−Borderline−
〜守るべきもの〜
ボクが『京都に転勤が決まった』とそう告げたときの若菜の笑顔は今でも忘れない。
若菜は「あなたと一緒ならどこでもいいんです。」とその笑顔を誤魔化しているような気がしたが、ボクはその若菜の笑顔を見れただけで嬉しかった。
まあ、それだけで転勤を決めただけではないし、そのことを告げた母のやや寂しそうな表情ははその気持ちに迷いを生じさせたが、若菜のその笑顔がボクの心を京都へと導いた。
そして、京都への転勤を決めたその夜ボクが若菜の実家へそのことを連絡しようとした時、若菜は受話器を持ったその手を押さえつけた。
『ち、ちょっと。今から電話するんだけど?』
ボクは若菜のその行動が何を意味しているのか分からなかったのでその理由を問いかけたが、若菜は下を向いたまま何も言わなかった。
『...。分かった。電話しないからその理由、教えてくれる?』
「...はい。」
ボクは受話器にかけていた手を返し、その手を静かに取ってリビングへと導く。
そしてソファーに腰掛けてその理由を尋ねると、若菜は静かにこう答えた。
「実家に戻ると何だか昔に戻ってしまうような気がするんです。」
そして続けてこう言った。
「私自身も。そしてあなたとのこの距離も...昔に戻ってしまうような気が...。」
『そう...だね。』
ホントは『そんなことないよ!』と強くその不安を否定しようと思ったが、ボクがそうすることは若菜の実家に住むことを肯定してしまうことになる。
まあ、ボクだってそこに住もうなどと甘い考えを持っているワケでもないし、少なからず息苦しくなることは確実だと思っている。
ただ、やはり同じ京都に住むのに事前に何も言わないのは明らかにそれを拒否している、と思われないか心配だったからだ。
そうなってしまうと半分婿養子状態のボクとしてはチト辛いからね...。
そんなこんなで若菜の実家の前に立ったのは、引っ越しの前日となった。
『やっぱり若菜の両親に話してからが良かったんじゃない?』
「だめです。」
『どうして?』
「だって...そうしたらきっとここに住むことになりますから...。」
『そっか。あの爺さんならそう言いかねないね。』
「それに...。」
『それに?』
「私はあなたの妻です。私はあなただけを支えていきたいんです。それに今実家に住むことになったらあなたにもきっと迷惑かけますから。」
『迷惑って?』
「そうですねぇ...。パンが食べられなくなりますよ。」
『そりゃ困るね。』
そう言って敷居の前で若菜と二人顔を見合わせて笑った。
結果として若菜の判断は正しかった。しかもそれを言いだしたのはあの爺さんではない。
そう。二人の結婚を決めた時人一倍喜んでくれて、そして一番泣いた若菜の母親だった。
あの時は「もう決してこの家の敷居をまたいではいけません!」
と若菜が東京に発つ時若菜の顔を見ることなく泣きながらそう言った...彼女の母親だった。
京都に越して来ることを伝えたときは笑顔を浮かべて喜んでくれたが、別に住むことを伝えた瞬間その表情が一瞬くもった。
「おいおい。またこの家に閉じ込める気か?」
「いえ。そう言ってるのではありません。せっかく京都に住むのですから、一緒に住んだ方がいいじゃないですか。」
「しかしなぁ...。」
と返答に困っている父に、若菜はすぐにフォローを入れる。
「でももう住む家、決まってるんですよね。」
とボクの顔を見て同意を求める。
『うん。あっ...ええ。もう決まってるんです。』
「あら?そうなの...。残念ねぇ。」
『はい。会社の方も社宅を用意してくれたんですけど、二人で別に探しました。』
「あら、そう...。それでどの辺りなの?」
『はい。私の会社が大阪にも支社があってそちらにも行かなければ行けないことがあるもんですから、高槻に住むことになりました。』
「高槻って、あの大阪の高槻?」
『はい、そうです。高槻なら京都もそう遠くないですし。』
「そうなの...。残念ね。」
「仕方ないじゃない。仕事の都合もあるんだから。」
「そうねぇ。でも、たまには遊びに来てくれるんでしょ?」
『ええ、それはもちろんです。せっかく近くに住んでるんですから。』
とボクは社交辞令のつもりで言ったのだが、どうやら若菜はそうは思っていなかったらしい。
並んで座るその後ろから、正座して少ししびれたボクの足をキューっとつねる。
『いたたたたっ!』
「あら、どうかされたんですか?」
『い...いえ。なんでもないです。』
「それじゃこれから引っ越しの準備とかいろいろあるから、そろそろ帰ります。」
「もう帰るのか?せっかく久しぶりに来たんだから晩御飯でも一緒にどうだ?」
『いえ、お気持ちはありがたいんですけど、会社の方にも挨拶にいかないといけないので。』
「そうか。それじゃあ落ち着いたらゆっくり遊びにでもきなさい。お爺さんもきっと喜ぶだろうし。」
『ええ。近いうちに必ず寄らせていただきます。』
「それじゃあね。」
そう言って若菜の実家を後にしたボクだったが、まさかそれがすぐに現実のものになるとは思ってもみなかった。
それに...ここを訪れる理由がかなり違ったが...。
引っ越しを土曜のうちに済ませ、翌日は久しぶりに京都を散策しようと考えていたがそれはチト甘かった。
『あの家のどこにこんなにモノがあったんだろう?』
と思うくらいに荷物が多く新居に詰め込むだけで半日、各部屋に整理して置くだけで半日かかった。
昨日帰り際に若菜の父から、
「手伝いに行こうか?」
と言われたが、若菜がそれをあっさりと拒否してしまったことを少しだけ恨むくらい...大変だった。
『もうちょっと引っ越し屋さんに手伝ってもらえば良かったね。』
とボクがぼやくと、
「でも、お散歩は明日でなくてもいいじゃないですか。」
『それはそうだけどね。』
「これだけ近くに住んでるんですからそんなに慌てなくてもいいじゃないですか。」
『うん、そうだね。それじゃ、もうひとふんばりしますか!』
「はい。頑張ってくださいね。」
『ひょっとして...期待されてる?』
「はい。期待してますよ。」
京都支社初出勤のその日からこんなに辛い思いをするとは思わなかった。
ま、言わなくても分かると思うが...筋肉痛である。
若菜に期待されてちょいと張り切ってしまったため、特に背中のあたりが妙に重い。
『こんなんで仕事になるかな...?』
と思ったが、初日はほとんど挨拶まわりだからまあ大丈夫だろう。
というのもボクの仕事は設計士で、1日中図面に向かって作業することも珍しくはない。
そのため背中が痛いとかなり辛いのだ。
だが、出勤したボクのこの痛みを一発で吹き飛ばすほどの出来事が待ち受けているとは夢にも思わなかった。
『今日からお世話になります。よろしくお願いします。』
「こちらこそよろしく。で、早速で申し訳ないんだが仕事の話を進めていいかな?」
といきなりの新上司の言葉。ボクはてっきり部署周りだと思っていたのだが...。
でもま、ほとんどの仕事は個室で一人だし、それもある意味疲れるからあんまりしたくなかったんだけどね。
『はい。今何か発注を受けてる仕事があるんですか?』
「ああ。それもちょっと期間が短いんだ。そこに来て設計士がいきなり辞めてしまっらたからね。」
『なるほど。それで前の担当者からの引き継ぎがないんですね。』
「そういうことなんだ。いきなりこんな状況で申し訳ないがよろしく頼むよ。」
『分かりました。で、具体的にはどんな内容ですか?』
と話を進めたボクだったが、数分後に俺自身まで辞めたいと思ったのは今までで初めてだった。
仕事の依頼主は京都市。
都市開発の一部の設計図作成と工事実施までのプロセスを決めるのがボクの仕事だったが...ボクに描けるのか?
この図面が...。
『これってどの段階まで進んでるんですか?』
「まあ、パーセントでいえば計画の80%前後といったところかな。」
『そうですか。それじゃあまだ土地の買収などは完全に終わってないんですね?』
「そういうことだ。そっちの方は市側が進めているが残りはどうも見通し厳しいらしくてね。」
『ということは変更もあり得ますね?』
「そういうことになるね。君としてはちょっと大変だろうけど...。」
『いえ。そういうことはしょっちゅうですからね。で、どの辺りが難航してるんですか?』
「すなまいが詳しい内容については君のデスクに置いてあるからそっちを見てくれ。私はその件で市と打ち合わせなんで外出するよ。」
『はい。分かりました。』
極めて平常心と努めたボクだったが、一人部屋に戻ると大きなためいきをつく。
その理由は...その開発地域にあった。
そこでなければこんなに悩むことなくすぐにでも仕事に取りかかれるのだが、いかんせん場所が場所なだけに頭を抱えざるをえない。
基本的には渋滞緩和のための道路の拡張とその周辺の建物の整備なのだが...その一角に若菜邸の土地も含まれている。
そして市側の計画した拡張図の上にはある建物がなかった。
しかもその部分はすでに仮の道路の図面が描かれており、その対面する部分の土地にはまだ元の図面のまま...。
ボクはその理由がどうしても知りたくなった。
何故...あの爺さんが土地を手放すことを決めたのか。
それにこのことを何のためらいもなく決めたの...か?
部屋を出たボクは、同僚にこう伝えておもむろに車のキーを取った。
『ちょっと現場をみたいから外出するよ。』
と家の前に車を止めたボクだったが、なかなか足を踏み出す決心がつかない。
この一歩を踏み出さなければどうしようもないということは分かっているのだが、その現実を受け止める勇気がない。
ここを道路にするのが自分だと思うと、そうしたくないという気持ちがどうしても先にたってしまう。
『でも...いつまでもここでじっとしてしていても何も進まないか...。』
今だ迷いの晴れない気持ちを抑えつつ、おとといまたいだばかりの敷居を越える。
「あら、どうしたの?今日は仕事じゃないんですか?」
とボクを迎えてくれたのは若菜の母だった。
『ええ。仕事なんですけど...。』
「近くを通ったから寄ってくれたの?」
『い、いえ。そうじゃないんです。』
とボクが手に抱えていたファイルを見せた時、その顔が一瞬曇り、
「そう...。あなたがやることになったのね。」
とボクの気持ちを察してくれたのか、歩み寄ってこの肩をポンとたたいた。
「まあ、とりあえず上がってお茶でもどう?少し落ち着いて話をしましょう。」
『はい。ありがとうございます。』
『でも、どうしてここなんですか?ここじゃなくても他に空き地がありますよね?』
「ええ。そうなんですけど...。」
『どうかしたんですか?』
「そうね、実際見てもらったほうが早いですね。」
『というと?』
「もう随分痛みが激しくてね。私たちは修理してでも残したかったんですけど...。」
『どうして残さないんですか?』
「ちょっとその地図を広げてみていい?」
『これですか?いいですよ。』
と言ってボクが持ってきた図面を広げて、
「あのね、ここには描かれてないんだけどこの部分に建物があるの。」
と図面上では「空き地」と表記されている、母屋からやや離れた部分を指す。
『ここにですか?空き地じゃないんですか?』
「ええ。」
『でもどうして図面に描かれてないんですか?』
「それはこの図面ができた後に建てられたからよ。」
『それはそうですね。でもこの建物は何なんですか?』
「ここにはね、お爺さまが自分で建てた別室と新しい倉庫があるの。」
『そうか...。だからここじゃないんですね。』
「ええ。それに...。」
『それに?』
「実際見に行きましょう。そっちの方がわかりやすいと思うから...。」
そして、ようやく問題の建物の前に立つ。そしてその現実を目の当たりにしたボクはその理由がようやく分かった。
「どう?設計士の目から見て...補修は可能かしら?」
『...いえ。無理だとは言いませんがかなり難しいと思います。』
「お爺さんが別に倉庫を建てはじめたのは若菜がここを離れてからすぐなんです。」
『痛みがはげしくなったのもその頃ですか?』
「いえ。その前から兆候はあったんですけど、特にひどくなったのはその頃ですね。」
『そうですか。だからこの部分なんですね。』
「ええ。土地を手放すこと自体には難色を示したんですが、お爺さまはこの地区の区長をやってることもあって、その責任を感じたということもあるんでしょうね...。」
『一向に進まない買収にですか?』
「はっきりと聞いたことはないですけど、おそらくはそうだと思います。市の担当者の方も何度も来られてたようですし。」
『そうですか...。分かりました。』
「でも...あなたで良かったかもしれないわね。」
『そうかもしれませんね。』
「あなたなら...若菜を...。」
『えっ!?若菜にはまだ話してないんですか?』
「ええ...。私たちもなかなか話を切り出しにくくて。」
『かもしれませんね。』
「あなたにこう言うのは変かもしれないけど...よろしくお願いします。」
そう言って若菜の母はボクに向かってその頭を深々と下げた。
重苦しい気分のまま会社に戻ったボクだったが、気持ちの整理をする暇もなく上司に呼ばれる。
何でも打ち合わせの結果のことで話があるということで呼ばれたのだが、それはあまりにも辛すぎる内容だった。
「すまないが市側の都合で工期が短くなるかもしれん。すまないが早急に草案をまとめてくれ。」
『ど、どのくらいですか?』
「今の時点では詳しくは言えんが、おそらく年内に着工することになるかもしれん。そのつもりでやってくれ。」
『...はい。』
「着任そうそうすまないね。困ったことがあったら何でも言ってくれ。」
『ありがとうございます。』
期間短縮による仕事の重圧感は全く感じなかった。
それよりも、あの蔵を壊さなければならないかもしれないそのことだけが重くのしかかる。
かつて若菜はあの蔵が「怖い場所」だと言った。
勝手に入って、そして暗闇の中一人泣いたあの蔵。でも今ではそこに...、あの蔵に眠る思い出を何よりも大事にしている。
仕事とはいえ、この手でその思い出を消してしまうかもしれないボクに若菜は...何と言うのだろう?
結局そのことを若菜に話すことができないまま数日が過ぎ、京都に来て初めての週末を迎えた。
久しぶりにあの図面から開放さえれて少しは楽になったのだが、若菜の希望で京都市内をドライブしているボクの目に飛び込んでくるのは立体化されたそれそのものだった。
そして、今見えるこの景色がボクのさじかげん一つで大きく変わるかもしれない...。
そう思うとこのすばらしい景色を変えてしまうかもしれないことにやや恐怖感を感じてくる。
だが、与えられた仕事をこなすのもボクの責任。
久しぶりの京都を満喫し、笑顔を浮かべる若菜とは対照的に思いにふけるボクだった。
そんなことを考えている矢先、若菜がこういう。
「あの、実家にアルバムを取りに行きたいんですけど...いいですか?」
『えっ...、あ、うん。』
そしてボクは何気なしに若菜の実家の前に車を止める。
「ありがとうございます。それじゃあちょっと行ってきますね。」
『うん。それじゃここで待ってるね。』
ところが、すぐ戻ると言った若菜はなかなか戻ってこなかった。
最初はそれを探しているのだろうと思っていたが、あれからもうかれこれ30分程経つ。
『ちょっと様子でも見に行くか。』
ボクはそう思い、車を降りて家の中へと向かった。
だが、ボクはこの行動を後で悔やむことになろうとは微塵も思わなかった...。
敷居をまたいで家の中に入ったが、玄関の横にある居間からは普段聞こえてくるはずの声が聞こえなかった。
アルバムを探しているのだろうかと思ったが、あれから30分も経つのにまだ探しているとはチト考えにくい。
でも居間にいないとなると家の奥の方か蔵にいるだろうと思ったボクは、とりあえず蔵の方に行ってみようと足を向けた瞬間だった。
「どうして...どうしてなのよ!」
今までに聞いたことのない若菜の叫び声が聞こえてくる。
普段はとても温厚でもの静かなあの若菜がこんなに大きな声を出すのは初めて聞いた。そしてその声は、とても悲しそうだった。
ボクはびっくりして声のする方へと急いで駆け出したが、家の角を曲がった直後誰かとぶつかって倒れ込んだ。
『若菜、大丈夫!?』
「あ、いや...大丈夫だよ。君こそ大丈夫かい?」
てっきり若菜とぶつかったと思っていたボクだったが、ぶつかったのは若菜の父だった。
『はい、大丈夫です。ところで若菜は何処に?』
「あれ、玄関の方に走っていったんだが、すれ違わなかったかい?」
『はい。でもどうしたんですか?』
「それがね...。いや、今はそんな話をしてる場合じゃないんだ。若菜を追いかけてくれ。」
『は...分かりました。』
普段の姿からは想像もつかないほど慌てていた若菜の父の様子に、今起きたことがただごとではないことを察知したボクは急いで玄関へと向かった。
そして敷居をまたいだボクの視界に...タクシーに乗り込もうとしている若菜がいた。
『若菜、ちょっと待って!』
ボクはそう叫んだが、若菜は振り向くことなくそのままタクシーに乗り込んだ。
そしてすぐ車で追いかけようと車に急いだが...か、鍵がない!
『あれっ?確かポケットに入れといたはずだけど...どこだ!?』
徐々に小さくなっていく、若菜を乗せたタクシーを横目に見ながら必死に鍵を探したがどこにもない。
そしてそれが見えなくなってからほどなくして、若菜に父が鍵を持ってやって来た。
「ひょっとしてこれは君のかい?」
それからすぐに車に乗り込んでその後を追ったボクだったが、すっかり見えなくなってしまってどこへ向かったのかも分からない若菜を見つけることはできなかった。
あの時車から降りずにもう少し待っていれば見失うことはなかったんだろうと後悔しながら、ゆく当てもなくただ京都の町並みを走る。
まだそんなに時間も経ってないしひょっとしたらどこかですれ違うかもしれないと思っていたが、規則的かつ縦横無尽に走るこの道路ですれ違うことはかなり難しい。
今はただ無駄に捜し回るよりは若菜がそうした原因をつきとめるのが先だと思ったボクは、一旦若菜の実家に戻ることにした。
「どうだった?」
待っていてくれたのは若菜の父だった。
『いえ...。どこにも見当たりませんでした。』
「そうか。さすがに見つけるのは難しいな。」
『ええ。』
「こちらの方も心当たりの場所には連絡してみたんだが...どこにもいないようだ。」
『私も一度家に戻ってみたんですが、一度も帰ってないようです。』
「そうか...。でのどうして若菜はあそこまで怒ったんだろうな。あんなに嫌いだったのに...。」
『ひょっとして...聞いてないんですか?』
「何をだい?」
と不思議そうな表情を浮かべた若菜の父がきっと知らないだろう、若菜があの蔵に寄せる想いをボクはボク自身の言葉で語った。
小さい頃はあんなに怖がっていたけれど、あの蔵の中に眠るオルゴールが若菜のそれそのものだと。
高校生の時こっそり忍び込んだそこでようやく見つけた昔の思い出。
怖がる若菜の心を癒してくれたそのメロディ。
それは昔の思い出として大事にしまっておきたいから、そこに置いてきたこと。
そして今ではまた場所が分からなくなってしまったこと...。
「そうか。そういうことがあったのか...。」
そう言って若菜の父は深いため息をつく。
『そうですね。でも何も変わらなかったと思いますよ。』
「何も...変わらないとは?」
『若菜はそんなに利己主義じゃありませんよ。その話を事前に聞いていたとしても...若菜はノーとは言わなかったはずです。』
「なるほど...な。さすが若菜の選んだ人だ。」
『いえ。まだ深く若菜のことを理解してるわけじゃないですけど...何となくそう思います。』
「いや、君のその考えは正しいと思うよ。しかし、これからどうしたもんかなぁ...。」
『そうですね。私はここで待ってみようと思います。』
「ここで?」
久しぶりに時計の針が日付変更線を超える瞬間を一人で過ごした。
あれからしばらく家で若菜の帰りを待ってみたが、呼び鈴はおろか電話さえ鳴ることはなかった。
携帯電話にも何の連絡もない。
そのまま家で待ってみようとも思ったが、若菜が飛び出したその原因を考えるとボクの顔を最初に見ることはできないだろうと思い、家にメモを残して若菜の実家の前でこうして待っている。
でも、ボクとしては一番最初に若菜に逢いたい。一番最初にボクのもとに帰ってきて欲しい。
「せっかくだから家の中で待たないか?そこじゃきついだろうし。」
と若菜の父は言ってくれたが、いるはずのないボクが一人でそこにいることは爺さんにとってみればあまりにも不自然な光景だろうし、おそらくその理由も聞いてくるだろう。
『そうなってしまうと事のおさまりがつかなくなってしまいますよ。それに若菜もここに戻ってくるとしてもきっと入りにくいだろうと思いますから。』
「なるほど。確かにそうだね。」
とボクの意見に理解を示してくれた。
ということで少し離れた場所に車を止めてかれこれ数時間経った時、ふと気づくとポケットの中の煙草が空になっていることに気づく。
当然灰皿もてんこ盛りだし、おまけに昼間走り回ったせいでガソリンも残り少ない。
『仕方ない。ちょっとスタンドまで行くか。』
とふっと気が抜けた瞬間、それに合わせるように腹が減っていることも思い出す。
『こんな夜中に戻ってくるわけない...よな?』
生理的欲求に負けたわけではないが、とりあえず燃料補給を済ませてくることにした。
ところが、身体に燃料を補給し終わって若菜の実家の前に戻った瞬間また新たな敵が襲ってきた。
そういえば今日は朝からずっと運転しっぱなしだったし、ずっと緊張してたからな。
本当ならもうすでにベットの上で二人毛布にくるまって寝ているはずだし...。
でも起きて待っててあげたい。若菜が戻ってくるのを。
『おかえり。』と優しく迎えてあげたい。
『ごめんね。』と一言謝りたい...。
そう思いながら必死に我慢していたが、いつの間にか眠っていた。
昔夜中に良く聞いたラジオを聞きながら...。
(コンコンコン...。)
『...!わっ、若菜!?』
誰かが車の窓をノックしたとき、辺りはうっすらと明るかった。
『そっか...夜が明けたのか...。』
結局若菜は戻って来なかったらしい。そしてボクの携帯にも「若菜」という文字は表示されていなかった。
『すると窓をノックしたのは一体誰だったんだろう?』
そう思い窓を開けると、昨日の天気からは想像もできないほど冷たい風が車内に入り込んでくる。
やや空気の淀んだ、暑い車内に吹き込んできた風はとても気持ちよかったが、それは再びボクの不安を呼び起こした。
こんな寒い中、若菜はどこにいるのだろう?
さすがに昔のボクのように街をさまようことはないだろうと思うが、約一日若菜の顔を、声を、その姿を近くに感じないのはとても久しぶりだし、こんなに不安を感じたのは「若菜が見合いをする」と聞かされた時以来だ。
「どう?目は覚めたかしら?」
とすぐ横に立っているにもかかわらず、遠くを見たまま動かないボクを見てそう言ったのは若菜の母親だった。
『あっ...はい。』
「そう。でもあなた...ずっとここで?」
『はい。ひょっとしたら、って思ってたんですけど...戻って来てないですよね?』
「ええ...。私たちも心当たりを探してみたんだけどね。家には?」
『あれからすぐ行ってみたんですが、いませんでした。それに...、』
「それに?」
『蔵のことが原因なら、家には帰ってこれないんじゃないかな...って。』
「...そうかもね。」
『ところで、私に何か用事ですか?』
「いえ、用ということはないんですけど、今日はお仕事でしょ?」
『はい。』
「お父さんが彼を起こしてあげなさい。きっと疲れて寝てるだろうから...って。」
『そうですか。ありがとうございます。』
「今から一旦高槻に戻っても十分間に合うでしょ?」
『はい、どうもありがとうございました。』
「それと...これ、持っていってちょうだい。」
『これって...。』
「朝御飯ないんでしょ?たいしたものじゃないけど良かったら食べて。」
『あ、ありがとうございます。』
「それじゃ、いろいろ大変だろうけどお仕事がんばって...ね。」
『はい。あっ、何かあったら私の携帯に電話して下さい。番号はこれに書いてありますから。』
ボクはそう行って自分の名刺を渡し、若菜の母からそれを受け取って誰もいない自宅をめざした。
家に着くころには空も明るくなり、途中見た街が徐々に目覚めつつある雰囲気を感じていた。
昨日と何の変わりもないその風景だけど、今日はなんだか静かに感じたのはきっとボクの気持ちが浮かないからだろう。
それに家に戻っても着替えるだけで迎えてくれる人はいないし、いるのであればこんな時間に自宅に戻ることなんてあり得ない。
いつもなら今頃朝メシを喰ってる頃だし、こんなに暗い気持ちではない。
『それもこれもすべて仕事のせい』と割り切ってしまえば少しは楽になれるのかもしれないけど...ボクはどっちを取ったらいいんだろう?
『そんなこと若菜に聞ける訳ないしな。』
そう思いながら玄関の鍵穴に鍵を差し込んで回してドアを開けようとした時だった。
不思議なことに何故かドアが開かない。
『あれ?』
最初はまだ寝ぼけてるのかと思って再び鍵を回してみると、あたりまえのようにドアは開く。
『ひょっとして昨日閉め忘れたかなぁ...。結構慌ててたし。』
緊急事態ではあったが、やや不用心な自分の行動を反省しつつ家の中に入った。
そして...すぐ目の前ににその原因はあった。
『若菜の...靴!?』
最初はまだ夢でも見てるのかと何度か目をこすってみたがそれは消えることはなかった。
すべて夢であってくれれば嬉しいという気持ちもあったが、それ以上に若菜が家に帰ってきていたことが分かった今、安堵感に包まれて全身の力が抜ける。
だがこうしてる暇はないとボクはすぐに靴を脱ぎ捨て寝室へと向かったが、そこに若菜の姿はなかった。
再びボクの心の中に一抹の不安がよぎる。
『まさかそんなことはないだろうと信じたいし、若菜がそう簡単にそんなことをするワケはない。』
自分にそう言い聞かせながらも、高まる鼓動を抑えつつ家の中を捜し回るがやはりいない。
『...靴を履き替えてまた家を...?』
どうしようもない不安。何とも言えない寂しい気持ち。それに押し潰されそうになる。
そして自分で選んだ職業ではあったが、今ではただ後悔の念だけが気持ちを支配する。
こんな状態で仕事に出ても何もできないとは思ったが、今日は工事の打ち合わせを行う大事な会議がある。
『これを空けてしまえば、すべてが自分の手の届かないところへ行ってしまう...。』
運命を変えることができるのは自分だけだと言い聞かせながら自分の部屋に足を向けた。
だが、何気なく足を踏み入れた自分の書斎がすべてを解決してくれた。
机の上と製図台に広げられた図面。書類と書籍でひっくり返ったその部屋の中に...若菜はいた。
『そうか...。ここにいるとは思わなかったな。』
もはや安堵の気持ちを通り越し、何とも言えない気分になる。
あれだけ探して待ちわびていた人は、自分の最も近い場所にいたなんて思わなかった。
それに若菜は、
「あなたの仕事場はあなたの空間だし、大事な仕事場ですから入りたくないんです。いえ、入りたくないのではなくて入ってはいけないんです。」
そう言って今まで一度も入ろうとはしなかったからだ。
だから越してきてわずか一週間足らずでこんなに汚い部屋になってしまったんだけどね。
『でもその若菜がどうしてここで寝ているんだろう...?』
毛布もかけずに机の横にある製図台によりかかったまま...。
不思議に思ったボクは若菜を起こさないようにそっと近づいてみた。そしてそこにある図面を見た時、ボクの悩みはすべて消えた。
問題の蔵には赤鉛筆で大きく×印が付けられ、今まで点線だった工事予定の境界線が一本の黒い実線で塗りつぶされている。
そして...余白にこう記されていた。
「大切なのは今です。そして私に必要なのは過去ではなくこれからです...。」と。
それからというもの、ボクの仕事は何事もなく順調に進んでいった。
今だ買収の目処の経たないいくつかの場所はまだ保留されているが、それ以外の区域については基礎案も問題なく承認されていつでも着工できる状態にあった。
だが「やはり一斉にとりかからないとこちらとしては困る。」と市側が強い難色を示したためそれ以上進むことはなかった。
いくつか代案を示すも当初の計画よりも経費も時間的な面も大幅増が避けられなかったからである。
『そこが行政の悪いところなんですよ。できるところから進めていくしかないじゃないですか。』
と自分が作り上げてきた仕事を認めてくれないことに口調を強くしたこともあったが、あくまで我々は発注を受けている一業者。
「言う通りにやるしかないんだよ。」
と何度も上司からなだめられることもあった。
そしてあれからは若菜にも全てを話している。
しばらくは落胆した様子を隠しきれなかった様子だったけど、
『取り壊しの前にまた探しに行こうよ。』とボクが言うと、若菜はにっこりと微笑んで、
「はい。最後にもう一度だけゆっくり見させて下さいね。」
とボクを気遣ってくれた。
けど、実のトコロボクはまだあきらめていない。
買収が進まないことは仕事が終わらないことと同義なんだけど、それはそれで代案を強く押し進めることができる唯一の材料であるからだ。
上司には「私情をはさまないように」と言われたが、同じ仕事をいつまでも抱えていると次の発注を受けることができないため少々焦っているのか、仕事帰りに少しだけ寄った居酒屋でボクに「誰にも言うな」とこう耳打ちした言葉はボクの最大の望みでもあった。
「次回の打ち合わせまでに買収が済んでなければ、代案を押すからしっかり準備しといてくれ。」と。
「そうですか。まだなんですか...。」
と上司のため息まじりの一言で会議は始まった。
「ええ。こちらとしても何度も交渉してるんですが...。」
「では着工時期を?」
「いえ、それはできません。こちらとしても年度内、かつ予算内でやることは絶対に変えられませんからね。」
「では、どうされるんですか?そろそろ決定してもらわないと次に進まないのですが...。」
「まだ決めかねているところで...。以前にいくつか代案を示していただきましたよね?それを再度検討したいと思います。」
「分かりました。それじゃ君、例の資料を配布してくれ。」
と上司はボクに目線を向ける。
『はい。これが私が考えた代案です。まずはさっと目を通していただけますか?』
「...ちょっと君、いいかね?」
『はい。なんでしょう?』
「この白紙は一体何なんだね?」
『とりあえず目を通して下さい。それから説明します。』
近所で道路工事をする音が聞こえるようになったのはそれから二月ほど経った年末のことだった。
ボクが紙の上に描いたとおりに街が変わっていく様を眺めるのは何度見ても妙な気分になるし、『本当にこれで良かったのかな?』と考えることもある。
まだここに越してきてからきちんとこの風景を見つめていないよそ者のボクが、勝手にいじっていい世界だったのかな?って...。
そう考えながらハンドルを握るボクの考えを見透かしたように若菜はこう話しかける。
「あなたが一生懸命考えて創りあげたんだから、きっとみさなん満足してくれると思いますよ。」
『そうかな?そうだといいんだけど...。』
「そうですよ。まだ途中ですけど、周りの雰囲気にとても馴染んでいていいと思います。」
『ありがとう...。』
「大丈夫ですよ。小さいころからここに住んでる私がそう思うんですから...。」
『うん。でもさ...。』
「でも...何ですか?」
『本当にこれで良かったのかな?』
「ええ。何も後悔することはないですよ。」
と若菜はボクの不安を拭い去るように微笑む。
『でもね若菜、ボクはほんの少しだけ後悔してるんだ。』
「えっ?」
『確かにこれは大事なことかもしれないけど、本当は全部無駄なことじゃないのかな...って。』
「そんなことないですよ。きっとみなさん気に入ってくれると思います。」
『いや...そうじゃないんだ。』
「それじゃあ何が無駄だったのですか?」
『うん。本当に変える必要があるのかな、って。そして守るべきものはこれじゃなかったんじゃないかなって...ね。』
「守るべきもの...ですか?」
『そう。ここに住んでる人たちは本当にこれが必要だったのかな?』
「でもそれは...あなたは考える必要はないと思います。」
『うん。あくまで与えられた仕事だって割り切ればいいんだろうけど、みんなどこかに大事な思い出があったんじゃないかな?...って。』
「...そうかもしれませんね。」
『それに...。』
「それに?」
『ボクたちの思い出は残せたのに...ね。』
そしてこれからボクが変えるべき場所に到着する。次の仕事だ。
前みたいに大きな仕事ではないし本当はうちの会社でやるのは表向き良くないんだろうけど、どうしてもうちの会社にやって欲しいという依頼だった。
上司は気をきかせてくれたのか、それとも白紙の資料に怒っていたのかは定かではないが、
「あの白紙は絶対に認めない。だからこれもお前の仕事だ。」
とにやりと微笑んで他の奴から無理矢理ボクに回してきた。
そしてボクが若菜を仕事場に連れてくるのは今回が初めてである。
今までは見せる必要のない世界だと思っていたが、あの件以来すべてを見せておきたいと思うようになったからだ。
若菜もボクの部屋に入るようになったし、
「あなたが何を創るのか見てみたい。」
と言うようになったからだ。
ボクも女性特有の感性を取り入れみたいと思ったし、何より今回は特にその意見が重要だった。
守るべきもののカタチは、もう一人で決めたくないから...。
fin...
1999.10.08 : Writer R.M.
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