ナイの世界


 どうも、昨今、痛ましい事件が多いとの論調をよく見かけます。確かに痛ましい事件は 数多くあるみたいなのですが、まあ、痛ましいとか、ショッキングだからこそ報道される というか、痛ましくショッキングでなければ、注目を集めませんから、ショッキングでナ イとゆ〜ニュースはあまり目立ちません。事故や火事で毎日、何人もの方が亡くなられ、 不慮の病気でも、沢山の方が亡くなられていますが、こうした痛ましい事実は、どうも、 ショッキングではナイという事で、新聞の三面記事では、スペースを割かれナイみたいで す。まあ、これも、命の重さには違いがあるという証明でしょうか?(^^;;。
 今、報道を賑やかしている事件は、小学生による殺人事件らしいものです。日本の刑法 などの論理の組み立て方からすると、小学生、まだ何も分らない子供に責任を問うのは 如何なものかとゆ〜論法なので、殺人事件ではなくて、死亡事故のハズなのですが、なぜ か、自分達が組み立てた倫理基準である法律の意思に反して、殺人事件として報道したい みたいです。殺人事件扱いは、著しく法倫理に反する訳ですから、こうした倫理基準が怪 しい人が、教育がどうこうとか、命の大切さがど〜こ〜言うのは如何なものかと思うので すが、そうした論評も、あまりナイみたいです。

 さて、今回の事故では、カッターナイフが、事故に繋ったみたいですが、 フと、snowdogは、昔のPTAの選択した教育方針の、ナイ フを持たせナイという運動を思いだしてしまいました。なんでも、若気の至りで、代議士 さんを殺傷したという事件を受けて、子供にナイフを持たせナイようにしようというもの でした。ただ、snowdogの親は、肥後之守をねだった時、買い与えてくれましたけど(^^;;。 お値段がカッターナイフと同じで、使い続けるつもりなら一生だって使える代物ですから、 費用対効果は抜群です。買ってもらったsnowdogも、便利な道具として、大変重宝しまし た。今は、肥後之守より小さく、グリップに木が使われているナイフを利用していますが、 あいかわらずカッターナイフは、使うつもりがありません。だって、カッターナイフ、危 ないし、使い難いんですもん(^^;;。PTA推薦はカッターナイフだったのですが、カッター ナイフ、切れ味が悪くなった場合、刃を折るという仕様になっている為、刃先をちょっと 出して紙を切り抜く以外の作業、例えば木を削ったり、釣りで釣れた魚を美味しく食べる 為に野ジメしたり、ちり紙交換、ああ、今はリサイクルですか、新聞紙を紐でくくって、 余った紐を切ったりする場合、長くのばしたブレードがちょっとした事で折れて飛びます。 刃物を使う要領をえない子供の時分、カッターナイフしか無い時は、ずいぶんと、不便で 恐い思いをしました。その点、肥後之守は折れて飛ぶ心配はありませんから、手元に注意 するだけで安心して使えますし、自分で研いでいますから、切れ味もよく分っています。 こうした事例から、カッターナイフの代わりに肥後之守の支給を親に要求したところ、 是という返事が返ってきました。 これが顕著に出たのは、学校の文化祭で竹トンボを模擬店で売る為に、作った時 でした。竹トンボを大量に作るぞって志願した者は、snowdogと同じく、伝統的な肥後之 守を携えていました。肥後之守愛用者は最初、少数派でしたが、竹 トンボ製作にチャレンジしたくて参加した者は、カッターナイフを持参しましたが、使っ てて、危なさ、効率の悪さから肥後之守に持ち換えていったのです。実際、カッターナイ フで小一時間かけて作れないのを後目に、肥後之守グループは、遅い者でも10分に一個、 竹トンボマイスターの尊称を受けたsnowdogの親友に至っては、毎分一個といってもいい くらいでした。かの竹トンボマイスターの肥後之守は、祖父から譲り受けた由緒正しい名 刀(^^;;で、長年、研いでは使いを繰り返され続けた結果、刃の先の幅広の部分が細くな り、まるで日本刀の短刀の様な形状になっており、伝授された研ぎ方もあいまって、実に 切れ味もよく、愛着を持って使い続けられた証を示すその姿は、肥後之守愛用者達から、惜 しみない称賛を受けたものです。snowdogもその受け継がれた愛情を示す趣には感動を 覚えました。このような愛着を持って日常作業に何十年も使われ続けた道具を悪用する事 がありえるでしょうか?竹トンボマイスターは喧嘩っぱやい気性の持ち主で、まあ、殴り 合いくらいはガキの時はよくやってましたけどね(^^;;。間違っても刃傷沙汰などは起さ ない事は、友人皆が知る所です。腕っぷしが強い訳ではありませんが、強い相手にも正々 堂々と向っていく、遺恨を残さないさっぱりした所は、彼の肥後之守に象徴される、彼の 受けた教育の賜物でしょう。竹トンボマイスターとして尊敬を受けた、慣れない者へまで安 全を慎重に配慮するなどの姿勢は、祖父から受け継いだ肥後之守を持つ故に得られたのでは ないかと、つい思い出してしまいます。ナイフを持たせナイはどうなんでしょう?

 持たせナイでは、snowdogの育った地域では、バイクも持たせナイ、免許を取らせナイ、 乗らせナイの3ナイ運動というものがありました。肥後之守と違い、バイクはお小遣いでは 買えませんでしたから、バイトが出来るようになってから、免許を取り、バイクに乗った のですが、このPTAから目の敵されたバイクですが、snowdogはバイクに乗る事で、車のド ライバーがどれだけ危ないかを実感しました。バイクは、自分の身を守るのは自分の能力だ けで、周囲を良く観察し、素早く対処する事がとても大切です。常に先を読んで行動しなけ れば大怪我をしてしまいます。ストップ力が少ないので、スピードを出す場合は、周囲に気 を配り、雨が降れば、スリップにも気を使います。大きな道路では、車の邪魔にならないと いうより巻き込まれない為に人が飛び出す可能性が高い左端を、すぐ止ったり回避できるよ うに走らなくてはなりませんし、車の後につく場合、前のドライバーから視認出来るように、 前の車のバックミラーの範囲に入らなくてはなりません。その他、様々な事故に巻き込まれ ない習慣が必須なのですが、自家用車のドライバーは、ホントに恐いものです。前の車が急 停止したら、間違い無く追突する車間距離、何かが飛び出してきたら急停止しか出来ない状 況での過剰な速度、雨によるグリップの低下をまったく考慮に入れない無茶な運転、気が大 きくなっているからなのか、他の車などへの無理な幅寄せなど、走る凶器そのものの運転を なさるドライバーが溢れています。バイクで道路を走ると、こうした近寄っては危険な車を 見分けるのも安全に運転する為にとても大切な技術になります。非常に興味深い事ですが、 バイクに過去乗っていた方は、割と、マナーというか、安全な運転をされる方が多いように 感じます。知人の車に乗っていても、バイクに乗っていた方は、結構、わかるんですよね。 助手席に座っていて、不安感が少ない事が多いです。もちろん、そうではない方もいますし、 車だけしか乗ってなくても、安全な運転をされる方も大勢います。ただ、バイクでツーリン グなどが多かった方の方が、圧倒的に車の運転に隙がないように感じます。事故をしないの はあたりまえ、事故に巻き込まれないように注意する癖が付いてしまうからではないかと思 います。そういえば、大型トラックは、プロのドライバーが運転していますが、スピードを 出していても、安全な運転をしている事が多く、バイクに乗っていて周囲にいて信頼出来る 印象が強いのは、同じような考え方、事故を起さないのはあたりまえ、事故に巻き込まれな いように注意する、が、職業意識として訓練されているからかもしれません。
 バイクは乗り手に要求する部分が多く、体も剥き出しですから、ぜひ乗ってみなさいと、 推薦出来る乗り物ではないとも思います。でも、なにげなく安全だと信じて乗っている車 のドライバーさん達が、どのくらい危険な運転をしているかを感じるにはまたとない機会で はないかと思います。車でもバイクでも安全に運転するのに必要とされる能力や技術は同じ です。ただ、異なるのは、バイクで事故をすると、自分が傷つきますが、車は相手も傷つけ ます。バイクで事故をしたら大怪我するから危ないから乗らないとゆ〜人は、もしかしたら、 自分さえ怪我しなければいいのかなと思う事もあります。だって、事故は人災なんですから ね(^^;;。まあ兎も角、バイクに乗って経験できる安全への配慮や社会道徳もあると思うん です。3ナイはどうなんでしょう?必要なのは、事故をしナイではないかなと(^^;;。

 今、巷を騒がせている事故には、ネットが関係しているとか、書きこみがどうとかが騒が れているみたいです。ネットでは誤解の多発や悪意の増幅が起るという論評も多く見うけら れます。でも、そうなんでしょうか?人間の歴史において、コミニュケーションは、結構、 文章で行なわれてきました。様々な議論や連絡など、書簡の占める地位は低いものではあり ません。電話が普及する前、日本では、ホンのちょっと前までは、コミュニケーションの主 体は書簡でした。今だって、重要な事は書類という文字を使ったコミニュケーション手段が 主流です。今回の事故で、もしカキコミが原因だとするなら、snowdogは、フと思い出す話 があります。それは、団地の主婦同士の会話のルールとして解説された言葉です。誰が述べ たのかは、忘れてしまったのですが、なんでも、一番重要な事は自分の意見を言わず、あた りさわりのない天気の話などをして韜晦するのがコツなんだそうです。そういえば、会社の 会議のコツとしても、似たような処世術を伺った覚えがあります。
この会話術というか、言いたい事を言うだけで、相手の話を聞かないのは、会話ではなく独 り言だという会話の定義からすると、会話術ではなく、会話を避ける術だなあとを伺った時 に思いましたが、この時思い出した話があります。これも、誰が述べたのか忘れてしまった のですが、幕末から維新の時期に西洋に留学された方だったと思いますが、西洋では政治的 な敵同士が、同じテーブルでワインを飲みながら、議論を戦わせているが、日本では意見が 異なると、切り合いになる、この文化の落差はどうしたものか、文明開化が必要だといった 主旨だったと記憶しています。幕末に生きた憂国の士の嘆きは、どうも、切り合いという観 点だけから、会話を避けるという技術を磨く事で、改善されてしまったのかしらと思わないでも ありません。憂えた嘆きは、異なる立場や意見を持った人同士が、感情的にならずに、会話 や議論が出来るように日本人もなって欲しいと願っていたように、snowdogは感じるのです が、違うのでしょうかねえ。会話をしナイという方向は如何なものかと思います。もしかし たら、まだ、文明開化は終っていナイのかもしれません。

ナイ話ばかりするのは、お呼びでナイ、こりゃまった失礼〜って事で、古いギャグを思い出し てしまいますが、スイスイス〜ダララッタといきたいものです。

 

snowdog 2004 6/4