REVIEW

part7
(最終更新日2000・8・20)


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「中学生の鮮やかな革命」

「希望の国のエクソダス」(村上 龍著 文藝春秋 1571円)

by もんぺーる

面白い!こんなに爽快感と知的興奮に血がざわめいた本も珍しい。
著者自身が面白がって書いていたようだが、その面白さが120パーセント転送されてしまうぐらいに面白い。
 のっけからボキャブラリーの貧困なパンツずり下げにいちゃんの褒め言葉みたいで申し訳なかったが、村上 龍は時代の予感めいたものを書くのがとても上手い。最近は風俗のお姉ちゃんやコギャルの一人称ばかりが多くてちょっとうんざりしていたのだが、今回の「希望の国のエクソダス」は、「コインロッカー・ベイビーズ」、「愛と幻想のファシズム」の系譜の作品だと私は勝手に思っている。キクやハシやアネモネやゼロやトウジが、OSをすっかり入れ替えて再生してきたのだ、何も恐れない中学生となって。

 パキスタンでゲリラ兵士として行動する日本人少年のエピソードからこの物語は始まる。
 メディアに登場した少年の発言は日本の中学生達に大きな影響を与え、全国の中学生達は数十万人という規模で不登校を始め、インターネットを利用して強大なネットワーク組織を形成し、中学生のネットワーク組織はやがて一人のカリスマを生む。
「ポンちゃん」と呼ばれるそのリーダーは「希望に満ちていた頃の」古くて意味のない教育システム(=中学校)、判断能力が無く既存システムにしがみついているだけの大人達を糾弾し、ネットワークを最大限に利用して、教育、政治、メディア、金融システムといった日本のレガシーシステムに 大胆かつ巧妙な情報戦争を仕掛けていく、というストーリーなのである。
 証券会社が潰れてメディアの前で社長が泣いたり、核を扱う機関が子供の嘘のような隠蔽工作を何度も繰り返したり、食中毒事故を起こした食品会社の社長が「私は寝ていない」なんて激昂したり、何だかおかしな国だよなあ、と思っていた感情にすぅっと染みてくる小説なのである。こんなに希望の持てない国で、「偏差値の高い高校に入って有名な大学に入って一流の企業に入ればあなたは幸福なのよっ」て母親や教師に言われたって納得なんかできやしないのは当たり前だ。一流大学出の馬鹿は世の中には一杯いるし、例え利口でも倒れる時はどんな大企業も倒れるってのは、中学1年で十分理解できることなのだ。「それはあなた民間の話よ、大蔵官僚になれば・・・」なんて思っている親も多いのだろうが、安易にそう考える親の子供は大抵安易に業者からお金を貰って後ろに手が回ったりするのだ。
 中学生ならそんな事ぐらい肌でも頭でも感じているのだ、多分。そうしてそんなイライラを毎日感じていたらキレたりもするんだろう。大人は安酒でくだも巻けるが、中学生は制約が多い。そうして「良い子でおとなしい」中学生は身近な武器を手に取るのだ。
 この日本という国がとてもつまらない国になっていてこのままにしていたら恐らく変革や改革を待つ前に少年達はこの国を捨ててしまうだろうという村上龍のビジョンはおそらく現実のものになるだろう。なぜなら、もし娘に少しの才能と野心が有るなら、私はこの国を捨てることを彼女に提案しようと思っているからだ。
 この日本という国で、男女の雇用条件の不平等や年功序列の賃金体系、体育会系的な上下関係、のんべんだらりとした職場風土、等、等、等の日本的システムの改革など100年経っても実現しないだろうし、生涯かけてまで変革しなければならない相手でも無いと思う。つまらない国は捨てたほうが良いと思う親は増えていくだろうし、それよりも増して、世界中に張り巡らされたネットワークは 表現力や技術力、労働力の流出、移動をもたらすに違いない。
 「ポケットモンスター」のようなゲームの世界観はもはや世界的な共通言語になりつつあるし、ゲームという共通言語をベースにしたコミュニケーションは数年後にはグローバルな展開になるだろう。英語、ドイツ語、フランス語、中国語、ロシア語、日本語・・・様々な民族レベルの言語はおそらくごった煮状態になり、それでもおそらくコミュニケーションはそんなに不自由しない。「ネイティブな英語を話せる」という能力は、「COBOLを正確に書けます」という位の能力でしか評価されなくなるだろう。ゲームを通じて子供達は言語を教えあい、自分を取り巻く組織や社会について語り始めるに違いない。
 そういう時代になった時、娘は、セクハラまがいに肩を抱きデュエットのカラオケを強要する上司のいる会社に勤めるだろうか。同期の男性社員と賃金で大きな差のつく会社に勤めるだろうか。終業時刻を睨みながらお茶を飲みスポーツ新聞を広げて競馬の予想に熱中する上司のいる会社に勤めるだろうか。給湯室で愚痴や妬みやそねみを延々と聞かされる 会社に勤めるだろうか。一緒にトイレや食堂に行かないというだけで仲間外にされるような会社に勤めるだろうか。

 そんな企業や組織しか無ければ、子供達はおそらく簡単に海外に職を求めるだろうし、とりあえず日本にいなければならない子供達はネットで外国企業からの仕事に就くだろう。
 絵空事ではない。その動きはもう既に始まっているのだ。優秀な研究者や技術者はもうこの国を捨て始めているのだから・・・

 企業の未来を案じるセクションにいる方、人を教える立場にある方、ネットワークの将来像を考えたい方、日本的組織、システムを考えたい方、におすすめの一冊です。

(2000・8・20)


「或る映像作家の死」

デレク・ジャーマン 「BLUE」(DVD:アップリンク)
 

by もんぺーる

デレク・ジャーマンの映像には、いつも新鮮な驚きが有った。
デジタル・イフェクトがさほど珍しいものでは無くなっていた80年代半ばでさえも、その映像は鮮烈だった。
粒子の荒いフィルム映像の中に結晶のような炎や花火の閃光が明滅し、あどけない少女が花びらをむしり、圧倒的な速度の瞬間的なカットインの中に、性や死のメタファーが現れては消えた。
 「ラスト オブ イングランド」を観た時には余りの高速で過剰な映像の変化に、軽いめまいを感じたくらいだ。感性というには余りに過剰なものがその映像に有った。
 彼がAIDSで死んでから、かなりの時間が経っている。
 デレク・ジャーマンの遺作と書かれたDVDを手に取った時、私は彼が最後に遺した映像はどんなだろうと興味を持ち、数本のビデオと一緒にそれをレンタルした。
 その映像は、全てBLUEだった。
 ビデオ信号を受け付けていない状態そのままのBLUEの画面が全く変化せず、ただモノローグが流れ、日本語字幕が有るのみ。
 最初は面食らったが、見ている内に段々切ない気持ちになってくる。
 もう大して視力が残っていないのだ。
 モノローグは日付の無い日記のようで、投与されている薬品の名前が読み上げたり、脳の中に沸き起こるイメージを淡々と語り、問いを発し、それに自分で答える、そんな具合だった。
 映像作家にとって、BLUEという色はモニターのデフォルトの色で有り、全ての出発点であると同時にまた終着点でもある色だ。
 彼にとっては、BLUEは死の色だ。
 そして約75分のBLUEだけの映像は彼の死の感覚を共有する体験でもある。
  
 何も無い、何も無くなるということ。

 退屈になりそうなそのBLUEの色は、死が決してドラマティックなものでは無いことを教えてくれる。 

(2000・8・20)



「憎悪の連鎖を断ち切る時」

「サイレント・ボーダー」(永瀬隼介著 文芸春秋 2000円)

by もんぺーる

憂鬱な事件ばかりが続いている。

親が虐待のあげく我が子を殺し、
他人の子を預かる者が児童を虐待し殺し、
少年は寝ている親を金属バットで殴り殺し、
また、ある少年は近所の家族を皆殺しにしようとし、

ニュースは、物語には起承転結が有るとでも言わんばかりに、
街を映し、家を映し、目以外の全てを映し、
小学校の卒業アルバムや、スナップ写真、読書感想文の果てまで並べ立て、
生い立ち、家族の関係、交友関係、性格、言動を説明し、
犯罪の動機、犯罪の過程、犯罪後の言動を克明に描写した後で、
キャスターは眉を顰めながらニュースを締めくくる。

 ニュースを見ながら、私たちは知らず知らずに記憶の引き出しを探し始める。
 真面目だ、優秀だと隣人や親戚に褒めそやされ、精神的な親殺しが出来ないままに崩壊寸前の自我とプライドを抱えたまま微笑を浮かべているあの人を。
 自分の人生をがちがちに固めて苦しめた母に対する憎しみをつぶやきながら、自分の子供に全く同じことをしているあの人を・・・
  そうして胸の中に黒雲のように立ち昇った不快な感情をビールと一緒に嚥下して、鏡の中の自分を見る。昨日の自分と違っていないことに安堵して、空のグラスにまたビールを注ぐのだ・・・

 「サイレント・ボーダー」は犯罪小説のスタイルをとってはいるが、その扱っているテーマは「家族」であり、「家族の病い」、家族が紡いでいる「虐待の連鎖」を主題としている点で、内容的には重いものになっている。
 家庭内暴力の息子に悩み奔走するフリーのジャーナリスト。貧困と仲間の暴力にあえぐ少年。夜の繁華街の自警団のリーダーとして君臨するカリスマ的な少年。
 それぞれの登場人物達の持つ境遇、背景が次第に明らかにされて「家族の病理」、「憎悪の連鎖」という主題に収斂していく ストーリー展開は、スピード感に満ちており読者を飽きさせることが無い。
 読み始めたら終わらない、一気読みの一冊。

(2000・8・17)




「長編冒険小説の快楽」

「鋼鉄の騎士」(藤田宜永著 新潮社 3000円)

by もんぺーる

SEE MOREの二周年だというのに書き込みの一つも出来なかったのはこの本のせいだ。
研究社英和中辞典ぐらいの厚さで上下二段組というこのボリュームに手を出すのには、朝まで読んでも構わないぐらいの自由な読書時間と「ええいっ!このやろうっ」という気力が必要なのだ。
 この二つの条件が揃った15日に読み始めて丸二日。ああやめられない、止まらないのかっぱえびせん的な状況が続き、17日午前1時47分に読了。頭の芯がぼうっとする位に没頭できる本であった。
 時代は1938年、各国の情報機関が暗躍する大戦前夜のきなくさい巴里。巴里の日本陸軍武官室に勤務し諜報活動をしていた外国人女性が失踪する事件から物語は始まり、武官室のトップであり華族である陸軍少将の息子が自動車レースに魅惑され、様々な政治的な陰謀に巻き込まれながらも自動車レーサーを目指してあらゆる困難を乗り越えていく、という冒険小説の要素てんこ盛りのビルドゥングス浪漫活劇。
 偶然の出会いが多く、事件の度に登場人物がそこに居合わせてしまうという部分が気になるが、革命、戦争、カーレース、大泥棒、ラブロマンス、スパイ活動という冒険フルコースに加えて、主人公が華族の息子で、一時は革命に情熱を傾け、今度は自動車レースに燃えてしまい、女中さんは粋で美人で、運命的に出会ってしまう令嬢も行動的で魅力的で、何だか事件に巻き込まれていく内に仲間が増えていって、どんどん国際的な陰謀の真相が明らかになっていくのである。
 
爽快である。

面白ければいいんじゃない?とうそぶいてパタンと頁を閉じて、それ以上何も言わない。そして後でこっそりと模型屋に足を運んで、ブガッティを探す。
そんな読み方がこの本にはふさわしいと思うのであった。

(2000・8・17)



「虚構を超える史実」

「梟の朝」(西木正明著 文春文庫 552円)

by もんぺーる

先日、ネットのニュースで面白い記事が載っていた。
アメリカで登山中の女性が熱射病にかかり携帯電話で助けを求めたところ、警察を通じて航空管制官から付近を飛行している航空機に救助の要請し、なんと付近をたまたまヘリで飛行していたハリソン・フォードが現場に急行しその女性を救助したというのである。空からばりばりばりと爆音とともにヘリが降下してきて、ハリソン・フォードが駆けよって来て、「お嬢さん!大丈夫ですか?」とか言って抱き起こされたら、思わず「・・・敵はもうそこの尾根まで来ているのよ!ハリィ!」とか訳のわからないことを言ってしまったのではないだろうか。たとえそうは言わなくても、もしかしたらカメラがあるんじゃないか?と周囲をきょろきょろと見回したのではないだろうか?
 時として、現実は小説地味てしまうことがある。
 「梟の朝」も、そんな風に思えてしまうノンフィクションなのである。
 主人公は、山本五十六のブレインとして列強との外交の席で影のように随行していた副官、光延東洋。国際感覚と語学にずば抜けた光延は戦時中にヨーロッパで情報収集活動の任につき、1944年の6月、イタリアでパルチザンに襲撃されて戦死を遂げる。光延が日本に伝えようとした重大機密とは?・・・
 と、まるでレビューで紹介した冒険小説「鋼鉄の騎士」のような展開なのだが、こちらはくどいようだがノンフィクションなのである。光延が伝えようとした情報がもしも日本に届き、然るべき人物がその内容を判断していたら、もう少し早く戦争が終えられたのではないか、などど考えてしまいました。
 派手な海戦や奇襲攻撃の影で、ヨーロッパで繰り広げられていた情報戦を知ることのできる一冊です。

(2000・8・17)