職場でとびきり口の悪いネットワーク大王が,ディスプレイを見るなり洪笑した。
「あはは,花柄に水玉だってさ。パンツじゃないんだからさあ!」
そうだ,パンツではない。大体パンツがスケルトンじゃあ困るからな・・・
どうも非難業々である。
実際に店頭で見ると,透明感が有りHPや印刷物で見る印象とは多少異なるのだが,New
iMacを見るなり娘はつぶやいた。「・・・おばさんくさい・・・」
ううむ,と私は唸ってしまう。やはり,どうもぎりぎりの線でイケていないのだ。
この花柄,水玉といったデザインモチーフは日本の家電市場ではある時期うんざりするくらいに氾濫していたのだ。洗濯機,冷蔵庫,炊飯器,といった白物家電を中心に「若い主婦層に受け入れられるように」と,ひまわりやらあじさいやらチューリップ,薔薇,百合,ありとあらゆる花が咲き誇っていたのである。そして80年代なかばくらいから「花とか水玉なんて,主婦を馬鹿にしたデザインだ」という風潮が何となく生まれ,モノトーン系に落ち着きはじめて現在に至っているのである。
だが,ジョブズもAppleの若いデザイナーもおそらく「日本家電のフラワームーブメント」なんて知らないのだ,多分。
もちろんネットでの批判が全てなわけではない。
今回のiMacに対する非難は,どちらかといえばいつも地味な格好でツクモやヨドバシをふらふらしているおじさん(俺だ,俺)やお兄ちゃんが,「このマシンを俺の部屋に置けってか?マシンのことも良くわからん厚底のお姉ちゃんや,SOHOやったら儲かるなんて勘違いしているおばさんならいいかもしれないが,俺の部屋にこれを置けってか?困るよ,浮いちゃうじゃない。どうしてくれるんだ」っていう,いわば仮定に基づく熱暴走的な思い込みが大半なのである。
別に似合わなければ買わなければ良いのである。
これで案外,「Kids iMac」なんて売り方で発表したらもう少し反応は違ったかもしれないなあ。
「そうか,そうかこれは子供をターゲットにした商品なのか。そうか俺には関係ないんだ,俺は買わなくてもいいんだ。・・・ふうん・・・結構スペックもいいんだな・・・前に「My
First Sony」なんてブランドもあったよな。今回は「My First Apple 」ってわけね。・・・でも子供にはもったいないハイスペックだな・・・子供向けのを使いこなすってのもマニアっぽくて良かったりして。それに,ほら・・・ちょっとキッチュじゃない?」
なーんてね,距離を置かれるとおたく親父はいつも通り冷静になって,おまけに「キッチュ」なんて思いもかけない言葉が飛び出したりしてね。(使うなよ,おやじが)
結果がどう出るか気になる製品だ。
(by もんぺーる)
(2001・2・25)
(もんぺーる)
まさか、というよりはやっぱりかという印象だ。
ドリームキャストの生産中止という事態は、デファクトスタンダードの地位を獲得するチャンスを逸した商品は容赦無く市場から駆逐されるという厳然たる事実を示す象徴的な出来事だ。
そのパワフルなポリゴン、画像処理能力を賞賛する声がある一方、DCが従来のセガサターンソフトとの互換性を持たないことを危惧する声も多かった。
市場競争力の優位性を保つためには従来ソフトとの互換性は商品コンセプト上最も重要な案件だったはずだ。エミュレートするための技術的な制約やコストとの兼ね合いも有っただろうが、この互換性を切り捨ててもドリームキャストは成功するという判断が有ったことは間違いない。
セガをそう判断させたものは何か?
それはインターネットだ。
3万円を切る価格でインターネットに接続できる。家庭内でパソコンがなくてもDCでネットがブラウズできメールも送れるのだから、インターネットを楽しみたい人はネットもゲームも楽しめるDCを買うだろう、というのがセガの予測だったはずだ。パソコンには興味が無いがネットやメールには興味が有るというユーザーがセガのターゲットだった。
だが、セガの予測を超えるものが現れた。
iモードである。
もともとキーボードを打つのが苦手で、流行りものに弱く、誰かと話していないと友達がいないのでは無いかと不安になる大多数の層に、このPDAは圧倒的な支持を得てしまうのである。
頼みにしていた安価なインターネット接続マシンとしての存在意義を失ったマシンは、正に「はかない夢のマシン」となってしまったわけだ。
構図としては多分、このようなものだったと思う。
だが、何となく割り切れない気持ちがある。
デファクトスタンダードというのは確かに間違いがない。車はトヨタ、OSはWindows,ゲームマシンはPS,テレビはSONY,ノートパソコンはVAIO、プリンターはエプソン、
みんなが買っているし、みんなが持っている。
自分を売り込む時はやたらと個性と「自分らしさ」を謳いながら、消費する側になると「デファクトスタンダード信仰」にどっぷり浸かって、個性的な夢や可能性を踏みにじっているのが私達だのだから。
一等賞ではなくても生き残っていけるようなゆとりがもう少し有ればと思う。
(2001・2・1byもんぺーる)
昔、ボーボワールが男と女の違いというのは男が男として女が女として育てられるがために生じるのだってなことを言ってるのを本で読んで、ほんまかいな?と思ったことがある。まあ、確かに親が男の子は男の子らしく女の子は女の子らしく育って欲しいと思うのは事実だとしても、その「らしさ」の全てを親や文化・環境が後天的に与えているという説には、何だかとても無理があるように思えたのである。
「話を聞かない男、地図が読めない女」は、私が長年抱いていたもやもやとした疑問に、一つの切り口を見せてくれた。
つまり、男と女は脳が全く違うというのである。
男の脳は、三次元的な認識に代表される空間認識・思考に優れており地図を見ただけで建物の配置や位置関係を把握することができる。それに対して、女性の脳は空間認識が苦手な為にドライブでナビゲーターをまかせられると、進行方向に地図の向きを合わせるために地図をぐるぐる回すことになる。(これは、まりあ・ふみえが実証している。)
男の脳が優れているというわけではない。
男の脳はシングル・タスク。つまり、男の脳は一度に一つのことしか考えられない。話題がどんどん飛び、幾つもの話題が重奏的に進行する女達の話には男の脳はパニックを起こす。「順番に話してくれないかあ!」「要点は何だ?何を言いたいんだ!」と男が逆上して怒鳴るのは、どうもこのシングル・タスクという貧乏なCPUに問題が有るかららしい。
それに対して、女の脳はマルチ・タスク。女達は圧倒的なスピードで重奏的に進行する話題を全て理解しながら、同時に相手の服装や仕草を観察し、30分後くらいに炊飯器のスイッチを入れるべきだ、と判断しながら、今朝発見した夫の収集していた膨大な数のモロJPEG画像をネタに帰ってきたらどのように旦那をいぢめてやろうか、と算段しながら、やっぱり六花亭のお菓子はおいしいわ、とテレビの画面に映しだされている工藤静香の顔を眺めながら、どうしてこんな貧乏臭い女を選んだのかしら、馬鹿だねあいつも。でもやっぱりダイエットは必要よね。今、はけるジーンズは1本しか無いわ。あしたユニクロに行って買わなきゃ。のびのび素材の有ったかしら。・・・なんてことを0.5秒くらいのわずかな時間で思考できるのだ。
男の脳は悲しいシングル・タスクだから、こんなマルチ・タスクマシンに少しでも攻撃されたら沈黙するしかない。ところが、この沈黙というのがマルチ・タスクマシン(女脳)にとっては、宣戦布告にも等しい行為となるのである。(女脳にとっては、喋ることがとにかく友好関係の証なのだ。)かくして男は売った覚えの無い喧嘩を女にふっかけることになるのである。
問題解決型の鈍感なシングル・タスクマシン(男脳)と、空間認識が苦手な繊細なマルチ・タスクマシン(女脳)が、お互いのCPUの機能の違いに気づかぬままに、この数万年、愛と別離の歴史を紡いできたのである。男達が狩猟を営み、女達が洞窟の中で育児をしていた時代から機能を分化させてきた二つのCPUは、ジェンダーの概念が喪失しつつある21世紀に新たな変化を遂げようとしているのかもしれない。お互いの存在意義と性差を相互に理解することによって。
男と女の関係、コミュニケーションについて考えさせられる一冊です。
(byもんぺーる)
「宝塚海軍航空隊」(栗山良八郎著 文春文庫 450円 入手困難?)
昭和19年、敗色の色濃い戦時中に宝塚歌劇団の夢の殿堂、宝塚大劇場が海軍に接収され海軍航空隊本部として使用される。
この本は戦時中の宝塚を舞台に、戦争下の史実に海軍の兵士と宝塚研究生の様々なエピソードを織り混ぜたノンフィクション小説である。
宝塚に転任してきた新任の少尉候補生が、実は宝塚、少女歌劇の大ファンで、宝塚に転任してきたその日に、無人の大劇場に入って1階から3階までの楽屋、衣装部屋、化粧部屋等を見てまわり、奈落から地下の楽屋風呂まで長時間覗いていた、などというエピソードは、おお、まさに「サクラ」ではないかあ!(本当に地下に風呂なんて有るのですね。それにしてもいつの時代にも、濃いマニアというのはいるのだなあ。戦時中の話ですよ。役得とは言え、憧れの大劇場をくまなく探検したというのですからね。その当時は、おたくというグルーピングもマニアックという言葉も無かったのだろうが、やはりいるのですよ、いつの時代にも、濃いマニアの人は。)
宝塚の男装の麗人サッチャンが、楽屋の鏡に「口惜しい!海軍」なんて口紅で落書きしてしまうエピソードなんかも、なんだかとても良いのですわ。凛とした美少女が大劇場を接収した海軍にひるむこともなく、口紅の落書で抗議するなんてね。芥川の手巾にも似たエロティシズムを感じてしまうのですわ。
良家の子女である宝塚研究生が密かに恋心を抱いていた将校が前線に出征するという前日に、将校を家に招いて茶をたて「ご武運を祈ります」と握りばさみで指を切り、滴る鮮血を一滴茶に落としたりするシーンでは、思わず「あ、あなたはもしや、神崎すみれ様では?」などと、ああ、恥ずかしくも嘆息して天を仰いでしまったりしてしまったのです。
歴史、事実の重みを感じることのできる一冊です。
(byもんぺーる)
上遠野浩平の再構築は巧みだ。
「ブギーポップ」が1980年代の学園SFをろっきん・おんタームでぎりぎりの線でポップに引きずりこんだかと思えば、「冥王と獣のダンス」では、さんらいず・がんだむワールドを見事に再構築してみせた。そのことにより、私達は気づくのだ。ガンダムシリーズの凋落は、本来狂言回しであるガンダムというメカニックに固執したせいであり、初期のガンダムが面白かったのは、それがガンダムに依拠せずとも成立する世界観、人間描写が有ったからだったと。
そう思えるぐらいに、上遠野の物語世界の構築は巧妙だ。
畏怖される破壊能力を持つ「異能」のキャラクター、統率者・救済者として慕われるがその自覚の無い主人公。黙々と兵器を生産し続ける生物的な機械群・・・
魅力的な世界観、キャラクター設定に加えて、スタニスワフ・レムの初期作品のようなレトロハードSFのテイストがこの物語世界に独特の虚無感・スケールを付加するのに成功している。
「僕らは虚空に夜を見る」も良いが、一押しはこちらですね。
(byもんぺーる)