「すみませーん、蕎麦の水割り一つお願いしまーす!」
「おいおい、そんなに飲んで大丈夫か?」
幾杯目かの焼酎を軽々と飲み干して、グラスをテーブルに置くや否や、次の一杯を注文する彼に、その場に居合わせた誰もが、目を丸くした。
酒が入ると、ガラリと、性格が豹変する。
こうした、多人数で飲み会にほとんど出たことのない私にとって、一つのよくある体験談としてしか知りえなかった出来事が今、こうして目の前で繰り広げられつつある。
「但馬がここまではじけるとは思わなかったなぁ……」
誰かがボソリ、とぼやいた言葉に、私達はただただ、うなずくばかり。
「何か、言いましたかッ!?」
「何も言ってない、言ってない!」
すぐ隣にいた友人に絡み始めた彼――但馬君は、もはや。
完全無欠に、酔っていた。
教育実習、最終日の夜。
無事に実習を終え、必要な書類の提出も全て終えた私達は、一度着替えを済ませた後で、居酒屋に集まっていた。
着替えを済ませた後――つまり、普段着で集合ということになったのは、6時近くに退校した後、8時45分に集合、9時開始という時間設定のせいもあったが、何より、スーツ姿で飲みに行く、ということに、皆が抵抗を覚えたからだ。
実習後の打ち上げくらい、「制服」を脱いで行こう。
そういう思いが、あったのだろう。
それで、学校から直で集合した二人を除いては、全員私服で集合したのが8時40分頃。
母校でもある実習校を卒業してから既に3年半余りが経過しているのに、いまだに高校時代に厳しくしつけられた「5分前行動」が抜けていないことに、皆苦笑いをしながら店に入り――そして、今の状況がある。
「参ったな……こりゃぁ、はじけ損ねたかな?」
「……だね」
隣で呆気に取られながら呟いた、「同僚」――篠原君に、私は何度もうなずいた。
「……よほど、高階さんから絞られたのかな? あの人も、常に一言多い人だからね」
「……かもね……」
高階さん、とは、但馬君の担当教師をしていた女性教師のことだ。
飲み始めてすぐに、「ネタ」として彼が披露した話を聞く限りでは、かなりきついことを言う先生であるらしい。
私は何度か職員室で但馬君と話しているのを見かけただけだったが、なるほど、確かに「そういった」雰囲気をもつ先生では、あった。
「まぁ、分からんでもないけどねー。俺も、高階さんと大喧嘩やらかしたことがあるし」
「大喧嘩?」
「うん。俺が3年の時に、ね。図書委員会をやってるときだったかな、あれは」
目を丸くして尋ねた私に、彼はうなずき、遠くを見つめるような目で答える。
「……詳しいことは忘れたけど、さ。何か、彼女の中で気に入らないことがあったんだろうね。それで、とんでもない形相で食って掛かってきてねー。俺、委員長やってて、委員会の進行をやってたものだから、委員会そのものがストップしちゃった」
「それで、どうなったの?」
「当然、俺の負け。理路整然と完全無欠の正論吐いてくるもんだから、太刀打ちなんかできやしない。さすが国語の先生だなー、と思ったけどね、そん時は」
「へぇ……そんなことがあったんだ。ちょっと、意外かも」
「意外かね? まぁ、あのときの俺は今より性格とがってたからねぇ……」
苦笑いを浮かべながら、彼は焼酎を口に運ぶ。
自分で注文した割には口に合わなかったのか、すぐに、彼は顔をしかめた。
「……そんな感じだからさ、但馬がああなるのも、別に不思議じゃないと思うよ」
「そっか……そうだね」
想像以上の多忙さと、予想外の重圧。
今夜のこの席は、二週間余り――正確にいえば、十日間なのだが――の間、そういったものにさらされ続けてきた末の飲み会である。
はじけない――騒がないわけにはいかない、何かがあった。
そしてそんな中、私と篠原君は、というと。
見事に、その波に乗り遅れた――そういう、状況だった。
「それにしても」
しばらく無言でグラスを傾けていた彼が、そういって口を開いたのは、ようやく焼酎を飲み終え、次に注文した杏露酒を手にした時のことだ。
「高校時代に顔を合わせてたとしても、こうして話をしてたりなんかしてないだろうな、っていう面子だね、これは」
「……そう?」
酔いがまわった、という割にはひどく冷静な彼に、私は怪訝そうな顔で尋ねる。
「うん。少なくとも、俺はそうだろうね。現役のときの俺って、3年間一匹狼で過ごしてたから」
「………そうなの?」
彼の言葉に、私ははからずとも首を傾げて尋ねる。
意外だった。
「俺の担当をしてる先生、学年主任やってるみたいだからさ。その分雑用が多いみたい」
そうぼやきながらも、控え室で他の実習生と談笑していた姿からは、とても想像できなかったのだ。
苦笑いを浮かべながら、彼はうなずく。
「2年生のときなんて、ホントにひどかったよ。同じクラスの奴らと話し事なんて、1年間で10回に満たなかったんじゃないかな? そんなもんだから、教科書を忘れても、隣の奴に「見せてくれ」って言うわけにはいかない。お蔭で、忘れ物はしなくなったけどね」
ひどく乾いた笑みを浮かべて、彼は続ける。
「実をいうと俺って、小・中・高と、ロクな思い出がないんだ。特に高校時代は、ね。極度の情緒不安定になって家出をしたこともあったし、第一、学校自体に合わない部分があった。にもかかわらず、こうやって教育実習に来て、先生になろうとしてる。とんでもない自己矛盾だよねぇ……」
「……じゃぁ、採用試験は受けないの?」
尋ねた私に、彼はゆっくりと首を振った。
「いいや、受けるよ。何故だか分からないけど、中学の頃から「学校の先生になる」ということ以外、あまり考えたことがなかった。それは、今も同じ。学校が嫌いだったのにね」
学校が嫌いだった――逆に、学校というものが楽しかった私には、あまり理解できない感情だった。
あまり理解できはしなかったが、同時に、そういうものなのだろうな、とも思った。
恐らく――彼が情緒不安定になって家出した原因というのは、彼のいうとおり、学校に合わなかった、というのが一番大きいのだろう。勉強に対する締め付けが厳しい進学校では、探せばそこら中に転がっているケースだ。実際問題として、「どうしても学校と自分の中で折り合いがつかない」といって中退した友人が、私にもいた。
その後、その友人がどうしているのか――中退した次の年の春に、通信制の高校に入学した、というところまでしか、私は知らない。
「まぁ、いい先生にめぐり合えたから、ここまでこれたんだ、と思ってるけどね。それがなかったら、今ごろこうしてここで飲んじゃいないよ、きっと」
そう言って苦笑いを浮かべると、彼は「こんな話をしてしまってすまなかったね」と、すまなさそうな表情で続ける。
そんなことないよ――と、私が答えようとした、まさにそのとき。
突然、彼の身体が、突き飛ばされた。
犯人は、但馬君だった。
「篠原さ〜ん、中宮さんと二人で、何話してるんですかぁ!?」
と、絶好調で酔いが回っていた但馬君が、彼に絡んできたのだ。
「うわっ? おいおい、ちょっと飲みすぎだぜ、お前」
「なーに言ってんですか! 篠原さんこそ、飲んでないじゃないですか!!」
「飲んでるよ!」
「飲んでないです! すみませーん! 蕎麦の水割り二つくださーい!」
「但馬、ちょっと待て! 二つってどういうことだ!?」
「決まってるじゃないっすか! 私と篠原さんとで飲むんです!」
「おいおい、俺はちゃんとここに自分のを持ってるって!」
「そんなナンパなモノ飲んでちゃ駄目です!」
「杏露酒はナンパなのか? そりゃぁ確かにソーダで割ってあるけどなぁ」
「おっ、来た来た! さぁ、篠原さん、飲んでください!」
「ゴメン、焼酎は勘弁してくれ。ってーわけで、これはお前にやる!」
「そーですかぁ? じゃぁ、お言葉に甘えてッ!」
受け取った次の瞬間には、既にグラスを開けてしまっていた但馬君は、篠原君から引っ手繰るようにグラスを受け取ると、それもあっという間に飲み干してしまう。
「誰かこいつを止めろぉ!」
「何言ってんですか! まだまだ大丈夫ですよぉ」
「んなこと言ってる奴に限って大丈夫だったためしがないだろ!」
「大丈夫ですってぇ……すみませーん! 蕎麦の水割り一つお願いします!」
そういうと、但馬君は新たに焼酎を注文し、座敷の隅へと歩いていく。
「ったく……年上の威厳も何もあったもんじゃない」
「えっ、年上!?」
ぼやいた彼に、私は思わず、聞き返してしまう。
「あれ、言ってなかったけか? 俺、一留してるから。中宮さんや但馬より一つ年上のはずだよ」
「そうなの? ずーっと同じ年だと思ってた……ごめんなさい」
「ああ、最初に俺がタメ口で話し掛けたからかなぁ」
うなずく、私。
「でも、別にいいよ。年が違っても、大学での学年は同じだしね。堅っ苦しいことも嫌いだし。むしろ、タメ口で話してくれたほうが、俺は嬉しい」
「そ、そう?」
すまなさそうに尋ねた私に、彼は、力強くうなずいた。
「結局、一人で潰れちまったなぁ」
「ホント。一人で飲んで、一人で盛り上げて、一人で潰れてるよねぇ」
「まぁ、いいんじゃない? こいつがいたおかげで盛り上がったし」
「でも、但馬がここまでブレイクするとは思わなかったなぁ」
「そうだよねぇ……」
「やっぱり、ストレス溜まってたのかねぇ? 高階って結構きついとこあるし、あの下でやるのは大変だよ」
「ホント、そうだよねぇ。話を聞いただけでも、すさまじそうだもん」
宴の席も引けて、飲んでいた居酒屋の横に立つ、ビルの玄関で。
但馬君は、完全無欠に、酔い潰れていた。
先ほど但馬君の携帯を無断使用して、彼の実家に救援を頼んだばかり。
迎えが来るのは、もう少し先、ということになる。
そんな中。
「さーて、明日は学校か……」
先ほど電話でなにやら話していた篠原君が、大きく伸びをしながら、誰にともなく呟く。
「え、明日から学校に行くの?」
この場合の学校とは、大学のことだ。
「うん。俺、実家から通ってるしね。それに、明日はゼミがあるから」
「そっか……大変だね」
「中宮さんは、いつあっちに戻るの?」
「うーん、実習簿を返却してもらってからになるから……週末になるかな」
教育実習簿――二週間の教育実習中の出来事などを綴った日誌のことだ。これを大学に提出して、しかるべき手続きをとって、実習修了となる――の返却まで、まだ、時間がかかる。
それまでは、久しぶりに戻ってきた故郷の街を、のんびりと散歩でもしようと思っているところだ。
と。
「あ、迎えが来た」
一台の車が私たちの前に止まったのを見て、傍らに座っていた彼が立ち上がる。
「……それじゃぁ俺、帰るわ。迎えがきたし」
もう一度大きく伸びをして、彼は車のほうに歩み寄った。
「それじゃぁ、一足先に帰ります。お疲れ様! 但馬をよろしくねー!!」
「お疲れ様!」
「おつかれでーす!」
「またねー!」
軽く手を振った彼に、居合わせた皆が、思い思いに声をかける。
「それじゃ、またメールでも送りますねー!」
そう言って、彼は車に乗りこみ、家路についた。
「……またね、とか言ったけどさ。なんだか、ここで別れたら、二度と会えないような気がするんだよね、私」
走り去る車を見送りながら、誰かがポツリ、と呟く。
「そうだねー。メールとか、電話とかで連絡取りあったりはできるけどさ。この先また、こうして全員でそろうかどうか、っていうのは、ホントに謎だよね」
「そんなもんだと思うぜ? 俺たち、教育実習が縁で知り合ったんだしさ」
「じゃぁ、実習が終わってしまえばそれが縁の切れ目、って事?」
「さぁな。ひょっとしたら、どこかの高校で同僚として出くわすこともありうるかもね。……何年後になるか、分からないけど」
「……会えたら、いいな。いいよね」
ポツリ、と、私が呟く。
「ねぇ、篠原君とずいぶん話し込んでたけど、何を話してたの?」
「うーん、色々、とね」
「色々、って?」
「どうして教師になろうと思ったのか、とかね。そういうこと」
「それで、何て言ってたの?」
「……それは、秘密」
「えーっ? いいじゃん、話してくれても」
「だーめ」
「どうしても?」
「どうしても。だって……」
「だって、何?」
「私ね、このまま採用試験を受けていいのかなぁ、って思ったの。……試験まであと少ししかないけどさ、もう一度、その辺についてよく考えてみようかなぁ、って」
「………?」
首をかしげた同僚に、私は苦笑いを浮かべる。
「考えがまとまったら、その時話すよ。今日のことも一緒にね」
「なんだ、つまんねーの」
「あら。つまんない、ってことはないでしょ?」
「……それも、そうか」
沸き起こる、笑い。
そんな中で、私はもう一度、彼の車が走っていった方向を眺めた。
車に乗ってからは、一度もこちらを振り返ることなく走り去った、彼。
実はもう、答えが出てしまっていたのではないか――何の根拠もないけれど、私は、彼の姿に、そう感じた。
見上げた空は、まばゆいばかりのネオンサインの光に遮られてしまったのか――数えるほどの星しか、見ることができなかった。
|