフレ

 日米同盟関係が転機にさしかかっている。最大の要因は日本経済の将来展望が開けないところにある。戦後の日本経済の成長はアジアからの資源供給と製品のアメリカへの輸出によって成り立ってきた。もちろんそこには二つの戦争があった。そうした関係がいまはない。
 日本はアメリカ経済から競争相手とされ、国内市場をアメリカに開放することを求められた。NIESの工業的離陸、日本国内の市場開放は、アジアからの低廉な工業製品や食料輸入に道を開いた。日本は東西対立の政治的、軍事的緊張関係からの受益者である時代が終わり、いわば第二のアメリカつまり、市場をアメリカにもアジアにも開放し、それらの製品を受け入れることによって国際経済を維持するという役割へと転換を迫られた。そこに出てきたのが「新自由主義」経済理論の導入である。これは国内の社会関係(雇用関係や福祉政策を含んだ)をアメリカ的に改変するという展望の下に、求められている新たな経済関係に対応しようとするものである。
 「自助」の思想とは社会関係改変を貫く基本概念である。社会的相互扶助政策の放棄は、もちろん市場価格の安定的維持や雇用関係の安定が放棄されていくときに必要ないわゆる「セーフティネット」を用意しないことに等しい。
 政府はバブル崩壊後のゼネコン救済、大銀行救済に膨大な資金をつぎ込み、財政余力を失った。セーフティネット確立どころか、反対に社会保障費用の切り下げや消費税引き上げを必要としている。
 こうして、日本経済は「新自由主義」理論の下に、アメリカによって迫られた市場価格維持の放棄、雇用維持の放棄を貫徹しようとすることによって消費性向の下落と低価格競争化に追い込まれた。消費財の低価格化は市場の対外開放がもたらすものであり、アメリカをみるまでもなく低コスト構造にとって不可欠である。低価格製品の安定供給がなければ低廉な労働市場も成立しない。
 アメリカでは、大規模の製品輸入による膨大な貿易収支の赤字を、基軸通貨ドルの発行でカバーしつつ、全世界からの資金調達政策でカバーする。
 一見して明らかだが、日本経済にとってのアメリカとの最大の違いは、基軸通貨を持たないところにある。貿易収支の構造的赤字化に日本経済は耐えることができない。さらに全世界的な資本主義的競争に耐える商品的農業生産も持っていない。農業総体の維持は困難である。
 重厚長大産業の衰退は避けられないことはアメリカを後追いすることだが、電気製品もアジアNIESに追い上げられる。そこでアメリカが築いてきたIT産業における優位に国際的競争を挑まなければならない。
 デフレスパイラルの傾向は、まさに日本社会における産業的、商業的、そして社会保障と雇用の構造的変動を象徴しているのである。
 日本社会はこうした変動に耐ええるのか? おそらく激しい社会的緊張を覚悟しなければならないであろう。
 そこで性格の違った対応策も自民党筋は、「めくらまし」の意味も含めて、検討し、採用しようとしている。
 小泉であろうが他の内閣であろうが、政治の今の枠組みの延長にあるものは、日本経済の行き詰まりと財政事情の悪化を社会福祉切り下げ、消費税大幅アップという方向で切り抜けようとすることにはかわりがない。民主党の政策体系がそのようなものである。
 が、その行きつく先はあまりのも明瞭であるが故に、他の選択肢も同時的に実施の方向にある。景気対策と欺瞞的に称する「調整インフレ」である。
 小泉の「改革デフレ」に対する「対案」が調整インフレ政策を意味する形で提示されている。それはもちろん補完策でもある。財政出動の限度が言われているなかで、金融の役割を以上に強調する雰囲気が政府関係筋に出ている。日銀の認識の甘さを攻撃し、より以上の金融緩和を求めるのだが、実質ゼロ金利、あるいはゼロ金利の下での金融緩和とは、いわゆる「買オペ」に事実上等しい、金融機関からその手持ち国債を買い取り、資金を供給する方式の積極化を意味している。
 インフレもデフレも民衆の生活状態を直撃することには変わりがないが、デフレによる資産価値の下落が「不良債権」の悪無限的増大につながるのであるから、そこでその「緩和」のためにインフレーションを人為的に引き起こしつつ、ゼネコンなどの債務の実質的減価を計ろうとする。リストラとデフレの組み合わせ、あるいはリストラとインフレの組み合わせ―いずれにせよ、論理整合的には行くわけがない。実質購買力は限りなく切り下がっていくことはおなじである。金融的不安定はさらに加速される。

7、政策―小泉内閣と銀行、郵政民営化

 要約すれば、小泉の下に、大銀行を防衛することに絞り込まれた政治が展開されている。不良債権の一挙的解消も、公的資金の投入論も根は同じである。郵政民営化論はすなわち、貯金・簡保資金の民間金融機関への移行をねらいとするものにほかならない。
 ではここで問わねばならない。大銀行は「国民=国家」の総力をあげても「守らなければならないものなのか」と。
 大銀行とは、三菱であり、三井であり、住友、安田(=富士)などの旧財閥銀行である。あるいはそこに絞り込まれていっている。
 こうした財閥銀行を、民衆から資金を搾り取って救わなければならない理由はどこにあるのか。どこにもない。二つの大きな政府系金融機関はすでに民間資本に信じられないほどの低価格で売却された。そしてその上に民間資本である大銀行を救済するわけである。
 大銀行を支え、それを通じて国家資金を投入する必要がなければ、公的資金は直接にそれを必要とする産業的、商業的部門に低廉な金利(今は実質ゼロ金利である)で供給できる。
 公的金融機関を大幅に充実させ、大銀行救済に代替させる。民間大銀行は自力で事態を切り抜けなければならない。結果として破綻する大銀行が出てくる場合は当然、これまでのように国家の管理下に置かれる。ただしそれは安く民間資本に払い下げるためのものであってはならない。公的信用供給を充実させる用途に向けられなければならないのである。
 繰り返すが、銀行救済が問題の要ではない。「金融システムの安定」が宮沢財政の柱であったが、それを事実と認めるにしても、銀行を救済し、それを通じて産業的、商業的活動を支え、回復させる必要性はない。国家が直接に金融システムを保障すべきなのである。
 小泉の「民間にできるものは民間に」とは、80年代以降経済界において言を大にして語られた言い方である。しかし、バブル崩壊以降の現実は「民間ではできない」ことを示している。ゼネコンも大銀行も「民間ではできない」ことの証明なのだ。もはや「民間」は自力では信用維持も金融システムの維持もできない。ここに公的資金をさらに投入してもこの10年が空白の10年であったように、泥沼化するだけである。いまや信用の維持は公的機関がなさなければならない。
 民間大銀行はそうではないと主張するのであれば、その「能力を示す」ためにも、「市場において公的機関と競わなければならない」のである。
 もちろん、公的機関を通じた「信用の供給」においては、民衆による民主的な監査および管理が求められる。公的機関が不断に倫理的堕落を示すのは世の東西を問わず真理である。これを防ぐためにこそ民主的監査と管理が求められてくる。公的機関も当然、市場において大銀行と競わなければならないからだ。現状の公的機関の「殿様商売」「悪代官的あり方」の現状は、そうした役割に耐えられる水準にはないからこそ、労働者や市民の監視、監査、管理が闘いとられるべきである。
 以上の観点は、小泉が目玉にしようとしている「郵政事業の民営化」とは真っ向から衝突する。われわれは「郵政事業の民主化」を求めるのだ。そして、こうした闘いを通じてわれわれは、過渡的綱領が求めている銀行の国有化と労働者管理の視点を復活させ、労働者の共通の認識にしていかなければならない。
 
8、展望―アジアと日本

 日本社会、日本経済はグローバリゼーションの荒波に大きく揺さぶられつつ、みずからもアジア太平洋地域におけるグローバリゼーション化を進めている。渡り鳥企業は以前から存在していたが、消費財や水産、農業生産物などの組織生産が輸出され、その本国還流が拡大した。アジア諸国との生産財、消費財の貿易関係は半端なものではない。アジアと日本の経済構造として有機的結びつきは拡大しており、逆行は不可能である。
 他方、日本資本は多国籍化を深めつつ、前述したように、とりわけ自動車部門やIT部門において世界的競争戦に直面している。グローバリゼーションは資本の加速度的な集中を伴っている。巨大多国籍資本間の競争は同時に言語矛盾ではあるが、ナショナルな利害の衝突とも重なっている。産業社会の将来を制するというべきIT部門の掌握はすなわち情報操作権の掌握と関係する。ゆえにこの分野の多国籍資本による集中化がナショナル政府とのあつれきを招くのである。EU各国政府が通信部門会社の国家的掌握力をめぐって公然と表面に出ているのは周知の事実である。
 多国籍資本相互の競争は、世界的なリージョン(地域)間の競争をも生み出している。巨大なアメリカが南北アメリカを自由貿易圏として傘下に収めつつあり、太平洋地域も自己の勢力圏に押さえこもうとしつづけている。EUは地域の東方への拡大を進め、ロシアと中国はアジア大陸に協力圏を作ろうとしている。
 旧海洋帝国のイギリスは、大西洋(英米同盟)と大陸の間を揺れ動き、日本はアメリカとアジアの間の揺らぎに直面しているのである。アメリカには日米同盟を英米同盟レベルに引き上げ、そこで日本の軍事的役割を引き上げつつ、日本をつなぎ止めようとする見解もある。これがおそらくは小沢の「普通の国家論」とつながるのかもしれないが、それは未だ鮮明にはなっていない。
 東アジアとの関係において、日本はもちろんナイーブにならざるを得ない。戦前帝国主義の下に、韓国を併合し、中国大陸を侵略し、それをアジア地域全体へと拡大した近代日本の歴史において、一方に開き直る傾向があり、他方にいまさら協力は言い出せないとする心理もある。
 しかしアジア民衆に謝罪し、アジアの将来展望の枠組みに日本の位置をも考慮するように求めること必要である。そしてその具体化は、日本近代史上の大転換を意味する。
 この容易ならざる課題は、明治国家以来の思考方法からの最終的転換を求める。歴史的には明治国家の象徴である靖国は解体される運命にある。その圧力への抵抗の最後的あがきが小泉や石原に表現されている。
 しかしそれは経済的、政治的大転換であるからこそ、すぐには東アジア経済協力機構(というものが考えられるとして)の考え方がでてはこない。東アジアの関係は軍事的にのみ考えられるのではなく、本来的には経済的関係として考えられなければならないのであるが、戦後経済関係からの発想法からの転換は極度に難しい。
 しかし、孤立国家主義の発想は、東アジアにおける日本経済の位置を弱める。熾烈な国際的競争戦をアメリカと闘わなければならない日本資本にとっては、東アジア市場との協力関係を持たなければ、その展望は見えてこない。歴史趨勢は日本経済の東アジア経済への融合に動かざるを得ないが、現時点では抽象的にとどまるのはそれなりの根拠がある。そのことが左派サイドの政治的弱さの根拠でもある。
 もちろんそれは野党だけの問題ではない。国民性というべき一国主義がある。少なくとも、現時点での日本政府の対応には内的分裂あるいは矛盾が含まれている。大陸との切断的思考で動いてきた政治と、大陸との結合を深める経済的方向性は整合性をもっていない。少なくとも政府部内や経済界には日本経済の将来像をアメリカとの結合ではなく、アジアの中に見出そうとする人は今は皆無に等しい。
 そこに日本資本の一国主義的発想の下で、単独での国際競争戦に打って出ようとする発想法も生まれてくる。例としてNTTが典型である。「新しい歴史教科書」運動にNTTは賛同している。アジアの視野がここには全くない。このこと自体が労働者によって弾劾されなければならないことなのだ。
 巨大国家アメリカの戦略を背景とする競合資本との延々と続く競争戦に勝ち抜くことは難しい。不可能とはいわないが、あるとしても部分的である。自動車産業と同じく、世界市場において「負けない」こと、あるいは地域的に並存することをねらう必要が出てくるであろう。その地域とはNTTにとってはアジアとなる。
 逆もまた真である。アメリカの巨大独占体が全世界を制圧することは、他のナショナリティと衝突することである。アジアにおけるリージョン(地域)的レベルでの結合関係が成立するのであれば、その地域性がアメリカ資本の独占に抵抗する。
 とはいっても、そういうことが仮に現実化してくるときに、NTTという個別資本がリージョンにおいて優位性を発揮することに自動的になるわけではない。ちょうど、アジアの経済共同体が現実化するとした場合に、「円」が自動的に基軸通貨になるわけではないように、将来は自動的には保障されない。
 しかし、にもかかわらず、ここでも問題はアジア地域での連携ということにもどってくるのである。
 
8、課題―グローバリゼーションと抵抗

 国際的で巨大な資本の集中は、まさに独禁法の趣旨に反するが、新自由主義のグローバリゼーションによって奨励されている。こうした資本の極度の集積と独占の拡大は容認されるものではない。民衆のはるかに手の届かないところでの独占事業の発展は、どこからも規制されない金融取引とおなじく、民主主義的社会の発展にとって有害である。
 グローバリゼーションは巨大独占資本の行動への規制力を考慮していない。あるいは規制力を持つべきではないとされている。その典型を、エイズ薬品が独占価格できわめて高額で販売され、災厄に直面している人々に届かない現実の中に見る。
 われわれは巨大資本の集中に反対するが、同時にその国際的規制も必要と考える。国際金融取引は無税である。一国経済を左右する規模の金融取引が課税対象にならないことは実に理不尽である。世界的に民衆の抵抗が高まっている。最貧国への国際的債務取り消しの運動があり(ジュビリー2000)、金融運動がある(トビン税構想)。ATTACの組織化は国際的に進んでいる。ジェノバサミットへの抗議行動は、警察による死亡者を生んだが、ごく一部の指導者が世界の運命を決めていくという方式への疑念を世界的に高めた。
 グローバリゼーション化への規制要求は民主主義のための要求であり、民衆による管理の要求である。現在、確かに民衆側に決め手となる手段が見つかっていないが、多国籍資本の行動に対する民衆運動の国際化が形成し始めたのである。これは歴史的運動の波の始まりを刻印するかもしれない始まりである。
 多国籍大企業の発展は、そこに働く労働者の組織化、運動にも大きな変化を導いている。不断の労働コスト切り下げが多国籍化のねらいであるわけだから、いってみれば世界規模での巨大な渡り鳥企業である。NAFTAにたいしてアメリカ労働組合は、当然にも国境を越える組織活動を余儀なくされた。そしてその活動も十分なものとはいえないだろう。巨大資本の国際性に比べれば労働組合の力量ははるかに及ばない。
 だが、それでも巨大独占体を国際的に規制しようとするのでなければ、多国籍企業における労働組合の位置はゼロに等しくなる。あるいは企業活動を補完する企業連組合に転落してしまう。
 NTTが大リストラを貫徹しつつ、世界市場において多国籍化し、企業間競争に勝つ抜こうとすることは、一方では資本の論理の貫徹であるが、他方では労働コストの世界的切り下げ競争に拍車をかけることになる。大多国籍資本の競争が労働力の価格の際限なき切り下げ、雇用の切りつめという結果となり、社会の荒廃を導く。どこかで食い止めなければならない。その役割がリストラと闘う労働者の任務である。
 NTT労組は企業を支えるものへとその役割を変えているが、そのことは企業活動を国際的にも国内的にもチェックし、規制しようとする労働組合活動の基盤が形成されてくることを同時に意味する。企業連組合に抗する新たな独立組合形成は時代も求めるところである。労組の規制力回復を全労働者に呼びかけ、グローバリゼーション化の積極導入がもたらしているリストラ政治、リストラ経営、その結果としての社会的荒廃の進行を打破することを訴えつつ、その先頭に立つことを表明しなければならない。
 国際連帯、国際的労組の組織化がはじめて本格的に求められる時代の始まりである。
 と同時に、たとえばNTT労働者は企業活動がアジア地域民衆と政治的に衝突しないこと、経済的な渡り鳥的企業活動をおこなわないことなどを大きな枠組みで企業に求めなければならない。
 渡り鳥的とは、労働コストを不断に切り下げる企業活動の象徴的表現だが、それを避けるとすれば労働は国際的に組織されなければならないのである。
 
9、闘い―政治混迷をうち破る労働者のエネルギー

 参議院選挙が示した特徴は、政治的混迷と流動が既成政党総体を覆っており、それがポピュリズムとしての小泉や石原を生み出しているという事実である。
 「小泉構造改革」は同時に政治的強権化の傾向を不可避的に内包する。石原が自らの政治を強行しようとするとき、彼は官僚機構のトップダウン政治を強調し、また実現しようとしてきた。教科書問題をめぐる教育委員会の絶対的権限の確立、土地収用法の手続き簡素化、すなわち官による一方的な土地取り上げの推進などである。石原は民衆を信頼できないのだから、官による強権を求める。彼にとって、民主主義は邪魔ものに他ならない。小泉も「諸勢力の抵抗」を排除するために「独裁力」を必要としているが、それは高い支持率と同時に司法や行政における民主主義的要素を極力排除していくことと決して矛盾していない。労働者保護の法的、行政的枠組みを切り捨てることは前の森内閣とまったく同じである。
 さて、本論で筆者が主張した論点は、第一に、世界的にアメリカによる「新秩序形成」が見えず、EUやロシア、あるいは中国が世界的諸問題への発言力を強めはじめたこと、第二に、戦後の日本経済を支えてきた諸関係が変化し、日本は日米同盟を続けていくのか、あるいはアジア諸国との関係強化、すなわちアジアにおける経済(政治)共同体の方向へと歴史的舵を切るのかが問われていることである。そして第三に結論として、アジアとの協調という必然的な歴史的変化に対応した政治的、経済的枠組みをもつ政治勢力が登場しなければならず、それがポピュリズム的混迷を突破するポイントであると主張する。
 すでに述べてきたように、経済的将来像を描くにおいては日本の論者はほとんど一国主義である。左派サイドの論客として売り出している金子勝氏はセーフティネット論者であるが、国際的視野はない。他もほぼ同じといっていい。循環型、反成長主義などの諸論には傾聴すべき点が少なくはないけれども、いづれも戦後型経済構造がアメリカとアジアとの相互関係で成立してきたこと、今はその条件が失われたことを重点に置いて検討してはいない。森嶋通夫氏が唯一であろう。
 銀行の国家管理とか、公的金融の強化、あるいは失業救済事業への踏みだしなどに言及する人がいないのは、ソ連邦崩壊という時勢を思えばいくらかは理解できるが、しかしそれも程度の問題である。
 政府が進めている雇用対策はヘルパー労働の実態が示しているように、ほとんどは最低賃金に毛が生えた程度の給与水準である。その上に日経連は最低賃金制度の廃止を求めているのである。
 マクドナルド労働化を国家的に進めているわけだが、消費性向が高まるわけはない。福祉強化による景気回復という共産党の視点は、この分野での給与水準の大幅な上昇を主張することになるのだが、運動的ダイナミズムに必要な全体的転換という視点に欠ける。セーフティネット論への安易な寄りかかりがここにはある。
 セーフティネットを実現する気もなく、その力も持たないブルジョア政府と対決する政治的・社会的運動と結合した政策的課題の提唱が出てこないところに左派陣営の行き詰まりがある。
 政治的・社会的運動のダイナミズムは、マクドナルド労働化の全社会的拡大に直撃されつつある労働者層の参加なしには不可能である。労働運動の活性化を最大の闘いの目標として闘わなければならない。それが小泉・石原に対抗しようとし、政治的動力をつくり出そうとする諸方面の懸命の努力を結実させていく決め手ともなるのである。
 (8月17日) 
  ホームへ戻る トピックスへ戻る