1999年の春を、氷浦市は高まる世紀末ムードの中で迎えた。お決まりのノストラダムスに加えて、年が明ける前からマスコミがあおり始めたいわゆる2000年問題など、社会不安は「世紀末」にふさわしく高まっている。しかし、人々は恐怖におののくふりをして、その雰囲気を楽しんでいるように見えた。そう。それは、まるで遊園地の絶叫マシーンに乗り込んで、それが動き出すのを今か今かと待ち受けているかのようだった。
 死の恐怖と、ジェットコースターの恐怖。
 人は、死の恐怖にはただただ怯え震えるばかりだが、ジェットコースターの恐怖はそれを存分に楽しむことができる。今の世を騒がせるノストラダムスや「Y2K」などという恐怖の種は、彼らにとっては死ではなくジェットコースターと同じモノだった。あらかじめ制御できると分かっている恐怖であれば、人はその恐怖を楽しむことができるのである。
 世の中は、そして人々は、その日もおおむね平和な生活を送っていた。



 市営地下鉄東西線の桜坂駅を出ると、道路をはさんで向かい側に桜坂公園が広がっている。市民の憩いの場として親しまれ、きちんと整備されたこの広大な公園は、その名前の通り多くの桜の木が植えられ、桜の名所の1つとして知られている。
花も盛りとなれば、そこら中で桜吹雪が見られるが、それまではまだ間があるようだ。淡い月の光の中に、開いた花がわずかばかり見受けられる。
 その花をつけた枝が、風に揺られてかすかに震えた。
 春とはいえ、夜風ともなればまだ肌寒い。
 桜林を吹きぬけた風に、一人の少女が思わず首をすくませる。
 と。
 カサリ。
 と、風で乱れた髪を直していた彼女の背後で、何かが動く気配があった。
 「………?」
 ピクリ、と身体を震わせて、恐る恐る振り返る。振り返って、彼女は息を飲んだきり、動けなかった。
 ガチャリ。
 金属同士がこすれ合う音が、こちらに近づいてくる。
 ガチャリ。カチャリ。
 その音が近づいてくるに連れて、彼女の周りに忍び寄っていた闇もまた、どんどん濃さを増していく。
 いつの間にか、少女は周りを漆黒の闇に包まれていた。
 どんなに目を凝らしても、何も見えない、闇。
 ゆっくり、ゆっくりと近づいてくる音に、なにかが滴り落ちるような音が混じり始めたのは、一体いつのことだろう?
 不意に、青白い光が灯った。
 空中をユラユラと頼りなげに揺れ動くそれは、恐怖に見開かれた少女の瞳にその姿を焼き付けながら、1つ、また1つと数を増やしていく。
 不意に、その中の1つが、側に寄ってくる。
 後退りも、身をのけぞらせることもできずに、彼女はそれを見つめることしかできない。
 目の前に迫った光球は、あいかわらずユラユラと揺れ動きながら彼女の頬を掠め、通り過ぎていく。
 冷たい。
 ゾクリ、と、背筋に悪寒が走る。
 ガチャリ!
 それとともに、ひときわ大きい音があたりに響き、同時に周囲で揺らめいていた光が一瞬、その光量を増す。
 少女の瞳が、大きく見開かれる。
 光の中に浮かび上がったのは、1つの人影。
 男だった。
 髪は乱れ、身に付けた鎧は血に汚れて、ひどく痛んでいる。
 手にしているのは、血がこびりつき、刃のこぼれた、刀。
 目が、合う。
 その瞳に浮かぶのは、激しい怒りと恨みの炎。
 「あ………」
 その瞳に射すくめられて初めて、少女は自らの意思で声を発した。
 わなわなと口唇を震わせながら、彼女は男から離れようと後退る。
 逃げたい。
 逃げたいのに、足が思うように動いてくれない。
 逃げなければ。ここから逃げなければ――。
 心はそう叫んでいるのに、身体は全く反応してくれない。もどかしい。
 そして。
 男が、また一歩、足を踏み出す。

 少女の悲鳴が辺りにこだましたのは、それから数瞬の後のことだった。



 カーテンの隙間から光が差し込み、窓の外では、雀が元気にさえずっている。
 「ん………」
 光が直接かかったのか、布団で眠っていた少女がわずかに顔をしかめ、寝返りを打つ。
 その拍子で飛び出した手が、パタン、と畳をうった。
 「んー………」
 すぐさまその手は布団の中に引っ込められ、少女はもう一方の手で畳に打ち付けた手の甲をさする。
 「………?」
 少し赤味が差した手をさすって、少女は目を覚ました。
 「あれ……?」
 半身を起こして、彼女は間の抜けた声とともに辺りを見回す。
 カーテンのかかった窓と、きちんとふすまが閉じられた押入れ。
 それ以外は何もない畳敷きの部屋に、彼女はいた。
 「ここ、どこ……?」
 かけられていた布団を抜け出して、彼女は自分の身体を確かめる。
 身につけていた服は、昨日家を出たときのままだ。弱冠しわが寄っているが、それは布団で寝ていたときについたものだろう。さしたる乱れは、ない。
 ほぅ、とため息をつくと、彼女は窓に歩み寄り、カーテンを開けた。
 「つッ……!」
 薄暗い部屋になれた目を日の光に照らされ、彼女は思わず目を背ける。
 「………神社、かしら………?」
 ややあって、日光に慣れた瞳に、神社の社殿のような建物が映る。
 ガラス越しに目を転じると、視界の隅に鳥居が目に入る。
 かなり、広い敷地を持った神社のようだった。
 と。
 カラリ、という音ともに、閉じていたふすまが開く。
 慌てて振り向くと、ちょうど若い女性ふすまを開けたところだった。
 「あら……目が覚めたのね?」
 微かに怯えの色を見せた少女に対して、彼女はニッコリと微笑みかける。
 「あの……ここは……? どこかの神社の中みたいですけど」
 部屋の入り口で立ち止まった女性に、少女が恐る恐る尋ねる。
 「船津八幡神社よ。昨日の夜、桜坂公園で倒れていたあなたを、葛城さんが運んできたの」
 くすくす、と笑いながら、女性が答える。
 「船津八幡神社……」
 ほっとしたように、少女の表情から怯えの色が消える。船津八幡神社といえば、彼女の家からそれほど離れてはいない。どうやら、誰かに連れ去られてきたのではないらしい。
 と。
 突然、彼女の腹の虫が鳴った。
 「あ、あれ……?」
 頬を真っ赤に染めて、少女は腹に手を当てる。
 「もう、お昼だしね……。ちょうど、今からお昼ご飯を食べるところだから、あなたも来るといいわ」
 「え、あ、はい………」
 「じゃぁ、ついてきて。……あ、名前、まだ聞いてなかったよね? あたしは、三名坂和美。あなたは?」
 「平野……平野、七海です」
 「じゃぁ、七海ちゃん、行きましょうか」
 ニッコリと笑う和美に、七海はゆっくりとうなずいた。



 通された部屋には、既に先客がいた。
 十畳ほどの和室のほぼ中央に置かれたテーブルの前で、三十代半ばほどの男が、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。
 「所長」
 部屋の入り口で、和美が遠慮がちに男に声をかける。
 「ん? あ、ああ……どうやら、目が覚めたようだね」
 男は手早く新聞をたたんで脇に置くと、二人のほうに歩み寄ってくる。
 身の丈、およそ185cmはあるだろうか。細身の身体が、実際の身長より、少し背を高く見せているのかもしれない。
 同年代の少女と比べてもそれほど背の高くない七海は、まさに見上げる形になる。
 「桜坂公園で倒れているのを見つけたときは、この後どうなることかと心配したが……顔色もいいようだし、元気そうで何よりだ」
 男が、七海の顔を覗き込むように見て、笑みを浮かべる。
 人のよさそうなその微笑に釣られて、七海もまた、はにかんだ笑みを浮かべる。
 「まぁ、とりあえず、座りなさい。ちょうど、今から昼食を取るところだから」
 男に促されて、和美と七海の二人は、彼が座っていた向かい側に腰をおろした。



 男は、葛城蒼雲と名乗った。
 昨夜、たまたま桜坂公園まで散歩に出たところ、桜林の中で倒れている七海を見つけ、ここまで連れてきたのだという。
 「うーん……あそこの桜林で、ねぇ……」
 七海から事情を聞いた葛城は、食後のコーヒーをすすりながらなにやら難しい顔で考え込む。
 「……それにしても、あの時間に女子高生が1人であんなところにいたのはあまり感心できない話だが……何か、理由でも?」
 葛城の問いに、七海は弱々しく首を振った。
 「理由なんて、別にないんです。ただ、散歩に出て、気がついたらあそこに……」
 「それで、血まみれの侍を見たわけか」
 うなずく七海に、葛城はまたもや考え込む。
 「……もしかして、ああいうモノを見たのは、今回が初めてではないね? 血まみれの侍とまでは行かなくとも、別の場所で、周りの人間には全く見えない何かを見たことは、ないかな」
 葛城の言葉に、七海がドキリ、とした表情を見せる。
 「ああ……別に、隠す必要はない。俺を含めて、ここにいるのはそういう人間ばかりだ」
 「え……?」
 キョトン、とした顔で、七海は葛城の顔を見つめる。
 横では、和美がにっこりと笑い、うなずいてみせる。
 「そういうことだから……何も怖がらずに、話してくれないか? 少なくとも、ここにいる人間は君のいうことを馬鹿にしないし、何の根拠のない絵空事として扱ったりもしない。だから、そんなに思いつめないで欲しい」
 瞬きすら忘れて自分の顔を見つめる七海に、葛城は微笑んでみせる。
 「自分の言うことに、もっと自信を持つことだ。君は決して間違ったことを言っているわけではないのだから」
 「はい……」
 うなずくと、七海はしばらくうつむき、そしてポツリ、ポツリと話し始めた。



 七海が「見える」ようになり、彼女がはっきりとそれを意識し始めたのは、小学校に上がってすぐのことだった。
 最初は視界の隅を影がスゥッ、と通り過ぎる程度のものだったが、やがて視界に影がとどまるようになり、中学に上がる頃にははっきりといるはずのない人物の姿が見えるようになったのだという。
 それも、最初のほうはたまに見える程度だったのだが、月日が経つにつれて頻繁に見えるようになり、最近ではほぼ毎日、いろいろなモノが見えるようになっていた。
 見え始めた頃は、自分以外の人間にも見えているものと思い、何度も周りの人間に尋ねる彼女を、周囲は奇異の目で見るようになり、今では言うだけ無駄、と、何が見えても何も言わなくなっていた。
自分は見えているのに、そのことは自らの胸の奥深くにしまいこんでいなければならない。そうでもしないと、常に好奇の視線にさらされることになるのだ。
かつての彼女を知る者の中には、今でもそのことで心無い言葉を浴びせる者がいる。
 ありがちな話であった。
「影が見えるようになる前に、何か変わったことは?」
 葛城の問いに、彼女は
 「さぁ……」
と首を傾げつつも、
 「そういえばまだ小さい頃に、突然目の前の茶碗やコップが割れたり、こなごなに砕け散ってしまったことがあるそうです。その後、糺宮神社までお払いをしてもらいに行ったことがあるのは微かに覚えているんですが……」
 「ふむ……糺宮神社、か」
 七海の話を聞いて、葛城は和美をチラリ、と見やる。
 小さくうなずいた和美は、そっと部屋を抜け出していく。
 「あの………」
 再び考え込んでしまった葛城に、七海が遠慮がちに話し掛ける。
 「そろそろ、家に帰らないと……」
 「あ、ああ……そういえば、そうだな……。親御さんも心配されているに違いないからね。すまないね。嫌なことを話させてしまって」
 「いえ、そんなこと……今の今まで、誰にも話せなかったんです。話すと、変な目で見られてしまうから……」
 胸のつかえが取れ、ほっとしたように、七海は微笑んでみせる。
 「ふむ……それはそれでよかった。三名坂に家まで送らせるから、それまでゆっくりしているといい」
 そういうと、葛城は残っていたコーヒーを飲み干す。
 「ああ、1つ言っておくことがある」
 部屋を出る間際、葛城はふと思い出したように、七海のほうを振り向く。
 「できることなら、氷浦市内の桜の名所には近づかないほうがいい。……特に、これから迎える花の盛りには、ね」
 「………?」
 再びキョトン、とした表情で見つめ返す七海に、葛城は意味ありげな笑みを浮かべ、部屋を後にした。



 「三名坂さん」
 和美の車の助手席で、七海は窓の外を眺めながら話し掛けた。
 「ああ、和美、でいいわよ。何?」
 「やっぱり、私って変なんですか?」
 「変って……?」
 「だって、周りの人には見えないモノが、私には見えるんですよ?」
 「……そのくらい、私だって見えてるわよ? ……例えば、あそこの電信柱の陰とか」
 和美に言われて、七海は電信柱に目をやる。
 そこには、真新しい花束と、恨めしそうにこちらを見つめ、何かを言いたそうな表情をした少女の姿があった。
 「……見えてたんですか?」
 思わず目をそむけた後で、七海は和美を見つめた。
 「確か、三日くらい前にあそこで交通事故にあって死んだ子よね。ああいうのが、1番タチが悪いのよねぇ……」
 まるで売り物の品定めでもしているかのような口調で、和美は答える。
 「……まぁ、そこら中にひしめいてる人間の欲やら嫉妬心やらよりはよっぽどましなんだけどねー。七海ちゃんも気をつけてたほうがいいわよ。いつどこでバッサリやられるかわかんない世の中だもんねー」
言いながら、和美が溜め息をつく。
 「ば、バッサリって、そんな……あ、そこを右に曲がってください。それで、次の信号を左です」
 「右に曲がって、次の信号を左、ね。分かったわ」
 和美が言われたとおりにハンドルを切る。
 「あ、ここです」
 『平野』と表札のかかった門の前で、和美が車を止める。
 「ありがとうございました」
 車を降り、助手席の窓から顔を覗かせた七海に、和美はニッコリと笑いかける。
 「気にしないでいいわよ。ああいうことがあった後だし、1人で帰すのは気が引けるからね。……まぁ、葛城さんも言ってたけど、自分の目を疑ってはダメよ。見えるものはしようがないんだから。あ、それと、何かあったりしたら、遠慮なくここに連絡してね」
 そういうと、和美は名刺を差し出す。
 「船津八幡神社祈祷所……、ですか?」
 名刺に書かれた会社名を見て、七海は首をかしげる。
 「そ。ま、いわゆる霊能者集団、ってとこかな。上に書いてあるのが、葛城さんとこの電話番号で、下に書いてあるのが、私の携帯の番号ね。好きなほうにかけるといいわ」
 「は、はい……」
 「それじゃ、また」
 七海がうなずいて、車から離れると、和美が軽く手を振って、車を発進させる。
 車が角を曲がって見えなくなるまで、七海は門の前で見送っていた。



 同じ頃。
 和美が七海を送って出て行った直後に神社を出た葛城は、糺宮神社の境内にある、織姫家を訪れていた。
 「ふむ……その子のことなら、しかと覚えている。確か、その子の目の前でコップが割れたり、茶碗が粉々になったりということが続いたためにここを訪れた、ということだったが……そうか、もうそんな年になっていたか」
 応接間で相対した老神主が、お茶を飲みながら葛城に答える。
 「まぁ、真君と同じ年だということですから、そうなるでしょうね」
 葛城も、お茶を飲みながら相槌を打つ。
 「それで、司さん。桜坂公園のことなんですが……」
 心なし身を乗り出した葛城に、老神主が重々しくうなずく。
 「うむ……確かに、桜坂公園にはここのところあまり好ましくない気が流れていると聞いている。それが御霊と関係があるのかどうかまでは分からないが……」
 「御霊……やはり、司さんもそれを?」
 「うむ……。七海という少女の話からすると、それが1番自然な考えだ。ただ……」
 「ただ?」
 「本当に御霊だとすれば、そもそも何故その少女が無事だったのか理解に苦しむ。それに、御霊が動き出しているのならば、今頃氷浦の街は大混乱に陥っているだろうよ」
 司の言葉に、葛城もうなずく。
 「私もそれを考えていたんです。桜坂公園内に眠っている御霊は、かの詞咲晴憲とまでは行かなくとも、相当強い力を持っていると聞きます。もしその封が破れているとすれば、司さんの仰るとおり、今頃氷浦市一円にとんでもない災害が襲っていておかしくない。でも、平野君は、桜坂公園で血まみれの侍の姿を見ている。これが一体何を意味しているのか……」
 「ふぅむ…………」
 葛城も司も、そろって首をひねるしかなくなっていた。
 と。
 「葛城さん……」
と、和服姿の瀬田が、応接間の入り口で遠慮がちに声を掛けた。
 「先ほど、船津八幡神社から連絡があったのですが」
 「ウチから………?」
 怪訝な面持ちで、葛城が尋ねる。
 「はい。なんでも、桜坂稲荷の周囲で結界にちょっとした異常が見つかった、ということです」
 「何!?」
 一気に、司と葛城の表情が厳しくなる。
 「瀬田君、それは本当か?」
 尋ねた葛城に、瀬田はうなずく。
 「それで、JGBAの要請で、葛城さんに調査に赴いて欲しい、ということです」
 「わかった」
 うなずくと、葛城は司に会釈をして立ち上がる。
 「それでは司さん。また、後日伺います」
 「ああ。何があるか分からんから、気をつけてな」
 「ええ。そのつもりでおります」
 部屋の入り口でもう一度会釈すると、葛城はあわただしく織姫家を辞し、一旦船津八幡神社へと戻ることにしたのだった。



 その夜。
 七海を見つけたのとほぼ同じ時間に、葛城と和美は桜坂公園に姿をあらわした。
 「だいぶ荒れていますね。七海ちゃんを見つけたときも、こんな感じだったんですか?」
 「ああ……いや、それよりも荒れているかもしれないな」
 注意深く辺りを見回しながら、二人は桜林の中を進んでいく。
 所々に、周りの桜とは明らかに雰囲気の違う桜の木が、暗闇に浮かび上がるようにして視界に飛び込んでくる。一般的に見られる桜――ソメイヨシノとは、異なる種類の桜のようだった。
 「……やはり、何かほころびが出ているようだな」
 その中の一本の幹手を触れながら、葛城は首をかしげる。
 「急いだほうが、よさそうですね」
 「いや……これは、闇雲に進んでも意味がなさそうだ」
 「え……?」
 「見ろ、周りを……」
 「こ、これは……!?」
 いつの間にか、尋常ではない闇が、周りに迫っていた。
 「七海ちゃんが迷い込んだ闇、ですね」
 「ああ。こうなってしまったら、まっすぐ目的地に進んでいるつもりでも、まったく見当違いのところに出るだろうな」
 すでに、二人はお互いの表情すらしかとは分からないほど、濃い闇に包まれている。
 不意に、葛城が和美の手をギュッ、と握った。
 「いいか、目を閉じて、言うとおりに歩くんだ」
 耳元で、葛城の押し殺した声が聞こえる。
 「はい」
 和美がうなずくと、葛城は握った手を離す。
 「まずは、右に4歩」
 言われたとおりに、和美は目を閉じたまま、右へ4歩歩く。
 「前に7歩」
 前に7歩、歩く。
 「左に3歩」
 左に3歩、足を踏み出す。
 「右に6歩」
 そうやって、何度か繰り返した後、
 「よし、抜けた。もう目を開けていいぞ」
 と、葛城が和美の肩を叩く。
 「あ………」
 目を開くと、桜の中に混じって、古びた鳥居と、小さな社が見えた。
 先ほどまで周りを支配していた闇は、既にない。
 「ここは?」
 「桜坂稲荷だ。祭ってあるのは、恐らく南朝の将、津崎盛重」
 「恐らく……とは、どういうことなんですか? それに、ここは稲荷神社では……」
 「津崎盛重とは、南北朝期に氷浦地方で北朝方と戦った武将の1人だ。船津山に城を築いて抵抗したんだが、何しろ南朝勢力がほとんど力を失った時期でな。城から落ち延びて、近畿方面に逃亡しようとしたところを、この辺りで追っ手に追いつかれ、自害したらしい。『死して後、国に仇為す怨霊とならん』と言い残して腹を切ったそうだが……実際、そのすぐ後に観応の擾乱がおこって、国内は乱れに乱れた。応仁の乱に端を発する戦国時代と並んで、国内が戦乱に覆われた時期だ。
 で、この津崎盛重は実際に怨霊となってこの辺りを荒らしたことが当時の記録に残っている。それを封じたのが、織姫家の始祖、糺宮だということなんだが……少し問題があってな。その糺宮がどこに封じたのか、正確な場所がわかっていないんだ。さらに言うと、この桜坂稲荷も起源がいつなのかはっきりしないし、何が祭ってあるのかも皆目見当がつかない。
 稲荷神社っていうのはなかなか厄介でな。明治維新の時に、稲荷神社として鞍替えした社が結構あるんだ。そうでもしなきゃ、『淫祀邪教』としてつぶされてしまうからな」
 「なるほど……符牒が合うといえば合いますし、合わないといえば合いませんね……」
 「ああ……俺も司さんも盛重がここに祀られていると踏んでいるんだが、JGBAの方は否定している。氷浦市内の退魔士連中でも、ここに盛重が祭られているのかどうか、というのは意見が分かれているところだな」
 「いろいろややこしいんですね……」
 「ああ。……まぁ、言ってみれば分かることだろうけど、な」
 と、ため息混じりに葛城が言った、その時。
 少女のものと思われる悲鳴が、突如、辺りにこだました。
 「あの声……七海ちゃんですよ!」
 「何!? なんでまた、こんなところに!」
 「急ぎましょう!」
 二人は顔を見合わせると、大きくうなずき、社に向かって駆け出す。
 「やっぱり……!」
 鳥居をくぐったところで、和美は社の前でへたり込んでいる七海の姿を見つけた。
 「七海ちゃん! どうしてこんなところに!」
 ほうけたように虚空を見つめていた七海が、和美に肩を揺り動かされ、我に返る。
 「か、和美さん……?」
 「大丈夫?」
 肩を抱いて尋ねる和美に、七海は弱々しくうなずき、ギュッ、と和美の手を握る。
 その力の強さに、和美はほぅ、と安堵のため息を漏らした。
 「三名坂、安心するのはまだ早いようだぞ」
 「え……?」
 遅れて鳥居をくぐってきた葛城が、厳しい表情で、社を凝視する。
 ゴトリ。
 ガチャリ。
 社の扉が、内側から何か重いものでも叩きつけられたように震え、中から金属同士がこすれるような音が響く。
 ゴト……ガチャ、ガチャン!
 音が、大きく、そして激しくなった。
 「む……」
 首筋にひんやりとした風を感じて、葛城は辺りを見回し、そして小さく呻いた。
 社から聞こえてくる音が大きくなるに連れて、それまで存在すら感じさせなかった闇が、急速にその濃さを増しながら、迫ってくるのだ。
 「三名坂、とりあえず、平野君を立たせるんだ」
 ゴクリ、と、和美がつばを飲み込む。
 唐突に、音がやんだ。
 「………」
 懐から数枚の呪符を取り出しながら、葛城が身構える。
 と。
 突然、葛城の目の前で、青白い光が灯った。
 それを見て、七海の顔が恐怖に引きつる。
 「大丈夫……大丈夫だから……」
 震える七海の手をしっかりと握って、和美が少女を落ち着かせようと声をかける。
 葛城の目の前で、青白い光は七海のときと同じようにユラユラとゆれ始め、1つから2つ、3つ、4つ、と分裂を始める。
 やがて、その中の1つが、葛城に近づいてきた。
 身じろぎ1つせずに、葛城はそれを目で追う。
 まさに、光の球が頬を掠めようとした、その時。
 「……気安く寄ってくるんじゃない」
露骨に嫌な顔をして、葛城が手にした呪符でそれを払いのける。
 途端、シュゥ、という音を立てて、それは姿を消す。
 仲間が消えたのを見て怯えたかのように、青白い光球は一斉に葛城から遠ざかり、社の扉の前で一塊になって、ユラユラと揺らめく。
 「……出るぞ」
 じっとそれを見つめていた葛城が、短くつぶやいたのと同時に、その光球たちはひときわ強い光を発した。
 七海の、そして和美の瞳が、大きく見開かれる。
 「やはり……」
 浮かび上がった人影に、葛城は苦々しい表情でつぶやいた。
 血に汚れ、痛みの激しい鎧。
 血がこびりつき、刃のこぼれた、刀。
 そして、激しい怒りと憎悪をたたえた、瞳。
 「津崎盛重……そうだな?」
 緊張を隠せない声で、葛城は現れた男に対して、そう尋ねる。
 わずかに、男の眉が動いた。
 「死して怨霊となり、そして封じられてすでに数百年……今の世に、一体何を為そうとしている」
 とてつもない圧迫感に耐えながら、葛城は尋ねる。
 「………」
 男は、無言だった。
 だが、その瞳の中に、わずかばかりだが、哀しみの色が浮かんだように見えた。
 「……何を望んでいる」
 なおも尋ねた葛城に、ゆっくりと、男は手にした刀で、背後にある社を指し示す。
 葛城が目を凝らすと、厳重に施してあるはずの扉の封印が傷つけられ、張られていたはずの注連縄がずたずたに切り裂かれ、踏みにじられるようにして散らばっていた。
 「ひどいことをする………せっかくの眠りを、お前さんは妨げられた、というわけか」
 男は、ゆっくりとうなずく。
 「それで、たまたま通りかかったこの子に、それを訴えたかったんだな?」
 またも、男はうなずく。
 ほぅ、と、葛城はため息をついた。
 「わかった。お前さんの社は、俺が責任を持ってちゃんと直す。だから、今夜のところは、このまま眠りについてくれないか」
 葛城の言葉に、男の瞳から、怒りの色が消え、その姿が薄れ始める。
 「なかなかものわかりがいいみたいだな」
 感心したようにつぶやいた葛城に、男はその姿を消す瞬間、笑みを浮かべたように見えた。



 「結局、住んでる家を荒らされて、かなり頭に来てた、ってとこだろうな。まぁ、当然といえば当然か」
 車で七海を家に送っての帰り道、葛城はそういうふうに和美に事情を説明した。
 「そんなものなんですか?」
 いくら何でもそれはないだろう、と言いたげな顔で、助手席に座っていた和美が尋ねる。
 「まぁ、いくら霊だって言っても、相手は元々人間だからな。それより……」
 「それより……何です?」
 「いや、本当に津崎盛重が怨霊になってて、そのまま封じ込められてたのなら、その封印に傷をつけただけでとんでもないことになるはずなんだ。でも、実際にはそんなことにはならなかったし、第一俺の言うコトを素直に聞いて帰っていくなんてこと、絶対にあるはずがない」
 「そういえば、そうですね……。一体、どういうことなんでしょうか?」
 「さぁな。さすがにそこまでは俺も分からない。まぁ、被害は出なかったんだし、後はちゃんとあの社を元に戻しておかなければならないな」
 「それと、七海ちゃんのところにも、しばらくはマメに通ってあげなければなりませんね」
 「そうだな……」
 「それにしても、今回は葛城さんのこと、見直しましたよ」
 「……それは、どういうことだ?」
 ムッとした表情で、葛城は和美を見やる。
 「だって、ああいうモノを見たら、問答無用で滅殺してたじゃないですか」
 「ああ、そのことか……。いや、奴に話し掛けたとき、その瞳の中に、わずかばかり哀しみの色が見えたんだ。その時に、何故か孝さんの言葉が浮かんでね」
 「孝さんって……真君のお父さんですよね? 昔、葛城さんとよく仕事をしてた、っていう……」
 「ああ……あの人はやたら強かったけどな、ある時、こう言われたんだよ。『退魔士とは、魔を退け、封印するだけが仕事ではない』ってね」
 「退魔士とは、魔を退け、封印するだけが仕事ではない……」
 孝の言葉を繰り返した和美に、葛城はうなずいて先を続ける。
 「つまり、こういうことらしい。我々が退けなければならない「魔」というものは、元々人の心から生まれてくるものだ。それは嫉妬心から生まれたり、怨念から生まれたり、時には恐怖心から生まれ出てくる。ならば、その「魔」の根源を断ち切っていくことも、退魔士の業と言えるのではなかろうか、と。
 言われたときは意味がサッパリ分からなかったが、盛重の目と、平野君の怯える姿を見て、突然その意味がわかったんだよ」
 「なるほど……それで、ああいうふうに話し掛けたんですか」
 「ああ。仮にあの場で盛重の霊を完全に滅殺したとしてもだ。それを目の当たりにした平野君の心には、取り返しのつかない傷がつくことになる。ただでさえ、「見える」というコトで周りから疎まれ、傷ついてきた彼女だ。その上でそういう体験をしてしまったら、彼女は一生消えることのない恐怖心に苛まれて生きることになるだろうな」
 「確かに……私にも、経験があります。人にみえないモノが、自分には見える。たったそれだけのことで、世間は異分子としてみなしてしまいますからね」
 「異分子、か……」
 和美の言葉に、葛城は大きくため息をつく。
 そして、
 「すべて人は、一人一人生まれてくる。そうであるのならば、異分子――異端とは、一体誰のことを指しているんだろうな」
 と、暗い顔でつぶやいたきり、彼は家に帰り着くまで、一言もしゃべろうとはしなかった。



 一週間の後。
 だいぶ盛りに近づき、花びらをちらほらと舞わせ始めた桜林の中、桜坂稲荷神社で、ある儀式が厳かに、そして密やかに執り行われた。
 社の前で祝詞をあげているのは、神主姿の葛城である。
 側には、巫女装束に身を包んだ彼の妻が控えている。
 そして、その後ろには、2人の女性が並んで立っていた。
 1人は、三名坂和美。
 そしてもう1人は、すっかり立ち直った、平野七海。
 次第に熱気を帯び始めた、祝詞の独特のリズムにあわせるかのように、桜の花びらが舞い落ちる。
 と――。
 突然、七海は、葛城の向こうに、一人の男が姿を現したのが分かった。
 「……?」
 七海に袖を引かれて、和美が目を凝らす。
 「あ………」
 そこには、鮮やかな水色の狩衣に身を包んだ男が立っていた。
 「あの人だ……」
 七海が小さくつぶやく。
 そう。
 服装は違えど、そこに姿を現したのは、あの夜、七海の前に姿を現した侍だった。
 七海と目が合うと、男は微かに笑みを浮かべ、やがて、スゥ、と姿を消した。
 思わず、七海は手を合わせる。
 それに習うようにして、和美もまた、手を合わせた。


 1999年、春、四月。
 氷浦市は、いたるところで桜が満開に花を咲かせる時期を迎えていた。
 そして。
 世の中は、人々は、おおむね平和な毎日を過ごしていた。
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