by もんぺーる
現在、放映中の「サクラ大戦」については、ネット上でも様々な感想、意見が述べられている。良い、悪い、あるいは好きだ、嫌いだという紋切り型の感想はともかくとして、比較的新しいメディアである「ゲーム」としてスタートしたこの作品の支持層というものが結構保守的であることが意外だった。
もちろん、どのジャンルにも存在するいわゆる原典主義、つまり最初に構想、創造されたものが正しいとする考え方は、批評の方法の一つだ。成功した作品はその成功の持続を求められ、続編あるいは原典から派生した様々な作品が、原典を基に検証、批評されていくのが常だ。しかし、その原典主義による批評はそれが同一のメディアで表現されていることが条件の一つとなる。同じ舞台、同じキャラクターが同じように振舞っていたとしても、メディアが違えばメディアとしての方法論を以って検討しなければ不毛の議論になる。
ゲームの連続性を支える緊張感や弛緩といったストーリーの展開の方法、エピソードの挿入等の技法は、戦闘シーンとの連続性と相乗して効果を生み出すものであり、それをそのままの文脈で他のメディアに移植してしまったならば、それは冗長で退屈な作品となってしまう。
インタラクティブなメディアで表現された作品ををそれ以前の一方通行のマスメディア(映画、アニメーション)として表現するためには、マスメディアの方法論、文脈で再構築しなければ、およそ鑑賞に耐え得る作品にはならない。気が向けば何時間でもお気に入りのキャラクターとインタラクティブに遊べるメディアの文脈と、来週はどうなるのだろう?(なんと気の遠くなるような待ち時間だろう!)と期待を持たせるメディアの文脈は全く違う。
この方法論、文脈の差異を加味して観る限りは、現在放映中の「サクラ大戦」の出来は悪くない。
キャラクターにはより強い陰影が付され(作画のことではない)、人間関係や伏線についても適度な緊張感をもって語られている。敵キャラクターの生体的なフォルムや、霊力とメカニックのシンクロ、司令室の設定、ターム等が「エヴァンゲリオン」の影響を受けているのは明らかだが、緊張感を生ませるための効果的な引用となっている。これが模倣ではなく引用として成功しているのは、おそらく「サクラ大戦」という世界観が強固なためだ。逆に言えばこの世界観が最終回までどのようにしてテンションを高めて語られていくかが、「原典主義」を超えたアニメーションとしての成功の鍵になるだろう。
(2000・5・15)
映画「2001年宇宙の旅」は、私の最も好きな映画の一つだ。
CGの技術が飛躍的な進化を遂げた現在にあっても、1960年代に製作されたこの映画は決して色褪せては見えない。おそらく、技術としての映像より、観念や構想のフレームが斬新で強固なせいだ。
この「失われた宇宙の旅2001」は1972年に著わされた作品で、映画、小説の「2001年宇宙の旅」の製作過程と削除された幾つかの構想が掲載されている。
あの人工知能の代名詞とも言うべきHALが構想当初では人型ロボットとして設定されていたことや、クライマックスシーンの宇宙都市の設定など、興味深いエピソードが多いのはもちろんだが、それ以上に注目すべきは、「2001年」がスタンリー・キューブリックとの協働作業によって創作されたものであり、そのどちらが欠けても「2001年」は創造されなかったということである。
この作品では、アーサー・C・クラークがストーリー全体の構成を固めて、論理的な整合性を保ちながら細部を描写していく作業を進め、キューブリックが直観的な感性でそれを批判、修正していくというようなスタイルで「2001年」を製作していく過程が描かれている。
クラークとキューブリックのコラボレーションはスリリングであり、知的な興奮が増幅されていくその過程は、まるで製作現場に立ち会っているように思えるほどに臨場感に溢れている。
昔、「2001年」を観て、読んで感動した方にはお薦め。
ただし、このレビューを読んで、「そうか、そんなに良い作品なのか」と映画「2001年宇宙の旅」でも見てみようかという人、ちょっと待ったああ!
「マトリックス」のようなアクションも、「タイタニック」のようなラブロマンスもありませんからね。セリフもほとんど無いし、最初は猿しか出てこない。宇宙ステーションの女性科学者以外は女性らしい女性も出てこないし、音楽は、クラシックと現代音楽だ。
それでも気になる人は観てください。
byもんぺーる
(2000・5・2)
「レッド・ドラゴン」、「羊たちの沈黙」に続いて上梓された「ハンニバル」は、読者の期待や予測を超えた内容となっている。
もちろん、ストーリー自体は今までの作品の流れを汲んだ形で、生理的な不快感を喚起するような、陰惨な殺戮光景、カニバリズム、サディズム、グロテスクな人物描写が散りばめられ、ハリウッド的な追跡シーンもサービスされてはいる。しかしストーリー全体に通底音として奏でられているのはレクターとクラリスの自己の精神世界への遡行であり、それは共鳴しあいながら、精緻な共感の構図に収束している。
今回の作品では、レクター博士について、その芸術や文学への造詣の深さと、音楽の技量、ワインや料理の嗜好から、ブランドの好みまで、非常に細やかに描写されている。舞台の一つとしてイタリアを選んだのは正解だ。彼の学究心や趣味嗜好が最大限に発揮されているばかりか、彼の目を覆わんばかりの猟奇的な犯罪さえもヨーロッパの古都市ではスタイリッシュに表現されている。
最後の第六部「長いスプーン」の内容については、意見が分かれるに違いない。
無難な終わり方としては、クラリスが「ギリギリのタフな女」のまま、レクターの逃亡を見送るという線だと思うのだが、トマス・ハリスは全く別の解答を用意していた。
トマス・ハリスは、レクターを怪物的な救済者として神話的な世界の中に封印してしまったのである。
私は、この解答が結構気に入っている。
読者の期待通りのストーリーを展開させるのも技量としては必要だけれども、時には裏切りも必要なのだ。「ゲーム通りの展開じゃない!」とOVAやアニメを見ていきり立つ方にはお薦めできない、
とびきりスリリングな作品です。
(2000・5・2)