桜の下には死体が眠る――そう書いたのは、梶井基次郎だったろうか。なんとも不気味な話ではあるが、もしその話が本当なら、市中いたるところに桜の名所がある氷浦市という土地は、それこそ数え切れないほどの人間が、そこらじゅうに埋まっていることになりはしないか。
怖い考えだが、この世に無念を残したまま死んでいった人たちの霊を慰める為に植えられた、なんていう逸話が残る桜も多いだけに、まったくのフィクションだ、と片付けるわけにも行かないのが、氷浦という土地の一面である。なにしろ、これほどまでに桜が植えられるようになったのは、南北朝の昔、この地にて北朝勢と死闘を繰り広げた糺宮智良親王が自分の死後、墓の傍らには桜の木を植えるように遺言したのがそもそもの始まりになっているのだ。
そんな伝承があるものだから、花の盛りはともかく、葉も落ち、吹く風も身にしみる冷たさを帯びてくるこの時期になると、丸裸になった木々が佇む桜林はそれこそ荒れ果てた廃墟のような不気味さを持ってくる。普通の人間ならこんな所には近づこうとしないし、たまに近くを訪れる人があっても、大方は家路の途中、仕方なくその道を通らなければならないか、そうでなければたまたま運悪くこんな所に来てしまったか、あるいは何か理由があってやってくる人間なのだろう。
そんな、地元の人間からも敬遠されがちな桜林の側に、よりにもよって夕暮れ時に通りかかってしまった少女がいた。
着ている濃紺のセーラー服は、市内にある私立校・聖華高校のものだ。
地下鉄の駅も近いから、おそらくは地下鉄に乗ってその駅までやってきて、そこから徒歩で家路についているのだろう。何かイレギュラーな理由があって帰宅が遅れてしまったのか、通学時には必ず通るはずのこの道の、余りの豹変振りに、少々戸惑ったような表情を浮かべている。
「…………」
ゴクリ、と唾を飲み込んで、彼女は薄闇に沈む歩道を見つめる。
氷浦市営地下鉄遠野口駅を基点とする、ちょっとした商店街に続く道だというのに、両脇を走る歩道には街灯一つ備えられていない。
シーズンになれば夜桜見物などでそれなりににぎわう場所だから、街灯の一つはついていても罰はあたるまい。にもかかわらず、このように寂しい限りの状況になっているのは、一つはシーズンになれば夜桜鑑賞の為の雪洞がそこかしらに取り付けられるから、もう一つには、ただ単に、この道を通る人間が、あまりいないからに他ならない。
現に今も、彼女が駅へと降りる階段を多くの乗客とともに上ってきたばかりだというのに、この道を通ろうとしているのは彼女一人の他には誰もいない。
どうしようか、と、彼女は迷った。
別に、この道を通らなければ家に帰れない、というわけでもない。
帰れないわけではないが、別の道となると、それ相応に遠回りをしなければならなかった。
夏の、まだ暑い時期なら、あるいはそちらの道を通って帰っても良かったかもしれない。
だが、季節はもうすぐ冬を迎えようかという時期だ。
制服の中にも外にもある程度着込んではいるが、それだって吹き付ける風にはあまり役に立たない。丈の長いコートを羽織れるのは、まだ当分先のことだ。
そんなわけで――彼女は、遠回りをして寒い思いをするより、この道を突っ切って帰ることを選んだ。
もちろん、歩道のすぐ脇に迫る桜林が不気味でないわけはなかったが、毎日通っている道だし、皆が噂しているように、桜林という桜林に曰くがついているなんて、そんな馬鹿な話があるわけがないのだ。
そう、心に決めて、彼女は歩道を歩き始めた。
自然と、足が速くなる。
余計なものを見ないように、目がずっと遠くのほうに向く。
心臓の鼓動が、どんどん早くなる――やはり、怖いものは、怖い。
今にも走り出したくなるのを何故かこらえて、彼女は無言で歩いていく。
と。
ふと、視界の隅を、何かがよぎる。
「…………」
そちらのほうに目をやりたい衝動をこらえて、歩く、歩く。
だが――先ほど視界の隅をよぎった「何か」は、まるで彼女にその存在を訴えたいかのように、何度も何度も、その姿を見え隠れさせる。
そして。
不意に、それが光った――光ったように、見えた。
「………?」
よせばいいのに、少女はそこで足を止め。
「―――――――ッ!?」
「何か」に目をとめて一瞬硬直し、次の瞬間にはとんでもない悲鳴をあげて、せっかく怖いのを我慢して歩いてきた道を逆方向に――つまり、元来た方向に、回れ右をして走り去っていく。
「…………………」
少女が走り去った後には、何かを訴えようとしていたのか――半透明に透けて見える人影が、恨めしそうな表情で少女が走り去った方向を見つめていた。
「………と、いうわけなのよ」
数日後の、昼休み。
聖華高校内の学食で、遠野澪は友人から聞いた話を、従兄弟である織姫真に、多少脚色をつけて話し終えていた。
「何とかなりそう?」
「うーん………」
話を聞いている間、黙々と親子丼を食べていた真は箸を置くと、お茶を一口飲んでから首をかしげる。
「それは、今でもそういう現象がおきてるんですか?」
「起きてなきゃ、こうして相談には来ないわよ」
尋ねた真に、何を当たり前のことを、という言葉を言外に含めて、澪が答える。
「うーん……こういう話は、刃に持っていっても埒があかないですしね」
難しそうな表情で考え込む、真。
刃とは、真や澪と同級生の少年の名である。「トラブルバスター」と称して、種々雑多な内容の依頼をこなす――例えば、運動部の試合の助っ人から、揉め事の仲裁まで――いわば、聖華高校内の便利屋か、もしくは始末屋とでも言うべきものを営んでいる。真はこの刃と妙な縁で知り合ったのをきっかけに、時折トラブルバスターの片棒を担ぐこともあるし、刃では処理しきれないと思われる案件が真に回ってくる事だってある。今回の澪の話は、そういった「刃では無理な」案件ということになる。それはそうだろう。澪の話を聞く限り、どう考えても怪談話のネタにしかならないコトをフツウの高校生が解決できるとは思えない。となると、当然真にだって解決できるはずはない……のだが。
「とりあえず、一度現場を見てからにしましょう」
難しい表情をして考え込んでいたにしては、割とあっさりと真が頷く。
「ホント? よかった……」
あからさまな安堵の表情を浮かべる澪に、真は苦笑いを浮かべる。
「……まだ解決できる、という保障はないんですけどね……」
「え、何か言った?」
ボソリ、と呟いたところをばっちりと聞きとがめられて、真は慌てて首を振る。
「別に、何も言ってませんよ」
「そう? それじゃぁ、お願いね」
にっこりと微笑んで席を立つ澪に、真は微かにため息をつく。
「面倒なことにならなければいいんですけどねぇ……」
呟いた真は、首を軽く横に振って、残っていたお茶を飲み干すのだった。
その日の夕方。
「ここですか……」
早くも人気のなくなった例の歩道を、用心深く辺りを見回しながら歩く、真の姿があった。
一度家に帰ってきたのか、私服である。
何かが、違う。
そう、真は感じた。
上手く言葉に表すことができないのがもどかしいが、少し勘のいい人間なら、この道が、何かしら「妙な感じ」がするのを感じるはずだ。
「この桜林に曰くがついてる、なんて話は聞いたことがないのですが……」
首をかしげながら、真は歩道の脇に広がる桜林に目をやる。
ゾクリ、という悪寒とともに、視界が微かにぶれる。
どうやら、澪から聞いた話のとおり、「何か」がいるのは確かなようだ。
だが。
それが分かったからといって、解決にはならない。澪は直接的には言わなかったが、結局この「何か」の正体を突き止めるか、あるいは何らかの方法をもって除去するなりなんなりしなければ、「解決」したとは言うまい。
だが――正体を突き止める、あるいは問答無用に除去する、といった作業は、えてしてかなりの危険を伴う。そういった作業を一人で行うのは、定石ではない。
かと、いって。
「JGBAに話を通すのもややこしいですし」
思案顔で呟く、真。
JGBAとは、日本全国の退魔士たちが所属ずる、一種の互助組織のようなものだ。退魔士とは、文字通り、「魔」を退治することを生業とする職業のことをいう。有体に言ってしまえば「化け物退治」ということになるのだが、この真もまた、JGBAからライセンスを受けている退魔士の一人なのであった。
が。
そういった組織に所属している以上は、ちゃんとした服務規程といったものがあるわけで。
こういった、高校生の噂話程度の話をもとに依頼された仕事というのは、はっきり言って誰も受けたがらないし、JGBAだって動くとは思えない。
もちろん、真が個人的なつてをたどって、知り合いの退魔士に一緒に出てもらうこともできないことではないが、依頼主が高校生ではたいした報酬が出るとも思えないし、第一、真がこういった「トラブルバスター」としてこの手の騒ぎを解決していくことに対しては、抵抗を感じている退魔士がほとんどなのだ。協力を仰ぐことができたにしても、あまりいい顔をしてくれはしないだろう。
となると、JGBAとは別の「枠」で動いている人間に頼むしかない、ということになるのだが――
「……………?」
ふと、視線を感じて、真はその方向に目をやる。
「……………!」
澪の友人のように悲鳴を上げたりはしなかったが、それでも、真は十分に驚いていた。
何の前触れもなく、加えてそういった気配を感じさせるでもなく、半透明に透けて見える男がすぐ側までやってきて、恨めしそうにこちらを見ていたのだ。
「………驚かせないで、くださいよ」
じりじりと後ろに下がって、真は男に抗議の声を上げる。もちろん、相手からの返答などはなから期待してはいなかったが、意外にも、男はなにがしかの言葉を言いかけて、やめた。
「え、何ですか?」
思わず聞き返す、真。
だが、男はそんな真に答えることなく、スゥッ、と、その姿が掻き消える。
「………あの人に、頼んでみますか」
残された真は、何か釈然としないものを感じながら、男が立っていた場所をじっと見つめているのだった。
夜の街には、実に様々な人間がいることを、改めて実感させられる。
幸せそうな表情の、カップル。
虚ろな顔で路上に座り込んでいる、くたびれたホームレス。
眉間にしわを寄せて足早に歩き去るビジネスマン。
見るからに軽薄そうな、若い男。女。
そんな人々の中に混じって、ベンチに座ってギターを奏でながら、歌を歌っている若い女性がいた。
年の頃は、20歳前後といったところだろうか。
ショートカットにした髪の毛は、綺麗な栗色をしている。染めているのではない、自毛だ。黒目がちな大きな瞳とあいまって、非常に活発的で、気の強そうな印象を受ける。まずまずの、美人だった。
街を歩いていれば、声をかけられることも多いに違いない。
「氷翠さん」
そう、声をかけられて、うつむき加減にして歌を歌っていた女性は、顔をあげた。
「真君? 久しぶりじゃない」
途中まで歌っていた歌をやめて、氷翠と呼ばれた女性はにっこり、と笑いかける。
「あの……お邪魔では、ありませんでしたか?」
彼女が歌を止めたことに気を使ったのか、真はすまなさそうに声をかける。
「え? ああ……いいのよ。今日は聞いてくれる人もいないし、そろそろ帰ろうか、と思ってたところだから」
「そうですか?」
不思議そうな顔で、真は首をかしげる。
「それより、どうしたの? こんな時間に会いに来るなんて」
傍らにおいていたペットボトル入りのお茶で喉を潤して、氷翠はチラリ、と腕時計を見やる。
すでに、針は深夜1時を回っている。あまり高校生が出歩いていい時間ではない。
「ええ、その……少し、手伝っていただきたいことがありまして」
「……なるほど、ね」
ニィ、と笑みを見せる、氷翠。
「じゃぁ、いつもの店に行こうか。寒いし、おなかもすいたし」
うなずく、真。
「それじゃぁ、行こうか?」
「うーん……なんか、釈然としない話ね」
氷浦駅近くのファミレスでコーヒーを飲みながら、氷翠は難しそうな表情でそうこぼした。
「あの桜林、別に変な噂があったわけでもないしねぇ……」
真が桜林の前でもらしたのと同じことを、氷翠はぼやくように呟く。
「まぁ、真君の話を聞く限りでは、何か伝えたいこととか、そういうのがあるんだろうけど……よく分からないわね」
頷く、真。
「ホントはそういうのって、放っておいても別に問題なさそうなんだけど、そうもいかないんでしょ?」
「ええ、まぁ……。私も、そうは思うんです。ただ……」
「依頼は依頼だから、しょうがない、ってとこか」
一人頷く、氷翠。
「まぁ、とにかく……一度、直接見てみないことにはなんとも言えないわね。ただ……」
「ただ、何です?」
「その桜林って、遠野口駅からそんなに離れてなかったでしょ? となると、それを見たのって、依頼人の子や真君の他にもいると思うんだけど」
「そうなんですよ、ね……。私もそう思うんです。でも……」
「そういう話は聞かない、と」
頷く、真。
「じゃぁ、仮にその男がもう亡くなってる人の霊だとすると、ごく最近そういう風になってしまったのかな」
「そうなるでしょうね。それなりに月日がたっているのなら、何かしら噂に出るはずですし」
仮に、と氷翠が言ったのには、それなりの理由がある。
こういった現象の原因としては、生きている人間の魂が何らかの拍子で身体から抜け出てしまい、その辺をさまよっているケースだって考えられるし、もっと別のモノ――例えば、器物や樹木に宿る精霊とでも言うべき存在が人の形をとって現れることだって考えられる。もちろん、故人の霊が何らかの理由でさまよっていたり、何かを訴えたいがために、その存在を知らせようと現れた、というケースが一般的ではあるのだが。
「分かったわ。あたしも、やれるだけのことはやってみるわね。じゃぁ、とりあえず明日、もう一度会いましょう。いろいろ準備も要るだろうし」
「助かります」
「いいわよ。あたしにこの話を持ってきた、ってことは、JGBAが動きそうにもないからでしょ?」
「……ばれてましたか」
ははは……と苦笑いを浮かべて、真は頷く。
「バレバレよ。苦労してるみたいじゃない?」
「ええ、まぁ……そうでもないですけど」
ばつが悪そうに頬を掻く真を、氷翠はクスクス、と笑いながら、悪戯っぽい目で見つめる。
「ねぇ……ウチに来る気、ない?」
「………は?」
いきなり突拍子もないことを言われて、真は首をかしげた。
「真君だったら、それなりの待遇はあると思うんだけど」
「ハハハ……まぁ、考えておきます。……それじゃ」
「ええ、また、明日ね」
頷くと、氷翠は伝票を持って席を立つ。
「あ、私が払いますよ」
慌てて手を伸ばす真を、氷翠は笑いながら制する。
「いいのいいの。年下の子におごってもらっても、あんまりいい気しないから」
「でも、悪いですよ。もともと、私が持ってきた話なのに」
「じゃぁ、この仕事が終わったら、ご飯でもおごってもらおうかな。デート付きで、ね」
「……は?」
「冗談よ」
夥しい数の疑問符をいっぺんに頭上に浮上させる真に、氷翠は意地悪な笑みを浮かべて、ポン、と真の頭を叩く。
「……でも、たまにはデートでもしてみたいな。真君さえ良ければ、だけどね。それじゃぁ、また明日ね」
さらり、と爆弾発言を残していく、氷翠。
たっぷり5分ほど氷翠が去っていった方向を眺めた後で、真はあることに気づいた。
「ところで……明日は、何時に何処で落ち合えば……?」
慌てて真が店の外に飛び出した時には、既に氷翠の姿は、都会の雑踏の中に飲み込まれてしまっていた。
翌日――深夜、2時過ぎ。
氷浦市営地下鉄遠野口駅の階段の前で、真は氷翠を待っていた。
『ゴメン、待ち合わせを言ってなかったよね? 夜中の2時に、遠野口駅の階段のところで待ち合わせにしようか 氷翠』
そう、氷翠から携帯にメールが入ったのは、明け方の4時ごろ。
もちろんリアルタイムでそれを受信したわけではなく、朝起きたら、携帯にメールの着信表示が出ていたのだ。
一体、何時まで起きていたのだろう――つくづく不思議な人だと、真は思う。
「氷翠」とは、もちろん本名ではない。彼女が仕事をする時の、コードネームのようなものだ。本名は確か……姫野智尋といったような、気がする。今のところ、仕事がらみ以外ではあまり接点がない為に、彼女を「姫野さん」とか、「智尋さん」などと、本名で呼ぶことは、ほとんどない。
もっとも、仕事がらみで頻繁に会うかというと、そうでもない。
やっていることは似たようなことなのだが、彼女は真が所属しているJGBAとは違う、別の「枠」の中で仕事をしているから、そもそも彼女と真の間に接点があるということのほうが、不思議と言えば不思議だった。
彼女の所属する「枠」を、CASTという。
JGBAに登録する退魔士とほぼ似たような仕事をすることが多いが、違いとしては、JGBAはライセンス制度を元にした、かなりしっかりとした管理体制を強いているのに対し、CASTはその逆。つまり、ライセンスなどが存在しない、緩やかな体制のもとで運営されている、という点があげられる。また、JGBAは企業としての色合いが強いが、CASTはむしろ、様々な特殊能力を持ったモノたちが寄り集まった、一つのコミュニティーといった感が強い。
昨日の夜、氷翠が「ウチに来る気、ない?」と言ったのは、何も氷翠の家に来ないか、という意味ではなく、JGBAからCASTへ移籍しないか、という誘いの言葉だったわけだ。
実際、そういった例はいくつかあるし、その度にJGBAとCASTの間で揉め事が起きる。退魔士たちの間では、「殉職」と発表された退魔士のうちの何人かは、CASTに移籍しようとして消されたのではないか、という噂がまことしやかに流れているくらいなのだ。
それだけに、JGBAのCASTに対する認識はあまりいいものではないし、その逆もまた然り。
本来なら、JGBAに属する真と、CASTに属する氷翠が一緒に仕事をするということは、まずありえない話なのである。
そういう意味では、こうしたことを平気でやる二人は、かなり変わっているといっていいのだろう。氷翠も十分不思議な人間だが、真もまた、不思議な人間なのである。
「お待たせ」
一声、そうかけてから、氷翠は手持ち無沙汰に携帯をいじっていた真の顔を覗き込んだ。
「ちょっと、待たせちゃったかな?」
「いえ、そんなことは」
「そう? 顔に出てるわよ?」
「えっ?」
思わず頬に手をやる、真。
「……なんてね」
ピン、と真の鼻の頭をはじいて、氷翠はニィ、と笑みを浮かべる。
「準備はできてる?」
「ええ。とりあえずは」
頷いて、真は上着のポケットから数枚の紙切れを取り出す。
奇妙な紋様が書き込まれたそれを見て、氷翠は不思議そうに首をかしげた。
「呪符? 真君、得意だったっけ」
「いえ、それほど得意、というわけでもありませんが……街中で拳銃を使うわけにもいかなさそうなので」
「……それも、そうね。あ、そうだ……」
頷いて、氷翠は羽織っていたコートのポケットを探る。
「まぁ、使わないに越したことはないんだけど、これ」
そういって、氷翠は真に首飾りを差し出す。
「勾玉……ですか?」
「あたしのと揃いにしたんだけど」
そう言うと、氷翠は首に下げている勾玉を摘んで見せる。
「別に洒落じゃないんだけど、翡翠でできてるから。それなりの護符にはなるわよ」
「……ありがたく、受け取っておきます」
そう言うと、真は渡された勾玉をつける。
「それじゃぁ、行こうか」
「ええ」
頷きあうと、二人はグッ、と表情を引き締め、件の桜林へと向かった。
「……なんだか、雰囲気悪いわね」
「氷翠さんも、そう思いますか」
問題の場所まではまだ少しあるというのに、氷翠は早々に足を止めた。
空気が、重い。
まるで身体に絡み付いてくるかのような濃い闇に、二人は顔をしかめた。
「あまり、近づきたくないなぁ……」
ぼやくように呟く、氷翠。
「……かといって、こんなところで足踏みしてても何の解決にもならないし」
思案顔で、氷翠はじっと闇の向こうを見据える。
と。
「え……何?」
何か、声が聞こえたような気がして、氷翠は誰にともなく、問い掛けた。
「氷翠、さん……?」
訝しげな表情で尋ねる真に、氷翠は指を唇に当てる。
「……この声、聞こえない?」
小声で囁く彼女に、真は黙って首を振る。
「何か……いる。それが何なのか分からないけど」
「人の声、ですか?」
「だと、思う。少なくとも、そう聞こえるわ」
そう言うと、氷翠は軽く目を閉じる。
「………………………」
やがて、まるで誰かに対して頷くようなそぶりを見せる。
「真君、あたしの手を、握ってみて」
言われて、真は差し出された氷翠の手を、そっと握る。
その、途端。
「あ……こ、これは?」
思わず離しかけた手を、逆に氷翠のほうが、ギュッ、と力を入れて握ってくる。
「歌……ですか?」
頷く、氷翠。
「歌ってる。誰かは分からないけど……なんだか、とても哀しい歌だわ」
「でも、どうして……?」
首をかしげる真に、氷翠は軽く、首を振る。
「あたしにも分からない。少なくとも、ここにいる限りは、ね」
そう言うと、氷翠は握っていた手を離す。
それと同時に、真に聞こえていた歌も聞こえなくなる。
「行ってみましょう。ひょっとしたら、まだ死んでないかもしれない」
「まだ……?」
首をかしげる真に、氷翠は頷く。心なしか、表情が沈んでいる。
「あの声……聞いたことがあるの」
「え? それはどういう……」
「………行ってみれば、分かるわ」
促すように、氷翠は真の手を握る。
「行きましょう」
そう言うと、氷翠は真の手を握ったまま、桜林のほうへと歩き始めた。
「生きてて。お願い……」
祈るように呟く氷翠の目に、真は微かに光るものを、見つける。
氷翠に手を引かれて行く真の脳裏には、哀しげな旋律が、響いていた。
「……やっぱり」
桜林をずいぶんと奥に来たところで、氷翠は足を止めた。
「あ、あれは……」
一目であまり大事にされていないと分かる、古ぼけた祠の前に、一人の男が、佇んでいた。
「この人?」
尋ねた氷翠に、真は何度も頷く。
「何処に行ったかと思ったら……こんな所にいたんだ」
半透明に透き通っている男を前に、氷翠は深いため息をつく。
「知り合い、ですか?」
尋ねられて、氷翠は少し、首をかしげた。
「知り合いと言えば、知り合いになるかも」
曖昧な笑みを浮かべて、氷翠は続ける。
「あたしがまだ路上で歌い始めたばかりの頃だったかな。この人に、色々教わったの」
「……………」
「歌を聴いてくれそうな人を探すのなら、此処に行けばいい、とか、寒い日に指の感覚がなくなったときには、こうすればいい、とか――」
言葉を切って、氷翠は指で目尻を拭う。
「歌もね、すっごい上手だった。歌いに来たはずなのに、いつの間にか、他の皆と一緒に、この人の歌を聞いてたりとか……ね。すごい、人だった」
「だった……?」
首を傾げた真に、氷翠は頷く。
「すごい人だったの。実際、いくつかの事務所から超えかかってきてたらしいし。……でも、ね。歌えなくなっちゃったの」
「……どうして?」
「分からない。いつもどおり歌っている時に、突然血を吐いた、って話もあるけど……あたしには、分からない。でも、そういう噂が流れたのを境にして、この人を見かけなくなったのは、確かなんだ」
悲しそうな目で、氷翠は男を見つめる。
「そしたら、ついこの間……この人が事故にあった、って聞いたの」
「……事故、ですか?」
「うん。ホラ、こないだ、氷浦駅前で何人かが暴走した車に跳ねられた、っていう事故があったじゃない?」
頷く、真。
「その、跳ねられた人の中に、この人がいたの。あたし、すぐ病院に行ったんだけど……その時にはもう、魂が入ってなかった」
「………?」
「身体はね、生きてたの。でも、魂が入ってなかった。跳ねられた拍子に抜け出しちゃったのか、それとも何か、他に理由があって抜け出しちゃったのかは、分からなかったけど」
「それで、ずっと探してたんですか……?」
頷く、氷翠。
「身体は生きてても、このままじゃぁ、いずれ死んでしまうでしょ? そうなる前に、自分の身体に戻ってほしかったの。……例え、このまま死んでもいい、って、この人が思ってたとしても、ね。そんなの、余計なお世話かもしれないけど。でも、ね……」
もう一度、氷翠は目尻を拭う。
「なんだか、身体に戻してあげていいのかな、って……そう、思うの」
「………?」
「まだ、聞こえてるでしょ?」
「え? ええ、はい」
「歌」のことを聞いているのだと分かって、真は頷く。
「やっぱり、歌いたかったんだろうな、って……ね。身体を抜け出してまで歌っているところを見ると……」
目を伏せる、氷翠。
「……でも、やっぱり、このままにしておくのはまずいと思います」
「………」
氷翠は、じっと真を見つめる。
「やはり、生きた魂……何か変な言い方かも、知れませんけど。そういう魂が、身体を離れていて、いいわけがない。氷翠さんがいうとおり、今はまだ身体が生きていても、いずれは死んでしまう。そうなってしまえば、もう取り返しがつかないことになります。なにより……」
うつむく、真。
「……なにより、そんなことになってしまって、騒ぎの一つでも起きれば、JGBAが黙っていないでしょう……」
ピクリ、と、氷翠の身体が震える。
「……もちろん、そうなるという確証は、何処にもありませんけど。でも、もしJGBAが動けば、退魔士は必ず封じにかかります。そのときにもし、私にやれと言われれば、やらざるを得ない……やりきれない思いを、承知で」
「そう、なのかな」
真の手を握る手に、グッ、と力が入る。
「そう、なのかな……絶対、そうしなきゃ、いけないのかな……戻ってもらわなきゃ、いけないのかな。此処じゃない、別の所に動いてもらうだけじゃ、いけないのかな……」
真は震える氷翠の顔を見ようとして、やめる。
代わりに、ゆっくりと、首を振った。
「『万の事は、在る可き所に在れ』……JGBAも、CASTも、それは、変わらないはずです……」
そう言うと、真はすがるように握られていた氷翠の手を、解いた。
ハッ、として、氷翠が真に目を向ける。
もう一方の手には、既に、数枚の呪符が握られていた。
「待って」
と、止める氷翠を、真は怪訝な顔で見つめた。
「……あたしに、やらせて」
意を決した氷翠を、じっと、真は見つめる。
しばらくそうした後で、真は無言で呪符をポケットの中にしまった。
「………ありがとう」
後ろに下がった真に、そう、呟く。
頷く気配が、氷翠には分かった。
右手を、自分の胸に当てる。
そして、スゥ、と大きく息を吸い。
(お願い……生きて)
そう、想いを込めて。
氷翠は、歌い始めた。
「……と、いうわけです。もう、出ないと思いますよ」
翌日――日曜日の、昼過ぎ。
氷浦駅の近くにあるファミレスで、真は澪とその友人を前に、結果を報告していた。
「それで、その……男の人は、どうなったんですか?」
澪が、同席していた氷翠に尋ねる。経過を報告するという真に、同席を願い出たのだ。
「あれからすぐに、意識が戻ったらしいわ。もともと結構ひどい怪我だったから、まだ歩けないらしいんだけど」
「そう、ですか……」
ため息をつく、澪。
「それで、ね」
微かに笑いながら、氷翠は続ける。
「よかったら、今度歌を聞きにきて欲しいって、そう言ってたわ」
「え……?」
不思議そうな顔でこちらを見る二人に、氷翠は肩をすくめる。
「それが、どういうわけか知らないんだけど……声が出るようになったらしいの。お医者さんも首を傾げてたけどね。ちゃんとリハビリをして、ボイストレーニングもこなせば、また歌えるようになるはずよ」
「よかった……」
ホッ、と胸をなでおろす、二人。
「だから、ね。今度、皆で聞きに行こうか。もちろん、彼が退院してからになるけど」
頷く、二人。
「それじゃぁ、あたしはこれで」
「え、もう帰るんですか?」
頷いて、氷翠は席を立つ。
「ちょっと、レポートが残っててね」
残念そうに笑うと、氷翠はそっと、真に囁く。
「また今度、ご飯でも食べに行こうね」
「……え?」
思わず聞き返した真に、氷翠は意地の悪い笑みを漏らす。
「ホラ、こないだデートしようって、言ったでしょ?」
途端に、真の顔が引きつる。
「真……どういうこと?」
「え、ああ……これは、その……冗談ですよね、氷翠さん?」
洒落にならない殺気を帯びてにらみつける澪に、真はわたわたと氷翠に助けを求める。
が。
「ほ・ん・き。じゃ、またね〜!」
さらりと爆弾発言を残して、氷翠は伝票を持って風のように去ってしまう。
「ひ、氷翠さん……ひどいです」
「真! ちゃんと、説明してよね!」
後には。
同席している友人をそっちのけにして真を追及し始める、澪の姿があった。
それからしばらくの後、氷浦から一人の男性ミュージシャンが誕生するのだが……この時はもちろん、彼らには知る由もないことである。 |