「悪いけど、退部するから」
 クリスマスも間近に近づいた、とある昼休み。
 身体的に――それ以上に精神的に参ってしまい、保健室で休息していた私に追い撃ちをかけるように、彼女は半ばテーブルにたたきつけるようにして、私に退部届を差し出した。
 「ああ……そう」
 何の感慨もなしに、極めて素っ気無くそれを受け取った私の態度に、彼女はそのプライドを傷つけられたのか――キッ、とこちらを睨みつけると、サッと踵を返して保健室を後にする。
 「津田さん……どうしたの?」
 ぼうっ、と彼女が出て行った先を見つめていた私に、その場に居合わせた先生が遠慮がちに声をかける。
 「………」
 言外に含まれた、「あんなに仲がよかったのに……」という言葉。私はそれに応えることもなく、退部届とそれに添えられた手紙を開くこともなく、胸ポケットの中にしまいこむ。
 ――深いため息しか、出ない。


 それより、3ヶ月あまり前のこと。
 文化祭を翌月に控え、どの文化部もその準備に追われ、極めてあわただしい雰囲気の中、部室の入り口でこちらを睨みつける彼女――津田涼子と、私は対峙していた。
 「――あえて言うけど、今がどういう時期かっていうのは、あなただって知ってるわよね」
 「ええ。文化祭間近の、とても大事な追い込みの時期……そう言いたいんでしょ?」
 既に喧嘩腰になっている涼子に、つとめて冷静を保ちながら、私は軽く頷く。
 「じゃぁ、今、ウチがどういう状況になってるかぐらい、知ってるでしょ? たまにはここで仕事をしたらどうなの」
 ピン、と張り詰めた空気が、部室の中に充満している。
 普段部室に来ない上に、今も嫌々ながら作業をしていた下級生や同級生が、息を潜めて成り行きを見守っているのが分かる。ここで引き下がっては、せっかく部室に顔を出した彼女たちが一斉にやる気を無くしてしまうであろうことは目に見えていた。演劇部と掛け持ちをしていて、なおかつ部長と仲がいい――それだけのことで、涼子が特別扱いされている、という声ならぬ声を、これ以上見過ごすわけには行かないのだ。
 「――それに、ここに荷物だけを置いて演劇部の練習に行くなんて、一体どういうつもりなの。下校時間になるまで戻ってこないんだったら、ここに荷物を置くような真似はやめてよね」
 「だって、しょうがないじゃない。私は役者だから、演劇のほうの練習も出なきゃいけないし――」
 「涼子」
 言い訳しようとした彼女を、私はかなりきつい口調でさえぎる。
 「演劇が忙しいのも分かるけどね――それを理由にして部室に顔を出さないのを見過ごすわけにはいかないの。もし、まだこういう中途半端なことをやろうっていうのなら――当分、部室には来なくていいわ」
 ――涼子にしてみれば、それは突然の最後通告だったのかもしれない。
 険しい表情でこちらを睨みつけていた涼子の顔に、サッと赤味がさす。
 そして。
 彼女は無言のまま、部室を後にした。
 バタン、と、部室のドアが荒々しく閉じられる。
 後に残ったのは、張り詰めた静寂と、椅子の上にへたり込むように座った、私。
 「……涼子がものすごい顔で歩いていったけど、何かあったの?」
 不思議そうな顔で部室に現れた理沙に対して、私は何も答えることができなかった。


 「そんなこともあったっけねー」
 涼子が屈託のない笑みを浮かべながら、紅茶をすする。
 久しぶりに――それこそ、2年ぶりに見る、彼女の笑顔。
 あの後、私たちは和解することなく、卒業の日を迎えてしまっていた。
 進学先が実家から遠く離れていた私は、高校を卒業してすぐに一人暮らしを始めていたし、それは涼子も同じだった。
 それが――どういうめぐり合わせだろうか。
 春休みの為に帰省し、商店街をぶらぶらしていた私に、突然、涼子が声をかけてきたのだ。
 「久しぶり!」
 そう言って、ポン、と肩をたたいた彼女の表情はとても晴れやかで――身を硬くしてしまった私とは、ひどく対称的だった。
 それから、自然と高校時代に通い詰めていた喫茶店に足が向き、今の状況がある。
 どちらからというわけでもなく始まった昔話に花を咲かせ、そして、近況を語り合う。
 そして。
 「……ゴメン、そろそろ行かなきゃ」
 そう言うと、彼女は傍らにおいていたボストンバックに手をかける。
 「もう?」
 「うん。まさか、ココで薫と会えるなんて思っても見なかったから……ちょっと、時間をロスしちゃったみたい」
 「そっか……ゴメン、ね」
 「何言ってんの、薫らしくない!」
 一瞬、ポカン、とした表情で見つめた私を、涼子は「えへへ」と照れ笑いにも似た笑みを浮かべる。
 「ホントは、帰ってきてから、ずっと探してたんだよね、薫のコト。結局、あれから仲直りできないまま卒業しちゃったし、……今年を逃したら、次はいつになるかわからなかったし」
 「次、って……?」
 「私、東京に出るんだ」
 「東京?」
 「うん。ホラ、言ってたじゃない? 短大を出たら、東京に出て女優になる、って」
 それは、知っていた。
 だから、涼子は部活――演劇部の方だ――に対してものすごく真剣だったし、進学したのも、芸術系の短大だった。
 「で、ね。ここ1年くらい、ずっと劇団のオーディションを受けてたんだ。最初は、一次試験にすら通んなかったけど……ついこないだ、採用通知が届いたの」
 「それじゃぁ、劇団に?」
 「うん。全っ然マイナーな劇団だけどね。学校の先生も「あそこはやめといたほうがいいんじゃないか?」って言ってたけど、でも、せっかくのチャンスだし……東京に行くことに決めたの」
 「そっか……それで、そんな大荷物を」
 力強くうなずいてみせる、涼子。
 「……ね、薫は、忘れてないよね?」
 「え、何を?」
 「もうッ! なるんじゃなかったの? 作家に。だから、あんなに部活をがんばってたんでしょ?」
 「………」
 涼子の言葉に、私は思わず口をつぐんでしまう。
 確かに、私は作家を目指していた。作家になるのが夢だと、涼子に打ち明けた覚えだってある。
 だが。
 その夢は高校を卒業すると同時に、綺麗に消え去ってしまっていたのだ。
 己の才能のなさ――それを、いやというほど痛感したからだった。
 「だめだよ、諦めちゃ」
 そういう雰囲気を察したのか、涼子はピン、と、私の鼻頭をはじく。
 「夢は見るものであるのと同時に、実現するものだ――そう言ってくれたのって、薫だったでしょ?」
 「………」
 「実を言うとね。短大での2年間、何度も学校をやめようと思ったの。でも、その度に、私はその言葉を思い出して、ココまでやってきたの」
 ニィ、と、涼子は笑みを浮かべる。
 「薫と会ったときに、「そんな夢、諦めました」っていうのが、すっごい格好悪いな、と思ったんだ。だから、何度もオーディションを受けて、やっと、劇団にももぐりこめた。「これで薫と会ったときに、格好悪い思いをせずにすむ」って、とっても嬉しかった。……だから、ね? 私は、薫に夢を諦めてほしくないの。私の前で、格好悪い思いをしてほしくないの」
 「………」
 「薫なら、まだ間に合うと思う。何故? って言われると困っちゃうけど……でも、ホントに、薫ならまだ間に合うと思うんだ」
 これまでみたことのない真剣な表情で、熱っぽく語りかけてくれる、涼子。
 「才能って言うのはさ、本当はあまり関係ないんじゃないかと思うんだ。確かに、ないよりはましだと思うけど。でも、本当に大切なのは、「逃げない」ってことだと思う。今の薫は、夢に挑戦する前に、自分から逃げてしまってる。それじゃぁ、駄目。いくら夢があるって言っても、それじゃぁ夢は夢で終わっちゃうよ?」
 「………」
 それは、分かっていた。
 努力もせずに才能だけでうまくいくほど、世の中は甘くない。まして、才能のない人間が努力を怠っては、うまくいくはずがないのだ。
 分かっていたはずだが――この2年間、私は努力することを最初から放棄していた。
 涼子が言うとおり、逃げていたのだ。
 そして、それは紛れもなく、自分が傷つくことを恐れていたから。
 「……ねぇ、薫。本当の本当に、作家になれなくていいの?」
 自分のことのように思ってくれている、涼子。
 その瞳を見た瞬間、私は口を開いていた。
 「……なりたいよ……私……やっぱり、作家に、なりたいよ……!」
 視界がぼやける。
 知らず知らずのうちにあふれ出る、涙。
 熱い、熱い涙。


 その涙の向こうで、涼子が微笑んだように思えた。


 「それじゃ、そろそろ行くね」
 春の日差しがやわらかい、駅前の広場。
 ボストンバックに詰め込めるだけ詰め込んだ大荷物を抱えながら、涼子が手を振って見せる。
 結局、涼子は私が落ち着くまで、一緒にいてくれた。
 「まさか、泣かせる羽目になるなんて思いもしなかった」
 そう言いながら、彼女は笑っていた。
 これから夢に向かって大きな一歩を踏み出す、彼女。
 そんな彼女の笑顔がこの上なくまぶしく見えたのは、決して気のせいではないだろう。
 「がんばってね」
 「薫も、ね」
 もう一度大きく手を振ると、彼女は改札口の向こうへと、消えた。


 一度も、こちらを振り返ることなく。


-fin.-
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