REVIEW

part11
(最終更新日2002・2・27)


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「ピュアホワイトのパワー New iMac 」

会社の同僚で3台目のプジョーに乗っている人がいる。
とにかく走ること自体が楽しいらしい。と言ってもアクセルを踏み込んで加速感を得るのが楽しいとか、ワインディングロードをぐいぐい攻めていくことが楽しいということではなく、気軽に街を流して走るということがとても楽しいらしい。
こんな風にプジョーという車を楽しんでいる人に、「カローラも同じょうな排気量でエンジン出力なのに、どうしてそんなに高いプジョーを買うの?」なんて野暮な質問をする人はそういない。
ところがパーソナルコンピュータの世界ではそんな質問が平気でまかり通るのだ。
CPUのクロック周波数とメモリとHDの容量で比較する人間の何と多いことか!
ドライブを楽しむのは車もパソコンも同じだと思うのだけれどね。

さて、ようやく店頭でNew iMacに触れることができた。
デザイン的には細かな所まで配慮がいきとどいている。台座の半球はバスケットボールを半分にした位の大きさでやはりWebや広告で見る印象よりは大きく感じる。ただ印象が少し違ったのが本体の質感で、単に光沢のあるホワイトではなく、少し半透明がかかったような材質だ。これは実際に見ないとなかなかわからない。
キーボードがピュアホワイトなのは清潔感があるけれども、汚れが気になるかもしれない。
きっとパソコンを買いたいという人よりは、パソコンで絵を描きたいとか、ネットを楽しみたいとか、音楽を楽しみたいとか、道具としての目的を明確に持っている人達に受け入れられるデザインだろうな。

大多数のPCユーザーが悩むウイルス不安がシェアの分だけ少ないのは幸運だ。
できるだけ今くらいのシェアで長く続いて欲しいと思う林檎びいきである。
(2002・2・27/By もんぺーる)


マレーナ(MALENA、映画review)

      大好きで大好きで堪らない。
      貴女の事を想う時、胸が熱く高鳴る。

      1分でも1秒でも長く、その姿を見つめていたい。
      貴女が歩くその同じ場所に僕も居たい。
      その同じ場所の空気を僕も感じたい。

      その心の赴くものすべてに心を向けたい。
      貴女が誰を愛し、何を求めているのか。

      時間は残酷に、何故自分が今大人で無いのか。

      貴女が悲しみで涙に暮れる時はその涙をそっと拭ってあげよう。
      たとえ世界が貴女を悲しませても僕が守ってみせる。
      僕はこんなに貴女を知っているのに。
      こんなに愛しているのに。

映画の紹介文やビデオパッケージの裏の説明文を読んだ最初、映画を観る前。
『ふ〜〜ん、よくある少年の成長物語、で、シチリアを舞台に戦争未亡人、少年の恋心、ふ〜〜ん、昔の竹宮恵子や萩尾望都でそんな感じの作品あったなぁ・・・・』
『トルナトーレだからきっと、上手く甘酸っぱく表現してるんだろうなぁ・・・・』
などと思ってました。

戦争未亡人の女性が際立って美しいが為に町中の男達が下心を剥き出し、女達に非難される中、物語の最初、12歳の主人公レナートも彼女に深く心ひかれてゆく。
何度もその恋心を伝えようと心震わせ、せつなさに身をよじる少年。
その結果ストーカーに近い少年の行為とそれに伴って引き起こされるトラブル。
恋をした時の疾風怒濤の感情がひしひしと伝わる程に、主人公の少年の姿はコミカルに描かれてゆく。
主人公が真剣であればある程妄想が大爆発してゆく様が哀しく可笑しい。
思春期の入り口に立つがゆえに冷静な判断も出来ず、しかし、それが幸いして誰よりも彼女を理解しその結末への展開に深く関わるレナート。
人を好きになるって感情はこんなだったなぁと自分の思春期をちょっと思い出したりして浸りながら、ふと、これを今マリアに対してやってるではないかと反省する事しきり。
マリアに関しては妄想大爆発してるからなぁ、私。
やん、私も今まだ思春期(自爆)

ところで、主人公のお父さんがなかなかに良い味を出していて結構好き。
オープニングでトルナトーレ監督の『父に捧げる』という文章が観終わってしみじみ蘇って来た。
でも、本当トルナトーレって上手いよね。
この映画観て本気で主人公と同年齢だったんだろうなと思いそうになってしまった。
ニューシネマパラダイス撮った時点でまだ二十代始めだったというのつい忘れそうになってしまう程。

お勧めマイフェイバリットムービーがまた一つ増えました。

(2002・2・12/МАРИЯふみえ)


「甘酸っぱく切ない季節が、ああ・・・」
(映画『マレーナ』 監督ジュゼッペ・トルナトーレ)

無尽蔵ではないかと思われるぐらいに次々に生えてくる妄想竹。
抜いても抜いてもその妄想は脳髄一杯に充満し、狂おしく万華鏡の様に変化する好色淫夢図に身悶えしていた十代前半のあの性衝動一触即発状態の抑圧された季節・・・
今から思うと気狂いめいた探求心に駆られていましたね。
強力なマブチモーターと様々な部品を組み合わせて妖しく振動する得体の知れない器械を作ったり、好色な夢を見んがために真っ暗な部屋で平凡パンチのグラビヤ頁をほんの一瞬強力なライトを当ててその残像を脳裏に焼き付かせる実験に没頭したりと…(あの頃の情熱の方向をほんの数度変えてやれば、また違う人生も有ったような気もするけれど、まあいいや。)

そんな狂おしい季節を久々に想い出してしまいました、この「マレーナ」で。
真っ青な空とふりそそぐ陽光。
シチリアの乾ききった小さな街で、男達の欲情に満ちた視線と女達の羨望と嫉妬の視線を全身に集めてしまう宿命的絶対美女マレーナ。
街の広場を彼女が歩くだけで男達は騒然とする。教師も神父も歯医者も弁護士も床屋も視線はマレーナに釘付けになる。そして当然の事ながら性の入り口に入り始めた少年達にとってはマレーナはその存在自体が妄想の対象だ。
主人公レナート君も例に漏れずマレーナの虜になってしまう。と言っても遠くからじっと見つめているだけだが。マレーナのふと見せる仕草や、表情や、肢体や、胸の膨らみにレナートの妄想は留まることを知らない。マレーナの家の壁の穴から垣間見える彼女の秘密・・・。そして戦火の拡大と共にマレーナは次第に変貌して・・・
というのが大体のストーリーなのだが、このレナート少年のヰタ・セクスアリスのエピソードが堪らなくいいのだなあ。真剣であり一途であればあるほどその行為の一つ一つが滑稽でかつ切ないのである。そして厳格そうでさばけているようなちょっとエキセントリックな父親が非常にいい味を出している。
この映画を成立させる肝心要のポイントは「いかにマレーナがいい女か」という事に尽きるのだが、このマレーナを演じたモニカ・ベルッチは溜息が漏れるくらいに美しい女を見事に演じている。どうしたって華があるのだっ、ていう位に完璧なフェロモンを拡散する彼女の足首は言語に絶するほど優美なラインを描いている。本当に美しいってことは素晴らしい。でもそれが仇になることも有るのだな・・・
久々五つ星の映画です。   
         
(2002・2・11/by もんぺーる)



「ロボットアニメのシュールレアリスム宣言 〜 ラーゼフォン 」
(フジテレビで放映中:製作BONES 公式サイト:http://www.rahxephon.com/)

新しいiMacでも並んでいないかなあ、と出かけたヨドバシカメラCD・DVD売場で特に変わり映えのしないロボットアニメの宣伝チラシを手に取る。
ロボットのデザイン自体は新しさは感じられない。
フォルムはEVA基調でプラス甲冑のような装甲のイメージ、カラーリングは定番の白ベースに青・黄・赤のガンダムカラーリング。まあ少し目新しいのは魎皇鬼のように耳から翼が生えていることだろうか。主要キャラクターが羽根やら翼を背中に背負うのはエンディング間近(そして大抵の場合この後キャラの人気が急落するのだ。)の場合が多いのだが、最初から生えているのは珍しいかもしれない。
声優は誰がやっているのかなあと裏を見ると、おお、音楽が橋本一子!
YMOのワールドツアーの参加メンバーとしてキーボードを弾いていた姿が懐かしい。
何となく気にしていたアーティストではあったのだけれどFMで流れているのを聴いて、ああ結構クールでいい曲書いてるのだなあ、という位の印象だったのである。
その橋本一子が音楽やってるアニメかあ!と俄然興味が沸き、チラシを家に持ち帰る。
放映時間帯を調べてビデオに録画(北海道では木曜日の深夜26:05なんです。)。
製作はBONESか。
BONESと言えば「機動天使エンジェリックレイヤー」を製作したところだな。そう言えばこのラーゼフォンのフォルムはよくよく見るとあのアテナをごつくして装甲した感じだし、ラーゼフォンの生まれた卵とラーゼフォンの翼の関係はまさしくエンジェルエッグじゃないか!これはCLAMPからメタファーとしていただいちゃったのかなあ・・・
見ての印象としては、映像・美術のクオリティは高い。
人物設定やシチュエーションがどうしてもEVAの呪縛から逃れられず類似した設定・描写が多いのは残念だが、EVAと異なるのはその世界観の設定だろう。
EVAはセカンドインパクトというカタストロフを通過した後のリアリティを追及していたのに対して、このラーゼフォンでは、設定している世界そのものが歪んでいる(超現実)のである。
重力から解放されて宙空に静止している石群。水の壁。巨大遺跡、神殿。
シュールレアリスティックな背景の中では凡庸なロボットも違った見え方になっているようだ。
橋本一子のTecno、Jaz、現代音楽が渾然一体となったクールなサウンドも期待を裏切らない。
さて、本当にこの「ラーゼフォン」がロボットアニメに一つの終止符を打つことができるのか、今後のストーリーの展開に期待したい。
(2002・2・11/by もんぺーる)



「映像の快楽、エロスの技法」
(映画「ピストルオペラ」 監督 鈴木清順)

 鈴木清順は「ツィゴイネルワイゼン」からのファンだ。
 前衛と大衆演劇のぎりぎりの境界で大胆な構図と凄艶な色彩感覚で構築された映像世界には唯々圧倒された。数百本有るビデオテープの殆どは録画したまま一度も再生することのないものばかりだが、「ツィゴイネルワイゼン」だけは違った。見る度に違う個所で感心し常に新しい発見が有った。
 その鈴木清順があるインタビューで映画を作る姿勢・動機についてのコメントを求められた時に「映像を見て驚いてくれたらそれでいいんです。」とさらりと言ってのけた。高邁な映像理論でも精神論でもなく子供のような無邪気な動機を語ったこの人物がますます好きになっていた。
そして今回の「ピストルオペラ」!
映像・演出の斬新さは言うまでもないが、過剰なまでのエロティシズムに酔いしれてしまった。
しなやかな手や指の動き、一瞬見せるあやうい表情、絡み合い背ける視線、垣間見える白く艶かしい肌、非現実的な背景、死や暴力性を暗示する様々な演出・・・
大量生産されているポルノグラフィーからは決して得られない芳醇なエロスは、まさにロラン・バルト的な「間歇」、「出現-消滅の演出」によって得られる快楽なのだ。

「身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではなかろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては≪性感帯≫(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析が的確にいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらちら見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。さらにいいかえれば、出現-消滅の演出である。」
(「テクストの快楽」ロラン・バルト著 沢崎浩平訳 みすず書房)

江角マキコの黒い着物の裾と黒の編上靴の間にちらちらと現れるふくらはぎの白さに感じるどきどき感はまさにバルト定義の好例である。
江角マキコは今までそれほど関心を持ったことは無かったのだが、この「ピストルオペラ」では粋に生意気に色っぽく格好良く決まっている。容姿やスタイルの良さは言うまでもないが、銃を構えて様になっていることに驚いた。大体が銃を構えて様になる女優というのは少ない。多分、銃というものが女を選ぶのだ。この映画に出演している江角マキコや山口小夜子は銃に選ばれた幸運な女に違いない。

そして、多分余り知られていないのではないかと思うのだがこの映画は炉の人(溶鉱炉に関心の有る人の事です。)には頭がくらくらするくらいに刺激的なシーンが幾つか有るのだ。
私はプチトマトとか倉橋のぞみとかももいろブックマークとかADULASとかには余り詳しくないので良くはわからないのだが(「おいおい詳しいじゃないかよ!」というつっこみ by МАРИЯふみえ)、韓英恵という12歳の少女が丸尾末広的な少女に扮して好演している。この映画で脱いでいるのは彼女だけなのだが、好色な視線を跳ね返すくらいに堂々とした演技・スレンダーな肢体に見惚れました。

あぶないなあ、本当にあぶないなあ、と色々どきどきしながら楽しめる映画ですので、見逃した人はビデオを待ちましょう。

(2002・1・12/もんぺーる)



「YMO,カフェバー、そしてみすず書房の白表紙」

(「定本 物語消費論」(大塚英志 角川文庫 619円 ISBN4-04-419110-7))

実はこの本はあまり紹介したくない。
というのもこの人の世代的な感覚や考えるための道具が結構自分のそれと重なっているためである。
80年代初頭の朝田彰の「構造と力」に始まったニューアカデミズム(恥ずかしいなあ)は、YMOやカフェバーと同じくらいに80年代の昂揚した気分を代表するものの一つだった。
メディア批評やマーケティング分析は、構造主義、記号論、消費論、文化人類学等のテクニカルタームで語られ、ボードリヤール、ドゥルーズ・ガタリ、レビィ=ストロース、フーコー、山口昌男らの著作からの引用で埋め尽くされている文章が大半を占めた。
「ポストモダン」、「構造主義」「逃走」、「シニフィアン・シニフェ」、「交換」、「意味の過剰」、「贈与」、「記号論的解釈」ってな言葉を散りばめるだけで、あら不思議、「ニューアカ文章」になってるじゃあありませんか。この辺りでニューアカ文章の芸風をきちんと会得した人達が今、エヴァ以降、少し精神分析にシフトした形でアニメ・ゲームの解釈・批評をせっせと書いているのである。
この「定本 物語消費論」は正にそうしたシークェンスで書かれた80年代総括本である。
著者がしばしばコケにしている団塊の世代も今では定年を迎え(それにしても団塊の世代に支払われる退職金の総額はどの位になるのだろう?疲れきった企業に支払う体力はあるのかしらん)とりあげられている素材やネタもさすがに古さを感じさせるが、現象というか消費のシステム自体はもしかしたらそんなに変わっていないのではないかと思えるのである。(特にディズニーランドについての分析とかですね。)
著者自身も文庫版あとがきでそのように書いているのだが、80年代以降消費の構造・システムというものが全く停滞してしまっているのか、それとも80年代初頭というのが一つのターニングポイントだったのかという検証がこれからの主要なテーマになってくるような気がする。
本書のボードリヤールの消費論・交換論を援用した分析手法を用いて、今日の「チョコエッグ」や「千と千尋」「ハリーポッター」を考えてみるのもなかなか面白いかもしれない。
巻末の年表はなかなかに良い。飲みながらこの年表を見ていると話もおおいに盛り上がるであろー。
BGMはプラスチックスあたりがいいかな?
(もんぺーる/2001・12・13)


「ミームとしての手塚治虫」

(アニメーション映画「メトロポリス」 脚本 大友克洋 りんたろう監督 )

レンタルでさっそく「メトロポリス」を借りてきた。
本当は劇場公開で見たかったのだが、見たいという欲求の度合いとタイミングが微妙に合わず結局見逃していたのである。
見ての印象は、「思っていたよりもずっと静かな映画」だった。
なんとなく手塚治虫のテイストてんこ盛りの「ほうらすごいだろ、きれいだろ、手塚集大成アニメーションだぜい!」なのかなあと思って見始めたのだが、画面の展開・構成やストーリーはどちらかというと地味な造りなのである。誤解の無いように付け加えておくが作画や効果は評判通りの世界最高水準である。夜空に咲く無数の花火やしんしんと降る雪の描写はとても美しく、場面ごとの作画の精緻さには感嘆してしまう。
だが、全体としてこの作品を俯瞰するならば良い意味でオーソドックスで落ち着いた作風なのである。
ひとつ引っかかったのはロボットを憎悪するロックの心情というものが理解しにくいのではないかという点だ。手塚作品を読んできた観客ならばロックのキャラクターや背景を理解しているからロックの行動は理解できるだろうが、そうでない観客には人種偏見に満ちたエキセントリックなキャラクターにしか見えないのではないだろうか?余りに説明的なのも困るが動機を位置付けるようなエピソードの一つでも有ればこの作品により奥行きが出たのではないかなんて思ったのである。
それにしても「コナン」のツインタワーといい「メトロポリス」の崩壊する高層ビルの描写といい、何かクリエイターに集団幻視でも生じていたのではないかとさえ思えてしまうのである・・・
(もんぺーる/2001・12・13)