「頑張ってるじゃん?」
 彼女がそう言って、ポン、とあたしの肩をたたいたのは、どれくらいぶりだっただろうか。
 「薫……」
 年明け早々、棚掃除で汗を流していたあたしは思わず手を休め、傍らに立った彼女の顔を見つめる。
 久しぶりに見た彼女は、ニッ、と、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。



 「お疲れ様でーす」
 一声、そうかけてから、あたしはバイト先のコンビニを後にした。
 店を移ってから、早一ヶ月。
 コンビニのバイト自体は始めてからもう1年半がたつが、それでも系列が違うと、やはり、いろいろ細かい部分で違いが出てくる。前の店と、今の店。その細かな違いにも、ようやく慣れてきたところだ。
 「それにしても、理沙がコンビニで働いてるなんて、ちょっと想像つかなかったな」
 「そう?」
 「うん。ほら、知らない人にはとことん無愛想だったじゃない? 人って、変わろうと思えば変われるもんだなー、って」
 「なーに言ってんの。これでもコンビニ暦は1年半よ」
 意外そうな顔つきで呟く薫に、あたしは自慢げに答える。
 「営業スマイルもばっちりだし、って?」
 「もっちろん。『いらっしゃいませ、こんにちは』ってね」
 「あ、声まで変わってる。筋金入りだね、それは」
 きゃらきゃらと笑う薫に、あたしもつられて笑い声を上げる。
 「……それにしても、久しぶりだな、薫が笑ったのを見るのも」
 「そうだっけ?」
 懐かしそうに言ったあたしに、薫はこともなげに答える。
 「うん。あれ以来だよ、きっと」
 「そっか……もう、ずいぶん会ってなかったしね〜」
 少し遠くのほうを見つめるようにして、彼女が呟く。
 そう。
 あたしが、彼女の笑顔を見るのは、あの時以来のことなのだ。


 「……涼子がものすごい表情で歩いていったけど、何かあったの?」
 不思議そうに尋ねたあたしが最初に見たのは、呆然とした表情で椅子に座り込んだ、薫の姿だった。
 何か、あった。
 それは、腑抜けてしまったような表情で座っている薫や、一様に顔をこわばらせている同級生や後輩を見て、すぐに分かったことだ。
 「……薫?」
 なんとなく、部室に入るのがはばかられたあたしは、開け放ったままの入り口で、遠慮がちに尋ねる。
 張り詰めた、静寂の中。
 もう一度、あたしは彼女の名を呼んだ。
 「……え? あ、ああ……何?」
 ハッ、と我に帰ったような感じで、薫は答える。
 「……原稿は大丈夫なの?」
 あたしは思わず、何の関係も無い質問を発していた。
 「ああ、原稿……ね。もちろん、大丈夫よ。私の分はちゃんと仕上がってるわ」
 「そう? だったらいいけど」
 勤めて平静を装って部室に入り、あたしは散らかった机の一角を片付け、作業場所を確保する。
 チラリ、と薫のほうを見ると――彼女は心ここにあらず、といった状態でワープロに向かっている。
 「あ」
 タイプミスをしたのか、彼女は短く声をあげる。
 いつもは小気味よいリズムを刻むタイプも、今日ばかりはそれと分かるほどにたどたどしい。
 「……代わろうか?」
 何度かそういったことを繰り返した後で、あたしはため息をつきながら、そう尋ねていた。


 それからというものの、彼女の原稿はどれもこれも暗い、暗い内容のものばかりだった。
 笑うことも無くなったし、保健室で休んでいるところを見かけることも多くなった。
 そしてそのまま――卒業の日を、迎えていたのだ。


 「そういえば、見たわよ、ホームページ」
 「あれ、教えてたっけ?」
 近くのファミリーレストランに入り、席につくなり切り出したあたしに、薫は不思議そうな表情で尋ねた。
 「ううん。ついこないだ、五月先輩に会ってね。その時に、URLを教えてもらったの」
 「そっか、そうなんだ」
 うなずく、薫。
 「で、どうだった?」
 「どう、って?」
 「感想。BBSには、書き込んでなかったよね?」
 興味津々、といったふうに尋ねる彼女に、あたしはおもわず笑みを浮かべる。
 「うーん……ああ、薫がいるな、って、そんな感じだったな」
 「私がいる?」
 「そ。なんていうのかな……小説だとか、詩だとかいうのには、書いた人が今どういったことを考えているのか、とか、どういったことを感じたのか、っていうのがにじみ出てくるじゃない? そのにじみ出方が、薫らしいな、って」
 「そっか……中宮先輩も、同じことを言ってたなぁ……」
 「へー、五月先輩も?」
 うなずく薫。
 「……それにしても、どうしてまた書き始めたの? 五月先輩も不思議がってたけど」
 「うーん……曲がりなりにも、夢をあきらめたくなかった、ってとこかな」
 エヘヘ、と、薫が照れを隠すような笑みを浮かべる。
 「それに、涼子と約束したの」
 「……涼子、と?」
 「うん。今年――いや、去年か、もう。去年の春、偶然涼子に会ったんだ。それでね、言われちゃったんだ。『夢をあきらめちゃ駄目だ』って」
 「夢?」
 尋ねたあたしに、彼女はうなずく。
 「ほら、涼子、言ってたじゃない。『短大を出たら女優になるんだ』って。それをね、彼女、実現したんだ。今はまだ、舞台の端に出るか出ないか、らしいけど」
 「………」
 「私が会ったのは、ちょうど東京に出る日だったんだけどね。そこで言われちゃったんだ。『夢は見るものでなくて、実現するものだ――そう言ってくれたのは、薫だったじゃない』ってね。
 それで、泣いちゃったの、私。なんだか、自分が情けなくって。それで、もう一度書き始めよう、って思ったの。
 最初は何を書こうか、ってホントに迷ったんだけど……そのうち、悩んだって仕様がないか、って思ったのよね。そりゃぁ、書くからには誰かに読んでほしいし、ホームページを立ち上げるからには、アクセスカウンタがどんどん回ったほうが嬉しいんだけど……でも、私、そんなことのために書くわけじゃないんだ、って思いなおしたの」
 一旦言葉を切って、薫は湯気の立つコーヒーを口に運ぶ。
 「私が今考えていること、感じていること。それを私なりの形で表現するのが一番大事なことなんだ……ってね。その私なりの形が、書くことだった、ってわけ。だから、嬉しかったな。私のホームページに、私がいるってことを、感じてくれる人がちゃんといるんだ、って知ったときは」
 「なるほど、ね……」
 うなずく、あたし。
 笑顔が戻っただけではない、何か、大きなものが吹っ切れたような印象を彼女から受けたのは、そういった、「今、やりたいこと」をやれている喜びからきたのかもしれない。
 「今やりたいことを、やれてるんだね、薫は」
 「うん……そう、なるかな」
 誇らしげに、薫はうなずく。
 「……ねぇ、理沙は、やれてる? 自分が今、一番やりたいこと」
 「……さぁ。分からないわ。今、自分が何をしたいのかさえ、よく分からないもの」
 尋ねた薫に、あたしは自嘲気味に答える。
 「そっか……じゃぁ、一緒に書かない?」
 「え……っ?」
 思いもかけない言葉に、あたしはまじまじと薫の顔を見つめる。
 「書こうよ。もう一度、一緒にさ。そこから、やりたいことが見つかるかもしれないでしょ?」
 「今やりたいこと、か……それも、いいかもしれないな」
 呟いた私に、ニッ、と、薫が微笑む。
 「決まり、だね」
 うなずく、私。
 「よろしくね、薫」
 「こちらこそ」
 笑いあって、あたしたちはコーヒーのカップを乾杯、とばかりに触れ合わせる。


 久しぶりに見た、彼女の笑顔。
 それは、あたしの中にあった、もやもやとしたモノを吹っ切るためのきっかけになってくれるかもしれない。
 そんな期待が、あたしの中に芽生え始めていた。
 あたしが、これから書く理由――それは、やりたいことを見つけるため。そして――不安を、吹っ切るためなのだ。
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