シリーズ ふざけるな!労政審 @           かけはし2009.11.30号

これが使用者委員、公益委員の
ジコチュー・身勝手意見だ!


はじめに

 長妻厚労相による労働者派遣法抜本改正諮問を受け、10月7日から始まった労政審審議の中で、使用者委員、公益委員は、身勝手が目に余る発言を繰り返し、ひたすら派遣労働を擁護、抜本改正にあくまで抵抗している。全体を通してそこでの発言の特徴は、この労働形態の下で派遣労働者が目の前で強いられている非人間的な状況にまったく関心がない、ということだ。この事実に触れる発言は、まったくと言っていいほど出てこない。派遣労働者という存在は、彼らの議論の中ではあたかも透明人間のように消えてしまっている。代わりに強調されることは、企業の都合、人を使う側の「利点」。それらの都合、「利点」は、「権利」とまで主張されている。この論理を突き詰めれば労働者の権利の全否定にまで行き着いてしまう。
 派遣労働者がどうなろうと知ったことか、といわんばかりのこんな議論を許すわけにはいかない。断固とした反撃、逆襲が必要だ。
 以下では、「労働者派遣法の抜本改正をめざす共同行動」の中で進められている論点整理などを参考に、現在明らかになっている彼らの主張の要点、それに対する批判をシリーズとして掲載する。
 ところでこの欄を担当する筆者は長らく中小製造業の現場で働いてきた者だが、その立場から許し難いと思わざるを得ない点を一つだけ最初に触れておきたい。
 それは後に挙げる彼らの意見を見れば分かることだが、ことある毎に、中小企業が苦境に立たされるなどと、中小企業を派遣労働正当化の「御旗」に使っていることだ。しかし中小企業に力づくで無理難題を押し付け不当きわまりないコスト切り下げを迫り、中小企業を圧迫しているのは紛れもなく大資本に他ならない。それは、中小企業で働く者は誰もが知っている。しかし労政審で彼らが行っている議論は、そこに矛先を向けず、その構造を容認したままただ安く無権利な労働者が必要との議論へ誘導しようとしているだけであり、こうしてあたかも、世間的には「弱者」と思われている中小企業の味方のようなふりをする点で実に不誠実かつ卑怯きわまりない。しかも彼らは、その場合そこで働く労働者はどうなるのかなど、てんで気にしていないのだ。本当に怒りがこみ上げる議論だ。
 その上実際に派遣労働を大々的に利用し利益を上げてきたのは大資本、大企業だ。いくつかの調査(例えば「赤旗」8月13日付)も、企業規模が大きくなるほど派遣労働者を活用していることを示している。そしてそれは、筆者の経験から言っても、中小企業の特質としてそうならざるを得ないと、十分に納得できる。中小企業は、派遣労働には移れない。派遣労働の禁止は中小企業いじめ、などという意見は、その点でもためにする事実のねつ造というしかない。
 日本における雇用の圧倒的部分を担っている中小企業を存続させる責任を負うべき者は何よりも大企業、大資本なのであり(いじめているのも彼らだ)、もちろん派遣労働者などではまったくない。そのことを改めてはっきり確認しよう。それを逆転させるような労政審の議論など許してはならない。
 個人的な怒りからやや脇にそれたが、以下本題に入りたい。なお、労政審発言の詳細を知りたい読者は、同審議会を傍聴している労働者たちがいくつかのウェブサイトにその内容を掲載しているのでそちらを参照していただきたい。ここでは派遣労働ネットワークのアドレスを紹介する。<http://haken-net.or.jp/>

〈1〉国際競争があるから?

発言@(公益、大橋勇夫、中央大学大学院戦略経営研究科教授、10/7)
 「国際相場を基準にして案を詰めるべき。製造業の国際競争は厳しいことを前提に、米国、ヨーロッパの派遣はどういう規制なのか?」
発言A(使用者、石井卓爾、三和電気工業(株)代表取締役、10/7
 「企業は厳しい国際競争にさらされ、値下げ、コスト下げを迫られている。派遣法の見直しがこのような流れで進むなら、国内に製造拠点をもてなくなると話している」
発言B(使用者、高橋弘行、日本経団連、11/10)
 「2004年の製造業派遣解禁以降、国際競争は厳しさを増し、景気変動が大きくなっている。それに伴って需要予測が困難で、企業の最大生産量に合わせて雇用の維持が難しい中、派遣という制度を禁止すると日本の企業は生き残れない。厳しい国際競争の中、柔軟な生産体制を構築しなければならない」
発言C(使用者、市川隆治、全国中小企業団体中央専務理事、11/10
 「常用型派遣を広げるという考え方について、中小企業は大部分が登録型派遣に頼っている。登録型と常用型では、時給に大きな開きがある。中小企業は、常用型派遣を雇うとなると、コスト増により経営悪化が懸念される。外国の相場感で考えてほしい。外国は登録型が主流である」

 文字通り企業の都合一本槍の主張が繰り返されているが、その結論は要するに労働者にかかるコストを引き下げたいということに尽きている。そしてその手段として派遣労働に狙いが定められている。これは極めて明確だ。例えば発言Cはまさにあけすけ、登録型と常用型とをコスト比較した上で「安い」登録型が必要と言う。
 しかしこれらの方策は、それこそ派遣労働の非人間的な実態を、あるいは派遣労働者とは非人間的に「安く」使ってもいい存在だとのまるで身分制度のような社会構造を、あらかじめ前提にしなければそもそも成り立たない。これは文字通り不正義ではないか、そしてこれらの主張の裏にあるものは、人間の平等、尊厳や、最低限度の健康で文化的な生活などの、端からの破壊ではないのか。このような前提の上では、例えばこの間、識者としてたびたび登場する濱口桂一郎氏が主張するような派遣労働者の処遇「改善の工夫」などは、ほとんど意味をなさない。
 ここで前提にされている社会は、資本が労働者の生存保障に責任を持つつもりのない社会だ。そんなことは国際基準としても現代では通用するわけがない。国際競争の問題とは、本当は、社会に責任を負うことを含め、産業を指揮すると自負する資本そのものの未来に向けた創造能力が問われている問題、と言うべきだ。問われているのは彼らなのだ。その観点から見れば、その自覚もなく、問題を社会全体にすり変え、労働者を痛めつけるという方法しか主張できない者たちは結局のところ自分の無能をさらけ出している、と言うしかない。
 われわれ労働者はそんな者たちを許すわけにはいかない。彼らには打ち勝たなければならない。そしてそれとは別に、先のような主張に同調する特に公益委員に対しては、公益を名乗る以上は、先のような社会のあり方の問題に対して真しに何かを考えているのか、その責任を問わなければならない。

〈2〉製造業派遣は禁止すべきでない?

発言@(公益、岩村雅彦、東京大学大学院法学政治研究科教授、10/7)
 「派遣法の規制を強めることが必要だとして、今がそのタイミングなのか非常に不安を持っている。派遣の位置づけを含めた議論が必要。製造派遣は具体的に分析、議論しておらず、いきなり禁止にいくのは議論の飛躍」
発言A(使用者、市川隆治、前出、10/15)
 「製造業への派遣を原則禁止することで、育児などによりフルタイムで働けない人たちの勤労権、職業選択の自由を侵害するのではないか」
発言B(使用者、市川隆治、前出、11/10)
 「派遣切りが問題となったからと原則禁止することは行き過ぎである。派遣元・派遣先がきちんと雇用責任を取るような制度の手直しが必要で、そういったことで対応すべきである」

 発言Aにはこじつけがあまりに過ぎる。なぜ直接雇用では駄目なのかを何も語りもせずにいきなり職業選択の自由侵害とは問題外の議論と言うしかない。労働者にとっては、なぜ派遣でなければならないのかが問題なのだ。しかし派遣でなければならないという決めつけの陰には、国際競争の問題で露骨に現れたように、コスト切り下げという動機が明らかに隠れている。そうである以上、同一人物がBのようにもう一方で処遇改善の工夫などと心にもないことを発言することは不誠実この上ない。
 製造業派遣を舞台に大量の労働者が路頭に迷わされるという現実が突き付けられ、資本の無責任があからさまに露呈した以上、厳格な規制は当然の要請だ。タイミングは今でないとすればいつなのだろうか。
 しかしそれ以前に、そもそも製造業派遣は絶対に認めてはならない雇用形態だった。この雇用形態の下では、労災の危険が飛躍的に高まる以外ないからだ。それは、労働者の命そのものの使い捨てだ。現実にも、このわずか4年の間に派遣労働者の労災死傷はまさに激増した。それは必然であり、製造業の現場で働く者ならば容易に予測できたことだ。何故か。それは、労災の最後の防波堤は、仕事に対する労働者の身体に刻み込まれた精通(危険要因の状況の感覚的察知)と、それらを伝え合うとともに助け合う、働く者同士の親密な連帯だからだ。そしてそれらを、システムや設備などで完全に代行することなど決してできない。危険が不可避的に付随する業務に先の二つのものを二つとも最初から欠落させた派遣という雇用形態を認めたことは、未必の故意による犯罪と言ってもよいほどの大罪だ。製造業派遣規制の問題は、そもそもタイミングなどというものが入り込む余地のない問題と言わなければならない。今さら「分析」などという寝言を許す余地などない。(つづく)(神谷)

シリーズ ふざけるな!労政審A             かけはし2009.12.7号

これが使用者委員、公益委員の
ジコチュウ・身勝手意見だ!

〈3〉憲法、ILO条約違反?

発言@(公益、征矢紀臣、全国シルバー人材センター事業協会会長、10/7
「登録型派遣の禁止はILO180号条約や憲法22条からみてもおかしい。登録型は家計補助的に働く人や年金者が多く使っている。これを禁じるのは公共の福祉、職業選択の自由に反しないのか」
発言A(使用者、市川隆治、前出、10/15)
「現在認められていることを法律で禁止するということは、権利を奪うことになる。一人でも権利が奪われた人がいれば、憲法違反で訴えることもできるのではないか」
発言B(使用者、市川隆治、前出、10/15)
「製造業への派遣を原則禁止することで、育児などによりフルタイムで働けない人達の勤労権、職業選択の自由を侵害するのではないか」

 ここに主張されていることはことさら批判することも恥ずかしくなるほどの暴論だ。苦し紛れのこじつけと言ってもいい。派遣の禁止が就業の禁止などではまったくないことは誰が考えても分かることだ。それは基本的に、人転がしで利益を得る中間搾取を規制し、企業の雇用責任逃れを許さないというだけだ。それこそ憲法の柱である基本的人権の保障そのものだ。そして労働者は誰も権利など奪われない。奪われる権利があるとすれば、それは中間搾取を行う「権利」であり、雇用責任を負うことなく労働者を使用する「権利」だ。しかしそれらは、元々不当かつ違法な行為であり、「権利」などと言える代物ではない。したがってそれらは奪うことにこそ本来的な正義がある。
 しかもここに述べられている主張には何のまじめさもない。それは発言@にも如実に表れている。ILO条約などがことさらに引き出されているが、その条項が明らかに間違っているのだ。180号は船員に関するものであり、派遣法の問題とは何の関わりもない。おそらく181号(民間職業仲介事業)と間違ったのだろう。しかしそのような間違いを犯すこと自体、発言者が真剣に考えてなどいないことを示して余りある。そしてILO条約を持ち出すならば、その基準として確認されている「ディーセントワーク」に照らして議論することが本来の筋だ。そうすれば、「ディーセントワーク」とはかけ離れた派遣労働の実態こそがILO条約違反となることが明白となるはずだ。発言者にそうする気がないことは明らかであり、その点でもこの発言の不誠実さは際立っている。
 いずれにしろここから見えることは、派遣法改正抵抗派のなりふり構わない姿であり、大義のなさだ。それは派遣法抜本改正の闘いが身に帯びる社会的大義を照らし出すものであり、かれらにはまさに断固とした闘いによる逆襲を回答としなければならない。

〈4〉1時的需要への対応が不可能?

発言@(公益、岩村正彦、東京大学大学院法学政治研究科教授、10/7)
「育休の穴埋めは派遣となるが、26業務以外が禁止されたら一時的需要に対応できない。登録型を廃止する制度設計で対応できるのか」
発言A(使用者、市川隆治、前出、10/15)
「クリスマスケーキの製造のように一時的需要に応じて大量に人を募集する場合、知名度のない中小企業では人が集まらない。最近では、インフルエンザワクチンの製造に必要な有精卵の製造現場(目視検査)でも派遣労働者が活躍している。デジカメやケータイなどライフサイクルが短く、派遣でないと対応できない」
発言B(使用者、市川隆治、前出、11/10)
「例えば、アイスを製造する仕事は夏に、リンゴの芯を取る作業は10〜11月に仕事が集中する。繁閑がある企業では、人員の調整が不可欠である」

 ここで述べられている主張もまた、「派遣労働でなければ対応できない」と言いつつ、その理由を何も語っていない。労働者からみれば、また派遣労働という無責任な雇用形態に不可避的にはらまれた破壊的な作用が歴然とした今、たとえ一時的需要への対応だとしても、職の紹介・斡旋を媒介とした直接雇用では何で対応できないのか、が問題なのだ。今ここに答えをもたない主張などまったく正統性がない。そこに触れずに語られることの本質は結局、その方が使用者には都合がよいということでしかない。そんな虫のよい主張など認められるわけがない。
 今さら言うまでもないが、一時的需要など、はるか昔からあったことだ。ここで挙げられているクリスマスケーキだとかアイスだとかの生産も昨日や今日の話ではない。派遣労働などなしにかつてはそれらに対応したのであれば、今それが不可能などという言い分は通らない。まして現在、生産を事前に計画化するための、冷蔵設備などのハードや、市場予測やそれらのための情報収集などのソフト両面における技術的手段は、かつてと比べて格段に充実している。にもかかわらず派遣労働がなければお手上げなどという言い分は、雇用責任を含め本来負うべきリスクを使用者は一切負う気がないと言うに等しい。しかしそのリスクは誰かが負うのであり、派遣労働という雇用形態は、それを何の責任もない派遣労働者に一方的に負わせる仕組みに他ならない。昨年秋以降の派遣切りの嵐は、その本質を見紛うことのないものとした。一時的需要を理由とした派遣労働温存の要求には根拠がまったくない。そればかりかそれは、不公正の助長だ。
 なお、発言@の中で示された認識には、労働者の権利保障に関わる重大な問題があるので特に触れておきたい。それは、あたかも当然であるかのように「育休の穴埋めは派遣となる」とされている点だ。それは労働者の権利行使を保障する企業内態勢整備に対する使用者の責任をまったく想定していない認識と言う他ない。「派遣を使うから責任を果たした」などとねじ曲げられては、育休を取る権利は、労働者全体の普遍的権利とはなりようがない。それは法的に確定した権利の骨抜きであり、脱法の勧めだ。法の研究者を名乗る公益委員として、このような認識が表明されていることには厳しい批判が必要であると共に、重大な警戒が必要だ。

〈5〉中小企業の求人が困難に?

発言@(使用者、石井卓爾、前出、10/7
「地方の中小企業は人を雇えなくなる。製造業をどうもっていくのか、いろいろ考えた上での議論をしてほしい」
発言A(使用者、佐藤―後掲秋山の代理、10/15)
「なぜ中小企業で派遣を活用するのか、それは、必要な人材が必要な時期に確保するのが難しいからだ。これができなければ、海外にシフトしていくと公言している経営者もいる」
発言B(使用者、高橋弘行、前出、10/15)
「中小企業には人が集まらないという点も理解してほしい」
発言C(使用者、秋山桂子、山陽印刷株式会社代表取締役社長、10/27)
「(中小企業は派遣がなくなると困るのは)必要なときに必要な人材が確保できなくなることだ。中小企業は知名度がなく人が思うように採用できない。派遣以前に戻せばいいと言うが、パートやアルバイトの募集をするために求人誌や新聞に掲載してもらうには、頼んでから一週間後、それを見て応募してくるのがさらに一週間後、それに対応するために電話を受けて面接をして、というのは時間もコストもかかる。これをまとめてやってくれるのが派遣のメリットだ。現在、中小企業の受注量は大幅に減少している。対応するためには、すぐに人を集めて迅速に、一円でも安くやっていきたいというのが現状だ」
発言D(使用者、秋山桂子、前出、11/10)
「中小企業は知名度がなく、アルバイトを募集しても一カ月はかかるその間仕事ができない。この点、派遣という制度を利用すれば、スピーディーに対応できる。また派遣という制度がなくなれば、派遣で働いていた労働者は、求人誌を頻繁に見なければならないという手間になる」

 中小企業の求人難は昔から広く知られてきた。ここで出されている意見は、その一般通念を派遣規制反対の社会的大義にしようとするものだろう。しかしそれはまったくの問題すり替えだ。〈3〉の論点と重なるが、この問題で本来議論されるべき課題は、職の紹介・斡旋機能の充実だからだ。問題はそこで解決できるし、そこで解決されなければならない。
 現に80年代以前、現在と比べれば格段に失業率が低く、したがって中小企業の求人難がはるかに深刻だった時代、中小企業はそこで問題に対処してきた。困難は残り続けたとしても、派遣労働などというものに頼ることなく、その時代を中小企業は生き続けてきた。その事実が示すように、雇用責任の消失という、労働者にとっては猛毒を潜ませた間接雇用の派遣労働が、職の紹介・斡旋機能の場面に入り込む必要性も必然性も本来ない。ましてその猛毒が現実にすさまじい形で労働者をむしばんでいることが明らかにされた今、課題はむしろあいまいさなく真っ直ぐに、職の紹介・斡旋機能の充実に向け直されなければならない。そしてその点で言えば、厚労省が今進めようとしているハローワークの整理統合、すなわち公的責任による職の紹介・斡旋機能の縮小(政府責任の放棄)こそが、文字通りの中小企業いじめ、地方の求職者いじめとして、真っ先にまな板の上に乗せられるべきなのだ。
 しかも、派遣労働が職の紹介・斡旋機能の充実を助けるなどという関係には、実は何の確実な保障もない。営利事業としての人材派遣業には、その機能充実に責任を負う義務などないからだ。中小企業への労働者派遣は、求人規模が小さくそれゆえ求人当たりの手間が大きくなる。つまり収益という点では相体的に魅力が乏しい。したがって中小企業への派遣は必然的に後回しになるだろう。これらは容易に推測できることだ。前号で紹介した赤旗の調査は、厚労省の「派遣労働者実態調査」を基に、派遣労働者が就業している事業所割合を、5〜29人規模の事業所で10・1%、30〜99人規模事業所で28・7%、1000人以上規模事業所で93・3%と明らかにしている。求人に最も困難を抱えている規模の小さな企業ほど派遣労働には依存していない、あるいは依存できない、というこの事実は、先の推測の一端を正直に映し出している。要するに、本当のところは、派遣労働は中小企業の求人難を救ってなどいないのだ。
 実際、上に取り上げた意見が問題にしていることも、その核心は、求人難一般ではなく、明らかに雇用調整のための手間とコストだ。発言Cはその意味で正直であり、派遣以前に戻れない理由として、文字通り手間とコストを挙げている。逆に言えば、その手間とコストを除けば、派遣労働という雇用形態を必要とする理由は業務の上では何もないことを意味している。
 しかしその手間とコストこそ、労働者を雇い入れそれを源に利益を得る者が不可避的に負わなければならない責任なのではないか。その責任を逃れ、果実だけ欲しいという主張は余りに身勝手と言うしかない。ここにも明らかなように、派遣労働がその身勝手を許容する仕組みとして企業によって位置づけられている以上、その厳格な規制は避けられない課題だ。(つづく・神谷)

シリーズ ふざけるな!労政審B     かけはし2010.1.1号

これが使用者委員、公益委員の
ジコチュウ・身勝手意見だ!

〈6〉均等待遇の拒絶

発言@(使用者、秋山桂子、前出、11/10)
 「派遣労働者と正社員では責任や役割が違うので、賃金が異なることは意味がある。日本は年功を重視することに加えて、各企業で賃金が違う。また、派遣は、派遣先がそれぞれ違うので、均等待遇は無理がある」

発言A(使用者、高橋弘行、前出、11/10)
 「誰と誰の均等を図るのか。同じ正社員でも、入社年によって賃金は違う。また、日本には、産別賃金がないので、均等待遇は難しい。均等ではなく、均衡がわが国では適切である」

 均等待遇の全面的な拒絶、上に見る使用者意見はこれに尽きる。発言Aでは、均等に代えて、均衡という考え方が持ち出されている。この考え方は、均等待遇をめぐる問題に関ししばしば持ち出されるものだが、何と何が均衡するのか、そこに社会的合理性はあるのかなど、どうにでも理屈がつく曖昧さは消しようもない。一つだけはっきりしていることは、それが均等に対置されていることであり、つまり均等ではないということだ。「均衡」は、同一労働に対して複数の待遇を許すのであり、基本的に、現在を変えるものではない。その意味でいわばだましのテクニックであり、それが均等待遇の拒絶であることに変わりはない。
 したがって上の意見が意味するものは結局のところ、派遣労働者に対する極めて非人間的な冷遇を変えるつもりはないとする表明だ。それ自体がまったく不当であり、加えて派遣労働を何としても必要などと強弁する同じ者たちが他方でこのように表明することの身勝手と傲慢は、とうてい許せることではない。彼らの意志表明は、派遣法抜本改正の必要性を、だめ押し的に明らかにしている。
 その点で、派遣労働と均等待遇とは決して両立できないことを、改めて確認しよう。
 先ず何よりもそれは、派遣労働という雇用形態を擁護する者たちの現実的な動機の中に明確だ。その核心の一つは労働コストの大幅な切り下げにあり、そしてそれが可能である理由こそ、均等待遇とは隔絶された派遣労働者の劣悪な条件であり、派遣労働という仕組みの下でこそそのような条件を苦もなく労働者に強要できるからだ。その関係は、またその関係についての彼らの自覚は、前回までに見てきた使用者意見、公益委員意見にきわめて明快に示されている。彼らにとっての派遣労働の存在意義は、何よりもその関係に集約されている。そうである限り、派遣労働の存続を前提に派遣労働者の現状改善を求めることなどまったく非現実的だ。
 そもそも本来、派遣労働の常態的存在と均等待遇の両立はまったくあり得ない。少し考えれば、以下のことはすぐ分かる。すなわち均等待遇原則が確立されている場合、もしそこで企業が派遣労働者を使用しようとするならば、企業が負担しなければならない労働コストは、派遣労働者に保障する均等待遇に相当するものに、派遣元の経費を(さらに派遣事業者の利潤をも)上乗せしたものとならざるを得ない。
 要するに、企業の労働コストは、直接雇用の場合に比較して確実に上昇する。そうであれば、派遣労働の企業にとっての必要性は、極めて限られたものとなる。一方で労働者にはもちろん、派遣などというわざわざ込み入った間接雇用を必要とする理由はない。まさにそれゆえ、まがりなりにも均等待遇原則が社会的に確立しているヨーロッパでは、派遣労働が極めて限定された例外でしかない。日本におけるような大量の派遣労働者の存在は、均等待遇の否定の上にしかあり得ない。派遣労働の抜本的規制は、均等待遇原則に向けて進む上でも避けることのできない課題だ。

均等待遇拒絶は全労働者が対象

 しかし現在なおも、均等待遇かそれとも派遣法抜本改正かという二つの道があるかのように、あるいは均等待遇と派遣労働の両立が可能であるかのように問題を提出し、派遣労働者の利益を図ると称しつつ、現在の派遣法抜本改正に向けた闘いに水を差そうとするメディアや一部論者が絶えない。
 代表的論者は濱口桂一郎氏であり、その見解は『世界』09年3月号の「派遣法をどう改正すべきか―本丸は均等待遇―」として提示され、さらに岩波新書の『新しい労働世界』の中でも同趣旨がやや詳しく述べられている。あるいは朝日新聞は12月9日付けで、派遣労働者の保護を優先すべきとする、非常勤公務員の肩書きをもつ派遣労働経験者の投稿を掲載し、同紙の意向をにじませた。後者の場合、「保護強化」の内容は不明だが、ドイツが参照例とされているところから察すると、趣旨としては濱口氏と似た見解だと推察できる。
 このような主張は、派遣労働者への非道な仕打ちを通して社会的課題となった均等待遇への道を実はむしろ遠ざけるのであり、きっぱりと退けなければならない。
 均等待遇に関わる両者の議論の欠陥は、均等待遇や保護強化を具体的に実現する道筋、あるいはそれを可能とする基礎がまったく明らかでないことだ。後に見るように、使用者は、均等待遇に完全に、しかもあらゆる手段を使って敵対している。均等待遇実現のためにはそれを打ち破らなければならないのであり、お題目だけですり抜けることなどできない。そこに確実な方策を何も示さないのだとすれば、その主張はただ派遣労働の、そして均等待遇とはかけ離れた雇用関係の温存しか意味しない。
 そのことをより明らかにする上でまず確認しなければならないことは、今回の労政審で使用者が主張した均等待遇拒否の論理が派遣労働者に限定されたものではない、ということだ。そこでは、年功賃金、企業毎に設定され従って企業毎に違いがある諸条件、期待する(企業が勝手に割り振った)役割の違い、派遣先による条件変動の可能性など、もっともらしい言い訳が並べられている。しかし、派遣先云々は別としてそこに挙げられたものはすべて、女性差別を典型として日本の雇用関係に長く続いてきた均等待遇の全般的な欠如、差別的に階層化された複数の労働条件の併存を正当化する言い訳として、常に企業側や日本の支配層が挙げてきたものだった。
 つまり今回彼らが改めて明らかにした均等待遇拒絶の意志は、派遣労働者のみならず、非正規労働者全体はもちろん、女性労働者などこれまで差別的に処遇されてきたすべての労働者層に広く向けられているのだ。今回の労政審での使用者意見はその意味で、むしろ、均等待遇を排除してきた日本の不条理な雇用のあり方全般を今後とも断固防衛するとする宣言に等しい。
 派遣労働者への差別待遇は、その不条理を土台としてあくまでその上に作られている。そして、使用者が雇用責任を負う必要がないという条件を基に、派遣労働は最も気楽に大手を振ってその不条理を貫徹できる雇用形態として位置づけられ、大々的な「活用」が追求されてきた。
 今回の使用者発言に込められたものは、その構造全体を防衛しようとする決意表明だ。それゆえ派遣労働をめぐる均等待遇の追求は、その決意を突き崩す闘いであり、日本の雇用関係に埋め込まれてきた先のような長い歴史を持つ労働者の分断と囲い込みとの闘いを含んで、その真の実現には、今後もいくつもの厳しい闘いを重ねることが必要となるだろう。それは、一片の法律やいくつかの行政措置で一朝一夕に片が付く問題などではない。
 派遣労働者の均等待遇という課題を、すぐ手の届くものであるかのように提起することは、誤りを超えて不誠実と言わなければならない。

派遣労働は差別温存の手段

 上に見たことは、均等待遇を求める闘いの歴史がはっきりと示している。
 均等待遇、あるいは象徴的に同一(価値)労働同一賃金は、労働者運動の歴史的に一貫した、また世界的に普遍的な要求だ。それは、ある種本能的な労働者の平等に対する強い欲求の必然的な反映であると共に、労働者の力の根源である連帯・団結を支える最も重要な基礎としてもまた、おのずから経験的に広く自覚されてきた。それゆえまたそのための今も続く長い闘いの歴史がある。言うまでもなく、ヨーロッパにおけるその原則の曲がりなりの確立も、あくまでその闘いの成果だ。
 日本の場合でも均等待遇要求は、労使協調主義や本工主義などにじゃまされつつも、労働者運動の深部に脈々と受け継がれてきた。特に、差別的処遇に苦しめられてきた女性を先頭とする様々な労働者層にとって、均等待遇は人間としての尊厳と自らの自立・解放をかけた悲願であり、まさにそのための闘いが営々と続けられてきた。そして、わずかづつでも成果を積み上げ、差別的処遇が大手をふるう余地を狭めてきた。
 しかしその過程はまた、差別的処遇の温存に利を見てきた企業、資本に、均等待遇要求をかわす策を様々に追求させる歴史でもあった。企業社会的囲い込みの強化、均等法に対するコース別管理、成果主義管理、その他、例は尽きない。先に見た「均衡」という考え方それ自体、企業、資本のそのような追求の一つとして編み出されている。
 このように、均等待遇をめぐる闘いは姿を様々に変えつつ今もホットな闘いとして厳然と続いている。そして均等待遇をめぐる闘いのこのような歴史の中に派遣労働を置いたとき、派遣労働のもう一つの側面が現れてくる。つまり、企業内で均等待遇を回避し差別的処遇を温存する機能だ。事実として派遣労働は、そのような機能の側面においても、企業に極めて都合の良い手段となっている。それをはっきり示すものこそ大量の女性派遣労働者の存在だ。しかも彼女たちの多くは、「ファイリング」、「事務機器操作」などという名ばかり「専門」業種の名目で、期間制限もなく、従って正規雇用の格好の代替として、低処遇、無権利の境遇に縛り付けられている。”女性差別が派遣労働に移し替えられている”、派遣法の院内集会で発言に立った女性の派遣労働者たちは、このようにまさにことの本質を鋭くえぐり出している。
 この一点だけでも、派遣法抜本改正実現をめざす闘いは均等待遇を求める闘いを紛れもなく引き継ぐものであり、その闘いの今の焦点だ。派遣法抜本改正か、均等待遇追求か、などという問題設定は、現実とは無縁の机上の空論だ。(つづく) (神谷)

シリーズ:ふざけるな労政審(4)            かけはし2010.1.18号

大失業の持続なしには成り立たない
派遣労働の温存を社会は許すのか!

労政審のごまかしを許すな
1・27院内集会手始めに闘いを強め抜本改正法案化、成立へ

〈7〉派遣規制は失業を生む

意見@(使用者、市川隆治、前出、10/27
「登録型と製造業派遣を禁止すると、厚生労働省のデータから見ると約75万人が失業することになるのではないか。法律名に『派遣労働者の保護』を加えるというが、派遣切り法案になるのではないか」
意見A(使用者、秋山桂子、前出、10/27)
「派遣をやめても正社員になれるという保証はない。一人を正社員で雇えば、生涯賃金は1億円と言われる中、派遣の受け入れができなくなれば補充はしないで残業増などで対応すると言っている経営者もいる」
意見B(使用者、市川隆治、前出、11/10)
「仮に、製造業派遣が禁止されたら、多くの中小企業は、現在雇用している正社員の残業や休日出勤を増やして対応する。また、残業させることができなければ、仕事をあきらめるという企業もあった」
意見C(使用者、高橋弘行、前出、11/10)
「2年前に47万人の登録型で働く労働者が確認されており、厳しい規制を課すと、その人たちの就職先をどうするかという議論も必要である。また、厳しい規制により、派遣会社の内勤職員の雇用にも影響する。配慮が必要である」

 この手の議論は、文字通りの脅しを込めてメディアにもしばしば現れる。現に派遣で働いている(働かざるを得ない)労働者がいることを逆手に取り、派遣規制が彼らから仕事を奪うかのように描く議論だが、上に紹介した意見@、Cにも、その典型を見ることができる。しかしこれらは、事柄の関係を完全に逆に描くものであり、悪意に満ちたデマと言うべきだ。
 派遣労働者は派遣先で働いているのであって、派遣元(人材派遣会社)で働いているわけではない。仕事はあくまで派遣先にあるのだ。そして派遣規制は人材派遣業を、あるいは派遣という雇用のあり方を規制するのであって、当然ながら派遣先の「仕事」を規制する、あるいはなくすわけではない。派遣労働者が今担っている仕事は、派遣労働が規制されようとも厳然と残り続ける。とすれば、派遣労働者はなぜ失業しなければならないのだろうか。派遣先が直接雇用に切り替えさえすれば何の問題もないことだ。それに派遣が規制されれば、派遣先企業は、今派遣労働者がやっている仕事を続けようと思う限り、いずれにしろ否応なくその仕事に必要な労働力を直接雇用に切り替えるしかない。失業は生まれようもない。
 もっとも、派遣労働規制を理由に派遣先企業が問題の仕事そのものを止める、という可能性はある。業務の海外への移転や、正規雇用労働者による残業での対応など、派遣労働者に代わる労働力利用を選ぶ企業も出てくるかもしれない。上に見た意見A、Bもそのような可能性を挙げている。それらは確かに失業につながる可能性だ。しかしそれはあくまで派遣先企業が行う選択の結果だ。つまり失業は、派遣規制の結果ではなく、派遣先企業、実質的な使用者が生み出すのだ。自らが行う行為の結果起きることを派遣規制の結果であるようにすり替える、つまり責任逃れの、派遣労働の問題につきまとう卑劣な議論がここにも現れている。

派遣先責任をい
んぺいさせるな

 いずれにしろ、派遣規制でもし失業が起きるとすればそれはあくまで使用者の責任だ。先ずそのことをはっきり確認しよう。そしてそのような使用者の選択、ただ労働者にだけ犠牲を迫る選択を社会が許すのかどうか、問題の焦点はそこにある。その観点から見たとき、先のような派遣先企業の選択は、彼ら自身の事業がもつ社会的意義や社会的責任を投げ捨て、自分たちだけの利益を追求する、とうてい社会的正当性がないものであることを確認しよう。
 例えば、派遣で働く労働者が現に数十万人いるのだとすれば、その事実は、その仕事によって生み出される製品やサービスを待つ人びとが社会に膨大な数いるということを意味している。派遣労働者が現に就いている仕事をやめるなどという選択はしたがって、派遣先企業の社会的無責任をこの上なく示すことにしかならない。あるいは「残業でこなす」などという話も、正規雇用の労働者の個人生活を完全に無視した使用者の傲慢でしかない。派遣規制を理由とした海外移転にしても、それはその企業がしょせん渡り鳥企業でしかないことを意味するのであり、その浮き草的性格の故に、どこに行こうともその持続可能性は結局限界に突き当たるだろう。
 したがって、派遣規制=失業という議論の裏には、ここに見た企業、使用者の社会的無責任や傲慢を一切不問に付すという姿勢が隠されている。しかしそうである限り、派遣労働を規制しなければ派遣労働者の職が保障される、などということもまったくあり得ない。リーマンショック以降起きたことへの歯止めなどどこにもない。しかも金融恐慌とその後の世界的恐慌それ自体、上に見た企業、資本の社会的無責任と傲慢の産物そのものだったことを思い起こそう。派遣労働規制はいずれにしろ、派遣先規制へと広げられる必要がある。派遣法抜本改正に関わる派遣先責任の強化の項目はまさに必要不可欠なのだ。

人材派遣業、実は
「貧困ビジネス」

 見てきたように、結局、失業を理由に派遣規制に反対する者たちは、本当は失業などまったく気にかけていない。このような不誠実な議論、文字通りのデマをもういい加減のさばらせてはならない。
 もう一点、やや原理的な問題を付け加えておきたい。それは、人材派遣業とは、そもそも大失業を前提にしなければ成り立たない「ビジネス」だということだ。
 失業が少ない社会では人材派遣業など存在できない。先ず労働者には、間接雇用であれ短期雇用であれ、それを積極的に望む理由などない。失業率が低い時に、わざわざ人材派遣会社を経由して職に就く労働者などいない。一方企業にとっても、安定的に事業継続を望む限り、労働力の確実で安定した確保として、直接の長期雇用が必然的選択となる。こうして人材派遣会社にも、例えそのような会社がもしあったとしても、企業の求めに応じて自在に派遣が可能となる労働力の「ストック」は、生まれようもない。人材派遣会社には、いわば「売りもの」がなくなるのだ。
 事実日本においても、人材派遣業は失業率の上昇と共に急拡大している。要するに労働者派遣とは、大失業すなわち労働者にとっての苦難を糧とした「貧困ビジネス」そのものと言わなければならない。そうである限り、派遣労働を前提とした失業改善などありようがない。それは人材派遣業にとってはいわば自己否定だ。派遣労働、それを事業とする人材派遣業は、総体としての大失業を自己の存立基盤として固定化し、構造化するだけである。派遣規制ではなく、派遣労働の温存こそ失業を持続させる。あるいは、派遣労働の存続を望む者たちは、失業総体の削減など望まない者たちと言ってもよい。失業を理由に派遣規制に反対する主張の嘘800ぶりは、この原理的な側面からも明白だろう。

〈8〉セーフティネットがあればよい?

意見@(公益、大橋勇雄、中央大学大学院戦略経営研究科教授、10/7)
「セーフティネットがしっかりしていれば、登録型でもいいという議論もあるだろう」

 公益委員からこうした意見が出てくることには本当に怒りがこみ上げる。日本の「セーフティネット」が穴だらけであることは誰の目にも明らかだ。その下で派遣労働者の悲惨が生まれている。その現実を直視すれば、例え派遣労働に利点を見ている論者にあっても、先ず「セーフティネットをしっかりさせる」ことが最優先、少なくてもそれまでは派遣規制を、となるのが話の順序ではないだろうか。そうならないのは、セーフティネットを持ち出すことで派遣労働者の悲惨な現実に少しは注意を向けているかのように見せかけながら、その実そのことには何の関心もないから、と言うしかない。
 セーフティネットの問題をまじめに提起するのであれば、それがここまで貧しくされた責任の問題、従って「しっかりしたセーフティネット」に必要となる体制や費用負担の問題、同時に派遣労働者の悲惨に対処する現在の努力に使用者、特に大資本がびた一文払っていない問題など、当然にも一体的に提起されるべきだろう。しかし、「セーフティネット」に責任を押しつけ派遣規制に反対する論者は、そのような問題には一切口をぬぐっている。
 結局この手の議論も、派遣労働者に対する使用者責任に頬被りし他に責任をかぶせる点で極めて不誠実であり、これまで見てきた意見と同質だ。
 その上派遣労働の問題は、例えセーフティネットが一定程度整備されたとしても、それだけで解消されるわけではない。そこには、社会的存在としての人間が不可欠に必要とする重大な問題がある。つまり社会から切り離されてはならないという問題であり、そこに安定した職が重い意味をもっていることは言わずもがなだ。明日とは言わないまでも数ヶ月先、どこでどのような、また誰と仕事をしているか皆目見当がつかない、そのような境遇を、派遣労働は労働者に強いる。しかしそれでは、社会と結びつきその中で共に社会を支えているという確かな感覚と自分自身への肯定感は生まれようもない。そのようなことをいつまでも強いる派遣労働が常態化している社会、それは人間の尊厳を保障する社会ではない。したがってそんな派遣労働は、労働者からは決して認められない。
 それ故にこそ、日本と比べればはるかに充実したセーフティネットを備えたヨーロッパでも、労働者の中での派遣労働の人気はすこぶる低く、また当然にも厳しく規制されている。12月1日の「もう一つの労政審」で派遣労働のヨーロッパ事情を報告したフランス労働法研究者の田端博邦さんは、当地の派遣労働者の内、派遣労働を自ら望んだわけではないという労働者の比率が70%に達する、という事実を紹介した。この数字には、当地の全労働者に占める派遣労働者比率が日本に比べはるかに低いという事実も加えられなければならない。つまりセーフティネットの充実したヨーロッパにあってさえ、労働者のほとんどは事実として派遣労働など望んでいないのだ。
 セーフティネットがしっかりしていれば派遣労働には問題がない、などという議論には、労働者から見ればそもそも正当性のかけらもない。

派遣労働温存は
社会への敵対

 ここまで八点にわたって、今回の労政審で使用者委員、公益委員が主張した主要な意見を見てきた。派遣規制に反対して彼らが繰り出している強弁は、「労働者のニーズがある」や「派遣でもスキルがつけられる」などという明らかな嘘や事実のねじ曲げを含めまだいくつかある。しかしここまででも、派遣規制に抵抗する彼らの主張の無責任ぶりと身勝手さ、また不誠実さは十分に明らかだと思われる。また、派遣労働の最も重要で本質的な問題は、派遣先、つまり労働者を直接使用する者の責任がまったく消えてしまうことだが、今回あらわになった彼らの無責任の底抜けぶりは、その罪深さを今さらながら示している。しかし、派遣労働を温存しようとする者たちがあらゆる論点を通じてそのような大義のない主張しかできないという事実は、むしろ逆に、派遣労働と社会のぬぐいがたい敵対的関係を照らし出していると言うべきだろう。その意味で今回明らかとなった彼らの主張は、むしろ、派遣法抜本改正の社会的必要性のあかしだ。
 派遣労働の温存は、派遣労働者にとってはむろんのこと、社会全体にとってもまさに百害あって一利なしだ。今回の労政審はそのことをだめ押し的に明らかにしたのであり、それ故また、そのような議論しかできなかった公益委員の手でまとめられる答申にも、誠実さなど期待できない。実際出てきたものはごまかしに満ちたものだった。積み上げた共同をさらに広げ、まさに社会の声として政治に突き付け、社会的大義に背を向けたそのようなごまかし答申など踏み越える法案作成を迫ろう。労働者民衆の要求に沿った抜本改正、即刻の派遣規制を、今年の通常国会で何としても実現しよう。       (了)
【神谷】




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