中国の次期主席候補と言われる習近平および関連の諸問題                      
                      川端康夫                                         


 習近平は「太子党」の代表とされる。「太子党」とは中国共産党の幹部の人々の子息たちを称する最近の用語である。確かに、習近平は周恩来首相の副首相であった習仲勲の息子であり、まさに太子党である。だが、習近平は文革時には「下放」青年であり、その辛さから下放地を逃げ出したこともあった、と言われている。下放青年となる経緯については、父親の習仲勲が毛沢東ににらまれて副首相から放逐、投獄され、さらに文革時には相当な目にあったという経過が関係していると思われる。詳細は現在書店に平積みされている習近平に関する著作『習近平の正体』(茅沢 勤著・小学館)に書いてある。私が読んだ範囲で述べれば、当該の父親習仲勲は文革中、劉少奇や彭徳懐らの運命を歩むかのごとく紅衛兵に引き回された。その苦しさの中で、周恩来に手紙を書き、農村部での活動の願いを出し、それを周恩来が毛沢東に見せ、その結果紅衛兵たちから分離され、農村ではなく、狭い部屋に監禁されるということとなった。それで、結果として命が救われたという経過だったようだ。この本は中国ウオッチ・ライターの著作で、どこまでの正しさがあるかは私には何とも言えないが、現在、日本語として読める習近平に関する唯一の本であろう。
 それに合わせて、習近平の父親・仲勲に関連して若干の歴史的な問題意識を感じたので。ここで提起したい。
 
父親・習仲勲への弾圧と高崗問題

 私が見るところ、習仲勲問題は実は、中国の毛沢東関連の一連のスターリニズム的な「内ゲバ問題」と密接な関係がある。

 話を順序立てよう。
 1962年、当時毛沢東は一時的に身を引いていた。大躍進政策問題の一種の責任を取らされた形で。それはある意味では事実上の「棚上げ」のはじまりでもあり、それを意識した毛沢東は「絶対に階級闘争を忘れるな」と述べ、同志たちを階級闘争の対象と考え始めた。すなわち、逆転を賭した「文革」への構想を温め始めてもいたのである。
 そうした時期、延安に赤軍が逃れたとき、疲弊した部隊を引き受け、力を与え、再建の過程を支えた延安方面ソヴィエトの軍事的代表者であった劉志丹の思い出文書を発行したいとの願いを劉志丹の遺族(多分妻子たちであろう)が周恩来の副首相・習仲勲に提出した。習仲勲自身が、延安地区ソヴィエトの出身者であり、そこでの第三位的な位置にいた人であったという関係があったからだろう(劉志丹の兄弟という話もあるが、現在の私には?だ)。
 この事実を(おそらく康生から)伝え聞いた毛沢東は「劉志丹記念文書を発行することは、粛清した高崗(こうこう)名誉回復の第一歩である」と主張して、責任者習仲勲の厳罰を命じたのであった。
 劉志丹は、延安の毛沢東らが落ちついて間もない時期の1936年2月、東方面、すなわち北京方面への中途にある山西省へ出兵した時、その隊長として戦死した。試験的とも冒険主義的とも言われる出兵であり、山西省を拠点にしていた有名な軍閥、閻錫山(えんしゃくざん)との衝突である。閻錫山は蒋介石の援軍を受けて闘ったのである。当時の中国には蒋介石政権との関係が微妙複雑な軍閥が結構あり、軍閥連合が国を分けて蒋介石と闘ったという時期もあった。閻錫山もその一人で、かつ有力者であった。この劉志丹共産軍と軍閥部隊との戦闘に介入して蒋介石は山西省へと勢力を拡大したわけでもある。長征過程での貴州、雲南、四川などと同じように。
 この戦闘の位置・評価は別にして、この延安ソヴィエト部隊の政治的「主任」であった高崗はその後党内で出世し、副主席となり、ソ連軍と林彪軍が占領した東北地方(旧満州)の主席として勢力をふるった。だが数年して、高崗はソ連軍とつるんで東北独立を目指した(?)などの名目で投獄され、獄中で拳銃自殺(?)した。一緒に東北(旧満州)とは無関係と思われる饒(ぎょう)漱石も同席させられた(以後の消息は不明)。訳のわからない話である。王明は饒漱石問題は毛沢東の陰謀隠しの行為であると言う。戦中の日本軍との秘密取引工作者の抹殺であると。だが現状では、分からないことだと言うしかない。
 高崗問題の検事役はケ小平だったとされているが、毛沢東の直接指令であることに間違いはない。

中国共産党「内ゲバ」―毛沢東と王明

 高崗問題(1954〜55年)は、王明問題の最終的解決(1956年モスクワ行き)と時期的には重なっている。王明はすでに第二次大戦中に位置を基本的に失っていた。病気もあり、すでに第7回大会(1945年)では選出政治中枢に名前はなかった。
 王明(ワンミン)は1931年に党権力を握った28・5人ボルシェビキの親玉であり、上海にあった中国共産党本部を支配し、周恩来を引き入れつつ支配権を確立した。陳独秀に続く瞿(く)秋白、そして李立三指導部を追い落とし、スターリン直系の指導部を作ろうとした。スターリンが推し進めた粛清路線を中国で全面化したのが王明らであった。しかし後述するように、山岳根拠地においては毛沢東が「内ゲバ」の先頭を切っていた。それも明白な「血の粛清」である。王明らはそれを拡大発展させたのである。
 蒋介石の弾圧の結果、上海が危なくなって共産党中央は瑞金に移るが、王明はモスクワに戻り、書記長博古、政治局員張聞天、そして周恩来などを瑞金に派遣した。王明派は結果として毛沢東を瑞金権力から排斥し、周恩来が軍事権を握った(1932年)。この時期の周恩来は少なからず権威主義的だったと言われ、『周恩来 評伝』(司馬長風著、竹内実訳、大平出版社刊)では、「専断と踞敖(きょごう)」と評されている。
 この新瑞金体制をその後、長征過程で毛沢東はひっくり返すのだが、追記すれば、ここに記した張聞天という人物は、毛沢東の政治的人生での大きな二つの機会に名が出てくる。一つ目は、この長征時の遵義会議での時で、毛は長征(当時は西征と言っていた)の中で、張聞天に接近し、その支持を得られるという感触を抱いて、書記長博古、軍事部長周恩来への批判に踏み切った、と言われる。二つ目は、大躍進政策の悲惨な結果を質した彭徳懐の発言に対して劉少奇も周恩来も沈黙する中で、ただ一人支持発言をしたのが、未だ指導部に残留していた張聞天だった、ということである。張聞天は本来は王明派であるが、遵義会議の時に毛沢東支持へ変わり、その「功績」によってその後も指導部に留められていたのだろう。その張聞天も彭徳懐と同じようなことになる(その後は消息不明)。
 王明については、王明の自伝というものが日本語にも翻訳されており(『王明回想録』高田爾郎・浅野雄三訳、経済往来社刊)、それには、毛沢東によって毒を盛られたと書いてある。体が次第にだめになり、結局は革命勝利後、療養という形でモスクワに帰国することとなった。
 第二次合作時代に王明は延安にはいなく、重慶で合作主任として動いていた。延安での「清風運動」発動には無縁であった。こうした過程で王明は支配力を次第に後退させたのだろう。コミンテルン解散が決定的だった。王明はスターリンの手先のコミンテルン代表というだけであって、党内基盤はゼロに等しかったからである。モスクワから一緒に来たKGB出身の康生(山東省出身の粛清屋)も毛派に移ってしまう。

中国共産党と富田事件―「内ゲバ」の典型例

 付記。毛沢東は瑞金の指導部であった時期に、反AB団、富田事件などの大粛清を引き起こしていた。
 「30年秋から冬にかけてAB団狩りはいよいよ過熱し……11月末、内部整頓と称し、紅軍内部での大規模な粛清(「AB団狩り」)が始まった。紅軍第一方面軍4万余のうちその十分の一がAB団として打倒されたといわれる。また、その後の粛清も含め、紅軍第一方面軍のなかでももっとも精鋭と言われた紅軍第四軍約7千名のなかから、一千四百人がAB団として洗い出され、その半数が処刑されたといわれる。」
 「紅軍内粛清の矛先はすぐに江西地方党指導部に向けられる。11月末、毛沢東ら紅軍第一方面軍総前敵委員会(総前委)は「AB団」容疑で江西地方党部の最高指導者李文林を逮捕する。総前委は最も声望ある指導者李文林を逮捕され浮き足立つ江西地方党部に対しさらに追い打ちをかけるべく、次々に江西地方党幹部を逮捕し、彼らへの拷問から江西省行動委員会(省行委)の指導者や江西省ソヴィエト政府の幹部たちがAB団であるという自供を引きだすことに成功した。12月7日、毛沢東は江西地方党の幹部を一網打尽にすべく、後に粛清専門家としてその名を轟かす李韶九を江西省ソヴィエト政府と省行委の所在地である富田に派遣した。一個中隊を率い富田に着いた李は、ただちに省政府、省行委の反毛派を次々に逮捕、拷問にかけたほか、数十名を殺害した。さらに李は江西紅軍の主力の一つである紅軍第二十軍の粛清のため東固に向かった」「……第二十軍の一部は粛清に抵抗…部隊を集めて反撃に転じた。…李を捕らえ…、富田に急行し…生存者を解放した。これが中共史上に名高い「富田事件」の勃発である」
 「反乱者たちの運命は悲惨であった」。
 毛は富田事件を反革命と規定し、江西地方党幹部逮捕が続けられ、さらに31年初めに党中央を簒奪した王明、博古など新中央も、「半トロツキズム李立三路線=江西地方党部=AB団国民党反動派」という粛清の公式までつくりあげ、反乱軍を許さないと断じた。この粛清を項英(ソヴィエト中央局書記)が緩和するが、中央代表団は項英を更迭し、毛沢東を書記にし、反乱者たちやそれへの同情派を処分した。指導部の90%以上が処分を受けたという説もあるようだ。粛清が持続されると同時に、全国へと拡大する。粛清時代の到来である。
 江西党指導部が粛清されるにつれて、中央と毛沢東の共同戦線も崩壊する。毛沢東は粛清のやり過ぎを攻められ、やむなく自己批判に追い込まれ、そして軍権をすべて失うこととなる。引用は『中国革命への挽歌』(福本勝清著、亜紀書房)より。
 注1。AB団の意味は、アンチ・ボルシェビキ団の略というようだ。
 注2。ソ連でのスターリニストによる「血の粛清」は1934年以降であり、中国の毛沢東や王明グループの方が早いのである。

項英と新四軍―反毛派とその解体

 さて、毛沢東らが延安に落ち着いた後、王明がモスクワから再度戻ってくる(1927年の時からでは三度目である)。王明は当時のコミンテルンの人民戦線論を持参しての帰国であり、西安事件後の中で、第二次国共合作の時代が本格的に始まる。毛沢東は王明とは対立せず、じっと時期を待って勢力を維持し、拡大を図る。
 その時期、未だ中国共産党内部には毛沢東の指導部というものを支持しない部分が残存していた。それも独立の軍隊として。いわゆる新四軍である。毛沢東の指導下に入っていたのは八路軍であり、新四軍は瑞金残留組が作り出したものだった。隊長は非共産党員といわれた葉挺。副長兼政治委員は項英であった。項英は陳独秀時代に上海の労対部長(?)的役目をもっていた人物で、その世代は張国トウ(濤のさんずいがなく下に点が四つ)や周恩来らと重なり、毛沢東よりは五・六歳若いが、いわば共産党創成時代を担った者たちであった。毛沢東というのは何ごとも「やり過ぎ」の人物らしく、第一次国共合作時代には国民党との全面合作派として走り回っていたようで、合作に内心批判的だった陳独秀時代には党内での位置も高くはならなかったらしい。中国共産党の第二回、第四回大会に出てはいないほどだ。鄭超麟の著書では1924年頃としてほんの少しだけ出ている。「毛沢東は湖南に帰っていた」と(東洋文庫711、712、『初期共産党群像―トロツキスト鄭超麟回憶録』1、2。長堀祐三、三好伸清、緒形康訳)。

 そして項英は、瑞金ソヴィエト時代の経験もあり、毛沢東の指導を認める気は全然なかった。
 30年代後半の毛沢東には、一方で王明があり、他方で新四軍があったのである。一時の張国トウとのにらみ合いは、すでに張が延安から逃亡して終わっていたが、それでも毛沢東は味方を増やすために努力しなければならなかった。高崗の位置は地元勢力を代表するものであったが故に、高まったのだろう。
 新四軍が国共合作の中で揚子江の北へ移動するということとなり、(周恩来が直接に部隊まで乗り込み移動を―非毛沢東派として―説得したのだという説もある。そうでなければ項英はそうした措置を受け入れなかったはずだと。)部隊が揚子江の岸に到着したときに、国民党軍によって包囲攻撃され、隊長葉挺は捕虜、項英は戦死、となった(ユ南事件、ユは安徽省)。この戦闘がなぜ起こったのか、資料は国民党、共産党それぞれであり、はっきりはしない。この戦闘がさまざまな波及を諸方面にもたらしたが、しかし最終的には国共合作が潰えるという歴史にはならなかった。王明は合作維持に懸命であり、毛は項英死亡を内心は歓迎するべき立場にあったのだから。そして毛沢東は新四軍の次の政治委員に劉少奇を送り込み、新四軍を掌握する。項英の死によって、毛沢東に対する周恩来の地位は安定しなくなったとされる(『周恩来 評伝』による)。 
 高崗の問題も、考えようによっては、対項英、対王明問題がほぼ終わり、毛沢東は手勢として延安部隊を引き立てる必要性がなくなったことの結論だったとも思われるのである。
 劉志丹は政治的存在であった高崗の「悪行」には何ら関係がないにも関わらず、要するに「延安」ソヴィエト部隊出身者はすべて抹殺的に扱われ、その記念文書発行を担当した習仲勲も、同じく延安部隊出身者であり責任を負わされ放逐されたという経緯であろう。

下放青年、習近平の将来は?

 中国の唐家セン(センは王へんに旋)・元中国国務委員(副首相級)が来日した。尖閣諸島問題は日中間の障害的問題になってはいけない。互いに手を付けないという日中国交回復時の取り扱いを継続すべきだと話したという。相手は経団連会長だが、経団連も最近は、中国との経済関係が深まっていることを背景としてか、以前ほどアメリカ寄り万歳というほどではないようにも見える。この唐家センは、60年代初期、文革直前から初期かけて中国農業の農薬使用について大問題だと調査指摘した日本の高名女流作家・有吉佐和子さんの通訳をしていた人として著作に出てくる外交官である。尖閣ヴィデオの流出があったが、唐家センという日本語の通訳も出来る日本通の外務官僚上がりの大物人物が「波風を立てるな」という立場にいるということを認識しておかなければならないだろう。
 だが他方で、中国は南シナ海の諸島の領有権をも主張している。中国の言う大陸棚論(大陸棚はその接続する大陸の領有のものとなる)の結論のようだが、南シナ海全体が比較的に浅い大陸棚のようなものだとしても、その大陸棚が「中国大陸」の延長である、というのは大変な言い過ぎではないだろうか。大国中国の国家主義化が警戒されるわけである。
 さて、ケ小平は釣魚島(尖閣)に関して、「あと10年か、20年か」と日中両国が領有に関して手を触れない期間を述べたそうだが、その期間は過ぎ去った。唐家センは今後も持続すべきだと述べたが、かつての下放青年であり、毛沢東によって迫害された一家に育った習近平副主席は次の時代をいかにイメージするのだろうか。彼は最近、北朝鮮において、朝鮮戦争は正義の戦争であった、と述べ、韓国サイドから相当に批判されたそうだが、はたしていかなる政治の持ち主となるのであろうか。(11月22日)

 

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