〈竹内 健/神字論より〉 ※敬称略。以下同じ。 |
●28才にして「阿妄書」を公にして以来、この40年間で篤胤が執筆した著作はめくるめく多岐に亘り、無数の点数にのぼっている。古神学、歴史学、歌学、民俗学などの |
分野は言うに及ばず、鬼神学、暦学、医学、易学、数学、にさえ至っている。(語学、地理学、博物学さえも)このような間口の広さは師の本居宣長さえも遠く及ばない |
であろう。実は、このような篤胤の著述分野の間口の広さは彼の目指す所が宣長とは本質的に異なっていたことを示唆するものである……。 |
→宣長は古史を明快に解釈することはあっても、あるいは稀に曲解することはあっても、自分なりに古史を創り出すわけではない。彼の『古事記伝』は、古史注釈史の中 |
でも金字塔というに相応しいが、にも拘らず、それは新しき神代史の創造では毛頭なかった。 |
●われわれが地理的に孤立した条件の中で長々とかかって築き上げてしまった異形の文化は将来においても決して世界性を所有することはあるまい……平田神学とはこの文化 |
から最も先鋭的な材質を抜き取って構築した宇宙秩序を統べるべき伽藍であり、巨大な虚構である。……ひたすら物のあわれの中に自己と世界のとの関りを見ようとした鈴屋 |
一門の国学者たちには、この伽藍のめくるめくきらびやかさが鼻持ちならなかった。ごく形而下的な営利と権力の把握にのみあくせくしていた当時の神道家たち、たとえば |
吉田家にとっては、それは愚劣きわまりない瓦礫の山と思われた。このような中で、篤胤の大きさを認識したただひとりは、ほかならぬ江戸幕府であった。類い稀なる嗅覚を |
そなえているということでは徳川幕府の右に出るものはいまい。数百年間培ってきた持ち前の鋭い嗅覚は、遅ればせながら三人扶持のこの老国学者の中に、恐るべき毒性を |
嗅ぎとったのである。天保5年にはまず尾張藩が彼の扶持を召し上げ、同12年には著述を禁止し江戸を追放した。(この時点で門弟は宣長を上回る553人を数えた) |
●貧困の中で何かを書くことは出来る。だが、貧困の極にありながら、しかも日ごと、神々の綾なす世界を、古史をたよりに精密に大胆に仮構してゆく作業は、それほど容易い |
仕事ではあるまい。一方において飢餓というのっぴきならない被害者状況が厳然とありながら、他方において、太古からもつれにもつれた神々と天皇の系列を実に理性的に |
編んでいき、近くは山河草木から虫や花にいたるまで、遠くははるか数億年の星辰の世界に至る途方もない大系図を作成すること。 |
それが可能であった例は洋の東西を見渡してもそれほど多くはあるまい。 |
●篤胤の「神世文字の論」は、戦後の史家が嘲笑って言うところの「狂信的な国学者の根も葉もない捏造」などではない。一歩譲って、よしそれが捏造であるにしても、 |
一体「根も葉も」ある神話というものが存在するだろうか。神話の創生とは、人々の時空を超越した祈願の謂である。 |
あ |
〈上田 正昭/座談会「新国学談」〉 |
●平田篤胤という人は国粋主義者という一面のみがクローズアップされてきたが、実は、折口 信夫は彼を民俗学者としての草分け的存在だとまで高く評価していますよ。 |
あ |
〈折口 信夫/講演「平田国学の伝統」〉 |
●篤胤先生といふ人は、果たして世間の人が見ているやうに、始終貧乏たれた風をして、水洟を垂らしながら偏屈なことを言って、怒りっぽく、まづい物ばかり食べて |
暮らしていた人、何か恐ろしい浪人をば感ずるやうな人、さういふ風に篤胤先生を受け入れていいかどうか、其れだけは私は違ふと思ひます。どうも篤胤先生の学問は |
もつと広い気風を感ずる、何か非常に大きい、広い掌を以て、学問の徒弟をば愛撫しているやうな感じがします。 |
●先生といふ人は『俗神道大意』といふ本を書いていながら、天狗の陰間みたやうな子供を捕まえて、一所懸命聴いて、それを疑っていない。事細かしく書いている。 |
篤胤先生の学問も疑わしくなるくらい疑わずに、一心不乱に記録を作っている。さういう記録になると篤胤先生の文章がうまい。議論になるとこだはって、読んで |
いて辛いやうな気がしますが、さういう平易なものになると非常に楽で、名文です。 |
〈折口 信夫/講演「先生の学問」〉 |
●(柳田)先生の学の初めが、平田学に似ているといふと、先生も不愉快に思われ、あなたがたも不思議に思われるかもしれません。けれども、、今日考へてみるに |
平田篤胤という人は、非常な学者です。学者になる前の生活が悪すぎたと思ふ。実際は非常な読書家であり、大学者であり、しかも出来るだけ、新しい知識をとり |
入れようと集慮していた。集慮し過ぎていたという感じが深い。日本の神に就いても、之を出来るだけ知ろうとして、合理的な態度をとり過ぎた。だがあれだけ |
方法を具へてかかった神道の研究家は、国学者の中には少ない。(中略)柳田先生の「後狩詞記」「石神問答」「遠野物語」の出る前にも、仙人の事などに先生が |
興味を以て居られるというやうな話を終始聞いていました。(中略)決してその行き方を等しくしていられなかったことは、後にはっきりしましたが、とにかく |
平田翁の歩いた道を、先生は自分で歩いていられたことも事実なのです。 |
あ |
〈「明治維新と平田国学展」プロジェクト委員会〉 |
●平田篤胤は、伴信友とならぶ江戸での古代研究二大巨頭であり、両者の密接な交流は多くの平田家文書が物語っている。さらに「群書類従」をはじめ、和学・ |
国学に関する幕府編纂方の実質的責任者・屋代弘賢が篤胤を信頼し、一貫してブレインとしていた。そのような江戸での学術サロンの実態を物語る諸資料が… |
あ |
〈沖野岩三郎/「迷信の話」〉 |
●彼が46才の文政4年3月13日に、彼の宅に佐藤信渊、屋代弘賢、伴信友、國友能富等が集まって神童虎吉から、豆つ魔の実見談を聞いたことがある。 |
豆つ魔とは身の丈一寸ばかりの小人で、その小人が人間と同じ鎧兜で……(←篤胤の評価ではないが、この知識人のネットワークを見よ!) |
|