パキスタン
パキスタン人民党、独裁的政治へ傾斜

           ファルーク・タリク

 パキスタン人民党(PPP)の指導部は、問題を抱えこんでいる。パンジャブ州政府問題だ。州知事が2009年2月25日に行った、州議会の二ヶ月延期の強行という決定を防衛することはそう容易いことではない。ここに、もっとも尊敬され、穏やかなPPP指導者で、上院議会議長であるミアン・ラーザ・ラバニは、カムラン・カーンを放送を通じて叱る一方、「無政府状態の横行」を停止させる必要性を提示したのだ。

専制的諸決定

 「横行する」無政府状況とは直接的にはいかなるものなのか?数百名のパキスタン・イスラム教徒同盟ナワズ(PMLN)の活動家が、国内各都市で抗議行動を行った。彼らは総選挙にナワズ(PMLN)の同志たちが立候補することを禁じた最高裁の決定に反対したのだ。最高裁の三人判事法廷は、ラホール高等裁判所の決定を支持したのである。これらの判事たちは、ムシャラフ将軍が緊急事態を宣言した2007年11月3日の暫定憲法政令(PCO)に忠誠を誓ってきた判事たちである。法律家たちの運動は、忠誠誓約以降、彼らの解職を求めてきたのだ。
 規模は小さいが、状況はベナジル・ブットーが2007年12月27日暗殺された以降の激変に似ていなくはない。だが今回の場合は、どこでも焼き討ちは起こらなかった。前には起きた銀行襲撃や鉄道焼き討ちはなかった。明らかに事態は警察が容易に制御できるはずのものだった。
 だが、パキスタン人民党(PPP)指導部は、ナワズ(PMLN)が率いるパンジャブ州政府解任の機会を待ち、そのために時間を置いた。PPPメンバーである政府首班は、前もってパンジャブ州政府解任の効果を狙った恫喝的な声明を公的に発していた。
 パンジャブ州政府の解任は、PPP政府が強要する独裁的な方策である。それはムシャラフ政権の足跡の後追いである。それは民主主義的な人々には正当化の難しい、専制的方策である。PPP指導部が、権力についた最初の1年の間に、数多くの悪い決定を実行してきたことは事実である。もう一つが付け加えられた。しかしこれは、「和解」という彼らのいい加減なインチキ政治の終わりを意味し、より過酷な政治の道への踏みだしなのだ。
 パンジャブ州政府の解任という決意は、PCO判事たちとPPP指導部の共謀の結果であり、2009年3月12―16日に設定されている法律家たちの長期行進に対処するための総稽古である。彼らは法律家たちの運動に弾圧を第一優先として対処し、ムシャラフ独裁体制の残存物に挑戦する人々に対して、新たな逮捕、監禁、拷問の局面を導こうとしているのである。
 現状は、ムシャラフが強行した国家緊急事態宣言に続く時期に何が起こったのかを思い起こさせるものだ。2007年の11月7日、ラホールだけで800名を超える法律家が逮捕された。その後、法律家たちの運動が掲げた目的を挫折させる狙いでもって、1万名を超える政治的活動家たちが牢獄に送られた。ベナジル・ブットーですらも逮捕されたのだ。

シャリフに対する非難

 最高裁は今、ムシャラフ独裁体制によって強要された法廷宣告に基づいて、ミアン・ナワズ・シャリフは、諸々の選挙に挑む資格がないと宣言した。彼らは、ミアン・シャバズ・シャリにも同様の不適格を認定した。シャリはこうしてパンジャブ議会の席を失い、そして州の首相職をも失った。彼の州政府も同様に崩壊せざるをえなかった。
 ミアン・ナワズ・シャリフへの最高裁の宣告は、ムシャラフ将軍の証拠のない申し立てに基づいている。1999年10月12日、ムシャラフ将軍が乗った、スリランカからの航空機のハイジャック事件が起きた。ムシャラフはこの事件の背後にシャリフがいると告発したのである。その当時、首相であるナワズ・シャリフはムシャラフ将軍を司令官職から取り除こうと試みたのだが、ムシャラフはそうした令を受けるのではなく、自己の全権掌握の道を選択したのだ。幾人かの証言が証拠となっているが、ムシャラフは当時他の将軍たちと協同する軍事クーデターを既に計画していた。それは、今日では明白となっている。そしてムシャラフの統治下、法廷はミアン・シャリフに濡れ衣の罪を宣告したのである。
 PPP指導部は、そこで、「法的判決は尊重されるべきである」と声明して、最高裁の不当な判決を防衛したのだった。フォジオ・ワーブやカシム・ジアのようなPPPのタカ派指導者たちは、ニュース番組や新聞でこうした観点を表明した。幾人かのコメンテーターが、PPPは常々、ザルフィカル・アリ・ブットーの絞首に帰着した最高裁の意見が一致はしなかったが、多数的な結論としての決定に反対してきたことを皮肉的に思い起こさせた。1979年4月4日、ジア軍事政権下、ベナジル・ブットーの父親はインチキな殺人罪によって絞首刑にされたのだ。
 パンジャブ州政府の首班が不適格とされた場合の正常な手続きはどうあるべきであったのであろうか。新たな議会会期が招集され、多数を得た新たな指導者を選出する。
 だが、懸命な努力にもかかわらず、PPP指導部は多数派を獲得できなかった。最善を尽くしたのだが成功しなかったのである。彼らは別のPMLNメンバーが議会で首班となり、次期州政府を形成するであろうことを恐れていたのだ。こうして、PPPに非友好的な新たなPMLN州政府が形成される可能性が高まっているのである。

独裁的手法への傾斜

 政府権力から独立した司法制度回復のための要求が認められるまでの長期行進と座り込みへの宣言は、PPP政府をまごつかせ、当惑させ、混乱させた。
 状況制御の道を探っていたPPPは最終的には専制的方策を採用した。PPP政府がムシャラフ将軍を排除したのは、彼の独裁主義傾向を自らが身につけるためだけであったかのようにも見える。一人の独裁者は去ったが、政策はそうではなかった。こうして、この党、PPPは、そのもっとも光り輝く民主的な伝統を放り捨てた。それらの輝きは軍事独裁体制との闘いにおいて、PPPを含む英雄的な政治活動家たちの闘いを通じて勝ち取られたものだったのだ。
 今日、ザルダリ大統領のもとでのPPPは自由と民主主義の政党とは到底見られない。それはむしろ、もっとも反動的な潮流に支持される封建領主主義的、資本主義的エリートたちが統制する党である。ムシャラフ将軍と同様に、彼らも大衆的憎しみを稼ぎ出してきているのだ。
 パキスタン労働党(LPP)は、過去においてもそうであったように、法律家たちの長期行進の前面に立つが、この独裁主義的方策を非難してきた。マイン・ナワズ・シャリフのPMLNの資本主義的政策との共通性はほとんど持ってはいないけれども、パキスタン労働党は、原則的な民主主義的立場に位置を求めている。事態は次から次へと動いている。それ故に、原則的立場を取ることが前へ進む唯一の道なのだ。パキスタン労働党(LPP)は、支配階級の何らかの部分が、パキスタン労働者階級が直面する根本的問題を解決できるとは幻想してはいない。富者の政治ではなく、社会主義の思考に基盤を置く、支配階級とは別個な労働者階級の政治的強化こそが前進する唯一の道なのだ。
 パキスタンや他の低開発の諸国における複雑な政治を分析するためには、きわめて柔軟でかつ確固とした社会主義の思想的基盤がなければならない。これは直線的道ではなく、多く、うねりつつ曲折する道であろう。
▼ファルーク・タリクはパキスタン労働党(LPP)の総書記である。(インターナショナル・ビューポイント電子版3月号)


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