REVIEW

part10
(最終更新日2001・11・26)


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ええい!四冊まとめてのブックレビューだあ。
「ゲルマニウムの夜」(花村萬月著 新潮文庫)
「暗号名はリフカ 愛しいあなたの眼になって」(パトリック・アレクサンダー著 徳間文庫)
「ヴォネガット、大いに語る」(カート・ヴォネガット著 ハヤカワ文庫)
「東方見聞録」(ユルスナール著 白水Uブックス)

まずは新刊文庫の「ゲルマニウムの夜」。
花村萬月なんて老舗の和菓子屋みたいな名前はどことなく胡散臭くてどちらかといえば敬遠していたのである。もちろんこれは偏見に他ならない。しかし、作品の内容に依らず筆名の醸し出す雰囲気で敬遠してしまう作家というのは結構多い。私の場合は中島らもと田口ランディがその代表格である。もちろん、私の「もんぺーる」という仮名もなかなかに胡散臭いのだが。(単に「父ちゃん」という意味なんだけどね)
話が横道にそれてしまったが、花村萬月は「へヴィー・ゲージ」を読んで何となく「平成日本に再生した五木寛之」のようだなあ、と思っていたのである。ドラッグ、ブルース、バイクにナイーブなSEX。(あはははは、ナイーブ!何て素敵な言葉だ!)初期の五木寛之の作品を読んだことがある人ならばおそらく力強くうんうんとうなづいているに違いない。(「さらばモスクワ愚連隊」とか「青年は荒野をめざす」とかね)
「はじめてのおつかい」みたいなノリのSEXの描写というのは、中学、高校くらいまではそれなりに楽しめるのかもしれないが、読んでいる内に気恥ずかしくなってしまってそれっきり花村萬月は本屋で手に取ることが無かったのだが、「芥川賞受賞作」なんて帯にばかでかい文字が並んでいてつい立ち読みすると文体もどことなく違うなあ、なんて勘違いして買ってしまったこの「ゲルマニウムの夜」。
うーむ、純文学しているようでやっぱり平成の五木寛之だなあ。少し片岡義男が入っているような気もするが、基本的に思考はマッチョなんだろうな。とても自意識が強くて、見られている自分に快感を覚えている姿がありありと眼に浮かぶのだ。
なんだか生理的な嫌悪感の新しさばかり追求しているようで、ほら気持ち悪いだろ、ほら気持ち悪いだろ、悲しいだろ、可哀相だろ、と何だかとてもしつこい。主人公に向かって女があなたは悪ぶっているんです、みたいな台詞があるのだが、それはもう花村萬月に対しての言葉のように思えてならない。生理的な部分を直接刺激するようなざらざらした文章はもう決して斬新ではないと思うのだけれどなあ。
(アニメならまだ少し通用するかもしれないけれどね)

気をとり直して次に読んだのが「暗号名はリフカ 愛しいあなたの眼になって」。
これはあまり期待せずに読んだのだがなかなか良くできている。原題は単なる「リフカ」で、「愛しいあなたの眼になって」というのはおそらく日本の編集部で勝手につけたサブタイトルで、良いとか悪いとかのジャッジが非常に難しい線なのだが、内容は良いのでとりあえずは気にしないでおこう。
ノルマンディー上陸作戦前夜の緊迫したフランスを舞台に、イギリスの特務機関員「リフカ」が、ナチゲシュタポを相手に敢然と立ち向かう冒険活劇なのだが、この頬に傷のある女「リフカ」がなんともかっこいい。
タフで機略に富み、時には男装をしてゲシュタポに成りすましナチス兵士を恫喝して危機をすり抜けたりもするのである!そして窮地に陥った「リフカ」に手を差し伸べる平凡な市民の勇気ある行動がとても細やかな心理描写で描かれている。以前ナチスの女性スパイの活躍を描いた「スパイの集う夜」をレビューで取り上げたが敵味方という陣営でとらえるならば好対照の一冊ではないかと思う。タフでかっこいいお姉さんが好きなら両方お勧め。

と、少し元気になって次に読み始めたのが、カート・ヴォネガットの「ヴォネガット、大いに語る」。
書かれたのは結構昔なのだが、9月11日以降のUSAということを考えるには非常に参考になる本だった。
(何しろアメリカの深層心理は建国以来大して変化していないのだから。)
ドレスデン大空襲の悲惨を語り、富を権力を謳歌する国家を冷笑しながらユーモアと深い愛情を持って文章を連ねてきたヴォネガットの言葉は、人の営みの尊さと愚かさを浮き彫りにしている。
どちらが良いか悪いかなんて不毛な議論をするのではなく、かと言って全てを相対化して「人は愚かだ」と結論づけるのではなく、ヴォネガットのように慈愛と怒りと困惑をせめぎ合わせながら、この時代を静かにじっと見ていきたいと切に思ったのである。

そして、最後に読んだのがユルスナールの「東方綺譚」。
幻想水滸伝2のサントラ「ORRISONTE」を聞きながら読んだのが、これが何とも気持ちが良い。まるで一幅の水墨画の世界に紛れ込んでしまったかのような、不思議な世界。そして、次に開けたのはオリエントの青い海。神話の世界。
うーむ、これを原作に佐藤史生に描いてほしいなあ。
世の中が殺伐としていればしているほど、魔法や神話というものが新鮮に感じられるようだ。
(2001・11・  /もんぺーる)



「ああ、ロッテリアに今日も羊は行列する…」
(「NOIR ORIGINAL SOUNDTRACK1」 音楽 梶浦由記 ビクターエンターテイメント) 

ニメ・ゲームミュージックの音楽性の高さについて今さらどうのこうの言う野暮はしないが、期待する以上の作品に出会った時はとても嬉しいものである。特に自分の守備範囲と思っていたジャンルの幅を1mmでも広げてくれたら最高である。
ブギーポップのサントラは日本のハウス系テクノの成熟を知ることができたし(黒のタートルネックを着て毛糸の帽子をかぶらなきゃ出せないような音を私はそれまで馬鹿にしていましたね、ハイ)、最近配偶者が買ってきた「ORRIZONTE」(幻想水滸伝2音楽集)は、昔好きだったコクトーツインズや4ADのサウンドにブルガリアンボイスやエイジアンテイストがミックスされたような音ですっかりヒーリングされてしまいました。
 で、本題は給料日前なのでベスト電器のポイントで購入した「NOIR ORIGINAL SOUNDTRACK1」。BGM中最も気に入っていた曲が「canta per me」「 salva nos」という曲であることが判明。(ミレイユと霧香がお仕事をする時にかかる曲ですね。)聞いていると思わず物陰に隠れて息を潜めてガシャポンのカプセルを開けたくなる。(…また007だ。なぜ出てこないフランソワーズ…)
 宗教音楽的な荘厳さとハードコアテクノとクールなストリングス、熱情的なギターが微妙な均衡を保っているこのサウンドは、パトリシア・コーンウェルやトマス・ハリス、D・R・クーンツ等のスピード感のある小説を読む時にはなかなか良いBGMです。
(下記URLで視聴できます。「ロッテリアの羊」(!?)も聞けます。)
http://www.jvcmusic.co.jp/m-serve/tv/noir/music.html

(2001・11・17/もんぺーる)



「別にいいんだよ、特別手を加えなくたって・・・」

(TVリメイク サイボーグ009 毎週日曜 18:30 テレビ東京系列で放映中)

よいではないか、よいではないか む、ふっふっふ・・・・

と、別に若い娘に言い寄っている悪代官ではない。
リメイクされたサイボーグ009が余りに完全な石森章太郎ワールドで思わずむふふ笑いをしてしまったのである。

普通、昔の名作をリメイクしようとすると気負って変に手を加えてしまうのである。
今回のリメイク話を初めて耳にした時も、なんだかEVAのように筋肉質のフォルムになって「何で僕はサイボーグなんだろう・・・」とか「逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ」とかモノローグを一杯ぶつぶつつぶやきながらレイガンを撃っていたらどうしよう、とか
惜しい守さんのようなリアル至上主義の絵になっていたらどうしよう、とか
フランソワ以外に可愛い女の子がたくさん出てきて「ラブひな」状態の島村ジョーだったら嫌だな、とか
色々悪い方向に考えていたのだが、スコーンと突き抜けたような明快さの、石森章太郎ワールドだったのだな、これが。
航空機や潜水艦などのメカニックワークも石森章太郎の劇画そのままの単純な線で、それがなんとなくレトロフューチャーしていて結構新鮮なのだ。
原作の良さを咀嚼、踏襲しながら、尚且つこの2001年に再構成するというのはなかなか難しかったのではないかと思うのだが、今まで見た限りでは良い出来である。

近未来のちょっと暗い宿命めいたサイボーグ戦士達の戦い・ドラマが違和感無くすうっと気持ちに入ってくるのは、この2001年に皆が思い描く未来図が少し陰りを帯びてきたからだろう。
9月11日以前にこの「サイボーグ009」を見ていたら、あるいはそのドラマの憂鬱さに退屈していたかもしれない。

(2001・11・10/byもんぺーる)
 

☆追記・・・・・・byМАРИЯふみえ
ガシャポンで続けて007ばかり出たのは哀しい。



「騙される快楽」
(「蕭々館日録」久世光彦著 中央公論社 2200円 ISBN4-12-003144-6)

 以前、ある展示会で芥川龍之介が中学生くらいの時に描いた絵を見たことがある。その文才にも遜色無い精緻な筆致に驚いた。単に写実的な巧さではなく対象の本質的な輪郭を一気呵成に切り取るような筆致は龍之介の怜悧な文章に通底するものだった。
龍之介はおそらく天女に愛された才人だったのだ。

「蕭々館日録」は、昭和初期の小説家宅「蕭々館」に集う風変わりな文人達の日常を描いた小説である。
 小説は舞台となる蕭々館主人の娘、麗子の視点で語られるのだが、この麗子は名前ばかりでなく髪の形から着ている着物までがあの岸田劉生の描く「麗子像」そのままだというのだ 。(顔については私は勝手に中原淳一的なものに置き換えて読み進めたのだが)このような条件設定がとても巧いと思うのだ。作中に登場する麗子という文字が目に入る度に、あの薄暗い背景に佇む赤い着物の少女がぼうっと現れて、それだけでもう時空を超えてまだ大正の残り香が漂うあの時代に放り込まれるのだ。
麗子の眼に映る芥川(文中では九鬼という小説家)はとても痛々しい。非凡な才能に恵まれながらも、精神的な危うさと脆さの為にぎりぎりの所で辛うじて存在しているという風である。そして、そんな彼をおそらく作中に登場する人物の誰もが愛して止まないのだ。だから、読んでいて切なくなる。
 この素晴らしい精緻な虚構を作り上げた久世光彦という人の技量・バックボーンにはいつもいつも驚かされる。
 「謎の母」で太宰を、「蕭々館日録」で芥川を虚構に遊ばせた作者が今度はどんな手で騙してくれるのかとってもとっても楽しみなのである。
(2001・8・26/もんぺーる)



「任務遂行の美学」
(「スパイが集う夜」 ジョン・オールトマン ハヤカワ文庫¥880 ISBN4-15-040985-4)

類まれな美貌、金髪、グリーンの瞳。少女期に軍隊で訓練を受け、沈着冷静で戦闘を含めたあらゆる状況に臨機応変に対応する能力に優れている。かつてニューヨークに住んでいたが米国籍ではない。

と、ここまでプロフィールを並べ立てたが、これはマリア・タチバナのプロフィールではない。
ジョン・オールトマン著「スパイが集う夜」に登場する、カタリーナ・ハインリッヒのそれである。

ナチス親衛隊の特殊工作員として高度な訓練を受けたカタリーナは1933年米国に渡航。ドイツ本国とも全く連絡を取らず行方不明とされていたカタリーナは、ロスアラモスでの原爆開発の情報を入手する。祖国ドイツを一瞬にして壊滅させるであろう新兵器の開発情報を本国に届けるべく、カタリーナは行動を開始する。
目的のためには手段を選ばず、非情な殺戮を重ねながら逃走するカタリーナ。それを追う英国情報部の工作員達との死闘、というまさに冒険小説の定石とでもいうべきプロットなのだが、全体の構成、描写、テンポも決してプロットに負けていない。これがデビュー作なのかと疑いたくなるくらい完成度が高いのだ。
読みすすむ内にどことなくケン・フォレットの「針の眼」やル・カレの初期の作品の影がちらほらかいま見えることもあるが、きちんと素材として料理されているので全体から見れば問題無し。
 秀逸なのは、このカタリーナ・ハインリッヒの人物造形と描写。
 彼女に関わる人達をためらいなくあっさりと殺してしまうシーンに嫌悪感を持つ人も多いだろうが、それはもちろん著者の周到な計算によるものだ。第二次世界大戦下という状況。ナチス親衛隊という高度に思想統制された組織で教育訓練された過去。任務遂行こそが存在意義である工作員という運命。そうした彼女のキャラクター・ロールによって、淡々とした殺戮の描写は必然性を持ち、また逃走と戦闘の合間にカタリーナが見せる些細な行動(殺戮の後の嘔吐感・極度の緊張の後無性に煙草が吸いたくなる等)の描写によって、カタリーナというキャラクターに存在感を持たせることに成功している。

一つ残念なのはこの安っぽいタイトル。
原題が「A Gathering of Spies」だからまあ殆ど原題に近いのだが、もう少し何とかならなかったのかなあ。
タイトルはいただけないけれども、夏の一夜の読書には手応えのある一冊。
(2001・7・21byもんぺーる)


「大江戸美味草紙」(杉浦日向子 新潮文庫 \400 ISBN4-10-114915-1)
(副読本:「百日紅(1-3)」(杉浦日向子 実業之日本社))

ハヤカワ文庫の海外冒険小説やらSFやらを面白い、面白いとたて続けに読み続けていると、次第にこう何と言ったら良いのだろう、胸焼けみたいなものを感じてしまうのである。
その内容が夜も明かさんばかりの面白一気読み本であってもその「胸焼け」は治まらない。というよりは面白ければ面白いほどにその胸焼けは酷くなる一方なのだ。
私はこの胸焼けを「翻訳文章食傷症」と勝手に呼んでいるがこの治療法は簡単である。泉鏡花、内田百閨A宮沢賢治、太宰治、白洲正子等を読むとすうっと胸が軽くなり、胸焼けは嘘のように直るのである。
最近ではハヤカワ文庫青背を4冊ほど読んだ後の、この「大江戸美味草紙」が抜群の効能を示した。
江戸川柳にからめて淡々とつづられている料理、食材のエピソードは気負いも衒学癖もなく、著者のリラックスした気分をそのままに感じることができる。この手の本には時として著者の博学ぶりが鼻につく場合が有るのだが、この本にはそういうスノッブな嫌らしさが無い。江戸に住む人々の生活、文化が思っていたよりもずっと現在の私達のそれと似通っていて親しみやすいものだったんだ、という新鮮な驚きや興奮が行間から静かに伝わってくるのである。
ゆっくりとしたつぶやきにも似た文章の合間に、洒落た江戸川柳がぽーんと入ってくるタイミングも気持ちが良い。
そして、この本を読み終えると粋な気分が妙に持続してしまうのである。

色々なサイトの掲示板の良くあるごたごたなんて見ていると、(SEE MORE BBSではないですよ)

「ええい、てめえの理屈なんて聞いちゃいないやい!四の五のごたく並べる前に謝りやがれ!」
「人の言葉の受け売りで大見得切るない!てめえの言葉でしゃべりやがれ!」
「相手が嫌な気分になるような言葉を平気で書くない!正面きって喧嘩もできねえ奴に限って、うじうじつまらねえ事を言いやがる。…え、何だって、謝るだって!ふざけんない!とっととけえんな!」

と、もう気分は「百日紅」の鉄蔵である。(もちろん、こんな気分のままで掲示板に入ったら、単なるアラシさんであるから、精神的な架空書きこみである。)

正義や常識や公平という言葉をやたらに振り回す無粋な人物に辟易している人には一層効果的な気分転換本としてお勧めです。

(2001・7・1byもんぺーる)


「夢見るバトル人形に・・・・ぽっ!」
-機動天使エンジェリックレイヤー−



戦う男が絵にならなくなってきた。
マッチョにすると頭が悪そうだし、武器を持たせると途端に感情を失い殺戮マシーンになる。巨大ロボットなら中学生でも動かせるし、魔法や超能力を使うとどこか狡く見えてしまう。
見せ場にしても、敵方にさんざん痛めつけられた後にこらえていた感情を一気に噴出させて形成逆転という構図が、電車内のいざこざでマジギレするお兄ちゃん達と表現上は大して変わらなくなってしまっていることも絵にならない理由の一つである。(というか、お兄ちゃん達はマンガとかアニメの主人公のキャラをすっかり学習してその通りにきちんとキレているんだろうな。使徒よりも多分学習能力は高いのだ。)

安っぽく怒鳴りまくりキレまくる男が増えれば増えるほどに、戦う女は輝きを増しているようだ。
それが美しい少女ならば、それが物言わぬ人形ならば、ああ、何という壷惑的な戦闘物語でありませう!と思わず夢野久作してしまふ。

そのぐらい久々に萌えです。

レイヤーという領域内でしか活動しないエンジェル。
玩具として戦う戦闘少女達には言葉も悲鳴もない。だが、レイヤーというコロセウムの中で彼女達が繰り広げるバトルは言語以上に、操縦者(デウス)や観客の心を揺さぶるのである。

玩具ビジネス、ポケットモンスター、バーチャル、ドール、バトルといった主要なキータームを鮮やかにコンジャンクションさせたCLAMPの企画力はさすが。この発想とシチュエーションをそのままネットワーク対戦ゲームとしていくと面白いビジネスモデルが出来上がりそうな気もするのだが。(素体にメモリーを仕込んでゲーム機と接続して対戦するとかね。)
そこまで考えてるかどうかはともかく、今後の展開が楽しみな作品です。(等身大のヒカルフィギュアが早く発売されないかなあ・・)

(2001・7・1byもんぺーる)