「……最初に、この世界に足を踏み入れたときのことですか?」
 缶コーヒーのプルトップが、小気味よい音とともに勢いよく口を開ける。その弾みで指についたしずくをハンカチで拭きながら、真は助手席にいる瀬名に尋ねた。
 「ああ。いくらああいう父親を持っていたとはいえ、そうおいそれと決められることではなかったはずだ。いや、逆に……」
 「逆に、恐かったですよ、正直言って」
 同じくコーヒーを手にした瀬名の言葉をさえぎり、真は目を伏せる。
 「当代随一と言われた退魔士、織姫孝。18歳で桜坂総合警備と契約、多大な戦果を上げて弱冠21歳でフリー。独り立ちした後も大小様々な封印作戦で中核を担い、業界内にその名を広く知らしめるも、30歳の時に作戦中に死亡……。父親として持つには、偉大する人物ですよ」
 クスリ、と笑みを浮かべて、真はコーヒーを口に運ぶ。
 すぐそばを通り過ぎる車のヘッドライトの光に、その笑みはひどく、陰気に思えた。
 「………」
 普段、絶対に見せることのないその表情に、瀬名は口をつぐむ。
 「業界内では最強と謳われ、事実その評判に違うことなく任務を全うし続けた父が、あんなにあっけなく死ぬなんて……ショックでしたよ、すごく」


 「真君、おじいちゃんが呼んでる。一緒に来てくれるかな?」
 何故か、ものすごく陰気な表情をした瀬田が、ふすまの隙間から顔をのぞかせた。
 「……おじいちゃんが?」
 布団に寝そべり、脇にともされた薄明かりで本を読んでいた真は、あどけない顔に怯えの色をかすかに浮かせて、ゆっくりと起き上がる。
 「瀬田さん、遅くまで本を読んでたこと、おじいちゃんに言っちゃやだよ?」
 無言で手を引いていく瀬田に、真は消え入りそうな声で話し掛ける。
 本が好きな真は、布団の中に入っても、脇にともされた明かりで本を読みつづけ、幾度となく祖父の司にこっぴどくしかられている。いつもなら、瀬田は優しく微笑んで、何がしかの言葉をかけてくれた。
 が。
 瀬田は無言のまま、うなずきもしない。
 ただただ、暗い廊下を、真の小さな手を引いて歩いていくだけだ。
 「………」
 子供心に、真は何かが起こったことを感じた。それも、とてもよくない何かが、起こったのだ。
 やがて。
 「真ちゃんッ!」
 居間に入るなり、叔母の美沙が、悲痛な叫び声をあげた。
 「お、叔母さん……?」
 ここまで手を引いてきた瀬田の手を離れ、真は美沙にギュッ、と抱き締められる。
 そして――。
 真は、見た。
 布団に横たえられ、すでに虫の息になっていた父親と、それを陰鬱な表情で見守っている、司。伯母。神職。そして、ボロボロになった服を着た、若い男。
 「―――胸に、受けてます……」
 若い男の声に、司がゆっくりとうなずく。
 目が合った。
 司の瞳は、真の母親が亡くなった時以上に、悲しそうだった。


 「……それでも、私はこの世界に足を踏み入れた」
 あんなに冷たかった缶コーヒーが、自分の体温でぬるくなってしまっていた。
 ゆっくりと、真は底にたまったコーヒーを口に運び、飲み干す。
 「………」
 瀬名は、無言で飲み終えたコーヒーの空き缶を、ホルダーに差し入れる。
 カコン。
 と、歯切れのいい音が、車内にこだました。
 「最初に相談したのは、祖父でもなければ叔母でもなく、澪でした」
 カコン。
 真も同じように、空き缶をホルダーに差し入れる。
 やはり、歯切れのいい音が響いた。
 「あの時の祖父と同じように、澪は一瞬すごく悲しそうな目をして……でも、大きく、うなずいてくれました」
 「……それで、決めたのか」
 「ええ……。澪がやめろと言えば、そこでやめてました」
 「そうか………」
 「もちろん、父の死に様を見てますからね。さっきも言ったとおり、恐かったんです。とっても。……でもね、私を躊躇させたのは、そんなことじゃないんですよ」
 言葉を切った真は、さもおかしそうにクスクスと笑い声を上げる。
 「……一番恐かったのは、澪を怒らせること。生きるも死ぬも紙一重の作戦に向かうより、澪に重大な相談を持ちかけることのほうが、よほど勇気がいるんです。……意外でしょう?」
 「いやいや。確かにそっちのほうがよほど勇気がいるのかも知れん。女神様を怒らせると、後が恐い」
 「女神様……そうですね、女神様かもしれません。……ちょっと、無鉄砲なとこがありますけど」
 笑いながら、真がうなずく。
 「今時の女の子だったら、そのくらい元気があったほうががちょうどいい。……最も、ウチの社長みたいなじゃじゃ馬はごめんだけどな」
 ニヤリ、と笑いながら瀬名が言った、その時―――。
 『だぁれが、じゃじゃ馬ですってェ!?』
 と、無線のマイクから、突然、女性の声が響き渡った。
 「ゲッ、さ、里美!?」
 ギョッ、とした顔で、瀬名がマイクを取る。赤いランプが、点滅したままだ。
 「しまった! 無線のスイッチを切るの忘れてました!」
 「ばッ、馬鹿ッ! じゃぁ、さっきの話は……」
 『全部聞いてたわよ! ったく、あんまり話がしんみりしたものだったから、おとなしく聞いてりゃぁ……』
 「わったったったっ、冗談だ、冗談だってば!」
 『なぁにが冗談よ! 人のコトをあれこれ言ってる暇があったら、とっとと帰ってきなさいよ! こっちには、あんたたちを遊ばせてる暇なんて、ぜんっぜんないんだからね!』
 「わかった、わかったから、少しボリューム抑えろって! お前、ただでさえうるさいんだから、少しは考えろよ!」
 言ってから、瀬名はしまった、とばかりに口をおさえる。
 案の定、さらにヒートアップしたわめき声が、マイクからほとばしる。
 が。
 『なぁんですってぇ!? だいたいねぇ、あんたたちが……ブツッ』
 突然、金切り声が途切れた。
 指で耳の穴をふさいでいた瀬名が、怪訝な顔でマイクを見つめる。
 「……あれ? おい、切れちまったぞ、どうしたんだ、いったい?」
 「あまり騒がしいので、受信スイッチを切りました」
 「切りましたって……おい、里美を怒らせたら大事だぞ?」
 シャラッとした表情で言ってのけた真に、瀬名は顔を青くして頭を抱える。
 「……もう十分怒ってますって。どうせ社長の小言を聞くなら、会社に帰ってからまとめて聞いたほうが楽でしょう?」
 「そりゃぁそうだが……また、思い切ったことを」
 「私にとっては、社長のお小言より、澪との約束を破るほうがもっと恐ろしいので」
 真剣な表情で言った真に、瀬名は思わず吹き出してしまう。
 「そいつは大変だ。女神様とのデートに遅刻したら、それこそ一大事だ」
 「ええ。それこそとっても勇気のいることですよ」
 「違いない」
 大笑いする瀬名。
 「ということで、飛ばしますよ」
 「ああ。安全運転で頼むぞ」
 真は瀬名と顔を見合わせると、ニッコリと笑い、車のエンジンをかける。
 「分かってますよ」
 うなずいて、真は車を発進させた。


 限界までチューンされたインプレッサ・スポーツワゴンが繰り出す加速G。
 慣れ親しんだその圧力に、真は逆らうことなくシートに身を沈める。


 空には、満ち満ちた月が、春の夜空で煌煌と輝いていた。
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