REVIEW

part13
(最終更新日2003・12・27)


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  久々のブックレビュー、超特大だあっ! 「命令ならば躁するわ…」

「 ”和 ”の周縁で 逃走 をさけぶ」

- 混迷の時代を読み解く3冊の本 -

「サブカルチャー反戦論」(大塚英志 著 角川文庫  ¥514 )
「ぷちナショナリズム症候群 若者たちのニッポン主義」(香山リカ 著 中公新書ラクレ ¥680 )
「井沢元彦の世界宗教講座」(井沢元彦 著  徳間文庫  ¥514 )

 一次会でそつなく周囲に溶け込みながら締めの言葉をじっと待ち、二次会の誘いを曖昧に断り冬の寒空をぼんやり見つめながら帰ってきた1960年代前半生まれのかつての新人類の皆様、お疲れ様。

今だに「地上の星」をカラオケで熱唱している団塊世代の上司…
自分と同じように二次会はズラシながらも、ケータイで連絡を取り合い他の店に群れ集う団塊ジュニア達…

(…本当に群れるのが好きなんだなあ…) と、あなたは心中呟いたに違いない。

ネットでニュースを見ていると、優勝旅行にエースピッチャーが不参加だったことに元監督が激昂したという記事が目に止まる。

「協調性がない」、「何を考えているのか良くわからない」、「個に閉じ込もる」、などなど…ゲームやパソコンに没頭するオタク世代、またオタクという言葉にリンクする猟奇事件、テロ、宗教、殺人、誘拐…あげれば切りがないくらいに、とにかく「新人類」に対する評価はマイナス面ばかりだった。

だが、どうしてこのような断層のような世代が生まれ、またこの二十年間バッシングもしくは黙殺されているのだろう、という疑問が以前からずっと頭から離れない。

私自身の考え方・行動様式というものに限定した場合、「私」を「私」たらしめる契機をもたらしたのは10才前後に感覚した個人と社会の図式ではなかったか、と思う。
(この10才前後というのは社会と人間の関わりというものを先入観なく理解する貴重な時期だ。)

経済は成長し(オイルショックというつまづきはあったが)、科学技術は急速に進展していると感じられた。

テレビはカラーになり、一番高いテレビには回転式のリモコンがつくようになった。(ズバコンなんてね)

暗くした理科室で社会や理科の8mm映画を見ることが少なくなり、5cmくらいの幅のオープンリールのビデオデッキでテレビ教材を見ることが多くなった。

カセットテープというものが普及し、ラジオの音楽番組を録音して好きな音楽を好きな時に聞けるようになってきた。

高感度のBCL用のラジオが有れば、ラジオ・オーストラリアのかわせみの声を聞いたり、ロンドンのBBCのニュースが聞けるんだってさ…

高くて買えないけどさ、デンスケがあれば汽車の音をステレオで録音できるんだって…左から右に本当に目の前を汽車が通り過ぎていくように再生することができるんだってさ…

電子ブロックよりマイキットの方が回路の種類が多いんだって…

今度のMAC(APPLEのMacintoshではない)についているマイクは5wayマイクなんだって…内蔵、有線、ワイヤレス、トランスミッター、トランシーバー…すごいよなあ…

友達と電器店でラジオカセットや高級な2トラ38のオープンリールデッキ、ハイファイ・ステレオセットのカタログを集めてはため息をついた。

だが、一方、親や先生にも内容を詳しく聞くのをためらうような陰惨な事件も多かった。それらは新聞やテレビを通じて否応無しに目や耳に入ってきた。

ベトナム戦争の最中に撮影された、迷彩色の軍服を着た兵士が首と腕だけになったアジア人の死体をつまみ上げている写真。

ハイジャック、銃撃戦、立てこもり、内紛、壮絶なリンチ…

自害した作家の首が転がっている、新聞の粗いドットのモノクロ写真…

これ以上大きな文字はない、というくらいに大きい「北爆」という2文字…


…考え方が違うというだけで、どうして人が人を殺して良いのだろう?

…どうして、敵か味方か、仲間か、仲間でないか、なんて決めたりしなければならないんだろう?

…グループに入っているだけで殺されたりするのは嫌だな…それなら最初からグループなんかに入らない方がいいな…

レフトもライトも嫌いだ。

巨人も嫌いだけどアンチ巨人というのももっと嫌いだ。

というよりも、たった20人くらいのために校庭全部を使ってしまうような野球が嫌いだ。

というよりも、チームプレイというのが嫌いだ。(僕が失敗してチームが負けると泣きながら怒る奴がいる。)

「ぼく」はただ単に「ぼく」でいたい。

こうした考え方は個人主義のささやかな萌芽だ。

そうして私はそれがそうとは知らず、少し過剰な自意識と個人主義をコアにして、そこそこ勉強して田舎の進学校に入り、多少の挫折感を味わいながらも何とか大学に入学した。(理系崩れの文系で共通一次の点数のみで合格したのだけれど…マークシートの選択問題のみで合格してしまうというのもdigitalでその時代というものを象徴しているかもしれない。)

ウォークマン、YMO、テクノ、ニューウェーブ、MTV、カフェ・バー、宝島、スタジオボイス…

そうした「モノ」や「カルチャー」を消費しながらもそれに没頭するというわけでもなく、ふわふわとした浮遊感を感じながら常に興味の対象を変化させている姿は、理解不可能なものとして「新人類」とカテゴライズされた。
でも、そうカテゴライズされることに反駁するわけでも肯定するわけでもなく、「ふうん、そうなんだ」と軽く受け流すあたりも理解不可能度を増すことになった。さらに詳しく説明を求めると、記号論なんかで他人事のように説明し始めるのだから性質が悪い。

それまではとにかく、左翼か右翼か、資本主義か共産主義か、保守か革新か、反米か親米か、ハト派かタカ派か、巨人かアンチ巨人か、演歌かポップスかという「二者択一」のテーマだけで何時間も論争することができたのだ。それくらいに自分がどちらの立場に属しているかというのは重大なことだったのだ。
もちろんこれは今でも重大なことらしく、大真面目な顔で「わたしはタカ派なんです」なんてコメントしている大臣もいたりする。(わざわざ自分で言うようなことじゃないよね)

だが「新人類」は「ボクはボクだけど、5分後のボクは今のボクと違うボクでいたいな」という具合で、「二者択一論者」にとっては全く暖簾に腕押しなのである。

こうした新人類特有の浮遊した感覚を浅田彰は、従来の直線的蓄積型の思考・行動様式に対して、差分的消費型の「スキゾ」(ああ、懐かしいね!)というタームで上手く説明していた。
「蓄積せず消費せよ」「身軽に逃走せよ」というフレーズが何とも昔のアジテーションっぽくて、ノイ・バウテンを聞きながら読むとすっかり気持ち良くなってしまった。
 
しかし「逃走」とは全くかけ離れて、経済は土地投機に過剰に集束・蓄積し、ついには実体以上に拡大された幻影を見せ、その後急速に収縮してしまった。

そしてとっくに崩壊していた東西冷戦構造にとって代わる新たな枠組みが、「9.11」を契機に一気に浮上する。

この枠組みは、大相撲のように「東」と「西」に国家がグルーピングされた東西冷戦構造のようには簡単に二者択一で解釈・解決できる問題ではない。富裕・貧困、民族、宗教、歴史的対立等の幾つものレイヤーからなり、しかもその各レイヤーが極めて流動的だときている。

だが各国がオンエアしている国営ニュースやネット上のニュースを見て感じることなのだが、これだけ流動的な情勢にあっても、各国の態度というかスタンスというものが堅固に見えるのだ。それは、国家元首や政府がという範囲に留まらない、街頭でインタビューされる国民の言葉(もちろんその主義・主張は個々に違うわけだが)が、何かしっかりしたものに依拠している、という印象を持ってしまうのだ。

なぜだろう?

よく言われる「平和ボケ」という奴か?でも、日本だけ平和というわけでもない。憲法のせいだろうか?でも「護憲」という言葉が死語になりそうなくらいに憲法は日常からはほど遠い。神道・仏教で説明できるほどには一般大衆全てが信心深いようにも思えない。他に日本人特有の特殊な精神構造なんてあるだろうか?

そんな疑問を抱きながら、私は「9.11」以降のこの世界を理解するのに役立ちそうな本を探し始めた。

(ぜいぜい。やっとレビューにたどりついたぜ…)

最初の一冊は、「サブカルチャー反戦論」(大塚英志著 角川文庫)。

著者の姿勢は [    「現在」は「戦時下」にある。   ] という一文に集約される。

現在を戦時下と規定した時、文章を書く人間は、文学は、アニメは、マンガは、どのような姿勢で何を伝え、あるいは表現しなければならないか、という重くなりがちなテーマを、様々な引用・例示をもって軽快に論じている。

「手塚治虫」、「スニーカー文庫」、「海のトリトン」、「海辺のカフカ」、「ディズニー」など、私たちにとってごく身近なメディア・コンテンツから、「国家」「憲法」「反戦」というレベルの問題提起にまで論考する著者の力量はただものではない。

憲法の本質・目的を、成立の経緯・意図・背景といった面からではなく憲法自体を純粋なテクストとして解釈・アプローチする著者の方法論に全面的に賛同するかどうかは読者の自由によるものだとして、「憲法って何でもめているのかがよくわからないけれど、自衛隊派遣とどう関係があるのかなあ、ちょっと考えてみたいなあ」という人にはもってこいの入門書。

二冊めは「ぷちナショナリズム症候群  若者たちのニッポン主義」(香山リカ著 中公新書ラクレ)。

この本は前掲書ともリンクする部分もあるのだが、

「ニッポンがんばれ!」

「ニッポンっていいよね!」

「日本語ってきれいだよね!」

というような、オリンピックやワールドカップの熱狂、日本語・日本的なものの積極的肯定に代表される本当に屈託のない愛国心を香山リカは「ぷちナショナリズム」と呼び警鐘を鳴らしている。

この「ぷち」という語感が何とも香山リカらしい。

正面切って「君たちはナショナリズムに冒されている!」などと言えば、すぐにキレて
「オレたちは、んなんじゃねえ!うちのガッコのチーム応援すんのと、ニッポンを応援すんのはなーんも変わんないの!他にどう呼べばいいってんだよ!」っていう具合に切りかえされるに決まっているのだ。

だから、「ぷち」をつける。

「プチ・ブル」の「プチ」ではなく、平仮名の「ぷち」…ちょっとかわいくて、ちょっと恥ずかしいこの語感が接頭辞にくるこのナショナリズムは、「もしかすると自分もそうかな」と思わせるだけに十分な言葉の威力がある。

現象に対する命名にとどまらず、この「ぷちナショナリズム」と関連する現象も取り上げられている。
「二世芸能人」、「二世政治家・財界人」の台頭とそれに対する世間一般の受容・肯定の現象がそれだ。

父権との対立・確執を通して権力や体制というものを知るプロセスを失い、「お父さん大好き!」と父権を積極的に肯定し父の庇護を最大限に利用しようとする「二世達」。

彼らは、また彼らを受容する層は、自分を取り巻くシステム(権力構造)に対して懐疑・批判することはない。香山リカはここに、「ぷちナショナリズム」との関連を見出し、また、「二世達」を是認する世論というものが結果的に日本社会に「不平等」や「階層化」を生むのではないかとも危惧している。(父親が成功してそれなりの地位にいなければ、子供はどんなに頑張っても成功できないということ)

ワールドカップで青色のニッポン色に溶けてしまった群集(モブ)に少しでも嫌悪感や違和感を感じた人にはおすすめの一冊です。

まあ、「桜」とか「こころ」とか「昭和懐古」とかメディアに表れる日本的な言葉の一つ一つに「ぷちナショだ!」と言うわけではないけれども、最近、ハリウッドでやたらと「SAMURAI」だの「KATANA」だのがモチーフにされた映画が製作されているのが少し気になるなあ。

大リーグで活躍する日本人が増えていることも、もしかすると「HEY JAP! 仲間に入れてやるからさ!一緒にプレーしようぜ!」というプロパガンダかもしれないし…双方の国民にとって、「大リーグで活躍する日本人選手」という映像は、同盟関係を象徴する強烈かつ印象的な映像であるに違いないからだ。

そして同じメッセージがこのイラク問題でも投げられている。

「HEY JAP! 一緒に野球する仲間なんだからさ!一緒にプレーしようぜ!」と…

「ぷちナショナリズム」と「ぷち」がついている内はまだ良いけれど、自衛隊員が一人でも犠牲になったら、ワールドカップのように「群集」に溶けてしまい「ほんまもんのナショナリズム」に化けそうで恐い本でした。

さあて、三冊め。これが今回のブックレビューの肝である。

「井沢元彦の世界宗教講座 「生き方」の原理がなぜ異なるのか」(井沢元彦著 徳間文庫)。

今回のイラク問題で強く感じていたのは、かつての第二次世界大戦であれほどに敵国もしくはその周辺国についての情報収集や思考・行動様式の分析が重要だということが理解・反省されたはずなのに、イスラム文化圏についての理解・分析というものを試みた上での議論というのがほとんどなされていない、という点だ。

できればキリスト教や仏教、神道、儒教などとの対比をした上でイスラム教のことを知りたいな、という気持ちで買い求めたのがこの本だ。

この本は非常によくわかりやすい。だが同時に強烈な毒をも含んでいる。

「本当にこんなに簡単に言い切っちゃっていいのかよ!大丈夫なのかよ!」と突っ込んでしまうくらいに、各宗教あるいは国家について大胆な断定をしている。
だからこの本は、テレビでのみのもんたの発言に一々うなづき納得しているような人には決して薦められない。批判的にテキストを読み続けられる人にのみお薦めの一冊です。

で、私はこの本で、予想外の収穫を得ることができた。この本のあるタームの説明によって、「日本人固有の特殊な精神構造」なるものが何なのかということについての重要なヒントを得ることができたのだ。

それは 「 和 」 である。

何を今さら、という人もいるかもしれないが、聖徳太子の十七条の憲法において「和を以って尊しと為す」という条文が第1条として規定されていることに井沢元彦は着目している。第2条で仏教について言及していることを考え合わせれば当時の希代のインテリゲンチャ聖徳太子が「和」というものを人間としての基本原理としていたのではないか、というのが筆者の論理である。

キリスト教圏をはじめ絶対的な唯一神や創造主を信仰する人にとっては人間は不完全なものであり、バカが何人集まって話し合ってもバカな結論しか得られない。
ところが「和」というものは、凡人同士が集まっても話し合いさえうまくいけば道理にかない何事もできるという「話し合い至上主義」(これは山本七平の造語らしい)だ、と言うのである。

「和」においては、一人でものを決めてはならない。
「和」においては、話し合いの結果が全てであり、それは外部の法律に優先する。
「和」においては、職場における人間関係を乱さない、ということを重点に考える。
「和」においては、家族に対する愛情よりも、職場内の秩序、人間関係を大切にする。
「和」においては、「和」を乱す「個性」や「突出した人間」を非常に嫌う。

こう列挙するだけで、日本独自の行動様式が様々な具体的な事例として連想される。

野球監督が母親の死の事実を周囲に隠して優勝決定戦にのぞんだことが美談として語られる。
野球監督が優勝記念旅行にエースピッチャーが参加しないということに激怒する。
強くても「態度が悪い」と外国出身力士をバッシングする。
企業内部で「話し合い」をした結果の企業ぐるみの犯罪。
「集団になじまない」人間を無視するいじめ(だが「暗黙知のルール」なので法で裁くのは困難)
会社の飲み会で一次会を欠席すれば「協調性が無い!」とぼやく上司。
会社の飲み会で二次会を欠席すれば「つきあいが悪いよね」とメールを打ちながらつぶやく部下。
個人的な意見であっても、" I think that " ではなく " It is seemed that " を好む社内文書。
分譲マンション所有者達の、中古購買者・賃貸入居者に対する暗黙の嫌がらせ。

ああ、書いている内に気が滅入ってくる。だが、列挙してみると、間違いなくこれらの事例は「極めて日本的」で「ムラ的な行動様式」だ。
漠然と感じていた日本人特有の「曖昧さ」、国際社会に対する「自信の無さ」、国家としても個人としても世界に向けて発言することに躊躇してしまう「気弱さ」の原因は、この「和」の呪縛ではないだろうか。

だからたとえ相手が中東諸国であろうと同盟国であろうと国連であろうと、「和」という思考・行動様式によってのみ、理解・分析・解決していこうとしてしまうのだ。

「和」の思考が一番理解しやすいのは「国際協調」という言葉だろう。
それは「和」の思考と重なるように思えるから、「突出した人間」にならないように目立った発言を控えてキョロキョロ周囲を窺いながら、「お金を出さなければいけないかな」、「自衛隊を出さなければいけないかな」などと「和を乱さない最善策」を必死に考えるわけだ。

しかし、国際社会では、そんな日本の外交がとても奇異なものとして映っているのではないだろうか?

各国は、「国際協調」は重要としながらもそれよりまず先に、「自国の国益(経済・安全保障)」や「歴史的背景に起因する役割(国家としての個性)」があり、それらを踏まえて「何をするつもりであるか」というビジョンをもって言明・実施・行動しているのではないか。

横並びで、あるいは他国に追従する形で「国際協調」の名の下、復興支援活動を行う国家というのは他にあまり見られないように思える。

「町内であんたの家だけだよ!雪かきしていないの!」

町内で一番大きな家のレッドネックの太ったおばさんに怒られて、すごすごと雪かきをしている日本のおじさん…

実に情けない光景である。だが、これが現実だ。(すみません、さっきまで本当に雪かきしていたので、つい書いてしまいました。)

もっと、独自性・主体性を保った形でのビジョンというものを示すことはできないのだろうか…

少し切り口を変えてみよう。

歴史年表をざっと見渡すと近代以降の戦争・武力紛争というものの多くは、民族・宗教・政治体制の相違による軋轢と、石油をはじめとする権益の争奪を根本的な原因としている。この構図は今、現在も変わらないし、そして将来に渡ってもおそらく変化しないだろう。(人間はムーアの法則ほど順調には精神的な進化を遂げられないのだ、おそらく)

さて、50年あるいは100年という単位でこの年表を俯瞰する時、この「日本」という島国の存在理由はどこに求められるだろう?

平和憲法というのもあるだろう。
だが、「軍隊持ってるじゃん」と外国から言われれば肯定せざるを得ないだろうし、「自衛」という言葉自体も、戦争システムの変化の前にはどこまでが正当な防衛なのか?という疑問には答えづらくなっている。(衛星打ち上げも困難な国に飛んで来たミサイルを打ち落とすような技術があるとは思えない。となると脅威を感じたら先制攻撃をするしかない、という話になってしまう。)

話の展開に困った私はここで、little boy(ちびっこ君)とfat boy(ふとっちょ君)に登場してもらうことにしようと思う。

彼等二人は、正義の名の下にまた多くの兵士の犠牲を最小限とするために活躍し、ついに長い戦争を終わらせた有名人だ。

little boyは、hiroshimaに住む約14万人の民間人を一度に殺した。

fat boy  は、  nagasaki に住む 約7万人の民間人を一度に殺した。

私は、別にこの二人を使用した国を非難しているわけではないし、敵に回せと言っているわけでもない。
だが、最初に核攻撃された国としての事実・立場を明確にした上で、たとえ正義のためであったとしても大量破壊兵器は使用・保有するべきではない、と明言していたならば、国際社会からは随分違った目で評価されていたのではないか、ということだ。

おっといけない、かなり本気で書いてしまったぞ。こんな風に書くと、すぐに草の根ネットワークとかの「和」の呪縛に絡めとられちまう。

重いテーマほど、その言葉を宙空高くぽーんと放り上げてやらなければならないのだ。

hiroshima しかり …

nagasaki  しかり…

auschwz  しかり…

9.11        しかり…

「和」や「言霊」の呪縛を逃れたそれらの「痛みを伴う言葉」は、そこで初めて、コスモポリタンの史学の一つとして解釈され様々な情報媒体(それは、小説かもしれないし、マンガ、アニメ、ゲームかもしれない)によって表現される可能性を持つのだ。

だから、そう冒頭のパクリのテーマにようやく行き着く。

「和」の呪縛からも、「言霊」の重さからも、二者択一のテーマからも、あらゆるメッセージ・グループからも、あらゆるデラシネ・ネットワークからも、逃走しなければならない。
もちろん今、言葉を書き込んでしまった「自分」からもだ。

そうして逃走しながら、少し無責任かもしれない言葉をネットの片隅に、そっと置く。

積み上げた美術書の上に檸檬をそっと置くように…

なんちゃってね

(2003.12.27  もんぺーる記)