フランス
フランス左翼内で何が進んでいるのか
      
フランソワ・デュバル

―大統領選に向かう途上でフランスの左翼に起きた政治的分裂は、国際的に多くの論争を巻き起こした。LCR全国指導部のフランソワ・デュバルは最近、「ヨーロッパ反資本主義左翼(EACL)」に向けた報告の中で、LCRの立場を述べている―

 ヨーロッパ(そして他の地域)における反資本主義左翼の多くの友人達は今、フランスで今起きつつあることについて心配し、LCRの振るまいと政治的進路に質問を浴びせている(注1)。以下の文書の目的は、「非フランス人読者」に向けフランス情勢を理解するための一定の情報と、LCRがそれに対処するために試みてきたやり方に関する説明を提供することだ。
 以下のことには全く疑いがない。即ち、次期大統領選挙(2007年4月末)に対して、社会民主主義の左から4人の候補者―少なくとも―が立候補することは、起こり得ることの中で最良のことではない、ということだ。それ故不可避的に、それはいくつもの疑問につながる。
 例えば、「レスペクト」を得たイングランドやウェールズ、あるいは「労働者のための代案(WASG)」/左翼党を得たドイツのような様々なヨーロッパ諸国で、左翼再編や統一連合が可能となったのに、フランスでは何故そうならないのか、というような疑問だ。
 そしてそれはLCRの責任なのか、とか、フランス左翼再編に向けた大きな好機をLCRは浪費してしまったのか、とか疑問が続く。しかしおそらくあなた方が推測しているように、我々は「無罪」と自身を弁護する。

フランスには劇的情勢があるのだろうか。確かに、がしかし…

 何よりも先ず、フランス情勢の長期に続く幾つかの傾向に対しては、より全体的かつより均衡の取れた見方を提供することが必要だ。1995年以来フランスには豊かで強力な社会運動があり、左翼にとっては政治的成功すらもある、一般的に人はこのように見ている。そして人は容易に以下のように列挙できるだろう。
 1995年大統領選挙でアルレット・ラギュエが得た成果(注2)。
 6ヶ月後に起きた、政府と対決したストライキとデモ。
 1999年、EU議会に対する5人の革命派議員選出(注3)。
 2002年大統領選挙における革命派諸候補の合算結果、つまり10%の得票。それは、共産党候補の票も加えれば13%に達する。
 2003年3、4月の、巨大な、殆どゼネストと言えるいくつものストライキ。
 2005年5月29日の、新自由主義的なEU憲法条約案国民投票に対する「ノー」の勝利。
 2005年11月の、フランスの都市郊外における青年の反乱と暴動。
 2006年5月における、CPE(注4)と対決した青年と労働者の運動の勝利。
 これら全てのできごとは極めて重要だ。それらは、自由主義と企業の資本主義に対する抵抗の強さ―社会的抵抗かつ政治的抵抗双方で―を示している。それらが明確に示唆することは、政治的代替勢力の出現を通した一つの政治的表現に対する必要性だ。そしてその表現は、新たな幅広い反資本主義の党、搾取され抑圧された者達の新たな代表、に体現される。
 しかしこれらのできごとも、情勢の一面に過ぎない。もし情勢の別の側面を注視するならば、以下のことを見ることになる。即ち特筆的には、「ストライキ損失日数」の低水準、労働者の敗北を通して―あるいは何らかの抵抗すらなく―実行された一連の新自由主義的改革、労働組合と諸政党の極めて限定されたメンバー数、選挙における棄権率増大、若者と移住者に敵対し警察に有利な諸法の殺到、労働組合と社会民主主義政党の指導部を含んだ政治エリートが見せる右への絶えざる移行、といったものだ。そしてさらにいくつも挙げることができる。
 政治と選挙という領域での真の実体は、急進的あるいは革命的左翼の成果の連続的上昇、というものではなかったのだ。2002年大統領選挙の2、3週間後に行われた総選挙では、LCRとLOの合算結果は平均2・5%でしかなかった。2004年(EU議会選挙―訳者)の共同候補リスト(LCRとLO)は、平均で3〜5%に達したに過ぎなかった。
 フランス情勢は事実において、より複雑かつ対照的だ。一面において全てが「静かな」長い時期がある。そこではストライキも運動もなく、右翼諸政党と経営者による厳しい攻撃がある。しかし他の一面では、猛烈な社会的爆発という(極めて)短い時期がある。
 上に見たことは、80年代や90年代前半のような、「退行的転換」を意味しているわけではない。しかし少なくともそれは、情勢が不安定で脆い、ということを意味している。社会的爆発に刻印された時期の短さをもってしては、支配階級と労働者階級間の力関係を逆転させることに成功するまでには至らなかった。さらに、密度の濃さがあるとはいえ社会運動の時期が非常に短いということが理由となって、労働者階級の重要な部分がそこから引き出す教訓は、あるいは活動家グループにあってさえも、非常に不均質となっている。抵抗を政治的代替行動に変える試み全てに立塞がる、これが第1の実体的な障害だ。そしてこの点こそが、2005年以来起こってきたことの多くを真に説明する。

勝利の後で

 2005年5月29日の後実際我々は、一連の取り逃がされた出会い、偽りの希望、そして捩れた論争に直面した。要するに簡単に言えば、EU憲法反対の連合を2007年選挙連合に転換することは、容易ではなかった―そしておそらく不可能だった―。
 革命的左翼(主にLCR)、フランス共産党、緑の党内部の一政綱グループ、社会党内部の一政綱グループ、労働組合運動や諸協会またフェミニズム運動や世界的公正運動の活動家、そして左翼理念をもった何千という普通の人々が、EU憲法反対の運動に合意した。それは明白に、我々がそこから建て増すべき豊かな基礎だった。しかしそれでも幾つかの政治的明晰化は必要だった。
 新自由主義的なEU憲法に対する拒絶の共有は、これらの全ての人々が自動的に―あるいは単に容易に―選挙に対する共通の取り組みに合意できる、ということを意味するわけではない。より正確に言えばそこで課題となっていたものは、賭けられているものが政治的権力、政権、議会多数派、あるいは、「旧い言葉」を使えば国家権力である特定の選挙、総選挙だったのだ。
 反資本主義左翼の共通候補に向けた取り組みの失敗に対する最も広範に共有された説明は、LCRのセクト主義が理由、そして、あるいは、フランス共産党が示した覇権的な振るまい(そして運動に対する支配を確保したいとする望み)が理由、とするものだ。
 この説明は、それが単純であり、容易であり、心地よい説明であるが故にそれだけ広範に共有されている。しかし私はその説明を共有しない。まさに、それは余りに単純であり、余りに安易であり、余りに心地よいからだ。そして、それは政治的でない。
 唯一の問題がもしLCRのセクト主義であったのならば、その時何が起こったのだろうか。事実上LCRを除いた、反自由主義左翼の全てを結集した統一した共同候補となるのではなかっただろうか。しかし、それは生まれなかったのだ。
 唯一の問題がもし共産党指導部の覇権主義的振るまいであったのならば、その時何が起こったのだろうか。事実上共産党を除いた、反自由主義左翼の全てを結集した統一した共同候補となるのではなかっただろうか。しかし、それもまた生まれなかったのだ。
 私の説明は、統一連合と共同候補に向けた取り組みは実質のある政治的理由のために失敗した、というものだ。それは、中心的な政治的問題に関する中軸的勢力間の政治的不一致があった―そして今もある―が故に失敗したのだ。そこでの問題とは、反自由主義運動は、政府や議会多数派、また国家権力という問題との関係で、社会党指導部とどのような種類の関係をもち得るのか、という問題だった。

LCRのセクト主義、それは本当か

 ものごとをできる限りはっきりさせてみよう。我々は、わが組織が社会的かつ民主的な緊急手段の上に築かれた良質な綱領をもっている、と考えている。しかし同時に我々は、統一した反自由主義の連合が我々の綱領をそのまま承認することなどあり得ない、ということを完全に自覚している。そして我々は、それが我々自身が行った諸提案に反しないものである範囲で、いくつもの妥協を受け容れる準備ができていた。
 ついでながら、5月29日の協議体は一つの綱領を採択した。我々はその諸提案の多くに同意した。同時に我々は幾つかの相違点ももっている。それらの内の2,3を以下に列挙してみよう。
 LCRは、真の反自由主義候補は我々が闘っている最中の最低賃金水準について明確であるべきだ、と考えている。しかし、マリー・ジョルジュ・ビュッフェ(共産党書記長、大統領選に立候補―訳者)もジョゼ・ボベ(農民運動指導者、大統領選に立候補―訳者)もそれを明確にしていない。
 LCRは、真の反自由主義候補は彼(ないしは彼女)ができる限り早期の核戦力からの脱却に賛成であると明白に語るべき、と考えている。しかし「5月29日の協議体」の綱領はそれを語らなかった。その主な理由は、共産党が親核ロビーに深く関わっていることにあるのだ。
 LCRは、真の反自由主義候補は帝国主義的同盟の解消を求める行動だけでは足りない、と考えている。彼女(あるいは彼)は、その問題について他のヨーロッパ諸国とのいかなる一致も待つことなく、フランスは即刻NATOから脱退すべき、と明確に断言すべきなのだ。
 しかしLCRは、選挙綱領についての論争期間中、これらの問題を競りににかけるような取引は決して行わなかった。我々は、これらの問題(そして幾つかのその他の問題)は統一連合にとって絶対的な障害ではなく、我々が処理可能な一時的な未解決の問題である、と述べたに過ぎない。
 もちろん、これらの極めて「慎重な」考えが「反自由主義協議体」の活動家間で共有されなかったということに主要な問題があったわけではない。彼らの殆どは、我々のもっと先を行く修正に同意した。主要な問題は共産党の進路だった。そして彼らは同時に、この取り組みに関わっていたはるかに主要な政治潮流だったのだ。
 それ故LCRは、2006年春の数ヶ月間共産党との間で、開かれた、また偽りのない論争を組織すべく、真剣に挑戦した。各課題毎に、全員が合意できる処方策のリストと、さらに追加的な作業あるいは妥協が必要となる処方策のリストをはっきりさせるために、LCRと共産党から2、3名づつ「専門家」を出した共同作業グループが計画された。そして、これらのグループのいくつかは1、2回会合をもった―LCRと討論する理由は全くないと、また「人民」との討論の方がもっとためになる考えだと、共産党が決定するまでは―。

問題は脚本であり配役ではない

 何ヶ月間は、最も重要な課題は政治的合意であり共同候補の名前ではない、ということに全ての者が合意するように見えた。
 LCRは、自分自身の候補者、オリビエ・ブザンスノーが最良の候補者であり、おそらく反自由主義運動の様々な指導者の内でも最良であると考えていた。しかし彼は我々の最もよく知られたスポークスパーソンであり、それ故彼は統一反自由主義連合の候補者とはなり得ない、ということを我々は完全に自覚していた。我々は妥協に向けた、別の候補者に向けた準備ができていた。ブザンスノー出馬を公表した後でさえ我々は以下のことをはっきり言明した。即ち、政治的合意が見出されたとすればいつでも、我々は彼の出馬を撤回する用意があると。
 しかし確かに、我々には妥協の準備がないただ一つの問題があった。それは、次々と無限に続く口実とは違う。それは回答が、明確でいかなる曖昧さもない回答を必要とされた―そして今も必要な―ただ一つの問題だ。あなた方が確実に理解してきたように、今回の取り組みの初めから我々が提起したこの問題は、今も変わらずそのまま残っている。それは即ち、政府と議会に関わる、社会党との関係という問題だ。
 そして我々が耳にしたかった回答は「ノー」という回答、即ち、反自由主義の候補者は社会党が率いる政府には参加しない、ということだった。そしてまた、総選挙に対する反自由主義の候補者は、議員に選出されたとしても、社会党が率いる政府を支持することも、その議会与党に入ることもない、という回答だった。
 しかし我々はそのような回答をついに耳にしなかった。

歪曲された論争

 この問題に関する論争は2006年前半を通して吹き荒れた。再度確認するが、主要な問題は反自由主義協議体活動家の平均的気分ではなかった。彼等の内のかなりの多数は、この問題の重要性を我々が誇張していると考えた場合であってさえ、我々の観点を多少とも共有していた。主要な問題は共産党の政治的手法だった―そしてそれは今も変わりない―。
 フランス共産党の指導者は二面的な言い方をしている。一方において彼らは、1997年から2002年に至るいわゆる「多元的左翼」政府の経験を繰り返すことはしない、と改めて断言する。その当時彼らは、ジョスパン政権並びに社会党と共に議会多数派に参加し、その社会自由主義の綱領を承認する義務を課された。そしてその経験の結末こそ散々な結果となった2002年4月の選挙だったのだ。
 しかし一方において彼らは偽りの主張をし、「反自由主義綱領に基づく全左翼」の結集は可能だと、国民投票で「ノー」を支持した政党と「イエス」を支持した政党を調停することは可能だと語る。彼らは、社会党が率いる政府のメンバーに再度入るという仮説を放棄していない。
 我々が共産党との間で偽りのない開かれた討論を行おうと試みた理由こそ、ここにあった。LCRと共産党双方は、政治権力、連合、連立政府、その他の問題を各々の党がどのように考えているのかについての文書を書くことで合意した。その少し後でLCR指導部はこの文書を書き上げ、連立政府への我々の参加条件をはっきりさせた。そしてこの文書は承認され、共産党に送られた。しかし共産党は、いかなる文書も書かず、また我々の文書に回答することもなかった。

転換点

 次の段階は、「全国協議体」内部と何百という地方協議体におけるこの問題についての討論だった。この討論は、2006年9月、「反自由主義協議体」全国評議会が「大志と戦略」という表題を持つ一つの文書を採択した時終結した。この文書は「社会自由主義」の覇権についての両義的な定式を含んでいた。しかしそれは、社会党政府に合流することも、現存する社会党、その綱領、その指導部と一体となった議会共同多数派という枠組みでその政権を支持することも不可能だ、と明確に述べているわけではない。
 LCRは問題を明確にするために幾つかの修正を提案した。しかしこれらの修正は、全国協議体によって受け容れられることも、「反自由主義協議体」全国評議会の表決にかけられることもなかった。フランス南東部協議体から出された極めてよく似た修正もまた同様に傍らにどけられた。同じ協議体から出されたもう一つの修正もまた同じやり方で排除された。その修正案は、政党のスポークスパーソンは共同候補者とはなり得ない、ということを特定して明確にしていた。
 この評議会が今回の取り組みにおける転換点だった。反EU憲法条約の反自由主義連合内の我々の協力者はLCRと手を切ることを決定した。病的に猜疑心が強い人にすら確かにしばしば本当に敵がいるものだが、とはいえここで問題となっていたことは病的な猜疑心ではない…。他の政治的潮流と「全国協議体」の他のメンバーの主要な目的は、LCRと手を切ることではなかった。しかし彼らは、LCRを留め共産党をはじき出すか、それとも共産党を留めLCRをはじき出すか、ここに選択があると考えた。そして、遅かれ早かれLCRは合流するだろうと期待した。しかし我々はそうしなかった。何故ならば…我々は政治理念に信を置いているからだ。
 諸協議体の多くの人達は、全国評議会が採択した文書は事実において我々を満足させるはずだ、と語った。しかしそれから2、3日で、共産党指導者達の手になる数本の論文や演説により我々の心配は確証された。彼らは明白に、諸協議体が合意したことになっていたものに対して異なった解釈をしていた。そして彼らは、LCRが支持した政治方向は「諸協議体」の手で敗北させられた、という事実を力説した。そしてそれは―不幸なことだが―正しい、と私は考える。
 これが、LCRが共同候補者選択の取り組みに参加しなかった理由だ。我々の観点から言えば、そのための必要条件は一定の政治的合意であり、社会党との関係という問題に関する共有された立場だった。

誤解

 政党のスポークスパーソンは共同候補者ではあり得ないということを明示したどのような修正も取り下げさせるという、「全国協議体」の決定は、この取り組みにおけるもう一つの弱点だ。実際に共産党は、結局全員が彼らの候補者を支持することに同意するだろう、と考えた。一方、他の潮流と「全国協議体」の他のメンバーは、共産党は結局彼らの候補者の取り下げに同意するだろう、と考えた。しかしそれは起こらなかった。
 いつものように共産党は統一的外観を得たがった。しかし同時に運動に対する支配を確保することも欲した。そしてそうする上での最良の方法は、彼ら自身の候補が反自由主義運動の代表として立候補することだった。彼らにはそれとは違うことをやるつもりは全くなかった。そしてそれこそまさに現実に起こった…ことだった。
 このような進展は、共産党が彼らの候補者であるマリー・ジョルジュ・ビュッフェ共産党書記長を共同候補者として押しつけようと試みた2006年11月に破裂した。そうするために共産党は、もちろん「ポストスターリニスト」的方法を駆使した。例えば、候補者選択における多数獲得を目的とした、共産党員で占められた「新たな」協議体の成長が見られた。幾つかの準備段階の、また本物の協議体は、候補者指名投票にまさに間に合わせて会合にやってきた共産党活動家に突然侵略を受けた。共産党の幾つかの地区、地方支部は、大慌てで反自由主義協議体に転換された。
 スターリニストの過去から引き継いだ共産党のこれらの旧式な手法は、諸協議体内部の多くの人々を困らせた。しかし実際は、候補者指名という問題を抹消し延期する決定を行った時に、全国協議体が共産党指導部にそうする勇気を与えたのだ。
 全ての人(我々を除く)が、この取り組みの第1段階は成功裏に達成された、と確信していた。反自由主義運動は一つの戦略文書と選挙綱領(2006年10月採択)をもつことができ、候補者の名前の決定という残る段階は最後であり、たやすい一歩…というわけだった。
 しかし、政治的課題と政治的相違を取り除くことはそうた易いことではないのだ。
 我々が提起した問題にはついに回答がなかった。それはこの取り組みからの我々の政治的追放に行き着いた。しかし、未解決の問題―そして、反自由主義のこの取り組みの指導者と一定の活動家、さらに共産党指導部、これらの間の相違―が最悪の形で再び現れることとなった。即ち、候補者指名において。集計では人々のほぼ60%がビュッフェを支持した。しかしそれは、「協議体」内の共産党員と他の人々の実体的比率を表すに過ぎない。

大きな好機が失われた?

 LCRがこの取り組みに留まり、諸協議体にもっと密に関わっていたならば、物事は今とは違うものとなっていたのだろうか。そこに決算書の重大な部分があるわけではない。
 我々は何ヶ月もの間、共産党が自分自身の候補者をもちたいと思っていたという、さらに社会党との関係についてどのような保障も与えるつもりがないという繰り返される兆候を目にしていた。諸協議体へのLCRの関わりでそれを変えることは不可能だった。実際我々はそれほど強力ではないのだ。
 EU憲法に対する我々の共同した勝利の後に生まれた反自由主義運動の「はずみ」を我々は過少評価したのだろうか。私はそうは思わない。
 この運動は政治的代替路線という課題を提起した。そして我々は、我々自身の政治路線をもって、国民投票キャンペーンに結集した人々と共に前進しようと挑戦した。しかしこれまでに説明したように、前進のための必要条件こそ、中軸的課題に関する政治的明晰性だった。
 左翼の立場に立つある人々は別の進み方が可能だと主張した。どのみち絶対的な保障などない、というわけだ。そのようなわけで行動の賢明なあり方は、その政治的基礎が例え曖昧だとしても、物事の進展に身を投じること、運動に内在する駆動力を頼りとすること、そして、我々の心配が確証されたならばそこで始めて共産党と手を切ること、とされた。しかし、現実はそれほど単純ではない。
 LCRは、政治的基礎がどうであれ単一候補を切に求める全ての人々からの大きな圧力にさらされることになった。我々がもし曖昧な基礎を受け入れ、その進展に身を任せたならば、この枠組みに留まれ、とする圧力はさらに高くなったと思われる。そして、我々がしばらくしてそこから離れようと試みたとすれば、全ての人が我々に次のように指摘することになっただろう。即ち、新しく変わったことは何もない、あなた方は今の政治的基礎を受け容れたはずだ、それは裏切りではないのか、と。それで我々がもっとよく理解されるようなことはなく、どのようなデモも行えなくなった…かもしれない。
 我々は共産党内部の危機を過少評価したのだろうか。私はそうは思わない。
 ソ連邦崩壊と社会党との前回の連携が引き起こした惨めな結末を経て、この危機は以前よりもっと深くなっている。多くの共産党員―そして現職の議員や首長―は、共産党指導部と党の方針と現に手を切りつつある。しかしこれ自体は、右から左へなのか、あるは左から右へなのかという、彼らの進化の方向を示すわけではない。
 もちろん我々は、彼らのある部分が健全な選択を行う可能性があると期待している。それは、他の勢力と共に新たな幅広い反資本主義の党を建設することを支持して、新改良主義とポストスターリニズムの伝統から離れることへの期待だ。しかし同時に我々は、彼らの多く―まさに共産党指導部のように―が再選のために社会党の助けを必要としている、ということを考慮しなければならない。そしてそれこそが、左翼への移行へと彼らを導かないのだ。
 過去に活動家や指導者の比較的小さなグループが、共産党から脱退したか分裂した。彼らのある人々は、本当にスターリニズムと手を切り、急進左翼との共同により心を開いていた。しかし殆どの部分は社会党に引きつけられ、その衛星勢力となった。
 我々は、共同候補が作り出す選挙上の好結果を通して左翼を再形成する、という好機を逃したのだろうか。
 運動内部の多くの人々は、反自由主義左翼の統一候補は好結果を達成する可能性があると信じた。それは、2005年に左翼の有権者が社会党支持有権者を含めEU憲法に反対したことが理由だった。ある人々は10%以上の得票を夢見た。反自由主義候補が社会民主主義の候補を上回るかもしれない、と予想する人さえいた。そしてこの明晰さの絶対的欠如は、共産党指導者と「全国協議体」の主要なスポークスパーソン…によって力付けられた。その後押しはあり得る理由の中でも最悪の形で、即ち、反自由主義候補がもし勝つ可能性があるのならば、社会党との関係を何故心配する必要があるのか、という形で作用したのだ。

LCRは孤立したか

 大統領選に向けた我々のキャンペーンは既に始まっている。宣伝行動とブザンスノーが出席する大衆集会はかなりの程度成功している。我々は、ラジオ放送やTVトークショーまたインタビューの各々が終わるたび、勇気付けられる手紙やe−メイルを受け取っている。職場やデモの現場で彼は暖かい歓迎を受けている。今回のキャンペーンの中核は社会問題と差別に対する闘いであり、この点に関し、何千という労働者、女性、若者が彼らの関心を示している。
 LCRの行動、振るまい、そして方針に関し、厳密な総括を行うことは明らかに時期尚早だ。大統領選と総選挙を経てその時はいずれ来る。しかし結論は殆ど確実に、LCRは最良の形で全てを行ったわけではないし、いくつか間違いを犯した、というものとなるだろう。
 明らかに、我々内部の分裂は深まった。明らかに、反自由主義運動の本物の活動家、極めて健全な人々は共産党に怒っているが、しかし同時にLCRにも怒っている。明らかに、我々は理解されず、部分的に孤立した。明らかに、それはよい結果ではなく、共同候補を基にした本物の独立した反自由主義連合を手にするという挑戦の失敗は、ある種の政治的敗北だ。
 しかし落胆や悲嘆は役に立たない。何が起こったのかを理解しようとすることの方がもっと重要だ。我々は幾つかの難しく居心地の悪い問題を提起したが故に部分的に孤立した。反自由主義左翼の単一候補を切実に望んでいた人々と活動家に、それはそれほどた易いことではないと告げることはそれほどに人気を下げることだった。長期に続き得る連合を築き上げるためには政治的明晰化を欠かすことはできない、と彼らに告げることはそれほどに不人気だった。反自由主義候補の選挙結果は、例え統一した単一の候補であったとしても、途方もないものとはならないだろう、と彼らに告げることはそれほどに不人気だった。そして以下のことを彼らに告げることはそれほどに不人気だった。即ち、いつもは左翼諸政党に投票する民衆の多数が、社会党が憲法を支持していたにもかかわらずEU憲法に反対投票したからといって、大統領選ではそれにもかかわらず彼らの多数は社会党候補に第1回目から投票するだろう、と。あるいは、国民議会議員に反自由主義の候補が何十人も選出されることはないだろうと。これらのこと(真実であった)を、それを聞きたくないと思っていた人々に告げようとしたことは、それほどに不人気だった。我々の政治的役目は何千という人々の希望を打ち砕くことではない。しかし我々は、非現実的な幻想で人々を満足させることを期待されているわけではないのだ。

ジョゼ・ボベ、我々が必要とする人物か

 一定の進展を経て、以前の農民指導者、ジョゼ・ボベが今や反自由主義のあるいは急進左翼の第4の候補者となっている。マクドナルドに対する攻撃や遺伝子操作穀物反対キャンペーン、そして世界的公正運動への関わりを理由に、彼はむしろ人気者だ。彼は大胆不敵な活動家であり、一度は何ヶ月か監獄に送られた。そして今再度新たな送検の脅しを受けている。そして疑いなく、特定の潮流(急進的エコロジー、世界的公正)の代表的人物として、彼は候補者となる権利がある。
 しかし彼は、反自由主義運動の、あるいは「5月29日の諸協議体」の統一候補でもなく、その「当然の」候補でもない。彼は、EU憲法反対連合に参加した政治潮流や政党のどこからも支持されていない。社会党内政綱グループのPRS(「社会的共和国のために」)は、現在社会党候補を支持している。LCRはブザンスノーを支持し、共産党はビュッフェを支持している。そして「共和主義左翼」(J・P・シュベヌマンの元支持者)の流れをくむ小グループは彼の立候補に同意していない。緑内部の小さな政綱グループである「オルタナティブス」と諸協議体の一定の少数派だけがボベに好意的であるに過ぎない。
 そして、この立候補を押し上げるために使われた手法がまさに懸念を呼んでいる。2006年11月までボベは、諸協議体候補者となるべく他の候補者と競争していた。次いで、彼は立候補辞退を決めた。その理由は、諸協議体内部の最初の投票結果が彼にとって全く思わしくなかったことが最も近いと思われる。この結果を受けて彼は、ビュッフェとブザンスノーが辞退した場合にのみ立候補を考える、と言明した。
 その後、共産党書記長の立候補発表と統一候補に向けた取り組みの消失を受け、ウェブサイトとe−メイルを手段として彼に立候補を求めるいわば請願が、彼の友人達によって組織された。そして最終的に彼は候補者となることを決めたのだ。このできごとは、諸協議体内部の民主的かつ相互に対抗し合う論争から生まれた結果ではない。またそれは、政党間の政治的論争と合意の結果でもない。それは、e−メイル請願に対する署名を基礎とした国民投票的な手法の結果であり、ある種不快な「反政党」の気分を漂わせている。
 諸政党は、さらに革命的政党や代替的勢力ですらも人々を失望させてしまったということを、代替的左翼内部にいる全ての者は深く心に刻まなければならない。しかし、緩やかなネットワークがそれらのものの代わりとなり得ると考えることは、政治的実効性という観点において、同様に民主主義という観点において、危険を孕んだ幻想だ。
 これは重要な問題であり、それはこれらの論争全ての背景に、新たな反資本主義運動の型や我々が将来建設したいと思う幅広い左翼党の型に関わるものがあるからだ(注5)。

政治的独立のための闘争

 我々が提起した主要な問題についてはさらに数語述べたい。社会党との関係や、政府と議会連合の課題は純粋に理論的な問題というわけではない。またそれらは、LCRの病的な想像の中で生まれた強迫観念や悪夢でもない。それらはいわゆる「フランス的例外」を条件として起きているわけではない。それらは左翼の、むしろ世界規模における現実の試練なのだ。
 革命的あるいは急進的グループは既にこのような試練を前にするに至った。現瞬間では例えばイタリアとブラジルで。中道左翼との議会連合や連立政権を介して社会民主主義の衛星勢力となることは、急進左翼の破壊で終わる可能性がある。中道左翼政権の新しい経験はより大きな失望に、より大きな苦痛に、そしてポピュリスト政党と極右政党に対する支持の増大に帰着するだけであることを、我々は確かに知っている。我々がこれを避けたいと思うならば、急進左翼はこれらの社会的かつ政治的な惨害に対する責任を共有してはならない。
 フランスで我々が経験した困難な論争は、革命と改良に関するものではなかった。それは「党と運動」についてのものでもなかった。実際長期に続いてきたLCRの伝統は、(諸)運動と統一的連携そして開かれた再編への参加に密接に結び付けて(革命的)党を建設することだ。
 さらにそれは、「統一戦線」対セクト的孤高という論争でもなかった。自党の強調よりも行動に向けた統一的枠組みの建設の方を、LCRは常に重んじてきた。これについては1970年代から現在まで多くの証拠がある(EU憲法反対の2005年におけるキャンペーンへの参加のように)。
 それはまた、便宜主義と革命的純粋主義という形に図式化された誤った分極化に関わるものでもなかった。ついでに言えば、大体そのような非難―革命的純粋主義―がLCRに向けられたことなどほとんどなかったのだ。
 そうではなくそれは、より控え目に言って、社会民主主義(あるいは社会自由主義)に対する従属かそれとも政治的独立か、という問題だったのだ。
*筆者はLCRの指導的メンバー。
注1) LCR―革命的共産主義者同盟―は第4インターナショナルフランス支部。
注2) リュット・ウーブリエール(LO、労働者の闘争)の候補者
注3) LCRとLOの共同候補者名簿に基づいて。
注4) 初期雇用契約
注5) 詳細はピエール・ルッセの手になる文書を参照可能。


 
 

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