インタビュアー:絵画部会員 丸山 勉
中山忠彦会長に聞く 白日会〈過去・現在・未来〉


丸山:本日は大変お忙しい所、有難うございます。
今回は白日会として初めての試みですが、白日会〈過去・現在・未来〉というテーマで中山先生にお話を伺っていこうと思います。
どうぞよろしくお願いします。


中山:はい、こちらこそよろしく(笑)。

丸山:それでは早速ですが、中山先生が白日会に出品されて半世紀以上になりますが、当時の会の様子はどのような感じだったのでしょうか?

中山:えー、私が白日会に始めて出したのは31回展、昭和29年の事でした。
確かに遥かに半世紀を越えたわけです。当時の白日会は現在に比べますと所属のメンバーも遥かに少なく、リーダーとしては水彩が小堀進先生、洋画の方は中沢弘光先生が晩年ですぐにお亡くなりになりましたので、伊藤清永先生の時代に入っていきます。 彫刻の方は、木村珪二先生がその頃中心となっていたと記憶しています。
なにしろ日展の傘下団体で、光風会、一水会に比べますと遥かに弱小の団体で、まず、日展の審査員が必ず毎年出るとは限らない、芸術院会員が誰もいないというような非常に小さい団体でしかも貧乏な団体でした。
そういう事もあり何とか力のある団体にしていきたいというのが当時の伊藤先生、小堀先生の望みではありましたけれども、非常に長い時間白日会は、もしかするとこのまま閉会しなければならないというような危機がありましたが、何とか出品者の努力でそれを乗り越えて来ました。


丸山:ありがとうございました。
改めて白日会の伝統の重み、先輩方のご苦労が分かります。
さて、最近白日会では20代の若手出品者が増えていますが、先生の20代というのはどのような状況だったのでしょうか?


中山:私は18歳の年の暮れぐらいから伊藤先生の下で絵の勉強をさせてもらいました。
芸大という目標は持っていましたけども家庭の事情で叶わず、伊藤先生が幸い伊藤絵画研究所という洋画の…主にデッサンの研究所でしたけども、その研究所を始めましたために、そこで世話役として(伊藤先生の書生として)研究所に入って先生と共に勉強をさせてもらうようになったのです。
そこで4年程ご厄介になり22歳で独立をいたしました。独立といえば格好が良いのですが、実はそうではなくて、そろそろ自分の仕事を単独で考えて行きたい… 伊藤先生もその様なお勧めでもありました。
渋谷の上原という所に簡単な掘建て小屋、母屋の後ろの方にある10帖の部屋を借りてトイレもガスも水道も無いような所でしたが、ガスと水道は何とか工夫して引いてきましたけどもトイレは無しという状態でした。当時の貧乏生活を知る人は今少なく、白日会を辞めてしまった野田弘君位しか記憶に無いと思いますが、何しろ床から竹の子は生えてくるし、雨が降れば危うく浸水しそうになるし、天井は手を伸ばせば届くという生活でした。
それでも、とにかく制作する空間があるという事に関しては我王国でもありました。
当時は野田君達とアルバイトをしながら生活を繋いでいました。
また、一年に一回、白日会が終わった頃に一ヶ月ばかり郷里に帰り支援者の紹介で肖像画を依頼者の家に泊まりこみで描いたりという事がその後の1年間支えの幾らかには役にたったと思います。
貧乏生活においては時間貴族で時間だけは充分にあったんですが、資金難と申しましょうか、非常に辛い思いをしましたから、年間を通して大きい作品は白日会と日展の2度描くだけでした。ただ苦しい中で中でも色々な工夫をしてアルバイトで使い古したキャンバスに下塗りをしてもう一回使うというよな工夫もしましたし、そのキャンバスで100号、300号という大きさの作品まで何とか描いて仕事を続けてきたような状態でした。

丸山:群像のシリーズなどがその時代にあたるのでしょうか?

中山:そうですね。
群像のシリーズですが、裸婦は伊藤絵画研究所時代にクロッキーをしたスケッチブックがたくさんありましたし、モデル代ができればプロのモデルを頼んでデッサンをしました。 日展は一人もしくは2人の組み合わせの裸婦を白日会は大作の裸婦の群像を10年近く続けて描いておりました。

丸山:大変貴重なお話ありがとうございました。
制作において貧しさというのは絶対的な言い訳にならないという事が分かりました。どのような状況でも諦めず努力する大切さを学ぶ事ができた気がします。
さて、次は白日会の現在と未来についてお伺いしたいと思います。


中山:白日会が非常に貧しい状態の中から一つの転機を迎えましたのは、今では中興の祖と言う風に考えられます伊藤清永先生と私どもの話し合いの中で、「若い世代に対して力を注いでいこうではないか!」、つまり「若い世代が育っていかないと将来はないのだ。」という考えの基に明日の白日会という会をつくりまして。 その明日の白日会から現在に繋がる白日会の隆盛を迎えた今日の人材が生まれ育ってきた訳です。
プロの作家を目指そうという人達を特に選抜して毎年開かれているこの展覧会は、白日会の将来を占う非常に大事な展覧会になって来ました。 その中から既にもう多数のプロの作家達が輩出され、白日会を今後支えてくれる大きな力になると、私は考えております。

丸山:今年の白日展は上野で最後の展覧会になりました。
その長い歴史を振り返りながら先生のご感想をお聞かせください。


中山:上野で白日会が最初に開かれたのが、大正13年の震災の後でした。
それから、83回展で上野にピリオドを打って84回展から六本木にできた国立新美術館に移る事になりました。上野を去るのに忍びない事情もいろいろありましたけれども、今後の白日会の新しい展開を目指すためには、会場を新たにして、あの大空間の中で自分達の作品がどういう風に見えるかという事も楽しみの一つです。
まだまだ未知数ではありますけれども、今後に向けて白日会が大きく羽ばたくためには、新しい会場が是非必要です。 あの広い大きな壁面の中で自分達の目指している「写実」というものがどういう風な将来に向かえば良いか、願わくば、「写実の殿堂は白日会である。」という時代をもたらす大きな動き、飛躍の場になれば幸いだと思っております。

丸山:ありがとうございました。
それでは、先ほどもお話に上がりましたが、7月に銀座松屋で行われる「明日の白日会」に関して何かメッセージがあればお願いします。


中山:先程も申し上げたように、明日の白日会は正に次の時代の母体という事になって、これが将来へ繋がる非常に大きなルートになって行きます。 その為に、ここで育った作家達、そこを卒業してプロの作家として活動している人達には、彼らこそ、その次の世代を背負う責任を伴うわけですね。 その事の自覚を強く持って、自分の仕事ももちろんですが、会あるいは世代というものに対する次への目線を確かなものにしてもらいたい。
自分達が作家になればそれでいいんだという無責任な事ではなくて、我々の知らない先輩が、あるいは我々が築いてきたこの世代の継承という意味から考えていきましても、自分達の後輩を育てる義務が、あるいは責任があろうかと思います。 その事を十分自覚して欲しいと考えております。

丸山:あらためて今日の美術界における公募展の意義、必要性が先生のお話の中から見えるてくる気がします。
最後に、白日会は日展傘下団体のなかでもどのような特徴があるのでしょうか?


中山:白日会はかつての日展傘下団体から、非日展グループを交えた、一見、二派に分かれているようにも見えますが、非常に良くバランスのとれた、互いに切磋琢磨し合う人的構成になっています。 そのため若手も先輩達の活躍を見て自然と集まる良い流れになっているようです。 特に、これから作家を目指す若い人には失敗を恐れず、めげず、諦めず何度でも白日会にチャレンジして欲しい。その気持ちの強さが将来の自分にとってかけがえのない財産になるという事をどこか心の中に持っていて欲しいと思います。


丸山:本日は長い時間ありがとうございました。
中山:はい、こちらこそ(笑)