「……暑い、ですね……」
西日が差し込み、まだ昼間の熱気の余韻が残る縁側で、織姫真は一人、先ほどコンビニで買ってきたかき氷(イチゴ味)を片手に、パタパタと団扇であおいでいた。
夕方とはいえ、時折吹き抜ける風は、また熱気を伴っていた。
7月の、頭である。
ここ数日はずっと雲ひとつない天気が続いているところを見ると、おそらく、梅雨明けも間近に迫っているのだろう。
今日も、暑かった。
そして多分、今夜も、暑い。
寒いのは苦手だが、それと同じくらい暑いのも苦手という、存外にワガママな性格であるところの真にとって、これから迎える真夏の日々はまさに、鬼門である。
そんな真とは対称的に。
真のいる縁側から少し離れた生垣の向こうからは、先ほどからちらほらと、二人、三人、あるいは四、五人で連れ立って歩いていく女の子の声が響いてきていた。
生垣の向こうは、大通りに面した鳥居から、織姫家が社家を務める、糺宮神社の社殿へと続く参道になっている。糺宮神社そのものは由来を室町時代初期まで遡り、このあたりでは、わりと名の知れた古社だ。
が。
彼女たちの目的はその糺宮神社ではなく。それを示すかのように、話し声は糺宮神社の社殿があるあたりより、さらに奥のほうまで行って、そこで途切れる。
かすかに聞こえてくる、拍手を打つ音。
「ああ、もう、そういう時期ですねぇ」
「そうだな。もう、そういう時期だ」
「………?」
一人で頷いていたところに不意に声がかかって、真は慌ててそのほうを振り返る。
「ああ、咲夜さんですか」
いつの間に現れたのか、振り返った先には、若い女性が一人、こちらに歩いてくるところだった。
「もうすぐ、七夕か。毎年毎年、ご苦労なことだ」
「……まぁ、困ったときの神頼み、という言葉もありますし」
「そうか? それはちょっと、違うと思うのだがな……」
強烈な西日に手をかざしながら、女性は真の隣に腰をおろす。
「ところで」
「ところで?」
「いいモノを、持ってるな」
「…………」
じっ、とかき氷を見つめる咲夜に、真は無言でスプーンを口に運ぶ。
「……奪ってでも、食べる」
スプーンを口にしたまま、しばらく、にらめっこをしていた真だが、そう言われて、彼は早々に白旗を揚げた。
「……ちゃんと、咲夜さんの分も買ってきましたよ」
「なんだ、わかっているじゃないか?」
一転して、嬉々とした表情でコンビニの袋を受け取った咲夜だが――、
「むぅ?」
袋を開けたとたん、恨みがましい眼で、再び真のほうを見つめる。
「……どうか、しましたか?」
「……真」
「はい?」
「どうしてお前のはイチゴで、私のが宇治金時なんだ?」
「いや、どうして、って言われても……」
「私はそっちが、いい」
「そっちって、これですか?」
持っていたかき氷を指差す真に、咲夜は無言で頷く。
「食べかけですよ?」
「かまわん」
「…………………」
再びにらめっこを始める二人だが――やはり、というか。
「……それじゃぁ、どうぞ。そのかわり、そっちをください」
早々に白旗を揚げて、かき氷を差し出す、真。あまりに神妙な面持ちでかき氷の交換を申し出た彼に、咲夜は一瞬驚いたような表情を見せたが――やがて。
「……プッ……ククク………ハハハハ…………」
「……ど、どうか、しましたか?」
こみ上げる笑いをこらえきれない、といった風に笑い始めた咲夜に、真はキョトン、とした表情で尋ねる。
「……冗談だ」
「……はい?」
「冗談だよ、冗談。からかってみただけだ」
そう言うと、咲夜はさっさと手にしたコンビニの袋からかき氷を取り出し、蓋を開ける。
シャクッ。
程よい加減に氷が溶けた宇治金時に、咲夜は木製のサービススプーンを突き刺し――、
シャクッ。
器用に深い緑色に染まった氷と小豆をすくい取り、そして、口の中へ。
「うむ。やはり、暑い日は氷に限るな………どうした? 私の顔に、何かついているか?」
意地の悪い笑みを浮かべて、咲夜は真を見やる。
「別に………」
わざとらしいため息をついて、真は再び、かき氷をつつき始める。
シャクッ。
日もだいぶ傾いたためか、幾分か勢いが弱まった蝉の鳴き声の中に、氷をすくう音が響く。
「もうすぐ七夕、ですねぇ」
「……そうだな。もうすぐ、七夕だな」
参拝を終えたのか、再び、生垣の向こうから聞こえてきた女の子の話し声に、真が氷をすくう手を止める。
毎年、七夕が近づいてくると、糺宮神社――正確には、その境内の中にある姫桜神社を訪れる女性が増えてくる。
姫桜神社そのものは、由来不明の、申し訳程度の社があるだけの小さな神社である。そんな神社に、普段は神社など見向きもしないような女性たちがこの時期に限って訪れるのには、もちろん、それなりの理由がある。
伝説に曰く。
戦国の昔。
この地方の小領主の家に嫁入りした、ある姫がいた。
政略結婚である。
世は、乱世。このあたりも戦とはまったく無縁とはいいがたい情勢であった。加えて、家臣が主君を裏切り、あるいは親と子が反目し、兄と弟が互いに殺し合う――そういった悲劇が、少なからず繰り返されるのが、時代の風潮でも、あった。そんな世の中で、結婚という儀式もまた、戦国の世の中を生き抜いていく一つの手段であったわけだ。
とはいえ。
政略結婚であるからといって、夫婦の仲がよくないかというと、必ずしもそうではない。
同じく政略結婚で結ばれた北近江の領主・浅井長政と織田信長の妹・お市との仲がそうであったように、夫婦の仲むつまじく、子宝に恵まれた例もある。
幸いにして、この姫も良い夫に恵まれたといえよう。
二人の仲はむつまじく、それを反映するかのように、このあたりは戦乱の世の中にあって、比較的、平穏な日々が訪れた。
だが。
浅井長政とお市がそうであったように、政略結婚で結ばれた二人は、それぞれの家の事情でいとも簡単に引き裂かれる運命にある。
姫が嫁入りしてからあまり時が経たぬうちに、小領主の主家と姫の実家との間で、不穏な空気が流れ始めた。対立が決定的なものになれば、もちろん、姫は離縁され、実家に戻らなければならない。
姫は実家に何度も手紙を送り、夫は何度も主家を説得し――なんとか、事態を収拾しようとしたものの。
もともと、友好関係にあったとは言い難い両家である。事態は好転する気配も見せずに、あっという間に、小規模な戦闘が散発するようになり、ついに、姫は離縁されて実家に戻されることになってしまった。
すでに、敵同士である。
もちろん、見送りなど許されるはずも、ない。
思い余った二人は、姫が実家に戻される前夜、強引に屋敷を抜け出すと、そのままあてどなく馬を走らせ、行方をくらまそうとした。
当然、追っ手がかかる。
何度か追っ手を振り切った二人だったが、やがて力尽き、ある神社の社の前で、次の世での幸せを願って、自害した。
その神社が今の姫桜神社であり――二人が自害したのは、7月7日、七夕の夜であったという。
一種の悲恋物語である。
そして、この悲劇に心を痛めた姫桜神社の神が、年に一度、七夕の日に恋人たちの願いを叶える、ということになっている、らしい。
らしい、というのは――真も、小領主の家に嫁いだ姫の悲恋物語は何度か耳にした事があるのだが、その後の姫桜神社の神云々、というのは、つい最近まで聞いた事がなかったくだりだ。
だが、その一方で。
やはり七夕の夜に特攻隊で出撃する青年の恋人がこの神社で願をかけたところ、青年が乗る予定だった機体ばかりが出撃前に突然動かなくなるということが続き、結局、そのまま終戦を迎えて青年が戻ってきたとか、交通事故にあって瀕死の重傷を負い、生死の境をさまよっている恋人のために祈ったところ、次の年の七夕の日にその恋人が無事退院したとか、そういった話が、山ほどあるのもまた、事実。
事実、なのだが。
「まったく……根も葉もない話につられて、よくもまあ、毎年毎年飽きないものだ」
シャクシャクと宇治金時をほぐしながら、咲夜が軽いため息をつく。
「根も葉もない話、ですか」
頷く、咲夜。
「こじつけようと思えば、いくらでもこじつけられるだろう? そういう話は、大方、いくつかの別々の話がいつのまにか一つに纏め上げられたものだ。噂話や伝説というモノは、数少ない真実に大勢の人間の想像力が加わって作り上げられる。人から人へ、人から人へ。何人もの人を経て伝わっていくうちに、一つの話が似たような話をいくつも生み出し、人はそれをなんとなく信じてしまう。その頃には明確にウソだと否定できるだけの根拠もないし、ほんのわずかに真実を含んでいるから、余計に信じやすくなる」
シャクッ。
氷を口の中に放り込んで、咲夜は続ける。
「………だが、そんな根も話もない話の出所と、それを信じる力とはまた別のものだ。人がモノを信じる力は本当に強い……信じることで願いを叶えた者もいることはいる。その話にまた尾鰭がついて、まったく別の物語が生まれる。そして、その物語を信じて、願いを叶える者が出る。それがまた別の物語を生み出す――不思議なモノだ」
「…………」
いつになく饒舌な咲夜に、真は少し、首をかしげる。
こうして隣で宇治金時を食べているものの、実のところ、咲夜は織姫家の住人では、ない。
では何者なのか? と聞かれると――真はいまだに、明確な答えを出すことができないでいる。
真が咲夜と初めて出会ったのは、今から9年前の、1990年の、ある夏の夜。まだ、真が小学2年生の頃のことだ。
幼くして両親を無くした真は、その当時、叔母夫婦の家に預けられていて、週末の土曜日、学校から帰ると実家に戻る、という生活を送っていた。
正直に言って、真はこの週末が嫌で嫌でたまらなかった。
早くに亡くなった真の父親も、いまだ健在の真の祖父も、職業は糺宮神社の神主をやっている。神社の境内を隅々まで掃除し、祭っている神々に供物を捧げ、依頼があれば厄除けや安産祈願から学業成就まで、種種雑多な用途で御祓いをし、あるいは地鎮祭に出向く。
そんな「神主業」を営む日々の裏で、父の孝も、祖父の司も、「退魔士業」を営んでいた。退魔士とは、文字通り、魔を退ける者のこと。有体に言えば、「化け物退治」をやっていたことになる。
当然、というか、何というか。
真もまた、この退魔士を目指すことになっていた。
なっていたのだが、真は、幼くして両親を無くした。
本来なら、手元において、退魔士としての訓練を受けさせたかったのだろうが、やはり、両親を無くした真を不憫に思ったのか――司は、真を娘夫婦に預けた。そして、その上で、毎週末には実家に帰らせ、退魔士に向けての訓練を施すことになったのである。
だが。
明確に退魔士になるという目標があるのならまだしも、まだ退魔士というものがどういうモノなのかすらよくわかっていなかった当時の真にとって、週末の訓練は苦行以外の何物でもない。
当然、訓練はうまくいかなかった。
咲夜と出会ったのは、そのような頃のこと。それからは、真が実家に帰り、司から訓練を受けた後で、咲夜に「秘密の訓練」を受け、徐々にその才能を開花させ――そして、それ以来の付き合いである。
シャクッ。
残り少なくなった氷をすくうその姿は、9年前に初めて出会った時と、ほとんど変わっていない。
多分――いや、絶対に、咲夜は人で、ない。
ただ、それは真にとってはどうでもいいことで。
どうでもいいからこそ、こうして縁側で二人並んで、かき氷を食べている。
「そういえば……」
ほどなくして、氷をすべて平らげた昨夜が、何かを思い出したように真を見つめる。
「……何ですか?」
「本当に信じていたのかどうかは知らんが、そういう噂話がなければ、お前は生まれていなかったのだぞ、真?」
「………はい?」
いきなり自分の出生にまつわる話を振られて、キョトン、とした表情で見つめる真に、咲夜は笑みを漏らす。
「もう、何年前になるか……ちょうど、お前の両親が初めて出会った頃のことだ」
そう言うと、咲夜は暗くなり始めた空を見上げながら、ポツリ、ポツリ、と話し始めた。
1977年、7月初め。
氷浦市内の大学に通う女子大生・緋月美春は、ようやく取れた休みを利用して、1日、氷浦の街中を見て歩くことにしていた。
故郷・九州のとある高校を卒業して、氷浦で一人暮らしを始めたのが、つい3ヵ月前のこと。それからしばらくは新しい生活と大学、そして退魔士への最終ステップ――現場での実地研修に慣れるので精一杯で、一息入れる余裕すらなかったのだ。
大学生の休日ともなれば、普通はデートをしたり、アルバイトに精を出したりするもの。それを、市内見物に費やすことにしたのは、ひとつは、単に氷浦という大都市の雰囲気を感じてみたかったから、そしてもうひとつは、実地研修のフィールドになる氷浦の街の様子を少しでも知っておきたかったからだ。
どこに、何があるのか。
どの道を行けば、どこに通じるのか。
そして、退魔士としての目で見て、どこが安定していて、どこが不安定なのか。
地図や過去の記録を見れば、ある程度の情報は得られるが、それ以上のモノを望むのであれば、実際に自分の足で歩いて確かめるしかない。
もちろん、1日で氷浦市全域を回るのは不可能である。
アパートの周辺地域はこれまでに少ない暇を見つけては見てまわり、大方のことは頭に入れる事が出来た。そして、ようやく、少し遠出をして見てまわる、という段階にきたわけだ。
今日の目標は、東西に長く伸びる氷浦市のほぼ中心、氷浦城跡から北東に行った所にある、糺宮神社のあたり。
手始めにここを選んだのには、もちろん、それなりの理由がある。
氷浦市内には、他の同規模の都市に比べて、神社仏閣が数多く存在している。
そんな、多くの神社や寺の中で、最も名が通っているのが、糺宮神社である。もちろん、そういった神社は、退魔士としても重要なポイントになる。
そういった、重要なポイントを自分の目で見ておきたい。ひとつは、純粋に退魔士としてのモノの考え方からのものだ。
理由はもうひとつ、ある。
糺宮神社の境内にある、姫桜神社。
由来もよくわからないし、祭られているのがどういった性格の神なのかもほとんどわかっていないが、どうやら、縁結びの神様としてのご利益が期待できるらしい。
同じ学年の女の子の間では、わりと話題にのぼる神社だし、職業柄、そういったことには詳しいはずの退魔士の間でも、そういう噂がたっている。
人とは違う、特殊な職にあっても――いや、特殊な職にあるからこそ、ステキな恋人が欲しい。
もうひとつの理由は、そういった、「年頃の女の子」としての願いからのものだ。
そういった、わけで。
美春は、街に出たのである。
大学の近くにある美春のアパートから糺宮神社へ行くにはいくつかの方法があるが、一度、バスで氷浦駅前に出て、そこでバスを乗り換えるのが一番早く着く。アパートの最寄りのバス停から氷浦駅までは約40分、氷浦駅から糺宮神社の最寄りのバス停までは、約20分といったところ。
バスから降りたところで、美春は一度、大きく背筋を伸ばした。
近くに大学がある以外、ほぼ住宅街といっていい美春のアパートの周辺地域に比べて、景色はだいぶ違って見える。
美春のアパートの周辺は、わりと新しい住宅地が多いのに対し、このあたりは、わりと古い住宅地が多いように思えた。そして、このあたりは氷浦駅を中心とした商業地域や氷浦市総合庁舎を中心としたオフィス街と、それらを取り囲む住宅街のちょうど境目のあたりになるらしく、あたりを見まわすと、ところどころにかなり大き目の建物がポツン、ポツン、と建っているのが見える。中には建設中のマンションと思しきモノもあり、これから数年かけて、周りの景色が大きく変わっていくのだろう。
そんな中に。
糺宮神社は、一目でそれとわかる大きな鳥居の奥、都会においては貴重ともいえる古木の群れに抱かれるように鎮座していた。
これから周りがどんどん変化していこうという中、頑なにその変化を拒もうとしている――急激な変化の兆しを見せている周りの景色とは対照的に、数十年後、もしかしたら百年後でもまったく変わらぬ姿を保っていそうな、そんな雰囲気を、美春は感じた。
鳥居をくぐる。
目の前にまっすぐと延びる、参道。
その奥に見える、社殿。
それを護るように生い茂る、木々。
思わず、美春はため息をついた。
聖域、とでも言おうか。
鳥居をくぐった途端、人工的な音は何もかもかき消され、風に揺られる木々の音しか、聞こえなくなる。
ひんやりとした、空気。その中を駆け抜けてくる風は、先ほどまで乗っていたバスのクーラーの風とは違い、どこか温かみのある、心地よい冷気を運んでくる。
天を仰ぎ、そのまま、目を閉じる。
そのまましばらく、美春は風に吹かれていたのだが――。
「………どうかしたのかね?」
突然、後ろからかけられた、声。
ビクンッ。
一瞬、跳ね上がるように体を震わせ、次の瞬間。
「きゃあッ!?」
思わず可愛い悲鳴をあげて、美春はバッ、と後ろを振り返る。
男が、いた。
まだ、若い。おそらく、年のころは美春とほとんど変わらないはずだ。
そして、長身である。身の丈、およそ180cmはあるだろうか。
美春からすれば、まさに見上げるような、そんな感じだ。
「あー……すまんすまん」
美春の反応に驚いたのか、男はポリポリ、と頭をかきながら困ったような表情を見せる。
「ボーっと突っ立ったまま、いつまでも動かないもんだから、何かあったかと思ってな」
「……いつから?」
「へ?」
「いつから、見てたんですか?」
「………お前さんが、鳥居をくぐったあたりから」
途端に、かあっと、美春の顔が赤くなる。
「ああ、いや………その」
今にも泣き出しそうな美春に、男はさらに困ったような表情を見せる。
「……帰ってきたら、ちょうどお前さんが鳥居をくぐるのが見えてな。こんな時間に珍しいもんだ、と思ったんだ」
「え? ……帰ってきたって……?」
「そこ、俺の家だもの」
そう言うと、男は参道の脇のほうを指差す。
つられて視線を向けた先には生垣があり、その向こうに、一軒家の屋根が見える。
「……………」
「まぁ、そういうわけだから。参拝に来たのなら、ゆっくりしていきな。神社以外、何もないけど」
そう言うと、男はすたすたと参道を奥のほうへ歩いていく。
「あ、あの!」
「ん?」
「この神社の……方ですか?」
「この神社の方も何も……ここの神主の息子」
何を当たり前のことを、といわんばかりに答えた男に、美春は再び、顔を赤く染める。
「変な声を上げて、すみませんでした」
「あー………」
思いっきり頭を下げた美春に、男はポリポリ、と頭をかく。
「別にいいって。俺のほうこそ、驚かせちまったな。……それじゃ」
そう言うと、ひらひらと手を振りながら、再び参道を奥のほうへ歩いていく。
「そういえば、名前、聞いておけばよかったかな………」
美春がそのことに気づいたのは、糺宮神社と姫桜神社への参拝を終え、再び鳥居をくぐった後のことだった。
それから、1ヵ月ほど後の事。
美春は、退魔士を統括する組織である、JGBA主導の大掛かりな作戦に参加することになった。
実地研修が始まってから、4ヵ月。
すでに何度か小規模な作戦で実戦に立ち、同時期に実地研修を始めた者たちの中では、優秀な戦績を収めている。研修生を監督しているJGBAの教導部の評価も高く、それが故の抜擢だったのだろう。今回の参加予定リストの中には、実地研修中の研修生の名前が載ったのは、美春だけだった。
そして、1週間の後、作戦当日。
美春にとって、忘れようにも忘れられない作戦が、開始されたのである。
無線のレシーバーだけが、ひっきりなしに撤退命令を叫んでいた。
作戦は予定通りのペースでほぼ半ばまで進み、初めて経験する大規模な作戦で、美春もそれなりに戦果を上げていた、その時。
確かについていたはずの街灯が、突然、灯を落とす。
夕方の予報にはなかった、雨。
ポツリ、ポツリ、と空から水滴が落ちてきたかと思うと、それはあっという間に、バケツをひっくり返したような大雨に変わる。
何が起きたのか――美春はもちろんのこと、作戦に参加していたほとんどの退魔士たちが、わからなかった。
状況は、一転した。
明かりのない、闇夜である。
そして、激しく地面をたたく、雨。
無線での指示を待つこともなく、退魔士たちは撤退を始めた。
視界がさえぎられ、聴覚も鈍っている。
相手は、何もないところから突然現れることも珍しくない、化け物である。
三十六計、逃げるに如かず。
殉職したところで、「一歩も退かずに、よくがんばった!」とは、誰も褒めてくれない。
ようやく撤退命令が出たときには、すでに半数近くの退魔士たちが離脱し、最後部の指令所のあたりまで撤退を終えていたのである。
美春は、というと。
良くも悪くも指令所の指示をきっちりと守っていた方で、無線のレシーバーから撤退命令が聞こえるまで、作戦区域内に踏みとどまっていた。
視界も悪く、雨の音にかき消されて、物音も聞こえない。
雨に濡れて、体も冷えてきている。肌に張り付いた服が、手にした銃が、腰にくくりつけた小ぶりの刀が、ずっしりと重い。
と。
バシャバシャと、水がはねる音が聞こえた。
慌てて、銃を握りなおす。
「おい、撤退命令が出てるぞ! 早く逃げろ!」
「え……っ?」
目を凝らしてみると、男が、息を切らせて走ってくるところだった。
「あ、あの………っ」
声をかける間もなく、男は脇を通り過ぎる。
『…………作戦区域内にいる者は総員、速やかに撤退せよ。繰り返す。作戦区域内にいる者は速やかに撤退せよ!』
ようやく、美春はレシーバーから、ひっきりなしに撤退命令が繰り返されていることに気付いた。
あたりを、見まわす。
消えた街灯。
降りしきる、雨。
突然、空からとんでもない音が聞こえて、美春は思わず身をかがめ、上を見上げた。
真っ黒に塗りこめられた空のあちらこちらで、時折、青白い光がはじけている。
『………作戦区域内にいる者は、速やかに撤退せよ。作戦区域内にいる者は総員、撤退……くり………作戦……』
耳障りなノイズと共に、レシーバーが沈黙する。
「そんな………」
肩につけているホルダーからレシーバーを取り外し、裏側を叩く。逆さにして振ってみる。スイッチを入れなおす。今度は強めに叩いてみる。強めに振ってみる。スイッチをオフにして、少し間をおいて、オンにしてみる。
何度か繰り返したが、復活する気配は、ない。
「………逃げなきゃ」
あきらめた美春はレシーバーをホルダーに戻すと、改めて、銃を握りなおす。
「逃げなきゃ!」
小声で、しかし力強く呟いて、美春はさきほど男が走っていったほうへと振り返る。
が、そこには。
化け物が、いた。
硬直する、美春。
稲光が、化け物を照らす。
とどろく、雷鳴。
次の瞬間。
美春は、悲鳴をあげた。
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「………!」
響き渡った悲鳴に、すでに撤退を終えていた退魔士たちは、いっせいに空を見上げた。
「逃げ遅れたのがいるぞ! 女だ!」
「誰だ!?」
「わからん!」
「馬鹿野郎! わからんじゃないだろ、そのぐらい確認とれ! 女はほとんど来てないだろうが!」
血相を変えて、退魔士たちがはじかれるようにして指令所の外へ駆けていく。
ほどなくして。顔を青くした女性退魔士が、指令所の中に駆け込んでくる。
「まだ緋月さんが戻っていません!」
「緋月………?」
指令所に残っていた退魔士たちの誰もが、顔を見合わせる。
「あった! 緋月美春……ああ、こりゃまずい。実地中の研修生だ!」
名簿を調べていた退魔士の言葉に、その場にいる全員の顔が、青ざめる。
そこにもう一人、若い退魔士が駆け込んでくる。
「織姫?」
「おい、誰か無線を貸せ! 銃もだ!」
差し出された銃と無線をひったくるようにして受け取ると、男は手早く無線を身につけ、銃に装てんされている弾を確認する。
「お、おい、一体何を……」
「決まってんだろ、助けに行くんだよ」
「助けに行く? 孝、そりゃ無茶だ!!」
「何が無茶なんだよ」
「視界がないし、音も聞こえにくい。下手をすりゃ、お前がやられるぞ」
「だからって、見殺しにしていいわけじゃないだろ」
「見殺しって、そんな大袈裟な……」
「大袈裟なもんか。去年出た殉職者だって、逃げ遅れたのに誰も助けに来なかったんだよな? それに、今残ってるのは研修生だろう? 運良く生き残ったって、誰も助けに来なかったんじゃ、人間不信でこの先仕事なんて出来やしないだろ」
一気にまくし立てて、孝は肩につけたレシーバーのスイッチを入れる。
「いいか、無線のスイッチ、絶対に切るなよ」
そう言うと、彼は降りしきる雨の中を、悲鳴が聞こえた方向へと、走っていった。
ガチッ……ガチッ……。
弾を撃ち尽くしてしまった拳銃の銃口を化け物に向けたまま、美春は何かに取り付かれたように引き金を引き続けていた。
そのまま、ストン、と、地面にへたり込む。
腰が抜けていて、下半身がいうことをきかない。
ガチッ。
予備の弾をこめようにも、両腕は拳銃を構えたまま硬直し、指が勝手に引き金を引き続ける。
(逃げなきゃ……逃げなきゃ、いけないのに……ッ)
助けを呼ぼうにも、無線のレシーバーは沈黙したままだ。
銃撃を受けて倒れるはずだった化け物は、いまだ、目の前にいる。
美春にはとてもそんな余裕がなかったが、目を凝らしてみれば、いくつかの弾痕と、そこからうっすらと煙が立ち昇っているのが見えたであろう。
銃が苦手だった美春にとっては奇跡的に、弾は全弾、命中していた。
5mも離れていない、至近距離からの銃撃である。
それなのに。
目の前の化け物はさしてダメージを受けた様子もなく、ジリッ、と、こちらに近づいてくる。
ガチッ。
引き金を引く。
もちろん、弾は出るはずもなく、かわりに、重い金属音が響く。
声が、出ない。
喉が引きつっている。
悲鳴をあげたくても、あげられない。
逃げたくても、逃げられない。
また一歩、化け物が近づいてくる。
(逃げなきゃ!)
空の上を、稲光が走った。
一瞬浮かび上がる、化け物の姿。
その瞬間。
美春はようやく、悲鳴をあげた。
「あっちか!」
再び聞こえてきた悲鳴に、孝は闇の中、悲鳴が聞こえてきた方向へと走り始めた。
ただ、駆ける。
頼りは懐中電灯のわずかな光と、時折空を走る稲光、そして、勘。
駆ける、駆ける、駆ける。
そして。
稲光で一瞬開けた視界の隅に、影が映った。
「………?」
立ち止まって、目を凝らしてみるが、あたりは再び闇に沈んで、何も見えなくなる。
腰の拳銃に手をかけて、やめた。
すぐ側に美春がいた場合、拳銃を撃っては巻き添えになる可能性が高い。
懐中電灯を投げ捨て、同じく、腰にくくりつけてあった刀を、抜く。
再び、空に稲光が走る。
「見つけた!」
今度ははっきりと、化け物と、その側にへたり込んだ女性の姿を視界に捕らえる。
迷わず、孝は化け物のほうへと、突進した。
「でええぇぇぇぇいっ!!」
叫び声と共に、目の前の化け物が横に吹っ飛んだ。
「………!?」
ビクッ、と体を震わせて、美春はあわてて、左右を振り向く。
「おい、大丈夫か! 生きてるか!?」
「え……っ!?」
突然、両肩をつかまれ、激しく揺さぶられる。
思わず、美春は両手で顔を覆ったが、すぐに、その手は強引に引き剥がされる。
目の前にいたのは、化け物ではなく、若い男――孝だった。
「緋月美春、そうだな?」
尋ねた孝に、美春はただ、頷く。
「……無事でよかった」
ほっ、とした表情を浮かべる、孝。
『孝、見つけたのか?』
どこからともなく聞こえてくる、指令所からの無線。
「ああ、見つけた。緋月美春、無事、確保」
レシーバーを口に当てて返事をする孝に、美春はようやく、彼が自分を助けに来た退魔士であることがわかった。
「戻るぞ。立てるか?」
尋ねた孝に、美春は力なく首を振る。
「……仕方ないな。それじゃぁ、背負っていくから、背中に乗れ」
「えっ?」
間の抜けた声で聞きかえした美春に、孝は軽くため息をつきながら続ける。
が。
「歩けないんだったら、仕方がないだろう? それに、ぼやぼやしてるとまた、妙なのが現れるかも知れん…………どうした?」
だんだんと美春の顔が引きつっていくのに気付いて、孝は、後ろを振り返る。
「……チッ」
思わず舌打ちをして、孝は立ち上がる。
さきほど体当たりをして吹っ飛ばした化け物が、再びこちらに寄ってきていたのだ。
さらに。
ズルリ……。
怖気をふるうような音を立てて、地面から、手が突き出てくる。
「うわあ………」
泥人形のようなモノが地面から這い出てくるのを見て、孝は思わず顔を引きつらせた。
「か……囲まれてる………」
美春の声に、慌ててあたりを見まわすと、彼女の言葉どおり、何体もの泥人形が、二人を取り囲むようにして這い出てくる。
「薄気味悪いものを出しやがって……」
悪態をつきながら、孝は手にした刀で、泥人形に斬撃を食らわせる。
が、しかし。
「あららら………そりゃぁ、反則だぜ、おい」
刀はズルリ、と相手の体をすり抜けただけで、泥人形は形を崩すこともなく、突っ立っている。
「当然、銃も効かないんだろうな、こいつら」
試しに撃ってみたが、弾は貫通しただけで、弾痕もすぐにふさがってしまう。
「……おい」
不意に声をかけられて、美春は孝を見上げた。
「立てるか?」
尋ねられて、美春はふるふると、首を横に振る。
「……じゃぁ、走って逃げるわけにも行かないか。さすがに、お前さんを背負って逃げるのはちょっとばかり無理っぽいからな」
ムッとした表情でにらみつける、美春。
「伏せろ。そして、目を閉じろ」
「えっ?」
「心配するな。別に、お前を見捨てて逃げたりはしない」
今度は思いっきり不安そうな表情を見せた美春に、孝はふと、笑みを見せる。
怪訝な面持ちで見つめ返す、美春。
「少しばかり、強烈な光が出る。場合によっちゃ目がやられるかもしれないから、目を閉じてな」
懐から数枚の呪符を出しながら、孝は、刀を鞘に収める。
「ほら、早く!」
一転して厳しい表情になって、孝が急かせる。
慌てて周りを見ると、数を増やした泥人形たちが足音もなく、間近に迫っている。
意を決して、美春は、固く、目を閉じる。
頷くと、孝はキッ、と、泥人形たちのほうに、鋭い視線を向けた。
目も鼻も口もないのっぺらぼうでもちゃんと意識が備わっているのか――その視線を受けて、泥人形たちは一瞬、たじろいだように立ち止まる。
スゥ――。
孝が、大きく息を吸い込む。
「ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、ここの、たり! ……お前ら、まとめて全員吹き飛ばしてやる!!」
孝は呪符を握り締めた拳を天にかざし――
「くぅらええぇぇぇいっ!!」
ダンッ!
裂帛の気合と共に拳を地面に叩きつける!
その瞬間。
孝を中心に、まばゆいばかりの光の弾が、弾けた。
「………!?」
思わず、美春が両手で顔を覆う。
光と共に、ものすごい力が、美春の体を突き抜ける。
光、光、光。
圧倒的なまでの光の渦に、二人は周りを取り囲んだ泥人形や化け物もろとも、飲み込まれた。
それから、しばらくの後。
孝の背に背負われて、指令所への帰途につく美春の姿があった。
「私、一人で歩けますから」
「無理するな。立ち上がったときに、膝が笑ってて転びかけたくせに」
「…………………」
ぷぅ、と頬を膨らませて、美春は空を見上げる。
あの後。
「もう、いいぞ」
そう言われて目を開けたときには、あれだけ激しく降っていた雨が、上がっていた。
いっせいに電源が落ちていた街灯も、元通り、明かりが灯っている。
「あ、あの……」
「ん?」
「助けていただいて、ありがとうございました」
「……まぁ、仲間だからな」
礼を言われて照れたのか、孝はボソリ、と答える。
「これからは、あんまり無理するんじゃないぞ。殉職しても、誰も褒めちゃくれないんだからな。……さあて、もうすぐ指令所だ。降りろ」
舗装された小道に出たところで、孝は立ち止まる。
「え?」
「自分で歩け。肩くらい貸してやる。初対面の男に背負われて戻っていくのは恥ずかしいだろ?」
「え………私たち、初対面じゃありませんよ?」
「ん? どこかで会ってたっけ?」
美春を降ろして、孝は首をかしげる。
「ええ。先月、糺宮神社の参道で…………」
「んん………? ああ、あの時の………!!」
「思い出した?」
ようやく思い出した孝に、美春はにっこりと、微笑みかける。
「どっかで見た顔だと思ったら、お前さんだったのか」
「ひどい、忘れてたんですね?」
「んなもん、いちいち覚えてるかよ。それに、何かやばそうな雰囲気だったし………うわっ!?」
こちらに背を向けてなにやらぶつぶつ言い始めた孝を、美春が思いっきり後ろから抱きしめる。
「こら、離せっ」
「やですよ。せっかく、願いが叶ったんだもの」
「願い? 何のことだよ、そりゃ」
「あら、知らないんですか? 糺宮神社の脇にある………」
「おい、お前さん、もしかして………」
「その、もしかして、ですよ。ステキな恋人が欲しい! そう、神様にお願いしたんです!」
「……で、その『ステキな恋人』とやらが俺だと?」
「そうです! 今、決めました!!」
「勝手に決めるな!」
ギュゥ、と抱きしめる、美春。
そこへ。
「……おい、お前ら、何やってんだ?」
「う………っ」
ギクリ、として振り返ると、そこには、数人の退魔士があきれた表情でこちらを見ている。
「なかなか戻ってこないんで探しに来てみたら……一体何やってんだか」
「いや……これには深い事情ってものが………」
「わかったわかった。わかったから、続きはよそでやれ。事後処理は俺らでやっとくから」
「あ、おい、待て!」
「遠慮しなくていいから、明日、遅刻するなよ〜」
そう言うと、退魔士たちはひらひらと手を振りながら、三々五々、指令所のほうへと戻っていく。
「……………」
残された二人は、しばし、無言。
「ええい、離せ!」
「絶対に、離しません!」
この時、孝は20歳、美春は19歳――真が生まれるのは、これから7年後のことになる。
「……そんな事があったんですか」
「……まぁ、お前の父親から聞いた話だがな」
ひとしきり語り終えて、咲夜は軽くため息をついた。
「初めて聞きました」
「それは、そうだろうよ」
途中で真が持ってきた麦茶を口に含んで、咲夜は笑みを浮かべる。
「それにしても……」
「それにしても、何だ?」
「とりあえず、七夕の願い事は叶いそうですねぇ。モノによるでしょうけど」
「星に願いを、か………」
空を見上げる、二人。
昔話をしているうちに日はすっかり落ちて、星が瞬き始めている。
「そういえば、覚えているか?」
「え?」
「私とお前が出会ったのも、七夕の夜だったのだぞ?」
「………そうでしたっけ」
頷いて、咲夜は笑みを浮かべる。
「あの夜に書いた短冊を、お前は覚えているか?」
「さあ……何と、書きましたかね」
首を傾げる真に、咲夜は、懐からぼろぼろになった紙切れをとりだす。
広げて見せると、短冊であった。
おとうさんのようにつよくなりたい おりひめまこと
たどたどしい、だが力強い字で書かれた、その願い事。
「どうだ、叶いそうか?」
「さあ………それは、秘密です」
「叶うといいな」
「そうですね……叶うと、いいですね」
空を見上げる、真。
キラキラと瞬く、星。
その星々の間を、流れ星がひとつ、駆け抜けていった。
- Fin. -
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