Essay


    自然淘汰の形


「ジーンリッチ」という言葉を知った。
SF小説でよく出てくる言葉で、遺伝子操作によって身体能力やなんかが
都合よく操作された人類のことだ。
JEAN=遺伝子 が RICH=富んでいる ってことになるのか。
あるものは免疫力が強化され、あるものは紫外線に強く‥。
これって、本の世界だけじゃなくて、近未来には現実になりそうだ。

ジーンリッチの反対はジーンプアだろうか?
プアじゃあんまりだからジーンナチュラルにでもなるのかな。
そんな時代が到来したら、あたしは旧人類、ジーンナチュラルに当たるわけだ。


さて、身体能力を操作しないまでも、今、わたしたちは遺伝子を操る能力を有する。
何しろ、遺伝子を構成するたんぱく質の並びに意味付けが出来るのだ。

持ってる知識はひけらかしたくなり、もってる道具は使いたくなり、得意な技は見せ
たくなる。そんな人間が遺伝子を理解し始めた。
子供におもちゃを持たせたようなもので、難しい顔をして倫理委員会なんか開いて
みたところでどうなるものでもないだろう。新しいおもちゃを目の前にした子供が話し
あっているのだから。

今、メディアを賑わせているニュースやら何かを見るにつけ、今のところまだ人類は
身体的な意味でも精神的な意味でも遺伝子の持つ情報に操作されているといった
方がいいのではないだろうか?

ついこの前まで、遺伝子に欠陥がある可能性を持つ子供を産むとか産まないとかが
よくメディアをにぎわせていた。
遺伝子的な欠陥って一体どれだけのものがあるのか少しもわからない。でも検査結
果が正しければ、程度の差こそあれ、多分その人は病気として、またはハンディキャッ
プのある人として生れてくる。
さて、どういう選択ができるのかを考えた時に冒頭に書いた「ジーンリッチ」という言葉
を思い浮かべるのだ。


ジーン(遺伝子)リッチ。
英語のリッチが果たしてどういう意味合いなのか微妙なところが判らないことは勘弁
いただいて読んでもらいたい。

わたしたちは、何を基準にリッチというのか。
たとえば、皮膚の色。
白、黒、赤、黄とあるとすれば、今の地球環境における紫外線の害悪を考えると、最
も優れた色は黒になる。同理由で、髪も瞳の色も同様だ。紫外線に強い色、黒。反対
に白はとても弱い。白人に皮膚がんが多いことや、サングラスをかけた人が多いこと
は周知の事実である。

さて、現在売買されている卵子の生産者(女の人ってことね)で一番もてはやされて
いる人種がどういう人種かご存知だろうか?
それは北欧系、金髪碧眼の白人である。不妊に悩む有色人種のカップルであっても
北欧系の女性の卵子を買い求めるそうだ。これは個人の美的感覚、個人のというか
メディアが共通である世界に生れた美的常識のなかでの感覚によるものだろう。

今後、遺伝子操作はプチ整形みたいなものになって気軽なものになるかもしれない。
人々は操作し始める。
人類が「ジーンリッチ」になっていくとして、ジーンリッチの主流はどんな特徴をもつの
だろうか?
生物的に有利な特徴を持つ黒い皮膚を持つ人か、外観が美しいとされる白い皮膚を
持つ人か。

どちらにしろ、わたしたちはそれを「リッチ」と呼ぶのだ。
それが、「リッチ」なのかどうかは置いておいて、とにかく選択くていく。

ジーンリッチが生れ行く世界の中で何が常識になっていくのだろう?


と、ここで戻る。
遺伝子異常の可能性がある子供を生む選択をするかという問題だ。
わたしたちは何を基準に異常を選ぶのか、異常と呼ぶのか。
そして何を選択していくのかだ。

もし、メジャーなものが正しいのなら、高校生の喫煙は正しいだろう。
もし、マイノリティが異常であるなら清く正しい政治家は異常だろう。
でも実際はメジャーかマイノリティかは正常、異常のものさしにはならない。
そう考えるとどうだろう。
異常とは何か?
体つきや体の機能が隣の人と違うことは異常なのか?
健康を害することは気の毒ではあるけれど、それはその人が異常であることにはなら
ない。

幸、不幸を論じる人もいるが、人っていうのは五体満足でも幸せを感じない人もいれ
ば、病気であってもその人生を幸せに生きる人もいる。
他人が図るものではない。
幸せに生きるということは人に図ることはできないし、予想できることでもないのだ。

周りの手間を考える人もいるだろう。
でも命は愛さるものだ。周りの手間を拒絶するものではなく、それを迷惑に思う物で
もなく、それを当然に生きていって問題ないのだ。

そして、反対に命を愛していくのが当然だ。生れた命を、条件無く愛すること。
何かを条件に愛する、愛さないということがあるはずがない。

わたしたちは、嫌な事を拒絶して生きていく事が出来る。
命の拒絶をすることもできるが、子供に条件をつけて、その条件に当てはまらなければ
拒絶をするというのはどうなのだろうか?
生れた子供に
「あなたは遺伝子異常もなかったし、望んだ男の子だったから産もうと思ったの」
と言ったとき、「女じゃなくて助かった」と言って笑いあう事は正しいのだろうか?

などと考える。


さて、遺伝子情報を読み取ることのできる今、それを無視するというのはナンセンスな
ような気もする。私達はそれを読み取り、選択していく時代に生きているのだ。
どんな意見、主張を持とうともその流れは変えることができないだろう。

人は選択していく。
遺伝子の選択。


これは人口飽和状態の地球に仕組まれた生存競争なのだろうか?
自然淘汰から遠く離れた先進国の人類に新しく仕組まれた自然淘汰の形。
それは残酷にもお父さん、お母さん、そして本人が選んでいくことになる。
自然が選ぶ進化の形から外れた形で、しかもすごい速さで進化が進むだろう。
それが、命として正しいものになるのかどうかは誰も知らない。


私達は自然淘汰の機能までも手中に入れようとしているのかもしれない。






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