Essay


容認された死


ニュースでこの頃よく聴く言葉。
「一審に次いで、二審も死刑を宣告されました」って言葉。
この頃、死刑囚がジャンジャン増えてる気がする。
それとも、たまたま耳につくようになっただけかしら?
今までもこんなにたくさんいたのかな?

死刑を宣告された人の罪状を聞いてみると
そりゃあもう残酷なものだ。
残酷、且つ単純だ。
単純なだけに、余計に残酷と感じるのかもしれない。

今日のニュースで死刑を宣告された人は、同級生を2名殺して
更にその親から金をゆすり取ろうとしたのだという。


さて、このニュースを見ているときに連想したことがある。

1つは、こないだ「ズルイ」って話をしたこと。

その時、部屋のテレビは日曜ロードショーを映していて
ブルース・ウィリスがいい役もらってアクションヒ−ローをやっていた。
その映画の中でどんどん人が死んでいく。
不思議となんとも思わない。
ぼんやりした善良な人とかも、ポチンと死んでいく。
そしてまた、ヒーローさえもが、よくもまぁってくらい殺す、殺す(笑)。

そいで何がズルイのかって言うとストーリーの中で人を殺すことだ。
死んでしまえば、その人は突然ストーリーから脱落して
今後なんの動きも考えなくてよくなる。
終わる話を長くしたり、長引く話を短くしたりするには
とっておきなのだ。
一種の常套手段。
だから、1本の映画を見ると人がわんさか死んでしまう。


そして、連想したもうひとつは
ゲームをしていて考えた事だ。

ちょっと前、あたしは年甲斐も無く
ポケットモンスターにはまっていた。
草むらから出てくるモンスターを殺せば
経験値が上がって、自分のモンスターが強くなるように
出来ている。

それがある時、突然、あたしはモンスターを殺すのがかわいそうになってしまったのだ。
ゲームの世界だからなんでもないよと言われ
でも、それでもなんだか可愛そうで、
なんだかこの頃めっきりゲームをしなくなった。

なのに一方で、わたしは日常、虫なんかはドンドン殺す方だ。
なんでかっていうと、もう慣れてしまってるのだ。
それにキライ。
虫の命については考えない。

でも、こないだのゲームは
あたしがおそらく生まれて初めてとりくんだ格闘込みのゲームで
だから慣れていなくて
そいでかわいそうになったのだ。


この、連想した2つのことと死刑に対する感覚に、わたしは共通点があると思うのだ。

あたしがズルイと感じた、ストーリーに邪魔な人の死。
割り切れなさを感じる、ゲーム内のモンスターの死。
わたしはこの死に対する感覚と死刑の感覚は似てると思う。

この死のどれもを当たり前にし過ぎているように感じる。
ゲームの中やストーリーの中の死、
それと死刑の死を一緒にするのは行き過ぎの気もするけれど。


あたしだってバカじゃないから、本当の命を取る死刑の死は
他の死よりも重く考えるべきだとは判っている。

でも、ストーリーやゲームで登場人物を殺すのに
「ほんとじゃないから」
っていう言葉を理由にするのと、犯罪者を殺すのに
「残酷極まりないから」
っていう言葉を理由にする間に
どれだけの差があるのかっていうのをはかりかねているのだ。

つまり、ほんとの世界じゃないからストーリーやゲームの中では
人を殺していいっていうことを正当だと思うことと、
悪い事をしたらその人を死刑にしてもいいってのを
それとと同じくらい正当に感じてしまうことは
正しいのだろうかってことなのだ?


あたしは死刑反対って言っているんじゃない。
あたしの考えは、まだそこまでたどり着いていないし
もしかしたら擁護派になるかもしれない。

なんだか誤解されそうだけど‥。

乱暴に言うとこんな感じかな。

違う常識の場所が沢山ある。
200年も経てば、ゲームの世界がブラウン管をとびだして
今現在、誰も問題にしない虫の死を利用するかもしれないのだ。
なんらかの装置が、虫の命の消滅をカウントし
それが得点になると。
子供たちは一方で虫を育て、どんどん殺していく。

最初こそ問題視されるかもしれないけれど
みんな慣れるだろう。


どこかの国で死刑執行をテレビ中継するそうだ。
映画はリアリティや話題を求めるから
何百年後かには
映画の中で死ぬ人に死刑囚を利用するようになるかもしれないな。

お金を出せば、死刑執行のボタンがおせるようになるかもしれない。


基本的には、私たちは自分が中心の世界に生きていて
他の死に無関心であることが簡単だ。
時代の常識という、曖昧かつ不安定なものが唯一のタガになっているにすぎない。
その常識の外に生きている人にとっては
そんなものの影響力はない。
殺人を犯すような人がその常識の外に生きている人と言えるだろう。
残酷な行為は彼らの中の常識であり、
そういう世界もありうるのだ。
人間はなんの疑問も無く人を殺すという判断をできる生き物だということ
は肝に銘じるべきであると思う。
実際、虫のように人を殺した時代があったろう。
その時はその常識で、人はなんとも思わずに生きていたのだ。


死の概念は一緒のはずなのに
わたしたちは一方に区別をつけて
これは良し、これはダメという。
その中で容認された方。
ストーリーの中の死。
ゲームの中であたしが殺したモンスターの死。
日常消えていくたくさんの虫の死。
悪い事をして死刑になる人の死。


で、わたしは思うのだ。
これら容認された死っていうのはこれから増えるんじゃないかなと。
戦争中に民間人を殺してしまっては罪だけれど、
軍人は殺してもいいっていうみたいな、
よくわからないルールがまかり通る中で
容認された死は増えるんじゃないかなと。

今、わたしたちが容認された死を当たり前にしているみたいに
時代はどんどん容認していくだろう。

そして、今、あらためてそれぞれの死の理由付けは
どれだけの重みがあるのかと考える。

今の時代、今の常識の中で育った私は
どう感じればいいのだろうか?

罪人は死んでいく。
ゲームでは人を殺す。
ヒーローは邪魔者を殺す。
疑問を感じる余地もなく。


ただ、それが日常の生活をおくっていくしかない。




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