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11 日本の伝統

 今までに霊界通信というものを読んだことのある人も、ない人もいらっしゃると思います。ここでは、霊に関する事をこれから勉強してみたいという人にもご理解いただけるような形で書いてみたいと思います。

 日本では、夏目漱石などの文豪が活躍した頃、浅野和三郎という人が心霊研究を広めました。もっとも、これは大衆に広まったという訳ではありません。この人は個人的にも霊媒を使って実験しています。その記録も出版されていますので、関心のある方は読んでみられるのも良いかと思います。ですが、昔の通信だということもあり、その記録の信憑性をどの程度評価するかは賛否の分かれるところでしょう。 

その頃は日本でも何人もの霊媒がいました。念写(ねんしゃ)の実験をしたという人もいれば、透視(とうし)をしたという特殊能力者もいました。ただし、「彼らは偽者である」と言う学者の方もいらっしゃいます。どちらも、自分達が正しいと言い張って一歩も引かないのは、いつの時代も同じです。

 実は日本には昔から霊媒術がありました。日本の霊媒術は西洋から心霊研究が入るずっと前から長い歴史を持っていたのです。

 日本の心霊研究の第一人者と言われた浅野和三郎さんも実は大本教という新興宗教の幹部でした。大本教では「お筆先(おふでさき)」といわれる、心霊研究でいう自動書記で、聖典ができていたのです。 ですから、随分と霊的な教団でした。大本教の出口王仁三郎さんは、鎮魂帰神法(ちんこんきしんほう)という技法を使って、人間に霊魂を入らせる技を使っておられました。

 日本には、本田流といって、鎮魂帰神法を実践する流派もありました。実際には、古事記の頃からその種の技法があったようです。つまり、日本にはずっと以前からそうした伝統があったのです。ですから、出口王仁三郎さんも独特の霊学を発表しておられますし、他の方によるもので、『○○の神示』という書物もありました。

 昔から日本には霊的な伝統がありました。けれども、それらの全てが正しいという訳でもありません。幾つか問題が指摘されることがあります。ただ、こうした伝統があったために、日本の霊学はどうしても神様のお告げの色彩が強かったのですが、浅野和三郎さんは、むしろ、自分の家族の死後はどうなる、というような視点を日本の霊学の世界に持ち込まれた方であると言えます。

 どちらが良いとも言い切れませんが、日本に高級な霊魂を呼び得る伝統と技法があったことは事実です。これが西洋との決定的な違いだったのです。

 つまり、西洋の場合は、高級な意識を持つ霊魂を呼び得る技法がありませんでしたので、霊魂の側が、霊媒として使いやすい人を先に探さねばならないのでした。その選ばれた特殊な人が霊媒になったのです。高級な霊魂方にとっては訓練ができていない霊媒ではさぞかし困難なことであったでしょう。伝えられることも限定されていたに違いありません。

日本の場合は、霊媒術の伝統と技法があったために、誰でもとは言いませんが、きちんと修行した人であれは、霊媒が誕生する土壌があったのです。

 霊媒術に関することを知りたいと思えば、書物もあれば、古神道、密教、修験道など、霊的な修行の場所もいくつもありました。真剣に努力する人がいれば、霊媒が登場する条件はもともと揃っているのが日本の特徴でした。

つまり、高級な霊魂方にとっては、日本こそが一番ふさわしい霊媒が出現しやすい状況にあったといえるのです

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