話し言葉は、時間的な逆行性は持ち得ません。だって、会話している訳ですから、完全に時間軸に 沿って流れて行きます。となると、掛け言葉などは、表情の変化や調子の変化でいわば、註釈を付け ます。ただ、話し言葉は、時間的に流れてゆくものなので、長い間をとった掛け言葉は受け手側にと って大変ですから、勢い、連続したものになります。話し言葉では、反芻するとか文脈が暗示すると いった技法はあまり向いていないので、むしろ、音の心地良さや調子との釣り合いが大事になります。 つまり、音楽的な側面が重視される訳です。人は、言葉を話し言葉として最初に学ぶのですから、こ の音楽的な側面は、話し言葉の芸術分野では、大変重視されます。
サイタ、サイタ、サクラガサイタ。まあ、最近は保守層などでは、ススメ、ススメ、ヘイタイスス
メになっているようですが(^^;;、ここまで古くなくても初等教育では音読から文字に触れてゆきま
す。そうなると、音読を前提にするので、日本語の音感のノリというか、拍子にあわせて、3、5、7
とかの拍子が基礎的な学習過程では重視される訳です。これを洗練した代表的なものは和歌ですが、
意味合いの美しさも重視されますが、歌と言われるくらいですから、基本的には、音楽的な意味での
美しさ、つまり、音や拍子などが大事になります。和歌を出さずとも、詩というのは聴いて楽しむも
のですから、音楽では当然ですが、音感的な要素を重視して、韻を踏むのは基礎的な手法です。劇な
どの台詞は、当然ですが、こうした音楽的な要素は大変重要になりますから、つまり、音的な美しさ
や拍子の要素が大きいのです。聴いて美しいのは当り前の話です。となると、当然の事ですが、
こうした話し言葉の芸術は、発声や抑揚など、音としての要素に技巧を凝らせたものですから、例え
文字に書かれていても、読む時は頭の中で抑揚やらを思い浮べて、つまり仮想の音読をするのが、当
り前でしょう。音読はまず、最初に習う部分ですからね。例えば、和歌や歌舞伎などの台詞などは、
例え文字で書かれていても、読む時、口に出さなくても、抑揚や拍子などを思い浮べながら読むのが
道理なのです。むろんの事ですが、こうした音読は洗練された技巧がありますから、その芸を知らな
いで音読しても美しさは伝わりません。暫く、暫く、あいや、暫くって歌舞伎の台詞がありますが、
この劇を観たり聴いたりしていないと、音読には支障をきたします。ショパンの名曲をピアノに触っ
た事もない人が演奏したって、美しくないでしょう。詩吟などの稽古事があるのですから、声に出し
てと主張する前に、まず、聞けと主張するべきなのです(^^;;。声に出して運動の賛同者の意見で、
いやあ、日本語は美しいという主旨の事を述べる方もいらっしゃいますが、美しくなるように描かれ
た絵画の作品を観賞して、絵の具が美しいと言われたら、描いた画家は、さぞや落胆と怒りを感じる
のではなかろうかと思います。いきなり声に出してしまえと主張するのですから、まず聞けといった
って聞くような耳は持っていない事も予想されますが(^^;;。
人の言語の学習過程は、話し言葉から始まり、そして書き言葉へと移るのですから、書き言葉での
重層性は、学習の結果ですが、音感などは、言葉を学ぶ以前の問題なのです。動物だって音楽は理解
するのですから、声に出してなんて言われて認識するなんて、あるまじき行動です。植物以下、きっ
と単細胞生物やウィルス並の生物な証拠なのです。
この原始的な生物種なのに人の顔をしている阿呆どもは、よく、歌の歌詞などの不満を述べる事が 多いように感じます。詩などは、話し言葉、つまり音感を重視し、これに意味を加えた総合芸術です から、まず第一に楽器としてのボーカルの味わいを引き出す部分が重視されます。そして、それに付 随する意味を時間軸の流れで触れるタイミングなどが重要なのは当り前です。歌の歌詞の意味を歌の 音楽的な要素を離れて呻吟するのは、歌や詩をまるでコンピューターのように解析するようなもので、 それがいかに不粋な野蛮な事かが分っていないのです。例えば、和歌は歌として音の美しさに伴なっ て、付随する意味を付与した芸術ですが、恋文などの文として書かれた場合、掛け言葉や暗喩などの 書き言葉としての重層性を持ちます。しかし、この場合、あくまでも書かれた物として存在するので、 音より意味合いの重層性に重きが置かれます。逆に言えば、メロディーと伴に歌われる歌は、音とし ての要素が重視されているので、意味合いは付属的なものであり、メロディやリズムとのタイミング などが大変重要なのです。ですから、歌詞カードを読んで何やら意味を解釈する事自体が、その歌へ の侮辱だとゆ〜事が理解されていないのです(^^;;。つまり意味深なメッセージソングなどの存在は 頭でっかちな人の書き言葉の強引な誤用であり、動物としての最も基礎的な話し言葉を感じる事の出 来ない欠陥作品であり、その歌詞を取り上げて云々するのこそ、阿呆の証拠とも言えるでしょう。呻 吟する重層性を持ちたいのであれば、書き言葉で表現するべきであり、それをメロディに載せるのは、 書き言葉、話し言葉の両方の特性を無視した作業とも言えますから、芸術とは縁のない話だとも言え るでしょう。兎角、団塊の世代は阿呆が多いと言われていますが、まあ、その証明みたいなものです ね。ソングで歌詞だけを取り出して論じる事自体に意味が無いのです。メロディが付随している訳で すから、音感が重要であり、意味はこれに附属しているものなのです。であるならば、メッセージソ ングという分野自体が無意味なものでありましょう。まあ、考えてみたら、言葉を使うので、言葉に は意味がありますから、どんな歌でもメッセージが入っているのは当り前なので、どうにも変な単語 なのですが、どうも、このメッセージソングという不可解な名前の歌が存在するらしいようで す(^^;;。これは、最近の和歌や俳句でも同じ傾向が感じられます。詩という分野は、時間軸に沿っ て、つまり反芻出来ない部分を重視して、韻などを踏み、音感や拍子などから、伝えたいコアな部分 を強調する芸術ですから、韻も踏まず、拍子も取らず、ただ、散文的に表現をするなら、散文の形式 を取るべきなのです。それは詩ではありません。これらを無視して、一見和歌や俳句のような形式で も、それは短かい散文であって、詩や歌ではないのです。詩吟して美しくない物は、もはや、歌では ないのは理の当然なのです。
さて、snowdogはラジオが嫌いです。初期のラジオが、テレビなどのような話し言葉での情報が技
術的に届けられなかった為に、特殊なスタイルを取った事は理解しています。話し言葉は、表情や仕
草などで重層性やニュアンスを伝える事は、話し言葉の最も大事な情報で不可分でありますし、だか
らこそ、落語など、話し言葉であっても、そのコアな芸術性は話し手の仕草や芝居が重要ですから、
一見、言葉だけが主体のようでありながら、木戸錢を払って高座にゆく訳です。しかし、
テレビが登場するまでの間、それは不可能でしたから、仕方なく、音声だけで伝えられてきた訳です。
しかし、その技術的な問題が克服されました!。そうです、話し言葉で、芸術性を追及しないのは、
つまるところ、技術的な問題が壁として存在するから容認されてきた訳であって、いわば暫定処置だ
ったのです。音と言葉での芸術性の追及は、テレビという話し言葉を伝えるに相応しいメディアがな
かった為に等閑に付されていたのであって、テレビという表情やニュアンスを伝えるものが出来た時
点で大きな展開をすべきものなのです。話し言葉は、歌舞伎や落語などのように、表情や演技とは不
可分なのは、その発生、つまり会話という原始的なスタイルが基礎であるからこそ、大事なのです。
表情などが伝わらなければ、話し言葉は、情報の欠落が生じるのです。幸い、テレビというメディア
が産れた為に、この分野、つまり会話を元にしたものは、こちらが分担する事が出来ました。そう!
話し言葉の文化は、会話という表情やニュアンスを表現する事で、時間軸の一方的な流れを補完する
本来の姿を保持したのです。つまりトークなどはテレビが主役であり、ラジオは向いていないメディ
アなのです。
では、ラジオは、去るべきメディアなのでしょうか?。とんでもありません!。書き言葉が重層性を
もち、複数の層を持つように、むしろ生物的な根源を持つ話し言葉の文化も奥が深いものです。むし
ろ、テレビというメディアがなかった為に会話的な複合的な話し言葉文化を一時的に担ったのであっ
て、話し言葉文化のコアな部分を追及する手間と時間がなかったと解釈すべきなのだと思います。話
し言葉の文化は、最も根強い部分を持っているのです、そう、その音楽的な側面を重視した部分こそ、
音声で伝えるラジオが担う仕事なのです。身近なトコでは、和歌や俳句などは、ラジオにこそ向いて
いるでしょう。和歌や俳句は、本来、歌で音を重視するのですから、わざわざ、文字に書いてあるも
のを頭の中で抑揚を付けて詩吟するより、詩吟の名手が吟じた方が、優越でしょう。詩などは、韻を
踏み、音感での味わいを重視する分野ですから、ラジオは最も優位にあるとも言えましょう。更に、
日本人にとって、最も身近な語りなどの分野、例えば、講談や琵琶法師による平家物語などの語りは
ラジオの専売特許とすら言えるでしょう。平家物語など、暗闇で琵琶の音と共に吟じられるのは、ま
さにラジオの独断上です。ベベンって琵琶の音と供に語られる平家物語などがあったら、もう、それ
こそラジオならではの美しさであり、音の美しさと琵琶の音に、聞き惚れるのが日本人ってものです。
ラジオは、音の美しさを伝えるのは格好のメディアです。
なのに、なのにですよ!。ご近所の井戸端会議の盗み聞きレベルのモノをラジオは提供しているん です!パーソナリティとゲストの会話を聞くなんて、高尚に言えば、盗み聞きです。会話というのは、 相手の表情などの表現と一体となって成立するのに、そうした表現はテレビで表現されているにもか かわらず、未だに、暫定処置を引きずっているのです!なんて事でしょう!本来の役目を果すべきな のに、それを行なっていないのです!
テレビが存在しているのが当然と思っている我々には、テレビ的なラジオは不可解です。その存在
意義を問うたところ、ラジオはながら勉強しながら音楽を聞くものさと友人に言われて、そうか音楽
かと思って音楽番組をつけてみたら、喋っている時間のほ〜が長いのです。人の声は、人には注意
を惹起する力が強い、まあ、だから言語が成立するのですが、すると、音楽と音楽の合間にガヤガヤ
されると、大変耳障りに感じます。五月蝿い、喋るなあ〜ってなってしまうのです。ここでフと思っ
たのですが、なんでも、車を運転しながらの携帯電話の通話は禁止になり、罰則が適用されるんだそ
うです。なんでも、会話に集中してしまい、運転での集中力が減衰して事故を起す事が多いからなん
だそうです。すると、つまり、カーラジオで音楽以外の喋りがあった場合、当然ですが、注意力が散
漫になっている可能性がありえるでしょう(@.@)。むろん、多くの良心的なドライバーは走る凶器に
車をさせない為に、運転に集中しているでしょうから、退屈している同乗者の為への配慮でラジオを
流しているのでしょうからね(^^;;。眠け防止にといった非合法な意見を聴いた事があったような気
もしますが、眠けを感じて運転をするのは安全義務違反ですから、運転者は休息を取り、運転を中止
しなくてはなりませんから、同乗者がいない場合、音楽以外の要素が強い番組、すなわち喋りの含ま
れる割合の多い、注意を分散させるラジオ番組を運転者が聞く事はありえないでしょう。だって、安
全義務違反ですから(^o^)。
snowdogの経験では音楽を聞きながら、何かをする事は割と楽なのですが、人の声、特に話しが入る
と、どうも五月蝿く感じます。ながらではどうもラジオは向いていないと主張すると、友人はそれは
番組が悪いのだろうと言っていました。そうかと思い、受信機の周波数を変化させたところ、独特の
抑揚と、単語が妙にブツ切りになったハングル語らしき番組があったのですが、音楽すら流れず、ど
うも良く分りません。どうやら、非友好的な国の放送なのだそうですが、なぜ、流れるように喋らず
に、単語、単語、単語といった調子で、しかも同じ内容を幾度か繰り返して放送しているのかも良く
分りません(^^;;。同じハングルを使う友好国の方は、単語をバラして使う風習は無いようなので、
不可解な話ではあります(^^;;。割とリズムを重視する音楽文化を持っているのに変った事ですが、
まあ、なにか前衛的な芸術活動みたいなものかもしれませんね(^^;;。
前衛的な芸術活動は、あまり趣味ではありませんし、音楽を聞くのは好きなのですが、注意のみを惹
起する喋りが入ると折角、音楽を楽しんでいたのに邪魔されるようで、どうも好きではありません。
会話を聞く場合、話し言葉ですから、表情や仕草などが欠落しているのは、どうも忍耐が必要なよう
に感じます。表情の見えない会話を楽しむなんて、かなり倒錯的とも言えるのではないかと思います。
もちろん、倒錯しているからそれが間違っているとは言えません。趣味の問題ですから、好き嫌いの
問題です。語りのように、音感の美しさや情動の変化をもたらすものであれば、聴いても楽しいと思
うのですが、ラジオのトーク番組では、その領域には至っていないように感じます。そして、なぜか、
そのトーク番組が多いようです。そして、snowdogは、目隠されての放置プレイはどうも、好みに合
わないのです(^^;;。ラジオで会話が流れている時、目隠されている故にゾクゾクする人もいるでし
ょうが、snowdogはイライラするのです。どうも、忍耐力が無いんですな、snowdogの場合(^^;;。
まあ、趣味とは深く特別の存在なのですが、だからこそ好き嫌いがあるでしょう。どうも目隠されて
ゾクゾクする域にまでは達っせないのが現実です。苦手なんです、ラジオって(^^;;。
snowdog 2004 11/7