Essay


   「国を映す窓」

私より年上の人で、切手を集めたことがある人は多い。
私の親以上の年の人になると、まだ集め続けている人も多いだろう。
でも、年下ともなると切手収集なんて暗い趣味としての認識しかなく、
言うも恥ずかしい、なんの評価も得られないものとしてしか扱われな
いに違いない。

さて、こんなことを言い出す私は、かつて切手を集めていた。
時々、一時期集めた切手を取り出し、つらつらと眺めては、またぞろ
切手収集の気持ちが湧いてくるのを感じる。

切手は小さな美術品だ。
色合い、シリーズの完成度、デザイン。
一枚一枚を惚れ惚れしながら眺める。
収集しそこなった切手に想いを馳せる。
こうして考えると、何をするにも億劫がる性格の私の趣味として成り
立つのは、唯一収集だけと言えるかもしれない。
(今はカエルの人形収集中であ〜る)

最近、古くなったストックブックを新しいものに変えることにした。
ところが、買おうと思っても、ストックブックをなかなか見つけるこ
とができないのである。
仕方なく、東京に住むちっちお姉ちゃんに銀座に出向いてもらって、
買ってもらうことにした。
ストックブックが世間で買えないという時点で、切手収集は過去の物
になったと改めて実感せざるを得ない。
きっと今では、「ストックブック」なんて言っても、一体それがどん
な物なのか、思い浮かべることさえできない人の方が多いに違いない。

21世紀の日本。私の手元にある少ない切手コレクションは、多くの
人にとって、ただの郵便料金なのである。


実は、今は亡きちっちパパも切手を集めていた。
私の手元には海外の切手も沢山あるが、その半分はちっちパパの収集
したものである。

だいたいが40年ほど前の切手である。
一瞬しか存在しなかった北ベトナムの切手、中華民国の切手、悪名高
いヒトラーの切手、今は荒廃しているアフガニスタンが生み出した、
かつての美しい切手‥。
ちっちパパがそれらの切手を私に譲ってくれるときに
「ちっち、切手を見るとその国の状況がよく判るんだぞ」
と言ったのを、昨日のことの様に思い出すことができる。

切手に数字しか書いていない昔のドイツの切手を指差して、ちっちパ
パは
「この国では、当時、お金に価値が無かったんだ」
と言っていた。
インフレにあえいだ国の、たかが切手の精神がよく現れている。
当時のドイツでは、デザインなどクソくらえだったのだ。

また、旧イギリス領の国々の切手には、英国女王の横顔がこれでもか
とばかりにくっついている。
権力の誇示だ。
切手にまで権力の念押しをしているのである。
植民地統治の精神がよく現れている。


さて、今の日本の切手はどうだろう。
デフレスパイラルに突入したと言われる日本。
今切手に以前ほどのお金をかけられなくなったのは日を見るよりも明
らかだ。

皆さんご存知、ディック・ブルーナのミッフィーちゃんの切手。
それにドラえもんなどのグリーティング切手。
可愛い切手だ。今まで切手に見向きもしなかった人も買ったに違いな
い。これらは簡単にお金を集める為の切手。

石原裕次郎の切手、美空ひばりの切手もあった。
ファンなら買ってしまうものだ。
これも金集め切手と言えよう。

そしてプリクラよろしく、自分の顔写真を切手に出来ますって言うの
もある。
あたしなら、そんなバカなことはしたくないな。
結婚しましたのハガキに貼る切手として、二人の切手を作る人はいる
かもしれないなぁと思うけど。

そしてもうすぐ「アニメヒーローシリーズ」が切手になる。
これも、お金を集める為のシリーズ。
もちろん、こういうのは出てもいいと思うけど、それがあまり頻繁で
眼に余るのだ。


ふるさと切手という、それぞれ地方だけで発売されるものもあるけど
これはわざと手に入りにくくして、収集魂に火をつけようと必死になっ
ているようにしか見えない切手。
一体、誰がふるさと切手のこと知っていようか?


切手のデザインは経済の余裕と文化の余裕を表すものだ。
切手は郵便の料金になるもので、文化があれば、自然と切手は洗練さ
れた見栄えを持つものになるのだと思う。
切手を集めない人が増えたのは、デザインに感じられる文化がないか
らじゃないだろうか。
興味のない図柄にも、ほぅと思わせるデザインを見出すことができな
いからだ。

だから、切手コレクターは恥ずかしいのだ。
これが素晴らしいと胸を張って言うことができないからだ。
当然、切手にも価値なんか付きやしない。
切手カタログに載る価値は嘘っぱちで、大抵額面どおりの売買しかさ
れないという噂である。
日本では、切手に価値を見出す文化が廃れてしまったのだ。


日本には文化ってものがあるんだろうか?
毎日の刺激に鈍感になってしまった私たちは、芸術は奇抜さだと思っ
たり、新しいものだと思ったりしがちだ。日本の芸術家は、人の度肝
を抜く為に必死みたいだ。

コマーシャルでは、可愛らしい熊とウサギのぬいぐるみがチェルシー
の取り合いをして殴り合う。可愛いと残酷の組み合わせ。異常性を売
り物にしても、人をアッとさせようというのが、今の日本の精神だ。

日本には道徳とか伝えるべきストーリーの精神がないために、映画は
空虚なストーリーに終始し、ドラマは眼も当てられないほど悲惨だ。

巨乳の美少女フィギュア「ヒロポン」をご存知だろうか?
村上隆の作品。
あれを芸術だと言い切ってもいいけれど、日本の現在の精神があれな
んだとわきまえて見て欲しいものだ。
あの美少女フィギュアが訴えるのは、欲、見た目の直接的な欲だ。
直接的な。
個人的な。
あまりに内的過ぎて、共通化し、外に出ざるを得ない欲。
日本が抑えることをやめた、欲の顕在化。
あれに他の芸術的な理由をつける人は、眼も心も腐っている。
価値がついたからといって、美少女フィギュアに見出せる精神は浄化
されないのだから。
日本がはぐくんだおたく文化だからこそ日本の精神が強く反映したと
言えよう。
つまり、その日本の精神は、あの巨乳美少女フィギュアだってことだ。

タバコを道に捨て続け、ゴミを富士山に捨て続けた国民の精神は、あ
の美少女フィギュアが何千万円で売れた時点で世界に露呈されたと言
える。まさに日本の精神の結実。
あれが、日本の芸術なんですよ、お父さん方、お母さん方。

(大げさか‥。ちょっと走りすぎちゃった。)


そして、今の日本の切手はちょっと恥ずかしい。
お金を集めたい切手がまかり通っているような気がする。
しかも安直に。
(アニメヒーロー切手が悪いわけじゃないんだけどさ‥)


世界にはたくさんの切手コレクターがいる。
そして、切手を集めることが恥ずかしい日本人。

これから日本の切手はどうなっていくのであろうか?
郵政事業が民営化されると、切手はどうなるのだろう?
資本化されて洗練されるだろうか?
ますます日本が反映されるだろうか?
インターネットの反映で、手紙を送らなくなった日本で、切手はどれ
ほどに衰退させられるのだろうか?


手元のストックブックをめくると、昔の切手がかつての外国を語る。
身近すぎた日本の状況も、20年前の切手と比べると判ってくるようだ。

あの数字だけ書かれた、かつてのドイツの切手。
あと20年もすれば、日本の切手もこうなるのかもしれないと思う。
それとも、スポンサーがついて、コカコーラがCMを載せるだろうか?
どちらにしても、見通しは暗い。


誰もそんなこと思わないかもしれないけど、ちっちパパの言った様に
切手は国を映す窓なのである。
もし、どこかに収集した切手が残っている人は、ちょっとそれを覗い
て見て欲しい。
そして、今の日本の切手とくらべて見て欲しいのだ。

そこに、今の日本が映っているのが判るかもしれない。