魔法のステージ ファンシーララ


コラム

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 最近の作品は、物語に決着をつけずに終わるのがはやりなのか? 山あり・意味あり…なのに落ちなしという作品が目についてしかたがない。
 そういった作品群の中で、特にこの『ファンシーララ』について問題視して見たい。

 先に述べておくが、この『ファンシーララ』という作品がいつもいつも落ちを省略しているわけではなく、どちらかというと最近の作品では珍しく、まともに正面切って『魔法少女もの』を描いている作品であると認識している。
 それゆえに気になってしまったのだ。

 さてその問題の話というのが『チビ猫リルと魔法のひみつ』である。
 お話自体はこうである。
 スケッチする事でそのものを実像化する魔法で、服以外のものを現出する…なくしたお姉ちゃんのコンパクト、アイカワヒロヤの音の入ってないCD、フィルムがないカメラ、そしてチビ猫のリル。
 しかし、現出当初は命なき置物であったリルは、月の光を浴びて命を得る。しかもそのリルのしぐさが、小ささもあいまって『完璧な小猫』していたため、それが魔法によって産み出された生命という事を忘れてしまう。
 仕事先でもらえなかった小猫の代わり、どこにいてもわかるようにと着けた鈴付の首輪、ドアのすき間から外へ出て行き迷子になって…雨の中一所懸命探すみほ。一緒に過ごすほどかけがえのない存在になっていく。
 そうこうするうちにララのお仕事があり、インタビューでリルのことを嬉しそうに話すララ。仕事を終えいつものようにみほに戻る…「ぶかぶか」。その呪文と同時に消えていく、コンパクト・CD・カメラ、そしてリル。リルにご飯をあげるため帰ってきた部屋には、リルにあげた首輪だけが残されていた…。

 これまでにも結末を描かない事で、その物語の決着を観客にゆだねる…と言う作品は多く存在する。しかし、このリルの結末はそれとは全く違うものではないか。
 本来であれば、魔法が解けることによっていなくなってしまったリルに対して、みほの反応をきちんと描くべきではないのか? 魔法で命を作り出した結果に対して、真摯に受けとめ、生命を創造する事に対するタブーを、みほは認識する…と言う描写をなぜしなかったのか?
 つらい結末であるがあえてそれを描く事で、みほにとっての成長がうかがえるわけだし、魔法のひみつも明らかになる。しかし、この作品ではそれを逃げてしまった。せめて次回の冒頭で、落ち込んでいるみほ(またはララ)を描くんであればまだましだったが、そのことはきれいさっぱり忘れ去ったかのような展開。本当にみほは、リルとの別れに対して何も感じなかったんじゃないか…とさえ思えてしまう。
 『華麗なるせ〜ちょ〜』…所詮はかりそめの成長でしかないその呪文が、実際に作品の、キャラクターの、かりそめの成長でない事を祈ろう。

 物語の全体(それはシリーズ全体でもあり、その回毎の全体であり)を見渡し、時間配分や話の展開を見据えた作品を作ろうとする姿勢が、最近希薄に思えてきてしかたがない。ありきたりの王道をただ並べるだけの作品、結末を作れず解決に至らない作品、ただ描写するだけにとどまっている作品、明らかに商品展開を考えた一部の層むけに媚びる作品。などなどなど…

 私は、最後までちゃんとしたお話が…見たい。

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