「ん〜っ。やっぱり、ここって気持ちいいよね!」
床に座り、大きく上半身を伸ばしてから、澪はホゥ、と息をついた。横では、だるそうな表情の刃がフェンスに寄りかかっている。肩の辺りを押さえ、少し勢いをつけて首をひねる。コキリ、という音が鳴って、彼はほっとした顔で空を見上げる。
「あ、真。はい、お弁当」
二人からはやや遅れてきた真に、澪が弁当の包みを渡す。
(語尾にハートマークがついてたな、今……)
絵に描いたように「らぶらぶ」な二人に、刃はため息をついて、軽く首を振った。
大型連休となったゴールデンウィークがあけた直後の、昼休み。
氷浦市は、桜の季節から若葉の萌える季節になっていた。ここ数日の間は雲一つ無い晴天が続き、澄み渡った空のあちらこちらをツバメやスズメが飛び交っている。時折そよぐ風も心地よいこの季節になると、聖華高校の校舎の屋上は昼食を取る生徒たちで賑わいを見せることになる。
「あれ、刃は食べないんですか、昼御飯」
黙々と澪の手作り弁当を食していた真が、フェンスに寄りかかったままの刃を見て、怪訝な表情で尋ねる。
「んー」
と、気の無い返事をして、
「あんまり食べたい気分じゃない」
短く、刃は答えた。
「へぇ……刃君がお昼御飯を食べないっていうのも、珍しいね」
ちんまりとした弁当箱をつつきながら、澪が微かに笑う。
「何かあったの?」
「いーや、別に」
「そう? 別に、っていうような顔でもないけど」
「うっさいなぁ……」
心底かったるそうな顔をした刃は、ぷい、とそっぽを向き、缶コーヒーを開ける。
「まぁ、いいか。どうせ刃君のことだしねー。またろくでもないことを考えてるに決まってるよね。これでいきなり『俺は今、猛烈に恋をしてるんだぜぇっ!』とかなんとか叫ばれたら、こっちが引いちゃうもの……って、あれ?」
まったく悪意の無い微笑を浮かべながら、澪がとんでもないことを言う。このあたり、横で黙々と弁当を食している真と血がつながっていることを如実に物語っているところではある。
と。
「げほげほ……なんてこと言うんだ、お前!」
「なんてことも何も、全部本当のことじゃない……って、どうしてむせてるのよ。ねェ、真、私、何か変なことでも言った?」
「さぁ……?」
キョトン、とした表情で、真が首をかしげる。どうやら今の話、全然聞いていなかったらしい。普段はかなりの地獄耳だが、一度食事を始めると途端に人の話を聞かなくなる真なのであった。
「どうでもいいですけど、ちゃんと食べないと身体に悪いですよ、刃」
早々に弁当を食べ終え、さっさと弁当箱を片付けながら、真が諭すような口調で言う。普段から仕事が終わるたびに何らかの怪我や体調不良で寝込んでいる彼だけに、健康に関することではことさらに説得力がある。
「別に一食抜いたくらいで死ぬわけじゃねーだろ」
そういうと、刃は手にした缶コーヒーを口に運ぶ。
「あれ、珍しいね。刃君が缶コーヒーっていうのも」
「え? ああ……そういや、そうだな」
「多分、葛城さんの影響じゃないですか? あの人、いつも缶コーヒーを持ってますからねぇ」
「そういえばそうよねぇ……。一体何処から出てくるんだろ、あの缶コーヒー」
「さぁな。もしかしたら、家に買い置きがあるのかもな」
「か、買い置き……ですか?」
「やりかねんと思うぜ、あのおっさんなら。ああ見えて結構けちそうだからな。ディスカウントストアーで安売りしているところを大量に買い込んでるかも知れねーだろ」
「ははは……まさか、ねぇ……?」
言ってから、3人は一様に顔を見合わせる。刃が言ったとおり、葛城家の書斎には缶コーヒーの買い置きとそれ専用の冷蔵庫があるというコトを知ったら、彼らは一体どういう顔をしただろうか……。
「あっ! もうこんな時間!」
腕時計を見ながら、澪が慌てて弁当箱を片付け始める。
「もうこんな時間って、まだ時間あるだろ?」
「次、体育があるの! 早く着替えないと先生に怒られちゃう!」
「何言ってんだ。お前がちんたら着替えてるのがいけないんだろ」
「うるさいわね! 女の子は男と違っていろいろ大変なの!」
「ほぉ……まぁいいや。それならそうと、とっとと行って着替えろよ。遅れたらやばいんだろ」
「言われなくてもそうするわよ。じゃぁね、真!」
真が綺麗に包みなおした弁当箱を引っ手繰るようにして受け取ると、澪はあわただしく屋上を後にする。
「忙しい奴……」
パタパタと駆けて行く澪の背中を見送りながら、刃がもっともな感想を述べる。
「まぁ……いいんじゃないですか? 遅刻するよりはましだと思いますケド」
こちらももっともな意見を述べる真。
「……平和、ですねェ……」
「ああ……ついこの間まであんなことやってたとはとても思えないよな」
はぁ……と、二人そろって深いため息をつく。
見上げた空は、どこまでもどこまでも、青い。
「………というわけで、前年の新田義貞、北畠顕家の死に続く後醍醐天皇の死は南朝勢力にとって大きな痛手になったわけです。さて、同じ頃、氷浦地方では先に南朝方の武将を率いて下ってきた糺宮智良親王が『宮方に意趣を持ちて』、つまり南朝方に対して何か思うところがあって、戦線を離脱しています」
5限目の日本史の授業を軽く聞き流しながら、真は窓の外をながめていた。
このクラスの日本史を担当している地歴科教諭・高田祐一郎氏(聖華学園大文学部歴史学科卒)は「教科書に沿っただけの歴史教育は何も生み出さない」という信念の下、可能な限り「地元氷浦地方はこの事件にどう関わったか」という視点から補足を述べている。「中央という視点から見た歴史と地方という視点から見た歴史は必ずしも一致しない。それどころか地方の視点から見た歴史はこれまでの定説を覆す新しい発見さえも出てくることがある」というのが高田氏の口癖なのだが、悲しいかな、その熱意はあまり生徒のほうには伝わっていないようであった。結局、生徒の耳に残るのは受験に必要な部分だけで、高田氏が「肝心要」としている部分はすべて忘却の彼方へと押しやられてしまうのである。
真は――といえば、残念ながら今のところ「受験用の日本史」を必要としている生徒であった。
一応、成績は上位をキープしているものの、だからといってその先にある大学までが保証されているわけではない。先頃進路指導部に提出した彼の進路希望調査票には「成績上位者はエスカレーター」で進学できる聖華学園大の名前は何処にもなく、ただ1つ「浄響大学文学部神道学科」とのみ記されていた。司の孫達が真を除いてすべて女の子である現段階では、糺宮神社の後を継げるのは真しかいないのである。
「……それでは、今日はここまでにしておきます」
そういって高田氏が教科書を閉じた途端、タイミングよく授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
毎時間「教科書通りの歴史+α」の授業をきっちりとキリのいいところまで進め、教科書を閉じた途端チャイムが鳴るのだから、彼の時間配分術はまったく天才としかいいようがない。だらだらと授業をした挙句全然進まないままチャイムが鳴ったり、逆にやけにハイペースで進み、それでも時間が余ってしまうような教諭よりはよほどしっかりしているといえるだろう――それが生徒の受けにつながるかはさておき、であるが。
「あ、織姫」
窓が締め切られた教室は、極めて空気が悪い。
さっさと教科書類を片付け、廊下に出て息抜きしようとしていた真を、呼び止める者があった。
「はい?」
「はい、これ。こないだ頼まれてた奴」
そう言ってプリントの束を差し出したのは、クラスメートの中でも比較的仲がいい部類に入る伊藤弘明だった。仕事の都合でどうしても学校を休みがちになる真に、いつもこうしてノートのコピーをとってやっているのだ。
「……最近、大変そうだね。この分じゃ、今年も出席日数がギリギリだね」
「ええ、まぁ……」
コピーの束を受け取りながら、真は少し困ったような笑みを漏らす。
「まぁ、いいや。言いにくかったら、言わなくていいからさ。あんまり無理するんじゃないよ?」
「ええ、分かってますよ。ここで倒れてしまったら、それこそ死んでも死にきれませんからね」
「それもそうだね」
ニコッ、と人のよさそうな笑みを浮かべると、弘明は「じゃ」と、廊下のほうへ歩いていく。
弘明は真に「何か特別な事情がある」ということを承知で付き合っている、数少ないクラスメートの1人だ。いつも「特別な事情」について何か知りたそうなそぶりを見せるものの、結局は「言いたくなかったら言わなくていい」ですませてしまう。極めて分かりやすいノートを提供してくれる彼の存在は、学校に出てもほとんど授業を聞いていないらしい刃や、授業は聞いていても進度や選択している教科の問題でノートが使えない澪よりも、ある意味頼りになる。
彼との関係は「ノートでつながっているだけの希薄な人間関係」と言えなくもないが、おそらく、それは双方にとってもっとも望ましい関係だといえるだろう。結局、弘明を始め、大多数のクラスメートと真とでは、住む世界がまったく異なっている。自分と深く関わりあうことで弘明が妙なことに巻き込まれるのを真は恐れていたし、弘明のほうでも、真に深く関わることでとんでもない災厄が降りかかるかもしれないことを感じていた。微妙なバランス感覚を強いられる人間関係ではあるが、二人にとってはそれが最も安全な距離の取り方なのだ。弘明にとって真は「非日常」を感じさせてくれる身近な存在であったし、真にとって弘明は「ささやかな日常」を感じさせてくれる存在だった。時折真が痛む体にムチをうってまで学校に姿を現すのは、そういった「ごく普通の生活」を少しでも長く送ってみたかったからかも知れない。
ほぅ、と軽くため息をついて、受け取ったコピーを鞄の中に大事そうにしまうと、真もまた、教室の外へ出る。
少なくとも、今日という一日は、何事も起こりそうにはなかった。
放課後。
「まーこーとー!」
大声で自分の名前を呼ばれて、一人、家路を急いでいた真はゆっくりと後ろを振り返った。
見ると、校舎群から校門へと続く道を、澪がものすごい勢いで駆けてくる。その彼女に引きずられるようにして一緒に走っているのは、どうやら刃らしい。
「あぁ、澪……と刃ですか。一体どうしたんですか、そんなに慌てて?」
苦笑いを浮かべて、真は小首をかしげる。
「これから帰るんでしょ?」
「ええ……そのつもりですが」
「じゃぁさ、これから氷浦駅前まで出て、買い物に付き合ってよ!」
「あー、いや、その……」
いささか理不尽ともいえる期待に目を輝かせている澪に、真は思いっきり目を泳がせる。
「何?」
「実は……これから、整備に出してた車を引き取りに行かなきゃならないんですよ」
「えぇ!?」
ぷぅ、と頬を膨らませる澪を、「いわんこっちゃない」といった表情で刃が見やる。
「だから言っただろ。真が先に帰る時は絶対何かあるんだって」
「今日じゃないと、ダメなの?」
「ええ……実は明日、ちょっと仕事が入ってまして……あんまり代車では行きたくないんですよ」
「あー、わかるわかる。乗りなれた奴じゃないと何が起こるか分からないもんな」
以前にそういった経験をしたことでもあるのか、刃が何度も頷く。
「というわけなので……すみません。今日は、買い物には付き合えません」
「んー……それなら、仕方ないよね」
「後で、ちゃんと埋め合わせはしますから」
「でも、あれだね」
「?」
「刃君もそうだけどさ、男の子って、みんな車とかバイクとか、そういったのが好きだよねー」
「まぁ……俺達の場合は仕事で使わなきゃならないから、余計こだわらなきゃならない部分もあるけどな」
「ふーん……そんなもんなの?」
「まぁ、それはあると思いますよ」
澪の言葉に、真と刃は頷きながら答える。
と。
「うわっ!?」
校門を出たところで、真は歩道を歩いてきた若い男にぶつかった。
「あつつつつつ……おい、大丈夫か?」
男が、ぶつかった拍子に転んでしまった真に歩み寄り、手を差し出す。
どうやら、互いに余所見をしていての衝突だったようだ。
「ええ、大丈夫です。すみませんでした」
男に手を貸してもらいながら、真が謝る。
「ああ、別にいいよ。よそ見しながら歩いてた俺も悪い」
「いえ、それはこちらも同じことですから……それでは」
真がペコリ、と頭を下げると、男はヒラヒラと手を振って見せる。
「変な人………」
去り際にボソリ、と呟いた澪に苦笑いを浮かべて、男は校門をくぐり、学校のほうへと歩いていく。
「あの人、OBか何かかな? 学校のほうに入っていったけど」
「さぁ……そんなところじゃないのか?」
首をかしげる澪に、刃が気のない返事をよこす。
「まぁ、いいわ。それじゃぁ、真。また、明日ね」
「ええ。それでは」
「……お前もいろいろ大変だな」
今日のところはおとなしく家路についた澪の背中を眺めながら、刃がボソリと呟く。
「ええ……まぁ」
「で、どうするんだ、これから?」
「え?」
「『え?』って……お前、これから車を引き取りに行くんだろ?」
「ああ……車は、もう引き取ってありますよ」
「はぁ? じゃぁ、お前、あれって……」
「嘘に決まってるじゃないですか」
シャラッとした表情で答える真に、刃は額に手を当てて天を仰ぐ。
「私だって、たまには一人でいたいときもあるんですよ……」
そういうと、真は軽く、ため息をつく。
「やっぱり苦労してるなぁ……」
刃の言葉に、ハハハ……と力のない笑みを浮かべながら、真はふと、空を見上げた。
雲一つない空は、徐々に宵の色へと染まろうとしていた。
同じ頃。
「やっぱり、基本は学校からだろ……」
そびえたつ聖華高校の校舎群を見上げて、先ほど真とぶつかった男が一人、頷いている。
「……ちょっと来るのが遅かったかな? 誰もいないな……」
きょろきょろとあたりを見回して、彼は首をかしげる。
それもそのはず。
聖華高等学校の下校時間は、とっくの昔に過ぎてしまっていたのである……。
「おい、梓瞳! お前、そんなところで何やってるんだ!」
「や、やばッ!?」
背後から飛んできた声に、男は大げさに首をすくめて振り返った。
聖華高校OBにして、在学中かなりの問題児と目されていた彼は、下校時間を過ぎて見回りにきた同校教諭に発見され、こうして怒鳴りつけられる形となったのである。振り返った拍子に目に入った西日に少しばかり目を細めると、彼は迫ってくる足音にクルリと背を向け、一目散に元来た道を戻り始める。
澄み切った空には、早くも星が瞬き始めていた。 |